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「連合赤軍の時代」2021年 三木武司)を拾い読み 2024-9-26 はんぺん「連合赤軍の時代(2021年 三木武司)」を拾い読みしてみた・・ ・連合赤軍による(仲間殺し)事件が起きたのは1971~1972年で、1958年生まれの著者が、中学1年の頃か? 著者のスタンスは、「できる限り、事実のみをベースにして検証、考察していくこと」で、僕は納得だ。 「連合赤軍事件・・・・28歳を最年長とする20代の若者と19歳、最年少は16歳の少年によって引き起こされた」(P9)「スクラップしていたサンケイ新聞の見出しを並べてみる 「軽井沢で撃ち合い」 「山荘に逃げ込む 管理人の妻人質」「別荘地に恐怖の銃声」 「警官撃たれ2人死ぬ」「狂気の城」 「連合赤軍、仲間殺し埋める」 「裏切り者は死刑」「全裸の男女3遺体発掘」 「目をおおう現場」 「狂った惨劇」「地獄を演出した狂気の集団」 「けものじみた争い」 「遺体にすがり泣きくずれる肉親」 「連合赤軍集団虐殺 地蔵峠また4遺体」 「死臭漂う樹林の共同墓地」 「無造作荷物なみ」 等々・・・」(P9) 僕の在学していた大阪市大は、関西でも有数の学生運動の盛んなところだった。セクトは、民青系、トロツキスト系の社学同、構造改革派系の民学同や革新グループなどが、目立っていた。このトロ系の社学同(ブント)は、後に、関西ブント→赤軍派と関東ブンド(ブント主流派)に分裂する。 僕の在学時は、まだ社学同は、三派全学連の中にいて、社学同大阪市大支部には、僕が、よく目にしたのは西浦隆男や赤城志郎たちだった。西浦隆男は、森恒夫の、1学年下。(森恒夫は、1963年に市大入学) 当時、西浦は、社学同市大支部のキャップだったようだ。1968年の中執選挙に全学区から立候補している。68年結成の第3府学連の初代委員長にも。羽田闘争や東大安田講堂の「革命ごっこ」にも参加。関西ブンドを引き連れて、何度も上京していたようだ。獄中にいたため、 7.6事件の後のブントの分裂、赤軍派結成を獄中で知る。出獄後には、1971年の赤軍派と革命左派の合同合宿(本栖湖)には、参加しており、赤軍派指導部の重要な一員だった。 しかし、赤軍派と革命左派の合同軍事訓練には、路線・方針の違いから参加しなかった・・・参加していたら・・・(仲間殺し)の加害者か犠牲者になっていたかもしれない。その後、がんを患い2014年10月4日死去。赤城志郎は、僕が、法1回生の時に、彼は、法2回生(1967年入学、一浪)。ぐうぜん19685年5月の中執選挙の学部選挙区に、お互い出馬していたので、少し意識していた。選挙期間中は、僕が、日和って不登校になっていたこともあり、顔を見ることも少なかったが、6月のアスパック反対闘争で、社学同がバリストをするなど、それまでの目立った活動もあって、キャンパス内では、顔を見る事は、よくあった。1970(昭和45)年3月31日の日航機よど号ハイジャック事件で、日本赤軍の一員として、北朝鮮に行き、そこで50年以上(足止め)され続けている。革命を叫びながら、目的地のキューバには行けず、経由地のハズだった北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で、自由の無い囚人のような生活を送っている。自業自得の典型と言えるだろう・・・本人たちハイジャック組の夢想した「世界根拠地」は、とうとう作れなかったし、数々の空文句は、雲散霧消した・・・だけでなく、多くの民衆の不幸を生み出してしまった。これは、(革命)ではなく(犯罪)だ!!!! 西浦も赤城も、先輩の田宮や森にオルグされて、赤軍派についていった?ようで(関西ブントから赤軍派)、1969年秋の赤軍派結成時には、大阪市大の赤軍派たちは、「赤軍」のバカでかい旗をひらめかせて、たかだか15人ほどのみすぼらしい集団で、大阪市大の大学構内を「蜂起貫徹!」「戦争勝利!」のシュプレヒコールで、(異様な軍隊行進!)をしていたのを よく覚えている。 「森・永田らが、上位を維持するには、銃が必要だったと思う。常に権力というものは、そういうものが必要なのだと思う。 『総括』要求の基準というものは、何もなかった。森、永田の肚(はら)づもり一つであった。だから永田と森に逆らったら それでおしまいだ。永田をして、『女王』『絶対君主』みたいにした原因は、我々にも責任がある」(P245 連合赤軍派兵士:杉崎ミサ子:証言) 赤軍派に参加した一人に 若宮正則がいる。「1945年生まれ。1968年秋のベトナム反戦集会に参加。その後、ブントに加盟、赤軍派の結成に参加した。マルクスの本を読んだわけでもなく、赤軍派の思想も知らず、ベトナム戦争に反対する組織であれば、どこでもよかったとのことである。」(263P) 「未熟さ」を隠して、舞い上がっていた多くの(活動家?)たちが、冷静な判断ができずに、出来もしない「世界党・世界赤軍・世界プロレタリア統一戦線建設」などをブチあげて、若者たちをだまし続けた・・・その(罪)は、限りなく大きい・・・・「過渡期世界論」「前段階武装放棄」「国際根拠地論」(塩見:赤軍派議長)の妄想と暴走は、不思議なことに、先の戦争で(大きすぎる過ち)を犯した、ヒロヒト(裕仁)や戦争指導部とオーバーラップしてしまう。彼らは、高度な生産力を有するアメリカなどを相手に開戦することで、国民を惨禍に陥れた。(洗脳)によって、アメリカなんぞに負けるハズはないと妄想させたのだ。「鬼畜米英」の精神論で(神風が吹く)と必勝を約束して(洗脳)を繰り返し・・・暴走を止めなかった・・・・ この内容が「クローズアップ現代」(NHK)に放送されたのは、2022/2/24とのこと。そもそも、聞きかじりの言葉で、他人をオルグ(勧誘)するなんて、まずいだろう・・・あり得ないだろう・・・無責任だろう・・・消化しきれていない「革命」とか「社会主義・共産主義」とか・・・言葉遊びに堕していたことは、あの日本赤軍、連合赤軍兵士たち、高野悦子の本、重信房子たちの言動を見れば、明らかだ。当時の(活動家?)たちの遺した記録を見れば、いかに彼らが、背伸びしていたか・・・が、明白だ。 僕は、そんな(青2才)の犯した(過ち)には、吐き気がする思いだ。しかし、その中に、僕自身がいたことも事実だ・・・人生経験が乏しい自分たちが、天下国家を語る時に、現実から遊離して、舞い上がって、唯我独尊に陥った我々の痛恨・・・・人生総括の今、考えることが多すぎるが・・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――男はなぜ「あさま山荘」に立てこもったのか 元連合赤軍幹部・吉野雅邦のたどった道(ネットワーク報道部記者 杉本宙矢)公開:2022年2月24日 「クローズアップ現代」(NHK)「まーちゃん、早く出てきてちょうだい、お願いよ。こんなことしちゃって」母親は真冬の山荘に籠城する息子に対し呼びかけ続けた。かえってきたのは、むなしく響く銃声だけ。ただ、弾を放った息子は山荘内で目を潤ませていたという。 彼の名は、吉野雅邦(当時23歳)。1972年2月に起きた「あさま山荘事件」の実行犯の1人だ。なぜ吉野は、あさま山荘に籠もり、警察と、そして自らの家族とも対峙しなければならなかったのか―未公開の手記や手紙、裁判記録、そして彼を取り巻く人々の証言から、「あさま山荘事件」にいたるまでの行動と心の軌跡をたどる。 ※一部敬称略(あさま山荘)1972年2月19日、過激派組織「連合赤軍」のメンバー5人が軽井沢の「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもった。 10日後、朝から始まった警察の制圧作戦に、犯人側もライフルや拳銃で応戦し、機動隊員2人が殉職した。午後6時過ぎ、機動隊が山荘に突入して犯人全員を逮捕し、人質を救出した。この事件の捜査の中で、連合赤軍は別の山岳アジトで仲間に対するリンチ事件をおこし、多くの人命を奪っていたことが明らかになった。事件の実行犯だった元幹部の1人・吉野雅邦は逮捕され、裁判では無期懲役の判決を受けた。 恋人とも出会い… “何不自由ない生活”がなぜ(吉野の親友・大泉康雄さん)「生育環境や人間関係を見れば、彼は恵まれていた。けれど、『幸せであることの居心地の悪さ』とでも言うんでしょうか、時代の中でそのような感覚があったようなのです」 こう語るのは、吉野の親友で小中学校の同級生だった大泉康雄さん(73)。当時から現在に至るまで、60年近く手紙のやりとりを重ね、友の姿を見てきた。出版社に勤めるかたわら、吉野の半生を記録した本を出版し、親友がなぜあの事件に突き進んだのかを知ろうとしてきた。吉野雅邦は1948年3月、裕福な家庭の次男として生まれた。父は東大法学部出身で大企業の重役。同じく大正生まれの母は、目立った反抗期もなかったという息子にたっぷりと愛情を注いだ。大泉さんによると、吉野は小中学校では“優等生”だが誰でも分け隔てなく接した。「学級委員」に選ばれクラスでの人気も高かったという。一緒に学級新聞を作り、大泉さんが編集長を担い、吉野が記事を書いていた。 成績優秀だった吉野は都立高校に進学。3年間合唱部に所属し活動に打ち込んだ。大泉さんと学校は別々になったが、一緒に旅行に出かけるなど交流は続いた。吉野は東大受験に失敗して一浪したのち、1967年に横浜国立大学に進学。大学でも混声合唱団に入部し、そこで生涯を誓い合う相手、金子みちよさんと出会う。同学年で年も同じみちよさん。合唱団の新入生歓迎コンパで出会った彼女に一目ぼれだった。 吉野が長い人生の中で最も嬉しかった瞬間は、みちよさんからのデートの誘いだったという。1年生の夏休みのデート。白い縁取りをしたレモンイエローのノースリーブのワンピースに身を包み、肩まであった髪をバッサリと切ったみちよさんの姿に目を奪われた。物怖じすることなく、自分の意見をはっきり述べる姿に魅力を感じていた。「電話でしょっちゅう『こういうアタックをした』とか話していました。“最高の女性だ”と言っていましたね。私にも紹介してくれて、一緒に話をすることもありました。そのうち結婚して幸せになるだろうと思っていましたね」 「幸せであることに居心地の悪さ」(金子みちよさんと吉野)家庭的にも経済的にも恵まれ、恋人もできた吉野。“幸せ”そのものにも見えたというが、その生い立ちにある負い目を感じていた。 彼の兄は生まれたときに脳に障害があり、知的障害者向けの施設に入所。吉野は中学生の時から大学のこの頃まで、毎週のように施設に通っていて、兄は誰よりも弟が来ると喜んだ。しかし、吉野は自分が障害なく生きていることに罪悪感を覚えていた。自己肯定感が希薄で、生き方に迷っていた。高校生の頃には夏目漱石の『こころ』に影響され、自殺を高尚なものと見なしたり、『人間魚雷回天』という映画を見て戦時中の特攻隊員の勇敢さに憧れたりした。(ベトナム戦争)・・・大学1年生の夏休みが明ける頃には状況が一変する。世界中でベトナム戦争への反戦運動の気運が高まると、学生運動は徐々にエスカレート。大学に入学した1967年、時の佐藤栄作総理大臣の南ベトナムなどへの訪問阻止を目的とした“第一次羽田闘争”が起きた。ベトナム戦争の影響で利益を得る企業に批判の声が上がると、吉野は自らの出自をも疑うようになる。 「死の商人だ」・・・・・それまで財閥系の企業の重役として働く父に誇りに感じていた思いが反転。「父に養われてきた自分は、アジアの人民の血と命を踏みにじって生きてきた存在」ではないかと自らに嫌悪感を抱くようになる。父の勤める会社を「死の商人」となじる言葉が、吉野の生きる立場を足下から揺さぶった。 (吉野が大泉さんに宛てた手紙)そんなとき、吉野は社会主義革命の思想と出会う。大泉さんに宛てた手紙には、革命思想に“目覚めた”ばかりの様子が記述されている。“もう俺の生きる道はここだと言うほどの共感を与えた。ピッタリくるという感じ。心の空洞を、なんの抵抗もなしに埋めてくれるもの。そんなふうに入り込んできた。(中略)俺の求めているものは、社会主義社会建設であり、そのための革命である” (第一次羽田闘争 1967年) 吉野は「遺書」を書いて決死の覚悟で羽田闘争に向かい、機動隊との攻防の中で頭を13針縫う重傷を負った。これ以降、吉野は当時の他の多くの学生と同様に、機動隊と衝突する闘争に加わったり、デモに参加し逮捕されたりを繰り返す。みちよさんは向こう見ずな吉野を心配しながら行動を共にする機会が増えていく。一方、別の大学に通っていた大泉さんとは、やりとりする機会は減っていた。「当時は、そんなにわからなかったのですが、後で裁判記録を読むと、こんなにまで自分を追い詰めていたのかと、ひしひしと感じましたね。今よりましな社会に変えようと、突き進んでいたのが当時の状況だったんじゃないかと」 世界を“本気で変える”はずが・・・(東大安田講堂事件 1969年)1969年に入り、全共闘などが東大安田講堂を占拠したものの、機動隊に制圧されると、学生運動は次第に衰退していく。そのころ、吉野はみちよさんとともに混声合唱団を退団。学生生活に見切りをつけ「職業革命家」の道を突き進んでいった。 後に連合赤軍となっていく「革命左派」と呼ばれる過激派組織が誕生すると、吉野とみちよさんもその下部組織に入る。2人はアパートで事実上の結婚生活を送りながら、組織の幹部・坂口弘(死刑囚)の指示の元、工場労働者として働き始めた。 誕生したばかりの革命左派は主張として「反米愛国」を掲げた。組織の“旗揚げ”を示す実力闘争を展開しようと、9月、当時の愛知揆一外務大臣が「訪ソ訪米」するのを阻止する計画を立てる。それは空港の滑走路に侵入し、火炎瓶を飛行機に向けて投げ込むというものだった。 吉野は投獄を覚悟した実力闘争の「決死隊」のメンバーに選ばれる。坂口ら数名とともに、夜のうちに海を泳いで羽田空港の滑走路に侵入。離陸しようとする飛行機の前に火炎瓶を投げ込み、約20分間離陸を遅らせた。 警察による逮捕後も吉野は取り調べに対し、完全黙秘を貫いたとして、保釈後に組織内で評価され、革命左派の党員として昇格を認められることになる。 一方、みちよさんは逮捕された吉野の救援活動に奔走させられる。実はみちよさんは、吉野がこの闘争に参加するのに反対し、こう迫っていた。「私と闘争とどっちが大切なの?」詰め寄る彼女に吉野はこう答えた。「闘争というものはどっちを選ぶというものではないと思う。もし将来、革命のために君を犠牲にしなければならないような状態に直面したら、僕は革命の方を選ぶ」こうした姿勢が後に何をもたらすのか、当時の吉野は全く予想していなかった。 逃避行から「山岳ベース」へ革命左派の活動は広く労働者に訴えるものから、次第に組織の内向きな方向へと変わっていった。 当時逮捕されていた組織の指導者を“奪還”するためには『銃の入手』が必要だと主張する指導部。下部メンバーに交番を襲撃して銃を奪うように命令するも、実行役のメンバーの1人が警察官に撃たれ死亡した。 その後、吉野も銃を入手するため、潜伏しての非合法活動を指示され、みちよさんとも離ればなれの生活を送ることになる。 1971年2月には、栃木県真岡市の銃砲店から銃を強奪し、この事件で吉野を含む革命左派の主要メンバー6人が全国に指名手配される。警察の捜査をかいくぐろうと、北海道へと逃避行が始まり、事実上、組織のトップについていた永田洋子(元死刑囚)と坂口弘は「海外亡命論」まで主張し始める。 そしてその年の5月下旬、永田は「山岳ベース」を拠点にして「銃を軸にした人民革命軍を作る」と主張し、メンバーらは奥多摩の山の中に小屋を設けた。 最初の“同志殺害”銃を入手していた革命左派の指導部は、このころ同じく武装闘争路線を掲げていた「赤軍派」と接近する。労働者を中心として女性も多く、大衆運動を行ってきた革命左派と、学生を中心として軍事的な理論と行動を重んじる赤軍派とでは、主張も組織形態も異なっていた。 しかし両派とも指導者やメンバーの多くが相次いで逮捕され、組織が弱体化する中、1971年7月、両指導部は軍事的な連携強化を確認。事実上「連合赤軍」の結成がこのとき合意された。ただ、そこにはまだ確固たる理念も、統一された軍事組織もなかった。 一方、革命左派の山岳生活では、山での暮らしについて行けずに離脱するメンバーが現れる。最高指導者として永田洋子の権威が確立される中、権力側のスパイの疑いがあるとして離脱者2名の殺害計画が指導部で提案される。この計画を伝えられた吉野は動揺を見せるも、任務として承諾して、以降は実行部隊として積極的な役割を果たしていく。 (印旛沼殺人事件の現場)「印旛沼殺人事件」と呼ばれるこの事件は、組織にとっても吉野にとっても、初めてとなる“殺人”だった。2名の同志殺害のおよそ2か月後の10月、吉野は山から親友の大泉さんにこんな手紙を送っている。組織の論理にすっかり染まっていた。“いよいよ日本の地にも本格的な遊撃戦争の時代が到来しましたネ・・・我々がかちとりつつある“鉄砲とせん滅の軍隊”人民革命軍による『銃』の遊撃戦こそが、今必要とされている緊急な重要な闘いであることを何よりよく示していると思います。人民が武装すること、このことを最もよく組織できるスローガンは『鉄砲を握れ!』であり、この『鉄砲』こそ軍隊の最も基本的な、欠かせない、最も重要な“せん滅”の武器であるからです” 「総括」の始まり2つの組織の合流は凄惨な12人の同志殺しへと発展する。山の閉ざされた空間でその事件は起きた。「総括」は当初、些細なことから始まった。 1971年12月4日、革命左派と赤軍派のメンバーは山のアジトで合流して「合同軍事訓練」として銃の射撃訓練を行っていた。そのとき革命左派のメンバーが水筒を持参していないと、赤軍派から意識の低さを指摘する声があがった。一方、革命左派の永田は赤軍派の女性メンバーが化粧をしていることや指輪をしていることについて「革命戦士としてふさわしくない」などと個人批判を行った。赤軍派の最高指導者・森恒夫(逮捕後に自殺)はこの批判を深刻に受け止め、女性メンバーの問題は赤軍派全体の問題だとして、「彼女が総括できるまで山を降ろさない。山を降りるものは殺す」と宣言。 さらに、どんな状況でも権力と闘える、強い精神力を持った真の「革命戦士」になるためには、一人ひとりのメンバーがお互いを批判し合う中で、自らの“弱さ”や過去と決別しなければならないと主張。森はこれを「主体の共産主義化」と呼んだ。 「連合赤軍」の山岳ベースでは毎晩のように会議が開かれた。その中で、メンバーは上位の指導者からの「総括要求」を受けながら、自ら“弱さ”や“問題点”を次々に告白して自己批判した。 初めて総括に暴力が登場したのは、12月26日の夜から翌朝にかけてのことだった。総括要求されていた男性メンバーが、別の女性メンバーとキスをしていたことに、永田が「新党の場を汚された」ととがめた。 しばらく批判が続いた後、森はこの男性メンバーを殴るように指示。「共産主義化を勝ち取らせるため、新しい指導として殴る」と言って、暴力を同志が総括する「援助」であると位置づけた。指導部メンバーの中でも、吉野は率先して殴打した。「まだ隠していることがあるだろう」「総括しろ!」下部メンバーも次第に同調し始めた。あわせて17人が暴行に加わる。約1時間半にわたり、70回から80回ほど顔面を殴り続け、男性メンバーの顔は2倍くらいに膨れ上がった。 (元連合赤軍兵士・岩田平治さん ) 連合赤軍の元兵士で、「総括」の場にも参加していた岩田平治さん(71)。指導部の指示のもと、他のメンバーを殴打することは必要なことだと思い込んでいたという。「『総括』は、最初はわけがわからなかったのですが、幹部が殴っているうちに、本当に自分の中にある弱さをたたき出すためには、自分も殴らなければならないと思い、かなり積極的に殴ったんですよね。吉野さんなんかは、真面目にきっちりと上からの要求に応えて率先してやっていたと思います」 暴力的総括要求は、次々と他のメンバーにも及んだ。初めての死者が出たのは12月31日。総括のきっかけは、23歳の男性メンバーが他のメンバーを殴るときに個人的な恨みで殴っていたと指摘されたことだった。他のメンバーから殴られた上、「総括する態度ではない」として縛られた。食事も水もほとんど与えられなかった。「スイトン・・・」と食事を求めた発言が不適切だとして、さらに膝蹴りを受ける。縛られたまま絶命した。 メンバーに動揺が広がる中、森は男性の死を、革命戦士になりきれなかった「敗北死」と規定した。死は本人に責任があるとする論理を強調。他のメンバーもその規定に同調した。だが、総括を求められたメンバーが「総括」をやりきったと評価されることはなく、死者は1人、また1人と増えていく。 それに正面から異を唱える者はおらず、しばらく後になるまで逃げ出す者は1人もいなかった。岩田さんは最初の一人が死亡したとき「死体を見張れ」と指示された。違和感を覚えると、指導部メンバーから「前にもこういうことがあった」と言われ、初めて印旛沼事件を知った。殺されていた同志は中高の同級生だった。 元連合赤軍兵士・岩田平治さん:「革命を信じてきて、権力を倒すためには暴力や武力も必要だと思ったことは事実ですけど、仲間を殺すのはどうなのかなと。革命は正しく、指導者は論理的に間違っていないかもしれないけど、感覚的についていけないというのが実感でした」 一時下山して、カンパ集めなどの任務を与えられた岩田さんは、再び山へ戻ることはなかった。暴力の空間から、最初に逃げ出したメンバーだった。 上意下達の組織と“中間管理職”「指導部の指示や命令は、もうこれは無条件に従うしかないという感じで、こんなことやっていていいのかなと違和感をもっていたけれど、『縛れ』と言われれば、『はい、わかりました』という感じでした。僕ら兵士は、もっぱら上意下達的な、上からの指示通りに行動することを求められていましたね」 リンチ殺人に加担し、懲役20年の刑で服役した元連合赤軍兵士の植垣康博さん(73)は当時の組織をこう振り返った。1972年1月2日、赤軍派だった植垣さんは、他のメンバーより少し遅れて山岳ベースにやってきて驚いた。目の前で “同志”が殴られ、縛られている。「総括」で、すでに3人が死亡していた。 「こんなことをやっていていいのか?」そう赤軍派側の幹部に尋ねると、「党のためだから仕方ない」と言われた。自分を納得させようとしたが、動揺は隠しきれなかったという。 赤軍派と革命左派が「連合赤軍」として合流し、共同で銃の射撃訓練をしてから1か月あまり。組織は新たな形で再編されつつあった。山に入ったメンバーは全部で29人。 植垣さんが到着したこの日、「連合赤軍」の指導部として7人の「中央委員」が選出された。 旧赤軍派の森恒夫が委員長に、旧革命左派の永田洋子が副委員長となり、この2人のトップが“独裁的な”地位を有していた。指導部の役割は、組織の方針を決めてそれ以外のメンバーである「兵士」を指示すること。上部からの命令は絶対の上意下達の組織だったという。 吉野は指導部の中に名を連ねたものの、その地位は最下位の7番目で、後の裁判では、自ら「総括」の命令を下したり、実際に方針を提起したりするほどの発言権はなかったと認定される。 「吉野は指導部の方針を、僕ら兵士に伝える存在だった。自ら考えて指導するというより、上位の指導部の指示通りに行動している人間だとみていました。会社でいうなら、中間管理職ですね。個人的な話はほとんどしませんでした」森と永田のツートップを中心に「革命戦士」を育成するとして、下部メンバーには次々と総括要求が突きつけられた。その中では、家族関係や恋愛関係にあったメンバーが自己批判させられ、関係を引き裂かれていく。 兄を殴った未成年の弟たち。妻と子供を連れて入山し、リンチにあった夫。植垣さんもまた、好意を抱いていた女性メンバーを殴るよう命令され、自身にも総括が要求されていた。個人的な感情を振り払おうと、その意を決したときには彼女はすでに凍死していた。山での10番目の死者だった。そして11人目の犠牲者となるのが、吉野の妻で当時妊娠8か月のみちよさんだった。 妻の死を容認した「心の歪み」みちよさんの総括のきっかけは、「男を利用して組織での主導権を握ろうとしている」などと、永田に因縁をつけられたことだった。その総括要求が続く中、吉野はほとんど沈黙し、積極的に止めに入ることもなく周囲に同調していた。指導部に批判的だったみちよさんに対し、森や永田の命令で暴行は次第にエスカレートした。氷点下の極寒の中、食事もろくに与えられず、放置されたみちよさんは2月4日、お腹の子とともに亡くなった。23歳の若さだった。 (吉野が刑務所の中で書いた「省察文」)吉野は後に、刑務所の中で30年以上にわたり、事件を振り返る「省察文」を書き続けているが、そこにはみちよさんに対する後悔の念が記されている。・・・・“私はこのように生きることを許されたものの中で、恐らく人間として最低、最悪の行動をとったものです(中略)自らの子供を身籠もり、八ヶ月まで育て上げてきた内妻、金子みちよを自ら死に至らしめたのです(中略)判決では、そうした一連の対応は、『もしそうしなければ、彼女とともに殺されることが確実な状況の中で、やむを得ずとった行動』として非難が回避されました。しかし私の先の行動は、そうした状況に迫られての受動的なものというよりは、みちよをかばったり同情したりしてはならない、という心の歪みでした” 組織における“個”の解体吉野を始め、「連合赤軍」のメンバーたちが陥ってきた「心の歪み」は、特殊な時代背景の中での特殊な心理だろうか。元兵士の植垣さんは若い世代から当時のことを聞かれると、こう説明する。「個を解体して、個人としての世界を解体していくのが、当時の総括要求だよね。そこに個性はないし、あってはならない。わかりやすくいうなら、“会社人間”と同じ。会社組織に忠実に行動するような個人で、人間関係や恋愛感情含めてすべてを会社に従属させることができる人間に変わっていかなければ駄目だと」 植垣さんがそう考えるようになったのは、刑務所から出た後、若い人たちが受けている学校教育や新入社員研修を見たときだったという。組織の中での人間の心理状況だけでなく、「総括」の過程で暴力が果たした役割も、現代に通じるところがあると植垣さんは自戒する。 「暴力的な総括要求を考えていくと、極めて日本的というか、“しごき”の世界がある。しごきというのは単純に暴力だけが問題ではない。暴力が持ち込まれているか否かだけではなく、しごきの思想自体に問題がある。これは今でも同じようなことが起きていると思うよ」 (あさま山荘事件 1972年)その後、メンバーの逃亡や逮捕が相次ぐ。そして 1972年2月19日、吉野を含む山に残った5人は警察に追い詰められる中、あさま山荘で管理人の妻を人質に取って立てこもることになる。 「あさま山荘事件」では、警察官と民間人あわせて3人が銃撃され死亡した。立てこもりのリーダー格だった坂口弘(75)は死刑が確定し拘置所に収容されている。幹部の坂東國男容疑者(75)は裁判の途中に、日本赤軍がクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠した事件で釈放を要求し、日本政府の超法規的処置によって国外に逃亡した。いまも国際指名手配されている。 吉野は逮捕され、裁判の中で全面的に罪を認めた。裁判で死刑が求刑されたが、無期懲役が言い渡され、確定した。 あさま山荘事件から50年、吉野は今も刑務所で服役を続けている。
2024.09.26
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極左トロツキストのなれの果てが・・・赤軍派、日本赤軍、連合赤軍だ。革命的空文句で、多くの生命が奪われた・・・ 2024-9-6 はんぺん誰も、まじめに(総括)しなかった無責任集団だ。多くの無関係の住民が、殺された。日航機ハイジャック事件は、赤軍派メンバーによる(事件)だが、他の極左派(暴力集団)たちの無法も忘れてはならない! (洗脳)で、革命的空文句に、踊らされた彼らは、周りの仲間を(再洗脳)してしまった・・・(青2才)が、(青2才)をオルグ(洗脳)した時代だった。 赤軍派は、首相官邸の襲撃や霞が関占拠まで、決定していた。その最高責任者は、高原浩之(遠山美枝子の夫)だった。 当時のトップは、塩見孝也だったが、彼は、当時は逮捕されて獄中にいたので、代わりに高原浩之が、トップについていた。荒唐無稽な(軍事方針)を決定した責任者は、高原浩之だった。忘れてはならない!!! 極左派暴力集団と、狂信的宗教集団は(洗脳)という手段で、大衆を引きずり込んだ・・・という意味では、同類だ。多くの民衆の(人権)は、損なわれた。多くの民衆の(自由と民主主義)が、損なわれた・・・ 狂信的宗教集団は、多くの民衆を(洗脳)して、金品を巻き上げて、生活を破壊した。信徒は、奴隷の如く、無抵抗集団に貶められた。極左派暴力集団は、多くの学生・労働者を(洗脳)して、テロを多用して、多くの人命を奪った。彼らの貴重な人生を破壊した・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――――――元日本赤軍メンバー、城崎勉受刑者が死亡 「ジャカルタ事件」で殺人未遂罪 2024-7-21 産経新聞元日本赤軍メンバーで、1986年にインドネシアの日本大使館に爆発物が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」を巡り殺人未遂などの罪で服役中だった城崎勉受刑者(76)が、20日に死亡したことが21日、捜査関係者への取材で分かった。捜査関係者によると、服役中の施設で夕食をのどに詰まらせて亡くなった。 城崎受刑者は富山県出身。別事件で服役中の77年にダッカ日航機ハイジャック事件で「超法規的措置」により釈放された。 米当局は96年、ジャカルタの米大使館に迫撃弾を発射したとしてネパールで身柄を拘束。禁錮30年の判決が言い渡された。模範囚として2015年に釈放され、日本への強制送還後に警視庁が逮捕した。 ジャカルタ事件では、東京高裁が18年9月、懲役12年とした一審東京地裁判決を支持、被告の控訴を棄却した。――――――――――――――――――――――「日本赤軍に入るつもりなかった」と語った城崎勉被告の真意とは? 「革命用語」飛び交い法廷はまるで歴史教室に… 2016-11-3 小野田 雄一 産経新聞「連合赤軍(の内ゲバ)により、仲間がみんな殺されてしまった」「重信房子(受刑者、元日本赤軍リーダー)とは当然、面識はあった」。1986(昭和61)年にインドネシアの日米両大使館に迫撃弾が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」の実行犯だったとして、殺人未遂罪などに問われた日本赤軍メンバー、城崎勉(しろさき・つとむ)被告(68)。 24、25の両日に行われた被告人質問では「羽田闘争」「大菩薩峠事件」「連合赤軍」といった歴史的用語や、「世界根拠地論」「前段階武装蜂起論」といった左派の思想用語が何度も登場。革命運動の生き字引ともいえる城崎被告と検察側の間では革命運動史も議論され、法廷が歴史教室のようになる一幕もあった。 「労働者とともに闘おう」と大学中退城崎被告が法廷で語ったところによると、昭和22年に富山県で生まれ、貧しい幼少生活を送った。徳島大学工学部に進学したころ、ベトナム戦争に介入した米国が北ベトナムへの爆撃作戦(北爆)を開始した。 「日本が宣戦布告せず行った真珠湾攻撃は間違っていたと学校で教わったが、米国が同じことをした。反米デモに参加しているうちに左派団体からオルグ(勧誘)を受けた。首相佐藤(佐藤栄作元首相)の米国支援目的のベトナム訪問を阻止するために『羽田闘争』に参加した」 政治運動に没頭する一方、大学へは足が遠のいた。「単位が取れない状況になった。親のすねをかじり続けるよりは、早く独立して、労働者とともに闘おう」と考え、大学を中退。その後、「共産主義者同盟赤軍派」(赤軍派)からオルグされ、参加した。 城崎被告によると、「将来的な武力による権力打倒」を志向していた他の左派セクトに対し、赤軍派は「今すぐに権力打倒が必要だ」と考えていた。そのため革命兵士の育成と資金獲得を兼ね、金融機関や通行人を襲う「M作戦」を計画、城崎被告も実行役を担った。Mは一般に「マフィア」の頭文字を取ったものとされるが、城崎被告は「マネーのMだと思っていた」という。結局、M作戦に参加した疑いなどで71年に逮捕され、ほどなく懲役10年の実刑判決を受けた。 M作戦に「矛盾を感じていた」赤軍派は、労働者に先立って先鋭化した運動家だけで武力革命を行うべきだとする理論「前段階武装蜂起論」を掲げていた。 しかし、M作戦の失敗や、山小屋で軍事訓練中の赤軍派メンバーらが大量検挙された「大菩薩峠事件」(69年)、赤軍派出身者らで結成した連合赤軍が内ゲバで多数のメンバーを殺害した「山岳ベース事件」(71~72年)などで、同理論は破綻した。 「M作戦で逮捕された後、山岳ベース事件が起き、知っていたメンバーが殺されてしまった。そのため、出所後にどのように生きるかは考えていなかった」という。またM作戦自体にも「人民のために闘うと言いながら、人民から略奪する行為で、当時から矛盾を感じていた」と語った。 ハイジャックに「人民を盾、支持できない」受刑中の77年、転機が訪れる。連合赤軍と同様に赤軍派出身者らで結成した「日本赤軍」が、赤軍派の理論「世界根拠地論」(日本国外に拠点を作り、そこから世界各国の革命を推し進めるという理論)に基づいて、日航機をハイジャックして人質を取り、日本で服役・勾留中のメンバーらの釈放を求めた「ダッカ事件」が発生する。釈放要求リストの中に、城崎被告の名前も入っていた。 「逮捕前から、世界根拠地論は不可能だ、空論だと思っていた。だから日本赤軍に入るつもりもなかった。しかし刑務所にいるよりは自分を必要としてくれるところで、米国の帝国主義と闘うべきだ」と考え、釈放に応じることにしたという。また、ダッカ事件についても「解放してくれた人たちを批判することになるが、人民を盾に取ることは支持できない」などとも述べた。 城崎被告によると、ダッカ事件で釈放を実現させた日本赤軍からオルグを受け続けたが、拒否。その後、中東でイスラエルと支援する米国側と闘う「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」に参加。参加の動機については「米国・イスラエルの帝国主義の侵略に対する対抗だ」と述べた。 ホテルの指紋「CIAならやりそうなことだ」今回、罪に問われたジャカルタ事件について、日米当局は「事件直前に東京サミット(先進国首脳会議)があり、国際テロ撲滅をうたった声明が公表された。それに対抗するための日本赤軍によるテロ行為」とみている。 しかし、城崎被告は初公判以来、一貫して無罪を主張。「重信(受刑者)とは面識があったし、日本赤軍とPFLPは共闘関係にはあったが、私は日本赤軍に参加したことはない。他人が日本赤軍のメンバーだと言っているだけだ」と、日本赤軍の作戦に基づいてジャカルタ事件を実行したとする検察側に反論。「事件当日は中東のレバノンにおり、事件には関与していない」などと無罪を主張している。 また犯行前後に使用された偽造パスポートに城崎被告に似た男の顔写真が使われていたことについては「写真はいくらでも偽造可能だ」と反論。迫撃弾が発射されたホテルの一室から城崎被告の指紋が見つかったことについても「米国は日本赤軍の犯行に見せかけようとしたと推測している。米中央情報局(CIA)あたりならやりそうなことだ」と述べた。 その一方、PFLPでは砲兵部隊に所属し、迫撃弾の運用方法などを学んでいたことや、PFLP所属中も日本赤軍のメンバーらと定期的に連絡を取り合っていたこと、レバノンの内戦が終結し、93年ごろに同国を離れて南アジアや東南アジアで潜伏していた時期、日本赤軍から一定の金銭的支援などを受けていたことは認めた。 レバノン出国後、城崎被告は潜伏先のネパールで96年に身柄拘束され、ジャカルタ事件について「別人がやった」などとして無罪を主張したものの、米国で禁錮30年の判決を受けた。模範囚として刑期が短縮され、2015年に釈放。日本に移送後、起訴された。 状況証拠積み重ねる検察に「故郷で暮らしたい」事件の最大の争点は、ジャカルタ事件の実行犯は城崎被告なのかどうか-だ。 城崎被告側は、「事件当日、ジャカルタにいなかった」と無罪を主張。これに対し、検察側は、当時の状況や城崎被告の不自然な行動から、「城崎被告以外に犯人はありえない」として有罪を立証しようとした。 被告人質問で検察側は「この裁判では、事件当日のアリバイがあると言っているが、同様のアリバイを米国での裁判では主張していないのはなぜか」「米国の獄中から支援者に送った手紙に、本当に冤罪(えんざい)なら怒りを書くはずなのに、そうした表現がないのはなぜか」などと質問。これに対し、城崎被告は「そうする必要がなかったためだろう」などと答えるにとどめた。 さらに検察側は、城崎被告がレバノンなどで日本赤軍と定期的に連絡を取り、支援を受けていた▽砲兵として迫撃弾を扱う技能を持っていた▽犯行前後に現場付近で城崎被告とみられる男の目撃証言がある▽ジャカルタで使われた偽造パスポートに城崎被告によく似た男の写真が使われていた-ことを被告人質問や証人尋問で明らかにするなど状況証拠を積み重ねることで、有罪を立証する方針とみられる。 城崎被告は被告人質問の最後、「米国の帝国主義、米国に追随する日本は倒さなければならない」と述べる一方で、「もう自分は高齢だから、自分がやるべきことではない。自由の身になったときは、故郷に帰って暮らしたい」と語った。 公判は今後、論告求刑、判決へと続いていく。(小野田雄一)――――――――――――――――――――日本赤軍とは・・・・警察の摘発などにより国内で勢力が低下していた共産主義者同盟の最左派「赤軍派」の幹部だった重信房子受刑者らが、革命拠点を海外につくる「国際根拠地論」に基づき、1971(昭和46)年にレバノンへ出国し結成した組織。 イスラエルの空港で自動小銃を乱射して約100人を死傷させたテルアビブ空港乱射事件や、拘束中のメンバーの釈放を狙ったクアラルンプール事件(75年)とダッカ事(77年)を起こした。 国内に残った赤軍派メンバーらは「連合赤軍」を結成したが、内ゲバによる殺人事件やあさま山荘事件などを引き起こし、瓦解(がかい)した。――――――――――――――――――ダッカ事件とクラルアンプール事件1977年9月、日本赤軍が日航機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させた上、乗客らを人質に取り、服役・勾留中の同志らの釈放や、身代金600万ドルを日本政府に要求した事件。 福田赳夫首相(当時)は「超法規的措置」として要求を飲むことを決定。釈放要求のあった9人のうち、拒否した3人を除く城崎勉被告ら6人が釈放された。 日本赤軍が在マレーシア米大使館などを占拠し、職員を人質に同様の要求をした75年のクラルアンプール事件でも5人が釈放されており、両事件での超法規的措置による釈放は計11人に上った。
2024.09.06
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「東アジア反日武装戦線」のテロル。忘れるな! 極左テロリストの蛮行を! リベラルは、いかに向き合うかが問われている 2024-8-30 はんぺん 「被害者の苦しみは共有されていない。」(本文) これが大切だ!・・・(社会主義幻想)に洗脳されたリベラル派は、真剣に向き合ってほしい。 今や、リベラリストといえども、このテロルを称賛する者はいないだろう。当たり前だ・・・が、これまで、テロリストの彼らを徹底して、非難・糾弾してきたか? というと、そうでもない?? 彼らは、出来れば、見たくない、知りたくない・・・とスルーしてきたように、僕には思える。(民主主義の敵)として、全力を挙げて、非難・糾弾するべき時に、彼らは、(沈黙)を選んだように、僕には、思える・・・ (イヤ、そんなことはない。絶対に支持るわけはない!)と言っても、実際の行動で、それを示さなければ、説得力を持たない! 違うだろうか?? 「この三菱重工ビル爆破事件を含め、1974~75年には企業を対象にした爆破事件が都内などで計12件相次いだ。一連の事件の判決文によると、容疑者らは、三菱重工が「日本帝国主義の戦前・戦時中における海外侵略、戦後における新植民地主義侵略の中枢」であるなどと主張した。」(本文) 著者の宗像さんは、生前 「事件は無差別な殺人でしかなかったと思う」と話していたという。逮捕され裁かれた容疑者たちは、僕と同じ、あの70年安保闘争時代の活動家たちだった。 何故、平気で、無差別殺人を犯したのか? それは、あの日本赤軍兵士たちによる(テルアビブ空港乱射事件)と同質の悪辣さがある。民衆を殺して、何が「革命」なのか??あの(山岳アジト事件)(あさま山荘事件)を起こした連合赤軍事件と同じで、(洗脳)の恐ろしさを、まざまざと教えてくれる。 宗像さんの妻は 「犯人グループの人たちには、その主義主張のために、家族を失った人、後遺症が残り人生が変わってしまった被害者がいることを忘れないでほしい」と語った。(本文) ・・・若気の至り?洗脳の結果? 多くの人々の貴重な人生が 永遠に失われた・・・・この事の持つ意味を、リベラルたちも、肝に銘じてほしい・・・ なぜなら、彼らリベラルたちは、威嚇と脅迫を繰り返している全体主義の中国や北朝鮮の蛮行を厳しく非難・糾弾しない(いま)があるからだ。 このテロルは、決して過去の事件ではない!! 今に通じて、大きな問題を提起している事件なのだから。 なお、この事件で逮捕された容疑者のうち、「大道寺あや子(75)、佐々木規夫(75)の両容疑者は、75年8月の日本赤軍による人質事件を受けた「超法規的措置」で釈放され、現在も国際手配されている。」(本文) 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――「悲劇、風化させない」 体験伝えた元社員。三菱重工爆破事件50年 比嘉展玖 2024年8月30日 朝日新聞 東京・丸の内の三菱重工本社に爆弾が仕掛けられ、8人死亡した事件から30日で50年になる。「東アジア反日武装戦線」を名乗る集団による連続企業爆破事件の一つ。 今年1月には半世紀近く逃走を続けたメンバーの1人の桐島聡容疑者が入院先で名乗った後に死亡し、再び世間に知られた。 当時を直接知る人が減るなか、自らの体験を書き残した人がいた。 事件当時に三菱重工社員で、31歳だった宗像善樹さん。事件で同僚らが命を落とし、けがを負うなか、自身は鼓膜が破れ、右耳の聴力を失った。 妻の信子さん(75)によると、宗像さんは事件後、しばらく事件について語りたがらなかった。宗像さん自身も重い後遺症を負ったが、「私は被害が小さい方だから経験を口にする立場にない」との思いだったという。 一方で、「あの悲劇を風化させてはいけない」とも語っていた。犯人グループの動向は、裁判などのたびに世間の注目を集めた。犯人側や当時の捜査員らからみた記録は多く残っているが、ビルの中にいた当事者によって記録されたものはあまりなかった。信子さんによると、宗像さんは「被害者の苦しみは共有されていない。記憶や事件に対する思いが薄れる前に書き残さないといけない」と話していたこともあったという。 退職後の2010年。事件から36年が経ち、宗像さんは自身の体験を元にした小説を書き上げた。当初はペンネームで「爆風」というタイトルで出版したが、同社OBから「実名でしっかり残すべきだ」と背中を押され、18年に実名で「三菱重工爆破事件」(幻冬舎)を出版した。 宗像さんはその3年後の21年12月に78歳で亡くなった。著書は小説だが、自身の体験はそのまま書いており、発生時の状況は生々しく記録されている。 同書によると、事件があったのは、4階のオフィスでいつも通り窓際のデスクに座っている時だった。 「皆なぎ倒された」「耳から真っ赤な血」 ドドーンという爆発音と、建物全体が突き上げられるような激しい揺れを感じた。(中略)私は、爆風の直撃を受け、猛烈な勢いで床に叩(たた)きつけられた。(中略)皆、猛烈な爆風と鋭いガラスの破片や割れた蛍光灯の直撃を受けて、いっせいに床の上になぎ倒された。 (中略)オフィスの中は、爆風で舞い上がった部屋のほこりで濛々(もうもう)と白くかすんだ。(中略)ガラスがすべて吹き飛んだビルの外から、焼け焦げたような異臭と煙が、社員の体の上にどっと流れ込んできた。 (中略)周囲にはワイシャツ姿の男性社員やノースリーブの女性社員が体から血を吹き出して倒れていた。(中略)右耳から、真っ赤な血がポタポタと床に流れ落ちた。 (中略)車は、もくもくとした黒煙と真っ赤な炎を吹き上げ、勢いよく燃え盛っていた。(中略)道の両側に建ち並ぶビルの真下の歩道には、血まみれになった何百人もの人たちが折り重なって倒れていた。(中略)ピクリとも動かない、黒こげの男の人の姿が見えた。 この三菱重工ビル爆破事件を含め、1974~75年には企業を対象にした爆破事件が都内などで計12件相次いだ。一連の事件の判決文によると、容疑者らは、三菱重工が「日本帝国主義の戦前・戦時中における海外侵略、戦後における新植民地主義侵略の中枢」であるなどと主張した。 容疑者の一部は今も海外逃亡を続ける。今年1月には、三菱重工以外の一部の事件に関わった疑いがあるとして指名手配されていた桐島聡容疑者(当時70歳)=容疑者死亡で不起訴=が入院先で見つかった。 宗像さんは「犯人がなぜ事件を起こしたのか本当のことを知りたい」と、事件の関連書籍を集めたり、事件を題材にしたテレビ番組を見たりしていた。「事件は無差別な殺人でしかなかったと思う」と話していたという。 連続企業爆破事件に関わったとされる桐島容疑者が亡くなる直前に名乗り出たことについて、信子さんは「主人は本人の言葉で謝罪を聞きたかったと思う」とし、「なぜ連続企業爆破事件に関わったのか語ってほしかった」と話す。 三菱事件から50年が経ち、「犯人グループの人たちには、その主義主張のために、家族を失った人、後遺症が残り人生が変わってしまった被害者がいることを忘れないでほしい」と語った。 半世紀逃走の桐島容疑者 連続企業爆破事件とは 1974年8月30日午後0時45分ごろ、東京都千代田区丸の内2丁目の三菱重工本社ビルで爆発が起きた。ビル正面玄関前に仕掛けられた爆弾2個が爆発し、同社社員や通行人ら8人が死亡、380人がけがをした。戦後最悪の爆弾テロと言われる。 この事件を含め75年5月までに企業を対象にした爆破事件が都内などで計12件相次いだ。同社のほかに三井物産、大成建設、鹿島、間組(当時)などの本社や関係先が狙われた。一連の事件の判決文によると、容疑者らは三菱重工が「日本帝国主義の戦前・戦時中における海外侵略、戦後における新植民地主義侵略の中枢」であるなどと主張。ゼネコン各社にも同種の理由を付けた。 連続企業爆破事件では「東アジア反日武装戦線」の犯行声明が出された。警視庁は75年5月に9人を逮捕(うち1人は逮捕直後に自殺)したが、大道寺あや子(75)、佐々木規夫(75)の両容疑者は、75年8月の日本赤軍による人質事件を受けた「超法規的措置」で釈放され、現在も国際手配されている。 警視庁は今年2月、神奈川県内の病院に「内田洋」の名前で入院し、その後死亡した男性について、事件直後から半世紀近くにわたり逃亡していた桐島聡容疑者(当時70)=容疑者死亡で不起訴=と特定。桐島容疑者は東アジア反日武装戦線の「さそり」グループに属し、連続企業爆破事件のうち7件に関わったとして、容疑者死亡のまま書類送検され、不起訴となった。―――――――――――――――――――桐島聡容疑者を名乗る男から事情聴取。70年代の連続企業爆破事件 2024-1-26 朝日新聞 1974、75年に起きた連続企業爆破事件で、警視庁が、爆発物取締罰則違反容疑で指名手配されている桐島聡容疑者(70)を名乗る男の所在を把握し、26日に事情を聴いたことが捜査関係者への取材でわかった。 警視庁は本人か確認を進めている。本人と特定されれば、事件から49年たっての確保となる。 警視庁によると、桐島容疑者は過激派集団「東アジア反日武装戦線」のメンバーで、警察庁指定の重要指名手配となっている。75年4月、東京・銀座のビルにある韓国産業経済研究所に手製爆弾を仕掛けて爆発させ、一部を壊した疑いが持たれている。 捜査関係者によると、桐島容疑者とみられる男は今月、神奈川県鎌倉市の病院に偽名で入院。25日になり、病院側に「自分は桐島聡だ」と話したという。 病院から警察に通報があり、警視庁公安部が男と接触。男は末期のがんで重篤な状態といい、桐島容疑者本人かどうかをDNA型鑑定などによって調べるとみられる。 連続企業爆破事件は74~75年、ゼネコンなどに爆発物が相次いで仕掛けられ、東アジア反日武装戦線が犯行声明を出した。このうち三菱重工爆破事件では同社社員や通行人ら8人が死亡、380人がけがをした。警視庁は事件に関与したとして9人を逮捕。一連の事件では桐島容疑者らが逃走を続けていた。(比嘉展玖)
2024.08.30
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リベラルの名に値しないMDS・・・・ロシア全体主義の蛮行を糾弾するか、容認するかが、本来のリベラル派のメルクマール(指標)だろう・・・ 2024-8-28 はんぺん 2つの文章を比べてみた・・・・戦後リベラルの(失敗)が、集中的に示されていて・・・考えさせられる・・・・ ① 2024-8-25 産経新聞(主張)日本や米欧など国際社会は結束を一層強め、揺るぎないウクライナ支援を通じて侵略は許されないことを示す必要がある。これは東アジアの安全保障に直結する問題である。 ② (2024年07月26日 週刊MDS 1831号)「和田春樹さん(東大教授)は「ウクライナ戦争、ガザ戦争を即時停戦させ、東アジアに戦争が拡大することを阻止するのが、平和反戦運動の原則」と強調し、岸田政権の日米軍事同盟強化、軍事費拡大の戦争推進政策を批判した。」 ① と②を比べて見ると、認識の差がまったく異なる。①は、世界は、民主主義と全体主義のせめぎあい(新冷戦)という産経新聞の(主張)は、戦争の根源は、ロシアなどの全体主義にあるという。そのため、当面の脅威である全体主義の蛮行を許すな・・・という結論だ。 それに対して、②のリベラル?のMDS1831号は、和田春樹氏の言葉を借りて、戦争の根源は、日米軍事同盟など、資本主義・帝国主義にあるという。その結果は・・・? 日米軍事同盟などの資本主義・帝国主義の蛮行を許すな・・・という結論だ。 何と言う違いだろう・・・ここに、注目してほしい。戦後リベラルの(ボタンの掛け違え)を!!! MDS1831号の結論からは(ロシアのウクライナ侵略戦争反対)という方針は、絶対出てこない。「人命が大切だ、即時停戦だ」としか、叫ばない・・・そのことで、ロシア全体主義の蛮行を容認する 彼らの(犯罪的)本質が、明白になる。 彼らの機関紙やホームページを覗いてきたが、(社会主義幻想)から脱却できないで、ロシア・中国・北朝鮮の蛮行を見て見ぬ振りをした(黒歴史)を知ることができる・・・のは、そういう事だ。 そもそも「東アジアに戦争が拡大することを阻止するのが、平和反戦運動の原則」なんて、トンチンカンな(原則)がなんで出てくるの?? そんな原則なんて、僕は、聞いたことが無い。 前回のブログでは、こう書いた・・・「・・・そんな平和運動の原則などは、僕は聞いたことが無い・・・一般論として言えば、東アジアだけではなく、世界全体に、戦争が拡大するのを防ぐのが、原則?ではなく、果たされるべき理想だろう。」 ・・・と。 そのために、何をするのか? 「また、和田さんは、出征した恋人を想うロシアの歌曲「カチューシャ」をロシア大使館前で歌う運動を提案した。」(週刊MDS 1831号)和田さん・・・・あんたは、アホか?? (自衛隊反対)(9条憲法守れ)(安保反対)・・・で、どうやって、独裁国家に取り囲まれた日本の平和を守れるのか? 「東アジアだけではなく、世界全体に、戦争が拡大するのを防ぐ」ために、民主派は結束して、全体主義の跋扈に立ち向かわねばならないのでは無いのか?世界は、民主主義と全体主義(共産主義)との新冷戦の真っ只中にあるのだ。 MDSは、その綱領の中で、「日米安保条約の破棄」「軍事基地撤去」「憲法第9条を守る」「自衛隊の縮小・解体」を叫んでいる。 これって、習近平、金正恩、プーチンが、泣いて喜びそうなことばかりではないの?? それで、日本や世界の平和と安全を守れるの?? ということだ。 いつから、彼らは、(ボタンの掛け違え)で、独裁者たちのための(運動?)に変身してしまったのか? というか、彼らは、あの民学同(DSL)やMDSの結成当初から、(一貫して!!)変身してこなかった・・・というのが、真実なんだろう。(無防備都市宣言運動を聞いた時は、正直、呆れたが) 彼らは、僕の民学同(DSL)時代と、まったく同じスローガンを言い続けているのだから・・・変わったのは、僕・・・この(方針)が、(社会主義幻想)(護憲幻想)の下につくられた事を理解し、(反省する勇気)で、真実に迫ることが出来た結果・・・僕は、変身した。 盛んに(反省する勇気)を持つように、事ある事に言ってきたが、MDSの長期政権は、日本共産党以上(DSL時代を含めると55年にもなるか?)では、(反省する勇気)(出直し)(再生)などの言葉は、空しいモノなのだろう・・・ (共産党の長期政権・・・宮本顕治は(1958年8月1日~1997年9月26日)の40年間、不破哲三は(1970年7月7日~2006年1月14日)37年間の長期政権。志位和夫は、就任からもう25年近くも現職で、長期政権を、継続中) (参考) 化石政党の日本共産党は、消え去るしかない? 再生の芽は、限りなく小さい・・・ 2022-7-22 はんぺんhttps://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202207220000/ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――<主張>全面侵攻2年半 結束強めウクライナ守れ(産経:主張) 2024-8-25 産経新聞 世界を震撼(しんかん)させたロシアのウクライナ全面侵攻から24日で2年半となった。 いまだロシアを敗北に追い込めていないことは痛恨の極みだ。日本や米欧など国際社会は結束を一層強め、揺るぎないウクライナ支援を通じて侵略は許されないことを示す必要がある。これは東アジアの安全保障に直結する問題である。 ロシアはウクライナ東部ドネツク州を中心に攻勢を続けており、ミサイルや滑空爆弾による民間施設攻撃の手も緩めていない。民間人の死傷者は3万5千人を超えた。こうした中でウクライナ軍は今月上旬、露西部クルスク州への越境攻撃に出た。東京都の面積の半分強に当たる約1200平方キロの露領を掌握した。 欧米主要国はウクライナによる自衛権の行使だとしてこの越境攻撃を容認している。露指導部には動揺が広がり、有効な撃退策を打てずにいる。 注目すべきは、いわゆる「レッドライン」(越えてはならない一線)の変化だ。 バイデン米政権は、ロシアを刺激しすぎれば核兵器使用を招くと懸念し、ウクライナへの軍事支援を小出しにしてきた。 当初は戦車や長射程兵器、戦闘機の供与を渋り、クリミア半島や露本土への攻撃にも否定的だった。ウクライナが劣勢になると結局は武器支援を拡充する後手の対応が続いた。 今回の越境攻撃が示すのは、レッドラインを過度に恐れ、反攻の手を縛るべきでないということではないか。 越境攻撃には米高機動ロケット砲システムなどが投入されているが、戦略的に負の影響は見当たらない。米国などは今も国境から遠い露本土に供与兵器を使わないよう制約を設けているが、合理性が問われよう。 インドのモディ首相が23日にウクライナを訪問するなど、停戦・和平を模索する動きも出ている。だが、プーチン露大統領を真摯(しんし)な交渉に引き出すには、ウクライナの軍事的優勢が絶対に不可欠だ。 11月の米大統領選の行方にかかわらず、先進7カ国(G7)は米国を支え、肩を並べてウクライナ支援を続けねばならない。自民党総裁選の候補者には、岸田文雄首相が率先して示したこの姿勢を引き継ぐことが求められる。
2024.08.29
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地獄への道を掃き清めるMDS。(社会主義幻想)(護憲幻想)ズブズブの(反省する勇気)のない彼らは要らない!! 2024-8-27 はんぺん リベラル???のMDSのホームページを久しぶりに覗いてみた。MDSは、民主主義的社会主義運動という、超極小の社会主義政党だ。 「千葉・流山市議会議員の阿部治正さんはウクライナ戦争の本質を「資本家勢力・帝国主義的勢力との闘い」と規定し、ロシア、ウクライナ両国の労働者への弾圧状況を説明。」(2024年07月26日 週刊MDS 1831号) 何と言うことだろう・・・この市議の世界認識は、あの古臭い(社会主義幻想)に(洗脳)されたままの・・・(生きた化石)だった・・・ 彼ら社会主義者たちが、「資本家勢力・帝国主義的勢力との闘い」を目指しているとすれば、大昔の(社会主義)対(資本主義・帝国主義)という冷戦思考そのものではないか? ソ連・東欧の社会主義世界体制が、崩壊して、もう35年近くにもなるというのに、まだ、こんな時代遅れの(運動)を続けている。何度も言ってきたが、「世界はいま、全体主義体制と民主主義体制のせめぎあいの中にある。この新冷戦時代の帰趨は、人類の未来の浮沈に決定的な関わりがある」と。 「主催者を代表し立山正隆さんは「ロシアの侵攻には反対、撤退すべき。だがロシアの撤退を待ってからの停戦では人命がどんどん奪われていく」と人権尊重、人命優先のための即時停戦を訴えた。」(週刊MDS 1831号)これって、説得力があるの?? 前から、このブログで、何度も書いてきたが、戦争(紛争)というのは、必ず相手がある・・・こちらが、いくら(非武装だ)、(中立だ)と叫んでも、相手がそれをどう受け取るか? それが、現実なのだ。 今回のウクライナ侵略戦争では、ロシアという軍事大国が、一方的に、ウクライナという主権国家を軍事侵略して、始まったのだ。これを忘れるな!!いくら平和国家を標榜していても、相手の有無を言わせぬ侵略が起こりうるという事が、証明された。 この立山正隆さんの(誤り)は、口先だけで「ロシアの侵攻には反対」と言いながら、それが、非現実的である事を前提に、「ロシアの撤退を待ってからでは、遅い・・・即時停戦だ」というところだ。 ロシアの国際ルール違反を認めることで、全体主義の蛮行を容認するという(犯罪的役割)を この立山正隆氏は主張しているのだ。 何と言うことだろう・・・これが、全体主義の蛮行を容認せよというリベラルの現実の姿なのだ・・・・ さらに悪質なのは、「和田春樹さん(東大教授)は「ウクライナ戦争、ガザ戦争を即時停戦させ、東アジアに戦争が拡大することを阻止するのが、平和反戦運動の原則」と強調し、岸田政権の日米軍事同盟強化、軍事費拡大の戦争推進政策を批判した。」(週刊MDS 1831号)・・・とある。・・・そんな平和運動の原則などは、僕は聞いたことが無い・・・一般論として言えば、東アジアだけではなく、世界全体に、戦争が拡大するのを防ぐのが、原則?ではなく、果たされるべき理想だろう。 この和田春樹氏は、以前、慰安婦問題に、間違った慰安婦支援運動に関わったり、日本人拉致問題解決について、戦後補償の問題とすり替えて、辻元清美氏と同じ間違いを犯してきた事で有名な リベラル?学者だが、この時の自己批判を僕は聞いたことが無い・・・??? この和田氏は、今回の集会では・・・「ウクライナ軍事支援の必要性やウクライナの徹底抗戦を唱える評論家の意見にも厳しく批判。「(これらの意見は)戦争継続、拡大の主張になっている。日本は仮に侵略を受けても武力抵抗はありえない。非武装で抵抗しなければならない」と強く訴えた。」(週刊MDS 1831号)・・・・とのことだったようだ。 「非武装で抵抗しなければならない」なんて、よく言うよ!! と思うが、これが、日本リベラルたちの(真実)だ。「非武装」で、どんな「抵抗」をするのか? できるのか? この和田氏に聞いてみたいものだが、今の東アジアの緊張状況の中で、全体主義(中国・北朝鮮・ロシア)に取り囲まれている中の日本が、どんな抵抗ができるのか? さらに悪質な事に・・・「しかし、ICJ、ICCには判決の実効性が乏しいなど限界がある。ではどうやって、多額の国家予算で常備軍、軍需産業を育成している国々に対抗するのか。前田さんは「その限界を乗り越えさせる世界の民衆運動が必要」と述べ、「ピース・ゾーン」を提起。その一つとして「無防備地域運動」を挙げ、さらに抑圧されている東アジアのマイノリティとの連帯を訴えた。」(週刊MDS 1831号) ・・・何を寝ぼけたことを言ってるのだろうか? 「その限界を乗り越えさせる世界の民衆運動が必要」って、なんだ??「ピース・ゾーン」を提起・・・って、現実性のない提起は、必要ないだろう。目の前の脅威に対応が迫られている時に、能天気な「ピース・ゾーン」なんて、ゴマカシそのものだろう・・・さらに悪いことに、ボロボロにされた、あの「無防備地域運動」が出てきた。 大昔、MDSが、大々的に取り組んだ(あり得ない方針)だったが、非現実そのもので、まったく相手にされなかったという いわくつきのモノだ。こんな大昔の論破され、潰された「方針?」が、まだウロウロしなくてはならないMDSって、いったい何だ??? というか、本当に現実を見る気があるのか? 未だに(幻想)の中を浮遊しているかのように、僕に思えるのだが・・・どうだろう。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――――【これ以上 人を殺すな!/ウクライナ戦争 ガザ・ジェノサイドをただちにとめよう/東京でシンポジウム】 2024年07月26日 週刊MDS 1831号http://www.mdsweb.jp/doc/1831/1831_45y.html ウクライナ軍兵士の死者はゼレンスキー大統領の発表(2月)で3万人を超え、ロシア軍兵士、ウクライナ市民を含めた死傷者数は50万とも言われる。 主催者を代表し立山正隆さんは「ロシアの侵攻には反対、撤退すべき。だがロシアの撤退を待ってからの停戦では人命がどんどん奪われていく」と人権尊重、人命優先のための即時停戦を訴えた。 東京大学名誉教授の和田春樹さんは「ウクライナ戦争、ガザ戦争を即時停戦させ、東アジアに戦争が拡大することを阻止するのが、平和反戦運動の原則」と強調し、岸田政権の日米軍事同盟強化、軍事費拡大の戦争推進政策を批判した。 ウクライナ軍事支援の必要性やウクライナの徹底抗戦を唱える評論家の意見にも厳しく批判。「(これらの意見は)戦争継続、拡大の主張になっている。日本は仮に侵略を受けても武力抵抗はありえない。非武装で抵抗しなければならない」と強く訴えた。また、和田さんは、出征した恋人を想うロシアの歌曲「カチューシャ」をロシア大使館前で歌う運動を提案した。 しかし、ICJ、ICCには判決の実効性が乏しいなど限界がある。ではどうやって、多額の国家予算で常備軍、軍需産業を育成している国々に対抗するのか。前田さんは「その限界を乗り越えさせる世界の民衆運動が必要」と述べ、「ピース・ゾーン」を提起。その一つとして「無防備地域運動」を挙げ、さらに抑圧されている東アジアのマイノリティとの連帯を訴えた。 千葉・流山市議会議員の阿部治正さんはウクライナ戦争の本質を「資本家勢力・帝国主義的勢力との闘い」と規定し、ロシア、ウクライナ両国の労働者への弾圧状況を説明。「ロシア・ウクライナ・欧州の労働者は連帯して、それぞれの国の戦争勢力・支配層と闘おうと呼びかけている」とイタリア、イギリスの労働者の闘いを例に挙げた。 沖縄から遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さんがオンライン報告。「米軍も自衛隊もミサイルを持って琉球弧から出ていくのが、沖縄、日本を戦場にさせない道」と力を込める。 三多摩、横浜の地域の平和運動の取り組みが紹介された。沖縄の辺野古新基地建設―土砂搬送をめぐる交通事故(警備員死亡、抗議女性重症)について、正確な報道、情報公開を求める発言もあった。 集会アピールとして「非戦による平和の追求」「これ以上 人を殺すな! 命を奪うな!」などを世界に発信することを誓った。特別アピールで目前の2024ZENKOが呼びかけられ、実行委員会事務局から「日本の軍事支援は許さない」「非暴力で戦争のない社会をつくろう」と宣言し終了。
