自分の信じた道を・・・。

自分の信じた道を・・・。

私のこと、佛教とは


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私にとっての佛教・・・・・。

禅宗、臨済宗に学んだ日々もありました。
これは私の実家のご先祖様からの日蓮宗としての
佛教ですが、佛教に宗派は関係ないと考えています。

8月15日、日曜日。

今日は朝早くから、母と『施餓鬼法要」に
宮津のお寺へ行ってきました。

始まるまでに、母を本堂に待たせ
私はお墓へ上がって、お参りを。
母は暑さのため、無理をしないように
本堂で待機してもらいました。

9時30に、いよいよ、施餓鬼法要が
始まりました。
母も、私も始めての参加です。

帰宅後お昼を食べて・・・・
夕食まで疲れの制で、少し寝込んでしまいました。
夕食後、アクエイアスを飲んで
少し元気になりました。

ここで、お盆ですので、お盆について、
書きとめようと思います。






< お盆の始まり >

  お釈迦様には、数多くの優れた弟子たちが
 おりました。目連様も、神通力第一といわれ、
 特に優れた16弟子の中の一人です。

  これは、「盂蘭盆経』の中に書かれている
 お話です。

  目連様のお母さんは、利己的で、貪欲なため、
 周囲のみんなから嫌われていました。
 尊い教えを説くお釈迦様を。自分の生き方と
 反対の教えを説かれる」といって、たいそう
 憎んでいたのです。


  目連様は、日々の生活に疑問を持ち、
 苦しみ悩んでいたのです。この悩み、
 苦しみから離れたさとりの世界を求め、
 お釈迦様の弟子になることを決心した時、
 お母さんはとても驚き、「今の満ち足りた
 生活に何か不満があるのかね。
 何一つ不自由なことはないはずだし、
 死ぬまで裕福で暮らせるだけの貯蓄も
 あるじゃないか。」と猛反対しました。

  お母さんは深く深く歎きながら亡くなり
 ました。



  ある日のこと、目連様は、今は亡き
 お母さんはどうしているだろうと思い、
 得意の神通力で見てみますと、餓鬼道の
 世界におち、とても苦しんでいたのです。
 餓鬼道での苦しみは、飲み物、食べ物が
 火と化し、口に入れることができません。
 この世界にいるものは、骨と皮にやせ衰え、
 腹は奇妙にふくれ、その苦しみは絶えず
 続き、まさに地獄の世界でした。

  目連様は驚き、泣き叫びながらお母さんの
 ところに駆けつけて、食物を口に運んで
 やろうとするのですが、たちまち火となって
 燃え上がってしまいました。

  人一倍孝心深い目連様は、これを見て苦しみ、
 お釈迦様のもとに参り、何とかお母さんを
 救うことは出来ないものかと、おたずねに
 なりました。

  お釈迦様は、『目連よ、自然の中のすべての
 ものは、お互いの因縁によって助け合って
 結ばれているのである。お前の母は生前、
 自分だけよければいいと、いつも考え、他人の
 迷惑は考えずに生活していた。母のその罪は
 非常に深く、今その報いの罰をうけているのだ。
 母をお前一人の力で好くことは出来ない』と
 いわれました。


  「なんとか母の救われる道はないのでしょうか」と
 目連様は再び、たずねたのです。

  すると、お釈迦様は、 
 『まもなく七月15日がやってくる。この日は、
 私の弟子である修行僧が長い激しい修行を終え、
 その心が豊かも美しくみがかれた日です。その日、
 すべての修行僧の得をたたえ、清らかな食事を
 施し、心から供養するがよい。修行僧たちは
 先祖や餓鬼道で苦しんでいる者のために、
 喜んで回向してくれるだろう。この功徳によって
 お前の母や、餓鬼道で苦しむも多くの者は、
 きっと救われるであろう。』
 と、お諭しになりました。

< 菩薩の願い >

  私たちの多くは、目連様のお母さんと同じように
 一時的な快楽を求めて毎日を暮らしているのではない
 でしょうか。確かに、一瞬一瞬を自分のものとして
 日々を送ることは大切です。

  お釈迦様は、「私たちの命は、永久の昔より
 現在の自分を経て、永遠の未来に向かって絶え間なく
 移り変わっていく」と説いておられます。
 毎日毎日の生活態度が となり、その人の人柄、
 性格が となってつきまとってくるのです。
 その酬いには、良い報いと悪い報いがあり、これらを
 業の 因果応報 といいます。

  私たちのすべての善悪の行いは、私たちの生命
 それ自体に業となって貯蓄されていくのです。
 これを 宿業 といい、その摩訶不思議な力を
 欺くことは誰もできません。その結果が現れるのに、
 今の世、次の世、次の次の世と三通りあると説かれて
 います。やがて、悪行は区を伴い、善行には幸せが
 伴ってきます。

  お盆にあたり、墓掃除をしながら。またご先祖様に
 お参りをしながら、今一度深く反省して見ては
 いかがでしょうか。


”己れ未だ度らざる前に、一切衆生を度さんと発願し、
  営むなり”

  (おのれいまだわたらざるまえに、 いっさい 
   しゅじょうを わたさんとはつがんし、いとむなり)

  という教えがあります。
  自分は未熟であっても、まず、人のため世のために
 尽くそうと献身的な願いをし、次にはその願いを
 毎日の生活の中に実践していこくという主です。

  これを、 菩薩行  といいます。


 ちょうど、毎年このお盆の頃は終戦、原爆投下、など
 戦争でなくなった人たちの霊にも、お祈りをささげ
 私が今、こうして「生かされている訳」、
 「生きている意味」を考えながら、日々親孝行に勤め
 子供たちに愛情を注いでゆこうと、深く考えるのです。

 きょうもまた、笑顔で過ごせたことに感謝。 合掌。

 明日からも良い一日になりますように

   日々の暮らしに、ありがとう 














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