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2024.02.19
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カテゴリ: 中国

習近平の狂気=毛沢東の再来を阻止しよう・・・似非リベラル(新社会党・社民党・ MDS ・アサートのグループ)たちは、民主主義擁護=人権擁護=全体主義独裁反対を貫け!!!   2024-2-19    はんぺん

 ( MDS とは、民主主義的社会主義運動という泡沫的社会主義政党のこと。 MDS ・アサートとも、昔の DSL =民学同の流れを汲む)

習近平は、毛沢東を評価していることで、有名だ。そのため、文革(文化大革命)における惨状を 習近平指導部は、必死になって隠ぺいを目論んできた・・・・が、このご時世では、それは、不可能だろう。

 僕の高校時代の友人が、大学に入ってから、この(文革)の喧騒に幻惑されて、わざわざ (友誼団) に参加して、当時の中国に行った。

この(友誼団)は、おそらくは、中国共産党(毛沢東)の「宣伝工作」の一環としての企画モノだったと思われるが・・・・(造反有理)の洗脳にまみれて、日本に帰国してから・・・さかんに向こうで手に入れた紅衛兵の腕章とか、人民帽、マフラー?などを自慢げに、僕に披露してくれたものだ。

 文革は、だいたい 1966 年から 1976 年の 10 年間 というのが通説で、日本では、この間に、 70 年反安保闘争 が、繰り広げられた時期と重なる。

極左ヘルメット集団の中に、中国共産党(文革派)に近いとされた 社学同 (ML派 のヘルメット部隊が、また (毛沢東思想学院) という機関紙も、大量に撒かれていたのを記憶している・・・

もっとも,彼ら(北京派とも言われた)は、全共闘や極左トロツキストの中でも、かなり評価が低かったので・・・(烏合の衆)的な存在だった・・・・

「文革」 については、あまりにも(突飛な)言動で、耳目衝撃的事件だったが、日本リベラルの当初の(評価)は、バラバラ・・・で、混乱していた。

高く評価する識者、疑問を呈する識者・・・報道するマスコミの立ち位置も混乱していたように思えた。

  いつの頃か?はっきりとは覚えていないが・・・日本で、カッパブックスから 「食人宴席‐抹殺された中国現代史」(黄文雄訳) が出版されて、その後、僕も目にする機会があり、その内容に、大きな衝撃を受けた・・・・

下記に出てくる 中国人作家・鄭儀が、これら公式資料を見て、またその資料に記述されている関係者にも取材し、広西地域の大虐殺・人肉食事件を告発したノンフィクション文学『紅色記念碑』」(本文) の事だと思う。

歴史を語るものは、必見、必読の書だ・・・と、以前、このブログで紹介したこともある。今では、古書店でも、なかなか入手できないが、僕の手持ちのモノは、お貸しできるので、申し出てほしいと思う・・・

が、社会主義幻想にどっぷりつかった似非リベラルたちは、またまた(不都合な真実)を 見て見ぬ振りで、スルーするのだろうな!!!

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

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《願榮光歸香港》 Glory to Hong Kong

https://www.youtube.com/watch?v=3B_cjyY12kI

《不屈進行曲》 《 March of the Indomitable MV2

https://www.youtube.com/watch?v=ryqGOGig_AI

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広西チワン族自治区「文革大虐殺」の実相。殺害 15 万人、人肉食、性暴力 「絶密資料」発掘

2016-10-19   福島 香織   日経ビジネス電子版

 先日、明治大学で同学現代中国研究所主催の「『文革』とは何だったのか」というテーマのシンポジウムが行われた。

 いわずもがな、今年は中国の文化大革命発動から 50 周年であるので各地でこの手のシンポジウムが行われているのだが、特にこれに興味をもったのは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の宋永毅教授が 「広西チワン族自治区極秘檔案に見る文革大虐殺と性犯罪」 について講演すると聞いたからだ。

 文革期に 広西チワン族自治区で組織的で凄惨な人肉食を伴う大虐殺が行われた ことは、知る人ぞ知る事実である。 その事実について、実は共産党として詳細な報告書をまとめていたが、それは「絶密」(絶対秘密)扱いで、長らく公開されていなかった。 ところが、今年、宋教授が中心となってその膨大な機密資料が編集され出版された。 700 万字以上 36 巻。

 文革というものをとらえるとき、現場で何が起きたか、それを知らないでは語れない。 同じ文革でも、北京で起きたことと、内モンゴルで起きたこと、チベットで起きたこと、そして広西チワン族自治区で起きたことは違うだろう。 広西チワン族自治区の文革について、この資料や宋教授の講演の内容をもとに、ここで簡単に紹介しておきたい。

なぜここまで残虐を極めたのか

 文化大革命とは 1966 年から 1976 年の毛沢東の死まで続き、 77 年に終結宣言 がなされた中国全土で起きた大政治・社会動乱である。

大躍進政策の失敗によって政権中枢から退かざるを得なかった毛沢東が、政敵・劉少奇らを失脚させ復権を図るために民衆を扇動して政治動乱をしかけた 、というのが一般的な解釈で、その本質は権力闘争ともいわれているが、研究者の中には、もっとマクロな視点から、旧ソ連の社会主義に挑戦する中国式社会主義モデルの提起といった見方や、中国近現代史において唯一権力を公に批判できた時代という意義を見出す考えもある。