2024.08.27
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「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ④ 2024-8-23 はんぺん・・・・・遠山美枝子は、なぜ、山(アジト)に入ったのか? 1971年12月1日、遠山美枝子は、山(アジト)に入り、帰ってくることは無かった。なぜ、山(アジト)に入ったのか? は、著者(江刺)のこの本の目的の一つだが、答えは、この本の中にあるようだ。遠山は、高原浩之(最高幹部)と、結婚して、中絶もした。逮捕者・脱落者が続出して、組織(赤軍派)が崩壊しつつある中で、トップの妻が、自分だけ抜ける事は出来なかったのだろう。 獄中の高原(夫)や、最大の同志であり理解者(重信房子)の中東脱出という状況の中で、孤独と戦っていたと思われる。連合赤軍トップに上り詰めた森恒夫に対しては、遠山美枝子は不満を感じつつも、山(アジト)の軍事訓練以外の選択肢は、考えられなかった・・・と著者(江刺)は言いたいのだと思う。 そう、彼女は、重信房子とは対照的に、真面目で、おとなしくて、静かだった・・・と多くが認めている。その彼女が、なぜ、「山」に入ったのか?誠実な人間だったから、理論的にではなく、状況的に(!)自分を追い込んでいったモノと思うしかない。 小柄で華奢な彼女に務まりそうもない雪山の訓練に参加したのはなぜなのか?「美枝子は思いつめたら、そこから逃れられないタイプだった」(夫:高原)1971年の晩秋、遠山は、山(アジト)に入り、帰ってこなかった。 「赤軍派が結成される前、第2次ブントが勢力を伸ばしていた1967年頃、村田・蔵本・重信・遠山らは同志だった。しかし、69年に(7.6事件をキッカケにして)ブントが分裂して、塩見孝也や高原らが赤軍派を結成したとき、去就は分かれた。生死の岐れ道だったともいえる。「あのとき あっち(赤軍派)に行っていたら、わたしは今、生きていないかもしれない」と言う人に何人も会った。」(P13) 同志だった村田(早稲田大のブント活動家で、明治大にオルグに入り重信や遠山を指導した)だが、分裂時には、赤軍派には行かなかった。 「わたしは赤軍派には行かなかった。何人か相談にきたけど、自分がいかないのがせいいっぱいで、止めなかったんだ。」(P13)「遠山さんに謝罪するとすれば、止めなかった事だ。遠山さんにマムシ(村田のあだ名)どうするのって聞かれたが、自分がわからないのに人を止める自信はなかった。山(アジト)に行ったあとも彼女はわたしが後追いでくると思っていた。彼女は、なぜ行ったかって? 赤軍派の理論じゃない。何となく行ったんだと思う。」(P14) 村田は、50年近く、自らに問い続けてきた苦悩を滲ませながら、「あの事件が怖いのは、自分が加害者になっていたかもしれないということですよ」と繰り返した。(P16) クラケン(蔵本健、明大2部やブントの活動家仲間)が、言葉を継ぐ。「僕は早い時期にブントを離脱したから、赤軍派には行かなかった。(中略)あの頃、どこの党派に行くかというのは、理論とか、あの本を読んで感動したからというんじゃない。人的なつながりですよ。誰かに奢ってもらったから、その党派に行ったという人もいるから」(P14) 高原夫妻(美枝子の死後、高原は美枝子の双子の姉と結婚した)を筆者(江刺)に引き合わせたのは、西村朱美。 彼女は、大手前高校(中核派系の反戦高協の拠点校だった)出身の山崎博昭(羽田闘争で死んだ)の同級生だった。彼女の進学先の明治大は、中核派ではなく、社学同(ブント)の拠点校だった。 「山崎君が京大に行って中核派だけど、わたしが入った明大の政治学研究会は、中核派とは違う風が吹いているなと思ったら社学同系だったの。だから のちの赤ヘル系になった。党派選びは、そんなものだったかも・・・」(P18) これらの発言は、2018年3月18日の遠山美枝子の墓参時に、著者が、参列者から聞き取ったモノだ。50年近く後の(昔:活動家)の生々しい記憶に基づいているが、(青2才)だった当時の活動家たちの(革命ごっこの無責任さ)を強く、強く指摘しておきたい。 (命を懸けた革命?)が、そんないい加減な動機で始められたのか?そんな党派選びで、運動をはじめ、学生大衆を(無責任に)扇動していたのか!! 僕は、はらわたが煮えくり返るほどの憤りを感じている。これまでの僕のブログでは、そのあたりは、相当に指摘している。 高野悦子も、山崎博昭も、遠山美枝子も・・・みんな(未熟)だった!「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」「未熟であること・・・人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全であり その不完全さを克服しようとするところにあるのだ」(二十歳の原点:高野悦子) 「マルクスがさあ・・・」だの「レーニンの原理は・・・」などとブッテいる活動家がどこまで、その理論を正確に理解しているか? 誰にも分からないが・・・僕は、いつも怪しげさを覚えていた・・・が、そんなものなんだ・・・と、僕自身が、その無責任さの中に埋没して、それで良し・・・と安易に考えてしまったが、その怪しげさの行きつく先が、多くの悲劇的結末だった。 また「学生集団でも党派でも 指導し、支配するのは男、受け身で支配されるのは女という構図ができあがった。(略)人間解放を掲げた全共闘運動でも 女性解放の視点はほとんどなかった。」(P240) 「新左翼党派の中でも最左派の赤軍派は、徹底した男性優位集団で、男性幹部を家長とみなし、活動歴の多少、年齢の上下でヒエラルヒーがあり、女性はひっくるめて幹部である家長の命令に従わなければならなかった。」(P243) これが、日本で「革命」を起こそうという集団の(真の姿)だった。いかに、取り繕うとも、空文句ばかりの烏合の衆だった。中身の無い自称革命家気取りで、多くの若者たちを 地獄に誘いこんでしまったのだ。重信も含めた彼ら、彼女らの(犯罪)は、限りなく糾弾されねばならない!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん
2024.08.23
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「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ③ 2024-8-22 はんぺん 赤軍派は、京都大、同志社大、大阪市大など、安保ブンド(社学同)の拠点校を中心とした関西グループと 関東では、東京の明治大2部、多くの高校生を集めて、1969年9月に旗揚げした。 69年後半から71年にかけて、次々と過激な闘争を実行したが、成果のあがらない中、幹部や中央軍兵士が逮捕され、崩壊状態になっていくが、永田洋子たちの京浜安保共闘(革命左派)と組んで、連合赤軍を結成する。 「この頃の新左翼の党派間では、実現不可能だが、より過激な主張や戦術を主張するほど 人が集まるという傾向があった。赤軍派の「過渡期世界論」「世界根拠地論」が若い活動家に受けて、多くの若者が赤軍派のもとに結集した。 ハイジャック事件の「成功」は、新左翼各派から称賛されている。 プロレタリア革命を目指す以上、労働者の支持が不可欠だが、赤軍派に呼応した労働者は関西に少数いただけ。大半が、学生、それも闘争経験がほとんどない未熟な高校生が多いというのが、70年以降の赤軍派の実態だ。」(P191~192) 「戦力の衰えた赤軍派は、1970年末頃から政治路線の異なる日本共産党革命左派(京浜安保共闘)との合同を探り始めている。革命左派は、日本共産党革命左派神奈川県常任委員会が、正式名称で、通称 革命左派。その大衆組織が、京浜安保共闘である。毛沢東思想を信奉する革命党で、武装闘争を中心に活動してきた。(P212) 71年2月、獄中の最高指導者 川島豪を奪還するために、栃木県真岡の銃砲店を襲い、猟銃や縦断などを奪った。警察から指名手配されたリーダーの永田洋子らは、しばらく北海道で逃亡生活を送っている。 一方、赤軍派は M作戦で資金を得たものの、武装蜂起のための武器がない。資金の乏しい革命左派と武器が欲しい赤軍派が合体。 この年の暮れには、赤軍派軍事組織の「中央軍」と、革命左派の軍事組織である「人民革命軍」が、統合されて 連合赤軍となった。(P212) (革命ごっこ)も、ここまで行くと、(妄想)では済まされない。狂気の世界ではないか?? 戦後間もなくの1951年ころ、(今にも革命が起こる!)と言って、日本国内の武装闘争を志向した日本共産党の非合法極左テロ組織が、あの有名な「山村工作隊」だ。農村を拠点とする毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国の建国に成功したのに倣ったものだが、日本の農村で「農村部でのゲリラ戦」を想定したものだったが、暴力革命への支持は広がらなかった 日本共産党の流れを汲んだような、この革命左派。毛沢東の教えに倣っての、あり得ない(革命ごっこ)に、なんと考えれば良いのか? 「連合赤軍から森恒夫、革命左派から永田洋子がリーダーとして、「兵士の共産化」「銃による殲滅戦」を標榜して、71年暮れから群馬県榛名山に山岳ベースを作って合宿、軍事訓練を行った。その過程で、同志12人を「総括」してリンチ、死に至らしめた。 遠山美枝子は、その一人で、72年1月7日に亡くなった。残ったメンバーのうち5人は、「あさま山荘事件」を起こし、逃亡した者も全員逮捕された。(P212)////////////////////////////////////ウイキペディアから・・・ (4全協)日本共産党第4回全国協議会「軍事方針」、1951年(昭和26年)2月米帝国主義者と売国奴に対して頑強不屈の地域闘争を行い、自衛闘争を発展させ、その中から遊撃隊をつくり出し、その発展を指導しなければならない。労働者階級は小部隊による遊撃隊を組織し、敵勢力の武装勢力を分散・撹乱・襲撃しなければならない。 この遊撃隊は、拠点工場や経営と統合し、農山漁村の遊撃根拠地はつねに大都市、大工場と結合し、労働者階級の指導のもとに発展しなければならない。遊撃隊は自らを守り、敵に対して発展してゆくことのできる根拠地をもたなければならない。 遊撃隊の根拠地は第一は地域闘争の中心である大経営であり、つづいては山地・山村地帯である。これらの地域は、数百年前から、農村社会を形作ってきたところであり、革命的な農民運動の歴史さえもっている。その生活は幾重にもはりめぐらされた封建的な圧迫、搾取、容赦ない税金、供出、さらに増大する失業によって、ニ~三年で部落全体が滅亡するところさえ少なくはない。農民は全く滅亡か、革命かに直面している。 これらの山地・山村の根拠地に対しては、大経営の労働者が山村地帯の革命工作を行い、その根拠地をつくらなければならない。例えば、京浜、阪神、北九州、中京、空知、札幌とその背後には、これらの根拠地帯を作ることが絶対に必要である。遊撃隊は、反米救国の民族民主統一戦線発展の武器であり、人民解放軍への発展をめざして行われる。////////////////////////////////////歴史は、無残にも繰り返された。戦後日本の一時代、日本共産党は、この(4全協)の軍事方針のもとに、山村工作隊、中核自衛隊の極左方針を出し、1952年からの1時期だが、地下に潜って、武装闘争を実行した。 (ウイキペディアから)1952年1月札幌の白鳥一雄警部射殺事件、東京・青梅線の貨車暴走事件、東京小河内村の山村工作隊一斉検挙と大小無数の武装衝突事件が起こった[5]。東京のメーデー事件(2人射殺、1,230人検挙)、東京新宿駅前・板橋岩之坂交番所などでの火炎瓶騒擾事件(3人射殺、102人検挙)、大阪の吹田事件、7月7日名古屋の大須事件(121人検挙)といった街頭衝突で、デモ隊は盛んに火炎瓶を投げて警察へのテロを行った[5]。 約20年後の1969年ごろから、赤軍派や革命左派は、理由付けは違えど、同じ「革命ごっこ」を 繰り返したのだ・・・・(狂気)について、よく考える。冷静になれば、あり得ない暴走が、何度も繰り返されてきた。文革での紅衛兵の熱狂、ヒトラーへの熱狂、金王朝への熱狂・・・作り上げられた熱狂であっても、確実に、自分だけでなく、周囲の他人さへも、縛り上げてしまうことの恐ろしさについて・・・ 特に、エリートすらも、冷静さを失わせる、この熱気、狂気は、いったい何だろう・・・(ウイキペディアから)「当時、日本共産党は細胞とよばれる基礎組織を日本全国の学校や党員の職場などで結成していたが、元東京都学連執行部の森田実(政治評論家)によれば東京大学教養学部細胞指導部も中核自衛隊、山村工作隊へのスカウトを行っていた。 遠山美枝子が、仲間から死に至るほどのリンチを受けた末に、亡くなったのが、1972年1月7日。そんれから、52年もが経過した。洗脳と狂気のために、犠牲となった若者たちだが、一切の同情があってはならない・・・といつも思う。 同時に、あの時代に生きた僕も含めて、「私だったかもしれない」と考えることにも、激しく同意する。人間の弱さというよりも、僕は 人間の(限界)だと思うようになっている。あの山崎が、樺が、赤軍兵士たちが、僕だったかもしれない・・・それは、誰も否定しようがない事だ。 「高原(浩之)と同じくハイジャック事件の共同共謀正犯容疑で70年6月に逮捕され、71年は拘置所にいた上原に 遠山(美枝子)が最後に面会にきたのは その年の12月、山(アジト)に入る直前だ。 『そしたら銃による殲滅戦をやるって言うんだ。看守がいるから、うかつなことは言えないけどね、やめとけやめとけ、そんなのできっこないと。客観的にもそんな条件はないと。半分冗談めかしてね。そしたら、僕のあだ名はオバQだから、キュー、それは日和見主義よって言ったの。僕、びっくりしたんよ。そういう言葉で言う人やないからね。 そのあとは話が ちぐはぐになってね。それが最後。ともかく僕は止めたんや。真岡事件の銃のことは知ってたから、そんなもんは油紙に包んで埋めとけと言ったんや。今から思ったら、あんなことを知っていたら、もっと真剣に止めたよ。首相官邸に飛び込んだりするかもしれないから、だめだと』(P224) この本を読んでいて、僕が、一番、許せない言葉がある。遠山の夫で、赤軍派の最高幹部だった高原浩之が、遠山の死の3年後に、遠山から獄中の高原に宛てた手紙の返信「三年後の返信」を書き綴っている・・・その中の一節・・・・・「二人で活動をやめるかやめないかという話になったとき、お互いに じゃあやめようと言えないんだよね。そういう政治路線を共有した上で一緒になったんだから、やめると言ったら離婚することになるから、結局どちらからも止めようとは言い出せずに、やろう、やろうとなるんだ。僕自身、首相官邸占拠、塩見(議長)奪還と言いながら、そんなことできるはずがないと思っているんだから。だけど、あとにひけないんだよ」(P191) 京都大学からきた、遠山の夫、赤軍派の最高幹部の高原浩之が、過激な方針を大衆に訴えながら、その本人自身が何と考えていたのか・・・「そんなことできるはずがないと思っているんだから。」とは・・・・ (青2才)が(青2才)をオルグする・・とは、そういう事だった。こういう無責任な連中に踊らされて、多くの若者たちの人生が壊された、命が奪われた・・・ 以前、このブログで、こう書いた・・・今ごろ「もっと他のやり方があった」(重信房子)と言われても、殺されたものは・・・永遠に浮かばれることは無い。なぜ、彼らを死刑にしないのだろうか? 今でも、強く強く、そう思うのだ。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん//////////////////////////////////// 1969年 7月6日 7.6事件・・・ブント内の凄惨な内ゲバ事件 8月28日 赤軍派結成総会 議長:塩見、政治局員は、高原浩之、田宮高磨ら7名。 9月4日 赤軍派大政治集会(葛飾公会堂) 9月5日 全国全共闘連合結成大会(日比谷野外音楽堂)の参加 9月22日 大阪戦争 交番を攻撃し、48人逮捕 9月30日 東京戦争 交番に火炎ビンを投げ、38人逮捕。 10月21日 国際反戦デー 新宿駅襲撃、パトカー襲撃、ピース缶爆弾使用 10月29日 赤軍派中央委員会で、首相官邸武装占拠計画を決定 11月5日 秋蜂起(首相官邸占拠闘争)の軍事訓練のため、山梨県大菩薩峠の山小屋に、主に高校生活動家らが集められたが、凶器準備集合罪、爆発物取り扱い罰則で、53人逮捕。(大菩薩峠事件) (参考) 大菩薩峠事件(ウイキペディア)事後の捜査によって議長の塩見孝也ら重要メンバーの多くに逮捕状が執行され、赤軍派は大打撃を受けた。逮捕投獄されたメンバーは獄内グループ、獄外は獄外グループと呼ばれた。 獄外グループのうち田宮高麿らは国際根拠地論によりよど号ハイジャック事件を起こし、よど号グループと呼ばれた。また重信房子らは国際根拠地論の連携先にパレスチナ解放人民戦線を選び、テルアビブ空港乱射事件に国際義勇兵として参加し、後に日本赤軍として一連の日本赤軍事件を起こした。 国内に残った獄外メンバーの森恒夫らは京浜安保共闘(革命左派)と融合して連合赤軍を形成し、山岳ベース事件、あさま山荘事件などを起こした。 塩見ら獄内グループは、出獄後に再建グループを形成した。 1970年 1月16日 武装蜂起集会 2月28日 重信房子、パレスチナへ渡る 3月15日 ハイジャックに参加予定の塩見が、逮捕。高原浩之が、最高責任者になる。森恒夫が、指導部に入る。 3月31日 日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡る・・・・中央委員会が、PBM作戦を発案。 P・・・ペガサス作戦で、要人を人質にして、獄中の塩見議長を奪還する。その後、毛沢東統治下の中国に亡命して革命の根拠地とする。B・・・ブロンコ作戦で、日米の政治中枢、ペンタゴンと霞が関を占拠する同時多発テロ。M・・・マフィア作戦で、金融機関を襲って革命資金を調達するというもの。 6月7日 高原浩之(最高責任者、遠山美枝子の夫)が逮捕される。 12月30日 赤軍派と革命左派が、初めて接触1971年 1月 赤軍派中央委員会が、分裂。ゲリラ戦を主張したグルプが排除される。遠山が、革命戦線救援責任者になる。 2~3月 森恒夫の指揮によるM作戦で、千葉・横浜・宮城・米子の郵便局や銀行支店を襲撃。奪取総額は、500万円を超える。 9月14日 統一赤軍結成集会 12月 赤軍派と革命左派、合同軍事訓練を始める。 12月20~21日 新党合意を発表。「連合赤軍」となる。
2024.08.22
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「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ② 2024-8-21 はんぺん 「1967年10月羽田事件の参加者は2,000余人ということで、樺さんが死んだとき、国会を取り巻いた学生、市民、労働者、数十万人とは、ケタが違う。 評論家の大宅壮一が書いているのが、世間の見方の一方を代表している。「日本は、経済的にも安定した中産階級が、国民の9割を占め、レジャームードにすっぽりつかっている。この国に革命が起きると本気で考えている人間が、いったいどれだけいるだろうか」(大宅壮一:『現代』1968年1月号)」(P121) しかし、1967年の10.8羽田事件をきっかけに、学生運動に飛び込んでいった人も多いという。僕は、以前から、ベトナム反戦運動に、高校生として参加していたが、その僕にとっても、この10.8羽田はショックだった。耳目衝動的な(闘い)に憧れて、舞い上がってしまったのだ。 2,000余名の(命を懸けた)学生たちの(闘い)に、感激!して、遅れまじ!!と、気をはやらせる自分がいたのだ。マスコミは、(暴徒)(暴力学生)と一斉に非難を始めたが、それが逆に、僕たちの闘争心を掻き立てたのを、今でも思い出す。 僕は、当時、何もできない高校生だったが、何人かの友人・知人に、(三派全学連支持)の手紙を書きまくったのを覚えている。 ここまで行くと、もはや(催眠術)の類にもなっていくが、多くの(青2才)が、生まれていったのだ。 「この日を境に学生運動に飛び込んでいったという人も多い。事件の翌日から各大学で抗議集会が開かれ、13日には京都大学で学生葬が、行われている。山崎と京大で同学年の上野千鶴子が、初めてデモに参加したのは山崎の追悼デモで、1か月後の第2次羽田闘争に参加したと回想している」(P124) 「山崎博昭は、大阪の名門、大手前高校の出身で、先輩に全国全共闘議長の山本義隆、同級に作家の三田誠広、詩人の佐々木幹朗らがいる。遠山美枝子の母は大手前高校の前身の大手前高等女学校の卒業生である。また遠山の関係者とわたし(江刺)をつないでくれた西村朱美も この学校の出身で、山崎と同級だ」(P119) 「7.6事件」というのがある。それが、1968年7月6日に、起きたからだという。内容(経過)自体は、以前、僕は別のサイトで知っていた。 4.28沖縄闘争の評価(総括)をめぐってのブント内の内ゲバ事件で、この対立が、赤軍派を生んだ。赤軍派の主流は、京大、市大などの関西ブントで、ブント内左派・・・「世界党・世界赤軍・世界プロレタリア統一戦線建設」が、スローガン。それまでの同時多発、火炎ビン、解放区づくりなどは、敗北だったという。関西派が、赤軍派に、関東グループが、ブント主流派・・・という事になった。 この「7.6」の内ゲバ事件が、重信、遠山の在籍していた明治大で起きた。その内容は当事者たちの多くのなまなましい証言があり、(極めて凄惨な)とだけ言っておく。(P151~156) 新左翼内で、初めての死者が出た事件だった。 この場に、重信も遠山も居た・・・だけでなく、(ゲバルトの当事者ではないが)大きく関わっている。この時点では、新左翼の活動家たちのように、彼女らも(正常な判断)が、出来なくなっていたと思われる。 内ゲバ事件の当事者、関係者の心理状態は、そういうものだ。極度の興奮状態が、正常感覚を奪い去ってしまう。 後に遠山美枝子の夫になる高原浩之は、赤軍派最高幹部だった。その彼の言葉が残っている・・・「なぜ内ゲバをするのかって? それはね。ブンドの中で対立があり、あの時、赤軍派フラクは孤立していたんだ。僕らはオルグしても多数派になれない。リンチをするのは自分の位置を守るためにやる。そうでないと組織が維持できないという恐怖感だね。そういう支配の論理が働いている。自分は間違っていないと自分で合理化しながらリンチをやっている」 (P156) ・・・・だそうだ。 この分裂騒ぎの中で、関東グループの中で、明治大2部学生を中心に、10名ほどが、赤軍派に合流したが、その中に重信や遠山が、入っていた。今から思えば、それが、運命の分かれ道だったという事になる。 重信は、ともかく遠山美枝子が、赤軍派に合流したのには、恋人である最高幹部の高原浩之の存在が大きいだろう。遠山は、従って、赤軍派の創設初期からのメンバーだったことになる。 当時の重信や遠山は、ブント内では、連絡アポ、ガリ切り印刷、物資の調達、電話番などの機転の効く雑用(使い走り)で、重宝されていたようで、重信はともかく、遠山が理論的に、赤軍派に共鳴して参加したとは、全く思えない。 僕の経験からもいえる事だが、民学同の第2次分裂(1969年)の時に、僕の支部内で、(当時40数名の同盟員がいたが)、双方が多数派工作を展開したのだが、暗黙の了解の恋人関係の数組があって、別々になるような事は、ありえない雰囲気だった。 そう(理論というより、人間関係)で結びついていた事例を 僕は、相当見させてもらって・・・それも、行きがかり上、仕方がないのかな・・・と思っていた。 『赤軍派議長の塩見が、提唱した思想と方針は「過渡期世界論」「前段階武装放棄」「国際根拠地論」の3つにまとめられている。マルクスの過渡期論にならって、現在(1960年代後半)は、共産主義革命への過渡期にあるとして、その革命の前段階である武装蜂起をする。そして世界革命実現のために海外の労働者国家に渡り、その国をオルグして革命の根拠地にしようという。』(本文) 「証言 連合赤軍」で赤軍派幹部だった八木健彦が語っている。「首相官邸を占拠して、それでどうするっていうのは、普通誰も考えない。我々も考えていない。塩見だけは考えていたの、佐藤栄作(首相)を捕まえて、そこで大衆団交をやるって。(略) イメージとしては、当時としては大学の、全共闘の・・・大衆団交をやったでしょ、ああいうイメージ」 そこで何日か、佐藤栄作を捕まえていれば、日本全国で同志が立ち上がるだろうというイメージだったという。」(P164) 「これが塩見の唱えるところの「前段階蜂起」で「獄中通信1号」によれば、佐藤栄作を逮捕し、人民集会を行い、一切の機動隊を霞が関から撤退させ、政治犯の釈放、安保条約の廃棄、日韓条約廃棄・・・・」などを獲得するのだという。」(P165) あまりにも 阿保らしい、陳腐な発想だが、独善、洗脳とは、恐ろしいと・・・これはもう(妄想)の領域だろうが・・・(青2才)の妄想=革命ごっこに付き合わされて、多くの若者たちが、命を落としたのだ! 「現実には、赤軍派は「大阪戦争」「東京戦争」に取り組んだものの、小規模な闘いに終わり、幹部や高校生部隊(赤軍派には高校生も多かった。洗脳しやすかったのだろう)が逮捕され、脱落者がおおぜい出た。それでも大菩薩峠で武装訓練をして首相官邸を襲撃しようとして、警察に一網打尽にされ、また多くの逮捕者が出た。犠牲者が出ても、中央委員会はさらに旅客機のハイジャックを強行。赤軍派が唯一成功した作戦だと言われるが、乗っ取りメンバーは、目的地のキューバではなく、経由地のつもりの北朝鮮に留め置かれたまま、50年以上が経過している。」(P165) 「荒唐無稽な革命ごっこ」・・・何が、無責任かと言って、彼らの(運動?)には、その後の計画が無い事だ! バリケードスト自体が、解放区づくり自体が、大学解体自体が、自己目的化されて・・・それの実現後のプログラムが無ければ、最後には投げ出すしかないだろう・・・これが、無責任運動なのだ。 僕たちの学園内の運動の中で、彼らトロツキストたちの運動に対する不誠実さ(無責任運動)をイヤというほど、見せてもらった。
2024.08.21
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「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んで ① 2024-8-20 はんぺん 「榛名山山中の山小屋で、『お母さん!』と叫びながら遠山美枝子の命が尽きたのは 1972年1月7日。」のフレーズで、始まる「私だったかもしれない。ある赤軍派女性兵士の25年」(江刺昭子著:インパクト出版)を読んでみた。 著者の江刺昭子氏は、1942年岡山県生まれ、広島県で育った女性史研究家。1960年早稲田大学に入学し、60年安保闘争には、一般学生として、集会やデモに参加したことはあるが、(活動家)ではなかった。70年安保では、べ平連のデモに参加。大学卒業後は、ノンフィクションや女性史研究書などを出版。 今回、地域女性史の共同研究と刊行の一環として、神奈川県の女性史を取り上げたとき、「時代を切り拓いた女たち かながわ」の中で、連合赤軍事件の犠牲者の一人で、神奈川県出身の(遠山美枝子)の足跡を調査し、記録したものである。遠山美枝子は、25歳でリンチ拷問の末、殺されて親の元に戻った。 「わたしは、彼女が活動家になるまでの思想の軌跡、明治大学での活動の実態、連合赤軍兵士として山岳ベースにはいるまでの行動や、考えを跡付けたいと思います。そして、なぜ、山に入ったのか、なぜ、伝えられているような死に方をしなければならなかったのかを、明らかにしたいと思います」(P29) 「今まで、お目にかかった遠山さんの周辺におられた男性も、女性も、口をそろえて「遠山や永田(洋子)や森(恒夫)は、自分だったかもしれない」と言われます。(P29) この(自分だったかも知れない)に共感して、僕は この本を手に取った。僕自身が、のぼせあがった英雄主義よろしく、いっぱしの革命家気取りで、飛び込んでいった、無責任な学生運動。(青2才)が、(青2才)を、オルグ(勧誘)するという(茶番)・・・その犠牲になって、結果として、可能性多き人生をダメにした若者が、多くいた。 大手前高校の山崎博昭の同期生たちは、大学進学後、各セクトに入って活動を始めたが、多くが、賢明にも、その(幼稚さ)や(非現実性)に、見切りをつけて、70年安保闘争のピーク?までには、早々と撤退している(総括無しに?) 僕の入学した大学には、社学同(赤軍派の前身)というセクト(党派)が居た。その中からは、西浦隆男、赤城志郎、森恒夫や田宮高磨(よど号ハイジャック事件で北朝鮮に行き、現地で死亡)のような赤軍派に参加するものが・・・・ この森。田宮の2人とは、(入学年度が、違ったので)面識は無かったが、その当時の社学同市大支部の何人かのメンバーの顔や名前を今でも、よく覚えている。彼らは、今、どうしているのか? と。何人かは、赤軍派、日本赤軍に参加しただろうし、それ以外の多くのメンバーは、見切りをつけたのだろうか?? 弁天橋で死んだ「山崎博昭」について、以前ここで こう書いた。「未熟なことは、罪ではない。それをとりまく環境が、彼、彼女を成長させうるか否かを決める。」あの弁天橋の上で、山崎のそばで(闘っていた?)同じ中核派の誰か別の人間が、代わりに殺されていたこともありうる。それは、人生は偶然の積み重ねと言えることだから・・・・しかし、山崎を弁天橋上に導いたのは、彼の環境の所産だ。彼は、環境に恵まれなかったのだ・・・ 僕は、たまたま、構造改革派のグループからのオルグを集中的に受けたがゆえに、その方向の運動に関わることになったが、もし我が大阪市大に、民青と社学同しか、運動体が無かったら・・・あの当時の僕は、たぶん社学同に、オルグされて、加入させられていたと思う。 (青2才)とは、そういうものだ。物事を正しく理解する下地もなく、多くが、その場の雰囲気(勢い)、人間関係などで、運動に関わっていったのが、当時の状況だった。何という時代だったのだろう・・・と今では思う。 「遠山美枝子や永田(洋子)や森(恒夫)は、自分だったかもしれない」というのは、当時の状況そのものだった。いかに(大義)を振りかざした運動が、いい加減なものであったか!ということなのだ。 それと、舞い上がっていた当時の(活動家)の時代錯誤的な状況認識の(過ち)も、(洗脳)という魔物の前には、見過ごされてしまった。これは、今すぐにでも民衆の怒りが爆発して革命が起きると夢想した極左派=トロツキストだけではない・・・多かれ少なかれ、僕たちにも、共通するものがあったと思う。 (参考)『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ④ https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202112240000/
2024.08.20
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民主的運動の破滅への道を掃き清めた赤軍派の「犯罪」を忘れるな! (青2才)の思い上がり、傲慢が、歴史を後戻りさせた!! 2024-8-10 はんぺん 戦後日本の民主主義運動の隆盛は、あの呪わしい戦争の反発が、大きかったと思う。(天皇制)を中心とした全体主義・・・支配する天皇、服従する国民=臣民という、基本的人権などの保障も無い、前近代的な軍国主義体制からの(解放!!)という側面が大きかった。 しかし、これは、他力本願的、すなわちアメリカを中心とした連合国軍による(解放)であり、日本人が自力で勝ち取った(解放)では、無かった。 これが、戦後の(天皇制維持)への布石ともなり、護憲運動の(間違い)の布石となっていく・・・・ そのことは、戦後すぐの、ヒロヒト(裕仁)の全国行脚(巡行)における、日本人の熱狂的な歓迎からも、明らかだった。(天皇制)による(洗脳)は、健在だったのだ・・・・ 戦犯ヒロヒトは、確信的な犯罪者であり、本来「厳罰」に処せられれなければならない人物だったが、(戦後の占領政策で利用価値あり)とのGHQ(占領軍司令部)の判断で、東京裁判にかけられることも無く、幸運にも生き延びて、ぬくぬくと、寿命を全うしたのだ。 戦争で、犠牲となった2,000万以上のアジア民衆、230万人以上の日本国民、多くの障害者たちにとっては、恨み骨髄のハズの極悪人だが、戦前からの徹底した(洗脳工作)で、正しい判断ができなくさせられてきた多くの日本人は、未だに、その(洗脳)の中で、生活を営んでいる・・・・ 僕たちの時代でもあった、1960年~1970代は、リベラル派が、大きな影響力を持っていた時代だった。多くのインテリは、だいたいが(左翼)で、当たり前。体制派の(御用学者)、権力に媚びる学者は、総じて、評価が低かった。 このような風潮の中で、学生運動の掲げる(反戦平和)(ベトナム戦争協力反対)は、(護憲=平和憲法守れ)とともに、ごく普通に受け入れられる土壌があった。 そして、運動の主体は(社会主義幻想)にズブズブに(洗脳)されたマルクス・エンゲルス・レーニン信奉者たちで、彼らは、労働組合や学生運動団体などの指導部(リーダー)の立場で、活動していた。 現実の社会主義の抱える矛盾の多くが、鉄のカーテン・竹のカーテンで、隠蔽され、知らされることが無い中、(未来は社会主義の時代)だと、誤認識させられていった。(僕も、その中の一人であった事を認識できたのは、ずっと後の事だった) (青2才)たちによる、多くの殺人も含めた惨劇は、このML主義=全体主義に端を発していることが、今や、誰の目にも明らかとなっている。 今や後期高齢者に到達しようという僕たちの(人生総括)は、決して楽しいモノでは無い・・・どころか、苦虫をかみつぶした困難さを伴うが、避けては通れない・・・ 生きた証(あかし)として、正々堂々と、(人生総括)に取り組んでもらいたい・・・のだが、僕の友人知人の多くは、見て見ぬ振りか? 居直り? を決め込んでいる・・・このまま、スルーして、人生を終えようとしているのか? 僕は、目や耳を疑うばかりだ・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――――あさま山荘事件:連合赤軍がたどり着いた悲惨な結末2022.02.19 三木 武司 ニッポンドットコム 1972年2月19日、連合赤軍の銃を持った若者5人が「あさま山荘」に人質を取って立てこもった。当時は全共闘運動が勢いを失い、一部の過激派が武装化していく時代だった。あれから半世紀、「あさま山荘事件」とは一体何だったのか──。//////////////////////////////////////////////////// 赤軍派と革命左派の関連年表1958/12/10 共産主義者同盟(共産同)結成1959〜60 60年安保闘争1969/4/12 「革命左派」結成 8/28 共産同が分派して「赤軍派」結成1970 70年安保闘争 3/31 よど号ハイジャック事件1971 7/15 赤軍派と革命左派が合体して「連合赤軍」結成 8/4、10 革命左派 脱走した女1人 男1人を殺害、印旛沼に埋葬1972 1/2 連合赤軍 28人のメンバー(うち3人はこの時点で既に死亡)が 群馬県・榛名山の山岳ベースに集結 2/19 あさま山荘に連合赤軍の5人が籠城 2/22 民間人1人が銃撃され、3月1日に死亡 2/28 強行突破で5人を逮捕 警察官2人が殉職 3/7 リンチ殺人の最初の犠牲者の遺体発掘 25日までに14人の遺 体を発掘 5/30 テルアビブ空港乱射事件(後の日本赤軍グループ) 24人死亡 (犯人を含めると26人)76人重軽傷1974 12月 「日本赤軍」結成1975 8/4〜5 クアラルンプール事件(日本赤軍) 米大使館・スウェーデン大 使館を襲撃1997 2/15 レバノンに潜伏中の日本赤軍メンバー5人を一斉検挙 同国へ の政治亡命が認められた岡本公三を除く4人を逮捕2000 11/8 日本国内に潜伏中の重信房子を逮捕2001 4/14 重信が獄中から日本赤軍解散宣言/////////////////////////////////////////////////// 「あさま山荘事件」は、今から50年前の1972年2月19日に起きた。銃を携えた5人の若い男が長野県軽井沢の河合楽器の保養施設・あさま山荘に侵入、管理人の妻(31歳)を人質にとり10日間にわたって籠城、包囲する警察・機動隊に対して発砲を繰り返した事件である。 10日目の2月28日に警察側が強行突入に踏み切り、人質は無事救出されたものの、警視庁第2機動隊隊長と特科車両隊の中隊長が銃撃され殉職した。さらに4日目の22日に警備の虚をつき山荘の玄関に行った民間人が刑事と見なされて銃弾を受け、入院中の病院で3月1日に死亡、犠牲者は3人に及んだ。 28日の午後6時過ぎ、警察側からの催涙ガス弾攻撃や水攻めに最後まで抵抗を続けた5人は、山荘に入り込み機をうかがっていた機動隊員によって射殺されずに逮捕された。 5人は警察が行方を追っていた「連合赤軍」のメンバーで、坂口弘(25歳)、坂東国男(25歳)、吉野雅邦(まさくに、23歳)、加藤倫教(みちのり、19歳)、加藤元久(16歳)だった。坂口がリーダー格で、2人の加藤は兄弟であった。 最も過激な極左集団 連合赤軍とはどのような組織であったのか。その成立は1971年7月15日、「共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)」と「日本共産党革命左派神奈川県委員会(革命左派=京浜安保共闘)」の軍隊が連合したものである。 連合と言っても、赤軍派はこの時期には縮小してしまっていたし、革命左派はもともと小規模の集団だったので、実状は弱小、弱体化した組織の合体であった。両派とも学生運動の行き詰まりを感じた多くの学生が左翼運動から距離を取り始めた時期に非合法闘争を目指して結成されたため、当時の新左翼組織の中では最も過激な極左セクトとして警察からマークされていた。 赤軍派の母体は、1959〜60年の安保闘争をけん引した共産主義者同盟(共産同)である。共産同はブントとも呼ばれ、日本共産党に反旗を翻した島成郎(しげお)を中心に1958年12月10日に結成された組織である。赤軍派は1969年に結成され、議長の塩見孝也の理論に基づき世界同時革命を目指し、その前段階としての武装蜂起を企て、「国際根拠地」を建設する目的で、翌年に日本初のハイジャックである「よど号ハイジャック事件」を起こしていた。 革命左派は、マルクス・レーニン主義同盟派(ML派)の河北三男がマルクス主義戦線派(マル戦派)の川島豪(つよし)を誘って1966年4月に生まれた研究グループ「警鐘」に、日本共産党から除名、もしくは離党したメンバーが合流した組織である。 毛沢東を信奉し、「反米愛国」をスローガンに掲げ、「銃のみが政権を生み出す」といった毛沢東理論に基づき、銃砲店から猟銃、散弾実包などを強奪する事件を起こしていた。 悲惨な山岳ベースでの共同生活 公安当局の見解としては、この2つの組織が合体することは野合以外には考えられず、それだけに両派は追い詰められていたと言えよう。 しかし、赤軍派には「M作戦」と称した金融機関への連続襲撃で強奪した現金が、革命左派には銃砲店から強奪した鉄砲と銃弾があったので、相互に連合することのメリットはあった。 連続金融機関強盗事件、猟銃強奪事件により、多くのメンバーの逮捕や指名手配、「アパートローラー作戦」と称する警察の徹底的な捜索を受け、もはや都市部での潜伏は困難と判断した彼らは、山岳にベースを設営し山での集団生活を送ることとなった。 最初は、赤軍派、革命左派、それぞれ別の場所に集まった。1971年11月下旬以降、両派は群馬県の榛名山の山岳ベースに順次集結し、名実ともに連合赤軍としての共同生活を始める。 この時点での陣容は赤軍派が男8女1の計9人、革命左派が男10女9の計19人、総勢28人となるはずであった。しかし全員が榛名山ベースにそろう前に、「総括」を求められた男2女1の計3人が死んでしまったのである。「総括」は、革命戦士としての資質を問題視されたメンバーが資質向上を目指して「自己批判」を行って、戦士としての精神的な脆弱(ぜいじゃく)さを克服していく行為である。 その後ノンセクト(セクトに属していない)の男1人が加わり、最終的に29人のメンバーが山岳ベースに集まったことになる。正確な人数は、夫婦メンバーの生後間もない乳児がいたので、30人だ。 追い詰められた5人が籠城 さかのぼって1971年8月、革命左派は最初の山岳ベースおよび調査地から脱走した男1女1の計2人を殺害、遺体を千葉県・印旛沼に埋めていた。 榛名山ベース終結後に死亡した男8女4の計12人を合わせて総数14人もの命が失われるといった凄惨(せいさん)極まりない事態を招いた原因は何だったのか。 その流れを追ってみる。まずは、赤軍派の指導者である森恒夫(26歳)がヘゲモニー(主導権)を握ろうと画策、これに対して革命左派の委員長であった永田洋子(ひろこ、26歳)が赤軍派唯一の女性メンバーの態度を問題視する。 この切り返しを受けた森が、革命戦士となるための「共産主義化」を求めていく。森が求めた共産主義化とは、革命戦争という殲滅(せんめつ)戦を戦い抜くための資質を備えた革命戦士の養成といった考えに基づくもので、その方法として、問題視したメンバーに「総括」を要求していくものであった。 やがて「総括を促すための援助」と称して暴力が行使されることになり、総括をやりきることが出来ず「敗北死」と見なされて死んでいった者、リンチ的な暴力を加えられて死んでいった者、ついには「死刑」を宣告されて殺害された者など、12人もの同士が死んでいくに至ったのである。 こうした事態を招いた要因としては、政治面での両派の統一をなおざりにしたツケ、指導者(リーダー)の資質、力量不足、それを是正できなかった指導部(森、永田、坂口、坂東、吉野を含む7名)、盲従せざるを得なかった非指導部、極寒の山中という過酷な環境、乏しい食料状況などが考えられる。 総括が延々と繰り返される中、男2女2の計4人が機を見て次々と脱走。そのうちの女1は乳児の母親で、もう1人の女は残された乳児を連れて山を下りた。 その後、森、永田を含む男2女2の4人が、警察の目を逃れるために榛名山ベースから迦葉山(かしょうざん)ベースを経て最後に行き着いていた妙義山の山岳ベースを撤去する直前に逮捕された。 残った男7女2の計9人が妙義山ベースを脱出、山越えをして軽井沢へ入る。買い出しに行った男2女2の計4人が軽井沢駅で逮捕され、最後まで残った5人があさま山荘にたどり着き籠城したのである。赤軍派の坂東、革命左派の坂口と吉野、加藤兄弟だ。 事件後に新左翼運動が後退 5人全員が射殺されることなく逮捕されたのは、後藤田正晴・警察庁長官(当時)が、「犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く」と指示したからだ。 ベトナム戦争の真っただ中の時代。日本は米国に加担していると、反戦運動やベトナム人民支援の運動が学生を中心に高まり、また世間も彼らを支援する風潮が強かったからである。 あさま山荘事件までは、過激な連合赤軍の行動に対して共感を示す声もあった。しかし事件後に発覚した仲間14人の粛清は、その後の新左翼運動に加わる者を尻込みさせてしまうことになる。そして大衆から見限られて、すっかり衰退してしまうのである。 国外に活動の場を求めた赤軍派 赤軍派には前述したように国際根拠地作りの名目で国外へ活動の場を求めるメンバーがいた。あさま山荘事件が起きる前の1970年3月31日に、日航機よど号をハイジャックし、4月3日に北朝鮮へ行き着いた田宮高麿(たかまろ)ら9人のメンバーである。 さらに赤軍派の古参女性メンバーの重信房子は、1972年5月30日に「テルアビブ空港乱射事件」を起こした3人のうちの1人で、手榴弾で自爆死した奥平剛士(つよし)と1971年2月2日に偽装結婚。 これは公安に知られている本名ではパスポート取得が不可能だったためだ。そして2月28日、国外へ脱出し、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に加わった。 重信は後に「日本赤軍」を組織する。重信は連合赤軍の指導者・森恒夫とは相いれず、森が指導することになった赤軍派に見切りをつける格好で国外に活動の場を求めたのである。 この時期の赤軍派は、「よど号ハイジャック事件」前の1970年3月15日に逮捕された塩見孝也議長が指導していた初期の赤軍派と区別して第2次赤軍派とも呼ばれる。 1974年の12月に結成された日本赤軍は、1975年8月4日に在マレーシアの米国大使館、スウェーデン大使館を占拠。人質解放の交換条件として、あさま山荘事件などで公判中の坂東国男らを奪還する「クアラルンプール事件」を起こした。 この時の超法規的措置で坂東は釈放され、国外に脱出して今なお国際手配中である。吉野は無期懲役囚として服役中、加藤兄弟は刑務所と少年院からそれぞれ出所・退院している。 あさま山荘事件のリーダーだった坂口弘は、クアラルンプール事件の際、釈放を求める犯人との国際電話で「自分は行かない。武装闘争は間違った闘争との結論を出しています」と言って出国を拒否、後に死刑が確定し東京拘置所に収監されている。坂東が逮捕され刑が確定しない限り、坂口の死刑は執行されない。連合赤軍事件は今もって未解決なのである。 ―――――――――――――――――――――――三木 武司著述家。1958年、香川県高松市生まれ。九州大学理学部生物学科卒業後、西南学院高校で時間講師、香川県立高校で教諭として勤務。2019年に定年退職後、著述業に専念。著書に『連合赤軍の時代』(彩流社、2021年)など。
2024.08.10
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自分たちの犯した(犯罪)の重さを認識できないエセ革命家たちには、愛想が尽きる。真摯に(罪)に向き合え!! 2024-7-21 はんぺん 府中刑務所(東京都府中市)で、日本赤軍元メンバーが、亡くなったという。1986年の「ジャカルタ事件」と言われても、僕は、もちろん覚えていない。というか、また、馬鹿な事をした連中の仕業など、どうでも良いと思うのが、普通の神経だろう・・・ 1986年の「ジャカルタ事件」・・・1986年5月14日、ジャカルタのアメリカ大使館と日本大使館にロケット弾が発射され、カナダ大使館前の車が爆破された。事件後に東京、ロンドン、パリ、ローマなどの報道機関に「反帝国主義国際旅団」からの犯行声明が届いた。 その後の現場検証で発射元のホテルの部屋から日本赤軍メンバーの城崎勉の指紋が採取された。日米捜査当局は日本赤軍の犯行と断定した。 多くの人々を傷つけて、自分たちが(革命の英雄)だと、舞い上がっていたのだろうが、この男も、実は、分別の無い、世間知らずの凡人だったことは、あの日航ハイジャック事件で、北朝鮮に(逃げた!)日本赤軍(兵士?)たちの言動からも、明々白々だった。 また、あのお騒がせの中心人物=重信房子(日本赤軍)の言動からも、明らかだった・・・革命的な空文句を弄しながらも、皆(青2才)だったのだ。 その彼らが、多くの人命を・・・関係ない人まで奪い去った(罪)は、あまりにも大きすぎた・・・・ なぜ?重信房子を死刑にしなかったのか? 僕は、今でも不思議に思う。彼らの日本赤軍が(テルアビブ乱射事件も含めて)犯した(犯罪)は、万死に値する・・・と、いまでも思う。 この城崎勉という男・・・日本赤軍元メンバーは、その洗脳により、貴重な人生の大半を獄中で過ごすことになってしまったワケだが、彼らが犯した(犯罪)は、結果責任であるかぎり、許されることは無い。 (重信も含めて)元赤軍指導者が、自分たちの犯した(犯罪)を、いったいどれだけ認識できているかは、刑務所から、出所後の言動を見れば、明らかだ。僕は、今でも、怒りに震えている!!!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――日本赤軍元メンバーの城崎受刑者が死亡。ジャカルタ事件(1986年)に関与 2024-7-21 朝日新聞デジタル 1986年にインドネシアの日本大使館に爆発物が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」で、殺人未遂などの罪で懲役刑が確定し、服役中だった日本赤軍元メンバーの城崎勉受刑者が20日、府中刑務所(東京都府中市)で亡くなった。関係者への取材でわかった。夕食時に食べ物をのどに詰まらせ、そのまま亡くなったという。 城崎受刑者は日本大使館と同日にジャカルタの米大使館が砲撃された事件についても、米連邦地裁で禁錮30年を言い渡され服役。釈放後の2015年、ジャカルタ事件に関与した容疑で警視庁に逮捕され、その後有罪が確定した。 朝日新聞社
2024.07.21
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民学同(DSL)の思い出・・・つらつらと。 2024-7-7 はんぺん 昔、関西を中心にした「民学同」(民主主義学生同盟)という学生組織があった。中ソ論争のさなかに、日本共産党を除名された学生党員や、そのシンパ(共鳴者)学生を中心に、1963年に大阪の地で結成されたという。 民学同は、その後、大阪を中心に、セクト主義(自組織ファースト)の日共系の民青や民主主義的ルールを平気で逸脱して、蛮行(暴力)を積み重ねて恥じない(3派全学連=社学同・中核・社青同)の偏向を乗り越えて、力をつけていく。 1968年4月に、入学した僕は、すぐに、この組織に加盟して、1970年6月23日まで、2年2か月ほど、活動した。不断に動揺を繰り返しながらの(青2才)の僕たちだった。もっと謙虚に、石橋をたたいて熟考して、行動するべきだった・・・今から思えば・・・だが。 足が地に付かず、目の前に提示されるスケジュール闘争に翻弄されまくり、足が地に着かないまま、1970年の脱盟まで、無責任な言動が続く・・・ そもそも1968年5月の僕の加盟が、不自然だった。入学後、4.28沖縄闘争での民学同左派(共労党派)による教養部ストの提起や御堂筋デモでの実力闘争で、批判的な意見を持っていた僕。 それを民学同右派(日本の声派)が、喉から手が出るほど欲しがっていた新入生の活動家の有力候補として、僕に目を付けた。5月に執行された中央執行委員選挙で、僕をオルグして、候補者として担ぎ出した。 前年の羽田闘争、1月の佐世保闘争で、舞い上がっていた僕は、大した準備も無く、(「学生運動をするために、大学に行きます」と高校卒業時に宣言した)、それなりの(愚かな期待)を持って、法学部に進学した僕・・・・は、ひとたまりも無かった・・・と言いたいところだが、現実は、そうでは無かった!! 僕に目を付けていた(民学同左派)や(革新グループ)の活動家から、引き止め(引きおろし)の逆オルグに、連日、教養部芝生の上や学内で、さらされるように・・・。そもそも入学したばかりの僕が、あの手この手で、説得されて、動揺しない方がおかしいというものだ。 論戦に慣れた活動家たちによる激しい逆オルグで、真面目に(‼)消耗させられて、僕は、選挙開始まもなく、自身の立候補自体に疑問を感じ始め、不登校になっていった。選挙妨害だ・・・と、民学同右派は、怒るが、打つ手は無かった。(選挙期間の3/2ほどは、登校しなかったと思う) (結果良ければ、all right オーライ)ということで、その後の(民学同左派)などのトロツキスト転落をみれば、組織選択そのものは、間違ってなかったのだが、それは結果論だ。 前にも書いたが、軽薄な新入生(僕)が、強引な勧誘オルグで、トロツキストや日本赤軍に行かなかった・・・とは、決して言い切れない・・・それは、タイミングの問題だ・・・運命とは、そういうものだろう。 現に、連合赤軍の森恒夫や日本赤軍の赤城志郎は、市大ブント(社学同)出身だったし、日本赤軍の赤城志郎は、日航機ハイジャックして、今、北朝鮮という(監獄)で暮らしている。森は、僕の5年先輩、赤城は、2年先輩だった。 「赤木志郎は、大学(社学同)時代の森恒夫について、ナイーブでシャイな一面があったと述べている」(ウイキペディア)その後、共産同(赤軍派)が結成され、森や赤城たちは、赤軍派に合流した。その後、重信房子・塩見孝也たちと 森たちとは、意見が合わなかったようで、重信・塩見・赤城たちは、日本赤軍を 森たちは、永田洋子たちの(革命左派グループ)と合体して、連合赤軍を結成したようだ。 あの時代、多くの学生活動家たちの(運動の入口)は、理論闘争の結果ではなく、人間関係など、ほんの、ささいなキッカケ、実にいい加減な・・・が、ほとんどだった。 ////////////////////////////////////(参考)https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202201060000/「多くの同期の仲間(中核派)や先輩たちが、70年を前にして、早々と戦線離脱していったことには、驚いた・・・が、もともと確たる理論も無く、人間関係で(運動参加)していった学生たちが、手の平を返すように、運動から距離を置くのは自然と言えば自然であったが、しかるに(自己総括)できないのも、自然であったということだ。」 https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202112240000/「当時の運動全体でいうと、日共(日本共産党)と反日共の違いは明確にありました。三派と革マル、あるいは三派のどれそれっていうことなんかについては、ほとんどの人はわかんなかったと思います。」 「まず三派全学連のことについていいますとね・・・実際に東京の都学連再建の過程では、ほんとうに小競り合いばっかりしてる。正直、なんて幼稚なんだと感じました。人が発言しているときに他党派は「ナンセンス」と声を揃え、自派の発言のときは「異議なし!」と言う。討議がチャンと成り立たない会議とか集会とか、正直、辟易しました。」(赤松氏、大手前高校先輩、元京大中核派)当時の状況が、これで見えてくる・・・このレベルの運動だったという事だ。 https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202112160000/彼(山崎博昭)が運動の中で、尊敬していた2年上の先輩が、先に京大に入ってすぐ、中核派で活動を始めたのが、山崎の運命を決定したようだ。この先輩は、当然、後から京大に入ってきた山崎を自派に誘うだろうし、山崎も断る理由などない。 (「きみが死んだあとで」134ページ)「僕(岩崎)が(中核派に)入ったのは、赤松(大手前高校の2年先輩、京大の中核派)に連れられてというのが大きい。そう、人間関係です。はっきり言ってね、党派の考え方の違いがわかっている人って、あの頃、ほとんどいなかった。私もたいしてわかっていなかったし。 どの党派に入ったかっていうのは偶然みたいなもんで、大学行って内ゲバが激しくなったときには⦅なんでこんなこと、せなあかんねん⦆っていうのが本音でしたね。それが党派的な運動から離れるきっかけになったんだけど。憎いやつでもないのに、なんでこういうこと、せなあかんのかって。」(岩崎正人氏:大手前高校で同学年。立命大の元中核派)///////////////////////////////////今から思えば、実に呆れる話で、(青2才)たちは、そんないい加減な気持ちで、無責任に(運動)に参加し、学友大衆にビラを撒き、集会やデモ参加を呼びかけたのだ・・・ まさに(妄想で洗脳された人間)が、白紙の人間(新入生)に対して、また(妄想で洗脳する)ことに・・・・こうして(洗脳)が、拡大再生産されていった。 あの東大闘争では、封鎖の中で検挙された学生は、633人だったとか。多数の(洗脳)されたエリート??が、(お祭り)に馳せ参じたという事だが、当初の要求貫徹が歪められて、機動隊との衝突が自己目的化されていった。 オウム真理教では、幹部の多数の大卒などのエリートが、洗脳されて、サリン事件を起こした。 最近は、人間の弱さばかりを強く意識するようになっているが、これは歳のせいなのだろうか? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん 追記・・・(ウイキペディアから)東大紛争期間中には、構内の建物を占拠した学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、教授室などが滅茶苦茶に破壊され、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの蛮行がなされた。理学部二号館を占拠した学生は、1968年12月24日の乱闘に際して、地質鉱物学科の鉱石標本や化石標本などを武器として投じ、紛失させた[10][注釈 5]。 ///////////////////////////////////////冷静な判断能力を失った者は、いかなる破壊(殺人も含めて)も厭わない・・・それが(洗脳)だ。(青2才)が、碩学を吊るし上げるなどの蛮行を恥じないところは、あの文化大革命の時の紅衛兵たちの蛮行と重なる。 (はんぺん)
2024.07.07
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(革命ごっこ)の末路・・・「内ゲバによる無意味な死」 あなたは、何を思うか・・・「大義」に弱い人間の(もろさ) 2024-7-4 怒るはんぺん 今、「何と言う『無意味な死』」(勁草書房 1975年刊))を読んでいるが、 著者は、一応、元:東大生:四宮俊治。これは、(四宮俊治の遺された3冊の手記)ということなので。 四宮俊治は、内ゲバでの(殺し合い)が続く中、S49/1/24 友人(活動家)の引越しの手伝いをしていて、中核派の集団に襲われ、頭を鉄パイプでメッタ打ちにされ、殺された。(革マル派と誤認されたが、彼はノンセクトだったらしい) S49年といえば、西暦で、1974年だ。1971年から1972年にかけて連合赤軍による山岳ベース事件が起きている。同志に対する大量リンチ殺害事件で、仲間12名が、リンチにより殺された。これは、同じセクト(組織)内で、起きた殺人だった。 一方、「内ゲバ殺人」は、異なるセクト間に起きた(殺し合い)だった。結局、1960年代公判から、1980年代にかけて、彼ら極左集団の間での(内ゲバ=「無意味な殺し合い」)で、100人以上の(活動家?)が、殺されているほか、4桁に上る学生や労働者が、重軽傷のため、後戻りのできない人生を余儀なくされてしまった・・・・ こんな(無意味な死)を どうして防げなかったのだろうか? いつも、このような記録を読んでいて、思うのだが・・・ さらに怒りがこみ上げるのだが、その(社会主義洗脳)の総括も無い(懲りない面々)が、またまた全体主義に寄り添って、蠢(うごめ)いている現状には、絶望しか無い・・・と、思う。 別の所で、雨宮処凛(あまみや かりん、作家)が、「私はこの事件を思い出すたびに、「正義」という言葉の持つ危険性に身震いする。それが暴走した時、人はなんでもできてしまうからだ。 ・・・自分は命を懸けて「革命」をしているのだから、「正しいこと」をしているのだから、「正しくない」相手を殺すことさえ正当化されていくという転倒。この事件は、誰もがハマる可能性がある「正義の罠」の危険性に今も警鐘を鳴らしている。 ・・・そんな連合赤軍事件の少し後、内ゲバで多くの若者が殺されたことをどれほどの人が知っているだろう? 「この内ゲバのことでいちばん怖かったっていうのは、ほんとうに大義名分が与えられると他人に対して容赦なく暴力を振るうことができる人間っていうのがこんなにたくさんいるっていうことですね。驚嘆しましたね」(雨宮処凛、あまみや かりん、作家) 皆さんは、どう思われるか? はんぺん
2024.07.04
