鱗羽

鱗羽

空間ベクトル1-4〔回想〕

回想

「中りません」
黙々と矢拭きをしている時に横で拭いていた片瀬が口を開いた。
「…そう、それは辛いね。」
高校から弓道を続けている片瀬を診ることは、初めて一年くらいの初心者同然の私にはできない。もっとも片瀬はそんなつもりで言ったんじゃないことくらいわかっているけれど。
「練習しているのに、中らないんです。」
「そうか…練習しているのに中らないのは辛いよね。」
どうかえしていいか返答に詰まる。
「…周防サンは練習しなさスギです。」
間髪いれずに片瀬が言い放つ。
「そうですね。」
彼の言うとおりだった。片瀬に指摘されるまでもなく朝稽古が終了すると、真っ先に試験期間を隠れ蓑に道場から離れた。
もともとそんなに的中率は高い方ではなかったが、日を追うごとに中らなくなりついに的中率が三割をきった。
私はその事実を、射型が崩れ始めていることを認められずにいた。
道場にいるときは笑って誤魔化した。
「アタラナクナッチャッタ」と。同じ初心者で入った子達はぐんぐん成長をしている。離される、コワイ、アタラナイ…道場にいたくない、こんな酷い射型を誰にも見られたくない。
全くの悪循環だった、現実を見ずに練習をせずに逃げることは。

「練習もしていないのに中らないなんて言いませんよ。」

いつものように感情の含まない、抑揚のない声で言い放った。
彼は正論を言っている。弓道は99%の努力、そして1%の才能とよく言うからだ。
中る、中らないは練習してから言え、ということを言いたかったのかもしれない、真意のほどはよくわからないが。弓道に関しての彼はシビアだった。

[私にとって弓を引くこととは]

応えられない、答えられない、堪えられない。

[精神力の弱さは射にも影響する]
[お前はぁ周防、考えすぎなんだよ。もっと楽しく引こうぜ、な?]
[周防がメンバーに入ったら見に行くからな、ちゃんと入れよ?]
寺岡さん…やっぱり自分には無理のようです。今、部活全然面白くないです。
[私は部活の一年の中では一番成長が遅くて…安定して中るようにならないし…]
[いいんだよ、そんなこと気にすんな。うちの系列は三年以降で活躍するタイプが多いんだから。]
[でも…離れが未だに出せないし…]
[でも、じゃねえよ。現に奥村だってそうだろ。]
[お前、的前に立った瞬間からいろんなこと考えて駄目になるんだよ。引き分けから、会までは綺麗なんだからあとはそのまま横に伸びるだけだろ。的前に立ったら射じゃなくて他の事を考えろ。]

[来年には俺は卒業しちまうから長くは見てやれないし。いつまでも誰かに見てもらおうなんて甘えるな。]
[解ってますよ]
私は精神的に弱い。心がもっと強くなったら良い射手になると言われていた。…ような気がする、確かそんなことを言われていた。
自分でメンタルコントロールが出来ないと言うことは追い詰められた試合のときは不利に働いてしまう。
射型がどんなに綺麗で正射に近くても精神的に心静かに無にならなくては中らない。一般的にはそのように言われている。
試合では中てたいと強く思えば思うほど中りとは程遠い結果に陥ってしまうこともある。
部活が選手に求めるのは飽くまで中りという結果であって、練習や稽古という過程ではない。
そして1人の精神力の弱さがチームの総合的中数左右し、勝敗にも影響してくる。弓道は個人技であり、集団競技といわれる所以がここに存在する。
そう、求められているのは過程ではなく、結果なのだ。
片瀬との何気ない会話の一端から当時一年の私と寺岡さんとの会話を思い出してしまった。

寺岡さんは既に卒業してしまったが、私の師匠の西嶋さんの師匠の水志摩さんの師匠である。ゆえに私は系列上彼から見れば曾孫弟子にあたる。
直師匠の西島さんは私が入部した当時、スランプに陥っていて私の練習を見るのに精神的余裕がなかったそうで、引退したはずなのに道場に日参していた寺岡さんが私の練習を見ることを申出てくれた。
寺岡さんはいつも文句を口にしながらも最後の最後まで私の練習を見てくれた。
そして代交代が終了して初めての試合である新人戦の時も、わざわざ試合会場まで見に来て私に彼はこう言った。

[お疲れさん]
[はい…]
他になんていったら言いか思いつかなかった。
情けないです。と言おうとして失敗した。
寺岡さんに声をかけられた瞬間、きつく閉じていたはずだった感情が堰を切ったように溢れ出してくるのを感じ、声が出なかった。その時悔しくて泣いているのか情けなくて泣いているのか解らなかったが、試合で自分が泣いているという事実に驚いていた。
[新人戦だけが試合じゃない…試合に出られないやつの気持ちの大事さもわかっただろ]
寺岡さんは試合で引いている他の一年生の方を見ながら、私の頭に手を置いて髪の毛をクシャクシャに弄って独り言のように言った。
[いいんだよ、今はそれでな。]
[……ありがとうございました、見に来てくださって、嬉しかったです。]
視線を中り帳に落としたまま言った。


寺岡さんはもういない。
いまなら、あのときの西嶋さんのつらかった気持ちもわかる。
中てられないことが、どんなに苦痛であるか。
部活に所属している限りは的中主義から逃れることは出来ない。
03/11/14

>… 空間ベクトル1-5

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