 中国国内では ひそやかに文革再評価論 も起きているし、 農村部では文革時代を懐かしむ声 もある。だが、具体的に文革で何が行われたか、という視点でみると、そういう政治論的な研究など吹っ飛ぶような 残虐行為のオンパレード だ。政治理想論の建前にしろ、権力闘争にしろなぜ、ここまで残虐である必要があったか、ということの方が重要な本質テーマである気がしてくる。

 この資料によれば、広西チワン族自治区では、 文革期に約 20 万の冤罪事件があり、名前が判明しているだけでも約 8 9000 人が不正常な死を遂げ、行方不明者も 2 万人に及ぶ。

名前の分からない死者は 3 万人以上で、少なくとも 15 万人が虐殺されたといわれている。民間の調査では 20 万人以上が殺害されたともいわれている。

 文革終結後、 広西の党委員会組織は 10 万人の人員を使って 4 年かけて、「文革遺留問題」処理にあたった 1986 年から 88 年にかけて、党委員会はこの処理について上級機関に報告するための「広西文革檔案資料」を作成。この 700 万字にのぼるリポートでは、 いつ、どこで、誰がどのように虐殺されたか、そしてどのように「喰われたか」まで、ほとんど実名で詳細に記録されていた

これは「絶密」文献として外部の者の目に長らく触れることはなかった。 例外的に、のちに米国に亡命した中国人作家・鄭儀が、これら公式資料を見て、またその資料に記述されている関係者にも取材し、広西地域の大虐殺・人肉食事件を告発したノンフィクション文学「紅色記念碑」を書いている。

 だが、それ以外にこの文革大虐殺の実体を世界に公式に発信したものは今までなかった。ちなみに「紅色記念碑」の人肉食記述の部分は、 「食人宴席‐抹殺された中国現代史」(カッパブックス 黄文雄訳) のタイトルで邦訳出版されている。キワモノ本的タイトルになって残念だが、原作は緻密な資料と取材に裏付けられた渾身のノンフィクションである。

 この絶密資料は米国に密やかにわたっており、主要大学のアジア関係の図書館に分散して保管されていることが近年判明。宋教授は、今年 6 月になって在米華字メディア明鏡出版集団傘下の国史出版から、この資料を整理して全 36 巻にまとめて出版した。

組織的な虐殺と食人

この資料で特に衝撃的だったのは、 文革中、 302 人が殺害後に心臓や肝臓を摘出され、食べられた様子が詳細に記述されており、広西地域で食人行為が横行していたこと を改めて明らかにしていることだ。

 特に被害がひどかった武宣県ではこういった記述もある。

「( 1968 年) 6 17 日、武宣に市の立つ日、蔡朝成、劉鳳桂らは湯展輝を引きずりながら町を行進し、新華書店前まで連れていくと、龍基が歩銃で湯を打ち据えた。王春栄は刃渡り五寸の刀をもって腹をさばいて、心臓と肝臓を取り出すと、野次馬が蜂のように群がって、それぞれ肉を切り取って奪った。

肉が切り取られた後、ある老婆が生殖器を切り取り、県の服飾品加工工場の会計の黄恩范が大腿部を一本切り落として、職場に持ち帰り、工場職員仲間の鐘桂華とともに骨から肉を削り落として煮物にして食べた。

 当時、この残虐な現場にいた県革命委員会副主任、県武装部副部長の厳玉林は、この暴虐行為を目の当たりにしても一言も発さなかった。 当時、招集された四級幹部会で、会議参加者のそれぞれの代表は人肉を食べ、非常な悪影響を与えていた」

また、 これは文革という混乱に乗じた無知蒙昧な民衆の事件ではなく、共産党、国家の機関が組織的に行った虐殺、食人であったことも、この資料からわかる

当時の広西チワン族自治区の党委書記の韋国清は文革中、失脚することなく自治区トップの座におり続け、軍隊、警察、民兵らから絶大な支持を得て、指揮し続けていた。

虐殺のピークは、造反派と走資派が激しく戦った内戦時期の文革初期ではなく、 1968 7 3 日に党中央の革命委員会が七三布告を出したあとに起きており、 武闘の混乱に乗じて起きたのではなく、毛沢東らが韋清国を支持した、 比較的落ち着いた状況下 で起きたものだった。

 この資料で 名前が判明している殺人者、殺人指揮者は 200 人以上、うち 6 割が武装部長、民兵指揮員、民兵および幹部 だった。 食人行為を働いた 84 %は中国共産党員、あるいは幹部であった

チワン族自治区と聞いて、食人行為が少数民族地域の特殊な文化背景があるという人もいるが、 これは漢族が中心の行為でもあった。文革中、自治区の 5 万人近い共産党員が虐殺、殺人に加担した。