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あまりにも稚拙な学生運動・・・(革命ごっこ)が、多くの死者を作り出したことに、人間の限界を見た 2024-6-9 はんぺん今でも、当時の事を思い出すことがある。 当時のイヤな思い出は、忘れてしまいたい・・・という知人もいたが・・・簡単に忘れてもらっては困るというものだ・・・(総括)してほしい・・・と。 僕たちの時代、大学進学率は、同世代の1割だったとか。ある意味、安定した将来が保証されていたハズの多くの若者たちが、社会矛盾に目覚めた結果、安楽な出世コースを軽蔑し、社会変革(革命)による、(人類の楽園)づくりに、邁進したということ・・・・ それが、なぜ、無残極まりない結果を招いたのか? 墓穴を掘ってしまったのか?(総括)すらできずに(一般社会)に逃げ込まざるを得なかったのか? 100点満点の人間など、存在しない。常に(過ち)と隣り合わせにあるのが、人間だろう・・・(過ち)は、総括されねばならないが、その(過ち)自体が、人間の限界なのだろう・・・・ その(過ち)の程度に応じて、人類は、存立危機に陥ることも、高い確率で、ありうるだろう・・・と言ってきた。 (稚拙な学生運動)では、多くの死者、重軽傷者を生み出したが、人類歴史の中では、とるに足らない事件(事象)なんだろう・・・ 今や(新冷戦)の時代・・・それに対応できない(懲りない面々の)政治党派が、蠢(うごめ)いていることに、人間の限界を見る思いだ。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――内ゲバで若者が殺し合った時代と、SNSで集団リンチが繰り返される時代 2024-4-2 雨宮処凛(作家、活動家) imidas(イミダス) すごい映画を観た。それは代島治彦監督『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』(2024年、ノンデライコ配給)。 今から約半世紀前、早稲田大学の文学部キャンパスで20歳の学生が約8時間にわたるリンチの果てに殺されたことを、どれくらいの人が知っているだろう? 私がそれを知ったのは、21年に出版された樋田毅著『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)によってである。映画は、この書籍と監督との出会いによって生まれたそうだ。 事件が起きたのは1972年11月。この年の2月には、かの有名な「あさま山荘事件」が起きている。連合赤軍の若者たちが人質をとってあさま山荘(長野県軽井沢町)に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げた事件だ。 この模様は連日テレビ中継され視聴率90%という驚愕の数字を叩き出し、また警察官が極寒の中すするカップめんが注目され、カップヌードルが爆売れするなどした。 この事件の後、連合赤軍の若者たちが仲間を集団リンチなどの果てに十数人殺害していたことが発覚。陰惨な事実は、世間が学生運動にドン引きするきっかけとなった。 私は連合赤軍事件の3年後、75年に生まれたのだが、自分が生まれる前だというのに詳細を知っている。それはこの事件が繰り返し報道され、半世紀経った今も語り継がれているからだろう。それだけでなく、何度も映画化され、書籍化されてきた。 ちなみに連合赤軍メンバーは、「革命」という大義のために「共産主義化」できていない仲間を執拗に追い詰めていくのだが、きっかけは化粧をしていたとか服装が派手だったとかそんなもの。 が、ひとたび「総括」「自己批判」要求が始まると、集団はエスカレートしていく。人里離れた山中に作ったアジト「山岳ベース」にて集団での暴行が繰り返され、ある者は極寒の野外に放置され、ある者は「処刑」としてアイスピックで刺されるなどして命を奪われていく。 その数、山岳ベースだけで12人。加害者も被害者も、全員20代だった。 私はこの事件を思い出すたびに、「正義」という言葉の持つ危険性に身震いする。それが暴走した時、人はなんでもできてしまうからだ。 自分は命を懸けて「革命」をしているのだから、「正しいこと」をしているのだから、「正しくない」相手を殺すことさえ正当化されていくという転倒。この事件は、誰もがハマる可能性がある「正義の罠」の危険性に今も警鐘を鳴らしている。 そんな連合赤軍事件の少し後、内ゲバで多くの若者が殺されたことをどれほどの人が知っているだろう? 私がそれを知ったのは、20年近く前。連合赤軍についての集会に呼ばれた時のことだった。すでに刑期を終えた連合赤軍の元メンバー(半世紀以上経った今も一部メンバーはまだ獄中)らとともに登壇した集会で、ある人が、連合赤軍事件だけがこうして後世まで語られているものの、その後の内ゲバでは100人以上死んでいる、こちらはまったく知られていないという主旨のことを話していて驚愕したのだ。 え、そうなの? そんなの全然知らなかったんだけど。 しかし、それらについて私は積極的に知ろうとはしなかった。また、それらのことがメディアで報じられることもほぼなかった。そうして時間が経ち、2021年、『彼は早稲田で死んだ』が出版された時、すぐに手に取ったのだ。そうして初めて、内ゲバ殺人の詳細を知ったのである。 ここで殺された「彼」について、『ゲバルトの杜』の資料などから説明しよう。 1972年11月、早稲田大学文学部キャンパスで殺されたのは、第一文学部2年生だった川口大三郎君(20歳)。 彼は大学のキャンパス内で革マル派の活動家たちに突然拉致され、学生自治会室に連れていかれる。そこで約8時間にわたってリンチを受け、死亡。遺体は東京大学構内の医学部附属病院前に遺棄され、翌朝、発見される。全身が殴打され、あざだらけで骨折した腕からは骨が見えるような状態だったという。 その日、革マル派は「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」という内容の声明を発表。しかし、川口君は中核派とはほとんど関係がなく、スパイ活動などもしていなかったという。 学生が大学内でリンチの果てに殺される。しかも、「友人が拉致された」と助けを求めに行っても大学側は何もしない――。 このようなことから一般学生による革マル派への抗議の声が学内で高まる。その過程で新自治会が樹立され、「革マル派追放」運動のリーダーとなったのが、半世紀後に『彼は早稲田で死んだ』を書くことになる樋田毅氏。中国語クラスでは川口君の1年後輩だったという。が、その樋田氏も、革マル派に襲われて重傷を負ってしまう。 そうして川口君事件をきっかけに一層対立を深めた革マル派と中核派の内ゲバは激しさを増していき、互いの組織壊滅を目的とした殺し合いへとエスカレート。血で血を洗う内ゲバは、一般市民が新左翼から離れる大きな原因のひとつとなった。そんな内ゲバによる死者は100名を超えていく(この数には、中核派、革マル派以外の内ゲバも含まれる)。 映画の中、印象的なシーンがある。 それは内田樹(たつる)氏が当時を振り返る場面。彼は当時の若者がデモに行く時の傍若無人ぶりを語る。電車に乗るのも「なぜ、革命のために身を賭している自分がブルジョア企業なんかに金を払わないといけないのか」という理由から無賃乗車。それだけではなく、その辺のおでん屋さんにもお金を払わないというのだからこれはもう「ブルジョア云々」という話ではないだろう。普段、大人しい学生こそがそうして豹変するという。 「この内ゲバのことでいちばん怖かったっていうのは、ほんとうに大義名分が与えられると他人に対して容赦なく暴力を振るうことができる人間っていうのがこんなにたくさんいるっていうことですね。それはぼく、驚嘆しましたね」 そう語る内田氏は、革マル派の友人を内ゲバで殺されている。 そんな映画の冒頭では、川口君の殺害シーンが若い役者たちによって再現される。殺す側は何度も「革命のため」と口にする。「選ばれし自ら」に陶酔したかのように。リンチの最中、川口君の友人たちが、彼を返してほしいとやって来ても、鼻で笑って追い返す。 「これは階級闘争のレベルのことだ。階級闘争を担っていない君たちには関係ない」と。 我々は歴史を変えるような高尚なことをしているのだから、何もしていないお前らの要求などに従うわけがない、ということである。こんなことを言う時、気持ちよかっただろうな……。そう思う。 さて、それでは私たちは、「大義」や「思想」によってガラリと変わる学生たちを「愚か」と笑えるのか。そう思うと、日常に、これとよく似た光景が繰り広げられていることに気づく。 街頭ではない。大学内でもない。スマホやパソコンの中のSNSで日々、集団リンチが繰り返されているではないか。そしてそれが、実際に人の命を奪っているではないか。 その中には、「正義感」を動機とした炎上のなんと多いことか。 「こんなことをするのはひどい」「許せない」という憤り。そして自らがしているのは、間違った人間を正すための「世直し」行為であると信じているような態度。 殺人犯というデマを流され、長年ネットでの誹謗中傷に苦しんできたお笑いタレントのスマイリーキクチさんは、Addiction Reportのインタビュー「ネットでのバッシングは『憎しみ依存症』 人は『正義感』から人を叩く」(もうタイトルからして言い当てている)にて、薬物などで逮捕された著名人に対するバッシングについて、以下のように語っている。 〈叩く材料や落ち度がある人間に対しては、人はすごく凶暴になるなと思います。人を叩くことによって自分はモラルを守る人間だというのを主張したがるのでしょう。だからあそこまで執拗に叩き、追い詰める〉 そうして、SNSでの「一番の人気メニュー」は「怒り」だと指摘する。 〈やはり「怒り」が一番「共感」と「発散」と「興奮」を生む。この3つが引き出されるのは怒りなのですよね。悲しみや楽しさよりも、怒りの方が、みんなでスクラムを組み、自分はいかに正しい人間なのか証明することになります〉 〈みんなが人を叩くことにこれだけ酔いしれるのは、群集心理もあるのでしょうけれども、その人を社会的に抹殺することが「正義」とされてしまう時代だからなのだろうと思います〉 一方、評論家の與那覇潤さんは、京都アニメーション放火殺人事件に関する朝日新聞デジタルのインタビュー「『除菌思考』進む日本 『無敵の人』を『無敵』でなくすのは相互接触」(24年1月24日、朝日新聞)で、「社会の脱臭化」という言葉を使い、以下のように語っている。 〈平成の後半から、日本では「社会のデオドラント化」が進んだと感じています。ネガティブなものは、そもそもこの世に存在しないでほしい。少しでもにおったらスプレーをかけるように「除菌」しようとする傾向が強まりました。同じ時期に普及したSNSは典型です。気に入らない言動や表現を見たとき、「みんなでたたいて、世の中から消してしまおう」とあおる人が増えました〉 この言葉に、さまざまな事象を言い当てられた思いがする人もいるのではないだろうか。 1月、テレビドラマ『セクシー田中さん』原作者で漫画家の芦原妃名子さんが亡くなった。 この件について、私は全然詳しくない。しかし、訃報が報じられる数日前、SNS上での「騒ぎ」はちらっとだが目にしていた。あくまでも私が目にした限りだが、自らの「正義感」からなのだろう、強い言葉で特定の人や組織を非難する言葉が多くあったことを記憶している。そのことは、芦原さんにとって、想定していた数万倍の反応だったのではないだろうか。その大きさに、驚愕したのではないだろうか。 そう思うのは、私自身、何度か炎上や炎上的なものを経験したことがあるからだ。自分の意思とは関係なく拡散され、飛び火していき、手がつけられなくなる恐怖。みんなが自分に怒っていて、今すぐに死んでお詫びしなくてはと思わされたことは一度や二度ではない。 今でも、「あの時、騒動がネットニュースになってたら自殺してただろうな」と本気で思う。自分に突きつけられている銃口が、秒単位で数千、数万と増えていく恐怖。死にたいよりも、一刻も早く死んで詫びなくてはという焦りにも似た思い。 特にX(旧Twitter)の危険度はダントツに高い。私の友人は以前、Twitterを「核兵器や原発と同じで人類には扱えないもの」と評していたが、まったくもってその通りだ。私たちは、自分では到底手に負えない殺人兵器を手にしているのである。 そんなSNSが普及する現在、私は連合赤軍事件を彷彿とさせるような恐ろしい光景を何度も見ている。 例えば連合赤軍も中核派も革マル派も、一般人からはよくわからない微妙な差異があることで対立し、殺し合いをしてきたように見え、それは異様な光景として私たちの目に映る。しかし、令和を生きる人々はそれを笑えるだろうか? 前述した與那覇氏は、以下のようにも述べている。 〈かつてリベラル派と呼ばれる人たちは、異分子と共存していくことを説いたはずなのに、今は、敵視する相手の排除に率先して走る動きばかりが目立ちます〉 確かに、SNSを見れば昨日まで同じ方向を向いていると思っていた人たちが、ワンイシューの違いでいがみあっている。誰かが誰かをジャッジして踏み絵を踏ませようとし、相手が思い通りに動かないと「味方だと思ってたけどあいつは敵だ!」と犬笛を吹く。そうしてわずかな違いで「敵認定」されるとたちまち攻撃の対象になる。 一方、見知らぬ人も通りすがりにナイフを突きつけてくる。この問題についてどんな態度を取るかでお前を生かしておくべきか社会的に抹殺すべきかジャッジしてやるから答えてみろ、という脅しだ。そうしてあらゆる方向から「思想点検」されるという地獄。 連合赤軍は、希望した者が山に入り、そこで仲間殺しという悲劇が起きた。しかし、今はSNSで、いつ誰が生贄になるかわからない。昔だったら「連合赤軍に入らない」「活動に関わらない」という選択があったものの、今はいつ誰が断罪されるかわかったもんじゃない。 今、どれほど気をつけていようとも、過去の言動の発掘に熱心な人もいるのだから一瞬だって心安まる暇がない。「心理的安全性」という言葉が注目される昨今だが、世界で一番くらいにそんなものがない場所で、取り返しのつかないことが日々繰り返されている。 映画の中、「革命のため」と叫ぶ若者たちは気持ちよさそうだと先に書いた。が、SNSで誰かを断罪している人も万能感に震えているように見える。人をジャッジするのは気持ちいい。ダメ出しするのは快楽だろう。村中直人著『〈叱る依存〉がとまらない』(22年、紀伊国屋書店)という本には、〈誰かを罰することで、脳の報酬系回路は活性化する〉という研究報告が紹介されている。 私の中にも、自分が正義の側に立ち、誰かを心ゆくまで罵倒したいという後ろ暗い欲望がある。特に人生がうまくいっていないと感じる時ほど、そんな欲望は強くなる。 だけど、私は知っている。SNSの普及による正義の過剰な行使や分断の広まりは、世界中で起きていることだと。私たちは今、人体実験されているようなものなのだ。 「どうして半世紀前の連合赤軍事件なんかに興味があるの?」 時々、聞かれる。その理由は、正義のもとに何もかも正当化されると思う人間の愚かさが、少しも変わっていないと思うからだ。いや、それどころか、過去よりも人間はずっと愚かに、そして傲慢になっていると思うからだ。 そういう意味では、『ゲバルトの杜』は、半世紀前を描きながら極めて今日的なテーマを扱ってもいる。日々、SNSの内ゲバにうんざりという人も、ぜひ見てほしい。5月25日から、全国順次公開である。
2024.06.09
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(無意味な死)で、人生を棒に振った若者たち・・・いつも思う(洗脳)の恐怖 2024-6-8 はんぺん 一本の赤い糸・・・共産主義による数々の虐殺事件、連合赤軍による山岳アジト事件や数々の(内ゲバ)、北朝鮮における密告と公開処刑、中国の情報統制、旧ソ連による粛清の数々・・・これらは、明らかに、一本の赤い糸で結びついている・・・ そのことが、どうしても戦後リベラルたちには、理解されないできた。思い込み・・・洗脳の苦い歴史だ。 なぜ?こんな単純な事実に、真摯に向き合えないのだろうか?僕は、不思議で仕方がない・・・と言ってきた。(洗脳)とは、そういうものだ・・・ 他人に害を及ぼさない限り、僕たちは、目をつぶっていられる。しかし、その宣伝・扇動により、多くの不幸な若者たちの人生の可能性を摘み取るとなれば・・・これは、許せない・・・(犯罪)だ・・・ 重信房子(日本赤軍)、森恒夫・永田洋子(連合赤軍)たちは、その典型だったが、川口大二郎や、海老原俊夫の虐殺に加担した暴力学生?も、同罪だ。 (内ゲバ)で、殺された100余人、重軽傷者が数千名・・・障害などで、人生を棒に振った多くの学生たち・・・いつも、その罪の大きさに、震えあがる。 いつも思う・・・(洗脳)の恐ろしさは、人間を狂気に駆り立てる事を! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――内ゲバが招いた自滅。 元職業革命家・大藪龍介さん ワタシペディア「私」辞典~全共闘ダイアリー (3) 2019-6-10 西日本新聞あのとき襲撃されていたら、今の自分は存在していなかったかもしれない。 かつて革マル派の活動家だった大藪龍介さん(80)は50年近く前、内ゲバの標的になった。「しばらくどこかに身を隠した方がいい」。仲間に忠告され、自宅に帰らずホテルを転々とした。 当時、大藪さんは既に所属するセクト(党派)を離れ、「革命」を目指す実践運動からも遠ざかっていたが、対立セクトにその現状は伝わっていない。結局、対立セクトのメンバーを知る先輩が間に入り説得した、という話もあった。大藪さんは襲撃を免れた。 だが、免れられなかった仲間もいた。早朝にマスク姿の男にアパートへ踏み込まれ、鉄パイプで頭を殴られ重傷を負った者、通勤中にバス停で襲われ命を落とした者もいた。 ■ ■ 九州大の学生自治会で日米安保闘争に加わり、社会運動に目覚めた大藪さん。卒業後は就職せず、既存政党と一線を画す革命政党をつくろうと夢見た。「職業革命家」を名乗り、企業へのオルグやビラ配りで仲間の勧誘を続けた。活動は交通費も手当ても出ず、収入はゼロ。生活は県庁職員となった妻が支えた。 「新しい社会をつくるんだと、闘志があって燃えていた。暮らしに余裕がなくても苦しくなかった」 30代になるころ、セクト間の内ゲバが頻発した。思想の違いや主導権争いを理由に、過激な暴力を正当化し、繰り返されるテロやリンチ。自らが追い求める革命像と懸け離れ、セクトを辞めるきっかけとなった。 その後、理論研究による「革命」を目指そうと思い直した。大学院生を経て、45歳で富山大助教授に。17年前に引退し、現在は福岡市の自宅で論文執筆を続ける。マルクス主義を題材にこれまで計15冊を著した。 ■ ■ 振り返れば、1960年代後半の大学紛争などで社会に根付きかけた新左翼運動は、内ゲバが過激化していった結果、世間に見放されたと、大藪さんは思う。 《相手を反革命と断罪することで、罪悪感や思い悩みに妨げられず、相手党派のメンバーの破滅が革命につながると倒錯する》 「内ゲバ殺人の狂態をめぐって」と題した論文で、こう考察した。 今、世にまん延する排外主義。「ネトウヨ」(ネット右翼)と呼ばれる人々は、思想や歴史観の異なる相手にヘイトスピーチ(憎悪表現)を浴びせる。軽々しく他国への「戦争」を口にする国会議員まで現れた。 「あれが行動に出ると怖い。自分たちの考えを絶対的に正しいと信じ、批判を排除する。その姿勢が内ゲバのような不毛な争いにつながっていく」 福岡タワーや博多湾を見渡せるタワーマンションの1室。大藪さんの書斎の壁を、1000冊を超える専門書が埋め尽くす。 「今は資本主義社会は安定しており、現実的には革命は起きない」と理解しながらも、先の世代に向けて研究を続けている。 ▽暴力連鎖 死者100人超 学生運動では、闘争路線を過激化させた党派組織の学生が警察権力に対抗するため、角材を武器として使うなどの暴力的手段を行使した。 1970年ごろから党派内部の闘争や分裂が活発になり、同一党派の争いでも暴力を用いる「内部ゲバルト」(内ゲバ)が頻発した。ドイツ語で暴力を意味する「ゲバルト」に由来する。 棒状の武器は「ゲバ棒」、ビラや立て看板に使われた独特の文字は「ゲバ字」と呼ばれた。内ゲバはエスカレートし、組織ぐるみの殺し合いに発展。死者数は計100人を超えるとされる。――――――――――――――――――――内ゲバで血塗られた党史(警視庁ホームページ) 革命勢力各派には、共通して、自派の革命理論、戦術方針こそが唯一正しく(革命唯一党)、他派は革命を妨げ、混乱させる有害な勢力(反革命勢力)であるとする考えがあります。内ゲバは、このような考えに根ざす党派闘争が暴力抗争の形態をとったものと言えます。 革マル派においても、昭和30年代後半から他党派との間で内ゲバを繰り広げ、多数の死傷者を出しています。内ゲバ等を行うための非公然部門が組織されており、これまでにも、「特別行動隊(特行)」という名称が使用された経緯があります。 同派による特異な内ゲバ事件として、中核派書記長・本多延嘉殺人事件(50年3月14日発生)、革労協書記長・笠原正義殺人事件(52年2月11日発生)が挙げられます。 両事件は、ともに対立する中核派及び革労協の最高幹部をねらったものであり、両派に致命的な打撃を与えています。しかも、その犯行手口は、複数の者で襲撃し、相手の頭を斧や鉄パイプ等でめった打ちして確実に命をねらうという残忍極まりないものでした。 革命勢力各派では、外でこうした残忍な内ゲバ事件やゲリラ事件を引き起こす一方、内では鉄の規律と言われる程厳しい統制が行われています。 革マル派においても、中央方針(黒田方針)に反発したり、批判的な言動を行う活動家に対して、厳しい粛清が行われるという事件も発生しています。
2024.06.08
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洗脳の恐ろしさを示した映画「ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ」 あまりにも(無意味な死)で、人生を終えた若者たちの無念を思う・・・ 2024-6-6 はんぺん先日、新聞で、この映画の事を知った。同時代人で、当時の状況下にいた自分だから、だいたいのことは、分かるし、今さら観ても・・・という気持ちもあったが、一応、映画館に足を運んでみた。 観客の大半が、僕と同じ年齢層ばかり・・・で、若者は、皆無だった。何かしら、当時の学生運動の一端に関りを持ったことがある僕のような、高齢者が、多かったという事だろう。 今の若者たちには、想像もできない1970年前後の(革命ごっこ)だが、当時の参加学生たちは・・・参加した理由は、まちまちで、無責任な烏合の衆が、圧倒的だった。 運動が下火になると、彼ら無責任な連中は、潮が引くように一斉に(総括無しに)一般社会の中に逃げ込んでいった・・・そういう連中が、運動の多数派(!)だった。 この「川口大三郎リンチ殺人事件」は、その後の10余年にわたって続く(内ゲバ)のきっかけになっていったようだ。(それ以前にも、テロによる死者は、出ているが) 内ゲバは、その後、延々と続き、100名以上が、殺され、数千名の重軽傷者を出し、多くの若者たちの人生、その可能性を奪い去ってしまった。絶対化された思想の恐ろしさを思う・・・・ 洗脳により、(大義)のためには、テロ殺人でも何でも平気で、実行できるというところは、あの連合赤軍の山岳アジト事件(14名惨殺)や アジア太平洋戦争における特攻(神風特別攻撃隊)志願の若者たちと、全く同じ。洗脳とは、そういうものだ・・・冷静な思考ができない!! (社会主義)で洗脳されるか、(天皇制=国体思想)で洗脳されるかの違いはあれ、価値観の絶対化の恐ろしさを、示して余りある・・・ この映画・・・僕にとっては、時間のムダ使いだった。得るものは、何も無かったからだ・・・ 連合赤軍の山岳アジト事件(14名惨殺)と重なるところばかりで、生産的な意味を見つけられなかった・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――なぜ、彼はリンチされ殺されなければならなかったのか?当事者が口を閉ざす闇が自身と社会に与えた恐怖 水上賢治(映画ライター) 2024-6-2 Yahoo!ニュースhttps://news.yahoo.co.jp/expert/articles/1495f3cc5272e15ad79438edf53898ac4a5433ad 映画「ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ」は、いまから約50年前に東京都の早稲田大学構内で起きた「川口大三郎リンチ殺人事件」に焦点を当てる。 殺害された川口大三郎さんは当時まだ20歳。早稲田大学第一文学部二年生のごく普通の学生だった。 学生運動終末期に起きた事件のあらましはこうだ。 1972年11月8日14時ごろ、文学部自治会を牛耳り、早稲田大学支配を狙う新左翼党派・革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)が、川口さんを対立する中核派のシンパとみなし、早稲田大学文学部キャンパスの学生自治会室に拉致。約8時間にわたるリンチを加えて殺害し、その後、川口さんの遺体を東大構内・東大付属病院前に遺棄した。 翌日の11月9日に遺体が東大で発見されると、昼過ぎに、革マル派が声明を発表。「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆した内容で、川口さんが内ゲバによって殺害されたことが判明する。 川口さんの死因は「丸太や角材の強打によるショック死」で、遺体の打撲傷の痕は四十カ所を超え、全身あざだらけ。骨折した腕から骨が出ていたほど、変わり果てた姿になっていたという。 だが、川口さんは学生運動や部落解放運動などに参加はしていたが、実際には中核派とほとんど無関係。つまりなんの理由もなく無関係の人間が、勝手な抗争に巻き込まれて、凄絶なリンチの末に殺害される理不尽な死だった。 なぜ、なんの関係もなかった川口大三郎さんは殺されなければならなかったのか?彼の死とは? ここを起点に本作は、学生運動終焉期に激化した「内ゲバ」に迫ろうとする。 同じ革命を志す若者同士が激しく対立し、最後は殺し合いにまでエスカレートしていった「内ゲバ」について、当事者たちはいまだに堅く口を閉ざしている。100名以上が命を奪われながら、どういった内実があったのかほとんど語られていないという。 これだけの死者が出ていて、何も語らないまま終わらせていいのか?川口さんはこのまま忘れられてしまっていいのか? このある種の隠蔽と無関心は、いまの日本社会が抱える問題にもつながっている気がしてならない。 ・・・・(後略)・・・・
2024.06.06
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許されない「MDS」「アサート」の裏切り!! あなたたちは、何を学んできたのか? 2024-5-5 はんぺん 全体主義国家では、独裁者にとって、都合の悪い情報は、すべて隠蔽されている。真実が、国民の目に触れることは無い・・・ この(当たり前)の事が、重要なのだが、(歌を忘れたカナリヤ)のように、日本リベラルたちは、この独裁国家における情報統制、密告制度に、厳しい非難をしてこなかった・・・これは、日本リベラルたちの(黒歴史)である。 香港では、民主的勢力は、中国共産党の暴虐により、完全に抹殺されてしまった。全体主義が、地球全体を制覇すれば、どんなことになるのだろうか?いつも、そんなことを考えている。 昔、学生運動時に、僕が、加盟していた民学同(民主主義学生同盟)という学生組織があった。民学同=DSL(Ⅾemocratic Student Ⅼeague)では、(全ての民主的学友は、民学同に結集しよう!)というスローガンが、学友向けの機関紙「民主主義の旗」の枠外に書かれていたのを覚えている。 あの「民主主義」って、いったい同盟支部内の同志ちは、どのように考えていたのか? どうのように理解いていたのだろうか? 民学同は、1963年9月、関西の地で、日本共産党から、除名されたり、離党した、当時の共産党学生細胞が、立ち上げた組織だったそうだ。僕の大学入学(1968年)の5年前の出来事だった。 同盟結成以後、共産党=民青のセクト主義(党派主義)に対する大衆的批判もあったりして、関西では、大阪大、大阪市大などを中心に、急拡大して、多くの学生自治会を傘下に納めていった。 文字通り、全関西の学生運動をけん引する勢いがあったという。その民学同が、1968年、1970年、197X年と、3回にわたり分裂を繰り返した。僕は、1970年6月に同盟を離れたので、その後の事は、詳しくは知らないが、その間の党派闘争等を経て、1980年代後半?には、3組織とも、学生戦線から、姿を消した模様・・・ このあたりの(総括)は、どうなっているのか? 僕は、知りたい。 同時に、この民学同(DSL)の先輩・後輩たちが、その流れを汲んだ形で、MDS(民主主義的社会主義運動)という社会主義政党やアサートという評論家的社会主義願望組織を作ったようだ。 彼らの内容が、実に、お粗末だった・・・というか、社会主義に対する真摯な総括を欠いた、(新しい社会主義)を目指す組織だたっという事実!(塀の中の懲りない面々)というわけだ。 民主主義の徹底の先には、真の社会主義社会(楽園)が、開かれている・・・という、僕の学生時代の当時の同盟の認識そのまま・・・という事で、(社会主義幻想)の呪縛から、彼らは、未だに逃れる事が、出来ないでいるのだ・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――連合赤軍、遺族への手紙。「総括」生々しく、謝罪の言葉も 2024年4月12日 朝日新聞 半世紀前、「総括」と称する集団リンチで戦後史に残る凄惨(せいさん)な殺人事件を起こした極左組織「連合赤軍」(連赤)。その指導者、森恒夫や永田洋子らが、逮捕直後に遺族たちへ送っていた手紙の数々が見つかった。朝日新聞が遺族から入手した手紙には、自ら突き進めた「革命」への考えやリンチの様子が生々しくつづられ、謝罪の言葉も書かれていた。 1972年3月、連赤が「粛清」した12人の遺体が次々と群馬県の雪山から見つかった。遺族たちは事件直後、当時の状況を問いただす手紙を逮捕された連赤メンバーに出しており、その返信の手紙がそれぞれの遺族の元に届いた。山岳アジトで殺害された遠山美枝子(当時25)の母、幸子(ゆきこ)(100)が、手紙約40通分をとりまとめて書き写し、冊子にして残していた。 冊子は、72年に現場(現・群馬県高崎市倉渕町)近くに被害者の供養塔が建立されたのを機に遺族には配られたが、これまで存在が公になったことはなかった。遠山の遺族は「手紙は読むのもつらい内容で、これまで心の奥底にずっとしまっていた」と話す。 72年2月に逮捕された森は、同年11月7日付で遠山の母に手紙を送った。 〈お手紙を拝見してから毎日おわびのことばかり考えておりましたが、お返事を差し上げる勇気がでませんでした〉と謝罪。そして、遠山の最期の様子を手紙で知らせていた。 〈自分で自分の顔を殴らせたり、(略)寒中の柱に立ったままロープで縛って何日もそのままにしたりし、美枝子さんを死に至らしめたのです〉 遠山が苦しい中、何度も「お母さん」と呼んでいたことを明かし、〈私はそれら全てを「総括ができていない」証拠にしていった。これが一片の弁解の余地すらない事実です〉と、「総括」と称したリンチの理由についても言及している。 手紙の最後には〈私は生ある限りそのお憤りを受け続けるつもりでおります(略)終生自己批判の道を歩むつもり〉とつづられていたが、その2カ月後、森は拘置所で自殺した。 永田も、遺族に宛てた手紙の中で自身の感情を言葉にしている。 同じく山岳アジトで殺害された行方正時(当時22)の遺族に73年7月28日付で宛てた手紙で、〈何を書いてよいかわからなかったことともう一つは遺族の方の怒りにふれるのが恐ろしかったことから出せなかったと思います〉と謝罪が遅れた理由を釈明。〈今となっては何故(なぜ)、行方さんを殺してしまったのかと思う時もあります〉と書かれていた。 そして最期の様子について〈息がたえだえでも(略)縄をほどくことはできませんでした。私は何故か気になり行方さんの脈をはかったことがあります。ぞーとするほど冷たい手でした。そしてかすかに脈がありました〉。 坂口弘(死刑囚で収監中)、無期懲役の吉野雅邦(服役中)や、刑期を終えてすでに出所した元メンバーも遺族へ謝罪の手紙を出していた。 赤軍派元メンバーで「全体像を残す会」を主宰する金廣志は、手紙の内容について「動機を含め、こんな具体的なやり取りがあったことをもっと早く知りたかった」と語る。 「私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年」(インパクト出版会)の著書がある江刺昭子は「事件直後だけに率直な気持ちが書かれている」とし、往復書簡はその時代と事件の真相を知る「貴重な記録」と語った。=敬称略 (森下香枝)
2024.05.05
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こんなにもレベルの低かった極左集団の資質!! 「何が、革命??」アホか! 多くの人命を奪って、なお(言い逃れ!!) 2024-4-25 はんぺん 「もっと他の手段が無かったか、考えるべきだった・・・」(重信房子:元日本赤軍幹部) この良く知られている元日本赤軍トップの重信房子の(言い訳)は、誰が見ても、納得できないだろう。 彼女らが、起こしたテロ事件で、どれだけ多くの民衆が殺傷されたか! これは、(反省)とか(総括)の域を超えている! 子どもがするような(言い訳)で、今の時代に通用するとでも思ったのだろうか? (他の手段?)・・・はあ?(後悔先に立たず)とよく言うが、被害のレベルが、違いすぎるだろうが!!!それで、世間を納得させられるとでも思う方が・・・おかしいだろう!! あまりにも低すぎる極左学生たちの意識の低さに、驚くばかりだ・・・何が「革命」なのか?? そんな低いレベルの学生たち(青2才)が、世界を変えるなどとは・・・おこがましいにも程がある・・・・!!!! 「暴力に訴えた誤り認めるべきだった」(本文) これって読んでいて、情けなくて、はらわたが煮えくり返ってくるのだが・・・皆さんは、どうだろう?? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――暴力に訴えた誤り認めるべきだった あさま山荘事件、銃調達役の悔恨 聞き手・鶴信吾 2023年2月19日 朝日新聞 51年前の2月19日、長野県軽井沢町の保養施設で過激派グループ「連合赤軍」のメンバー5人が人質をとって立てこもった。10日間に及ぶ銃撃戦で、警察官ら3人が殺害された「あさま山荘事件」。雪野建作さん(75)は、使われた銃の調達役だった。「暴力に訴えたのは明らかな誤りだった」。半世紀を過ぎた今、事件を振り返る。 「この戦いは負けた」 「敗北した」。あさま山荘事件が起きたことを伝えるニュースを拘置所の中で知ったとき、私はこう感じました。山荘には仲間が立てこもっている。でも、籠城(ろうじょう)は、永久にはできない。いつかは捕まる。警察官を射殺したってどうにもならん、この闘いは負けた、と。 私は、銃を強奪した罪で勾留され、ニュースは新聞で読みました。まさか仲間が真冬の雪山にいるとは思いも寄らなかった。てっきり皆、都会のアジトにいるものだとばかり思っていました。それに私たちは、警察官を殺すために銃を強奪したわけではなかったんです。 警察官を撃ち殺すためではなかった――。雪野さんがそう語った一方で、奪われた銃によって警察官2人を含む3人が殺害されてしまいます。なぜ目的が変わったのか。銃を手にしていく過程で組織の「変化」があったといいます。 私が通った都立大学附属高校は自由な校風で、学生運動が盛んでした。50人のクラスで42人がデモに行くような感じです。当時はベトナム戦争がさかんに報道され、私は強い反発を感じました。戦争の遂行に何とか打撃を与える闘争をしたい。そういう情熱は抑えがたいものがあったりしました。 横浜国立大工学部に入学後、後に過激派組織と呼ばれるグループの活動に加わるようになりました。このグループは当初、学生運動よりもむしろ労働運動に根付こうとしていました。日本人の多くは労働者ですし、私は学生運動だけでは日本は変えられないと思っていましたから、信頼できると思いました。 後に、このグループから独立して誕生したのが「革命左派」です。私は革命左派についていきました。このグループが、後の連合赤軍の母体です。 「警察への報復戦」 銃を入手しようとしたきっかけは、革命左派のリーダーが逮捕されたことでした。1969年12月のことです。このリーダーは、自らの身柄を奪還して中国に亡命させることを獄外のメンバーに求めます。 獄外にいた組織指導部の永田洋子(元死刑囚、獄中死)たちは、このリーダーが手錠をつけて護送車で裁判所に連れて来られるタイミングで、銃を突きつけて身柄を奪還しようと考えた。米軍とか自衛隊や機動隊を殺傷することが目的ではありませんでした。 銃を得る場所として最初に狙ったのが、東京・板橋の交番でした。70年12月18日、仲間が警察官を襲います。しかし、失敗し、その場で1人が射殺されました。 同志の死は組織に結束と緊張を生み出しました。事件後に自分が書いた手紙の中に、警察への「報復戦」という言葉があった。そういう心境だったのだと思います。 71年1~2月ごろ、私は革命左派が持つ「軍」のメンバーと一緒にあちこちで調査をしました。どこが狙いやすいか下見もしました。こうして、次に狙うことになったのが、栃木県の銃砲店でした。 このような闘争が正義かどうか、私は自分では考えなかった。当時、私は革命左派の方向性を決める「指導部」にはいませんでしたから。今思えば無責任だったと思います。 襲撃の日は、71年2月17日になりました。私はこの作戦に加わる予定じゃなかったので、ちょっと人ごとみたいなところがありました。打ち合わせも横で聞いていた程度ですが、銃砲店を襲うことの是非は話し合われていた。 店主と家族を縛り上げ… メンバーたちは「銃は一度借りて返すんだ」とか言っていましたね。「決して銃砲店の人をけがさせないように」とも。私も、民間人から銃を奪うことは革命を成し遂げる上でしょうがないことだ、と思っていました。 決行数日前、急に指導部から「お前も行け」と言われました。「えらいことになった」と思いました。人数は多いほうがいい、ということが理由でした。そう言われたら仕方ない。腹をくくりました。 作戦はまず、銃砲店内に押し入って電話線を切る。通報できないようにするためです。店主と家族は縛り上げよう、と。今思うと、やっぱり感覚がまひしてたんだと思います。 一般の人を縛り上げるなんて、おかしいです。罪深いことをしたなと思っています。この10カ月後、連合赤軍は群馬県の山中で「山岳ベース事件」を引き起こし、仲間や兄弟を縛り上げて暴行を加え、12人も殺しています。この事件の下地は、銃砲店を襲った2月17日のこのときすでにできていた、と後から思います。 「銃を手にして初めて…」 鉄砲店を襲う当日は計画通りに実行しました。電話線をハサミで2カ所切りました。奪ったのは、散弾銃10丁や銃弾2300発など。散弾銃の実包は重かったですね。500発が一斗缶のようなものに入っていて20キロか、もっと重いくらいだったと記憶しています。ライフルの弾も、少し持ち出しました。 銃を手に入れた後、組織は変化しました。 もともと、警察官らを殺すことが目的ではなかったけれど、組織の指導部は、警察や軍隊を殺傷する闘いをするべきだ、となった。指導部の永田は「銃を手にして初めてそうすべきだとわかった」とも言っていました。そして本来の目的だったリーダー奪還は、警察の捜査が激しさを増し、ついに実現できませんでした。 このときに、立ち止まって、もっと話し合えばよかった、と今では思います。警察官を殺しても、世論を味方につけられません。突き詰めて考えたら、武装闘争は間違っているとなっていたのではないかと。 当時、私たちのそうした批判を、指導部は押さえつけました。私は、そんな態度に絶望しながらも、「いつかわかるだろう」で、済ませてしまいました。 奪った銃はあさま山荘へ 銃砲店を襲撃後、警察から逃げるため次々とアジトを移動しました。最終的に札幌のアジトまで逃げ、札幌郊外にある定山渓温泉の近くの川沿いに銃を埋めました。 札幌のアジトでは春先まで潜伏生活を続けました。この間、銃のうち数丁を他の過激派組織「赤軍派」に譲り、そのかわりに、現金を受け取りました。我々の組織は、資金難だったのです。 春以降は、東京・奥多摩湖の上流にのぼった山中に野営地のアジトを設け、ここに拠点を移すことにしました。銃も札幌に2グループ4人を派遣して持ち帰りました。 このアジトでは穴を掘って便所をつくり、サバ缶やカップラーメン、山菜、ときにはカエルを食べてみたこともあります。一方で私は、私たちのゲリラ闘争に共鳴するグループと連絡を取ったり相互支援をしたりするため、山のアジトを離れ、大部分を都心で生活していました。 7月。革命左派と赤軍派が合流した組織を結成。これが後の、連合赤軍となります。 銃砲店襲撃から半年が過ぎた8月21日。新宿の「ピクニック」という喫茶店で仲間と落ち合った途端、刑事が2人、ドカドカと店内に入ってきて「雪野だな」。逮捕されました。 逮捕後もしばらくは気が張っていました。拘置所で寝ていても、看守が歩く「コツコツ」という音でパッと目が覚める。数日はそういう状態でした。 11月。連合赤軍は、山中のアジトに拠点を移していきます。ここにも銃は持っていったようです。リュックに弾と銃を詰めて行ったのでしょう。この銃は、連合赤軍のメンバーが最終的に行き着くあさま山荘まで運ばれました。 闘争の破局と脱退 そして12月末から翌72年1月にかけ、山岳ベース事件が発生し、同年2月にあさま山荘事件が起きます。あさま山荘では銃撃戦が繰り広げられ、連合赤軍のメンバーが警察官2人と民間人1人を撃ち、死亡させました。「えらく銃の腕が良いらしい」。私は、刑務官が立ち話をしているのを拘置所で聞いたのを覚えています。 あさま山荘事件が終結すると、山岳ベース事件も発覚しました。拘置所のラジオから流れるニュースは耳を覆いたくなるものでした。苦楽をともにした同志たちの遺体が、次々に発見されたことが報じられたからです。仲間が仲間を手にかけていたんです。私たちの闘争は、こうして破局を迎えました。 実は以前から獄中のリーダーと私はいろいろ考え方の違いが表れていて、私は組織を正道に戻すため、このリーダーと大々的に論争を始めていました。お互い、獄中にはいましたが、手紙や電報のやりとりはできたんです。しかし、受け入れられることはありませんでした。 72年の秋、私は革命左派を脱退しました。 今語る義務 懲役10年の判決を受けた私が仮釈放されたのは1980年でした。出所後は環境問題に関連する新聞記事などを集めた雑誌を発行する会社をつくり、現在はウェブサイト構築システムの開発、販売などを手がける会社を経営しています。 連合赤軍の一連の事件を経て、過ちを認めない組織は暴走するのだと気づきました。連合赤軍の誤りは、理想を実現するため暴力に訴えたことです。そして1人犠牲者が出ると後に引けなくなった。でも誤りは誤りなんだと認めるべきだった。私自身の反省でもあります。 逮捕されずに仲間とともに山中のアジトに入っていたら私は最初に殺されていた、と皆から言われます。「捕まって良かった」とは言いませんが、どういう天の配剤か、運命のいたずらか、こうして生き残っている、生かされている。私たちがあのとき、何を見て、考えて、何をやったか。今こうして語る義務がある。そう思うのです。(聞き手・鶴信吾) コメントプラス江川紹子(ジャーナリスト・神奈川大学特任教授) 2023年2月20日 投稿【視点】 過激派グループのカルト性が分かりやすく語られている。とりわけ、純粋でまじめな若者が引き寄せられ、自分自身で物事の善悪を考えなくなる心の支配のプロセス、目的のためには手段を選ばない独善性、組織やリーダーは絶対正しいという無謬性などに、政治的カルトの特徴が見て取れる。「カルト」は宗教ばかりではないのだ。 「カルト」は自らの過ちを認めない。「過ちを認めない組織は暴走する」という雪野さんの述懐は、体験に裏打ちされているだけに重い。 今の時代、陰謀論やニセ科学、二元論などに動かされ、無謬性に陥るといった、カルト性の高い集団が跋扈し、人々の分断を煽っている。 そういう時だけに、このような証言は意味がある。私たちは、客観的に受け止めやすい過去の出来事から、人を取り込み心を支配する「カルト」の怖さを学んでおきたい。
2024.04.25
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「革命ごっこ」に興じる卑劣な暴力学生たち・・・平和も民主主義も無かった学園での活動は、困難を極めた・・・これが、70年闘争!! 2024-4-24 はんぺん 今でも、55年ほど前の、学生運動時代を思い出すことがある。あの陰鬱な我がセクトのアジト(活動拠点)での雰囲気を・・・ 大学が極左暴力で、バリケード封鎖された結果、学内への立ち入りが出来なくなり、どこのセクトも大学近くのアパートなどで、アジト(活動拠点)を作ったようだ。そこで各種会議、宣伝ビラつくり、学習会などを行った。 会議では、同盟員たちから、各学部情報などがもたらされる。誰だれが、全共闘の暴力学生に、殴られた・・・という知らせも・・・また、どのセクトが、こんなビラを撒いていた・・・とか、どのセクトは、こんなオルグをしている・・・とか。 多くの情報が飛び交い、錯綜する中で、分析がなされ、方針が検討されていく。個人の獲得目標が設定されることも・・・ また、全国委員会の委員から、全体の方針、学外の闘争目標が、提起され、全大阪学生総決起行動(集会・デモ)、全関西学生総決起行動(集会・デモ)、全国規模の闘争(10.21国際反戦デーなど)の取り組みが、方針化されていく。 僕が、何にもまして、憂鬱になったのは、当面、自分が闘う相手が、国家権力(政府=自民党)では無くて、学内の他セクト(暴力集団)だった事だ。 自分は、平和と民主主義のために・・・民主的改革の実現のために、権力という巨悪と闘うために、学生戦線に参入したつもりが・・・・なんということか? 自分たちの運動を作るために、まず第1に、実力粉砕叫ぶ、同じ学内の他セクト(暴力集団)から、我々の活動(ビラ撒き・集会・デモなど)の防衛という、情けない任務が、最優先されなければならなかった・・・という現実だ。 こんな状況下で、反戦・反安保闘争が、勝利するのだろうか? 誰が考えても、それは、あり得ないだろう・・・と。 前にも書いたが、全共闘の似非活動家たちの多くは、(革命ごっこ)を楽しんでいた。 多くの情報が、それを証明している。日本赤軍の重信房子・元最高幹部や、連合赤軍のトップだった森恒夫たちの、後の言動や遺書などに、それは、簡単に見て取れる。 「高校生だった当時、赤軍派の一員として暴力に加わっていたという男性に、中東で出会った。いまも罪悪感にさいなまれているという男性は当時を振り返り、「一生かけて総括していかなければいけない」と語った。」(本文) あまりにも、安易な闘争参加は、(思い付き)(不勉強)の結果で、無責任の極みでもあった。そのことで、多くの市民が、傷ついた。いつも、当時の事を思い出すたびに、僕は怒りに身体が震えあがる・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――赤軍派高校生だった私の「罪」 獄中の重信房子元幹部から届いた感想 ラスアルハイマ〈アラブ首長国連邦北部〉=伊藤喜之 2022年6月1日 朝日新聞 半世紀前、日本に「赤軍派」を名乗った若者たちがいた。「革命」を掲げて暴力も辞さず、時には仲間たちにも矛先を向けた。 高校生だった当時、赤軍派の一員として暴力に加わっていたという男性に、中東で出会った。いまも罪悪感にさいなまれているという男性は当時を振り返り、「一生かけて総括していかなければいけない」と語った。 1971~72年、極左組織・連合赤軍が引き起こした「山岳ベース事件」は戦後事件史に刻まれる凄惨(せいさん)な事件となった。群馬県の山中に設置したアジトで仲間をリンチ。極寒の屋外で放置したり、絶食させたりし、12人が死亡した。 なぜ若者たちは身内への暴力性を高めたのか。 「その契機になったのでは……」。事件の3年前に赤軍派の高校生として活動していた大谷行雄さん(70)=アラブ首長国連邦(UAE)在住=が振り返る別の事件がある。 69年7月6日に明治大の和泉校舎で起きた襲撃事件だ。 大谷さんは当時、東京教育大付属駒場高校(現・筑波大付属駒場)の3年生。「労働者階級による世界革命」を訴える共産主義者同盟(ブント)の学生組織・社会主義学生同盟(社学同)の高校生委員として約100人の高校生部隊を率い、東京・湯島の東京医科歯科大の研究棟に寝泊まりしていた。 「高校生部隊を招集してくれ」。襲撃事件前日の5日、赤軍派の田宮高麿・元幹部(後によど号ハイジャック事件を首謀。95年死去)らに声をかけられた。 田宮元幹部は当時、ブント内部の急進左派グループで、68年6月ごろに塩見孝也・元赤軍派議長(2017年死去)が結成した「赤軍派フラクション(赤軍フラク)」幹部だった。 大谷さんが「インテリゲンチアの学生が大半で、もともとは牧歌的雰囲気だった」と振り返るブントだが、当時は内部で路線対立が顕在化していた。 武装闘争を唱え始めた赤軍フラクを警戒するブントの仏(さらぎ)徳二議長らが、組織の「物理的解体」を宣言し、塩見氏らを除名しようという動きもあった。 明大和泉校舎で襲撃決行 赤軍フラクはその動きに反発。高校生部隊を引き連れ、仏議長が潜伏していた明治大和泉校舎の襲撃を決行した。目的は仏氏に除名方針や解体宣言を撤回させ、「自己批判」させることだった。 大谷さんがかつての仲間に事実確認しながら当時の体験をつづり、昨年12月、雑誌「情況」1月号に寄稿した記事「赤軍派高校生の証言」や本人への取材によると、事件は次のようにして起きた。 6日午前5時すぎ、東京医科歯科大に泊まり込んでいた約100人が国鉄の始発電車で御茶ノ水駅から新宿を経て、京王線の明大前駅へと向かった。 早朝の和泉校舎の敷地内で決起集会を始めると、前夜から張り込んでいた偵察メンバーの「レポ隊」から仏氏を発見したとの報告が届いた。大谷さんらは校舎に駆け込んだ。 当初は塩見氏や田宮氏ら赤軍フラクの指導部だけが仏氏のいる教室に入った。しばらくして大谷さんら高校生の一部が教室に入ると、すでに椅子に座らされた仏氏の顔は暴行を受けて膨れあがっていた。 「どうしても要求がのめんらしい。お前らもやれ」 指導部から高校生たちに指示が飛んだ。「殴れ」と命令され、十数人が一人ずつ代わる代わる、仏氏の顔面を殴った。女子生徒も多かったが、泣きそうになりながら仏氏の顔をはたいていた。仏氏は観念したように一切抵抗しなかった。 「足ぐらい折ってやれ」 大谷さんはそう指示された。もう一つの椅子の上に仏氏の右足が置かれ、伸びきったひざの上に大谷さんは自らの尻を落とすようにして座り、全体重をかけて折った。鈍い音がした。 仏氏は命に別条はなかったものの、重傷を負い、現場に駆けつけた警察に逮捕された。別事件での破壊活動防止法違反容疑で指名手配されていたためだ。 その後、塩見氏ら赤軍フラクはブント内部の敵対グループからこの襲撃に対する報復を受け、数週間にわたって監禁された。脱出を図る際にメンバーの一人が事故に遭い、約2カ月後に死亡した。 69年8月、赤軍フラクはブントから除名され、「赤軍派」として単独で活動することになった。 「仏さんの足を折った罪悪感はいまも消えず、そのときの光景は今でも夢にみる」。大谷さんはそう振り返りながら、さらに納得できないことがあったと打ち明ける。 逃げ出せない同調圧力 襲撃事件では、高校生部隊が暴走して、仏議長に対して「メチャクチャ」な暴行を加えたため、指導部は「俺らもやらないと格好がつかない」と仕方なく手を出したという説明を指導部が流布したことだ。 大谷さんは「高校生が勝手にやったというのはありえない」と指摘する。 「教室に入ったときには、すでに指導部だけで暴行していた。暴行するよう指導部から明確な命令があったし、逃げ出せない脅迫的な同調圧力もあった」 大谷さんは半世紀の月日を経て、雑誌「情況」の寄稿で事件の詳細について初めて報告し、「断固抗議したいことがある」として当時の指導部メンバーの説明に反論。そして、「こうした指導部の体質が、後の連赤(連合赤軍)事件で『共産主義化』という名目で仲間殺しに至らせしめたのかもしれないと、今では思っています」と記した。 赤軍派と革命左派が合流して71年に結成された連合赤軍では、明大事件での襲撃に直前で加わらなかった赤軍フラク出身の森恒夫氏(73年に死去)が最高幹部となり、山岳ベース事件を引き起こした。 その森氏とは相いれず、71年にレバノンに渡った後、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に加わったのが、日本赤軍の重信房子・元最高幹部だった。日本赤軍はイスラエルでの空港乱射事件(72年)など各地でテロ事件を起こした。 重信元幹部は極秘帰国中だった2000年に逮捕され、殺人未遂などの罪で服役。今年5月に出所した。服役中だった今年2月には、支援者を通じて大谷さんに記事への感想を寄せた。 重信元幹部は明大事件のあった69年当時、明大生で赤軍フラクに協力していた。仏氏の襲撃には加わっていないが、事件直後に指導部メンバーの指示を受けて和泉校舎に駆けつけていた。 重信氏の感想「凡人のリーダーシップ」 大谷さんの記事への感想では「あらためて目を開かされて、ふりかえれば、あの和泉校舎で何がどう始まり起こったのか? 聞いても塩見さん、堂山さん、花園(紀男)さん、田宮さんは話してくれませんでした」と振り返りつつ、「大谷さんが言うのが事実だろうと改めて思う」と記し、「なぜなら私は当時、(中略)いろいろと指導部のいうことを真に受けて力を尽くしましたが、その後事件や敗北、逮捕、さらには戦線離脱など、『あれ?!』と思うことを時間の経過とともに知ることになり、『自分でがんばるしかない』とやってきたところがある」と続けた。 そして、塩見氏ら当時の指導部の体質について、「まちがいや恰好(かっこう)悪いことは隠す凡人のリーダーシップだったのでしょうか」と疑問を呈して、文章を締めくくっている。 重信氏の親友で明大現代思想研究会でも一緒だった遠山美枝子氏は明大事件の後、連合赤軍に参加し、山岳ベース事件で犠牲になった。 大谷さんは言う。 「牧歌的だったブント内部で赤軍フラクが発生し、党内の分裂がはっきりし、暴力至上主義の内ゲバが台頭してきたと理解している。そのきっかけが仏さんの足を折った私だと思いあがるつもりはないが、個人的に責任を感じている」 大谷さんは70年5月に渡米し、黒人解放闘争のブラックパンサー党などとの連帯をめざした。しかし、月日の経過ともに限界を感じ、政治運動から身を引いた。ジャズクラブ経営やスポーツカード販売業などを手がける30年以上の米国暮らしを経て、日本に戻った時期もあったが、いまはUAE北部ラスアルハイマで経営コンサルタントをしながら暮らしている。 「いまでも70年に日本を離れた負い目を感じる。もしも残っていたら連赤事件で仲間に殺されていた方だったかもしれない」としながら、こう語った。 「当時の我々は正しい部分もあったと思うが、多くの間違いも犯した。一生かけて総括していかなければいけないと思う」(ラスアルハイマ〈アラブ首長国連邦北部〉=伊藤喜之)
2024.04.24
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「公安部の負け」(警視庁)??? 僕は、そうは思わない! 無残な人生は、自己責任の結果だ!! 2024-4-23 はんぺん 一度しか無い貴重な人生を、歪んだ人生に変えてしまった本人の自業自得だろう・・・・としか思えない・・・・多くの他人の人生を無残にも、引き裂いた犯罪だ。逃亡生活を強いられた人生には、まったく同情の余地は無い・・・と思う。 こういう時に、いつも、僕が考えるのは、殺された無関係の人たちの人生の事だ・・・本来、この被害者に寄り添うべきリベラルの一部が、何と言う事か?加害者支援に立ちまわっていることを知り、呆れてモノが言えなくなってしまう! 前に、こう書いた・・・あの日本赤軍の重信房子が、一片の反省の言葉を述べて、刑期を終えて自由になったことに、大きな不条理しか感じない・・・と。 多くの殺人事件を繰り返した彼らが、のうのうと生き続ける事の不合理さ!セクト間の(内ゲバ)で、殺された100人ほどの活動家や5,000人ほどの重軽傷者たち・・・下手人の多くは、結局、捕まらず、不問にされてしまった!! 彼ら加害者、被害者たちには、同情の余地は無い。が、殺人事件、傷害事件は、きちんと責任を取らせねばならない!!!!!! そんないい加減な気持ちで(革命運動)をやっていたのか!!と、僕は、その無責任さに、怒りしか湧いてこない!!まだ、指名手配されている加害者(似非革命家)がいれば、きちんと責任を取らせたいものだ!!! 見つけたら、絶対に通報してほしい・・・そして自分たちが、仕出かした(犯罪)のケジメを付けてほしい・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――桐島容疑者の逃走半世紀、なぜ見つからなかったか 「公安部の負け」 2024年2月27日 朝日新聞 入院先の病院で今年1月、1970年代に起きた連続企業爆破事件で指名手配中の桐島聡容疑者(70)を名乗り、その後死亡した男について、警視庁公安部は桐島容疑者本人と特定した。逃走生活は半世紀に及んだ。 5事件で書類送検へ 名乗り死亡の男、49年逃走の桐島容疑者と特定 桐島容疑者が指名手配されたのは75年5月だった。その直後、広島県の実家に本人とみられる人物から岡山県で潜伏していることをうかがわせる電話がかかってきた。これが、明らかになっていた最後の足取りだった。 49年後の「告白」により、逃走生活の実態が徐々に明らかになった。 住み込みで仕事 バーで酒を・・・ 桐島容疑者は川崎市内で日雇いの仕事などをした後、80年代ごろから神奈川県藤沢市の土木会社に住み込みで働いた。一人暮らしで「内田洋」を名乗り、身分証は持っていなかった。 「うっちゃんは仕事仲間と冗談をかわし、仲良くしていた」。土木会社の取引先の60代男性によると、桐島容疑者はやさしい口調だった。別の土木会社の男性は、「手先が器用で丁寧な仕事をする人だった」と振り返った。車や重機の運転はしなかったという。 白髪交じりの無精ひげ。近場の銭湯に通い、時折バーで酒を飲んだ。 20年近く前から来ていたというバーでは、酒を2、3杯飲み、2千円ほど払って帰った。ジーンズ姿が多く、60~70年代のロックが好き。生バンドの演奏があるとリズムにのって奏者を盛り上げ、DJイベントがあれば腕をあげて踊った。年下の女性から好意を寄せられ、「幸せにできない」と断ったという話をしていたこともあった。「うっちー」と呼ばれた。 なぜ半世紀も逃げ続けられたのか。「もう見つからないかと」 組織から孤立無援か 過激派を追う公安関係者の1人は「過激派の間でも桐島の話は皆無で、消息を絶った後、誰も行方を知らなかった。正直、もう見つからないと思っていた」と言う。「半世紀逃げ切ったことに『あっぱれ』とすら思った」と漏らした。警視庁公安部のある幹部は「悔しいけど、公安部の負け」と苦い顔をした。 元警視庁公安部の捜査員で作家の勝丸円覚さんは「首都圏の都市で人民の海の中におり、地方の田舎よりも目立ちにくかった」と指摘する。 長期逃亡の末に逮捕された日本赤軍元最高幹部の重信房子元受刑者(78)や、中核派の大坂正明被告(74)のケースでは、警察当局は支援者らの存在から潜伏先をつかんだとされる。勝丸さんは「桐島容疑者の場合、組織から完全に孤立無援だったから、警察はきっかけをつかめなかったのだろう」と話す。 桐島容疑者は犯罪歴がなく、警察には指紋の登録がなかったのも行方を追うのが難しかった要因のひとつとされる。 勝丸さんは「桐島は国内にいると思っていた」と話す。その理由として、「日本赤軍や中核派などとは違い、東アジア反日武装戦線は単独のゲリラ兵士の集まりだった。一斉逮捕もあり、組織力がないなかで、偽造パスポートの用意など海外逃亡ができるとは到底思えなかった」と語る。 桐島容疑者が名乗り出るまで見つけられず、勝丸さんは「悔しさがこみあげた。捜査員は悔しさを胸に徹底的に捜査したと思う」と話した。一方、最期に名乗ったことについて「もし仲間がいたなら名乗り出る必要はなく、孤立していたということ。結局はさみしい人生だったと思う」と推し量る。 公安部幹部の1人は「そのまま静かに死んでしまえばよかったのを、最後に名乗ったのは自己顕示欲だ。言いたいことがあるなら逃げ隠れせずに主張すればよかった」と言う。 遺体引き取り手なく 捜査員に告げた「後悔」・・・・・ 桐島容疑者は捜査員から「後悔しているか」と問われ、「はい」と答えたという。 桐島容疑者は鎌倉市内の病院で死亡した。遺体の引き取り手はおらず、逗子市内で無縁仏として荼毘(だび)に付された。 桐島容疑者は過激派「東アジア反日武装戦線」の「さそり」グループのメンバー。連続爆破事件のうち、75年4月の韓国産業経済研究所(東京・銀座)爆破事件に関与したとして、翌5月に指名手配された。桐島容疑者は同事件の関与を否定し、他の爆破事件への関与を示唆していたという。 桐島聡容疑者が関与した疑いがある7件の爆破事件と事件処理1974年12月23日 鹿島建設 2004年に書類送検、不起訴75年2月28日 間組本社9階、1人重傷 共犯者が国外逃亡中で時効停止、書類送検75年2月28日 間組本社6階 時効停止、書類送検75年2月28日 間組大宮工場 時効停止、書類送検75年4月19日 韓国産業経済研究所 時効停止、書類送検75年4月27日 間組江戸川作業所、1人重傷 時効停止、書類送検75年5月4日 京成江戸川橋工事現場 04年に書類送検
2024.04.23
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連合赤軍内にあったという、あまりにも前時代的な価値観と泥臭い人間関係・・・何が「革命」?? それを言うのは、100年早かった?? 2024-4-16 はんぺん 謙虚さを欠いた当時の(学生運動)・・・ということで、当時を振り返ることが多くなった。56年ほど前の話だが・・・鮮明に思い出すことが、多く有る。 僕にとっては、価値観の転換を果たせることになったのが、この1970年闘争前後に関わった(学生運動)だった。僕の人生にとっては、貴重な時期だった。得たモノ、失ったモノがあった・・・と前に書いた。 しかし現実では、永遠に続くと思えたセクト間の党派闘争に嫌気して、僕も含めて多くの活動家が離脱していった。僕が、DSL(民学同)に在籍したのは、わずか、2年と数か月だった。 前に書いた山崎博昭(1967年第1次羽田闘争で死亡、中核派)の大手前高校時代の友人たちの多くが(京大・同志社大・立命大など)入学して、すぐに(学生運動の現実)に絶望して、1970年を待たずに、脱退・撤退していったように・・・・ 受験勉強に明け暮れて、世間知らず、人生経験の乏しい(青2才)の(革命論議)は、当時の僕自身を思い出しても、恥ずかしい限りなのだが・・・ その中でも、過激派とオダテラレタ面々は、(若気の至り)では、済まない事件を何度も(仕出かしてしまった)。そして、多くの市民を巻き添えにしたあげく、仲間殺しまで・・・その後、20年近い(内ゲバ)で、100人以上の死者、5,000人以上の重軽傷者を出すに至る。 この世代・・・逃げ足の速いヤツが多かったのか? きちんと(総括)を試みたものが、(60年安保闘争時と比べて)驚くほど少ない!!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――連合赤軍「元兵士」からZ世代への告白 平行線の議論が交わった瞬間 清水大輔 2022年8月16日 朝日新聞 かつて共産主義社会の実現のため暴力による革命を志した「元学生」と、SNSを通じた社会との関わり方にたける「Z世代」と呼ばれる学生とによる異色の対談が6月半ば、都内で開かれた。 世の中を変えるためには「今も昔も武力が必要だ」と一方が言えば、もう一方は「全く想像できない」。半世紀をまたぐ新旧学生間の対談はかみ合わないまま終わるかに思えた。しかし、「元兵士」の「告白」が端緒となり議論は思わぬ方向に進んでいく。 シンポジウムは「あさま山荘から50年 多様な視点から考える連合赤軍」。1972年2月に長野県軽井沢町で起きた「あさま山荘事件」から50年となったのを機に、元メンバーなどからなる「連合赤軍事件の全体像を残す会」が主催した。 あさま山荘事件・・・・1972年2月19日、連合赤軍メンバー5人が長野県軽井沢町の保養施設「あさま山荘」に侵入し、管理人の妻(当時31)を人質に立てこもった。警察は建物を包囲したが、ライフル銃や猟銃、拳銃、手製爆弾も使って抵抗した。 これに対し、警察は28日から強行作戦を開始。激しい攻防の末、発生から219時間後、3階で人質を救出し、5人を逮捕。警視庁の警視と警部が銃弾を受け、殉職した。 連合赤軍とは71年末に結成されたグループで、共産主義社会を実現するため、武力を用いた革命を企てた。闘争のための現金を銀行などから強奪した「赤軍派」と、栃木県内の銃砲店から猟銃などを奪った「革命左派」という二つの組織から成る。 集会にはいずれも革命左派元メンバーの岩田平治さんと雪野建作さんが参加した。映画監督の森達也さん、作家の雨宮処凛さん、連合赤軍を描いた漫画家の山本直樹さんらと事件の背景について語り合った。 「元兵士」たちが学生運動にのめりこんだ理由 岩田さんと雪野さんが学生生活を送った60年代後半から70年代初めは、ベトナム反戦や安保闘争などが巻き起こった「政治の季節」だった。岩田さんが東京水産大に入った70年、学生寮は様々なセクト(党派)、ノンセクトの集まる「巣窟」で、自然と学生運動にのめり込んだ。「口先だけの議論ではなく武力という裏付けがなければ世の中は変えられない」と思うようになった。 雪野さんは横浜国立大に入学後、革命左派に参加した。71年2月の銃砲店襲撃に加わり指名手配。連合赤軍結成前の71年8月に逮捕される。 2人の話では、連合赤軍が「あさま山荘事件」を起こすまでの経緯は次のようなものだという。 世の中を共産主義化するには話し合いによる平和的な手段ではなく、「武装闘争」によらなければいけない。それを実行するには「兵士」が必要で、兵士を育成するために山中のアジトで軍事訓練を行った。 肉体的な訓練だけでは不十分で、精神的な弱さを克服するため、各自の「弱さ」を批判し合う「総括」がなされるように。 閉鎖された空間の中で、それが暴走し、岩田さんも関わることになる暴力的な集団リンチ、果てはリンチ殺人が行われていった。組織は弱体化し、残された5人のメンバーが逃げ込んだ民間施設で起こしたのが「あさま山荘事件」だった。 頭髪指導に疑問、ドキュメンタリー映画を撮ったZ世代 こうした説明をステージの最前列で聞いた後、3人の大学生が登壇した。明治学院大2年の中村眞大さん(19)と早稲田大1年の安達晴野さん(19)は都立北園高校の先輩後輩の関係だ。中村さんは高校時代、仲間とともに母校で行われた頭髪指導をテーマにドキュメンタリー映画「北園現代史 ~自由の裏に隠された衝撃の実態~」を制作した。 作品は自由な校風で知られた学校で行われる頭髪指導に疑問を抱き、生徒自ら教師やほかの生徒、保護者、卒業生らへ取材することで校則や学校における自由のあり方を問いかける内容だ。 作品の中で生徒会長として登場するのが安達さん。2人の携わった映画がYouTubeで公開されると、大きな反響を呼んだ。今回の集会に参加したのも、取材した中に、赤軍派に加盟し指名手配された経験を持つ卒業生がいたことが縁だった。 入管問題をSNSで意識共有 もう一人の登壇者は国際基督教大1年、宮島ヨハナさん(20)。宮島さんは入管における人権侵害に異を唱えるため、インターナショナルスクールの高等部3年だった昨春、出入国管理及び難民認定法(入管法)改正案に反対する集会をSNSなどを使って呼びかけた。 宮島さんの父親は牧師で、入管の施設収容を一時停止されている「仮放免者」の保証人をしている。そのため宮島さん自身、幼い頃から仮放免者たちと交流があったという。 そうした交流のつながりから小学校高学年の頃に英語の家庭教師をしてくれた女性がいた。その女性が、仮放免後にホームレスとなり、病気が悪化して亡くなったことを知る。「もし入管で適切な医療を受けられていたら……」。宮島さんは問題意識を深め、インターナショナルスクールの卒論テーマで入管を取り上げた。集会を呼びかけたのも自分と同じ若い世代を中心に問題意識を共有したかったためだ。 武力、何のため 対話はどこまで可能か 壇上で中村さんと安達さんは「元学生」に問いかけた。「武力が伴わないで何かを変えることはできないのですか」「武力は何のために持つのですか?」 学校という「権力」と向き合う際、2人が用いた手段はあくまで「対話」。自分たちの考えを世の中に訴える際に利用したのはSNSだった。 問いに対し、岩田さんはウクライナ情勢を引き合いに「今の世の中も武力で動いている」と答え、話は交わらなかった。 宮島さんが入管内での人権侵害について訴える際に用いた手段は「デモ」。気持ちは2人の学生と同じだった。 宮島さんは「職員が悪いというより、職員が(収容者を)暴行することを許す組織や制度が悪い」。閉鎖的に思える入管の体質と、閉鎖された組織内で暴走を許した連合赤軍とを比較しながら、両者の共通点を見いだそうとしているようにも見えた。 「(暴力を)阻止する方法はあるのですか?」という宮島さんの投げかけに対しても、岩田さんの答えは「なかったと思う」という容赦のないものだった。 革命より「彼女」を優先 兵士を放棄 岩田さんは殺人などの罪で服役する間、なぜ事件が起きたのかを考え続けたという。そして、その手がかりを評論家・吉本隆明の「共同幻想論」の中に見いだしたという。 壇上で岩田さんは、集団で掲げた「革命」や「革命戦士」という「共同幻想」を前に、「人権」を含めた個々人の存在や「平和」という考え方は押し殺されていった、という趣旨の説明をした。抽象度の高い話だった。両者の溝は深まるばかりに思えた。 ところが、その説明の次に岩田さんはこんな「告白」もした。「私はついて行けなかった」 山岳アジトで集団リンチ殺人が起きる初期の段階で岩田さんは連合赤軍から脱走する。それは、組織の幹部から、当時交際していた彼女を山に連れてくるように指示されたことがきっかけだった。 岩田さんが服役中にたどり着いた「総括」に従えば、自身との個人的なつながりに過ぎない「彼女」という存在は、革命という「共同幻想」を前にすれば優先すべき対象ではなかったはず。「(当時は)革命が間違っているとは思っていなかった」にもかかわらず、岩田さんは最終的に「兵士」であることを放棄して、「彼女」を選び、「逃げた」というのだ。 すかさず雪野さんが「ついて行けなかった、というのは実は大事な視点だった」と語った。「言葉で説明することが出来なくても、納得できないことがあれば、自分の感性を信じてほしい」と学生に語りかけた。 人と違っていいんだという、それまでの「理論」とは全く異なる「素」の言葉が呼び水となって、ここから3人の学生は一気に語り出した。 宮島さんは「きれいごとに聞こえるかもしれないけれど」としつつ、こう言った。 一人ひとりの違い、尊重を 「この社会は一人ひとり違うと思う。バックグラウンドもジェンダーもどこの国から来たのかということも。違いを認め合うことが私の理想。今は理想とほど遠いけれど隣の人を尊重し、愛し合って、高め合っていくのが理想だと思う。少子化も、外国人労働力が必要ということも、入管の問題も。どんな人でも安心して暮らせる社会、生きやすい社会が理想だ」 中村さんは「ヨハナさんに共感する」と言い、「今はものごとを一側面からしか見ない人が多い」と指摘した。例として挙げたのが1月に沖縄県沖縄市内の路上で警察官と接触した男子高校生が大けがを負った問題だった。 当初「故意にけがを負わせる行為はしていない」という警察側と、「警察官がいきなり目の前に現れ、警棒で殴られた」という高校生側とで証言が食い違っていたが、その後高校生のけがは警棒によるものだと明らかになった。一方、SNS上ではこの高校生が暴走行為をしていたといった事実無根の情報も広まった。 中村さんは高校生の「暴走」を「たたく」一方的なSNS上の反応に「ショックだった」という。高校生が夜間に出歩いていたことと、警察官の行動で失明したことは「別問題」のはずなのに、けがをしても仕方ないといった論調で高校生が責め立てられたことに強烈な違和感を覚えたのだ。 そのことを踏まえ、連合赤軍についても「『テロリストだ』という部分だけを取り上げ、(事件が起きた)背景を無視してきた」と述べた。「一つの物事に対して一つの側面だけではなく複数の視点から見る人がたくさんいることで、多様性を認める社会になる」と語った。 安達さんは今の社会について「自分と違ったものを受け入れることが自分を否定することになると勘違いしている人がいる」と発言した。同じ趣旨の言葉が「北園現代史」の中でも語られている。安達さんは学校の教師に対しこう話す。「自分には髪を染めたいという感情はないんですが、もしも髪を染めたいという人がいれば、染めてもいいと思う」 「武力(暴力)がものを言う。それは今も変わらない」と話していた岩田さんに対しては「暴力がなくても社会は変わると思っている」と反論した。その根拠として、今年度から東京都立高校を中心に「髪の一律黒染め」や「ツーブロック禁止」といった「ブラック校則」が廃止されることになったことを挙げた。「北園現代史」の反響が大きかったことや、学校での頭髪の問題に取り組む都議らと交流してきたことが「社会を動かす力の一部になった」と感じているという。 悩んだら感性に従え 集会の最後、安達さんはこう締めくくった。「自分が声をあげることで社会が変わるんだということを実感した。ゆっくりだけど、社会はきっとよくなるし、自分がよくしていきたい」 集会後、しばらく過ぎてから安達さんと宮島さんに対談について振り返ってもらった。 安達さんは「暴力は必要」という言葉に途中まで「モヤモヤしていた」という。しかし「すごい遠くにいる」と思えた元活動家から最後になって「悩んだら感性に従え」と言われたことが大きかったという。「あの言葉に救われました」 宮島さんは大学の授業で国際法への関心を深めているという。「強制力」はなくても、問題解決のために諸外国同士で結束することができるからだ。入管法改正案が廃案になったのもSNS上で批判や反対の声が広がった末のことだった。「暴力が伴わなくても、SNSを含め民主主義的なプロセスで連帯することで社会をよくすることはできると思う」 岩田さんは「個と個の間では易しいかもしれないが、集団の中で自分の感性を伝えるのは難しい」と言った。ただ、それは自分を含め組織の暴走を止められなかった過去を開き直るものでも、学生の考えを否定するものでもない。「武力がないと権力を維持できない現実はある。しかし、若い人にはそういうところを解決していってほしい」 (清水大輔)
2024.04.16
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左翼テロで亡くなった多くの市民は、生き返ってはこない・・・洗脳と宣伝で多くの学友大衆は、全共闘や赤軍連中の敗北主義に付き合わされたのだ 2024-4-1 はんぺん あの時代を、よく思い返す。人間は、よく過去を美化する傾向があるというが、どうしても、そんな気になれない自分がいる。 世の中を改革(革命)して幸せな社会をめざそうという、僕たちには、若い心意気があったから・・・それが裏切られた、その反動は、あまりにも大きい。 (裏切られた)というよりも(騙された)という方が、正確だ。洗脳されたということだ。 「非常に簡単に言ってしまえば、世の中から完全に浮いている、ということです。貧富の差や階級対立だけでなく、自覚的な市民や学生が世を変えていく原動力になるとかつては漠然と信じていた。でもそれは思い上がりでした。」(本文:安彦良和) 「このまま日常が続いていった果てに『革命』が訪れるなんてあり得ないことに、かなり早い段階、遅くとも安田講堂の攻防戦のころには気づいていました。にもかかわらず、ほとんど惰性的に運動を続けているのは相当に醜悪なんじゃないか、そういう自己嫌悪です」(本文:安彦良和) 当時の(活動家?)の大半(僕も含めて)は、(70年安保、学園闘争などに勝利することなど、あり得るのだろうか? いや、あり得ないだろう・・・)と感じていたハズだ。 しかし、欺瞞的にも(闘争)は、続けられた。大海に突進するレミングのようにだ。特に、全共闘や極左冒険主義者たちは、そもそも(玉砕)することで、自己の正当化を画策したように、僕には思えた。 あの東大闘争での「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」の落書きは、敗北主義のフレーズだと、よく言われるが、僕は、無責任極まりない、唾棄すべき、子供の言葉遊戯だと思っている。いつも反吐が出そうな気分になるのだ。 自分たちだけが、唯一正しく、誰が何と言おうとも(=どんなに社会に害毒を流そうとも)、やり抜くのだ・・・という事だろう。思い上がり、のぼせあがり・・・ヒロイズム・・・シニカルで、ペシミズム・・・こんなリーダーたちに、多くの学友大衆は、洗脳され、扇動されていたのだ・・・・そこで、思い返してほしい。あのテルアビブ乱射事件を起こした日本赤軍・・・その重信房子が、その後、 「ニュースに取り上げてもらうような事件を起こすことで、自分たちの訴えをアピールしようとした」だと、彼女は(ほざいた)のだ。また、重信が一連の事件を振り返り、「ほかのやり方があったら良かったし、手段を考える機会をもった方が良かった」と反省の言葉を口にしたこともあったという。(娘の重信メイ談)・・・「もっと他のやり方があった」と(反省?)している???? そんなことを、事件後に言われても、亡くなった多くの市民は、生き返ってはこない・・・後悔先に立たずで、(彼らの運動の軽さ)については、ホトホトあきれ返ってしまう・・・(参考)日本赤軍=多くの殺人を犯した(無差別テロ犯)の一刻も早い検挙を!!! (逃げ得)は、許されないぞ・・・・ 2022-6-2 (はんぺん)https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202206020000/ 連合赤軍事件から、何を学ぶか? リベラルたちは、学んだか??https://plaza.rakuten.co.jp/hannpenn/diary/202105270000/ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――連合赤軍が残した深い傷 政治の時代の終わりとサブカルへの違和感。ガンダムと戦争と歴史と 安彦良和が語る 聞き手・石川智也 2022年6月20日 朝日新聞 のちに「機動戦士ガンダム」の作画監督として名を成すことになる安彦(やすひこ)良和さん(74)。アニメ業界に生活の糧を得て働き詰めになっていたころ、古傷をうずかせるような事件が起きた。 連合赤軍メンバーによるあさま山荘事件は人々をテレビに釘付けにしたが、その後発覚した同志12人リンチ殺人事件は、世を震撼(しんかん)させることになる。逮捕されたメンバーには、安彦さんの弘前大全共闘の仲間で、大学本部封鎖でともに処分された5人のうちの2人、植垣康博さんと青砥幹夫さんの名もあった。 【連載】ガンダムと戦争と歴史と 安彦良和が語る「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人、安彦良和さんに新作公開を機にその世界観を存分に語ってもらいます。 連合赤軍事件によって学生運動はとどめをさされ、新たに若者の心を捉えたのは、アニメや漫画といった「サブカル」だった。新人類世代が牽引(けんいん)するそのブームの下で寵児(ちょうじ)となった安彦さん。しかし心中では、違和感が澱(おり)のように積もっていた。 ――運動仲間だった植垣さん、青砥さんが事件に加担していたことを知った時は、何を思いましたか。 「すーっと心が暗くなるような絶望感というか……。わずか2年ほど前に自分と同じ立場にいた者が軍事訓練のために山に入り、そこで同志殺しにまで手を染めていた。なぜそこまで、と」 〈連合赤軍は赤軍派が革命左派と統合し1971年7月に結成される。 幹部が指名手配されるなどして次第に追い詰められたメンバー5人は72年2月、長野県軽井沢町のあさま山荘に人質をとって10日間立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げた。 人質は救出されたが、警察官2人を含む3人が死亡。事件後の容疑者の供述から山岳ベース事件(仲間12人をリンチ殺人)や印旛沼事件(革命左派が離脱者2人を殺害)が発覚した。 逮捕者は17人。リンチ殺人は最高幹部だった森恒夫元被告(73年に拘置所で自殺)と永田洋子元死刑囚(2011年に獄中で病死)が主導したとされる〉 「集団の病理」では説明つかない 「誤解を恐れず言えば、新左翼運動、特に全共闘には、ある種の軽さというか遊びがありました。よど号をハイジャックした赤軍派の宣言『我々は“明日のジョー”である』もそうですが、ヤクザ映画やロックや漫画に意識的にすり寄り、悪ぶって不真面目さを気取っていた面があった。 でもそういう軽薄さ、しゃれが許されて自由があるところが、仲間を査問にかけて排除するような四角四面で非人間的な旧左翼とは違う点だと、僕は肯定的に捉えていたんです」 「左だろうが右だろうが、スターリニズムこそ乗り越えなければならない、というのが僕らの世代の共通認識だったはずです。にもかかわらず、こんな人間性のかけらもない事件が起きてしまった。自分たちの信じていた大義は何だったのか。そんな絶望感です」 〈リンチ事件は、「水筒を持参しなかった」「化粧をしていた」「キスをしていた」といったささいなことを理由に、革命闘士としての自覚が足りないとして「自己批判」「総括」を求め、その「援助」のためと称して殴ったり木に縛り付けたりするものだった〉 ――植垣さんは自著「兵士たちの連合赤軍」やメディアのインタビューなどで「組織の論理が事態をエスカレートさせた」「あの2人(永田、森両元幹部)でなくても同じことは起こり得た」と振り返っています。その後のメンバーの回顧や識者の評論などでは、「スポーツ界のしごきやイジメなど、現在の日本社会にも残る集団の病理が事件の要因」といった分析もありました。 「それはちょっと違うと僕は思います。閉鎖世界の極限状態で起きた集団心理という側面はもちろんあったでしょうが、根っこにはやはり、マルクス・レーニン主義特有の思想性があったと思います。 それは言葉の呪縛、観念の呪縛で、宗教にも通じるようなドグマに彼らはとらわれていた。物理的に縛られる前に、『革命』『武装闘争』『戦士』という言葉に、観念的に縛られてしまっていた。『反革命』と認定されることを恐れ自ら『総括』し、仲間の暴力死すら『敗北死』なのだと自らを納得させてしまう。二重に縛られていたんです。だから抵抗できなかった」 沈黙は傷の深さゆえ 「連合赤軍事件は、革命の名の下に多くの人々が粛清された歴史上の事件との共通性の方が多い。植垣は『自分たちが革命を成功させていればポル・ポトになっていた』とも述懐しています。 次元や規模は大きく異なるものの、血の一滴も通わない毛沢東主義によって最大200万人もが虐殺されたカンボジアの悲劇の、まさに先取りだったと思います。日本的な現象だとか、イジメと共通するなどと相対化し一般化してしまうと、この問題を見つめ検証したことにはなりません」 「それから、連合赤軍事件をきっかけに学生運動や新左翼運動が退潮したという見方は、違うと思います。僕らはもっと前から挫折していた」 ――安彦さんや植垣さんが関わった弘前大のバリケード封鎖が失敗した後に「敗北感」を感じた、と話されましたね。あれはどういう意味だったのですか? バリケード封鎖失敗後の「敗北感」について語った連載第3回はこちら 「非常に簡単に言ってしまえば、世の中から完全に浮いている、ということです。貧富の差や階級対立だけでなく、自覚的な市民や学生が世を変えていく原動力になるとかつては漠然と信じていた。でもそれは思い上がりでした。 このまま日常が続いていった果てに『革命』が訪れるなんてあり得ないことに、かなり早い段階、遅くとも安田講堂の攻防戦のころには気づいていました。にもかかわらず、ほとんど惰性的に運動を続けているのは相当に醜悪なんじゃないか、そういう自己嫌悪です」 「それでもベトナム反戦だけは自分の中では大きなよりどころだったし、少なくとも、安保体制を前提にした戦後民主主義のウソや矛盾を、社会騒乱を起こすことによって噴出させることはできるんじゃないか、とは思っていました。それで大学を占拠したり機動隊に石を投げたり物を壊したりといったことを正当化していたわけです。そういう自分たちの無責任さにも気づいていて、苦しい日々でした」 「そうした矛盾に嫌気が差した仲間の多くは、とっくに運動から離れていました。だから、連合赤軍事件は、とどめの一打だったということです」 ――全共闘世代は、60年安保世代と比べて体験を語ることをせず、沈黙を保ってきたと評されてきました。 「植垣とともに同志リンチ殺人に連座した青砥は『傷の深さ』が理由だと言っています。結局は対米従属の現実を変えられなかったばかりか、社会運動に陰惨と憎悪の臭いをまとわせてしまった無力感と罪悪感。それは僕も同じで、だからこそ昔の仲間とはずっと付き合わないというスタンスでした。長い沈黙は、我々の体験の空疎さではなく、重さ、巨大さの証しだと思います」 「でも、若者だった我々も、もう老境。人生の後処理をしなければならない時です。薄っぺらいと感じていた『戦後』もすでに『歴史』と呼べるくらいの質量に達しました。来し方を振り返り、時代の中に位置づけ、きちんと検証すべきでしょう」 重信氏に語ってほしいこと 「沈黙というけれど、一部の人はむしろ冗舌で、『俺たちは闘った。近ごろの若者はもっとしっかりしろ!』などと、妄想じみた美化をして恥じない者もいる。そういう歴史性を欠いた『ガラパゴス左翼』的な人たちの拡声された語りに体験をゆがめられないためにも、当事者たちが責任をもって語るべきじゃないか」 ――連合赤軍の源流のひとつである赤軍派の創設メンバーで、後にパレスチナに渡り日本赤軍を立ち上げた重信房子・元最高幹部が5月末、刑期満了で出所しました。 「日本赤軍は75年、マレーシアの米国大使館などを占拠したクアラルンプール事件を起こし、公判中だった連合赤軍の坂東国男らを超法規的措置で国外に逃亡させた。77年には日航機をハイジャックしたダッカ日航機ハイジャック事件で同じようにかつての仲間の釈放を求めたけれど、名指しされた植垣は釈放を拒み、公判に臨んで事件に向き合い続けました。それはひとつのスジの通し方です。でも、僕には重信らの思想や行動の一貫性というものがどこにあるのか、よく分かりません」 サブカルの中心で疎外感 「よど号事件のメンバーたちや重信が出国しなければ、あるいはよりましな指導者だったら、森恒夫が赤軍派を率いることもなく、あの事件も起きなかったかもしれない。多数の犠牲者を出したテルアビブ空港乱射事件など数々のテロをどう正当化しているのか、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)との『共闘』はどうなったのか、なぜ帰国したのか、連合赤軍事件への自分の責任をどう感じているのか……。つじつま合わせのような観念の言葉ではなく、本心できちんと語ってほしいと思います」 ――連合赤軍事件で完全に「政治の時代」は終焉(しゅうえん)を迎えるわけですが、その後に「サブカルの時代」が訪れた、とかねて言っていますね。 「全共闘世代にすでにその萌芽(ほうが)はあったんです。サブカルチャーの先駆者と言われた寺山修司が若者の支持を得て、ジャズやロックが流行したというだけではなく、漫画ブームが起きて、少年マガジンを手にする大学生の姿は社会現象にもなりました。それは従来の価値観からすれば異様な光景だったからです。僕も『大学生にもなって漫画かよ』と思いつつ、そうした軽さを人間味として肯定的に捉えていた」 「ただその後、政治への関心が急速に薄れていき、趣味性の世界だけが残りました。『面白さ』を求めて軽快に生きる『シラケ世代』が、日の当たらない存在だった漫画やアニメの新たなブームを牽引(けんいん)し、もはやサブではなくカルチャーの主流を形成していきました」 「でも、そのサブカルのまさに中心と言ってよいところにいながら、僕は疎外感を感じ続け、結局のところ、アニメ業界からも『ガンダム』からも足を洗うことになるわけです……」(聞き手・石川智也)
2024.04.01
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「革命と叫びながら何ができたのです。14人を殺しただけ。もっと世の中を広くみて人の愛、情を理解する素直な人間になることです。」(仲間殺しの犠牲者=赤軍派兵士:遠山美枝子の遺族の実母の手紙から) 2024-3-31 はんぺん ・・・・こんな時代が、僕の若い時代には、あったということだ・・・・「社会主義思想」「マルクスレーニン主義」に、多くの若者たちが、洗脳され、人生を悲惨なモノに、してしまった。 取り返しのつかない事件だった。殺された12人の仲間(同志)たちは、2度と、戻ってくることは無い。 本人たちも、さぞ無念だっただろうし、遺された家族たちの悲嘆、慟哭は、いかばかりだったろうか? (あの多数の犠牲者を出したテルアビブ空港乱射事件を起こした重信房子たちの、日本赤軍についてだが)以前、このブログで、こう書いた・・・・今ごろ「もっと他のやり方があった」(重信房子)と言われても、殺されたものは・・・永遠に浮かばれることは無い。なぜ、彼らを死刑にしないのだろうか? 今でも、この僕の考えは、変わらない・・・ 死刑が、残虐だとは思わない、それ以外の選択肢は、あり得ない・・・ それだけ。 現在でも、旧赤軍派の支援者の中には、事件による多くの被害者に寄り添うのではなく、(元赤軍派の)加害者たちに寄り添い、支援を続けているグループが、あると聞く・・・・何という事だろう・・・ 僕は、あの多数の犠牲者を出したテルアビブ空港乱射事件で、何の意味も無く殺された民衆たちに、寄り添うことなく、自分たちの正当性ばかりを叫び続ける(左翼小児病)が、人間の最大の弱点ではないか? と考えている。 それは、洗脳から解放される事無く、反省できず、居直り続け、独裁国家を狂喜させ続けてる日本リベラルとオーバーラップする。 人類の未来は、暗い・・・と、ずっと言い続けてきた僕の余生は、あと10年も無いハズだ・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――止めなかった、仲間の後悔 2024年3月27日 朝日新聞 現場へ! 連合赤軍「指輪物語」④世の中を変えよう、革命を起こそうと盛り上がった学生運動の挫折となったのが、1971~72年に起こった連合赤軍(連赤)事件だ。あさま山荘での銃撃、仲間を殺害したリンチ事件の凄惨(せいさん)さに、人心は離れ、学生運動は急速に衰退していった。 連赤のリーダーで、永田洋子(2011年に獄中で死去)と共に主犯とされた森恒夫は、裁判がはじまる直前の73年1月、獄中で「自分を総括する」と自殺した。28歳だった。 彼はその2カ月前に、群馬県の山岳アジトで命を落とした遠山美枝子の母、幸子(ゆきこ)(100歳)に長い手紙を出していた。 〈美枝子さんのことについて心からおわびします。私が犯した行為は本当に阿修羅の権化、地獄の餓鬼といわれるべきことで一片の人間性のない行い〉とはじまる森の手紙には、美枝子が山岳アジトへやってきた経緯が記されていた。 * 〈美枝子さんは非合法の(赤軍派)中央軍に女性としてはじめて入るんだという希望を誇りを持って昨年12月初旬から私たちと行動を共にしました〉 永田が美枝子の批判を始めたのは、山梨の山岳アジトにいた時だった。指輪に端を発し、化粧、髪形、服装にまで及んだ。 森は、永田ら革命左派が以前から取り組んできた女性問題の見地からの批判だと理解した。男性中心の組織だった赤軍派は〈女性問題はわからないので美枝子さんを援助しなかった〉と幸子への手紙で弁明している。 この時、山岳アジトにいて現場を目撃した岩田平治(72)は、当時20歳。永田が率いた革命左派に属していた。 「最初は和気あいあいとした雰囲気でした。だから永田が遠山さんの指輪うんぬんと一方的に言い出した当初は冷めた目で見ていた」と振り返る。 指輪を外さない美枝子に対し、永田は「女性兵士は男性兵士以上に努力しなければならない」とやり玉にあげた。 群馬・榛名山のアジトに移動してから雰囲気は一転した。今度は森も同調した。美枝子は指輪を外したが、全体討論で総括のターゲットにされた。 「指輪に象徴される『女らしさ』を自分たちの中からたたき出さないとダメ。女である前に革命戦士だ、というのが永田らの主張でした」と岩田は言う。「共同幻想」を突き詰め、恋人、家族など個人的な弱さは切り捨てろ、と「総括」と称した集団リンチが止まらなくなった。 * 美枝子が死亡した72年1月7日の翌朝、岩田は、永田らの命令で名古屋へ向かった。「もうついていけない」とそのまま脱走。出頭して逮捕された。 翌年の7月9日、獄中から幸子へ長い謝罪の手紙を書いた。 〈本当にあの時、どうして「もうこんなことはやめよう」と言わなかったのだろうと後悔しています。何とおわびしてよいやらわかりません〉 今回の取材で50年ぶりに幸子への手紙を読んだ岩田は、「今思うととんでもないことだが、当時は革命を起こすと信じていた。私が脱走した後も、妊婦だった仲間まで殺したと知り、本当に落胆した」と語る。 一方、幸子は手紙にこうつづっていた。〈革命と叫びながら何ができたのです。14人を殺しただけ(略)。もっと世の中を広くみて人の愛、情を理解する素直な人間になることです〉=敬称略(森下香枝)
2024.03.31
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(殺し合い)が・・・当たり前の学生運動だった!! 内ゲバ その3 ウイキペディアから・・・・^ a b c 犯罪白書^ a b c d e f g h i 昭和50年 警察白書 第7章 公安の維持 3 暴走を続ける極左暴力集団^ a b 川口事件と現在 1.内ゲバの歴史|外山恒一|note^ 昭和48年 警察白書 第7章 公安の維持 表7-9 内ゲバ発生状況(昭和43~47年)^ 北田暁大, 白井 聡, 五野井郁夫『リベラル再起動のために』p.38^ 謀略粉砕・走狗一掃 - 革マル派^ カクマル批判アーカイブ - 中核派 ^ 「業をにやしたマル学同側は、近くの材木屋から大量の角材を買ってきて、これで武装して突撃した。これが角材が登場したはじめての事件であるとともに、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバのはじめである。(略)この角材によるゲバを指導したのが、マル学同に移行した清水丈夫全学連書記長である。 (略)しばしば、今日の殺し合いにまでエスカレートした内ゲバが、どこからはじまったのかの議論になると、結局、このときの角材使用開始にまで話がさかのぼっていく。 マル学同は、ほぼ全体が革マル派に移行したが、清水氏は後に中核派に移行したので、この日まで議論をさかのぼらせても、互いに相手側に責任をなすりつけあうことになる。」(立花隆 1975, 上巻) ^ a b 立花隆 1975, 上巻^ 「10月6日に日比谷公園でおこなわれた全学連の統一行動で、やっかいな問題が起こったのだった。法大処分闘争に関する中核派のビラの中で、ブントと解放派が批判されていたのだが、これに怒った解放派の全学連書記局員が中核派の書記局員・丸山淳太郎さんを殴ってしまったのである。その場はなんとかおさまったが、明くる7日のこと。8日の行動の打ち合わせで法政大学に行った解放派の書記局員・渡木繁さんと高橋孝吉さんを中核派が拉致し、長時間のリンチをくわえる事態になってしまったのである。大闘争の前日に、三派全学連はとんでもないことになったわけだ。中央大学に集まっていた社学同や解放派は堂の長椅子を解体してゲパ棒を作ると、法大に押しかけて抗議し、解放派の書記局員を救出した。双方がゲバ棒を押し立てての対峠だったけれども、さいわい直接の衝突はなかった。」(荒岱介 2008) ^ 高木正幸『全学連と全共闘』^ a b c d e f g h i j k 昭和50年犯罪白書,第3編第2章第3節過激派集団の犯罪,1975(昭和50),法務省^ テロ・ゲリラを展開し暴力革命を目指す過激派『焦点269号、警備警察50年』警察庁平成16年^ a b c 毎日新聞社 1998^ 「前日に続き反帝全学連の主流社学同統一派と反主流の社青同解放、社学同ML両派が乱闘し、全学連大会流れる」^ 「9/11 3日間、中核派と民育系が乱闘した法大で1000人超す一般学生が両派を学内から追い出し事態収拾」(毎日新聞社 1998) ^ 「11/11 大学統合移転で紛争の静岡大法経短大学部で、大学占拠をめぐり代々木系と反代々木系学生が乱闘、40人けが」(毎日新聞社 1998) ^ 「『大衆団交』貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する日共系学生と乱闘となり、約70人が負傷。」「図書館封鎖で全学封鎖めざす全共闘と代々木系が角材で乱闘」(毎日新聞社 1998) ^ 「教養では代々木・反代々木の衝突に教官がスクラム組み割り込んで拡大を阻止。」(毎日新聞社 1998) ^ 「図書館前(本郷)で学生5000人と教官800人による提案集会が3時間余開かれるが、加藤総長代行の発言はたった3回、しかも『なぜ、私のいうことを聞いてから議論しようとしないのですか』がただ1回ハッキリ聞こえただけ。大学当局の『提案集会』に対して全共闘は『粉砕』、日共系は『阻止』集会で対抗し加藤代行を奪い合ったため。流会後、両派が衝突を繰り返した」(毎日新聞社 1998) ^ 解放派の動員力低下を、革マル派は解放派を叩き潰すチャンスと見た。1968年11月もおしつまったある日、「党派折衝」に名を借りて革マルは早稲田の解放派の主だったメンバーを呼び出してテロを加える計画をたてた。組織性に欠ける解放派は全学のキャップだった浜口竜太(りゅうた)ひとりがのこのことあらわれ、テロでやられたのは浜口一人だった。早稲田の解放派メンバーは早稲田構内に入れない状態になり、東大駒場の教職員会館を拠点にして全国動員で革マルとの武装対峙に入った。(高原駿『沈黙と軌跡』) ^ 『12・8緑会のビラ』「ながらく早大で第1政経自治会、文連、東大闘争等をめぐり争っていた革マルと社青同解政派」(毎日新聞社 1998) ^ 『12・8緑会のビラ』「革マルと社青同解政派は、一昨夜早大で乱闘を行なった。これをめぐり5 日夜 10時頃 東C社青同解放派約70名は駒場寮マル研の(革マル派の部屋)を襲い、洞田某を監禁し、立て看に油をかけて燃やした。急をきいた革マル(早大・東大etc)約50人は完全武装でかけつけ、社思研(社青同解放派の部屋)を襲った。この襲撃で白形、松本ら10人近くが負傷し、うちひとりが脳内出血の重傷を負った。」(毎日新聞社 1998) ^ 「12/6 東大教養学部駒場寮で社青同解放派の部屋に早大等の革マル派とみられる学生約50人が角材・白ヘルメット姿で押しかけ乱闘、止めに入った寮生8人が負傷」(毎日新聞社 1998) ^ 「教養学部での反代々木系革マル派と社青同解放派の学生同士の対立激化し、駒場察前で200人が衝突」(毎日新聞社 1998) ^ 「警視庁は田村二郎教養学部長に対し『今後、衝突があった場合、大学側の要請がなくても警官を学内に立ち入らせることもある』との警告書を渡す」(毎日新聞社 1998) ^ 「東大教養学部で全学集会への学生代表団を選ぶ代議員大会を開こうとした全学連行動委員会(代々木系)、一般学生有志とこの大会に反対する全共闘が構内で衝突、乱闘で教官ら23人けが。午後代々木系が他大生含む角材持った500人の行動隊で守りを固め大会を強行し代表選ぶ。法学部学生大会でスト解除案否決」「6日からの争いで重軽傷者は計128人を超えた。」(毎日新聞社 1998) ^ 「上智大でバリケードを撤去しようとする一般学生・代々木系学生とこれを阻止しようとする反代々木系学生が乱闘」(毎日新聞社 1998) ^ 「反代々木系学生同士がまた衝突、一部は井の頭線駒場東大前駅ホームでも乱闘したため、機動隊が出動し13人逮捕」(毎日新聞社 1998) ^ 「法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が投石、殴り合い。反代々木系50人が飯田橋駅に逃げ込み、国電ダイヤ乱れる」(毎日新聞社 1998) ^ 「反代々木系学生間の乱闘が続く東大駒場で翌未明にかけてリンチ事件があり、2人重体、12人けが」(毎日新聞社 1998) ^ 「12/24 東大医学部学生大会に全共闘が殴り込み代々木系の民主化行動委の学生と乱闘」(毎日新聞社 1998) ^ 「日共民青はそれを阻止せんとしゲバルト部隊が派遣されていた。集会後全共闘は法および経済学部に突入し、再占拠を企てた。本郷全体でゲバルトになったのである。タ闇の中、教育学部屋上で民青との問に火炎ピンの投げ合いになったのを思い出す。 火炎ビンは安田講堂内ではこのとき既に、多量に作られていたが、表だって使用されてはいなかった。(略)バリケードを築き、投石し合う中、村松はライターで布切れに火をつけたウイスキーピンを投げた。ガチャン、ボワ!と青い炎が広がり、投げつけられた民青はワァ!と後方に逃げて行った。 追いかける私たち、そして再び火炎ビンが投げられたが、今度は不発だった。途中で火が消えてしまったのだ。それを拾った暗闇の中の民青は、火をつけて逆にこちらに投げ返した。放物線を描いて小さな炎が飛んで来て、それが私の足許に落ちた。 次の瞬間、ボワァと青い炎が私の足許に広がった。「ワァ!」と思わず飛びのいた。「民育が火炎ビン投げんのか」と叫ぶと、「そっちが投げたんだろ」と闇の中から言い返してきた。」(荒岱介 2001) ^ 「民青が翌日代議員大会でスト解除を決談しようとするのを粉砕するためだ。(略)民青の代議員大会は寮食堂で開かれるということで、寮食と明、中、北寮をめぐる攻防になった。(略)。明寮への突入を試みたが、屋上からすさまじい勢いで投石され、眼の前でパタパタと人が倒れた。 なんと日共民青はピッチングマシンを持込み、それで全共閥系の学生めがけて発射していたのである。ヒユン、ヒユンと瓦を砕いたとおもわれる石が、すさまじいスピードでしかもカーブしながら飛んできた。 夜間なので弾は全く見えない。寮の廊下には畳が積み上げられ、中に突入することもままならぬのだ。(略)全共闘側は日大全共闘を中心に捕まえた民青を拷問した。ボコボコにぶん殴ったあげく、南京袋をかぶせ、紐で縛って引っ張り回した。 夜は寒かったのであちらこちらで机や椅子がこわされ焚き火がたかれたが、その火の中にまで引っ張り回そうとするのを見たときはたまげた。(略)11日に捕虜交換をしたが、民青は戸板にのせて持っていくしかない人もいた。」(荒岱介 2001) ^ 「10日夜から日共民青は安田講堂に対しても攻撃をかけ、これは占拠中の東大全共闘と支援に駆けつけた中大会中闘でしのいだが、リヤカーにピッチングマシンを積んで撃ちながら攻めてきたという。法文一、二号館のバリケードがその結果解除された。 この攻撃は11日午前中まで続き、全共闘側は火炎ビンを投げて抵抗した。本郷にやってきたのは地区民(地域の日共党員)で、1000名はゆうにこえる大部隊だったという。」(荒岱介 2001) ^ 「事件の経緯は、前夜の9月17日から始まる。中核派の全学連書記局と中心メンバーたちが、バリケード封鎖中の埼玉大学に襲撃をかけた。理工学部の親反戦連合系のボックスにあるヘルメットをかぶり、武器を調達したという。 目標はただ1人、反戦連合のリーダーで元中核派、天才的なアジテーションで人気の高いNだ。(略)内部を知り尽くしている滝沢さんの手引きによる襲撃の前に、彼らは一気に蹴散らされた。 そこここで逃げ遅れた学生が叩きのめされる。中核派は標的のNを確保して、車に押し込む。埼玉の山中に連行する途中、人違いに気付いたようだ。拉致されたのは理工学部のTだった。ひと気の無い山道に放り棄てたらしい。 その頃、北浦和キャンパスには、急を聞いて駆け付けた学生たちが三々五々集っていた。当初、襲撃したのは革マルだと思われた。バリケードの破壊は凄まじかった。埼大中核派も、滝沢さんを除いて駆け付けて来た。 彼らは何も知らされていない。襲撃を許さない、Tを何としても取り戻す。意志一致が進む。しかし後から戻って来た学生によって、「滝沢がいた、中核だ」という事が明らかになった。埼大中核派は、非難を一身に浴びて弁明する。 「聞いていない、事実だとすれば自己批判する」。Tが拉致された先は、芝工大・大宮キャンパスだろうと目星がついた。今もこの瞬間、Tはリンチに遭っている。救出に行こう。志願者たちで行動隊を組織する。 (略)熟睡中に、不意を衝かれた書記局や、芝工大中核派は追い詰められ、2階から4人が転落した。その1人、滝沢さんが死んだ。「内ゲバによる最初の死者」だった。」『狂おしく 悩ましく』元中核派・編集局員 ^ 高橋和己『内ゲバの論理』「九月一八日、『大学立法反対などでバリケード封鎖中の芝浦工大で、同校二号館にたてこもっていた反日共系全学闘の学生が、十人前後の学生に寝込みを襲われ、二階の窓から落とされ、うち一人がコンクリートの地面にたたきつけられて死亡、三人が重傷を負った』事件である。 事後にあきらかになった事実は、芝浦工大の二号館校舎にたてこもっていたのは、革マル、中核、四トロなど反代々木系学生。そして殺された滝沢紀昭はじめ負傷者はすべて中核系学生。 襲撃したのは、埼玉大学において中核派と対立していた反戦連合の学生二十余名。襲った理由は埼玉大学で中核と反戦連合が対立していて、前日に内ゲバがあり、反戦連合系学生一人が人質として芝浦工大へ連行されていて、その人質の奪還ないしは仕返しのために襲撃したものという。」 ^ 「双方竹ザオをふりまわし、投石しあって大乱戦。負傷者十数人がでた。」(立花隆 1975, 上巻)^ 「双方合わせて1500人が日曜日の日比谷公園を舞台に、大乱闘をくり広げ、50人が負傷」(立花隆 1975, 上巻) ^ a b c 昭和52年犯罪白書,第一編第1章第4節過激派集団の犯罪,1977(昭和52),法務省^ 名大では学生同士乱闘『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版^ 警視庁「内ゲバ警戒報」出す 都内では昨年の倍『朝日新聞』1970年(昭和45年)5月31日朝刊 12版 3面^ 早大でまた内ゲバ『朝日新聞』1970年(昭和45年)6月17日朝刊 12版 ^ 「豊島公会堂で開かれたブント政治集会では、叛旗・情況派ブロックとのゲバルト闘争になった。三上治が演説をしているさなか、会場脇の扉から青竹が次々に運び込まれた。こちらも用意していたので会場の中央でぶつかり合った。パチンパチンと竹竿で競り合うなかで、三上が声を張り上げて演説していたのが印象的だ。」(荒岱介 2001) ^ 笠井潔、絓秀実、外山恒一『対論 1968』 集英社新書、2022年、p.160-161.^ a b c d e f g h i 昭和53年犯罪白書,第二節過激派集団の犯罪,2内ゲバ事犯,1978(昭和53),法務省 ^ 「七一年の四・二八闘争で、ブント内分派闘争の決着をつける展開になっていった。当日は250人ぐらいの竹竿部隊が日比谷公園前で相互対峠し、集会参加者が見守るなか一斉にゲバルトになった。最初は(戦旗派と)赤軍派残党や関西派を中心にした21・18ブントとの対決だった。 ゲバルトそのものは牛乳ビンを投げ、鉄パイプを持った迎撃隊を作った私たち(戦旗派)の勝ちだった。竹竿でのゲバルト戦は、投石や欽パイプには勝てない。戦術をエスカレートしたほうがいつも戦術的には有利なのだ。 つぎは息をつく暇もなく、叛旗派の竹竿部隊が私たちの前に立ちはだかった。これも数秒で私たちの完勝だった。」(荒岱介 2001) ^ 「反帝学評約50人が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて前日から拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、9月15日午前1時45分ごろ、革マル派約150人がヘルメット、覆面、鉄パイプの武闘スタイルでこれを襲撃し、相互に多くの負傷者が出た。 この間にあって、反帝学評約20人、レンタカーを使って反帝学評の動向を視察していた革マル派2人を襲い、鉄パイプで殴る、突く、ける等の暴行を加えて両名を殺害し、現場から5キロメートル離れた浄水場裏に死体を遺棄した。」(警察庁 1974) ^ 「9月17日午前7時30分ごろ、都下国電鶯谷駅構内に中核派約150人が集合していたところ、突然鉄パイプで武装した革マル派約80人がこれに襲いかかった。このため、駅構内及び線路上で乱闘となり、山手線、京浜東北線の一部が数分間電車の運行を中止した。 この間、双方合わせて7人が負傷し、救急車で付近の病院へ収容されたほか、ホームにいた乗客が巻き添えになった。」(警察庁 1974) ^ 「10月20日午前4時ごろ、東京、横浜、京都、大阪の各地で革マル派約200人がいっせいに中核派のアジト12箇所を鉄パイプ、竹ざお、木槌、ガスバーナー等で襲撃し、双方合わせて13人が負傷した。」(警察庁 1974) ^ 「世田谷区のアパート「ふく荘」前で引っ越し作業中、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 難を逃れたうちの1人は後の仏文学者石田英敬だった。「革マル派活動家石田君が、最近中核派に狙われているらしいと気づき、住所を変えようとしていた。この日、三人の友人に手伝ってもらって朝から引越し作業をしていた。 (略)石田君は二階から飛び降りて夢中で逃げ、引っ越しの手伝いにきていたもう一人の友人も逃げたが、富山隆君は逃げる途中でころんでしまった。そこを囲まれてバール、鉄パイプでメッタ打ちにされた。 また、二階にいた四宮俊治君も逃げられないでいる所を踏みこまれ、これまたメッタ打ち。」立花隆 1975 ^ 「わたしは引っ越しの当日に運良く逃げおおせた石田英敬のことを考えてみた。二十歳の時点で親友の同級生二人を目の前で殺害され、かろうじて生き延びた石田の心の傷と恐怖を想像すると、眩暈のような感覚に襲われる気がした。」(四方田犬彦 2009) ^ 『革共同通信』「一・二四の偉大なる戦果を実現したわが同盟と、そのもとに結集するたたかう全人民の志気はいよいよ高まり、その精神はいよいよ純潔である。(略)わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていくのである。」(立花隆 1975, 下巻) ^ 「(神奈川)横浜国大経済学部食堂内で、中核派と思われる数人に鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「横浜国大でも革マル派活動家の矢崎知二君が6人の中核派に襲撃された。矢崎君は、おりからの昼食時で満員の学生食堂に逃げ込んだ。しかし、そこで追いつかれて引き倒された。そして、約三百人の学生が遠巻きに見守るなかで、一人が矢崎君の上に馬のりになって押さえつけ、他の二人が一メートルものバールをクワのようにふるって後頭部を打ちくだいたほか、全身をメッタ打ちにした。」(立花隆 1975, 下巻) ^ 「(沖縄)教室受講中乱入してきた中核派と思われる数人に人違いされ、鉄パイプ等で殴打され同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「中核派の殺し屋8人は(略)70余名の学生が講義(物理学概説)を受けていた教養Aの教室に後方から突如として乱入した。そして、『自治委員長の安室はいるか!安室はどこだ!』とヒステリックに叫び、(略)その時、一人黒板の方向に走って退避せんとした比嘉君を、殺し屋どもはその顔を何ら確かめることもなく『あれが、安室だ!殺れ!』と口ぐちにわめきながら、バール、鉄パイプなどの殺人用武器をふりかざして、背後から襲いかかり、彼、比嘉君の後頭部に狙いを定めてメッタ打ちにしたのである。 (『解放』)」「二・八は琉大カクマル幹部安室某に対する断固たる制裁として、またその革命的制裁活動に反動的敵対をなしたカクマル分子比嘉某の徹底的せん滅として圧倒的にうちぬかれたのである。(中核派)」(立花隆 1975, 下巻) ^ 「中核派数十人と法大から出たところを待ち伏せ中の革マル派に襲撃され、鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)94ページ^ a b 「アパート自室で就寝中、乱入してきた数人に鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 立花隆「中核vs革マル」下巻(講談社文庫)101ページ。同書などを見たところ、この時期、法政大学構内で行われた内ゲバで死者は出ていない。5月13日の死者は、法政大学外の路上。大学側の記録にもない。 ^ 「守口市中央観光バス前で、革マル派数人に鉄パイプで殴打され、入院中2週間後に死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「品川公会堂付近を歩行中、後方から追いかけてきた中核派数人に鉄パイプで殴打、同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「代々木駅付近を歩行中、後方から革マル派数人に鉄パイプで殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「西区のアパート自室で就寝中、乱入してきた中核派数人に鉄パイプ、ハンマー等で殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1975) ^ 「被害者ほか2人が荷物発送作業中、車2台で追尾してきた中核派数人に鉄パイプで殴打され、同日1人が死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「アパート自宅で就寝中、鉄パイプ、まさかり等を持って室内に乱入してきた革マル派十数人に頭部等を殴打され、即死した。」(警察庁 1976) ^ 「マンション2階の自室で就寝中、鉄のはしごを利用して室内に侵入してきた中核派数人に鉄パイプ、バール、スコップ等で殴打され、1人が即死、1人は翌々日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者が川崎市役所裏出入口から外に出てきたところ、鉄パイプを所持して待ち構えていた中核派3人に頭部等を殴打され、同日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者が喫茶店内で電話中、店内に乱入してきた中核派3人に鉄パイプで頭部等を殴打され、同日死亡した。」(警察視庁 1976) ^ 「被害者が喫茶店内で飲食中、店内に乱入してきた中核派7,8人に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日、1人が翌日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者を含む4人がアパートで就寝中、室内に乱入してきた中核派数人に頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者を含む岡山大ノンセクト約60人が、岡山大オルグのためマイクロバスで乗り込んできたマル青同約30人と対じ中、マル青同が、マイクロバスを突込んできたためれき死した。」(警察庁 1976) ^ 「革マル派30数人が大阪市立大教養部内に入り、芝生でたむろしていたところ、中核派約40人に鉄パイプ等で襲撃され、2人が同日、1人は翌日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「路上を通行中、中核派3人に襲われて、鉄パイプで頭部等を殴打され、翌日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 「被害者を含む反帝学評系10数人が、歌手加藤登紀子の別荘に就寝中、室内に乱入してきた革マル派(人数不詳)に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日死亡した。」(警察庁 1976) ^ 『昭和51年 警察白書』「被害者が東大教養学部生協食堂前で情宣活動中、反帝学評系十数人に襲われて、鉄パイプ等で殴打され、同日死亡した。」 ^ 殺害された学生は後の仏文学者石田英敬の駒場寮同室。石田英敬は、この2年前に目の前でやはり革マル派の友人を殺害されている。「石田は私の知らなかったいくつかの事実を教えてくれた。駒場寮では同室にもう一人、梅田順彦という学生がいたが、彼もまた1975年10月に大学の学生会館の前で社青同の手で頭蓋骨を割られ、惨殺されたこと。」(四方田犬彦 2009) ^ 後に劇作家となる野田秀樹はこの事件を至近距離で目撃しており、後の NODA・MAP 『贋作・罪と罰』などに大きな影響を与えている^ “『贋作・罪と罰』 - 賄いエッセイ - 野田地図”. www.nodamap.com. 2022年2月23日閲覧。 ^ 女性活動家に逮捕状 所沢の内ゲバ殺人事件『朝日新聞』1976年(昭和51年)4月2日夕刊、3版、11面^ [「浦和市内ゲバ殺人事件」(4月)は、革労協が革マル派の自動車を前後からはさみ打ちにして停車させた上、金網付の窓ガラスをつるはし、鉄パイプ等で破壊して車内にガソリンをまき、発煙筒を投げ込んで炎上させ、乗車していた4人全員を焼殺するという極めて凶悪、残忍な事件であった。」(『昭和53年 警察白書』) ^ a b c d 昭和54年犯罪白書,第一編第二章第一節3,過激派集団の犯罪,2内ゲバ事犯,1979(昭和54),法務省^ 警察庁 1988 図1-3 内ゲバ事件の発生状況(昭和53~62年)^ a b 「54年の内ゲバ事件も、中核派による「津市内内ゲバ殺人事件」(5月、三重)や革マル派による東京、神奈川の革労協アジト3箇所に対する同時内ゲバ事件(11月)にみられるように、多くは事前の綿密な調査活動を踏まえて、巧妙な攻撃を加えるという極めて計画的な犯行であった。」(『昭和55年 警察白書』) ^ a b 昭和55年犯罪白書,第一編第二章第一節3/2内ゲバ事犯,1980(昭和55)^ 「革労協による「東成区路上内ゲバ事件」(9月、大阪)では、盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃したことなどにみられるように、計画的で極めて凶悪、残忍なものであった。」(『昭和56年 警察白書』) ^ a b 昭和56年犯罪白書,第一編第二章第2節/2内ゲバ事犯,1981(昭和56年)^ 「55年10月30日白昼、南千束の路上において、東京工業大生ら5人が、待ち伏せしていたスキー帽やヘルメット着用の集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨骨折等により5人全員即死した。この事件では、あらかじめ現場付近の電話線が切断され、逃走用等に盗難車2台が使われた。事件について、中核派は、「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」などと犯行を自認した(東京)。」(警察庁 1988) ^ 「革労協による「7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件」にみられるように、綿密、周到な事前調査の後、被害者が居住するアパート付近の電話線を切断の上、被害者の居室のドアや窓を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部、顔面等を鉄パイプで乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『昭和57年 警察白書』 ^ a b 昭和57年犯罪白書,第一編第二章第4節2,1982(昭和57年)^ 「革労協による「2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件」は、事前に調査した上、付近の電話線を切断した後、ドアを破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部を鉄パイプ様の物で乱打して殺害するといった凶悪、残忍なものであった。」『昭和58年 警察白書』^ a b 昭和58年犯罪白書,第一編第二章第3節,1983(昭和58年)^ a b 昭和60年犯罪白書,第一編第二章第6節2,1985(昭和60年) ^ 「昭和59年の内ゲバの特徴は、中核派が成田闘争での主導権掌握をねらい第4インター日本支部活動家に対して行ったものが多かったこと、大学構内で3件の内ゲバ事件が発生するなど大学自治会の主導権をめぐっての対立動向が目立ったことである。」(『昭和60年 警察白書』) ^ 「60年の内ゲバ事件は、中核派が「新たな対カクマル10年戦争」を標ぼうしていることや、革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたことから、すべて両派の間で引き起こされ、そのうち4件は、革マル派が攻撃したものであった。また、12件の内ゲバ事件のうち6件は、学園での主導権争いがその原因とみられる。」(『昭和61年 警察白書』) ^ 昭和61年犯罪白書,第一編第二章第5節3,1986(昭和61年)^ a b c 昭和62年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1987(昭和62年)^ 「61年1月20日白昼、京都大学教養部構内において、中核派の全学連副委員長代行が、待ち伏せしていた集団に鉄パイプ様のもので頭部を乱打され、脳ざ傷等により死亡した。革マル派は、「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した(京都)。」(警察庁 1988) ^ 「1月20日午前10時30分頃、教養部A1号館廊下で教育学部3回生で、中核派の活動家、 福嶋慎一郎さん(25)が、革マル派に襲われ殺害された。福嶋さんはC代大の情宣でクラス入りに向かう途中であった。これに対し、学生からの糾弾の声が上がっている。中核派は、声明を出し「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」また、同学会、文学部学友会、経済学部同好会など11団体連名で、「革マル派による1.20福嶋君殺害を糾弾する」という声明を出している。民学同もビラで「殺人行為を満身の怒りを持って糾弾する。殺人グループは、自治会運動内部の自治破壊者として追放されねばならない」と述べた。一方、民青系学生諸君は、「内ゲバ殺人」キャンペーンを展開。「大学の内ゲバの戦場化を許すな」「暴力学生は大学から出てゆけ」「大学当局は責任ある態度をとれ」と主張して、弾圧を要請している。警察は、事件を口実に、1月20日に尚賢館、21日に熊野寮を不当捜査した。 」(『京都大学新聞 1986年2月1日号』)^ 「9月1日未明、埼玉、大阪、兵庫の3府県6箇所において、真国労幹部等がヘルメット、鉄パイプ等で武装した数人の男に襲撃され、真国労大阪地本書記長が死亡したほか、8人が重軽傷を負った。事件は、あらかじめ電話線を切断して窓等から被害者宅に侵入し、被害者に手錠をかけた上で、凶器で乱打するなどの残忍なものであったが、「国鉄分割・民営化絶対阻止」を叫ぶ中核派は、機関紙で「9月1日、…反革命カクマル分子を…徹底せん滅した」などと犯行を自認している。」(『昭和62年 警察白書』) ^ 「62年10月30日朝、JR東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員が、マスク、帽子等を着用した集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭蓋骨や両足を骨折するなどの重傷を負った。この事件は、人通りの多い出勤時間帯の駅通路で待ち伏せた上での大胆な犯行で、最初から頭部を重点に攻撃し、背広姿等の目立たない服装で人込みに紛れて逃走するという極めて計画的なものであった。革労協狭間派は、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認した(東京)。(警察庁 1988) ^ a b 昭和63年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1988(昭和63年)^ 平成元年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1989(平成元年)^ a b 「中核派は、平成元年2月8日に「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」を、革労協狭間派は、6月25日に「革労協狭間派元最高幹部殺害事件」、12月2日に「JR総連総務部長殺害事件」をそれぞれ引き起こした。これらの事件は、被害者を路上で待ち伏せしたり、就寝中を襲撃したもので、いずれもハンマー、バール等の武器を用いて多数で全身を殴打するという残忍な殺人事件であった。」『平成2年 警察白書』 ^ 「革労協狭間派は、闘争方針や戦術をめぐり、ここ数年来内部抗争を続けていたが、6月25日未明、埼玉県川口市内において、主流派の路線に反対する元最高幹部(43)の居宅を多数で襲撃し、ら致した上、撲殺し、茨城県下の路上に放置するという極めて悪質な内ゲバ事件を引き起こした(埼玉、茨城)。」『平成2年 警察白書』 ^ 平成2年犯罪白書,第一編第二章第7節3,1990(平成2年)^ a b c d 平成6年犯罪白書,第3編第6章第3節2,1994(平成6年)^ a b c 平成11年犯罪白書,第4編第7章第5節2,1999(平成11年)^ 「革労協狭間派は、8年(略)5月14日、神奈川県内の私立大学キャンパス周辺において、革マル派系全学連学生等に対する内ゲバ事件を引き起こし、1人を死亡させた。」(『平成9年 警察白書』) ^ a b 「革労協狭間派は、5月に狭間嘉明を中心とするグループ(以下「主流派」という。)と山田茂樹を中心とするグループ(以下「反主流派」という。)に分裂した。両派は,その後,双方が切り崩しや引き戻しをねらった主導権争いを展開する中で、11年中、5件の内ゲバ事件を引き起こし,活動家3人が死亡,1人が重傷を負った。12年に入っても,両派は機関紙等で攻撃主張を強め,12年2月には3件の内ゲバ事件を相次いで引き起こし、活動家2人が死亡、2人が負傷した。」(『平成12年 警察白書』) ^ a b 平成13年犯罪白書,第1編第2章第4節2,2001(平成13年)^ 「5月、千葉県内において,主流派幹部活動家が反主流派非公然活動家とみられる数人の者に襲撃され死亡する事件が発生した。」(『平成14年 警察白書』) ^ 「16年6月2日早朝、東京都内の路上で革労協反主流派活動家3人が4、5人の男に鉄棒等で襲撃され2人が死亡、1人が軽傷を負うという内ゲバ容疑事件が発生した。」(『平成16年 警察白書』)^ a b 警察白書