陰惨な性暴力も横行

 資料中で、欽州地区の報告書には次のような記述がある。

1968 9 7 日から 17 日にかけて、上思県革命委員会が四級幹部会を招集し、上思中学で、群衆による公開殺人大会を開いた。このとき幹部、群衆 12 人が殺害されたが、一部の死者は腹をさばかれ肝臓を取り出され、県革命委員会の食堂で煮て食べられた。

食人には県の幹部らが参加した。同県の思陽公社武装部長・王昭騰は大隊に殺人を命令し、その晩、鄧雁雄を殺害、肝臓を取り出して煮て、部下らと一緒に食べた。

彼は部下らに、人の肝臓を食べると、大胆になると言って勧めた。翌日、王昭騰は、さらに 4 人殺し肝臓を取り出し、二、三の生産隊ごとで、一人分の肝臓を食べるように命令を出した」

 宋教授は広西地区における文革の特徴として、 食人以外に、 軍の複数の師団兵力を使って組織的に民衆組織に対し攻撃と殲滅 を行い、その派生事件として 女性に対する性暴力が空前の規模で 行われたということも指摘し ている。

文革中、広西地区の農村では、 父親や夫を殺害して妻や娘を凌辱することが常態化し、資料には、 225 事件 1000 人以上の被害者が記録 されている。

 特に、 性的暴力を伴う殺害方法は多重性、計画性、残忍性、変態性が みられるという。例えば、 1968 4 25 日、浦北県北通公社で、大隊が四度にわたり 24 人を殺害。肝臓を取り出して煮て酒とともに食べた。この公社では 180 人が殺害された。 主犯の劉維秀、劉家錦らは、劉政堅を殴り殺したのち、 17 歳に満たないその娘に対し輪姦後、殴り殺し、肝臓と乳房、陰部を切り取った」 といった記述もある。

 また、 父親や夫を殺害後、犠牲者の妻や娘が、殺害当事者の妻にされること もあった。 被虐殺者の妻を、虐殺当事者が妻とすることを「改嫁」と 言った。

 「浦北県北通公社の旱田大隊革命委員会主任は計画的に 22 人を殺害、 殺害前に、犠牲者の財産を調べており、殺害後にその妻と娘四人が幹部らに嫁がされた。 その時、改嫁証明費、出嫁費用として 894 元が支払われた」。

 これは単なる性的暴行以上に、長期にわたる女性に対する精神的迫害ともなり、これにより正気を失った女性の報告もある。

「中国的特色」 4

 虐殺やそれから派生する女性に対する暴行の本当の理由は、 革命や階級闘争といった政治的目的以上に、地主や富裕層からの財産没収や、その美しい妻や娘を奪うという下品な動機があった とみられている。

文革中、地元革命委員会は被虐殺者、被虐待者から「看守費」「専政費」「改嫁費」といった名目の罰金を徴収していた。

 なぜ、ここまで残虐非道になれたのか。なぜ、食人が流行したのか。文革が特別であったのか。それとも広西地域が特別であったのか。わからないことはいっぱいある。

 宋教授は講演の中で 「中国的特色」 という言葉を使った。

 その特色とは、

地方政府が意図的に作り出した無政府状態。

②高度な組織化による虐殺。

虐殺の目的が階級の敵の生命を絶つことから、殺戮に伴う官能と快楽を得ることになっている。

一族郎党を絶滅させるという方式が採られているが、これはその一族の財産(女性も含む)を奪うという動機が潜んでいる。

これらの 4 点を挙げている。

 そしてこういう特色は、実は 文革で初めて起きたことではなかった という。

 たとえば 土地改革( 1950 53 年)でも、中国的特色の虐殺が起きていた 。この土地改革で 「一村一焼一殺」をスローガンに、紅軍は地主・土豪に対する徹底した略奪と殺戮を行った。殺害された地主は 240 万人以上とも いわれている。

文革発動前の 17 年間、中国ではこうした高度な組織化による大虐殺の手法を政治運動の中で繰り返してきた歴史があり、文革だけが突出して残虐であったとはいえないかもしれない。

文革の混乱期に、かつて経験した土地改革や右派運動といった政治運動の中で経験した略奪や婦女暴行の快楽を思い出した者もあろう。

「文革」の本質を問う

文革とは何だったのか、 という問いに対して宋教授は 「共産党が文革以前に実施した 17 年間の政策の結果である」 と答えた。

文革前の 17 年間の政策に対する錯誤をきちんと認めず、政治運動の中の醜悪な虐殺を正当化してきた結果、文革の 10 年が起きた。

では、 文革で何が起きたかについていまだ タブー が多く、その後の 天安門事件 についてもいまだに再評価されず、共産党政治に対する批判を許さない今の中国では、また、大虐殺をともなう政治動乱が起きても不思議ではない ということなのだろうか。

 習近平政権が、あまりに苛烈な権力闘争を、 文革を想起させるような個人崇拝キャンペーンを伴って展開 している今だからこそ、文革とは何であったか、というその本質を問う作業を、中国問題にかかわる人たちは続けていかねばならないと思う。






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最終更新日  2024.02.21 04:19:50コメント(0) | コメントを書く


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