2024.03.30
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こんなに(殺し合い)が、続いたのだ・・・ 内ゲバ その2 ウイキペディアから・・・・主な内ゲバ殺人事件一覧[122][7]発生日 事件 加害側 死者側 死者数 備考1969年7月 中央大学内ゲバ事件 社学同 社学同 1 社学同の内部抗 争で同志社大生が死亡1969年9月 芝浦工大大宮校舎内ゲバ事件 反戦連合 中核派 1 埼玉大生が2階から突き落とされ死亡1970年8月3日 東京教育大学生リンチ殺人事件 中核派 革マル 派 1 革マル派は中核派に「階級的報復」宣言1971年6月 琉球大生内ゲバ殺人事件 民青 革マル派 1 1971年10月 横浜国大内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 美術学院生が殺害される。革マル派は「中核派絶滅」宣言、中核派は「カ クマルに対する全面的せん滅戦争」宣言1971年12月4日 関西大学構内内ゲバ殺人事件 革マル派 中核派 2 同志社大生・京大生が鉄パイプで殺害される1971年12月〜1972年2月 山岳ベース事件 連合赤軍 連合赤 軍 12 総括と称したリンチ殺人12名。 メンバーの一部は、あさま山荘事件を起こす。1972年4月28日 大阪城公園事件 革労協 革マル派 1 衝突後のリンチ殺人1972年11月8日 川口大三郎事件 革マル派 (中核派と誤認) 1 第三次早大闘争で革マル派糾弾、後に復権1973年9月15日 神奈川大学内ゲバ殺人事件 革労協 革マル派 2 襲撃側の革マル派側を鉄パイプで殺害1974年1月24日 世田谷区内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 2 引越し作業中に鉄パイプ等で殴打 横浜国大内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 経済学 部食堂内で鉄パイプ等で殴打1974年2月6日 琉球大学内ゲバ誤認殺人事件 中核派 (革マル派と誤 認) 1 教室で授業中、革マル派は「誤爆」と批判1974年5月13日 区役所職員内ゲバ殺人事件 革マル派 中核派 1 法政大学前で鉄パイプ等で殴打1974年6月7日 大阪産業大生内ゲバ殺人事件 (不明) 革マル 派 1 アパート自室で就寝中に鉄パイプ等で殴打1974年9月10日 東京郵便局員ゲバ殺人事件 革マル派 中核派 1 アパート自室で就寝中に鉄パイプ等で殴打1974年9月24日 大阪市立大生内ゲバ殺人事件 革マル派 中核派 1 守口市中央観光バス前で鉄パイプで殴打1974年10月3日 東京郵便局員ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 品川公会堂付近を歩行中に鉄パイプで殴打1974年10月15日 代々木駅内ゲバ殺人事件 革マル派 中核派 1 歩行中に鉄パイプで殴打1974年12月1日 大阪元高校教諭殺人事件 中核派 革マル派 1 アパート自室で就寝中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打1975年3月6日 東京革マル派幹部殺人事件 中核派 革マル派 1 荷物発送中に鉄パイプで殴打1975年3月14日 中核派書記長内ゲバ殺人事件 革マル派 中核派 1 革マル派が中核派最高幹部を殺害、アパート自室で就寝中に鉄パイプ・ハンマー等で殴打、中核派が「戦争」宣言1975年3月27日 川崎市女子職員内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 川崎市役所から出たところを鉄パイプで殴打、初の女性死者1975年4月1日 東京元革マル派全学連幹部内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 喫茶店内で電話中に鉄パイプで殴打1975年4月26日 東京元革マル派幹部内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 2 喫茶店内で飲食中に鉄パイプで殴打1975年5月7日 鹿児島高校教諭内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 2 アパート自室で就寝中に頭部等を殴打1975年5月25日 岡山大生内ゲバ殺人事件 マル青同 (ノンセクト) 1 マル青同のマイクロバス突入により轢死1975年6月4日 大阪経済大生等内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 3 大阪市立大の芝生で鉄パイプ等で殴打1975年6月19日 東京郵便局員内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 2 路上通行中に鉄パイプで殴打1975年6月24日 静岡別荘内ゲバ殺人事件 革マル派 革労協 1 歌手加藤登紀子の別荘で就寝中に鉄パイプで殴打1975年7月17日 新橋駅内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 乗車した革マル派約400人が新橋駅到着時に中核派約400名に竹竿・石 等で襲撃される1975年9月12日 埼玉国学院生内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 2 帰宅途中に鉄パイプで殴打1975年10月8日 立正大内ゲバ殺人事件 革労協 革マル派 1 立正大構内で情宣中に鉄パイプで殴打、火炎瓶を投てき1975年10月27日 東京大内ゲバ殺人事件 革労協 革マル派 1 東大構内で情宣中に鉄パイプ等で殴打1975年12月14日 金沢大生内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 アパートで就寝中に鉄パイプ・バール等で殴打1977年2月11日 革労協書記長内ゲバ殺人事件 革マル派 革労協 1 革マル派が革労協最高幹部を殺害、革労協が報復宣言1977年4月15日 浦和車両放火内ゲバ殺人事件 革労協 革マル派 4 革労協の革マル派への報復1978年1月27日 水戸市、勝田市内ゲバ殺人事件 革労協 革マル派 3 アジト4箇所を同時襲撃1979年11月16日 新宿区外苑東通り路上内ゲバ殺人事件 (不明) 革マル派 2 路上で鉄パイプ・ハンマーで殴打1980年5月5日 千葉県旅館「権兵衛」内ゲバ殺人事件 革労協 (革マル派と誤認) 1 合宿中に襲撃され助教授死亡、革労協は革マル派と主張1980年7月20日 練馬区郵便局員内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 1 路上で鉄パイプで殴打1980年10月30日 大田区立洗足池図書館前内ゲバ殺人事件 中核派 革マル派 5 路上で頭部を殴打、1件5名は最多1986年1月20日 京都大学内ゲバ殺人事件 革マル派 中核派 1 構内でオルグ中に鉄パイプで殴打1986年9月1日 国労幹部同時多発襲撃事件 中核派 真国労幹部 1 大阪・兵庫・埼玉の6箇所同時襲撃1988年3月3日 鉄労幹部襲撃事件 中核派 鉄労幹部 1 群馬県の自宅で就寝中に襲撃1989年6月25日 革労協元幹部内ゲバ殺人事件 革労協 (革労協元幹部) 1 革労協の内部抗争激化1999年7月2日 明大生協理事殺人事件 革労協(赤砦社派) 革労協(現代社派) 1 6/13 赤砦社派は現代社派へ「全面戦争」「無制限・無制約の革命的テロ」を宣言1999年7月21日 明大生協職員殺人事件 革労協(現代社派) 革労協(赤砦社派) 1 1999年11月14日 福岡県委員会議長殺人事件 革労協(赤砦社派) 革労協(現代社派) 1 2000年2月8日 真鶴駅学生活動家殺人事件 革労協(現代社派) 革労協(赤砦社派) 1 列車内で刺殺、出刃包丁の初使用2000年2月9日 現代社派襲撃部隊殺傷事件 革労協(赤砦社派) 革労協(現代社派) 1 2000年8月30日 鶯谷駅明大生協組合幹部殺人事件 革労協(現代社派) 革労協(赤砦社派) 1 駅前で小型出刃包丁等で刺殺2000年12月10日 革労協総務委員殺人事件 革労協(赤砦社派) 革労協(現代社派) 1 2001年5月16日 革労協総務委員殺人事件 革労協(赤砦社派) 革労協(現代社派) 1 2004年6月2日 赤砦社三ノ輪アジト襲撃事件 革労協(現代社派) 革労協(赤砦社派) 2 アジト前で出刃包丁・ハンマー等で襲撃、赤砦社派は報復せず、事実上の停戦にその他 恋人同士でありながら中核派に属した奥浩平と革マル派のシンパとなった中原素子。愛し合っていた2人だが、党派の争いが激化していく中で2人の関係も引き裂かれていく。それが理由の一つで奥は自殺する。彼の遺稿『青春の墓標』に描かれた2人の関係は「学生運動のロミオとジュリエット」と呼ばれた。 中核派最高幹部陶山健一と、革マル派幹部鈴木啓一(森茂)は血をわけた兄弟。2人そろって東大に入学し革共同に加盟するが、分裂後はそれぞれ中核派と革マル派に分かれた。平成9年1月の陶山の葬儀には鈴木の姿はなかった。 この左翼の内ゲバから転じて、政治・思想分野に限らず同じ組織に属する人間同士の対立、不毛な仲間割れ全般が「内ゲバ」と呼ばれるようになり、本来用いられた意味の「ゲバルト」よりも広く一般に定着した。 脚注注釈^ その内情は、宮崎学『突破者』(南風社、1996年)に詳しい。^ これは当事者が後に有名人になったため安東仁兵衛『日本共産党私記』、高沢寅男『寅さんの生いたち』などにも書かれているが、記録に残らないリンチも多かったと推定される^ 宮崎学『突破者』に乱闘の経過と「あかつき行動隊」創設につながっていく事情が述べられている出典^ 「機動隊と乱闘することを外ゲパといった」(『全共闘グラフィティ』p118)^ 警備警察50年^ 「全学連第五回大会で、旧中執二十七人を追放する、共産党中央支持派の玉井新執行部が誕生するのだが、この大会では、新執行部系所感派「人民警官隊」による国際派の反戦学同系活動家に対するリンチ事件が起こっている。これは、反戦学同が帝国主義の手先であり、CIC(アメリカ軍情報部〉のスパイだとして、十数人を密室に監禁、リンチを加えたもので、のちに、70年代に入って激化する内ゲバ事件 のはしりということができよう。」(高木正幸『全学連と全共闘』) ^ a b c d 「日本の学生運動の内ゲバは、日本共産党が1950年に所感派と国際派に分裂し、両派のテロリンチが繰り返されるというなかで最初に発生しています。52年6月に開催された全学連五回大会で、国際派の反戦学生同盟メンバーが所感派系の学生にリンチされる事件(立命館事件)がおこりました。 お前らは「帝国主義の手先、CIAのスパイだ」というレッテル貼りです。リンチを受けた一人である松本忠明は自殺している。しかしその前年、東京大学では、国際派の武井昭夫らが「スパイ容疑」で不破哲三らをリンチしていました。」(荒岱介 2008, p. 187) ^ 「36年(1961年)に始まった極左暴力集団による内ゲバの形態は、47年(1972年)ころまでは、全学連大会や学園紛争、大衆運動の中でのトラブルや主導権争いのため発生した集団遭遇戦が大半を占めていたが、48年(1973年)からは、被害者の再起不能や殺害をねらった個人「テロ」の様相を深めた。」(警察庁 1988) ^ 元々「内ゲバ」は、「党派は違えど、同じ新左翼に属する」とする立場から、「左翼の仁義」と称される一定のルール(死者は出さない、警察には介入させない等)に則って行われていた。しかし、「内ゲバ」がエスカレートし死者が続出するような段階になると、「内ゲバ」を行っている党派はお互いを「敵対集団」「反革命」と規定し、対立党派は「新左翼内部」ではないと見なすようになった。この段階に至った党派は、対立党派への暴力はもはや「内ゲバ」ではないとし、「戦争」と表現する。
2024.03.29
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よくもまあ、こんなに(殺し合い)が、続いたものだ・・・これが、彼らの言う(革命)の一環だったとしたら、僕には、まさに「革命ごっこ」としか思えないのだが・・・これが「左翼小児病」や「極左冒険主義」(レーニン)なのだろう・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――内ゲバ ウイキペディアから・・・・ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』内ゲバ(うちゲバ)とは、内部ゲバルトの略。ゲバルト(Gewalt)はドイツ語で「威力、暴力」の意味で、同一陣営または同一党派内での暴力を使用した抗争のこと。 一般的には、左翼党派内または左翼党派間、特に日本の学生運動や日本の新左翼党派間での暴力を使用した党派闘争を指す場合が多い。逆に機動隊などの国家権力(公権力)に対する暴力を用いた抗争は外ゲバ(そとゲバ)[1]、同一セクト内の場合は内内ゲバ(うちうちゲバ)[2]とも呼ぶ。 概要国家権力の暴力装置(警察等)に対する暴力=ゲバルトを公然と表明する新左翼であるが、革命という共通した目的をもつ左翼陣営の内部にありながら、路線対立・ヘゲモニー争いを理由に、ある党派が別の党派に暴力を行使する。これを内部ゲバルト、略して「内ゲバ」という。 日本では1950年に日本共産党が所感派と国際派に分裂して以降、日本の学生運動で両派のテロやリンチが頻発したのが始まりである[3][4]。 日本共産党を否定して生まれた日本の新左翼が、1960年代初期には多数に分裂し、ここでも内ゲバが発生した。初めは集団の小競り合い程度だったが、後に個人を拉致しリンチを徹底的に加えるという陰惨なものになっていった[5]。 また新左翼の街頭武装闘争が激しくなるにつれて、集団での抗争も武器がエスカレートし激しいものとなっていった。こうして1960年代の後半以降は多くの新左翼党派間に内ゲバが蔓延した。 特に中核派・革労協と革マル派との間の内ゲバは激しく、1970年代には殺し合いの状態になり、革マル派が中核派と革労協の最高指導者を暗殺したことで、内ゲバは「戦争」状態となった。なお第四インターなどは内ゲバを否定し続けた。 日本共産党は1955年(昭和30年)の六全協で、従来の武装闘争路線から、議会による平和革命を目指す方向に転換したため、その指導を受ける民青とともに表向きは暴力反対運動を主張してきた。選挙戦略の面からも、左翼が暴力的と見られることに敏感だった。 しかし、民青系と新左翼系の内ゲバが起こった際には、民青系と新左翼は互いに暴行を振るい、それを新聞が「内ゲバ」「乱闘」と表現したと主張している。東大闘争でも民青もヘルメットやゲバ棒で武装して闘争を行ったが、代々木系は「正当防衛」と主張している。民青の実力部隊は「あかつき行動隊」とも呼ばれた[注 1]。 犯罪白書によれば内ゲバ事件(1968年~2000年)は件数2020件、死者97名、負傷者5429名だが、2004年迄の死者3名を加えると死者100名である。 内ゲバの巻き添え、あるいは攻撃側の誤認、活動資金確保を目的としたノックアウト強盗(内ゲバを装う)によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。これらは「誤爆」と言われた。しかし誤爆について、実行した党派が謝罪したケースはほとんどない。 また、大衆運動、学生運動の全盛期には、それらを内部分裂から自滅へ導くため、公安警察が各セクトにその敵対者の所在情報を巧みにリークするなどし、内ゲバを裏で手引きすることもしばしばあった。敵対党派を互いに「警察の手先」と非難するのはこのためであるが、実際に内ゲバで殺された中には、スパイとして潜入していた警察官もいたという。 このように学生運動が凶暴化し、組織的な殺人を繰り返すようになってからは、社会主義や共産主義に対する幻滅を生み、彼ら新左翼が忌み嫌っていたはずのスターリン主義の思想や、同志を大量虐殺した大粛清とも重なり、運動の衰退を決定づけてゆくこととなる。 なお最大の内ゲバ状態にあった中核派と革マル派の抗争については両派トップの会談によって停戦状態になったとされているが、両派ともに公表していない。 また、さらに大抵の内ゲバは組織的な犯行で、盗難車を使って別のメンバーが退路の確保、覆面姿で襲撃を行うことが多いため、誰が襲撃に関与したのか特定しにくい。これに加え、電話線を切断するなどの巧妙な捜査妨害、隠ぺい工作から、白昼に行われたり、機関紙で犯行を自認したような事件でも公訴時効が成立して犯人を検挙できなかった事件は少なくない。 内ゲバの原因・・・・内ゲバの原因としては、他派切り崩し、自治会の主導権争い、分派闘争があり、その背景として、各派は自派が唯一正しく、自派以外は有害で殲滅すべき革命の敵とする分派撃滅の思想があるという[8]。 とりわけ革マル派は、他党派解体を路線化し組織的・計画的に他党派にテロを仕掛けたため、新左翼に内ゲバを広げることとなった。内ゲバによる犠牲者数は革マル派が突出して多い。 各集団は、内ゲバを、「革命闘争」「武装解放闘争の重大な萌芽」「日帝(日本帝国主義)に対する武装闘争の導火線」であり、革命達成に不可避の崇高な義務と位置づけ、正当化してきた[8]。 主な種類所感派と国際派・・・・日本共産党が所感派と国際派に分裂していた1950年代に発生し、殴る蹴るから根性焼き、輪姦まで行われた。1955年の六全協の後もしばらく続いた。 代々木系(日本共産党系)と新左翼系初期の内ゲバの代表例。1968年から1973年の5年間で、内ゲバは1023件(死者 10名)発生し、約半数の488件が代々木系全学連と新左翼系学生集団との抗争であった。 日本共産党・民主青年同盟は組織力が桁違いであり恐れられ、投石機を投入してヘルメットを叩き割るなどしたため、後の野党共闘に遺恨を残した。 中核派と革マル派内ゲバの最も代表的な事例。死傷者数がその他の内ゲバよりも突出しており、両派ともに新左翼の学生運動・大衆運動で新左翼のうち最大で拮抗していたことによる。両派はもとは同じ組織であったことも「内ゲバ」という現象を印象づけた。立花隆『中核vs革マル』でも知られる。 1960年代の分裂後内ゲバが頻発し、1970年代に入り殺し合いの状態になり、全国の大学や職場、路上で内ゲバが繰り広げられた(東京教育大学生リンチ殺人事件、関西大学構内内ゲバ殺人事件、川口大三郎事件、琉球大学内ゲバ誤認殺人事件等)。特に1975年に革マル派が中核派の最高指導者を殺害(中核派書記長内ゲバ殺人事件)以降は、中核派の革マル派に対する内ゲバはさらに熾烈を極めた(川崎市女子職員内ゲバ殺人事件等)。 1990年代に入って、両者の内ゲバは次第に沈静化し、21世紀になると労働組合や市民団体などの大きな集会で中核・革マル両派が並んで穏やかにビラを配る光景も見られるようになった。 革マル派公式Webサイトでの中核派等批判ページ「謀略粉砕・走狗一掃」は2004年を最後に更新が無く[12]、中核派公式Webサイトでの革マル派批判ページ「カクマル批判アーカイブ」は2017年を最後に更新が無い[13]。1990年代初めに中核・革マル両派最高幹部が内ゲバ終結で手打ちしたとも言われるが、真相は不明[要出典]。 革労協(解放派)と革マル派東京大学と早稲田大学の拠点ヘゲモニー争いから始まった内ゲバは、1970年代に入り殺し合いの状態となる。1977年 革マル派による革労協の最高指導者殺害(革労協書記長内ゲバ殺人事件)以降は、革労協の革マル派に対する内ゲバはさらに熾烈を極めた(浦和車両放火内ゲバ殺人事件等)。 革労協の内内ゲバ1989年 社青同解放派(革労協)は革労協元幹部内ゲバ殺人事件を起こし「同志殺し」の「内内ゲバ」を正当化した。更に1999年から2004年にかけて、主流派(狭間派・現代社派)からの反主流派(赤砦社派・木元派)の分裂に際して10人が殺害され、大きな内ゲバ事件がほぼなくなっていた時期の内ゲバは社会に衝撃を与えた。 ブント各派の内ゲバ第2次ブント崩壊の過程で、様々なセクトが内ゲバを繰り広げた。1969年7月、中央大学の社学同内部の分裂抗争による内ゲバで、同志社大学生が死亡した。1969年7月6日、共産主義者同盟赤軍派が共産同執行部さらぎ徳二議長を監禁・暴行、翌日には叛旗派による赤軍派襲撃と塩見らの拉致、その脱出時に赤軍派1名が転落死した。 革マル派と他党派革マル派は他党派解体路線をおしだし、あらゆる新左翼党派にゲバルトや個人リンチを加え、暴力的に大学自治会や労組を掌握していった。 中核派と第四インター統一書記局派第四インター統一書記局派は内ゲバを否定していた党派であった。1984年(昭和59年)1月に、三里塚芝山連合空港反対同盟の分裂をめぐって、中核派が第四インター統一書記局派関係者を襲撃して大怪我を負わせた。 死者はいなかったものの、アイスピックで大腿部を刺して、ガス壊疽を発症させ、左脚切断を余儀なくさせられた者や、頭蓋骨骨折の重傷者を出した。これに対して、第四インターは抗議声明を出すものの、元から「内ゲバ主義反対」を主張していたことから、中核派を暴力で反撃することはしなかった。 これは、中核派による一方的な内ゲバ殲滅と位置づけられている。ただし第四インターも、拠点校では暴力により、対立党派を威圧することもあったため、常に内ゲバ反対という立場を貫徹していたわけではない。 後に中核派関西地方委員会が、2007年に中核派から分裂した革命的共産主義者同盟再建協議会が、中核派による襲撃を謝罪した。 内ゲバの歴史「日本の新左翼#歴史」を参照1950年代1950年(昭和25年) - 日本共産党が所感派と国際派に分裂し、両派のリンチが繰り返される。学生運動での初めての内ゲバとなっていく[4]。1951年(昭和26年) -東京大学で、国際派の学生らが国際派内部の反対派学生らをリンチ[4][注 2]。1952年](昭和27年) 6月 - 全学連五回大会で、所感派系の学生が国際派の反戦学生同盟メンバーをリンチ。立命館事件[4]。1960-67年1961年(昭和36年)7月 - 全学連第17回大会で、革共同系学生(マル学同)と、ブント・解放派らつるや連合の間で乱闘衝突。学生運動史上初めての角材を使用した内ゲバであり、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバの初めとなった[14]。1963年(昭和38年)9月11日に起きた清水谷公園乱闘事件では、同公園で、中核派、解放派ら連合4派250名の集会に革マル派150名が押し掛け、角材で乱闘した[15]。1964年(昭和39年)7月2日 - 革マル派の拠点早大に、中核派・解放派・構改派の3派が殴りこみ[15]。7・2早大事件1966年(昭和41年)7月4日の全寮連第八回大会で、日共系学生と反日共系学生が大会主導権を巡って乱闘が起きた。日共系学生暴力発動の最初であり、「あかつき行動隊」創設につながった[注 3]。同年9月3日の社青同東京地本九三事件では、社青同東京地本大会で、大会の主導権を巡って解放派と協会派が乱闘、協会派側に百人を越える負傷者をだす。1967年(昭和42年)2月、3月 - 2月28日から3月2日にかけて、善隣学生会館(現、日中友好会館)で日本共産党系と反日共系・華僑学生が衝突。(善隣学生会館事件)10月7日 - 法政大学で、中核派が解放派の高橋幸吉などへリンチ。[16]10月8日 - 羽田闘争において中核派、解放派は内ゲバに備えて角材とヘルメットで武装する[17]。この武装は現場で対機動隊に転化され、初めて機動隊を打ち破った。衝突で、中核派の学生山崎博昭が死亡したことで、以来、暴力事件は頻発していった[18]。1968年1968年(昭和43年)1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。2月-4月には、王子事件(米軍王子野戦病院開設阻止闘争[19])、2月26日には成田デモ事件が発生した[18]。 2月12日 - 九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。[20]6月24日 - 法大で、革マルと中核派学生が乱闘。[20]7月20日 - 反帝全学連大会でブントと、解放派・ML派の両派が乱闘。[21]9月9日~11日 法政大で中核派と民育系が乱闘。[22]10月21日の国際反戦デーには新宿事件が発生した[18]。11月11日 - 静岡大法経短大学部で、民青系(代々木系)と反代々木系学生が乱闘、40人が負傷。[23]12日 - 東大図書館前で全共闘と民青系(代々木系)学生が角材で乱闘、約70人が負傷。[24]14日- 東大教養学部で代々木系と反代々木系の学生の衝突を教官が阻止。[25]26日 - 東京教育大で反代々木と代々木系学生が乱闘。[20]29日 - 東大図書館前(本郷)で全共闘と日共系が衝突を繰り返す。[26]下旬 - 早大で、革マル派が解放派にテロ、早大を追われた解放派は東大駒場へ移動し革マル派と武装対峙する。後に戦争状態となる解放派と革マル派の内ゲバの始まり。[27]12月4日 - 早大で解放派と革マル派が乱闘。[28]5日 - 東大駒場寮で解放派と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。[29]6日 - 東大駒場で解放派と革マル派が内ゲバ。[30]10日 - 東大教養学部(駒場)て革マル派と解放派の対立が激化、駒場寮前で約200人が衝突、45人が負傷。[31]11日 - 警視庁が東大学側に警告書[32]13日 - 東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。[33]14日 上智大で代々木系学生と反代々木系学生が乱闘。[34]16日東大駒場で、及び駒場東大駅ホームで革マル派と解放派が衝突。[35]法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が乱闘。[36]17日 - 東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。[37]24日 - 東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘[38]1968(昭和43)年の内ゲバ事犯による負傷者数は700人にのぼった[18]。内ゲバ事犯の当初の形態は、偶然的な遭遇に起因するもので,集会・デモ等における主導権争いからの抗争が大部分で、凶器も,プラカードの柄,竹竿,角材などのいわゆるゲバ棒であった[18]。しかし、この頃には、襲撃専門の特別部隊を編成し、綿密な計画を練ったうえでの計画的・組織的な襲撃となり、犯行場所も大学、アジトだけでなく、駅のホーム、百貨店、喫茶店などでも行われるようになり、凶器も、鉄パイプ、バール、まさかり、とび口(先端に金属)、掛け矢など殺傷能力の強いものへと変貌し、攻撃の方法も、頭部をねらう事案が多くなるなど凶悪化した[18]。 1969年(昭和44年)1月9日 - 東大闘争勝利総決起集会後、民青系と全共闘が乱闘、重軽傷100人余。東大闘争での内ゲバで火炎瓶が初めて使用され、投げ合いになった[39]。翌10日、東大駒場で全共闘と民青が乱闘。民青は寮の屋上からピッチングマシンで投石し、全共闘側は捕まえた民青を殴打し、拷問した[40]。10日夜から、東大本郷でも安田講堂を占拠する全共闘と民青の間で乱闘[41]。4月28日 - 沖繩デー事件9月17日 - 中核派が埼玉大の反戦連合を襲撃[42]。翌18日、芝浦工大で反戦連合の学生が中核派を襲撃し、埼玉大中核派学生が死亡。内ゲバでの初めての死者となった10月21日 - 国際反戦デー事件11月16日~17日 - 佐藤首相訪米阻止闘争で2500人超の逮捕者を出した。11月28日、日比谷野外音楽堂の集会で、中核派、解放派ら八派と革マル派が竹竿や投石で乱闘した[44]。12月14日にも、同音楽堂での糟谷君虐殺人民葬で同八派に対し革マル派が襲撃し、1500人規模の乱闘で50人が負傷した[45]。1969(昭和44年)の内ゲバ事犯による死傷者数は1145人、うち,死亡者2人[46]。街頭をバリケードで封鎖したり、駅で混乱を起こして交通機関を停止させるなどし、凶器も、角材だけでなく、石塊、鉄片、劇薬などが用いられるようになり過激化し、検挙人員は前年には6600人であったが、1969年には1万4700人にのぼった[18]。 1970年(昭和45年)3月31日 - 赤軍派によるよど号ハイジャック事件5月22日 - 明治大学商学部十一号館前で学生大会参加への呼びかけを行っていた代々木系の学部自治会約80人に対し、反対する全共闘系の約300人が押しかけて衝突。乱闘により数人が負傷[47]。5月30日 - この日までに警視庁が都内で把握した内ゲバが62件(前年同期38件)と増加傾向を見せたことから、警視庁は各警察署に対して「内ゲバ警戒報」を発出した[48]。6月17日 - 早稲田大学二十二号館前で学生集会を開こうとしていた代々木系の学生約200人と大会粉砕を叫ぶ革マル派の学生約80人が衝突。3人が負傷[49]6月 - 豊島公会堂でのブント政治集会で各派が内ゲバ。[50]8月 - 中核派による東京教育大学生リンチ殺人事件(海老原事件)。中核派と革マル派との間で最初の殺人事件であり、事件後、革マル派は『革命的暴力とは何か』(こぶし書房、1971年)を発表した[51]。1970(昭和45年)の内ゲバ事犯による死傷者数は527人、うち,死亡者2人[52]。 1971年(昭和46年)4月28日 - 日比谷公会堂前でブント各派が乱闘。[53]6月19日 - 沖縄人民党・民青による革マル派町田宗秀死亡事件(琉大事件、革マル派は民青によるリンチ殺害とし、民青は両派衝突の際の事故死としている)8月 - 京浜安保共闘による印旛沼事件12月 - 1972年2月 - 連合赤軍による山岳ベース事件12月 - 革マル派による関西大学構内内ゲバ殺人事件1971(昭和46)年の内ゲバ事犯による死傷者数は425人、うち,死亡者4人[52]。 1972年(昭和47年)11月 - 革マル派による早稲田大中核派シンパと疑われた学生内ゲバ殺人事件(川口大三郎事件)1972(昭和47)年の内ゲバ事犯による死傷者数は340人、うち,死亡者2人[52]。 1973年(昭和48年)9月15日 - 革マル派が拠点であった神奈川大学の革労協(社青同解放派)を襲撃。襲撃自体には成功するが、革労協がレポ活動をしていた革マル派東大生と革マル派国際基督教大生を捕捉し殺害。神奈川大学内ゲバ殺人事件[54]17日 - 革マル派と中核派が東京鶯谷駅で集団戦。国電鶯谷駅内ゲバ事件[55]10月20日 革マル派が中核派のアジトを襲撃。中核派アジト襲撃事件。[56]1973(昭和48年)の内ゲバ事犯による死傷者数は575人、うち,死亡者2人[52] 1974年(昭和49年)1月24日 - 東京世田谷区で、中核派が、引っ越し作業中の革マル派活動家とその友人の東大生4人を襲撃、革マル派とは無関係だった友人2人(22歳、21歳)は鉄パイプ等で殴打され、殺害された[57][58][59]。この事件を中核派は「偉大なる戦果」とし、「わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていく」との声明を事件後に発表、立花隆はこの声明を「暴力論の一つの極点として、歴史に残る文書になるだろう」としている。[60]24日 - 中核派が革マル派神奈川大生(24歳)を満員の学生食堂内で殺害。止めに入った一般学生数人も負傷。横浜国大内ゲバ殺人事件[61][62]2月8日 - 中核派が革マル派だとして琉球大生(21歳)を講義中の教室内で殺害。琉球大学内ゲバ誤認殺人事件[63][64]5月13日 - 革マル派が中核派東京都特別区男性職員(37歳)を、東京都千代田区の法政大学から出て国鉄市ヶ谷駅に向かう外濠土手下の路上で襲い殺害。[65]殺されたのは中核派東京東部地区委員長(第一次法政大会戦)。[66]6月7日 - 革マル派大阪産業大生(20歳)が大阪大東市で殺害[67][18]。26日 - 午前4時30分、法政大学に泊まり込んでいた中核派20名と学外から合流した50名の計70名を、法政大学内に潜んでいた革マル派50名が襲った。内ゲバ史上最大の激戦といわれ、2時間半にわたる大激突となったが、死者は出ていない(第二次法政大会戦)。[68]9月10日 - 革マル派が中核派郵便局員(25歳)を東京荒川区内ビルで殺害。[67][18]24日 - 大阪守口市路上で、革マル派数人が、中核派の大阪市立大生(25歳)を鉄パイプで殴打、2週間後に死亡[69][18]10月3日 - 東京品川区の品川公会堂で、中核派数人が、革マル派の郵便局員(30歳)を鉄パイプで殴打、殺害[70]15日 - 東京代々木駅付近で、革マル派が中核派工員を鉄パイプで殴打、殺害[71]12月1日 - 大阪西区で、中核派数人が、革マル派の元高校教諭(30歳)のアパートに侵入、鉄パイプやハンマーで殴打し、殺害。[72] 1974(昭和49)年の内ゲバ事犯による死傷者数は618人、うち死亡者11人[52]。 そのほとんどが革マル派対反革マル派(中核派)の抗争であった[8]。内ゲバは従来大学内で発生することが多かったが、昭和49年には大学内84件、学外202件となった[8]。東京121件、大阪32件、神奈川21件、福岡17件、広島14件、沖縄14件と地方165件で、地方での発生が目立った[8]。 昭和49年後半から、学生に代わって職場労働者が抗争の主力となった[18]。かつて内ゲバは、集会の主導権や自派の組織力を誇示するため、旗ざお、ゲバ棒で殴り合うといったケースが多かったが、昭和48年後半から個人へのテロへと傾斜した[8]。 74年の第二次法政大会戦までは、集団戦では鉄パイプで武装した革マル派が中核派・解放派を襲撃し圧倒するケースが多かった。集団戦で勝てない中核派・解放派は特殊部隊で革マル派のアジトを襲い死傷させる個人テロ戦術をとるようになった。 この頃の内ゲバの手口は、各派は、「武装遊撃隊・人民革命軍」(中核派)、「全学連特別行動隊(JAC)」(革マル派)、「プロレタリア突撃隊(後に革命軍)」(解放派)などの非合法・非公然部隊を組織し、標的の動静を徹底的に調査し、相手のすきを突いて、奇襲[8]。 マンションの隣室に回覧板と偽って侵入して土足のまま駆け抜けベランダから相手の部屋に突入したり、屋上から縄ばしごを使ってベランダ越しに部屋に侵入した例もあった[8]。相手に襲撃を予告したり、犬や鶏の生首等を送りつけるなどの心理作戦 (革マル派はナーバス作戦と称した)も実行した[8]。 1975年(昭和50年)3月6日 - 東京の路上で、中核派が革マル派幹部(33歳)を殺害。革マル派機関紙発行責任者内ゲバ殺人事件[73]。14日 - 埼玉のアパートで、革マル派が中核派の最高指導者(41歳)を殺害。中核派書記長内ゲバ殺人事件(本多延嘉氏)[74]。20日 - 東京のマンションで、中核派が、革マル派郵便局員2名を(25歳、28歳)を殺害[75]。27日 - 神奈川の路上で、中核派が革マル派川崎市役所職員(26歳)を殺害。川崎市女子職員内ゲバ殺人事件。[76]。4月1日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派元全学連中央執行委員(27歳)を殺害26日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派政治局員ら(32歳、23歳)を殺害[78]。5月7日 - 鹿児島のアパートで、中核派が革マル派高校教諭(41歳)を殺害[79]。25日 - 岡山大で、マル青同がノンセクトの岡山大生(18歳)を殺害[80]。6月4日 - 大阪市立大で、革マル派30数人と中核派約40人が衝突、革マル派の大阪経済大生3名(21歳、24歳、25歳)が死亡[81]。19日 - 東京の路上で、中核派が革マル派郵便局員(22歳)を殺害。[82]。24日 - 静岡で、革マル派が革労協数10人を襲撃、革労協の元九州大生(26歳)を殺害10月27日 - 革労協が革マル派東大生(22歳)を東京で殺害。[84][85][86][87]1975(昭和50)年の内ゲバ事犯による死傷者数は563人、うち,死亡者20人[52] 1976年(昭和51年)2月 - 所沢市の喫茶店にいた中核派系活動家が襲われて1人が死亡。後日、革マル派系の機関紙で襲撃状況が詳報された[88]。1976(昭和51)年の内ゲバ事犯による死傷者数は195人、うち,死亡者3人[52] 1977年(昭和52年)2月 - 革マル派による革労協書記長内ゲバ殺人事件4月15日の浦和車両放火内ゲバ殺人事件(浦和市内ゲバ殺人事件)では、浦和市内の県道上において、革労協が、革マル派幹部4人をマイクロバスに閉じ込めて全員を焼き殺した[46][89]。革マル派らの乗車するマイクロバスを、2台の貨物自動車で前後から襲い、つるはし等で車の窓ガラスを破壊し、ガソリンを注ぎ込み、放火するという手口だった[46]。1977年の内ゲバ事犯による死傷者数56人、うち死亡者10人[52]。 1978年(昭和53年)1978年(昭和53年)1月27日には、茨城県の水戸市と勝田市において、茨城大学革マル派学生活動家の居宅等4箇所を同時に襲撃した。窓ガラス、出入口等を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部などを鈍器で殴打して3人を殺害、3人に重軽傷を負わせた[52][90]。2月10日の大阪市内内ゲバ殺人事件では、活動家1人の居室を,鉄パイプ等を所持した5人が襲撃して殺害した[90]。9月30日の横浜国大内ゲバ殺人事件では、構内にいた30数人を,対立する20数人が襲撃して鉄パイプ等による乱闘となり,1人が死亡し,2人が負傷した 発生件数32件、死者数7人、負傷者数45人[91]。死傷者数53人とも[90]。 1979年(昭和54年)5月 - 中核派による津市内内ゲバ殺人事件[92]。11月 - 革マル派が東京、神奈川の革労協アジト3箇所を襲撃[92]。1979(昭和54)年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)[93]。鉄パイプ、ハンマー、斧、アイスピック等で殺害し又は負傷させる手口が依然続いた[93]。 1980年代にも内ゲバ事件は発生した。徐々に発生件数は減少したものの、死者数は1980年に8人、1981年2人、1982年1人、1986年2人、1988年1人、1989年3人で、合計17人だった。 1980年(昭和55年)9月に発生した、革労協による東成区路上内ゲバ事件では、盗難車両で相手車両をはさんで停車させ、鉄パイプに出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃した。同年10月30日の大田区南千束路上内ゲバ殺人事件では、白昼、南千束の路上で、武装した中核派10数人が、東京工業大生ら革マル派学生5人を鉄パイプ,ハンマー等で襲撃し、全員を殺害した[95][96]。1980年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)[95]。1981年(昭和56年) 7月11日、革労協による7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件では、就寝中あるいは出勤途上の被害者を襲撃し、頭部や顔面等を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した[97][98]。1981年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者2人[98]。1982年(昭和57年)2月24日の2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件では革労協が、就寝中の革マル派活動家の部屋に押し入り、その頭部を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した[99][100]。1982年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者1人[100]。1983年(昭和58年)の内ゲバ事犯による負傷者数5人[101]。1984年(昭和59年)、中核派が成田闘争での主導権をめぐって第4インターに対しテロを開始した[102]。1984年の内ゲバ事犯による負傷者数12人[101]。1985年(昭和60年)2月、革マル派による和光大事件。革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたとされる[103]。1985年の内ゲバ事犯は中核派と革マル派の間で発生し、負傷者数は22人だった1986年(昭和61年)1月20日午前10時30分頃、京都大学教養部A1号館廊下で、革マル派が中核派で全学連副委員長代行の京大生(25歳)を鉄パイプ様のもので頭部を乱打し、殺害した(京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件)[105][106][107]。同年9月1日、国鉄分割・民営化にからんで、中核派が、革マル派だとして国鉄労組幹部を殺害した(真国労大阪地本書記長内ゲバ殺人事件)[108][105]。1986年の内ゲバ事犯による死傷者数12人(うち死者2人)[105]1987年(昭和62年)10月30日、赤羽駅で、革労協が革マル派だとしてJR東日本社員を襲撃(JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件)[109]。1987年の内ゲバ事犯による負傷者数は4人。いずれも国鉄分割・民営化に絡んで発生した労組幹部等に対する路上襲撃事件であった[110]。5年ぶりに革労協狭間派による革マル派に対する内ゲバ事件が発生した[110]。1988年(昭和63年)3月、中核派が、革マル派だとしてJR東日本労組高崎地本委員長を殺害。1988年の内ゲバ事犯による死傷者数23人、うち死者1人[111]。1989年(昭和64/平成元年)2月8日、中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害(東鉄労水戸地本組織部長殺害事件)[112]。同年6月25日、埼玉県川口市で革労協狭間派が元最高幹部を殺害(革労協元幹部内ゲバ殺人事件)[113]。同年12月2日、革労協狭間派が、革マル派だとしてJR組合幹部を殺害[112]。1989年の内ゲバ事犯による死者3人。いずれも新東京国際空港反対闘争に関連する。1990年代には1980年代よりもさらに内ゲバ事件の発生件数は減少した。1990年(平成2年)の内ゲバ事犯による負傷者数2人[115]1991年(平成3年)の内ゲバ事犯による負傷者数7人[115]1992年(平成4年)の内ゲバ事犯による負傷者数3人[115]1993年(平成5年)の内ゲバ事犯による死傷者数3人、うち死者1人[115]1995年(平成7年)の内ゲバ事犯による負傷者数4人[116]1996年(平成8年)5月14日、神奈川県で、革労協狭間派が革マル派学生を襲撃し、1名を殺害[117]。1996年の内ゲバ事犯による負傷者数9人、うち死者1人1998年(平成10年)の内ゲバ事犯による負傷者数8人[116]1999年(平成11年)〜2004年(平成16年):革労協現代社派と革労協赤砦社派1999年(平成11年)5月 - 革労協狭間派が現代社派と赤砦社派に分裂し、以降殺人を伴う内ゲバの応酬を繰り返す。1999年は3名の活動家が殺害された。1999年の内ゲバ事犯による死傷者数4人、うち死者3人[119] 2000年(平成12年)2月 - 革労協現代社派と革労協赤砦社派の内ゲバで2名が殺害。2000(平成12年)の内ゲバ事犯による死傷者数13人、うち死者4人2001年(平成13年)5月 千葉県で、革労協赤砦社派が革労協現代社派の活動家を殺害[120]。2004年(平成16年)6月2日 - 東京の路上で革労協現代社派が革労協赤砦社派の活動家2名を殺害[121]。 ////////////////////////////////////////////// 内ゲバ事件の発生件数一覧[122][7]年 件数 死者数 負傷者数 備考1968 85 0 700 件数のうち代々木系対極左系が約4割(36件)1969 308 2 1143 件数のうち代々木系対極左系が約3割(175件)1970 175 2 525 件数のうち代々木系対極左系が約4割(77件)1971 272 4 521 件数のうち代々木系対極左系が約4割(116件)1972 183 14 338 件数のうち代々木系対極左系が5割強(84件) 死者の多くが、連合赤軍の山岳ベース事件の犠牲者1973 238 2 573 件数のうち極左間が約7割(164件)1974 236 11 607 1975 229 20 543 中核派対革マル派が激化、死者数のピーク1976 91 3 192 1977 41 10 47 革労協対革マル派が激化1978 32 7 45 1979 22 8 32 1980 15 8 32 1981 9 2 6 1982 6 1 7 1983 3 0 5 成田闘争が熱田派と北原派に分裂、中核派が「党 派闘争宣言」1984 11 0 12 1985 12 0 22 中核派対革マル派が全件1986 9 2 10 1987 4 0 4 1988 5 1 21 中核派対革マル派が減少1989 3 3 0 革労協分裂(狭間派対労対派)が激化1990 4 0 2 1991 2 0 7 1992 4 0 3 1993 2 1 2 1994 0 0 0 発生なし1995 2 0 4 1996 2 1 8 1997 0 0 0 発生なし1998 4 0 8 1999 5 3 1 革労協再分裂(現代社派対赤砦社派)2000 6 4 9 (白書は2000年迄、内ゲバ事件自体は2004年迄発生)
2024.03.28
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一度しか無い人生が、無残にも破壊された・・・扇動と洗脳の時代。そこから我々は、何を学ぶべきだったのか? 残された余生を見つめながら・・・ 2024-3-24 はんぺん あの時代、決して忘れてはならない出来事・・・多くの殺人事件が、内ゲバ(内部ゲバルト)という形で、実行され、一度しか無い人生が、無残にも破壊された。 ウイキペディアから・・・・「日本共産党を否定して生まれた日本の新左翼が、1960年代初期には多数に分裂し、ここでも内ゲバが発生した。初めは集団の小競り合い程度だったが、後に個人を拉致しリンチを徹底的に加えるという陰惨なものになっていった[5]。 また新左翼の街頭武装闘争が激しくなるにつれて、集団での抗争も武器がエスカレートし激しいものとなっていった。こうして1960年代の後半以降は多くの新左翼党派間に内ゲバが蔓延した。 特に中核派・革労協と革マル派との間の内ゲバは激しく、1970年代には殺し合いの状態になり、革マル派が中核派と革労協の最高指導者を暗殺したことで、内ゲバは「戦争」状態となった。」 「犯罪白書によれば内ゲバ事件(1968年~2000年)は件数2020件、死者97名、負傷者5429名だが、2004年迄の死者3名を加えると死者100名である。内ゲバの巻き添え、あるいは攻撃側の誤認、活動資金確保を目的としたノックアウト強盗(内ゲバを装う)によって死傷したノンセクトや一般人も少なくない。これらは「誤爆」と言われた。しかし誤爆について、実行した党派が謝罪したケースはほとんどない。」以上、ウイキペディアから・・・・ (僕も含めて)洗脳されたモノたちは、無我夢中で、正しいと思って、無私の(?)活動に馳せ参じたのだが、その中のほんの一部だが、決定的な(過ち)に足を踏み入れたモノたちは、取り返しのつかない(罪)を犯してしまったのだ。 (内ゲバ)で、殺された(活動家)、重症などで、障害者になったモノ、精神的なダメージを受けて、立ち上がれなくなったモノたちは、ゆうに5,000人を超えるという・・・・・ 連合赤軍の(青二才兵士)たちによる「山岳ベース事件」これは、「仲間内のリンチ殺人でしかなく」(本文) これについては、「新左翼勢力は沈黙を決め込みました。」(本文) これに尽きるのか? 自分たちの(しでかした事件)に、見て見ぬ振りをする新左翼の活動家たち・・・これって、今の独裁国家(中国・北朝鮮・ロシア)の暴虐に、見て見ぬ振りをする日本リベラルたちと、同じやんけ・・・そう、新社会党・社民党・MDS・アサートに巣くう偽リベラルたちの事だが・・・・ MDSとアサートは、70年安保の学生運動で、僕が参加していたDSL(民学同)の流れを汲んでいる、反省の無いグループだ。本当に、恥ずかしい限りだが・・・あの時代、僕が入学した我が大学には、民学同(日本のこえ派)、民学同(共労党派)、民青、社学同、革新グループ(社革派)・・・などが、あった。 今でも、よく思い出す。僕たちの派は、よく、小突かれたり、殴られたりしていたモノだ。学園に、自由と民主主義は、すでに無かった・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――テロルの清算(2)連合赤軍編 伸楽塾はじめに山岳ベース事件現場今回の記事は連合赤軍に関わるテロリズムについてのものです。同タイトルの(1)ではアニメ作品という「フィクション」を素材にしたものでしたが、今回の記事は実際にあった事柄に基づいて書きました。 記事を書くに当たって参照にした資料は以下の3作です。「虚ろな革命家たち」(2022)佐賀旭(集英社)「2022年の連合赤軍」(2022)深増義也(清談社)定本「レッド」全4巻(2023)山本直樹(太田出版)これ以外にもいくつかの書籍、映画、等を参照しています。 連合赤軍は1971~2年にかけて活動した新左翼の軍事組織です。別々に活動していた共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘革命左派が合流して結成されたものです。 組織の委員長が森恒夫(1944~73)、副委員長が永田洋子(1945~2011)、書記長が坂口弘(1946~)です。連合赤軍は中国の毛沢東主義に大きな影響を受けており、軍事的な手段によって共産革命を達成しようというものでした。 連合赤軍の名を知らしめたのは「あさま山荘事件」と「山岳ベース事件」です。それ以外にも様々な事件に関わっています。この記事はそれらの事件を追いながら、当時関わった人たちの証言を入れながら、筆者なりに考察を行ったものです。 資料は互い矛盾する要素があり、時間の経過と共に多くの記憶が失われています。なのでこの記事は「これが正しい事実だ」といえるものではなく、あくまでひとつの考えとして読んでいただけるとありがたいです。 あさま山荘事件の様子 【画像引用 朝日新聞デジタル】筆者にとっての連合赤軍のイメージは、やはり「あさま山荘事件」と「山岳ベース事件」が与えた衝撃です。 事件の当時私はまだ小学生で、あさま山荘事件に関しては「悪い人が女性を人質に立てこもっている」という印象で、TV中継を観ながら「警察がんばれ」と思っていました。 山岳ベース事件に関しては「仲間同士で殺しあう」ということが、小学生の筆者にはいまひとつピンとこず、とにかく「悪い人」なのだなあと思った次第です。中学生の頃から左翼思想に興味を持ちましたが、ふたつの事件に対する印象はあまり変わりませんでした。 大人になって知ったのは、このふたつの事件が日本社会に与えた衝撃はかなりのものだったことです。あさま山荘事件に関しては、警察官や民間人を射殺したことに対する批判が多かった反面、人質を丁重に扱ったことを含め新左翼勢力からは「英雄視」するようなこともありました。 しかし山岳ベース事件に関しては、仲間内のリンチ殺人でしかなく、新左翼勢力は沈黙を決め込みました。新左翼勢力に対して批判的であった日本共産党は、すぐさま批判の声明を出しました。しかし一般の人たちから見れば両者とも左翼勢力に変わりなく、全ての左翼勢力はダメージを受け、安保闘争を中心に盛り上がった左翼運動は、一気に退潮することになりました。 その後も左翼運動は生き続けましたが、ベルリンの壁崩壊に始まるソビエト連邦の崩壊によって、世界的な左翼の凋落に繋がりました。そしてこれが現在にまで至っています。 連合赤軍委員長森恒夫 【画像引用 個人ブログ】そんな私が今回、連合赤軍を取り上げようと思ったのは、上記の資料にも挙げた「虚ろな革命家たち」(佐賀旭)を読んだことでした。著者は1992年生まれのジャーナリストです。もちろん事件は彼の産まれる前に起こっており、著者の記憶の中にはありません。 著者が興味を持ったきっかけは、三里塚に取材のために訪れたことでした。そこで疑問に感じたのは、ひとつの時代に大きな政治的抗議活動が行われ、それがなぜ沈滞してしまったのかということの理由でした。そして著者がいろいろ調べていく中で「連合赤軍事件で全てが変わった」という発言をたびたび聞いたことで、興味を持ったそうです。 特に著者が興味を持ったのは、連合赤軍委員長森恒夫の存在でした。森は連合赤軍の指導者で、さまざまな事件や行動は、彼の考えに基づいて行われていました。しかし森は逮捕後これまでの行動を自己批判し、拘置所内で首を吊って自殺しました。著者は森恒夫の人生を追いかけることで、一連の事件の謎を追おうとしたのです。 森恒夫は1944年大阪に生まれました。父親は大阪市交通局の職員でした。住まいは交通局の公舎で、今も下町の雰囲気を残す街だったそうです。高校時代は剣道部に所属し、当時の友人たちによると典型的な体育会系だったそうです。 高校卒業後は大阪市大に入学し、そこで左翼思想に惹かれたようです。また当時は韓国と日本は「反共」という点で、同じ陣営でしたが、一方で戦前から続く、在日韓国人に対する差別が行われるという現実がありました。森青年が左翼に興味を持ったのは、その現実を幼いころから知っていたことが、大きかったようです。 高校卒業後、森恒夫は大阪市大に入学します。大阪市大は戦前にリベラルな運動が特高警察によって弾圧されるという負の歴史をもっており、そのためかこの時代は左翼系学生運動が盛んなところでした。ここで森恒夫は左翼運動に参加します。 森恒夫には多くの活動家が、森より偏差値の高い大学出身であることに根強いコンプレックスを抱えていたそうです。また運動のさなかに戦線を離脱した経験がありました。知り合いの活動家の取り成しで復帰しましたが、そのことに対して強い負の感情を抱いており、自身がリーダーになった時、「絶対に逃げられない」という思いを強めたようです。 一方高校時代の同窓生の発言から伺えるのは「物事を自分では決められない」という性格だったことでした。そういったことが相まって、他者を頼りつつ一度決めたことは絶対に変えないという硬直した性格を生み出したようです。そしてそのことが山岳ベース事件を生み出す、遠因となったのでした。 連合赤軍副委員長永田洋子 【画像引用 個人ブログ】連合赤軍を語るうえで外せない存在が、副委員長の永田洋子です。永田洋子は逮捕後、獄中から発信を続け、多くの著作を残しました。それは自分たちの行動の過ちに対する贖罪と、マスコミの決めつけに対する反論が主でした。 今回記事を書くために永田洋子の著作を参考にしようと思いましたが、残念ながら手に入りませんでした(この件に限らず、怪しげなネット情報が氾濫する一方、歴史的資料が手に入らなくなっていることが、少なくありません)。 森恒夫に関しては「虚ろな革命家たち」と「2022年の連合赤軍」によって、おぼろげながら彼の全体像をつかむことが出来ました。しかし永田洋子に関してはいまひとつイメージが定まり切れませんでした。以下の内容は筆者の「憶測」がかなり入っているものとして読んでいただきたいと思います。 森と永田は互いの存在を認めつつ、ライバル意識を持つ関係でもありました。しかし両者とも実は自分の判断で決断できないタイプだったようで、どちらかが路線を決定すると、それに割と素直に従ってしまう面があったようです。 両者の関係性が現れているエピソードがあります。両者は合流する前のそれぞれの組織の代表的存在でした。連合赤軍は山岳地帯で活動を行っていましたが、森が永田のグループに対して「山岳での活動を行っているのに、なぜ各自が水筒を持参しないのか」と自己批判を迫りました。実際には沢に流れる水を飲めばすむので、水筒を持つ必要はあまりなかったのですが、森はそこを強く責めました。 彼は自分の仲間に「これで主導権が握れる」と言っていたそうです。永田はこれに反論できず、これに対して永田が行ったのが、森側の女性のひとりが指輪をしていることを指摘し、「革命戦士としての資質に反する」として糾弾を行いました。 いずれもささいなことでしたが、批判は徹底的に行われました。また森と永田は相手を直接批判するのではなく、互いのメンバーを批判するのが特徴的でした。「総括」はこういった流れが先鋭化していく中で行われるようになりました。 テロルの発動 マンガ「レッド」より 【画像引用 個人ブログ】リンチを最初に行ったのは合流する前の革命左派です。スパイ容疑の女性をふたりがかりで絞殺しました。これを知った森は恐怖を憶えつつ、自分たちも覚悟しなければと思ったようです。 合流後、最初に行われたリンチは、加藤能敬(1949~72)に対して行われたものです。加藤はある事件で獄中にいました、仮釈放を受け連合赤軍に合流しました。この間に上記の一連の事柄が起こっており、また獄中にいる別の活動家が連合赤軍によって断罪されました。 これらのことを知らない加藤は、これまで通りの発言を行い、獄中の活動家を評価する言動も見られました。森と永田は彼を説得するのではなく、自分たちの存在を脅かす脅威とみなし、彼を否定しようと躍起になりました。加藤は自己批判を行いましたが、森も永田もそれを認めず、「共産主義化」という名の暴力を振るわれ亡くなりました。 ここから坂を転げ落ちるようにリンチが繰り返されるようになりました。「総括」の理由は様々でしたが、「隠れてキスをした」「化粧をしていた」など些細なことがほとんどでした。 森と永田にすれば自分たちの意見に少しでも異をとなえる存在を「反革命」とみなしました。「総括」は身体を拘束したうえで暴力をともなうものでした。 例えば自己批判をしても「そんな問題ではない」と難癖をつけ暴力をふるいました。暴力におびえ発言を撤回すると、「お前の自己批判はそんなものか」と言ってさらに暴力をふるいました。最終的に亡くなったのは12人に及びました。 直接暴力で亡くなったのは4人で、残りの8人は、雪山の山中に拘束されて放置したことによる、凍死および餓死でした。犠牲者の中には妊婦もいました。 生き残ったメンバーは警察の包囲網から逃れるためベースを脱出しました。しかし森と永田を含む多くのメンバーは捜査中の警察によって逮捕されました。包囲網から逃れたメンバーはあさま山荘に辿り着き、「あさま山荘事件」を起すことになります。 テロルの爆発 あさま山荘事件の様子 【画像引用 AMAZON】警察の手を逃れ5人のメンバーが逃亡を続けました。たまたま辿り着いたのがあさま山荘でした。あさま山荘は河合楽器製作所健康保険組合の所有する療養施設でした。当時1組の夫婦が管理人を務めていましたが、侵入当時施設にいたのは管理人の妻の女性のみでした。 5人はその女性を人質に立てこもります。計画的に行ったことではなく、他に選択肢が選べなかったためです。しかし女性を人質にすることは否定的なメンバーもいて、解放する意見も出ましたが、結局人質派が押し切る形になりました。 警察側は拳銃が主な武器で、過激派側の所持する猟銃と比べて、不利な闘いを強いられました。激しい銃撃戦の末、2人の警官と、1人の民間人が射殺され、多くの警官が負傷しました。家族が呼び出され過激派への呼びかけが行われましたが、家族にも(威嚇でしたが)発砲が行われました。 過激派をライフルで射殺する案も出ましたが、当時の指揮官が「死ねば英雄になってしまう、絶対生きたまま逮捕すべきだ」と言いました。 警察側は、大音量の音を流し、放水、催涙弾の発射、鉄球による建物の破壊、など徹底的な行動を行いました。この時、過激派が思想的に依拠する中国が、アメリカの大統領を招く映像がTVで流され、メンバーのひとりが自分たちのやってきたことに疑問を感じたそうです。 籠城から10日目、警察はあさま山荘に突入し、全員逮捕して人質の女性も無事救出しました。これにより連合赤軍は組織として完全に壊滅しました。 おわりに・・・・ 映画「実録・連合赤軍あさま山荘の道程」(2008)より長々と書いてきましたが、すでに50年余りの時が経っており、連合赤軍の名前も知らない世代も多いかと思います。しかし同世代である団塊の世代や、筆者の様なもうひとまわり下の世代にとっては、色々な意味で大きな事柄だったと思います。 近年時間が経ったことにより当時の関係者が口を開き、そこで新しい事実も明らかになりました。筆者が参考にした書籍は、いずれもそういったことを踏まえて書かれたものです。 森恒夫の軌跡を追った「虚ろな革命家たち」、証言集である「2022年の連合赤軍」の両著作はかなり参考にしましたが、最終的に記事の構想が決まったのにはマンガ「レッド」の存在が大きかったように思えます、 作者の山本直樹(1960~)はいわゆる「エロマンガ」で著名なマンガ家です。筆者もそれらの作品を読んだことがありますが、エロマンガと言いながら、登場人物の虚無的な荒廃感が描かれており、時に文学的なたたずまいさえ感じさせる、かなり特異な作風のマンガ家でした。 山本直樹は筆者と同年代の方です。オウム真理教への興味から、組織における暴力の問題に興味を持ったのがきっかけだそうです。作者は作品のデティールにこだわり、登場人物のセリフは、証言集や回想録から取っており、また当時の風俗や文化も調べ、作品に反映させたそうです。 この作品で最もインパクトを感じた要素は、登場人物の上部に番号がふってあることです。この番号は物語の展開と共に、亡くなっていく順番をナンバリングしたものでした。人物名も固有名詞も全て架空のものに変えてありますが、内容を読めばすぐに特定できる描き方をしています。組織の創設から、あさま山荘事件に至るまで、主観を極力挟まず淡々と事実が描かれます。そのことによりかえって事態の残酷さが浮き彫りになってきます。 それ以外にも団塊の世代による著作を読みましたが、いずれの作品もなにか言い訳がましいものが多く、あまり共感が出来ませんでした。また山本直樹もインタビューで語っていましたが、女性の証言がほとんどなく、存在自体も等閑視されており、この運動の問題点が浮き彫りになっているように思えます。 筆者は同じ時期に、日本のリベラリズムや民主主義について述べた著作を読みましたが、それらに共通する視点として、「そもそも日本には民主主義はおろか、「近代」を迎えたこともなかったのではないか」ということです。そしてそのことが筆者には連合赤軍事件につながる、日本の「歪み」の根源にあるものではないかと思えるのです。 資料を細かく当たったつもりですが、間違った叙述もあるかもしれません。取り合えずこれが現時点での筆者の考えです。また別の視点から「テロリズム」について語ることもあるかも知れません。
2024.03.24
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狂気は、「自分自身で物事の善悪を考えなくなる心の支配のプロセス、目的のためには手段を選ばない独善性、組織やリーダーは絶対正しいという無謬性」(江川紹子)の必然の結果・・・ 2024-3-19 はんぺん 「連合赤軍の一連の事件を経て、過ちを認めない組織は暴走するのだと気づきました。連合赤軍の誤りは、理想を実現するため暴力に訴えたことです。そして1人犠牲者が出ると後に引けなくなった。でも誤りは誤りなんだと認めるべきだった。私自身の反省でもあります。」(雪野建作、本文) 「純粋でまじめな若者が引き寄せられ、自分自身で物事の善悪を考えなくなる心の支配のプロセス、目的のためには手段を選ばない独善性、組織やリーダーは絶対正しいという無謬性などに、政治的カルトの特徴が見て取れる。「カルト」は宗教ばかりではないのだ。」(江川紹子(ジャーナリスト) 「カルト」は自らの過ちを認めない。「過ちを認めない組織は暴走する」という雪野さんの述懐は、体験に裏打ちされているだけに重い。」(江川紹子(ジャーナリスト) ため息ばかり、ついていられない・・・当時の時代を知る人間が、(総括)できない理由は無い。「なぜ、語らない・・・」は、10年ほど前の産経新聞出版のの書にあった言葉だが・・・今も、問われている。 僕の周囲の人間でも きちんと(総括)したという話は聞かない。当時、僕を(指導)した(後に、偉い?大学教授になった)人からも、話は聞けなかった・・・なぜだろう・・・何をためらうのか?? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――暴力に訴えた誤り認めるべきだった。あさま山荘事件、銃調達役の悔恨 聞き手・鶴信吾 2023年2月19日 朝日新聞取材に応じる雪野建作さん=2023年2月19日午後1時16分、東京都新宿区、鶴信吾撮影 51年前の2月19日、長野県軽井沢町の保養施設で過激派グループ「連合赤軍」のメンバー5人が人質をとって立てこもった。10日間に及ぶ銃撃戦で、警察官ら3人が殺害された「あさま山荘事件」。雪野建作さん(75)は、使われた銃の調達役だった。「暴力に訴えたのは明らかな誤りだった」。半世紀を過ぎた今、事件を振り返る。 「この戦いは負けた」 「敗北した」。あさま山荘事件が起きたことを伝えるニュースを拘置所の中で知ったとき、私はこう感じました。山荘には仲間が立てこもっている。でも、籠城(ろうじょう)は、永久にはできない。いつかは捕まる。警察官を射殺したってどうにもならん、この闘いは負けた、と。 私は、銃を強奪した罪で勾留され、ニュースは新聞で読みました。まさか仲間が真冬の雪山にいるとは思いも寄らなかった。てっきり皆、都会のアジトにいるものだとばかり思っていました。それに私たちは、警察官を殺すために銃を強奪したわけではなかったんです。 警察官を撃ち殺すためではなかった――。雪野さんがそう語った一方で、奪われた銃によって警察官2人を含む3人が殺害されてしまいます。なぜ目的が変わったのか。銃を手にしていく過程で組織の「変化」があったといいます。 私が通った都立大学附属高校は自由な校風で、学生運動が盛んでした。50人のクラスで42人がデモに行くような感じです。当時はベトナム戦争がさかんに報道され、私は強い反発を感じました。戦争の遂行に何とか打撃を与える闘争をしたい。そういう情熱は抑えがたいものがあったりしました。 横浜国立大工学部に入学後、後に過激派組織と呼ばれるグループの活動に加わるようになりました。このグループは当初、学生運動よりもむしろ労働運動に根付こうとしていました。日本人の多くは労働者ですし、私は学生運動だけでは日本は変えられないと思っていましたから、信頼できると思いました。 後に、このグループから独立して誕生したのが「革命左派」です。私は革命左派についていきました。このグループが、後の連合赤軍の母体です。 「警察への報復戦」 銃を入手しようとしたきっかけは、革命左派のリーダーが逮捕されたことでした。1969年12月のことです。このリーダーは、自らの身柄を奪還して中国に亡命させることを獄外のメンバーに求めます。 獄外にいた組織指導部の永田洋子(元死刑囚、獄中死)たちは、このリーダーが手錠をつけて護送車で裁判所に連れて来られるタイミングで、銃を突きつけて身柄を奪還しようと考えた。米軍とか自衛隊や機動隊を殺傷することが目的ではありませんでした。 銃を得る場所として最初に狙ったのが、東京・板橋の交番でした。70年12月18日、仲間が警察官を襲います。しかし、失敗し、その場で1人が射殺されました。 同志の死は組織に結束と緊張を生み出しました。事件後に自分が書いた手紙の中に、警察への「報復戦」という言葉があった。そういう心境だったのだと思います。 71年1~2月ごろ、私は革命左派が持つ「軍」のメンバーと一緒にあちこちで調査をしました。どこが狙いやすいか下見もしました。こうして、次に狙うことになったのが、栃木県の銃砲店でした。 このような闘争が正義かどうか、私は自分では考えなかった。当時、私は革命左派の方向性を決める「指導部」にはいませんでしたから。今思えば無責任だったと思います。 襲撃の日は、71年2月17日になりました。私はこの作戦に加わる予定じゃなかったので、ちょっと人ごとみたいなところがありました。打ち合わせも横で聞いていた程度ですが、銃砲店を襲うことの是非は話し合われていた。 店主と家族を縛り上げ… メンバーたちは「銃は一度借りて返すんだ」とか言っていましたね。「決して銃砲店の人をけがさせないように」とも。私も、民間人から銃を奪うことは革命を成し遂げる上でしょうがないことだ、と思っていました。 決行数日前、急に指導部から「お前も行け」と言われました。「えらいことになった」と思いました。人数は多いほうがいい、ということが理由でした。そう言われたら仕方ない。腹をくくりました。 作戦はまず、銃砲店内に押し入って電話線を切る。通報できないようにするためです。店主と家族は縛り上げよう、と。今思うと、やっぱり感覚がまひしてたんだと思います。 一般の人を縛り上げるなんて、おかしいです。罪深いことをしたなと思っています。この10カ月後、連合赤軍は群馬県の山中で「山岳ベース事件」を引き起こし、仲間や兄弟を縛り上げて暴行を加え、12人も殺しています。この事件の下地は、銃砲店を襲った2月17日のこのときすでにできていた、と後から思います。 「銃を手にして初めて…」 鉄砲店を襲う当日は計画通りに実行しました。電話線をハサミで2カ所切りました。奪ったのは、散弾銃10丁や銃弾2300発など。散弾銃の実包は重かったですね。500発が一斗缶のようなものに入っていて20キロか、もっと重いくらいだったと記憶しています。ライフルの弾も、少し持ち出しました。 銃を手に入れた後、組織は変化しました。 もともと、警察官らを殺すことが目的ではなかったけれど、組織の指導部は、警察や軍隊を殺傷する闘いをするべきだ、となった。指導部の永田は「銃を手にして初めてそうすべきだとわかった」とも言っていました。そして本来の目的だったリーダー奪還は、警察の捜査が激しさを増し、ついに実現できませんでした。 このときに、立ち止まって、もっと話し合えばよかった、と今では思います。警察官を殺しても、世論を味方につけられません。突き詰めて考えたら、武装闘争は間違っているとなっていたのではないかと。 当時、私たちのそうした批判を、指導部は押さえつけました。私は、そんな態度に絶望しながらも、「いつかわかるだろう」で、済ませてしまいました。 奪った銃はあさま山荘へ 銃砲店を襲撃後、警察から逃げるため次々とアジトを移動しました。最終的に札幌のアジトまで逃げ、札幌郊外にある定山渓温泉の近くの川沿いに銃を埋めました。 札幌のアジトでは春先まで潜伏生活を続けました。この間、銃のうち数丁を他の過激派組織「赤軍派」に譲り、そのかわりに、現金を受け取りました。我々の組織は、資金難だったのです。 春以降は、東京・奥多摩湖の上流にのぼった山中に野営地のアジトを設け、ここに拠点を移すことにしました。銃も札幌に2グループ4人を派遣して持ち帰りました。 このアジトでは穴を掘って便所をつくり、サバ缶やカップラーメン、山菜、ときにはカエルを食べてみたこともあります。一方で私は、私たちのゲリラ闘争に共鳴するグループと連絡を取ったり相互支援をしたりするため、山のアジトを離れ、大部分を都心で生活していました。 7月。革命左派と赤軍派が合流した組織を結成。これが後の、連合赤軍となります。 銃砲店襲撃から半年が過ぎた8月21日。新宿の「ピクニック」という喫茶店で仲間と落ち合った途端、刑事が2人、ドカドカと店内に入ってきて「雪野だな」。逮捕されました。 逮捕後もしばらくは気が張っていました。拘置所で寝ていても、看守が歩く「コツコツ」という音でパッと目が覚める。数日はそういう状態でした。 11月。連合赤軍は、山中のアジトに拠点を移していきます。ここにも銃は持っていったようです。リュックに弾と銃を詰めて行ったのでしょう。この銃は、連合赤軍のメンバーが最終的に行き着くあさま山荘まで運ばれました。 闘争の破局と脱退 そして12月末から翌72年1月にかけ、山岳ベース事件が発生し、同年2月にあさま山荘事件が起きます。あさま山荘では銃撃戦が繰り広げられ、連合赤軍のメンバーが警察官2人と民間人1人を撃ち、死亡させました。「えらく銃の腕が良いらしい」。私は、刑務官が立ち話をしているのを拘置所で聞いたのを覚えています。 あさま山荘事件が終結すると、山岳ベース事件も発覚しました。拘置所のラジオから流れるニュースは耳を覆いたくなるものでした。苦楽をともにした同志たちの遺体が、次々に発見されたことが報じられたからです。仲間が仲間を手にかけていたんです。私たちの闘争は、こうして破局を迎えました。 実は以前から獄中のリーダーと私はいろいろ考え方の違いが表れていて、私は組織を正道に戻すため、このリーダーと大々的に論争を始めていました。お互い、獄中にはいましたが、手紙や電報のやりとりはできたんです。しかし、受け入れられることはありませんでした。 72年の秋、私は革命左派を脱退しました。 今語る義務 懲役10年の判決を受けた私が仮釈放されたのは1980年でした。出所後は環境問題に関連する新聞記事などを集めた雑誌を発行する会社をつくり、現在はウェブサイト構築システムの開発、販売などを手がける会社を経営しています。 連合赤軍の一連の事件を経て、過ちを認めない組織は暴走するのだと気づきました。連合赤軍の誤りは、理想を実現するため暴力に訴えたことです。そして1人犠牲者が出ると後に引けなくなった。でも誤りは誤りなんだと認めるべきだった。私自身の反省でもあります。 逮捕されずに仲間とともに山中のアジトに入っていたら私は最初に殺されていた、と皆から言われます。「捕まって良かった」とは言いませんが、どういう天の配剤か、運命のいたずらか、こうして生き残っている、生かされている。私たちがあのとき、何を見て、考えて、何をやったか。今こうして語る義務がある。そう思うのです。(聞き手・鶴信吾) コメントプラス江川紹子(ジャーナリスト・神奈川大学特任教授) 2023年2月20日 投稿【視点】 過激派グループのカルト性が分かりやすく語られている。とりわけ、純粋でまじめな若者が引き寄せられ、自分自身で物事の善悪を考えなくなる心の支配のプロセス、目的のためには手段を選ばない独善性、組織やリーダーは絶対正しいという無謬性などに、政治的カルトの特徴が見て取れる。「カルト」は宗教ばかりではないのだ。 「カルト」は自らの過ちを認めない。「過ちを認めない組織は暴走する」という雪野さんの述懐は、体験に裏打ちされているだけに重い。 今の時代、陰謀論やニセ科学、二元論などに動かされ、無謬性に陥るといった、カルト性の高い集団が跋扈し、人々の分断を煽っている。 そういう時だけに、このような証言は意味がある。私たちは、客観的に受け止めやすい過去の出来事から、人を取り込み心を支配する「カルト」の怖さを学んでおきたい。
2024.03.19
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どうして(狂気)が、大きな幅をきかしたのか? 人生経験が貧弱だった若者たちが、あんな残虐な事件を起こしてしまった・・・未熟な、青2才の若者=バカ者たちが、一度しか無い大切な人生を棒に振ってしまった・・・ 2024-3-16 はんぺんいつも思うのは、運動のリーダーたちの無責任の事だ。僕は、(扇動)という言葉が、嫌いだ。そして(洗脳)という言葉も・・・だ。 多くの無自覚な大衆・・・学友であれ、一般市民であれ・・・を意のままに、さも、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」とばかりに(全体主義的な思想=共産主義を隠して)、立ちあがれ・・・と煽り立てる。 /////////////////////////////////////「One for all All for one」の本当の意味とは? President Academyhttps://bbank.jp/president-ac/blog/20201021-2 「One for all All for one」という言葉をいろんなところで聞くと思います。あの言葉の意味をどう捉えるかには、注意が必要です。特に経営でこの言葉を使う際には、社内に誤解を生んでしまい、意思決定が進まないなんて事態も起こってしまいます。 「One for all All for one」 の日本語訳の多くは、「みんなは1人のために、 1人はみんなのために」こう訳されると思います。でも、この訳は残念ながら間違っていると言われています。 どこが間違っているかといえば、後半の「All for One」の訳の部分です。最初の「one for all」は「1人はみんなのために」。これは多くの方が知っている意味で、問題ありません。 しかし、「all for one」は「みんなは1人のために」ではなく、「みんなは1つの目的のために」だと考えるべきだと言われています。 特に経営の文脈では、「みんなは1つの目的のために」で考えないと物事が進まなくなってしまいます。例えば、事業計画とか制度決定とかは多数決だと何も決まらない。 もちろん周りの意見は聞くものの、最後にジャッジするのは意思決定者である1人がバチっと決める。そうしないと会社が進まなくなってしまいます。 ///////////////////////////// どうだろうか? これは、ファシズムの・・・全体主義(共産主義)の論理ではないのか? 会社が進まない・・・これって、独裁体制(統治)が、進まない・・・ということになる!! 「1人はみんなのために」・・・スターリン・毛沢東・金日成たち独裁者は、必ず、「国益(みんな)のために頑張る」といった。 そして、彼らは、必ずall for one =「みんなは1つの目的のために」あるいは、「みんなは一人(=独裁者)のために」頑張れと叱咤したのだ。 これって・・・全体主義賛美のスローガンでは無いのか??? 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――「卑怯になれない君の過ち」 犠牲者しのび重信房子が獄中で詠んだ歌 森下香枝 2024年3月29日 朝日新聞現場へ! 連合赤軍「指輪物語」⑤ 連合赤軍(連赤)事件で遠山美枝子(当時25)が亡くなったのは1972年1月7日だが、遺族は遺体が発見された3月13日を命日とする。その日の前後、横浜市にある美枝子の墓に毎年、かつての仲間を集めてお経を唱える僧侶がいる。 美枝子が卒業した明治大学2部の後輩、永田泰修(74)だ。美枝子とはサークル連合で一緒になった。永田は成田空港建設反対運動をしていたが、性に合わず組織には所属していなかった。「3歳上で面倒見のいい美枝子さんは何でも相談しやすかった」と振り返る。 美枝子や赤軍派メンバーらと行きつけの阿佐谷のスナックでよく飲んでいたという。 永田が美枝子と最後に会ったのは71年11月。山岳アジトへ行く直前で、赤軍派へのカンパ(支援)を求めに来た時だ。永田が有り金をすべて渡すと、美枝子は「私たちが新しい世の中をつくるから見ててね」と笑った。今もその言葉が忘れられないという。 「仲間の命を奪う革命なんかおかしい」 暴力で社会を変えようとし、行き詰まり、仲間を集団リンチで殺害した連赤事件は「閉塞(へいそく)した今のイジメ問題と構造は同じ」と永田は語る。美枝子や自分が生きた時代を孫の世代にも伝えたいという。 「愛するフー」重信房子へ宛てたエアメール遠山美枝子がレバノン・ベイルートにいた親友、重信房子へ宛てたエアメールの中身とは? 永田は事件後に会社を起こしたが、両親の死去で寺と縁ができて約20年前から修行を重ね、60歳で得度して法華宗の僧侶になった。服役中だった元日本赤軍最高幹部の重信房子(78)の接見にも60回ほど赴いた。それまで重信と接点はなかったが、僧籍により接見可能だったので、美枝子ら被害者の供養などを共にした。 遠山美枝子がベイルートの重信房子に宛てたエアメール=内田光撮影重信は2019年3月、獄中で美枝子をしのぶ「三月哀歌」を詠み、永田に託した。 ああ友よ何故留まったのか雪山に 卑怯(ひきょう)になれない君の過ち 同年の命日、この短歌を見た美枝子の夫で元赤軍派最高幹部の高原浩之(80)は「一番、美枝子を表している」と語った。 22年5月に出所した重信は翌年の命日、永田らと美枝子の墓を訪れた。「心の中にはいつも美枝子がいた」という。 美枝子らの遺体が榛名山から見つかった72年3月、重信は海外に拠点を作るため、レバノンの首都・ベイルートにいた。 重信はベイルートから美枝子の母、幸子(ゆきこ)(100)へ長い手紙を送り、いつの日か必ず帰国し、墓へ行くと記していた。 〈おばさん みえこは口ぐせのように「どんなに今の赤軍がだめな指導者でも赤軍の生みの苦しみを知っているフーと私が絶対がんばらないと革命にたどりつけない」と言ってました〉 重信は美枝子から送られたエアメールも同封していた。 重信を「愛するフー」と呼び、〈グチル人間もいなくなったし、フーの所へとんでいきたいくらい(略)フーは一人でガンバッているのだし、私もブツブツいいながらハッスルします〉(71年4月17日付)。 ベテラン警部が案内してくれた場所でみた榛名山 美枝子が連赤事件で総括される発端になった金の指輪が遠山家に戻ったのは、2015年9月。都内にある双子の姉(77)の自宅郵便ポストに、茶封筒に入れられて届けられた。 メンバー17人が起訴された連赤事件の長い裁判の間、美枝子の姉や母は東京地裁、長野県警、群馬県警に連絡し、形見の指輪を返してほしいと訴え続けたが、たらい回しにされた。 1972年3月、連合赤軍リンチ殺人の遺体発掘現場となった群馬県倉淵村(現高崎市)の山林 姉は、美枝子の遺体を確認した時に付き添ってくれた群馬県警松井田署(当時)の警官のはがきを思い出した。「辛(つら)いだろうが強く生きてください。何かあれば、相談にのります」。群馬県警に連絡したところ、その警官は亡くなっていたが、警備1課のベテラン警部が動いてくれた。各所に問い合わせ、指輪が東京地検に保管されていることを突き止め、証拠品の還付手続きまで手伝った。 姉らが同年秋、お礼のために群馬県警を訪ねと、警部は同県庁舎32階にある展望ラウンジに案内してくれた。そこから美枝子が永眠した榛名山が見渡せた。「それまで群馬で山を見るのは大嫌いだった。この時の美しさは忘れないと思う」と姉は振り返った。 2015年9月に遺族のもとに戻った連合赤軍事件の被害者、遠山美枝子の金の指輪。この指輪がきっかけで「総括」が始まった 指輪は43年ぶりに遠山家に戻った。ようやく手にした幸子は長い間、いとおしむように自分の薬指にはめた。幸子は美枝子が高校生の頃の写真を今も財布に入れている。=敬称略(おわり)(森下香枝) ◇ 〈連合赤軍〉1971年に森恒夫が率いる極左グループ「赤軍派」と永田洋子の「革命左派」が合体し、「連合赤軍」(連赤)が誕生した。連赤メンバー5人が72年2月、人質を取って長野県軽井沢町の保養所「あさま山荘」に立てこもる銃撃事件を起こし、警官ら3人を殺害した。その後、取り調べから、銃撃事件以前に群馬県の山岳アジトなどで「総括」と称した集団リンチを繰り返し、男女14人のメンバーを殺害していたことが発覚。メンバー17人が逮捕された。一方、赤軍派とたもとをわかち海外拠点を設けた重信房子らが「日本赤軍」を結成。73~80年の間、中東諸国から支援を受けて多数の武装闘争事件を起こした。大阪府警によって2000年に逮捕された重信は翌年、解散を表明した。
2024.03.16
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「仲間殺し」で、妄想の学生運動は、終わった。真摯な(総括)は、行われなかった・・・ 2024-3-15 はんぺん 連合赤軍の妄想集団)兵士による、(革命ごっこ)で、多くの人々が、傷つき、貴重な(命)が、奪われた。この(革命ごっこ)が、当時の社会、なかでも、学生運動の世界では、そんなに違和感なしに、革命方法などについて、語られていた・・・・そんな中に、僕たちは、生きていたのだ。 ちょうど、大学入学時に、すぐに、全学自治会から出されてきた(4.28教養部ストライキ)方針・・・・前年の10.8羽田闘争、1月佐世保闘争の(盛り上がり)に、のぼせあがった民学同(共労党派)からの 大学の状況を無視した(先進的?)方針だったが、大学だけではなく、世間全体が、浮かれ切っていたように、僕には思えた。 全学大会では(教養スト方針)は、成立しなかったが、(代行主義)による学友の(無責任な支持・容認)は、その後に行われた、全学自治会選挙での、社学同(トロツキスト)の躍進という、僕にとっては(信じられない)結果に繋がっていく。 時代の流れとは、恐ろしいものだと、今では、そう思う。僕たち(理性派)の立場は、吹っ飛ばされたワケだ。正しい主張が、必ず主流となるとは限らない・・・いかに、努力しても・・・だ。 全国学園闘争が、ドロ沼化し、混乱する中で、その混迷を自己目的化して、(「敗北」を目的とした、極左派も暗躍した。「勝利」の展望を欠く集団が、勝利に向けて、運動?していた。 民学同(共労党派)は、その後、プロ学同(プロレタリア学生同盟)と名称を変え、トロツキストへの限りない転落を開始していくが、その後、数年で、分裂?解体?したのか、学生戦線の表舞台から、姿を消した。(三里塚闘争での砦に、プロ学同の旗が、わずかにあったようだ) 連合赤軍は、青2才の(バカ者)たちによる(革命ごっこ)だったが、最期には、(仲間殺し)で、12名の同士たちを惨殺した。こんな現実を 僕たちは、マスコミの報道で知ったわけだが、多くの活動家たちは「これで、終わった・・・」と感じた事だろう。 しかし、自分たちの未熟さを痛感して、きちんと(総括)しようとした者が、圧倒的に少なかったことが、60年安保闘争との決定的な違いだったと、某紙に書かれてあったが、そういう事だ。あの70年安保闘争では、真剣に日本の未来を考えるというよりも (お祭り気分)で、浮かれて(参加)した学生たちが、いかに多かったか!! ということだ。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――あさま山荘事件。その時、何が?真相と今に伝えるもの 2023年02月27日 NHK長野WEB特集連合赤軍による、あさま山荘事件・・・1972年(昭和47)に起きたこの事件では、連合赤軍のメンバー5人がライフル銃などで武装し、長野県軽井沢町の山荘に人質をとって立てこもった。10日間に渡る銃撃戦の末、全員逮捕されたが、警察官2人と民間人1人が死亡し、27人が負傷した。 日本中が固唾をのんで見守ったこの事件、当時現場で活動した機動隊員と救護班員の証言から見えてくる、事件の真相とは。そして、事件は今の時代に何を伝えているのか。 (取材はいずれも2022年) 死も覚悟・・・箱山好猷さん長野県警の機動隊員としてあさま山荘に突入した箱山好猷さん。当時36歳で、犯人による発砲が続く中、突入に向けて山荘内の様子を確認する偵察などを行っていた。突入が決定し、破壊工作の班長を任された。 事件当時の箱山さん・・・「人質を救出するために2階に突入することが決まり、破壊工作と検挙制圧を組織することになった。分隊長の私は、『破壊工作のための隊員を選んでくれ』と言われ、信頼できる隊員を選んだ」 突入前夜、箱山さんは死ぬことも覚悟していたという。 箱山好猷さん・・・「みんなの心は決まっていた。前の晩、隊員と別れの杯をして、朝に出動する時には水杯をした。天気が良くて雪が黄金に輝いて見えていたが、私は車の助手席で目をつぶって、『もしもの時は親子3人いつまでも元気で仲良くいてくれ』と家族に別れを告げた」 足元に・・・・ 立てこもりから10日目の2月28日、救出作戦が始まった。箱山さんたちが隣の建物から鉄ハンマーなどであさま山荘の2階の壁を破壊している時、思いもよらないことが起きた。 箱山好猷さん・・・「私の足元に爆弾が落ちたが、私は気づかなかった。隊員が『危ない、箱山分隊長危ない』と言われて気がついた。不発弾だったのでよかったが、爆発していたら死んでいたかもしれない」 突入! 九死に一生を得た箱山さんは20人の隊員とともに一斉に山荘の2階に突入した。 箱山好猷さん・・・「ガス銃を撃ち込んでいたので、部屋の中はガスでいっぱいだった。ガスで息が吸えない、呼吸ができなかった。だから、息が吸えるようにするため盾を窓にぶつけて割った。行ってからは不安はなかった」 数分で2階を制圧し、箱山さんはそのことを示すため外に向かって旗を振ったという。制圧時のことを箱山さんは手記で「万感の思いをこめて窓にかざした。隊旗は寒風にはためいた」と述べている。 ところが、ほどなくして悲報が飛び込んできた。警視庁の機動隊長と警部が撃たれたというのだ。2人は死亡する。あさま山荘事件では警察官2人を含む3人が死亡し、27人が負傷した。 妄信が悲劇に事件後にはさらにショッキングなことが明るみとなる。連合赤軍が活動方針をめぐり仲間に自己反省を迫ってリンチをエスカレートさせ、12人を殺害していたのだ。 過激化した若者たちが引き起こした、あさま山荘事件。警察を退官後、旧真田町の最後の町長も務めた箱山さんは、若者たちの妄信が悲劇につながったと語る。 箱山好猷さん・・・・「若いと1つのことを信じてそれにのめり込んでしまう傾向がある。若い人は純粋で、疑問を抱かずに受け止めてしまう。当時、才能があった人たちがみんなそういう方向を向いてしまって、あさま山荘事件の5人もそれで人生を棒に振ってしまったと思う。あれがなければ、しっかりと勉学を進めて社会の中で生きていただろうし、相当な力を発揮できたのではないかと考えると、もったいなかったし、残念だ」 救護班員として・・・・救護班員として活動した小林富貴子さんは当時、箱山さんと同じ36歳。女性でただ1人の救護班員として負傷者の手当てや健康管理にあたった。 突入作戦が実施された2月28日、小林さんは山荘に最も近い救護所への移動を命じられる。人質が救出された場合、真っ先にその健康状態を確認するという任務が与えられていたのだ。 ところが、救護所に移動すると信じたくない光景を目にすることになる。警視庁の機動隊長が頭付近に銃弾を受けて担架で運ばれてきたのだ。 小林富貴子さん・・・・「眉間に銃弾が入った姿で担架に乗って、もう血まみれになっていた。警視庁の機動隊員が泣きながら担架を運んで来て、『隊長』『隊長』と言って、そばから離れようとしない。その姿を見たら私も泣いてしまって。本当に悲惨で」 人質解放も…解放作戦は夜まで続いた午後6時過ぎ、今度は担架に乗せられた人質の女性が、小林さんたちのもとに運ばれてきた。小林さんは女性の体調に異常がないか、必死になって確認したという。 小林富貴子さん・・・・「脈はこうやってとるものだと習っていたが、自分自身の脈がすごくはやくなっていて、それが影響したのか脈をうまくとることができなかった。落ち着いてから脈をとったら、脈を打ってるので、『大丈夫だから早く』と言って救護車に乗せて送り出した。これが私の1番の任務だった」 命の重みこの事件をきっかけに命の重みを考えるようになった小林さんは、命の大切さと教訓を伝えるために、当事者として事件のことを子どもや孫に語り続けているという。 救護班員だった小林富貴子さん・・・・「あさま山荘事件では人の命の尊さを知った。この事件を経験していなかったら、これほど人の命について真剣に考えただろうかと思うこともある。同じような重大事件が起こる可能性もあるわけだから、そうしたことが起きないようにするためにも私自身も語り継いでいかなければいけないと思っている」 【ことば解説:連合赤軍】日米安保条約の延長をめぐって反対運動が勢いを増していた1971年(昭和46)に結成。「革命は銃口から生まれる」を合言葉に群馬県の山の中のアジトにこもり、銃を使って軍事訓練と称した活動を続けていた。幹部は、意に添わないメンバーに対して「生まれ変わるための総括が必要だ」などと自己批判を強要し、集団で暴行。1か月あまりの間にメンバー12人の命が奪われた。なお、あさま山荘に立てこもった5人のうちの1人は、その後マレーシアで起きた大使館占拠事件で超法規的措置によって釈放されて出国し、現在も国際手配されている。
2024.03.15
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ドロ沼から、這い上がれないMDS・・・・反省の無い50余年のツケが重くのしかかる(地獄)・・・・護憲で(平和)は守れない! 2023-2-20 はんぺん 今回、MDSのHPで、なつかしい名前を見つけた。(自身の主張?)を展開していた(平和と生活を結ぶ会)の藤田OOさんだ。(MDSとは、民主主義的社会主義運動という泡沫的社会主義政党のこと) 藤田氏は、今から53年ほど前、あの70年安保闘争時代の同じ仲間(同志)で、ビラを撒き、立て看板を作り、集会を開き、デモで、同じ隊列を組んで・・・・僕には、そういう思い出がある・・・・ずいぶん昔になるが。みんな(総括)は、どうしているんだろうか?? と思っていたが・・・・ MDSのHPに登場するということは、同じ組織で活動しているということで、MDSの路線で動いているということだ・・・・・案の定、ぼろぼろの内容を見てがっかりした・・・・・ 決定的な過ちは、(情勢分析)にあった。通常、総会文書、大会文書は、必ず(内外情勢分析)から、始められる。正しい情勢分析を踏まえて、政策方針が立てられるからだ。最初の(内外情勢分析)を間違えば、政策方針が、歪められてしまう・・・・(ボタンの掛け違え)ということになる・・・・・ 昔、60~70年代、戦後日本資本主義の評価をめぐる論争で、(自立―従属論争)があって、学生活動家の間でも、盛んに議論された・・・・・・ これは、1957年秋に発表された日本共産党の党章草案が、「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれと従属的に同盟している日本の独占資本であり、我が国は高度な資本主義国でありながら、半ば占領された事実上の従属国となっている。」と規定したことによって、日本が対米従属の立場にあるかどうかの評価をめぐって争われた論争である。 左翼内では、日本国が、同じ資本主義国家体制内で、アメリカ帝国主義から(自立)しているか、(従属)しているか・・・・という論争の中で、日本共産党などは、(従属論)の立場を取り、まずは、アメリカ帝国主義からの(独立)が、日本の直面する最重要課題だと位置づけ、(アメリカ帝国主義から真の独立=アメリカ帝国主義:主敵論)を展開した。アメリカ帝国主義からの独立が(第一段階)、その後に、日本の独立=社会主義革命(第二段階)という、二段階革命論が打ち出された・・・・ それに対して、情勢分析で(自立論)の立場に立った(自立派)は、農業の近代化と天皇制のブルジョア化を認める中で、当面の革命の性質を「民主主義の任務を伴う社会主義革命」(いわゆる「一段階革命論」)と規定した。当面の主敵は、アメ帝ではなく、自国ブルジョア政権(日本帝国主義)だということだ。 情勢分析の違いで、(革命)の路線(主敵)が、全く異なったのである。 僕のブログでは、日本のリベラルたちの(ボタンの掛け違え)すなわち、(情勢分析)の(決定的過ち)について、書いてきたが・・・・どうだろう・・・・ 彼らの最大の決定的(過ち)は、(全体主義の評価)についてである・・・・と言ってきた。世界(地球)の直面する最大の脅威は、(全体主義)である・・・・・とりわけ、歴史を見れば明らかなように、マルクスレーニン主義と言われる社会主義・共産主義の思想のもとに、実に1億人(共産主義黒書)もの犠牲者を生み出すに至ったのである。 資本や財産をみんなで共有する平等な社会を目指した結果の甚大な惨状・・・・・を真摯に受け止めたハズなのに、なお(社会主義)に固執する日本のリベラルたちを批判してきたが・・・・・新社会党・MDS・アサートの(懲りない面々)には、呆れるほかない・・・・・ 護憲派と言われるグループの最大の欠点は、日本の周囲に存在する全体主義国家(中国・北朝鮮・ロシア)の(威嚇と挑発)に、目を向けないで、見て見ぬふりを決め込むことだろう・・・・中国・北朝鮮・ロシアからの侵略は無い・・・・と妄想しているようだ・・・・これが、決定的な(過ち)である。 中国・北朝鮮・ロシアからの侵略が、あり得ることは、ウクライナ侵略戦争が証明した。にも拘わらず、能天気に、(憲法があれば、日本の平和は守れる)と、夢想し、防衛力の増強=抑止力の強化には、反対を続けてきた・・・・これは、僕は、犯罪だと思う。 核ミサイル実験を繰り返す北朝鮮・金正恩の脅迫や習近平による南シナ海への軍事拡大や、台湾・尖閣・沖縄への威嚇・脅迫、ロシアによる北方4島の軍事基地強化・・・・・などについても、その脅威に触れることは無く、この「藤田OO文書」が、作られている。 彼らが、真摯に(東アジアの平和)を考えるのなら、度重なる軍事挑発に、抗議し、自衛力の増強、米軍との連携で安保体制の強化での、抑止力の強化は、喫緊の重要課題である。 にもかかわらず、見て見ぬふりを続けながら、主敵が岸田政権、バイデン政権であるかのような(ボタンの掛け違え)を続けている背景には、リベラル特有の持病(=社会主義幻想)があると思って間違いないだろう。 その結果、(軍拡を進める岸田政権反対)となる。(アメリカなど欧米によるウクライナ軍事支援は、停戦への妨害)となる。これが(ボタンの掛け違え)の無残な結果になっている。 前にこう書いた・・・・誰が戦争状態を好むだろうか? 当たり前だろう、誰も殺したくないし、殺されたくは無い。しかし、相手(侵略者)の無い戦争などは、ありえないように、侵略を受けた場合に立ち向かう自立自存の戦いを余儀なくさせられたときに、武器を持って戦うのが、国際法上も認められている。戦場は、ウクライナ領土内で行われており、ロシア侵略軍と立ち向かうウクライナ国民を最大限支援するのが、世界中の民主派の義務ではないだろうか!!・・・・・と。 オーストラリアやニュージーランドなどとは違って、日本は、周囲を軍事拡張主義に囲まれた地政学的に厳しい状況にある。仮に、備えをせずに(能天気に、平和憲法頼み)で構えていて、他国からの侵略を受けたら、この卑劣なリベラルの面々は、どうするのだろうか??本当に、彼らには、政権を執ってほしくないと、つくづく思う。(そんなことは、あり得ないと思うが) この(藤田文書)には、見過ごせない(ごまかし)があることを指摘しておきたい。「4月、ウクライナの首都キエフ近郊で、ロシア軍撤退直後に数百人の市民の遺体が発見されたとの報道があり、世界に衝撃を与えた。これと前後して、ウクライナ軍とおぼしき兵士が、拘束したロシア兵を射殺する映像が公開された。いずれも明確な「戦争犯罪」だ。」(本文)これは、MDSの各種文書に共通していることだが、ロシア軍(侵略軍)とウクライナ軍(自衛軍)との(戦争犯罪)は、共通しており、(どちらも同じ・)と 事態の相対化をはかっていることだ。もちろん個々の(戦争犯罪)は、双方ともに許されないのは、一般的には正しい。しかし、国際ルール(国連憲章)を破り捨て、主権国家に軍事侵攻したロシア侵略軍を糾弾することなく・・・・・(どっとも、どっち)という論法は、事態の評価を誤らせることにある。MDSの論法の悪質さは、際立っている・・・・と僕は思うが、どうだろうか。 「ウクライナは、ロシアの侵略行為に対する「自衛権」行使とするが、応戦の一発から、ロシアと同様に戦争当事者として戦時国際法ジュネーブ条約を厳守する義務が生まれる。非戦闘員である市民への攻撃はもちろん、拘束した捕虜への虐待も厳禁とされ、それらを犯すことがいわゆる「戦争犯罪」なのである。」(本文)この文書の狙いは、ロシアの責任を回避して、(双方痛み分け)を示唆することにあるだろうとしか、僕は思えない。 さらに、当面する防衛費の増額などを主導する岸田政権に対して、「軍事情報を隠ぺいし、戦争への道を突き進む首相の責任をどう問うのか。戦争を身近に感じる日を機に考えなければならない問題だと思う。」(本文)と、間違った護憲の立場から、(中国・北朝鮮・ロシア)の侵略抑止の努力をすることなく、岸田政権抗議に邁進(まいしん)する彼らの偏向した政策には、呆れるばかりなのだが・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――――――(参考)【ミリタリーウォッチング/安保文書改定で進む秘密化/身近に感じる戦争と戦争犯罪】 2022年07月29日 MDS 1733号 政府が改定を予定する安全・外交政策の長期指針「国家安全保障戦略」など安保関連3文書について、与党協議が10月下旬ごろ開始されるという(公明党北側一雄副代表、7/14毎日)。「12月中旬の閣議決定から逆算」としているが、政府は「台湾有事」口実の大軍拡に向けた「防衛力整備計画」の改定を来年度の予算編成をにらみ急いでいる。 すでに「敵基地攻撃能力」について、「先制攻撃」批判を避けるため「反撃能力」と改称。先制攻撃用兵器のリスト化は進んでいる。 これと並行して重大な事態が進行している。3文書の一つ「防衛計画の大綱」。それに代わる新たな文書を策定し、一部「秘密化」する案が浮上していると報道されたのだ(5/1共同)。 文書が秘密保護法による「特定秘密」に指定されると、長期間非公開とされ、軍事戦略、軍備拡大の検証が制約されることになる。知らない間に戦争前夜という事態になりかねない。 ウクライナ戦争での事態 その「戦争」が現実味を持っている。今年5月、憲法記念日の沖縄タイムス。伊勢崎賢治さん(東京外大教授)の寄稿文「9条 戦争犯罪と無縁か」に目が行った。普段、見過ごしている問題について考えさせられた。 4月、ウクライナの首都キエフ近郊で、ロシア軍撤退直後に数百人の市民の遺体が発見されたとの報道があり、世界に衝撃を与えた。これと前後して、ウクライナ軍とおぼしき兵士が、拘束したロシア兵を射殺する映像が公開された。いずれも明確な「戦争犯罪」だ。 ウクライナは、ロシアの侵略行為に対する「自衛権」行使とするが、応戦の一発から、ロシアと同様に戦争当事者として戦時国際法ジュネーブ条約を厳守する義務が生まれる。非戦闘員である市民への攻撃はもちろん、拘束した捕虜への虐待も厳禁とされ、それらを犯すことがいわゆる「戦争犯罪」なのである。 伊勢崎さんは、戦争犯罪はまず当事国自らが国内法で裁き、不十分な場合国際法廷の必要性が議論されるという。ところが日本には軍による戦争犯罪を裁く軍事法制がない。現憲法下で「軍」は存在せず、殺傷行為には刑法適用としてきた。だが刑法は実行者に責任を負わせるが、戦争犯罪は指揮官の責任が問われなければならない。 戦争に進む首相の責任 世界有数の軍事力を持ちながら、「首相を頂点とする『上官』の責任を問う法体系を持たないのは日本だけだ」と伊勢崎さんはいう。 伊勢崎さんの論点とは異なるが、軍事情報を隠ぺいし、戦争への道を突き進む首相の責任をどう問うのか。戦争を身近に感じる日を機に考えなければならない問題だと思う。 藤田OO (平和と生活をむすぶ会)
2023.02.20
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今年、腹がたったこと・・・・・重信房子の出所と居直りは、許せない!! 2022-12-17 はんぺん 今年最大に、腹が立ったことは、2022年5月28日に重信房子が、出所したことだ・・・・・と、前にブログに書いた。逮捕時、出所時のテレビ報道を見る限り、英雄気取りの彼女に(反省する勇気)が、あるとは微塵も感じられなかった・・・・・・ 彼女は、自分たちの犯した(大罪!)について、まるで分かっていない・・・・どころか、おそらく、死ぬまで理解できないであろうと思われる。 赤軍派は、共産主義者同盟(ブント)の流れをくむ極左集団だ。「赤軍派は、1969年9月4日に政治集会を開いて結成を宣言した。そして翌日の日比谷野外音楽堂の全国全共闘結成集会に初めて登場し、秋の『前段階蜂起』を主張し、「世界革命戦争」の防御から対峙に向かう世界党、世界赤軍建設」を主張した」(『日本赤軍私市』重信房子著 38ページ)。 今から思うと、なんと(バカバカしい妄想)だとわかるのだが・・・・(ML主義)(革命)に取りつかれた当時の(思い込み)を誰も止めることはできなかったのだ・・・・ わが大学の全共闘グループの無法も、直接目にすることになる・・・・・僕のすぐそばに(狂気)があったのだ・・・そして、誰もそれを止められなかった!!それは、機動隊導入などにより、(大学自治)を破壊し、引いては(日本左派総体)の凋落の引き金になっていった・・・・彼らの犯罪性は、際立っていたのだ。。。。 あの60年安保闘争直後の国政選挙での、社会党を中心とした野党の惨敗、70年の暴力学生出現後の国政選挙での自民党の圧勝・・・・国民は、バカではなかったのだ・・・・・多くの内ゲバ殺人事件(100人以上が殺されている)、よど号ハイジャック、あさま山荘事件、山岳アジト事件・・・・・(狂気)が、国民を震撼させた結果のことは、間違いないと思う。その後の国政選挙でも、自民党の圧勝は続いた。 赤軍派をはじめとした極左集団による蛮行に対して、リベラルたちは、率先して糾弾反撃するべきであったが、彼らの多くは右往左往していたのではなかったか?? 日本共産党の「暴力学生泳がせ論」「トロツキスト泳がせ論」は、間違って無かった・・・・と今ではいえると思う。結果として・・・・保守側は、極左集団を利用して、左翼総体を抑え込むことに、成功したのだから・・・・ 重信房子の「日本赤軍私史」には、口先で「多くの無関係の市民に迷惑をかけた」「反省」すると言いながら、何度も居直り続けていることについて、僕は許せない!! くどくどと綴られており、見苦しい限りなのだ。彼女の人生の最終版は、おそらく(言い訳)に終始するような、情けない終末を予感させる・・・・ 「日本赤軍は、2001年、日本赤軍誕生の5月30日に解散いたしました。日本赤軍の政治的・道義的責任を負うものとして、過去の責任をこれからも考えていきたいと思います。その思いも込めて、私たちの闘いの未熟さの中で、被害を与えたすべての方々に深く謝罪します」(『日本赤軍私市』重信房子著 479ページ)。 ほとんど、彼女の著作の中身は、自分たちの(正当性)に言及していて、(反省)なるものは(わずかに覗かせて!)済ませている・・・・ずるがしこさが、目について、僕は気分が悪くなった・・・・・ 彼女は、上記の文書に続けて・・・・「反帝 反シオニズム 反イスラエルの闘いに協同したアラブの地における日本赤軍の闘いは、時代の条件の中で、正当な意義と役割をも負っていました。」(『日本赤軍私市』重信房子著 479ページ)。 人生の大半を誤った道に踏み入れてしまった彼女が、自身のこれまでの行いを全否定されることの恐ろしさは、だれよりも感じているだろうし、自分たちの(正当化)しか、残された人生の目標は見つけられないのだろう・・・・・ 戦後日本歴史の中で、日本赤軍の、極左集団たちの果たした役割については、今後も、何度も審判にかけられることになるだろう。
2022.12.17
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「革命ごっこ」のなれの果て・・・・仲間に殺された連合赤軍兵士たちの無念の思いに、同時代人としては(哀れ)としか言いようがない・・・こんなにも「革命」の名の下に多くの若者たちが、殺しあったのだ・・・!!!! はんぺん洗脳された青二才然たる多くの若者たち。洗脳したものも、洗脳されたものたちも、皆、(革命ごっこ遊び)をしていたとしか思えない、稚拙な理論(!)で、うごめいていたのだ・・・・・ なんという惨劇か!!!!! はんぺん――――――――――――――――――――――――――――――http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/036sekigun02.htm現代事件簿 No.036 連合赤軍02~仲間12人をリンチにかけて殺害する 連合赤軍は山の中で軍事訓練を行い、共同生活をしていたが、リーダーである森恒夫と永田洋子が圧倒的な権力を持って組織を支配していた。最初は反省を促(うなが)すための儀式であった「総括(そうかつ)」が、次第に森と永田の気に入らないメンバーを殺害するリンチへと変わっていく。 ▼軍事訓練と総括(そうかつ)という名のリンチ 「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! そのために革命を起こすのである!」「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」 森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名(はるな)山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。 この体罰が次第にエスカレートしていく。 射撃訓練で的をはずした同志に対し、「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」と永田が言うと、「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」と森も同調する。 自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括(そうかつ)すべきよ!」と永田が総括を要求する。 総括とは体罰によって反省を促(うなが)すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。 暴行を加える者はみんな一様に「お前のためなんだぞ!」と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は「ありがとうございました。」と礼を言う。 この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも「総括すべきだ!」との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。 ▼総括によって初めての死者が出る 昭和46年12月31日(1人目) 連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。 12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。 「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛(しば)りつけなさい!」 小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛(しば)りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。 死体となった尾崎を見て永田洋子は、「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。敗北死したのよ!」と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。 ▼総括によって次々と殺される 昭和47年1月1日(2人目) 尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋(しゃべ)ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、 「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。 1月2日(3人目) 連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と加藤能敬(よしたか)(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。 たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。「この二人は活動の拠点を汚(けが)した! みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 二人に総括を求める!」全員が「意義なし!」とすぐに同調した。 二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。 1月4日(4人目) 一方、加藤能敬(よしたか)の方もこの日、本格的に総括が始まった。加藤には二人の弟・加藤倫教(みちのり)と加藤元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば加藤は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。 「同士として総括の援助をする!」と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に加藤を殴り続ける。それは加藤の弟たちも同様であった。 「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」と永田洋子が言い、「総括をみんなで達成させてやろう!」と森恒夫も叫ぶ。 森と永田に逆らうことは出来ない。加藤の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、加藤は動かなくなった。死亡していた。 兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は 「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」と声をかけた。 実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。 1月6日(5人目) 遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、「こんなもの、革命戦士になるために必要ないでしょ!」と因縁をつけ始める。 「あなた自身による総括を求めます!」永田洋子が叫び、「自分で自分を殴れ!」と森も命令した。 遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫(は)れ上がっていた。 遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。 1月9日(6人目) 1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。 縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。 1月17日(7人目) 上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。 寺岡「総括っておかしいと思わんか? 森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」 坂口「な、何言い出すんだお前!」 寺岡「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」 だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。 報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。 「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。 「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。 そして永田洋子が「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」と寺岡に死刑を宣告した。 ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。 「最後に何か言いたいことはあるか。」と森恒夫が聞くと「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」と最後の抵抗を見せた。 次の瞬間、森恒夫が「貴様は死ね!」と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。「全員で殺れ!」という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。 だが、なかなか死なない寺岡に対し、「もういい! 絞殺しろ!」と森恒夫が命令を下した。 縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。 1月20日(8人目) 寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。 そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。「死刑にされて当然です。」と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。 だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。 寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨(ろっこつ)6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。 ▼榛名山ベースから新アジト「迦葉山(かしょうざん)ベース」へ 17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名(はるな)山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即(すなわ)ち、警察に密告する恐れがある。 「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。 榛名(はるな)山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。 結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山(かしょうざん)ベースと命名された。 榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。 この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。 そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。 現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山(かしょうざん)ベース」の完成であった。 ▼更に総括による犠牲者は続く 1月30日(9人目・10人目) この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」などと因縁をつけ始める。 山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。 山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。 そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山(かしょうざん)ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。 29日に山本順一は「中央委員会の方が理論が矛盾している。」と発言し、舌を噛(か)んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。 この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。 そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。 2月4日(11人目) 金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。 2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。 彼女が縛られたのは、永田洋子から「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」などと完全な言いがかりをつけられ、「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。 何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。 2月12日(12人目) 2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。 そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭(あ)う。その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。 これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。 連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。 Top Page 現代事件簿の表紙へ No.037 No.035
2022.09.16
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これは、昔の左翼の立場から言えば(体制側の資料)ということになる。過激派学生運動グループは、(都合の悪い情報)(不都合な情報)は、見たくもない・・・という感覚で、(唯我独尊)状態に陥って、あの(山岳アジト事件)(あさま山荘事件)を引き起こしてしまった・・・・ 後に、日本赤軍の(犯罪者)重信房子は、「ニュースに取り上げてもらうような事件を起こすことで、自分たちの訴えをアピールしようとした」・・・・だと、彼女は(ほざいた)のだ。 また、重信は、ほかの一連の事件を振り返り、「ほかのやり方があったら良かったし、手段を考える機会をもった方が良かった」と反省の言葉を口にしたこともあったという。(娘のメイ談)・・・ (遅すぎる反省)というわけだ。そのために、多くの人命が失われてしまった。大学に入学できる(エリート??)の何という所業だったのだろう。 この程度の軽薄人間が「革命」を叫び、多くの人間を不幸に追い込んでしまったのだ。 いつも、人間の愚かさについて考えてしまう・・・希望の無い、絶望的な人間の愚かさについてだ・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――――(資料)警備警察50年 現行警察法施行50周年記念特集号 「焦点」警察庁 第269号https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/index.htm 重大事件等を展開した日本赤軍その他の国際テロリスト1 日本赤軍の動向1 日本赤軍の誕生 日本赤軍は、マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と世界の共産主義化の実現を目的として国内で警察署の襲撃、銀行強盗、多数の死傷者を出した連続企業爆破事件等の凶悪な犯罪を犯した過激派グループの一派が、「国際根拠地論」を打ち出して、海外に革命の根拠地を求めて脱出した後、結成された国際テロ組織です。 昭和46年2月、偽装結婚した上でレバノン・ベイルートに出国した奥平剛士、重信房子は、同じくマルクス・レーニン主義に立脚するPFLP(パレスチナ解放人民戦線)へ共同武装闘争を申し入れ、その支援を取り付け、中東での活動を始めました。 2 テルアビブ・ロッド空港事件 中東に活動基盤を形成した日本赤軍は、昭和47年5月、イスラエルのテルアビブ・ロッド国際空港で、奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人が、自動小銃を乱射、手榴弾数発を投てきし、24人を死亡させ、76人に重軽傷を負わすテロ事件を起こしました。「テルアビブ・ロッド空港事件」(昭和47年5月30日)(共同) 3 国際テロ組織「日本赤軍」 日本赤軍は、昭和49年以降52年までの間、PFLPとの共闘によりテロ活動を活発化させる傍ら、49年7月にパリ・オルリー空港において偽造旅券を使用したメンバーが逮捕されたことを皮切りに、多数の関係者が身柄を拘束されました。さらに、49年にはこれら拘束されたメンバーの釈放を求めて、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠しました。 その後、世界各地でメンバーが相次いで検挙されたことから、日本赤軍は、在監・拘留中のメンバーの奪還を目的に、50年8月にマレーシア・クアラルンプール所在の米国大使館等を占拠(「クアラルンプール事件」)し、さらに、52年9月にはパリ発東京行きの日航機をハイジャック(「ダッカ事件」)しました。我が国政府は、犯人側と数度の交渉を試みましたが、人命尊重の見地から、超法規的措置により両事件で合計11人の在監・拘留中の日本赤軍メンバー等の釈放を余儀なくされました。 その後、57年6月のイスラエル軍によるレバノン侵攻を受け、本拠地ベイルートを撤退した日本赤軍は、60年5月、イスラエルとPFLP―GC(パレスチナ解放戦線総司令部)との捕虜交換により釈放された岡本公三を迎え、61年以降、再びテロ活動を再開させ、ジャカルタ、ローマ、ナポリと相次いでテロ事件を引き起こしました。 「クアラルンプール事件」(昭和50年8月)(PANA) 4 相次ぐメンバーの逮捕 こうした中、昭和62年11月に東京都内で日本赤軍メンバー丸岡修が、63年4月には米国で菊村憂が、同年6月にはフィリピンで泉水博が相次いで発見・逮捕され、レバノンを撤退した日本赤軍が、友好的な革命組織との共闘関係を醸成するために、世界各地で暗躍している姿が浮き彫りになりました。 その後、警察は、ルーマニアに日本赤軍メンバー浴田由紀子が潜伏していることを突き止め、平成7年3月に逮捕、8年6月にはペルーに潜伏していたメンバーを逮捕しました。また、ネパール国内に潜伏していた城崎勉については、同年9月に身柄拘束後、米国に引き渡す措置が採られ、さらに、9年11月にはボリビアに潜伏していた西川純が身柄を拘束されました。同年2月には、レバノンに潜伏していた日本赤軍メンバー5人が一斉に検挙され、レバノンへの政治亡命が認められた岡本公三を除く4人は、12年3月に国外退去処分となり、警察は、帰国と同時に逮捕・収監しました。 5 最高幹部重信房子の逮捕 昭和46年2月に奥平剛士、重信房子が渡航して以来のレバノンという根拠地を失った日本赤軍は、地理的にも文化的にも日本に近いアジア地域を国内における組織固めや国際戦線形成のための新たな戦略上の拠点と位置付けました。こうした中、警察は、平成12年11月に国内に潜伏していた日本赤軍最高幹部重信房子を大阪で逮捕しました。重信房子の国内潜伏の目的の一つが、日本赤軍の拠点を日本に移すための準備作業であったことは間違いありません。 また、重信房子の逮捕に伴い押収した資料を分析した結果、日本赤軍は、3年8月にマルクス・レーニン主義による日本革命及び世界革命を目的とした「人民革命党」を設立していたことが判明し、その党内には、軍事機関を設けるなど引き続き軍事路線を堅持しており、その主張も日本赤軍と同一であることが分かりました。 6 日本赤軍の解散宣言 平成13年4月、重信房子は獄中から日本赤軍の解散を宣言する文書を公表しましたが、革命のための武装闘争を完全に否定しておらず、さらに、逃亡中の7人のメンバーに関しても、何ら言及しませんでした。 7 警察の対応 現在、日本赤軍は、最高幹部重信房子の逮捕に伴い、組織の建て直しと新たな活動拠点の構築を最大の関心事として取り組んでいるとみられ、テロ活動を再開させる可能性は低下していると思われます。 しかし一方で、テロ組織としての性格を依然として堅持しており、その危険性に変わりはなく、警察は、逃亡中のメンバーの早期発見・逮捕、活動実態の把握に努めているところです。 2 よど号グループの動向1 よど号ハイジャック犯人とよど号グループの活動 「よど号ハイジャック事件」は、武装した共産主義者同盟赤軍派の活動家9人が昭和45年3月、日本航空351便・通称「よど号」を乗っ取り、乗客122人、乗員7人の合計129人を人質に取って、最終的に北朝鮮美林(ミリム)飛行場に到着後、北朝鮮に投降したハイジャック事件です。 犯人9人のうち、63年5月には、犯行当時16歳の少年が不正に入手した旅券で日本に潜伏中に逮捕され、また、平成8年3月にタイで逮捕された田中義三は12年6月に日本に移送され、さらに、ハイジャック犯人のリーダー田宮高麿と吉田金太郎は、北朝鮮で既に死亡が確認されていることから、現在、北朝鮮に残留しているのは、小西隆裕、赤木志郎、魚本(旧姓安部)公博、若林盛亮、岡本武の5人とみられています。 他方、昭和50年代半ばから60年代にかけて、欧州で北朝鮮工作員と接触していた不審な日本人女性6人に対し、海外での活動を抑止し、テロ活動を防止するため、63年8月、外務省は日本旅券の返納を命じました。平成4年になり、これらの女性全員がよど号犯人の妻であることが判明し、警察は、旅券返納命令に従わなかったとして旅券法違反事件で国際手配しています。 妻子の帰国動向としては、16年1月までに計14人の子女が帰国しています。また、16年2月までに、3人の妻(赤木恵美子、小西タカ子、魚本民子)と赤木志郎の妹・赤木美智子が帰国しましたが、警察は、いずれも帰国と同時に旅券法違反で逮捕しています。 「よど号ハイジャック事件」(昭和45年3月31日、福岡)(PANA) 2 欧州における日本人拉致への関与 平成14年3月、赤木志郎の妻・恵美子の公判で、よど号犯人の元妻が、「北朝鮮の金日成(キム・イルソン)から『代を継いだ革命を実施せよ』との教示を受けたリーダーの田宮高麿の指示で、昭和57年、私がロンドン留学中の有本恵子さんに声を掛けて騙し、デンマークのコペンハーゲンで朝鮮労働党・キムユーチョル及び魚本(安部)公博に引き合わせ、北朝鮮に連れ出した」旨の証言をしたことから、よど号グループが朝鮮労働党の指導の下、金日成主義に基づいた日本革命を目指して、日本人拉致に深く関与していたことが明らかとなりました。 他方、昭和55年5月ころ、マドリッドから日本人男性2人が失踪した事案に関しても、北朝鮮は拉致を認めています。 平成14年9月、警察は有本恵子さんに対する結婚目的誘拐の容疑で、魚本公博の逮捕状を取得し、国際手配を行っています。
2022.07.13
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日本赤軍=多くの殺人を犯した(無差別テロ犯)の一刻も早い検挙を!!! (逃げ得)は、許されないぞ・・・・ 2022-6-2 (はんぺん) 日本赤軍のメンバーたちが(しでかした)無差別テロでは、多くの無辜の民衆が殺された。本当に許されない(犯罪)だった。今も、世界のどこかに潜み続けている彼らの、一日も早い(検挙)を切望する。 (革命)を夢想するのは、「罪」ではない。日本は、中国や旧ソ連などと違って(人権)の保障された国家であるからだ。「言論・出版の自由」もある、「集会結社・表現の自由」もある。それが、「人権」なのだから・・・・ しかし、それを良いことに、無辜の民衆を殺しまくるという(犯罪)は、法治国家では、あり得ないことだ。 法治国家では、犯罪は、(情緒)ではなく、(結果)についてのみ裁かれるべきだ・・・・と言ってきた。 日本警察は、この逃げ回っている(殺人!)容疑者ら7人を、国際手配しているが、検挙に向けて(動画)も配信しているという。もちろん、(逃げ得)は、許されない・・・・ いかなる理由があれ、法治国家では、犯した結果のみで、裁かれるべきで、過激派間の(内ゲバ殺人)でも、これは同じだと思う。 100名以上の(活動家?)が、内ゲバで殺されたし、1,000名以上が、心身ともに傷つけあい、人生を台無しにされたのだ・・・・・ (革命)のために(反革命を殲滅する)という(たわごと)に、耳を傾ける必要は、全く無い!! 卑怯なトロツキストたちは、指名手配されても、今も逃げ回っているが、もし身近に潜伏しているのがわかれば、すぐに通報してほしい!!・・・・(逃げ得)は、許されないのだ・・・・・・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――警察庁長官、日本赤軍の解散「形だけ」。 テロ組織として危険性指摘 2022-6-2 朝日新聞デジタル 海外で数々のテロ事件を起こした過激派グループ「日本赤軍」の重信房子・元最高幹部(76)が刑期を終え出所したことに絡み、警察庁の中村格長官は2日の定例の記者会見で、「日本赤軍は解散を表明しているが、解散は形だけのものに過ぎず、テロ組織としての危険性がなくなったと見ることは到底できない」と述べた。 中村長官は、危険性をぬぐえない理由として「いまだに過去に引き起こした数々のテロ事件を称賛している」と指摘し、現在も7人のメンバーが逃亡中であることを挙げた。その上で、「今後とも組織の実態解明を図るとともに、関係省庁や各国関係機関との連携を一層強化し、逃亡中の構成員の発見、検挙にむけ最大限努力していきたい」と述べた。 日本赤軍は1970年代を中心に世界各地で航空機の乗っ取りや大使館襲撃などを次々起こした。50年前の72年5月30日には、イスラエル・テルアビブのロッド国際空港で、岡本公三容疑者(74)ら日本人メンバー3人が自動小銃を乱射するなどし、約100人が死傷する事件を起こした。 重信元幹部は2000年に潜伏先の大阪府内で逮捕され、オランダ・ハーグの仏大使館を武装占拠した事件などで懲役20年の判決が確定し、服役。今年5月28日に東京都内の施設から出所した。報道陣の取材や公表した手記で、謝罪や反省を述べ、参加した赤軍派(日本赤軍の前身)について「『武装闘争路線』が間違っていた」などと振り返った。 重信元幹部は2001年に日本赤軍の解散を宣言した。いまも逃亡中とみられる岡本容疑者ら7人が国際手配されている。(編集委員・吉田伸八) ――――――――――――――――――――――――――あさま山荘の最前線 クレーン車運転手、殉職者と交わした最後の言葉 2022-3-1 清水大輔 朝日新聞デジタル 50年前の「あさま山荘事件」で殉職した警察官2人の慰霊式典が2月28日、長野県軽井沢町の事件現場近くに建つ顕彰碑「治安の礎」であった。軽井沢署や地元の防犯組合メンバーのほかに、事件の最終局面で鉄球をつるすクレーン車を運転していた男性も参列。目の前で警察官が撃たれる場面を目撃したといい、「50年たっても忘れることができない」と語った。 武装闘争、逃走…そしてあさま山荘へ 攻防219時間、テレビ中継 事件は、1972年2月19日に発生。連合赤軍のメンバー5人が山荘にいた女性を人質にとったこともあり事件は長引いたが、10日目の同28日、巨大な鉄球をつるしたクレーン車が投入されたことが局面打開のひとつのきっかけとなった。 当時、県警に依頼され現場で米国製のクレーン車を運転していたのが白田弘行さん(84)=長野市。重機オペレーターだった白田さんは、事件発生後に警察から依頼の電話を受け、鉄球の操作を担当する義弟と2人で現場に向かったという。 クレーン車は鉄板と防弾ガラスで全体を覆っていたため、犯人から銃撃されても「バシッと音はしたが大丈夫だった」。銃口は次に、白田さんの目と鼻の先にいた警察の機動隊長に向けられた。 「顔出さないで。狙われてる」と白田さんが運転席越しに言うと、「おう。ありがとう」と返事があった。しかし、次の瞬間、指揮棒を持っていた機動隊長は被弾し、その後、死亡した。 白田さんは事件解決から50年目の28日、妻澄江さん(85)と慰霊式典に参列した。「理不尽な事件で殉職された警察の方は本当に気の毒だ。体はがたがただが、来られるうちはまた訪れたい」と話した。 ―――――――――――――――――――――――――――――――国際手配の7人逃さない 日本赤軍の空港銃乱射50年「事件終わらず」 2022-5-30 産経新聞50年前のきょう、1972(昭和47)年5月30日、イスラエルのロッド(現ベングリオン)国際空港で日本赤軍メンバー3人が自動小銃を乱射、約100人を殺傷する事件を起こした。世界を震撼させた日本赤軍を組織したのが、今月28日に出所した重信房子元最高幹部(76)。重信元最高幹部は逮捕され刑期も終えたが、現在も日本赤軍メンバー7人は逃亡したままだ。日本警察は再び手配犯を追い詰めることはできるのか。当時の関係者が思いを語った。 沸き上がった歓声平成12年10月、大阪府警警備部長だった高橋清孝さん(65)は、大阪市西成区のマンションの一室に重信元最高幹部らしき女が潜伏しているとの報告を受けた。「なぜ、大阪に」 昭和46年に中東に渡って以来、海外にいるとされていた重信元最高幹部。想定外の報告だった。逮捕容疑となるオランダのフランス大使館が武装占拠されたハーグ事件からそのときすでに26年。捜査員が秘撮した写真からはかつての面影はなく、確認作業を慎重に進めるよう指示した。 平成12年11月8日午前1時過ぎ、捜査員から、女が出したごみの空き缶の指紋が重信元最高幹部と一致したと連絡がきた。着手を命じ、同日午前10時半過ぎ、逮捕の連絡が入った。高橋さんが府警の幹部会議で逮捕を伝えると、「おーっ」という歓声と拍手が湧き上がった。 「本当に本人か」。一抹の不安もなかったわけではない。だが、東京へ移送される際に新大阪駅でメディアの前で親指を立てた姿をみて、「間違いない」と確信した。 意気投合した捜査員日本赤軍の追跡は日本警察の最重要課題だったといえる。警察庁警備局公安3課内には、警視正をトップに日本赤軍の追跡を専門とした「調査官室」という部署が誕生。捜査員らは「赤軍ハンター」と呼ばれ、情報収集のために完全に秘匿された任務で世界中を走り回っていた。 大阪府警にも日本赤軍担当はいたが決して人数は多くなく、国内に的を絞り、地道な作業を繰り返していたという。高橋さんは「誰が見ているわけでもない中で、手を抜かずに任務を忠実に遂行したのは、警察官、公安マンとしての矜持(きょうじ)だったのだろう」と話す。 重信元最高幹部を逮捕し大手柄をあげた大阪府警。府警には警視庁から多くの捜査員が投入された。関係はどうだったのか。 高橋さんは、警視庁と府警の捜査員でペアを組ませて捜査に当たらせたといい、「互いに捜査員として力量が高く、認め合う部分が多くあった。全体のレベルアップにつながった」。 こんな話もある。警視庁から府警に行った捜査員に日本赤軍担当はほとんどおらず、「公安部各課の寄せ集め」(当時を知る捜査員)だったという。それゆえに「大阪に手柄を取られた」といった感情も強くなかったのか、顔合わせの第一声で警視庁の捜査員は「おめでとうございます」と府警捜査員に大声であいさつ。意気投合した背景はこうしたところにあったのかもしれない。 情報提供呼びかける現在も日本赤軍のメンバー7人は逃亡し国際手配されている。警視庁は今年2月、情報提供を呼びかける動画を公開。そこでは「事件はまだ終わっていません」「彼らはあなたの近くで生活しているかもしれません」と呼びかける。 後に警視総監や内閣危機管理監を務めた高橋さんも「世間を揺り動かした事件はそう簡単には終わらないのだろう。今後も警察としてさまざまな動きに敏感に対応していかなければならない」と強い口調で語る。 重信元最高幹部は今後について「(病気の)治療と学習」と語ったが、活動に期待する支援者もいる。当局は出所後の動向を注視しており、警察幹部は「逃亡しているメンバーを捕まえ刑に服させるまでは終わらない」と話した。 ◇ ■ロッド国際空港銃乱射事件 1972(昭和47)年5月30日、イスラエル・テルアビブのロッド(現ベングリオン)国際空港で、日本赤軍の岡本公三容疑者(74)ら3人が起こした無差別銃乱射事件。死傷者は約100人にのぼった。岡本容疑者以外の奥平剛士、安田安之の両メンバーはその場で爆死した。直後の犯行声明で初めて「日本赤軍」を名乗った。岡本容疑者は現在も国際手配されている。 ■日本赤軍 革命拠点を海外につくる「国際根拠地論」に基づき、昭和46年にレバノンへ出国した重信房子元最高幹部らが結成。1972(昭和47)年にはメンバーらがイスラエル・テルアビブのロッド国際空港で自動小銃を乱射、約100人を死傷させるなどした。在マレーシア米大使館を占拠した75年のクアラルンプール事件で5人、日航機を乗っ取り乗員乗客を人質に取った77年のダッカ事件では6人が「超法規的措置」として釈放された。国外逃亡したメンバー7人が現在も国際手配されている。
2022.06.02
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(革命)をもてあそんだ無責任な重信房子たちのために、多くの無辜の市民が殺された・・・・・ 今なお(無実)を叫ぶ「反省する勇気」の無い 革命家面(づら)は、許せない・・・・ 2022-5-28 (はんぺん)多くの無関係の市民の命と人生を奪ったテロ組織のトップが、いまだに「自分は、無実だ」と叫び続けている。5/28に出所するというが、20年の刑期を終えても、何の反省もない・・・これが、常識人の言動か! と思うと、実にやりきれない・・・・・・・ あの70年安保闘争前後、多くの(未熟な)若者たちが、(革命)を夢想して、多くの市民を殺害したり、絶望の淵に追い込んでしまった。その罪を、どう(評価)すれば良いのだろうか? (20年)という刑期が、その(罪)にふさわしいとは、僕には思えない。 テルアビブ国際空港での無差別テロは、あの2001年の9.11アメリカ同時多発テロと、どう違うのか? というより、無辜の市民を巻き添えにしたという意味では、同等の(犯罪)だと思うのだが・・・・ 重信は、日本赤軍の他の同志たちの犯した(犯罪)についての最高責任者として、(死刑)にされてしかるべきだ・・・と僕は思う。(僕は、死刑存続派だ) どうも日本のリベラルは、(左翼がかった?)(革命を叫ぶ?)テロリストに(甘い)風潮が以前からあった。 あの1967年の(羽田事件=山崎博昭死亡)などのマスコミ報道でも、「学生たちの言い分も分かる・・・」という(甘ちゃん報道)が、横行してきたが・・・結果として、過激派集団に利用(悪用)されて、暴走を誘発する結果となったのだ・・・ 彼らのゲバルトは、権力だけではなく、同じ方向で活動していた(身内?)にも、向けられた。多くの陰惨な(内ゲバ)により、100名以上の(活動家?)が、殺され、何千名が、傷つき、人生を不幸に追いやったのだ・・・・ あの連合赤軍による(山岳アジト事件=身内殺し)や、浅間山荘事件は、重信たちの流れを汲んだグループたちによる、惨殺事件でもあった・・・ あの70年代の日本の左翼は(反省する勇気)の無い、無責任な運動が多すぎたので、もとより(闘争勝利)など、考えられなかった・・・・というのが、素直な感想だ。(無責任な運動)の詳細は、僕なりに、このブログでも書いてきたが、現在のリベラルの衰退は、この70年安保闘争の中での無思想(アナーキズム)に端緒がある。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――重信房子受刑者、20年の刑期終え明日出所。 人物像は... 2022-5-27 フジテレビ系(FNN)FNNプライムオンライン 今から22年前、日本中に衝撃を与えた逮捕劇があった。日本赤軍の元最高幹部の重信房子受刑者。 日本赤軍は、今から半世紀近く前に、世界各地でテロ事件を起こしたグループ。1972年には、イスラエルの空港で銃乱射事件を起こし、26人が死亡した。その翌年、当時28歳の重信受刑者は、FNNの取材に答えていた。 重信房子受刑者(当時28)「これからは、ますます決意に燃えて、ますます帝国主義者への反撃を組織しながら、1歩1歩着実に、奥平君(日本赤軍メンバー)たちがやり遂げようとしたことをやっていきたい。(またハイジャックも?)闘いの戦術の中で必要であれば、もちろんあると思います」 懲役20年の刑期を終えて、28日に出所する重信受刑者。これに合わせて、手記を公表するとしている。その内容は...。 重信房子受刑者「自分たちを第一とした闘い方によって、無辜(むこ)の方々にまで被害を強いたことがありました。時代の証言者の1人として、反省や総括などを伝えることを自らの役割として応えていくつもりです」 出所後は、がんの治療に専念するという重信受刑者。長女のメイさんによると、今も無罪を訴えているという。
2022.05.28
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「護憲運動の破産」に気づかずに、誤謬を繰り返すMDSとは?? 2022-4-4 (はんぺん)僕の昔の先輩・後輩たち?が作った? MDSには、いつも落胆させられている。MDSとは、「民主主義的社会主義運動」という(新しい社会主義を目指す)政党だが・・・ もともと(社会主義幻想)に洗脳されたグループだから、何を言ってもわからないのだろうが・・・これが、日本のリベラルの現実だと思うと情けなくなる。 先日、HPを見ていたら・・・【ウクライナ戦争 殺すな 即時停戦せよ/戦争は権力者間の殺し合い 犠牲は今回も市民に】 MDS2022年04月01日 1717号・・・との記事を見つけた・・・ 「ロシア軍の戦争犯罪を糾弾し、直ちに撤兵を要求しなければならない。だがその一方、ゼレンスキーを全面的に支持してよいわけではない。戦争は殺し合いだ。しかも権力者が選択したものであり、その目的は利権と自己保身にあるからだ。」・・・これって・・・今は戦争一般を論じる時期なのだろうか? 国際ルールを無視して、独裁者プーチンが始めた戦争だ。これは、ウクライナだけの問題だろうか? 違うだろう・・・ 何度も、このブログで言ってきたように、ジョージアへの軍事侵攻は、序章だった。今回も、ウクライナだけで、終わると考えるのはアウトだろう。モルドバ、ポーランド、バルト3国・・・が、次の侵略日程に上ってくるのは、誰が考えてもわかることだ。 プーチンは、その時も(核の脅し)を使うだろう。独裁者とは、そういうものではないか? 「戦争は殺し合いだ。しかも権力者が選択したものであり、その目的は利権と自己保身にあるからだ」・・・・って、一般論を述べても、何の説得力も無い・・・(今、そこにある危機)プーチンの軍事侵攻を前にして、こんな一般論・・・アホか!! と言うしかない。 このグループは、今でも(護憲運動)にこだわっているらしい。MDSが2/28付けで出した(声明)では、日本では「ロシアのウクライナ侵略を契機として、9条改憲、軍事力強化があおられている」と非難しているが、憲法前文を引用したりと、(平和憲法守れ)で、一貫しているようだ。 「平和憲法のおかげで、日本の平和がある」という戦後日本リベラルの陥った誤謬を反省する気配はない・・・ということだ。辺野古基地反対運動に熱心なのも、うなづけるというものだ。彼らには、沖縄の米軍基地の存在が、いかに全体主義国家(中国や北朝鮮)にとって脅威なのか・・・が分からない。 この4/1付け記事では、ウクライナ軍の詳細が記述されている・・・「ウクライナには2つの軍隊がある。大統領を最高司令官とする軍隊と内務省に属する国家防衛隊だ。防衛隊は2014年に東部の親露派武装勢力と戦うために組織されたのだが、その中心的存在がアゾフ連隊と称するネオナチ集団だ。」「マスコミは・・・軍事訓練を行うネオナチ集団の素性を知らせることはない」 「ウクライナのネオナチ集団は米CIA(中央情報局)が資金や軍事訓練の支援を行い、14年の「マイダン革命」で暗躍した。市民や警官を狙撃し平和的デモを暴動化させ、親露派大統領を追放するクーデタ―の中心的役割をになった」 「ロシアの軍事侵攻によって一躍〝世界的英雄〟となったゼレンスキーだが、ネオナチ団体やナチ運動を非難する決議が21年12月の国連総会に提案されたときに、ウクライナと米国の2か国だけが反対した。ゼレンスキーの国内での支持率は、戦争前には30%を切り低下をたどっていた(STATISTA21年10月)。」 今、「そこにある危機」を前にして、リベラルたちが、何もしようとせず、クレームをつけるばかりで、恥ずかしくないのか? と言いたいところだが・・・「今必要なことは、即時停戦し外交で解決することであり・・・」(2/28声明)などは、何もしてないことの裏返しを意味する。これは・・・・何も言ってないという事なのだ・・・違うだろうか?? 「どちらの攻撃によるのか不明としても、多くの市民が殺され、街が破壊されていることに間違いはない。犠牲者は市民だけではない。ウクライナ兵もロシア兵も、殺戮(さつりく)と破壊が常態化する戦場で心的障害を負うことも忘れてはならない。」・・・何を言いたいのだろうか? 「戦争で守る「国益」は権力者らの権益であって、市民の命や利益とは無縁だ。市民の敵はすべての好戦勢力である。憎悪をあおり敵意を植え付ける言説にくみしてはならない。戦争をあおるな。ただちに停戦せよ。」・・・何もやらないグループは、(アリバイ作り)で、「戦争をあおるな。ただちに停戦せよ。」「即時停戦し外交で解決することであり・・・」と一般論を叫ぶしかできないのだ。 今、停戦を目指して、交渉が続けられているが、これに誰もクレームをつけることは無いだろう・・・。何もしないリベラルたちのみが、(アリバイづくり)で、口をはさんでいるわけだ・・・ 集会でも、デモでも、署名でも、カンパ集めでも良いから、とにかく(アリバイ作り)は止めて、(運動)してほしいと期待する。あなたたちは、プロパガンダ投稿専門の「アサート」と違って、運動体(政党)なんだから・・・出来ないなら解散すればいい・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――6つの州で合わせて11の村の首長がロシア軍に拘束か。キーウ州では遺体で発見も 2020-4-3 (はんぺん) ウクライナのベレシュチュク副首相は「3日時点で、キーウ、ヘルソン、ハルキウ、ザポリージャ、ミコライウ、ドネツクの6つの州で、合わせて11の村の首長がロシア軍に拘束されている」と会見で述べた。 国際赤十字委員会に通報し、拘束されたほかの民間人も含めて、拘束場所や健康状態を知らせるよう求めているという。ウクライナ政府は民間人の解放の交渉をロシア兵との捕虜交換の対象に加えているとしている。 ロシア軍から奪還されたキーウ州のモティジン村では先月23日に拉致されたスヘンコ村長と夫の遺体が見つかったという。(ANNニュース) ――――――――――――――――――――――――――――――故郷とウクライナを重ねるチベット人 2022-3-29 矢板 明夫(台北支局長) 朝日新聞2月下旬のロシア軍によるウクライナ侵攻開始以降、台北市中心部などで週末ごとにウクライナを支援するデモが行われている。 その中ではウクライナ国旗と一緒にチベットの雪山獅子旗を振るチベット人の姿が際立つ。デモ参加の呼びかけなど中心的な役割を果たしているのは、チベット亡命政府の駐台湾代表、ケルサン・ギャルツェン氏だ。 「ロシア軍に抵抗するウクライナ人の姿を見ていると、圧政下で暮らすチベット同胞を思い出す。ひとごとだと思えない」。ケルサン氏はそう語る。 侵攻開始とほぼ同じ時期の2月25日、チベット族の男性人気歌手ツェワン・ノルブさん(25)はチベット仏教の聖地、ラサのポタラ宮前で、中国政府による強権統治への抗議として焼身自殺を図って当局に阻止され、連行された後に死亡した。中国のチベット族居住地域ではラサで騒乱が起きた2008年以降、抗議の焼身自殺が多発し、メディアが伝えただけで150人以上に上っている。 ケルサン氏によると、台湾には約1千人のチベット人が暮らし、1959年に「チベット蜂起」が起きた3月10日の前後に対中抗議デモを行ってきた。今年は「ウクライナ支援」と「ツェワン・ノルブさん追悼」の2つの訴えが加わったことで、多くの台湾人が賛同し、例年の倍以上の参加者が集まったという。 「ウクライナ人はロシアから、チベット人と台湾人は中国から圧迫されている。国際社会と連携して、独裁政権による侵略行為にはっきりと『ノー』と突きつけることが大事だ」とケルサン氏は訴えた。 ケルサン氏は、今回のロシア軍のウクライナ侵攻が50年の中国人民解放軍によるチベット侵攻と極めて似ていると指摘する。当時、チベット軍も必死に抵抗した。しかし、チベットには国際社会の支援がなく、やむなく中国への併合を認める「平和協定」を中国政府と結んだ。中国政府は「改革を強要しない」などとする約束を守らず、チベットの「社会改造」に着手して多くのチベット族が投獄、殺害された。 59年、抗議者と軍が衝突したチベット蜂起を受け、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世はインドに亡命した。「独裁政権はいつも約束を守らない。このことを絶対に忘れてはならない」とケルサン氏は語気を強めた。 中国四川省カンゼ・チベット族自治州生まれのケルサン氏は、共産党の幹部を育成する社会主義学院を卒業後、いったん地元共産党委員会の職員となったが、「少数民族の信仰を否定」する中国当局のやり方に疑問を感じ、33歳のときに仲間と一緒にラサから徒歩でヒマラヤ山脈を越え、約1カ月かけてネパール経由でインドに亡命した。その後、亡命政府の職員となり、代表者議会の議員も約10年務めた。昨年、台北に赴任した。 今のチベットの状況について、ケルサン氏は「私が中国国内にいたときと比べて、人権状況はさらに悪化している。とても心配だ」と懸念する。一方で「今回のウクライナ侵攻を受け、国際社会はロシアや中国などの独裁政権の横暴さについて理解する人が増えた。われわれを支援する輪が広がっていることを実感している」と語った。
2022.04.04
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全体主義を批判しないMDS。でたらめな時代認識の果てに・・・ 2022-2-27 (はんぺん)(MDSとは「民主主義的社会主義運動」という運動団体のこと) 世界(人類)の最大の脅威は、全体主義だ・・・と言ってきた。中国・北朝鮮・ロシアだけではない。今や、国連総会では、欧米などの自由主義国より、中国などの全体主義国のほうが、多数の票を獲得する時代だ。 世界は、確実に全体主義化している。地球の未来は、限りなく暗い・・・こともあろうに、(人権)が最大のメルクマールであるリベラルたちが、この実態を理解せずに、まちがったプロパガンダで国民の認識を歪めてきたことについては、僕の理解を超える現実だ。 MDSのHPも時々、覗くが、予断と偏見、思い込みに満ちた独断主張が羅列している。50年以上前に僕が加盟していたDSLの先輩・後輩たちが、このMDSに関わっているのだろうが・・・反省の勇気に欠ける懲りない面々に呆れてしまう。 MDSは、ソ連の崩壊を受けて、前身の現政研(現代政治研究会)をいったん解散して再出発したという触れ込みだそうだが、いったい、どこが(反省)したというのか? 組織論的手直し(民主集中制の廃止)は良いとして、社会主義の清算を果たしていないのは、どう考えても異常だ。訣別できない(社会主義幻想)は、次々と生起する現実の推移によって、破産し続けているのだ・・・・ MDSのHPでは、全体主義(中国・ロシア・北朝鮮)を批判する記事を見たことが無い・・・これって、根本的におかしいだろう・・・ (参考)No.21 MDSの20年と民主主義的社会主義の展望-民主主義的社会主義運動結成20周年記念集会基調講演-(2020年9月26日)基調講演 佐藤 和義 http://www.mdsweb.jp/doc/article/200926article21.pdf No.1 戦争法を廃案にし、安倍内閣を打倒しよう(2015年7月)MDS(民主主義的社会主義運動)委員長 佐藤 和義http://www.mdsweb.jp/doc/article/150708article01.pdf 岸田文雄首相は25日、ロシアによるウクライナへの大規模な侵攻を受けて記者会見し「力による一方的な現状変更の試みで、明白な国際法違反だ。国際秩序の根幹を揺るがす行為として、断じて許容できず、厳しく非難する。わが国の安全保障の観点からも決して看過できない」と厳しく批判した。 ・・・・これは、極めて正しい。この程度のことが主張できないリベラルって、一体なんだ?? そんなリベラルは、要らないし、もちろん政権(政治的権力)を取ってほしくないと、強く思う。(百害あって一利なし)ということわざがあるが、今のリベラルたちには、どんな存在意義があるのだろうか?? つくづく嘆息するばかりだ。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)
2022.02.27
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(未熟)を恥じずに、一生、前向きに精進すること 2022-2-22 (はんぺん)先日の朝日新聞の(天声人語)だ。これは、明確な大量殺人事件だ。考え方が、あまりにも世間の常識から逸脱しているが、犯罪そのものであり、若気の至りで、済まされるものではない。 これは、氷山の一角だという事を確認しなければならないと僕は思う。そう、多くの自称革命家たちが、セクト内の分裂騒ぎや セクト間の党派闘争で、ゲバルトの犠牲になっているからだ・・・・ ひとりよがりの(革命ごっこ)で、無限の可能性のある若者たちの人生を無きものにした罪は、限りなく大きい。 前にこう書いた・・・「独りであること、未熟であること、これが私の原点である」(「二十歳の原点」高野悦子) 山崎博昭も高野悦子も、そしてあの70年の前後の学生運動に参加した者(僕も含めて)も、みんな未熟だったのに、わずかに背伸びしてしまったために・・・そのことで多くの若者たちが、(国家権力や内ゲバで)殺されたり、自殺したり、障害者になっていった」 あの70年安保前後、キャンパスに居た自分が感じた狂気・・・を、よく思い出す。自分たちを、フロント(前衛)だと錯覚して、狂いまくっていたトロツキストたちの暴虐を止められなかった僕たちの無力さと、それでも敗北を承知で、突き進んでいった学生たち・・・そう、あの時点では、ほとんどの運動家は、(安保闘争勝利)など、信じていなかったのだから・・・・ あらためて思う・・・自分たちは、おそらく一生未熟者であり続けるが、それに恥じずに精進し続ける事こそが、人生における、人間的な態度だという事を・・・ 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――――――連合赤軍事件50年(天声人語) 2022年2月19日 朝日新聞 化粧をした。髪をとかした。例えばそんなささいなことで、革命をめざす者としての自覚が足りないと責められる。リンチされ、最後は無残に殺される。半世紀前、連合赤軍を名乗る若者たちが引き起こした事件だ ▼約30人の男女が山小屋のアジトにこもり、軍事訓練をしていた。革命のためには個々人が共産主義化しなければならない。そんな観念論に照らし、幹部が不十分だと見なしたメンバーに反省を求め、暴行を加えた。12人が命を落とした ▼事件に関わり殺人罪などで服役した植垣(うえがき)康博氏の手記を読むと、仲間に暴力を振るうことへの戸惑いがあったことがわかる。しかしそのつど、「共産主義化の闘いを見直すことはできなかった」などと流れに従った(『兵士たちの連合赤軍』) ▼閉ざされた組織のなか、一つの価値尺度、少数の幹部が絶対視される。それが人間をここまでおかしくするのか。作家安岡章太郎は『僕の昭和史』で事件を旧日本軍に重ねた。勿体(もったい)ぶった理屈のもとで下級兵士が殴られたのにそっくりだと ▼物理的な暴力まではいかずとも、似たような構図は案外あちこちにあるのかもしれない。過労自殺に至るまで働かせる裏には、企業の目標を絶対視する空気がある。組織が閉鎖的であるほど、そういうものだと思い込んでしまう ▼リンチ殺人で連合赤軍は崩壊し、メンバーの一部が軽井沢のあさま山荘に立てこもった。それが50年前のきょうである。異常な出来事だったと、忘れ去るわけにはいかない。
2022.02.23
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学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (14) 2022-2-18 (はんぺん) ⑬からの続き(1969)5/26 前夜、23:00~今朝4:00ごろまで、LC(支部委員会)が、ぶっ続けで行われた。「Tさんを守る会」が、SA・TAさんたちの完全な私的組織となり、半ばフラク化しているという事実に対してのLC(支部委員会)多数派からの追求に対して、TAさんは、半ば公然とフラクの正当化を主張するという状態になっている。 (問題の中心は、何か!)「Tさんを守る会」が、民学同(DSL)支部委員会のまったく関知しないところで作られ、しかも、その中に、民学同(DSL)市大支部の同盟員が入っていることが、わかっており、しかも、その会を実質的に、その同盟員が指導しているということ、すなわち、民学同(DSL)市大支部委員会とは、まったく別個に、指導機関なり、指導部隊が作られており、それは、内容的には、市大支部の方針とは、まったく異なった方針を採用していることからも分かるように、完全なフラクと化していることが、判明した。 DSL市大支部委員会は、このような分派活動に対しては、はっきりと断固たる処置をとる必要がある。引き続き、明らかになった事実に基づけば、この「Tさんを守る会」は、すでに大学当局と、団交をしているという。このことは、支部委員会のまったく関知しないところの事実であり、組織活動の原則を逸脱していると言わざるを得ない。 すでに、団交を少なくても、1回行ったということについては、確実なところから、情報を得ており、この団交が、「大衆団体の活動であるから、同盟をはじめ、あらゆるセクトの関与すべきものではない」という名分でもって、民学同(DSL)支部委員会とは、まったく連絡を取ることなく、同盟支部に隠れたカタチで、秘密裏に行われたということは、極めて無視できないことである。 以上、ノートから その後の簡単な経過(僕のノートから)1969/7/8の市大のL-BK(文学部班会議 10名参加)で、Suさん(市大分派G)は、「民学同(DSL)内には、2つの分岐がある」と発言している。5/15の3同志に対するテロから、わずか、2か月しか経っていない時点での、この発言は、何を意味するのか? 同時に「民学同(DSL)市大支部は、機能マヒしている」とも、語っていて、議論になっている。そのあとの、7/16、松井寺会館で、民学同(DSL)市大支部総会が開かれた(41名参加)が、IG問題が、一つの焦点になった。この席で、IG氏は、この間の「闘争放棄」については、自己批判することを表明した。 しかし、批判するLCメンバーからは、この間(5~6月)の 同盟とは、何の連絡もなしに、分派的に取り組まれた「Tさんを守る会」の活動に、その中心メンバーとして積極的に参加していることについては、許されないし、その行動を見る限り、その自己批判は、本当の自己批判とは認められない・・・・と厳しく指摘された。 総会は、騒然とした雰囲気に終始する。7/18~19、信貴山・玉蔵院で、民学同主催の「全関西民主主義学生交歓会」が行われている。佐藤全国委員長から、全国学生戦線諸派の動向が報告されたほか、8月原水禁(東京)に向けた討議が行われ、各大学支部からの報告があった。 2日目の午前中、全国委員のOT氏(京大)から、「民学同(DSL)とは、何か?」というテーマで「講演」があった。明らかに、同盟内の対立を意識した内容で、「政治同盟の指導性と、大衆サークル内での同盟員の義務について」、レーニンのサークル主義との闘いを引き合いにだして、「学習(サークル)活動を実践に結合していくことの重要性」「評論家集団でなく、行動組織としての同盟の重要性」について、OT氏は、発言している。 かなり(?)以前から、潜行してきた同盟内、分派グループ=サークル主義者を意識したものと考えてよいと思う。 この年の夏、7/30~8/4に、岡山県笠岡市白石島で行われた市大部落研(新時代派が多い)の夏季合宿では、「今日の部落問題(日共発行)批判」が、設定され、党と大衆団体の関係についての報告があった。 「党(この場合、共産党)の方針が、大衆団体の方針と異なった場合、党員でもあり、大衆団体の一員でもある場合は、どうすれば良いか? ① 大衆団体の方針が、党の方針と一致するように努力する。② それでも、党の方針を貫徹できなかった場合は・・・原則的には、大衆団体の方針に従う。もちろん、その中で、徹底した思想闘争を、行うべきである。思想闘争を公然と徹底的に行うことは、そのこと自体、闘争にとっては、マイナスにならないどころか、プラスにさへなる。③ 派生的な場合として、その党(あるいは、政治組織)にとって、決定的にマイナスとなる場合(極めて、まれではあるが)のみ、この限りでない。もちろん、しつような思想闘争は、この場合でも、行わねばならない。派生的な場合とは、たとえば、その大衆団体において決定された方針に従って活動していけば、その組織にとって、その解体、あるいは、崩壊を意味する場合のことである・・・・・・そういう議論があったということ(僕のノートから) 8月後半からは、双方の多数派工作が、激しくなった模様で、8/28の市大支部のLCでは、激しい言葉のやりとりがあり、LCメンバーのIさん、Tさんは、翌日に予定されていた支部総会を「同盟の趣意規約から逸脱しているので、認められない」と、ボイコットを示唆するに至る。 8/29の支部総会では、彼らのボイコットが、現実のものとなった。8/30、全国代表委員会で、市大分派グループのIさんから、全国委員会に対して、上申書が提出された。 全国委員会では、この上申書について、引き続き討議が続行されたが、8/31、9/1と予定されていた全国代表委員会は、とうとう開かれなかった。9/1の全国委員会では、予定されていた第12回全国大会の延期を決めている。 阪大・明大の全国委員は、「全国代表委員会では、市大問題をまず解決してからでないと、方針討議はできない」と主張。意見は、まったく、かみ合わなかったという。 9/2、全国委員会で、採決の結果、午後からの全国代表委員会の開催を決定したが、阪大・明大・学大などは、ボイコットをした。 ここで、一点、付け加えておくと、彼らが活動の拠り所とした「Tさんを守る会」については、「暴力反対」だけで運動が作れるはずもなく、自然消滅したのか?、学友大衆には、何の報告もなかったようであって、きちんと総括されたのか?どうかさへ、僕たちには、わからない・・・ ノンセクトと野合したり、はたまた、民青と結託するなどの動揺した「方針」で、闘えるはずがなかった・・・・。-------------------------------------------------------------- 9/24、民学同:市大支部総会が、市立労働会館(森ノ宮)で、分派グループによるボイコットの中で開かれた。登録46名、出席23名、委任状3名で、賛成22名、反対0名、保留1名、で、議案は25/46で、かろうじて可決されて、闘争方針が、決まった。 それは、封鎖貫徹=大学解体路線の全共闘が、また、一方では、封鎖実力解除=授業再開路線の民青=全学連支持会議が存在する中で、全国学園闘争と連帯した、(クラス活動を基礎としたストライキ体制の構築から)、徹底した民主的改革路線を追求した我々の闘争の継続を決めたものであったが、大学を取り巻く混乱した当時の状況の中で、その現実性(我々の力量)、ということからすれば、果たして、どの程度の展望があったのか・・・・? 僕には、確信が持てたわけではなかった・・・・・というか、全共闘、民青も含めて、どの党派も、確信の無いまま、ずるずると時間だけが過ぎていったのかもしれない。 この時の市大の分派グループは、大いなる動揺の中にあった。彼らは、自然発生性への拝跪=大衆追随主義の中で、2月には、民青=反革命規定とトロ諸派の問題提起の「評価」を主張し、ノンセクトとの「共闘?」を示唆したかと思えば、5~6月以後は、民青と一体となって、「とりあえず授業再開」を主張した。 9月に入ってからの同盟支部は、分派闘争にかかりきりで、闘争方針は、あっても、まともな運動は、作り得ていなかったと思う。 10/4、マル機が、導入された。夜、府立青少年会館で「全関西政治集会」が開かれ、200名が結集した。10/21に向けての取り組みが、意思統一される・・・・10.21を、「全関西学生共闘」で取り組むこと、市大では、10.21闘争実行委員会を結成して、それに、平和委員会、改革闘争委員会、各クラス実行委員会などを、結集させていくこと・・・など。 阪大・学大などでは、10.21闘争を平和委員会の名前で、組織しているとの情報が伝わってくる。 この当時、学園闘争の構築=勝利に向けての取り組みというのは、だいたい、クラスでの団交決議を上げて、それを全学規模に広げて、全学団交を実現して、なにがしかの獲得目標を勝ち取る・・・・程度のことしか、考えられなかったが・・・誰が見ても、状況は、厳しかったというのが、現実だった。 同盟は、学生側の意思表明の場であり、決定権を保証した機関として、全学協議会を提起していたが、スローガンとしてのみ存在したというのが実態で、大学内の力関係からしても、実現の可能性は、きわめて少なかったと僕には思えた。 10/1、上六の教育会館で、10.21に向けての(期限付きの)全関西学生共闘結成大会。参加団体は、ほとんど、民学同関係ばかりで、68年の自治会共闘のような、横の広がりが実現しなかったのは、我々を取り巻く時代の急速な変化であり、自治会の機能停止、ノンセクトの跋扈する、全国的なアナーキズムの状況の中で、課題別共闘、期限限定の共同闘争方式の必要性は、薄れていったと、今になって、思えるのであった。 10.21闘争では、全関西で、1,000名、市大で、120名(実数)が、参加した。それが、当時のDSLの力量だった。動員力(数)では、ノンセクトや全共闘、あるいは、民青全学連などと比べて、はるかに見劣りしたものだった。------------------------------------------------------------このころ、同盟内で、「学生共闘」の位置づけについて、阪大グループから、京大の学生共闘は、「第2自治会であって、自治会(本体)と対立するものであって、認められない」という意見が出ている。 同盟の単一全学連再建の基本方針では、① 単位自治会の再建・強化 ② 都道府県学連の再建・強化 ③ 地方学連の再建・強化 ④ 全学連の再建・・・・・という道筋であって、共労党や、フロントなどが、68年~69年当時、一時、推進した「全国自治会共闘」路線は、第2全学連であるから認められない・・・として、我々 民学同(DSL)は、反対してきた。 自治会共闘の本来の姿は、「課題別の全国横断的な組織の一日共闘」であるべき・・・というのが、同盟の方針だった。この方針上に、「学生共闘」が位置づけられるのか・・? が、根本の問題であったと思う。 恒常的闘争組織(全国自治会共闘など)は、学生戦線の分裂の固定化につながるから、課題別・期限付きの「学生共闘」の域を出るべきではない・・・というのは、正論であると思う。 しかし、それまでの民闘委(民主化闘争委員会、市大の場合)では、「大学改革」に限定されていて「限界」があるから、「安保」「沖縄」などの課題をも闘える「学生共闘」(自治会活動集団)が必要だ・・・という「民旗派」の主張は、間違ってはいない。 「統一会議」「全学連支持会議」「革新グループ会議」などのような、自治会活動家集団である・・・と位置づけすれば、自治会が崩壊していても、各大学内で、その位置づけで活動を行うことは、認められるべきであると思う。 阪自連という一定の自治会機能が残っていたという、当時としては、恵まれた状況下にあった阪大と、中執機能が停止して、全共闘や民青などの圧制?の下で、厳しい組織活動を強いられた京大・市大の置かれた状況を、阪大グループがどこまで、理解しようとしたのか?僕には、よくわからない。 もし、民学同の我々、民旗派が、自治会活動家集団の恒常的闘争組織としての個別学園内「学生共闘」という発想を捨てて、全国横断的な恒常的闘争組織としての「全国学生共闘」組織を提案したとすれば、それは、「第2全学連」であるという批判は、成立すると僕は、思う。 同盟の全学連再建方針とは、相容れないと思うからだ。今回の全国委員会の提案は、10.21に向けての(期限付きの)全関西学生共闘の結成であり、幅広く学友大衆に門戸を開いたものであって、同盟の方針とは全く矛盾するものではなかったし、間違ってはいなかったと、今も思っている。 個別課題別かつ、期限付きの共闘組織が、多くの自治会活動家集団を対象に参加を呼びかけられ、たとえば、市大では、市大学生共闘という自治会活動家集団の呼びかけで、10.21闘争とか、6.23安保とか、学園改革、大学立法阻止、佐藤訪米阻止などに限定した闘争組織が作られるのが、正しい組織方針であったし、それは、現実に実行された。 ただ・・・・当時の混沌とした雰囲気・・・1968~69年の日大闘争、東大闘争を受けて、落ち着かない学園状況の中で、地道にクラス活動を、各大学の民学同(DSL)支部が、どれだけ展開できていたのか?ということになると、我々、民旗派も含めて、はなはだ疑問であったと言わざるを得ない。 全共闘の帝大解体=封鎖貫徹路線の中で、クラス活動が、どれだけ困難であったのかは、実際に体験したものでなければ、なかなかわからないと思う。全共闘による物理的大学封鎖で、長期間、授業がストップすると、学生たちは、郷里に帰ったり、バイトに勤しんだり・・・と、バラバラになっていった。 クラス討論そのものが、一時的に成り立たなかったのである。これは、市大に限らず、全共闘による「封鎖」のあったところは、程度の差は、あっても同様の状況ではなかったか??と想像する。 全学ストライキは、最高レベルの戦術だと言われるが、それは、もろ刃の剣でもある。学生大会で、圧倒的多数の学友の支持があって(支えられて)初めて、最高度の戦術(怒りの表明)となりうるが、学友の支持の無い、ブントの物理的なバリケードストライキ=バリストのように、耳目衝動的な戦術は、周りの状況に寄って、一時的に(代行主義的)支持があり得るとしても、運動の継続性・発展性に欠け、闘争の展望が、無いがゆえに、次第に学友の支持を失っていき、大局的視点から見れば、大いなるマイナスでしかなかったと思う。 彼らのヘルメットやゲバ棒は、学友から支持の無かったバリスト、その非合法性に対する居直りであって、強がっては見せたが、その彼らの弱さの表れであったと僕は、思う。 学園闘争における、獲得目標の無い全学封鎖=大学解体路線は、権力に対する「敗北宣言」以外の何物でもなく、無責任アナーキズムの終着駅であった・・・・と断言できる。 「全共闘路線」を、阻止しえない僕たちは、結局のところ、70年の学園闘争、あるいは、70年安保闘争の敗北を目指して、突き進んでいかざるをえなかったのかもしれない。 ぼくは、70年の6.23のあと、同盟を離れたが、思うに、運動指導者たちの、誤った指導の中で、どれだけ多くの若い活動家が、その無限とも思えるエネルギーを出し切れずに、離れていったのか・・・・を考えると、恐ろしくなる。安易に「革命」とかを口にする人間は、信用してはならない・・・・とつくづく思う。
2022.02.18
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学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (13) 2022-2-16 (はんぺん)これも、僕がリタイアした2015年の初めの作文である。今回も記録用として、アップしてみる。内容は、ほとんど、そのままであるが、僕の理解は一貫している。 僕の大学での運動は、1968年~1970/6/23までだった。社会人になってからも、政治活動や反原発運動は続けたが、この2年強のDSLの経験は、良いことばかりでは、もちろんなかったが、その後の僕の人生の基礎になった。ソ連や社会主義体制の崩壊を目の当たりにしながら、未だに直視できず、きちんとした総括を回避して、拉致問題や全体主義に見て見ぬ振りをしているリベラルたちの惨状は、見苦しい限りだが・・・・・皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――代行主義から、アナーキズムへの流れ(・・・・・・・思いつくままに) 2015年の初め・・・60年代後半からの、ベ平連の伸長は、思想的には、アナーキズムの勝利(=組織活動の敗退)、だと思う。ベ平連の「誰でも好きな時に、好きな形で、参加できる」ということは、逆に、「好きなことをした後、好きな時に勝手にやめることができる・・・・」ということでもある。 すなわち、組織の縛りの無い「自由!」な状態を肯定するものであり、「市民運動の限界性」ということで、当時から、指摘され続けてきた。当時は、たしか「自然発生性への拝跪」という言葉が、飛び交っていたように記憶している。 それが、一時的な運動の高揚を作り得ても、継続性、発展性が無く、刹那的な不満の解消には、なり得ても、根本的な解決(真の変革)からは、相当の距離があるということだ。 このベ平連運動の延長線上に、「全共闘運動」があるということだ。全共闘運動の中心部隊は、極左「革命」グループではなく、ノンセクトラジカルという「無責任な個人の烏合の衆」であったことは、当時の運動の中にいた人間なら、容易にわかるはずだ。 中核や、革マルなどトロ諸派は、全共闘内に入り込んで、これらのノンセクトラジカルを、盛んに取り込もうとしていたようだが、結局は、基本的に 成功しなかった。 組織の縛りを嫌ったノンセクトは、基本的に、ノンセクトで終わるしかなかった。思想性、組織性も、戦略(展望)も欠いたノンセクトラジカル「集団」の伸長の背景には、ベ平連と全く同じ思想的背景があったということ。 そして、70年安保闘争の後、ものの見事に、まさに潮が引くように、彼らは、「撤退」「逃亡」していった。 ----------------------------------------------------------------------このベ平連=全共闘を貫く、アナーキズムを乗り越える闘いに、既成の運動組織は、結果的に、有効に対処できなかった(敗北した)ということ。 DSLの分裂(共労党との分裂、あるいは、民旗派と新時代派との分裂)には、その痕跡が、明確に確認できると思う。 共労党派は、その後、「自然発生性への拝跪」の結果、なしくずし的にトロッキズムへの傾斜、全共闘の運動に流れ込んでいった。 一方、新時代派は、「全国の大学による一日共闘という形での運動を追及してきたが、実質的には、「DSL」の運動(セクトの運動)になっている」として、一日共闘への参加を拒否するようになっていく。 3.2闘争、4.18闘争、4.28闘争、5.23闘争の流れの中で、彼らは、その独自性を強めていくが、6.23闘争の、中之島での全関西学生総決起集会では、阪大DSLが指導する阪自連部隊は、ノンセクトラジカルを制御しきれず? 全関西学生総決起集会に合流せず、別集会、別デモを対置するに至る。 当日は、ぼくは、市大部隊の「旗持ち」だったので、集会を前のほうで見ていたが、形だけでも「統一集会」を模索した佐藤全国委員長らと、それに激しく抵抗する阪大指導部のHydさん、Sⅰpさんたちの生々しい状況を、記憶している。 当時のアナーキズム的風潮が蔓延する中での各大学でのクラス活動を基礎とした「層としての学生運動」の追求が敬遠、あるいは放棄され、安易なノンセクトの運動に「拝跪」した結果であって、これは、原点を忘れた阪大DSLの「敗北宣言」であったとぼくは、思っている。 サークル主義は、また「分散主義」でもあって、当時でいえば、同盟全国委員会の「指導」には従わず、各サークル、各大学で独自の方針で、個々に「活動」することを認めるものであって、組織の指導性を否定するものであった。 まさに、同盟そのものの存在が問われていたのである。そのサークル主義=分散主義の延長線上には・・・・組織の永続的な「分裂」しかありえない・・・・と、僕は思うのだが・・・ 自然発生性についての理解は、重要だと思っている。どんな人間活動においても、自然発生的なきっかけが伴うものであり、問題の核心は、それをいかに前進させるか! その方針を提起し、広げる視点で、組織的活動を実践するのか! ということだと思う。 大衆の自然発生性に対して、その後塵を拝してはならない・・・ということ。阪自連や、市大分派グループは、トロと民青の狭間にあって、動揺することはあっても、明確な、方針を示せなかった・・・・と僕は、感じていた。 大学改革闘争では、民旗派は、解体でもない、授業再開でもない、ストを背景にした徹底した民主的改革の方針(団交実施→全学協議会実現)を提起した。 分派グループや、新時代派に、どのような「方針」があったのか、ついぞ、聞いたことが無かった。サークル活動に逃避する立場からは、個別学園内で、その場しのぎの対応しかできなかったのではないか・・・・と 彼らの動きを見ていて思った。 自然発生性は、問題提起という意味では、とても大切であり、大事にしていかなくてはならないと思う。日大闘争では、学生たちが、日大当局の不正経理糾弾を、東大闘争では、青医連などが、医学部のインターン制度廃止と研修医制度の改善を、問題提起した。 不幸なことは、東大全共闘にも、日大全共闘にも、秀れた指導部隊が不在だったことではないか。闘争の過激さ、先鋭化だけでは、勝利は見えてこない・・・というか、あり得ないと思う。 思い込みや英雄主義は、観念論の世界であり・・・当然のごとく「敗北」したということである。 僕のノートから・・・5/15の3同志に対する個人テロでは、TR同志が、頭部裂傷、腹部腎臓破裂で、1ヶ月以上の重傷、TB同志は、左腕に軽傷、NS同志は、顔面に軽傷ということで、大きなダメージを受けた。 TR同志は、すぐに市大病院に入院した。このテロは、翌日に予定されていた、文学部委員会による、文学部教授会との団交を前にした、計画的、物理的妨害活動であったことは、明らか。 加害者は、全共闘のTN(法4)、文闘委のMR(文3)、MN(文3)その他。市大支部委員会(LC)は、翌日の団交の妨害が予想されることから、アジトに泊まり込み体制をとる。(8名以上) 5/16は、10:00から団交を予定していたが、予定場所の教養芝生に、全共闘・文闘委が座り込んでさっそく妨害活動に。 11:00すぎから、やっと、文学部委員会主催の団交が始まるが、一貫して文闘委(約40名程度)の妨害に会う。途中、雨が降ってきたので、場所を410教室に移す。妨害のため、議長団(FUT,SUG,YAM)の進行が、うまく行かず、そのうえ、森信成教授ら、教授団のナンセンス発言が続出して、収拾がつかなくなる。 団交の内容は、中教審反対声明の問題に絞られたが、ほとんど、進まず、成果を得ることはできなかった。 14:00文学部委員会の団交は、終了。 引き続いて、文闘委の団交に移った。当日、我々は、3枚のビラを配布した。文学部委員会のビラ2種類(団交についてと、個人テロ糾弾)、デモクラット(5.23闘争)である。 翌日の5/17(土)には、全共闘・文闘委が、文学部委員会室にまた、社研の学習会(生協2F和室)に乱入して、介入妨害した。 5/19(月)前夜から、アジトに泊まり込み。朝、9:00近くの公園に同盟員が結集して、意思統一。ビラ作成と配布。マイクは、こえ事務所から。ビラ配布の際には、様々な妨害を、全共闘・文闘委から受けた。17:00再び、公園に結集意思統一。AM同志が、OK(プロ学同)に殴られた。 僕のノートを見ると、この当時の会議や行動参加者にはサークル関係者が少なく、しかも特定のメンバーしか結集していない。 この日(5/19)時点で、僕のノートには、「Tさんを守る会構想は、同盟の指導の下に、大衆的に発展させる必要があり、全同盟的に(下線あり)討議する必要があるのではないか」と書かれている。ここからすると、すでに、そのような「動き」が、察知されていたのではないか・・・と思われる。 5/21 朝6:00から、6名で、2号館・生協などにステッカー貼り。9:00、こえ事務所で、意思統一(10名とOT全国委員)。すぐに、杉本町駅前に行って、ビラまき。12:00に、7人のメンバーが、かたまって生協内に入り、ビラをまく。 その後、オルグに散り、17:00、近くの公園で、再結集して、意思統一(8名)。その後、各自、オルグに散る。ぼくは、このあと、こえの事務所で、ビラの「つぶし」。そのあと、21:00~住高OBのオルグで23:30まで。それから帰宅する。 5/22 9:00公園結集(11名と全国委員)。ビラまき。12:00駅前ビラまき。生協ビラまき(11名と全国委員)。オルグに散る。 7:00東大禅寺で、改革闘争委員会(27名と全国委員)。5.23闘争のオルグ状況確認。市大総決起集会は、市大改革闘争委員会と文学部委員会の共催で。 各学部状況報告L1 クラス準備会における文闘委の妨害。場合によっては、一般学友とともに、準備委員会を脱退することも考えられる。(TA・FJ)L2 クラス討論の開始。大学解体派は、参加せず。(MA・NA)L3 心理学研究室封鎖の動き=23日以後らしい(MI)L・歴史学 中教審答申反対の意思統一、勝ち取る。(SI)L・教育学 教育研究会(学生と教官で構成)5/15アピール出す。当日、文闘委による、個人テロあり。(SA)L・社会学 53名中、18名が、封鎖の中に。(TE)E 経済学部学生集会。授業再開は、一時的に支持されただけ。(FU)M 学生大会。団交あり。内容的には、全くダメ。(IN) (暴力事件についての我々の態度)・・・我々は、非暴力主義では無いのであって、「暴力反対」だけでは、不十分。今回の個人テロは、はっきり、政治的意図を持って行われており、現在の市大民主的改革闘争ときわめて密接に関連している。全共闘・文闘委は、今回の個人テロについて、革命的暴力だとして、正当化しているが、それとは、まったく無縁のものであり、彼らの論理の破産を示したに過ぎない。 予定スケジュール5/30 愛知訪米阻止闘争 5.30~ 扇町公園6/9 アスパック 5:30~ 扇町公園6.13 DSL、労働者との集会 中小企業文化会館6:15 全関西反戦青年委員会、関西べ平連 6.23 反安保実行委員会主催 全関西統一行動 第3波6.27 日教組全国統一行動 全関西統一行動 第4波7/10 全関西統一行動 第5波5.23闘争の結果 全関西学生総決起集会 中之島公園 350名(阪大、京大、市大、神戸大、他) 市大改革闘争委員会は、100名であった。⑭に続く・・・・・
2022.02.16
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いつまでも進歩の無いリベラルたち、覚醒は無いのか? 2022-2-12 (はんぺん)昔々・・・・僕の属していたDSL(学生同盟)を指導していた現代政治問題研究会(現政研)が、MSDという組織に改称したということで、そのHPを見たら、僕的には、耳を疑う(方針)が出ていて、びっくりしたものだ。 昔々の話だったが・・・なんで、なんで・・・??? こんなバカげた(方針)が、出されているのか・・・?? ありえない・・・と思った。 それは、「無防備地域宣言」条例の制定運動というもので、現実離れしたというか、若気の至りの延長というか? 気が狂ったというか? 「軍備があるから戦争が起こる」「無防備都市宣言を行えば攻撃されない」など、誰が考えても理解不能なのだが、どうやら本人たちは、真剣な様子で・・・・・・僕は空を仰ぐしかない・・・・ (第9条神話)に踊らされ、(戦後の日本の平和は、平和憲法のおかげ)というデタラメを振りまいて、国民を洗脳してきた彼らの犯罪性は、際立っている。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――――――DSL系が噛んでいた・・・・ 2018-11-16(再信) (はんぺん)この文書を読んで・・・・昔のDSL系が、噛んでいた・・・・ある程度、予測はできたが!!! DSL・・・1960年代~1970年代に関西を中心に学生運動で、大いに活動していたDSL が、発展的に解消したのが、民主主義的社会主義運動 (Movement for Democratic Socialism、=MDS)だが、その指導の下に、大衆団体として、ZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)という取り組みが、されていることは、知っていた。 ソ連派と言われてきた彼らが、ソ連の崩壊などを受けて、どのような、自己批判、自己総括をやってきたのか・・・・一定の組織論における手直しを、行ったという話は聞いているが、現実の運動の中で、例えば、拉致問題や北朝鮮の人権問題などに関して、どのような方針で臨んでいるのか? ぼくは、あまりよく知らなかった。 何を隠そう・・・ぼくは、短い期間(2年強)では、あったけれども、大学時代に、このDSLの同盟員であったから・・・この記事を読んで・・・ある程度、想定内ではあったけれども・・・・・・ 48年間ほどの期間を隔てた今でも、相変わらずの反省の無い=自己改革の無い組織で、あり続けているんだな・・・という感慨だ。 すでに、何回も書いてきたように、韓国国内では、無数の「北朝鮮」のスパイ網が、張り巡らされており、彼らは、陰に陽に、反朴、反日、反米で、市民運動を焚き付け、扇動してきた・・・・(韓国国内には、金大中~廬武鉉の10年間に、多くの北のスパイが、潜入して、労働組合、マスコミ、学園、大統領府、慰安婦関係組織など、広範囲に、組織づくりを行ってきている。) 今回の市民団体「未来の世代が建てる平和の少女像推進委員会」も、当然、北の秘密組織、市民の仮面をかぶったスパイ団体であることは、明らかだろう。 日本でも、北朝鮮のスパイ組織は、やりたい放題で「活躍」しており、朝鮮総連や、新社会党は、もちろん、社民党の中にも、かなりの諜報員が潜入して、活動しているものと思われる。 韓国内外のこれらのスパイたちが主導する「民主団体?」は、朴槿恵や日本、米国うを批判することはあっても、「北朝鮮」を批判することは、決してない・・・のだ。 新社会党に至っては、機関紙「週刊新社会」(2013-11-19付)で、「北朝鮮では、娯楽施設は、どこも満員の盛況で、北朝鮮人民は、生活を楽しんでいる」「無料の医療・教育・住宅は、生活に安心をもたらすと実感した」と褒めたたえているありさまだ。 一昨年、昨年の11月には、「韓国の労働運動に学ぶ」と称して、新社会党の友人が、のこのこと韓国まで出かけて、民主労総(決して北朝鮮を批判しないことで知られる親北派の労働センター)と連帯して、「(朴体制と?)闘った」と、恥ずかしげもなく、僕に報告してきた。 自分たちが、北朝鮮の(世論戦)に組み込まれ、北朝鮮スパイたちに利用されまくっていることに気づかず!!彼らは、金ジョンウンの手の平の上で、踊らされ続けているのだ・・・・ 「地獄への道は、善意で敷き詰められている」といった言葉は、彼らには、当てはまらない。彼らの「善意」は、吹き飛ばされてしまったようだ。そう、(バカでない限り)誰が見ても、彼らは、「確信犯だ!」ということだ。 MDSにしろ、新社会党にしろ、彼らが未来を担うことは、決してあり得ないことを、ぼくは、確信する。 あなたたちの60年、70年の人生は、何だったのだろうか・・・? ぼくは、永遠に、彼らに問い続けるつもりだ。 皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)―――――――――――――――――――――――――――――――――釜山日本総領事館前に少女像を設置した団体の正体 2017-1-27 Wedge 韓国のある市民団体が釜山日本総領事館前に慰安婦少女像(以下、少女像)を設置したことに端を発した日韓の対立が長期化している。日韓がここまで悪化したのは2012年の李明博大統領の独島訪問以来ではないだろうか。 日本政府は強い姿勢を崩さないまま韓国側の「変化」を待っているが、韓国では「世論」を恐れ、政府も移転・撤去について具体的な行動ができない状態だ。加えて一部の慰安婦が慰安婦問題日韓合意に従って韓国政府が設立した「和解・治癒財団」から受け取った1億ウォン(約970万円)を返金すると表明するなど、むしろ「日本バッシング」が起きている。 日韓両国のマスコミは、少女像が巻き起こした「混乱」と「軋轢」に注目しているが、ここではマスコミにあまり紹介されていない「少女像を設置した市民団体」について紹介したい。. 未来の世代が建てる平和の少女像推進委員会 少女像建立を推進したのは「未来の世代が建てる平和の少女像推進委員会」という市民団体連合だ。ここにはいくつかの市民団体が参加しているが、その核心といえるのが「キョレハナ」という市民団体である。釜山日本領事館前の少女像を設置するための募金活動もキョレハナの口座がその窓口になっている。 キョレハナはソウルの日本大使館前の少女像を取り囲み、座り込みデモをしていた団体であるが、ここには釜山支部大学生組織「釜山大学生キョレハナ」も参加していた。ソウルまで「遠征」していた彼らが地元釜山にも少女像を作ることを目指して募金活動を開始、ついに実現したのが今回話題になった少女像である。 キョレハナとは「キョレ=民族、同胞」と「ハナ=一つ」の合成語で「民族、同胞は一つ」という意味だ。組織の名前から分かるように、この団体を語るときに外すことができないのが「北朝鮮」というキーワードである。キョレハナとは別の言葉で言えば「統一」という意味なのである。 組織の「本業」は「北朝鮮支援」 それは北の住民のための事業か、政権のための事業か? キョレハナはソウル、仁川、釜山等、全国8カ所に支部が、そして中央組織には11の事業本部が存在する。ところで、この事業本部の「事業内容」をみるとこの団体の性格が見えてくる。11の事業本部の中に慰安婦に関わる活動はなく、北朝鮮を支援するための事業に集中している。次表は11の事業本部の名称とその活動内容である。 * * * 【事業本部名称事業内容】 南北教育協力推進委員会:北朝鮮教育施設現代化事業 北朝鮮子ども栄養パン工場事業本部:パン生産設備および原料支援 北朝鮮子ども豆乳事業本部:平壌近郊100箇所幼稚園に豆乳支援 北朝鮮麺工場事業本部:平壌モランボン麺工場建立、原料供給ウリギョレ緑林:平壌市養苗場建設推進、設備支援 北朝鮮抗生剤工場事業本部:金日成総合大学内抗生剤工場支援キョレハナ大学生本部:南北青年学生交流事業支援 統一豚農場事業本部:平壌市に豚農場建立、農場物資支援 平壌歯科病院事業本部:平壌第1人民病院口腔病棟再建築支援 農食品現代化事業本部:平壌にカムジャラーメン工場建立推進 教育文化センター HUE :労働者統一教科書制作、平和統一教育への道 * * * 2003年に準備委員会を結成、2004年に発足したキョレハナは、北朝鮮の「支援」を理由に毎年幾度となく北朝鮮を訪問、北朝鮮に財政的支援を行ってきた。2008年には挺対協と共に北朝鮮を訪問し北朝鮮の団体と接触するなど「対北事業」が「本業」といっていいだろう。 ホームページによると2003年から2011年までの9年間に支援した物資だけで総額259億ウォン(約25億円)に相当するという。 もちろん北朝鮮住民を助けるための人道主義的活動を非難するつもりはない。ただ、気になるのは北朝鮮の住民を助けためとして、北朝鮮でいくつもの事業を行っているような団体が、脱北者や北朝鮮住民の人権、核問題について無関心、あるいは北の政権に賛同しているようにすら見受けられるという点だ。 例えば2016年9月9日、北朝鮮が第5次核実験を実施した時、キョレハナは北朝鮮政府を批判するのではなく、断固とした措置を取るとした韓国政府を非難する声明をホームページに掲載した。 また、北朝鮮の人権問題については、「アメリカの人権基準だけで評価してはだめだ」、「北朝鮮の人権を脅かすのはアメリカによる孤立政策」だとして、北朝鮮を批判するアメリカを批判しているのである。 日本の左翼系市民団体とも連携し 大阪の政権反対集会や沖縄の辺野古も訪問 彼らの「韓国外」活動は北朝鮮だけに留まらない。彼らは日本の団体とも連携し活動している。日本では「同胞一つ」という団体名に翻訳、紹介されているキョレハナは、日本国内のいくつもの団体と交流を持ち、集会などにもしばしば顔を出している。 例えば、キョレハナの大学生組織「大学生キョレハナ」の会員たちは、2016年10月には安倍政権打倒、辺野古基地反対を掲げる大阪の「団結まつり」に日本の市民団体会員たちとともに参加している。 この時交流した日本国内の団体にZENKO(平和と民主主義をめざす全国交歓会)がある。彼らの活動内容は日本の左翼組織、民主主義的社会主義運動(Movement for Democratic Socialism、MDS)のホームページにも詳しく紹介されている。 また、2016年3月にキョレハナが企画した沖縄ツアーでは、在日韓国人2世の徐勝教授(立命館大学特任教授)が参加者たちを連れて沖縄を訪問し、辺野古基地反対運動の現場を訪れている。京都出身の徐勝教授は韓国に留学していた1971年、国家保安法違反容疑で逮捕され、懲役19年の実刑判決を受けた「学園浸透スパイ団事件」で知られる人物である。 実は韓国マスコミも今回の少女像設置を主導した市民団体については具体的な報道をしていない。このため、一般的な国民はただ「慰安婦を支援する団体」と認識するだけで、その団体の設立目的や主要活動が「北朝鮮支援」だということには気づいていない。 これは日本も同じ状況だと思われるが、両国のマスコミは彼らの「副業=慰安婦像設置」だけではなく、「本業=北朝鮮支援」、そして連携している 日本の団体についてもちゃんと国民に事実を伝えるべきだろう。 現在、韓国は政治、経済、文化等、全般的政局運営に影響を与えたという疑惑が持たれている「崔順実スキャンダル」で大混乱に陥っている状況だ。マスコミの報道だけ見ていると、まるで崔順実が韓国のすべての物事を操っていた全知全能の存在であったかのようにすら思えてくる。だが、実際のところいくら崔順実の権力が莫大なものだったとしても「外交」においてはどうだろうか。 少なくとも私には、影の実力者と言われている崔氏より日韓両国の外交関係を険悪な状況に陥れ、両国民間の心理的距離を広げたこの「市民団体」の影響力の方が恐ろしく思えてならない。崔 碩栄 (ジャーナリスト)
2022.02.12
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学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (12) 2022-2-11 (はんぺん)これは、今から7年前、2015年3月に僕がリタイアした時に、これから人生総括を・・・・という立場で、いくつかの覚え書きを書いてきた時のモノ。PCの片隅に保存していたモノで、記録用として、今回アップした。 したがって、これまでの(つらつらと・・・)と重複する部分が大半だが、7年前の文章だが、今でも僕にとっては有効だ。(というか、ほとんど変更することは無かった)この文書は、リタイア時に、何人かの(元同志)たちにも配ったことがある。 ベトナム、安保、大学改革・・・など、あの時代の高揚した雰囲気を、今の学生たちは、感じることはできないでいる・・・それだけ時代は変わったということだろう。 それにしても、あの時代についての記録が少なすぎると思うのは、僕だけだろうか?団塊の世代と言われた多くの学生が、闘争の後、知らん顔して一般社会に潜り込んでいったが、(総括)無しのいい加減な人生には、あきれ果ててしまう。 (反省する勇気)の欠けた面々の人生には、僕は「異議あり」と叫びたい。皆さんは、どう思われるか? (はんぺん)――――――――――――――――――――――――――――――覚え書き・・・老前整理 2015-2-11 (はんぺん)40年前の大量の資料をチェックしている。いつまでも持っているわけにもいかないので、処分する方向だ。「老前整理」である。とくに学生運動にのめりこんでいた当時の資料(主には各派のビラなど)が、大量に残っている。長い間、「封印」してきたものだ。こんなに長く、いつまでも持っていた人間は、恐らくいないと思うし、よっぽどの物好きかと思われそうである。 昨年には、「部落解放」誌、「「解放教育」誌など数百冊を、可燃ごみに出した。社会主義協会発行の「社会主義」「まなぶ」なども数百冊、段ボール箱で10~15箱分処分した。「労働運動関係」の書物も、数百冊ほど、処分。共産党の「前衛」などは、希少価値のありそうな戦後まもなくのものや70年安保当時のものも多くあったが、これらは、地元の共産党市議を通じて、共産党市委員会に寄贈した。ぼくは、良くも悪くも、コレクターだったわけだ。もちろん しっかり勉強も させてもらった。 いよいよ今回、一番最後まで、持っていた、学生運動時代の資料に手を付け始めた。資料をめくったり、当時のノートを見ていくと、68年から70年の6月23日までの市大の学園闘争が、思い出されてきて・・・感慨にふけることになった。ぼくのささやかな青春のかなりの部分を占めた学生運動。その後の自分の人生を方向づけたものでもあった。最初に、僕にきっかけを作ってくれたのは、民青の友達。S高校2年生の時、同級生の中に、民青S高校班に所属しているN君から、モーレツな(ベトナム)反戦オルグを受けた。このオルグが、ぼくの人生を決めたといっても良い。今になって思うに、彼には、もっと感謝してよかったのかも・・・・・・大きな価値観の転換を迫られ、ぼくは、最終的にそれを受け入れる。民青の集会にも行った。当時、ベトナム反戦運動が、世界的規模に広がりつつあって、小田実たちの「べ平連」がノンポリを加えて、大きくなっていた。何度も「ベ平連」のデモと集会に参加するようになる。進学校でもあったS高校は、府下でも有数のリベラルな校風があって、自治会は、民青が握っていたが、それに中核系の「反戦高協」が、対立する。サークルでは、反戦高協が、社研(社会科学研究会)、民青が、平和研(平和問題研究会)という具合で、部室は、隣り合っていたのが・・・おかしかった。ぼくは、行き掛り上、どちらのサークルにも席を置いていたが、次第に、反代々木の心情トロ(トロキズム)に傾いていった。社研では、キェルケゴールの実存主義をテキストにした学習会が印象に残っている・・・・が、はっきり言って難しくて、よくわからなかった。共産党のやり方には、違和感を覚えていて、高3になってからは、「反戦高協」のデモに良く参加するようになった。「ベトナム民族解放戦線と連帯するぞー」「佐藤内閣を打倒するぞー」と、よくやったものだ。 これで、受験生活には、多少の刺激にはなったが、成績は落ちた。 進学校のS高では、できる生徒は、京大へ(当時、毎年40人ぐらい)、その次のランクが、阪大へ(毎年120~150人か)。ぼくは、その次のランクの市大へ(毎年40人ぐらいだったか)、その次が、府大・・・という具合。国公立をミスしたものは、関大(150人以上)関同立・・・・という具合。当時、近畿大などは、最後の最後で・・・・お金があって、成績の良くない生徒たちの溜まり場だった。(今は、時代が変わって・・・・近大に入るのも、なかなか難しくなっていると聞いている。) 進学相談の時、高3担任教師に「学生運動するために市大に行きます」と言って、イヤな顔をされた。この担任が、共産党の党員であったことを僕たちは、知っていて、ワザとそう言ったのだが・・・先生のほうは、反代々木系(?)であった僕たちに対しては、「怖がって??」何も言わなかった。 社会党系の大阪日教組の中でも、府高教は、日共系として有名で、S高の教師の中にも党員教師は、何人もいた。(蛇足だが、たまたま?僕の高3の担任が、後日、「出世」して、府高教の中執役員になったのを知って、ちょっと驚いたものだった) もともと、関西の学生運動は、昔から京大と市大がダントツに有名で、(これは、60年安保や65年の日韓闘争などからみても明らかであったが)、関西全体の学生運動をけん引するのなら、京大のC(教養部)自治会と市大の全学自治会を取る(多数の中執を握る)ことが基本中の基本で、阪大・神戸大などの「お坊ちゃん大学」は、はなから、期待されていなかった。 市大の学生運動は、その活発さから、昔から有名だった・・・・・ここは、最初から、ぼくの第一志望だった。 ちょうど67年の10.8佐藤訪ベト阻止の羽田闘争と京大生・山崎君死亡のニュースは、高校3年生だった僕たちを、とても興奮させた。 その一方、同じ日に、共産党が「赤旗まつり」を開催していたこともあって、当時の学生たちに「闘う新左翼、闘わない共産党」という印象を与え、新左翼の過激な闘争が、その後の日本の学生運動の中で支持を広げることになっていく。 68年1月のエンタープライズ寄港阻止の佐世保闘争では、それに呼応して、高3の僕たちも、大阪で果敢にデモに参加した。僕たちを夢中にさせたものは、何だったのか? 今から考えると、受験体制にずっぷりつかり続けることへの反発?もあったし、平和憲法を持っている日本が、ベトナム戦争に協力(実質参戦)していることの不合理への反発もあっただろうし、もっと言えば、あまりにも平和ボケしている日本社会総体への無意識的な怒りの衝動が あったのではないか・・・とも思う。 それと、今から思うと、おかしなことだが、(狂気)と言えるものも・・・・あったとも思う。 今回、処分を考えている資料は、68年4月の市大入学から、70年の6.23安保までの市大学園闘争で、収集したもので、かなりの量になる。2年間ほどの短い期間ではあったが、あまりにも多くの、いろんな出来事があった・・・ありすぎた。 授業を真剣に受けた記憶は、本当に少ない。各種の授業は、ビラとアジテーションの場で、最初の10分間ほどは、机の上にビラをまいた後、演壇の前で、演説をぶつ。闘争参加の呼びかけ・・・というわけだ。 担当教官は、よく心得たもので、その間は、おとなしく、隅で演説が終わるのを静かに待っていてくれる。暗黙の了解が、あった。各派の活動家は、そんな按配で、ほとんどのクラスに入って演説をぶった。 それが終わると、教官に演壇を譲り、教室を出て、意気揚々と「アジト」に引き揚げるか、アポを取った学友と、教養部キャンパスの芝生の上か、近くの喫茶店で「オルグ」をする。場合によっては、相手の下宿まで、押しかけてのオルグも。僕たちは、授業がある限り、午前も午後も、クラスに入ってアジったものだ。 頻繁にデモや集会があって、それに向けての闘争体制の構築(立て看板作製、ビラ作成、終わりの見えないオルグ活動など)で、いつも、フラフラだったと思う。幸い、ぼくは、小さい体ながら、よく耐えることができた。 扇町公園からの中郵コースのデモや御堂筋デモなどでの機動隊の規制は、当時から、結構厳しく、ジグザグデモなどで、「こずかれたり」して、結構、仲間が負傷したりしていた。逮捕者が出たこともあった。 68年4月に入学後、しばらくして、まず、オルグされて、部落研というサークルに入った。同時に、あるセクト(学生同盟)に入って、活動を始めた。高校生時代からの興奮と期待は大きかったが、実際に大学に入って、各派のオルグを受けていく中で、展望のないトロキスト各派や民青(共産党)の方針には、大きな違和感を感じていた。 トロでもない反代々木系といえば、構造改革派のいくつかのグループがあって、その中の一つに参加(加盟)した。大きな方向としては、間違ってなかったと、今でも断言できる。 しかし、そのグループは、僕が入学する少し前に組織分裂したばかりだった・・・・が、ぼくが活動していた2年ほどの間に、またまた大きく分裂することになるとは、夢にも思わなかった!!! 他党派との対立でも、気の重い出来事が続いたが、自分たち仲間内で、対立が起こり、分裂するなんて・・・・消耗すること、この上なし!!!イヤーな問題を抱えながら、何とか、70年の6月23日のピーク闘争(学内総決起集会、全関西学生総決起集会、そして御堂筋デモ)に参加して、その日、僕は、同盟から離脱した。 デモからの帰り道に、同学年の仲間に、そのことを告げたとき、彼は、引き留めようとしたが、ぼくは、振り返らなかった。決意は、硬かった。この判断は、間違っていなかったことが、あとでわかる。 数年後には、分裂相手側のグループ内で、再分裂があったこと、自分たちがいたグループとのゲバルト(内ゲバ)が、何回も、繰り返されたことを、ある方面から知らされ、苦々しい思いで それを聞いた。 多量のビラには、多くの思いが詰まっている。45年前のビラでも、きちんと保管すれば、結構、読めるもので、懐かしい。当時は、ガリ切りで謄写版印刷。いつも、深夜の印刷作業で、両手は、いつもインクまみれだったのを、覚えている。これらのビラを見ながら、かっての「同志」は、今、どうしているのだろうか・・・・と考えることがある。 同盟を離脱するということは、同盟からすれば、「日和見主義者」ということになる。向うから、連絡が来ることは、一切ない。そういうものだ。共産党員が、離党すれば、今では、そんなことは言わないが、戦前なら、「裏切り者」「反党分子」ということで、制裁の対象にもなった。 天皇制軍国主義と闘う時代には、そのような、軍律ならぬ「党律?」も必要だったのかも。連絡が来ないことは、脱盟が、確定したということで、僕にとっては、都合がよかった。しばらく、外の違った空気を吸いたかった。 全共闘の大学封鎖=大学解体路線のため、大学の機能マヒが1年近く続く中、ぼくは、「留年」を決めて、普通の学生に戻る。少し授業も受け、国内一人旅も。同志社大の友人と韓国や台湾をユースホステル旅行もした。翌年には、イギリスの保養地ボーンマスでのホームステイも。そして、そこで伴侶を得た。 大学生活の後半は、違った意味で、僕の将来を決めることになったわけだ。 73年3月末、5年間の学生生活に終止符を打ち、無事、卒業。社会人になってからも・・・・いろいろ、ありすぎるぐらい・・・・いろいろあった。 少し前から支援してきた日本社会党に、73年正式入党し、96年に3分裂するまで、25年近く、上田・谷畑選挙をはじめとして、おびただしい各種選挙に関わったこと、就職先の同和向け教育施設で、「狭山差別裁判反対! 石川青年取り返そう!」と子どもたちと一緒に闘ったことも・・・・ しかし、僕の人生の大きな方向が、この68~70年の2年間強の学生運動で決まったことは・・・・間違いない。 ・・・老前整理は、続行中だ・・・・・
2022.02.11
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学生運動時代の思い出を、つらつらと⑪・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない?遅すぎる? 2022-1-29 (はんぺん)つらつら・・・思う。学園闘争、70年安保などを前にして、当時、シビアな党派闘争が展開されている中で、DSL全国委員長が、京大のSさんに変わっていたことは、DSLにとっては幸いだったと思う。京大は、関西でも、潮流間闘争がもっともはげしかったところで、多くのセクトがしのぎを削っていたようだ。 とりわけ、トロツキストたちによるゲバルト(暴力)が横行し、自派の集会やデモなどは自力で防衛しなければ、運動を創れないという、状況だった。この状況に耐えて、DSLの旗を守り、組織建設強化を成し遂げてきたのが、京大のS委員長だった。 その点、大阪は、まだ平和で、ゲバルトも、そう顕在化していなかった。以前の全国委員長が、阪大のYさんだったが、仮に68~70年の激動期には、おそらく全国指導は、できなかったのではないか? と想像する。 2回生の時(1969年11月)、僕は、外人部隊として、市大から阪大に出動した経験があった。なんでも、少数の中核派により、DSL阪大支部の同盟員が、負傷したという・・・ 市大や京大の外人部隊が、応援に駆け付けたのだが・・・後から思えば・・・・・あの大量の同盟員を抱えるDSL阪大支部が、なぜ外人部隊の応援を必要とするのか・・・??ということ。 この時は、多くのクラス決議を上げて、中核派を孤立に追い込む作戦だったようだが、少数の暴力学生に対して、有効に対処できなかった多量の同盟員を抱えるDSLって、一体なんだ・・・と後で思う。 というか、ルールを破る暴力に対しては、こちらも暴力で対峙するしかない・・・という考え方が、DSLには無かったようだ。学生版「非武装中立」で、暴力反対・・・(話せばわかる、暴力は止めろ・・・)ぐらいの対応しか出来なかったのだろう。 戦争と同じで、相手の有ることだから、いくらこちらが話し合いを求めても、問答無用に殴ってくる場合、自衛の対応がとられて当たり前だと思うが・・・そういう党派闘争に無縁の(おぼっちゃん学生同盟)だったということだ。 68年から、次第に緊張増加の一途の学生運動だったが、S委員長の全国指導は、僕には的確だったように今では思う。全共闘の実感主義(暴力路線)、民青のセクト主義の、狭間にあって、DSL独自の組織・隊列を守り続けた。(70/6/23以後の事は知らないが) おそらく当時の阪大では、相当な(ぬるま湯)に浸かり続けていて、クラス活動よりも、サークル活動に忙しかったのだろう・・・と推察する。だから、緊急時に、動員が利かず、外人部隊に頼ることになった。 同じことは、DSL市大支部でも・・・68年3月のDSL第1次分裂の際には、多くのクラス活動家を、DSL(共労党系)に持って行かれて、こちらは、社研、部落研、文研などのサークル員が多かった。 5月の自治会中執選挙では、クラス活動家の多数を擁するDSL(共労党系)が、圧倒したのは、当たり前で、特に(組織票)が、圧倒的に多かった!!きちんとしたオルグ活動が、なされていたということだ。 サークル主義的偏向は(今、目の前にある危機)には、充分に対応しきれない。阪大の場合もそうだったし、市大中執選挙でも、戦力的には、充分な力を出せなかった・・(実際、当時の文学部内の同盟員の数は、DSL(共労党系)の文学部内の同盟員の数を圧倒していたにも拘わらず、我が派の期待の星のIGUさんが、落選。DSL(共労党系)の‘質の悪い‘MORが、当選している) 同盟員の数は多くても、充分に戦闘的に鍛えていなければ、指導性を発揮するのは、難しい。阪大支部を見ていて、70年安保闘争では、大学統一集会、デモを追求するあまり、相当アナ―キズムに妥協して、隊列を繰り出しているように見られた。(運動の高揚期には、それなりの数は出せる) 60年安保闘争後、全国的に学生運動が退潮期に入る中で、民青が席巻する時代になるが、(諸要求主義)もさることながら、歌声運動、セツルメント、部落研などのサークル主体であることが特徴的だ。平和な?時代には、じっくり時間をかけてのオルグも可能だから、日本共産党という全国組織のバックアップも受けて、順調に組織を伸ばした。 しかし、この民青も、68~70年の激動期という(今、そこにある危機?)には、彼らは対応出来ずに、ウロウロするしかなかったのだ。この激動期に、同じサークル主義で対応しようとしたのが、DSL(声系)の分派グループ(後の新時代派)だった。 集会、デモ、学生大会などの同盟の緊急行動提起(機関活動も)に、サークル活動等を理由として、出てこない・・・そういう事態が続いて、同盟内の不信が増大していった。渦中にいた僕には、ようくわかる。 僕は、部落研にも所属していたので、時々部落研BOXに寄ったものだが、部室にデンと構えた同じ同盟員を見て、状況的に照らして、相当な違和感を感じたモノだ。そこは、キャンパス内で拡声器で宣伝活動したり、クラスに入ってのアジ(演説)、芝生の上や喫茶店でのオルグ活動とは、まったく異質な空間でもあった。 党派間対立がシビアになればなるほど、サークルに閉じこもって出てこない(未結集)同盟員に対する不信感は募るばかりだった。同盟の第2次分裂は、そのあたりが一つの原因であることは間違いない。
2022.01.29
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学生運動時代の思い出を、つらつらと⑩・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない?遅すぎる? 2022-1-23 (はんぺん)相当昔に読んだ「二十歳の原点」を 今回読み返してみた・・・青年期には、大きな価値観の転換が起こると思う。学校教育、家庭教育、友達関係などで、人間がつくられていくが、それは人間形成の第一歩だ。基礎教育内容や親・友達の影響が、大きいのは、間違いない。 それが、青年期には、強制された受験体制や親の価値観にも挑戦する反抗期に入り、新しい恐ろしいほどの急激な価値観の転換が起こる。「二十歳の原点」は、青年期の動揺が、詳細に書かれている。 肉体的には、性ホルモンの分泌が活発になり、性(男女関係)を意識せざるを得ない年代でもあり、それも価値観の転換の一部だろう。 山崎博昭も、高野悦子も含めて、多くの青年がたどった自然な発達段階の道であり、極めて不安な時期でもあると思う。 高野悦子の「二十歳の原点」は、そんな青年期の不安定な動揺の時期の思いを、正直に飾らず記されているところに(価値)があるのではないか。 価値観の転換の前には、多くの青年たちは読書をしている。僕の場合は、中学2~3年の時期から乱読した。全共闘の活動に入る前の高野は、それなりに読書していることが日記からわかる。 多くの本から、多くの価値観を知ることが出来るが、知識として知ることが出来ても、実際の人生経験、社会人としての社会生活がない・・・せいぜいのアルバイトでは、まだまだ(青2才)なのだろう。 高野だけではなく運動に入ってからは、多くの青年は本を読むことすらできない環境に置かれる。必死になって読書に取り組もうと意識しながら、実際には、満足に読書できずに、(言葉の遊び)に堕していった。高野も同じ。 高野については、「二十歳の原点ノート」(中学~高校)、「二十歳の原点序章」(高校から立命大時代)、「二十歳の原点」(立命大時代)、の3冊が刊行されているが、死に至る「二十歳の原点」には、(特に革命的空文句)が、多く出でてくるが・・・僕の高校3年生を思い出す・・・・ 「人民よ、立ち上がれ!」「占拠せよ!」(1969.5.1)「進撃せよ!」「解放区をつくれ!」(1969.5.1)「闘争勝利!」(1969.4.28)「御堂筋占拠をかちとれ!」(1969.6.15)「階級闘争あるのみ!」 言葉が飛んでしまって、足が地についていない。中核派などから盛んにオルグされたようだが、オルグされたときの言葉や、アジビラで覚えたカタコト用語で、自分を奮い立たせようと もがいている感じ・・・で、これは、自分をごまかしているという事だ。 読んでいると、腹が立ってくるほどに、言葉に酔いしれている。自分にムチを当てているつもりなのだろう・・・・僕の昔の高校3年時代を思い出す。あの時とそっくり!!! あまりにも、アジビラやオルグされた言葉を、自分で消化できずに、そのまま綴られている日記・・・僕には状況はわかるが、予断と偏見で洗脳された(青2才)の悲劇としか思えず、悲しい。 そう(青2才)が(青2才)をオルグしたのだから・・・(観念の中での妄想)で、何を得られたのだろうか? 散りばめられた空疎な空文句の羅列には、洗脳された若者の地獄が見えるように思えるのだ。 「日本史闘争委員会と行動を共にしよう。闘いはここにある!」(1969.4.28) 「サンドイッチ規制のデモのみじめさ」(1969.4.29) 「思い起こせ あの4・28の御堂筋デモ!権力にはさまれて身動きのとれぬデモ、あの屈辱感をわすれたのか。東京においては975名の逮捕者。自由とは闘いとるものなのだ。(1969.4.30)「いかなる状況が出現しようとも、私には後退が許されていない。私にとって清心館バリは、私の思想性をかけた闘いである」(1969.5.19) 「私のこの感性をさらに論理化し、さらなる感性を創造せよ! 肉体的な衝撃は、わたしそのものにぶつかり、入り込み、私自身のものとなる。しかし私はまだそれを、己自身のモノとしていない。民青の⦅カエレ⦆のシュプレヒコールの中の緊張から、5・1のメーデー会場で民主化棒(注:民青の)でなぐられた衝撃、5・21の弾劾集会のときに足でけられた衝撃、さらに5・23機動隊の棍棒で顔を殴られ、髪を引っぱられたときに私の肉体が受けた衝撃、署に連行される時のパトカーのうるさいサイレンの響き」(1969.5.27) (官憲の導入を受けての抗議デモの最中に、立命大当局を擁護する民青行動隊の「民主化棒」で、殴られ怪我したことを受けて)「日共は、権力と同盟関係を結ぶほど卑劣なのである。日共は日和見なのでなく、「反革命」なのである」(1969.5.28) 愛知訪米阻止!70年安保粉砕!学園闘争勝利、大学解体、全学バリ貫徹、清(心館)バリ貫徹!日共民青粉砕!沖縄闘争勝利!独習せよ! そして論理を! (1969.5.29) 「訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい。私自身の受けるもの、あせり、いらだち、虚無感(デモの最中の)、ますます広がる混沌さ。論理化を!論理化を! 」 (1969.5.30) (中略) 「今日、東京に行ってくる。姉と話し合い、家族との訣別をつけるために。」(1969.5.30)「機動隊に現わされている国家権力は、私の明確な敵である。私はその物理的な力に対し 物理的な肉体をもって闘ってゆく。留置場にぶちこまれ自由を剥奪されようとも、とことんまで対決を行うつもりである。」(1969.6.14) 「1時から6.15闘争報告会がある。私は行かない。なぜ? すべてに失望しているから。アッハハハハハ。きのう機動隊に殴られて赤くはれている。人々は、またどうしたのと聞くだろう。うるさい人たち。それにしても、右のほおのアザと赤い鼻と。・・・」(1969.6.16) 「人は、何故生きていくのかって考えてみました。弱くて醜い人間が、どうして生きているのかって思いました。私は、この頃しみじみと人間は永遠に独りであり、弱いーーそう、未熟という言葉がありますーーその未熟なのに、いやらしいエゴを背負って生きていくのかって思いました。私もどうして生きてるのかと思いました。つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようとして生きているのだと、今思いました。・・・」(1969.6.18)「自己創造を完成させるまで、私は死にません」 「自殺は、卑怯な者のすることだ」(1969.5.13)「怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思いあがりはない。自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけである」(高野悦子)と言いながら「アナーキズムに人間本来のあるべき姿があると思うのだが、しかし一切の人間を信じない独りの人間が、一体 闘争などやれるのだろうか?やれる筈がない。」(1969.6.21)・・・・これは、自殺の2日前の日記だ。 生きてる 生きてる 生きているバリケードという腹の中で 友と語るという清涼飲料水を飲みデモとアジ アジビラ 路上に散乱するアジビラの中で独り 冷たいアスファルトにすわり煙草のくゆない煙を眺め生きている イキテイル (1969.6.22) 機動隊になぐられ 黒い血が衣服を染めよごしてもそれは非現実なのか!おまえは それを非現実というのか!しかし何といわれようと 私は人を信じていないのだ! 警察官総数八万四千人十万の人をもってすれば警察官は打ち破れる自衛隊員の総数二十五万人三十万人の人をもってすれば自衛隊は打ち破れるしかし その十万人の人 30万人の人とは一体何なのだ (1969.6.22)1969.4.30の日記から・・・「機動隊員を殺すにはどうしたらよいか。そのためには民青を殺す必要があるのかを考えてみよう。「ろくよう」(注:喫茶店)にいるとき、隣の学生が言っていた。バリケード、留置場にいるときが一番生きがいを感じると。法政大に機動隊が入り、日増しに弾圧が強まっている」(1969.4.30) 1969.6.22 自殺前夜の日記から・・・日付が変わっての深夜、決行「このノートに書いているということ自体、生への未練がまだあるのです。ところが、では生きていくことにして 何を期待しているかといえば、何もないらしいということだけいえる。私が死ぬとしたら、ほんの一寸した偶然によって全くこのままの状態(ノートもアジビラも)で死ぬか、ノート類および権力に利用されるおそれのある一切のものを焼き捨て、遺書は残さずに死んでいくかのどちらかであろう。」(1969.6.22) (中略)「睡眠薬にうちかって眠らずにいることができるかどうか、いっちょ試してみっか」(中略)「二十分たったというのにまだ眠くならないのだ。12時5分であります。(中略)「二十錠のんでも幻覚症状も何もおこらぬ。しいて言えば、口と胃が重たくなった程度。こんな睡眠薬ってあるだろうか。といって恐れる気持ちなどサラサラない。本当に何もないのだ。(中略)「何もないのだ、何も起こらないのだ。独りである心強さも寂しさも感じないのだ・・・」「雨が強く降り出した。どうして、この睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールの方がよっぽどましだ。早く眠りたい。2時30分、深夜。」(1969.6.22) 「高野悦子⦅「二十歳の原点⦆案内」からhttps://www.takanoetsuko.com/sub19690624.html このあと、夜中の午前2時ごろ、高野は、「ちょっと外出します」と声をかけて、下宿(川越宅)を出たとされる。この声を耳にしたのは、下宿の隣の部屋の人である。当時、京都はすでに月没していたため、月の光はなかった。ただ雲がなかったため、星空だったと考えられる。午前2時20分ころ、下宿の近くの国鉄・山陰本線(現、JR西日本)を貨物列車が通過した。この後、高野は山陰本線の軌道上、または軌道付近を西に向かって進み、無人の天神踏切から軌道内に入りさらに西に進んだ。 京都梅小路上り864貨物列車(蒸気機関車)が接近した。天神踏切の西約20ⅿ付近を歩いていた高野悦子は、急に線路を枕にするように伏せた。貨物列車は急ブレーキをかけたが間に合わなかった。 午前2じ36分、高野悦子は死亡した。京都府西陣警察署の調べによると、頸部損傷等による即死だった。高野悦子が最後に耳にしたのは、蒸気機関車のけたたましい警笛と猛烈なブレーキ音だったとみられる。――――――――――――――――――――――――――――― 高野悦子は、絶望的な学生運動(革命?)に悲観して展望を見失ったことと同時に、失恋の痛手も相当なものであったことが、日記には出てくるが、そのことは、今ここでは書かない。 ただ、異性に奥手の高野悦子に、僕と共通するモノをすごく感じた。
2022.01.23
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学生運動時代の思い出を、つらつらと⑨・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない?遅すぎる? 2022-1-21 (はんぺん)⑧からの続き。(1968年、今から53年前の青2才=(はんぺん)の稚拙な日記から)7/18 長い間、日記をサボっていた。7月1日に学長談話が出た。6月28日のあの事件以来、DSL(共労党系)の諸君は、官憲の学内侵入を予想して、学内に泊まり込んでいるという話だった。これは、本当だ。 7月10日から、夏休みに入った。そして夏休み1日目の7月10日早朝、ついに来るべきものが来た。官憲の学内導入が行われたのだった。市大創立以来初めてという、この不祥事について、我々大学人は、深刻な反省を要求されている。 7月9日から10日にかけて、「DSL(声系)市大支部学習会」が行われた。それで、9日から我々は⦅藤沢会館⦆に宿泊していた。10日早朝5時前に電話がかかり、全員まだ半信半疑だったが、飛び起きてすぐ市大に駆けつけた。 市大に着いたのは、6時ごろ。警察や私服が、専門の構内や、専門(部)と教養(部)の構内を⦅現場検証⦆していた。 我々は、民青やDSL(共労党系)やトロ(トロツキスト)を中心とした抗議デモに加わったが、その時、社学同の西浦君が逮捕された。(注:西浦は、社学同市大支部のキャップで、この6.15闘争の市大での中心的役割を担った張本人) 現場検証が終わって官憲が帰ると、すぐさま抗議集会が行われた。そこで学校側の説明があった。 我々は、いったん(藤沢会館)に帰って、「大学の自治」についての討論をやる。学校側は、あわただしい動き。大学協議会やその他 教授会などがさかんに開かれたらしい。2時ごろから410号(教室)で、(抗議集会)が開かれた。4時まで。 DSL(共労党系)や民青が、激しく大学側に抗議する。我々DSL(声系)は、学校側の措置については「7月1日の学長談話の基本的な方向に、学校側の最大限の努力を十分認めるし、又その意味で、やむを得なかった」との見解。 とにかく既成事実を作られたことは、非常に痛いけれども、それは、社学同はもちろん、我々大学人も大いに反省する点があるだろう。 7月10日、夕方から部落研の「全青カンパ」、京橋にて。7月11日、2時から抗議集会。前日に引き続き、学校側と学生側との討論。410号室にて。4時まで。その後、部落研の子供会(活動)に行く。7月12日、夕方から京橋駅にて、「全青カンパ」。7月13日、DSL主催の「民主主義学生交歓会」がある。場所は高野山。全国から、DSL同盟員やシンパが集まってくる。8時にナンバに集合した市大・京大・阪大etcの同志は、南海電車、ケーブル、バスで高野山の無量光院という宿泊所に行く。。志賀義雄氏は、身体が悪く講演は無かった。各支部の報告、阪大、市大、近大、京大、東京理科大、明治大etcの報告。我が市大からは、20名近く参加した。14日、小野義彦市大教授の講演がある。3時解散。 7月26日 7月18日から7月22日まで、部落研の合宿があった。場所は、愛知県北設楽郡津具村学生村。22日に帰る予定だったが、僕は23日まで残って、社研と一緒に帰った。学習会の内容は、「経済学教科書第1分冊の第3章」とプレハーノフの「歴史のおける個人の役割」それに「同対審答申」について。23日は、「MLの基礎第3分冊」を社研でやった。普段、家でやらなければ・・・と思いながらも やれないでいるので こういう所にくると非常にはかどるので良かったと思っている。 7/26 きょう、京橋にて「原水禁カンパ」。S(文学部)、IMG(法学部)、IGU(文学部)、TE(文学部)それに僕(法学部)の5人。O(家政学部)もちょっと顔を見せた。昨日、25日、部落研の子供会に行った。T,H、Y,W,Sさん、それに僕が参加。8月2日 7/28~30の間に、DSL(声系)の原水禁カンパで、京橋に2回行った。31日は、原水禁カンパに、アベノ前にての学生同盟の活動に参加。この日、IMさんに(DSL)の「加盟申込書」を(正式に出した)。 (1968年、今から53年前の青2才の稚拙な日記から、一部省略) 7月10日の官憲による学内捜索は、市大創立以来の衝撃的出来事ではあったが、今から考えると(官憲の導入)は、避けられなかったし、そのことで、大学側は拒否できなかったし、受け入れざるを得なかった・・・と、今では思う。 我々は、(なぜ、官憲の導入を認めたのか?)と、大学側の対応を激しく非難したが、学生たちが、主張の是非はともかく、御堂筋で暴れまくって市民生活に混乱をきたしたのであるから、刑事的処罰を受けるのは当然であり、過激派学生たちだけを(特別扱い)する理由は無い。 学生たちの(甘え)を増長させることは、あり得ないし、社会的存在としての公教育のトップ機関の使命からして、犯罪捜査を容認するしか無かったのだ。 本当に抗議すべき相手は、社学同(ブント)たち(過激派)であり、彼らの実力闘争を防げなかった我々自身であったという事。 しかし、その暴力(ゲバルト)を許した我々は、その(攻撃?)のほこ先を、(物理的に強力な官憲を糾弾しながらも)、(物理的に弱体な大学側、学長や教授会)に向けるという、卑劣なパターンを地で行ってしまった・・・・・ この時点で、(学問の自由)は、すでに無かったことが、その後の市大闘争の中で明らかになっていく。 それにしても、それまで(いがみ合っていた)民青もトロも我々も含めて、全学生が抗議デモに立ち上がったことは、驚きであり(異様)でもあった。その後の学園紛争!の中では、おそらく見られなかったことではないか? それだけ1968年時点での市大、いや全国を取り巻く(平和な)景色ではあった。 53年前にあった信太山の(藤沢会館)は、検索すると今はもう無い。壊されて 「大阪市立信太山青少年野外活動センター」と大阪市の建物に変わっている・・・ 7月10日の夏休み入りを見越した官憲の学内捜索に、学生側は大した(反撃)もできず、いたずらに大学当局を責め立てるしか手段は無かった。かなりの学生は、実家に帰っていただろうし、その後の抗議活動も、まったくさえなかったように思う。 DSL(声系)のバックボーン?の森信成、小野義彦各教授を擁する市大当局に対する我々の追及の矛先が鈍かったのは、今となっては、そう思う。その反面、日本共産党から除名された両教授を民青(共産党)が、トロツキストたちと一緒になってシャカリキに追及していた。特に、森信成先生に対する当たり(追求)は、激しかったと記憶する。 高野山の無量光院は、昔から有名な宿坊。高野山に観光で来てもホテルは無いから、すべて宿坊に泊まることになる。53年前の記憶は、残念ながら全く無い。 「全青カンパ」・・・「全青」とは、「部落解放全国青年集会」のこと。部落問題研究会の取り組みの一環だった。市大入学後、すぐ「部落研」(DSL声系)に勧誘(オルグ)された。当時は多くのサークルが、党派系列に色分けされていて、表面上は(誰でも歓迎・・・)だったが、運営はセクト(党派)のフラクション(大衆団体内に設けられたセクトの集団)が、握っていた。 「部落研」(部落問題研究会)も「社研」(社会科学研究会)もDSL(声系)で、身内同士で同じところで(合宿)をしたのだと思う。当時は、よくわからなかったが。(部落研の合宿は、7/18~7/22。社研の合宿は、7/19~23) 合宿から帰ってから、生まれて初めてバイトに、集中的に取り組む。8月4、5、6日の広島の原水禁大会のため。 入学後の学生生活・学生運動は、ある程度の覚悟はあったというモノの、想像以上の激動に翻弄されまくっていたというのが真実だ。先進的であろうと背伸びしながら・・・僕は(闇)の中にいた。
2022.01.21
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学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (8) 2022-1-13 (はんぺん)中執選挙の結果、少数分立となり、何事も決定できなくなる。機能を喪失した中執の代わりに、次の決定機関、代議員会があり、各派が代議員選挙に突入していくが、実際のところ、この代議員会も、開催されたことはあったが、セクトの怒鳴り合いばかりで、何も決定できなかった。 ―――――――――――――――――――――――――――――(以下、1968年、今から53年前の僕の稚拙な日記から)6/18(火) 起床3時ごろ。昨日、早く寝たので早く目が覚めた。それで15日の分から、この日記を書き続けている。今日、第3時限目、英語の時間、代議員選挙がある。僕も立候補するが不安だ。(定数)2人ともは、民青にはやりたくない。代議員選挙は、3時間目の英語の時間に行われた。代議員2人は、結局、僕とHRの2人に決まった。HR君(民青)29票、僕26票、YA(民青)14票。HR,YAの2人は民青である。引き続いて行われた学部委員選挙(定数3人)では、意外だったのだが、革新グループ系のMM、MT、そしてシンパのMKの3人が、入った。立候補者6人で争ったこの学部委員選挙。僕は、悪くいくと3人とも民青、もしこちら側(構改派)が、一人でも入れば、文句ないと思っていたのに。MM、MT,MKのほか、民青からはFM,YG,YMの計6人のうち、YGは、絶対入ると思った。直前行われた代議員選挙で落ちたこともあり、同情票もかなり集まると思った。それにしても意外だった。 放課後、YMMさんとHT君の3人で、「大阪4大学交歓演奏会」に行った。阪大の男声合唱、大阪市大・大阪府大・大阪外大のグリークラブとが、きれいな合唱をやった。森ノ宮厚生会館ホール。6:00~8:00で.帰ったのは、10時近く。 (中略) 6/26(水)この間、社学同(ブント)が、6.28ASPAC粉砕の私設ストライキ投票を実施する中、JICクラスでは、16名の署名の下、「クラス有志アピール」を出す。「私設スト投票反対、自治会の民主主義を守れ・学園からの一切の暴力の排除・中執はその機能を早期回復せよ」というもので、いうまでもなく(社学同)の6.28教養ストライキに対する僕たちの意思表明。家に帰ってガリ切り。 6月28日(金)社学同、教養正門にバリケードを築く。工学部階段教室前で「不法スト」抗議集会を開く。市大学友300名が、抗議集会に参加する。社学同のストライキに参加した市大生は、20数名にすぎなかった。 中執選において、彼らブントを支持した学友の多かったこと、又、今回のスト投票におけるブント支持者のかなりあったことを考えれば、それらの学友の無責任さに激しい怒りを覚える。 社学同は、大阪府学連再建準備委員会として、市大で総決起集会を開いて学内デモ。後で聞いたところによれば、京都府学連(社学同系)もバスで、市大に集結。それから御堂筋で、ものすごいことをやった。翌朝の新聞を見て驚いた。 (中略) 6/30(日)昨晩から徹夜で、大学側と学生側との団交があったと聞いた。きょう3時ごろ、学園に行くと、昨夜からの団交のことで、あちこちから話を聞いた。官憲の導入の可能性が非常に強いという。大学側の最高決定機関である大学協議会が、ずっとしばらく開かれていたが、まもなく、学長会見が行われ、ようやく一致をみた。帰宅10時。 明日、全学抗議集会が開かれる予定である。我がJICクラスでも、2限目のドイツ語の時間が休講だとわかっているので、できれば、その時間にクラス討論をして、クラス決議を上げたいと考えている。 (1968年、今から53年前の僕の稚拙な日記から)――――――――――――――――――――――――――――――――6月28日の社学同による、教養部バリストの情景は今でもリアルに思い出される。教養正門には、教室から運び出されたイスや机が山のように積み上げられ、バリケード封鎖されていた。 赤ヘルメットの社学同の連中が、ウロウロしていて、たぶん鉄パイプ?などの武器を携行していて、スト破りに備えていたとの記憶も。 正門は通行できず、端の通用門?から検問を通過しなければならず、一般学友たちは、正門の前の前面道路の周辺でウロウロする。報道関係者だけでなく、見たらすぐわかる私服刑事たちが多数、同じくウロウロしていたのを覚えている。 そもそも、このころの学内の雰囲気は、機動隊の学内導入でピリピリした神経質なモノだった。その後、安保闘争の激化に伴い、あたりまえのように全国的に機動隊が頻繁に導入されていくが、1968年当時の大学を取り巻く状況は、(学問の自由)という建て前を崩される事に対する危機感が優勢だったのだ。 6・28当日、御堂筋で大暴れした社学同たちの(バカ騒ぎ)のため、凶器準備集合罪などの名目での大学構内への捜索は、なんとしても避けなければならなかった・・・ということだった・・・が、実際のところ、大学側の取るべき手段は限られていて・・・無力だったのだ。 機動隊の導入は、夏休み入りで、学生たちが帰郷を始めた時期が狙われた・・・という感じがしないでもない。その分、反発は弱まるだろうし・・・ 6.28事件(闘争とは思えない)の原因を作ったのは、もちろん社学同(共産主義者同盟)であり糾弾されるべきではあるが、ただ5月の中執選挙で多くの支持票を集め、彼らを増長させた市大学生たちにも責任があるのだと思う。 かくも安易に(やりたいことを平気で実力でやり遂げることのできる状況・・・・学問の府、真理探究の場としての大学の自治)なるものが、いかに(不法)に弱いモノであるかが、白日の下にさらされた・・・今から振り返ってつくづく、その思いを強くするばかりだ。この時点で、すでに(大学の自治)なるものは、有名無実に成り果てていた・・・・あの社学同(=トロツキスト=青2才)たちの(大学自治破壊)という犯罪は、万死に値する卑劣な人間の所業だったと確信している。
2022.01.13
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学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (7) 2022-1-10 (はんぺん) 前回6.15御堂筋デモの記述の中で、「5知識人アピール」のことを少し書いた。(組織問題)は保留して「課題の一致」に基づく「行動の統一」という呼びかけだったが、ベ平連などの緩やかなグループについては、効果はあったが、ことセクトが絡んでくると、一筋縄ではいかなくなる。 このアピールに欠けているもの、それは「戦術の一致」・・・は、当時から気になっていたが、現実問題として難しかったとも思う。それまで主流だった全員加盟制自治会や府県学連が正常に機能していれば、集団ごとに(戦術)は、決められることになり、是非は別として、それはそれ・・・だと思うが、68/6/15の御堂筋デモの時の市大のように、学生自治会が(小党分立で)機能を失っているにも関わらず、大学単位で行動する場合、トラブル発生は避けられなかった。 以後、10.21国際反戦デーも含めて、党派ごとの運動が主流になっていく。自治会が機能マヒ、学生大会(最高決定機関)が成立せず、代議員会でも決められなかったら、各派は、ある意味(やりたい放題)ということになり、(囲い込み)運動化していく。 これは、全国的にも自治会崩壊が進む中で、党派運動が突出してくる流れは、止まらなかった。 大阪市大の場合、DSL(共労党系)の最大拠点校であった事、にも拘わらず文学部を中心にDSL(声系)が一定程度存在し、旧DSL市大支部内で、分派闘争が激烈だったこと、3月の分裂以後、様々な暴力事件やイヤガラセがあった・・・経過の中で、その後の市大運動に大きな影響を与え続けていった。 1回生の僕は、その混乱の中で翻弄されていったということだ。理性的な自分と、情緒に流される自分がいたことは、前に書いた。あの6.15御堂筋デモ、本町4丁目の機動隊の阻止線の情景を今でも思い浮かべることが出来る。 あのジュラルミンの盾の壁・・・機動隊員たちは、ビシッと線状に並び、ジュラルミンの盾をすき間なくセットして腰を低く構えて待ち構える。 あれは、僕たちにとっては、まさに(挑発)そのものだったように思えた。「いつでもやってこい、ケチらせてやる・・・」という(挑発)に・・・ 衝突は、僕の記憶では2回あったと思う。1回目の突入では、機動隊の壁に阻まれ・・・圧倒され総崩れになった。そのあといったん後退して、さらに2回目の突入をするというので、崩れてバラバラになった学友たちを再編成して隊列を組ませた。 この時の僕は、理性の僕ではなく、トロツキスト(過激派)に変身した僕だった。入学後から、迷いに迷っていた僕の一面が表に出てしまったのだ。(突入)に反対していたDSL(声系)の立場とはウラハラに、(突入派)への変身だ。 2回目の突入のための隊列の再編成を率先して呼びかけ回っていた自分がいた・・・今から思えば、何たる愚かさ・・・とは思うが、あのジュラルミンの盾の壁を見て興奮している自分がいた。 これって、あの羽田事件の三派全学連や 10.21新宿騒乱事件の学生たちと、いったいどこが違うのか・・・??今から思い出しても恥ずかしい限りなのだが、あの時の僕は、(敵は佐藤栄作ではなく、機動隊だったのだ)。 2回目の突入も、機動隊の壁は破れず、隊列は総崩れになった。それは、当たり前のことで、日ごろから実戦訓練ばかりしている頑健な機動隊に、ひ弱な学生集団がぶつかっていって勝てるわけはない・・・と冷静になれば、誰にでもわかる。 学生運動時代の苦い苦い思い出だ。僕が、DSL(共労党系)に加盟していても、まったくおかしくなかった・・・と時々思う。それは、山崎博昭の大手前高校の同期生たちが、理論からではなく人間関係から中核派に加盟したのと同じで・・・僕たちは(青二才)だったのだ。 6.15闘争が終わって帰宅してから、あの日記を書いたときには、冷静な自分を取り戻していたが・・・人間というのは、極限状況に追い込まれたら、常軌を逸する行動に出ることもあるのがわかる。 1年ほど後の事だが、キャンパスを歩いていて、ぞっとする景色を見ることがあった。社学同の活動家Iさん(僕と同じ高校出身)が、真っ赤な目をしてこちらに歩いてきた。その目が、真っ赤に腫れあがっていた。充血と言ったモノでは無い。出血で目全体が真っ赤に腫れあがっていたのを初めて見て、恐ろしかった。機動隊との(闘争?)で、被ったものに間違いない。 また、別の日、プロ学同のXさん(理学部)が、こちらに歩いてきたが、顔の形が全く変わるほどの凸凹に変形していて、びっくりしたものだ。こんな状態で、(入院もせずに)普通に歩いていたので・・・不思議な気がした。 多くの学生たちが、圧倒的な機動隊との(闘争!?)で、傷つき、肉体や精神が壊されていった。 その社学同のIさんは、その後、結成した赤軍に参加して、学内を軍隊行進していたのを見かけたが・・・その後の事は、知らない。 大阪市大は、究極の過激派=日本赤軍、連合赤軍に大いに関わりがある。田宮高麿は、市大在学時は、社学同で活動、後に赤軍派軍事委員会議長。よど号ハイジャック事件を起こして北朝鮮に行って・・・そこで死んだ。 赤木史郎も、市大出身で、田宮たちと「よど号ハイジャック事件」に参加。今も北朝鮮で住んでいる(=出られない)森恒夫は、市大出身で、連合赤軍中央委員会委員長。「山岳アジト事件」で知られている。刑務所内で、自殺・・・・・ 東大安田講堂内の壁に書かれたという敗北のメッセージ「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばず倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」の自己満足、自己逃避は、僕は許せない・・・と今でも思う。こういう連中が、観念の中で(大学解体)(自己否定)をもてあそび、(革命)を妄想したのだ・・・その罪は、海よりも深いと断言できる。 青春時代は、希望に満ちた未来を胸に描き、発展途上の未熟な時期だ。人間は、その生を終えるまで、発展途上であるハズ、あるベキなのではないか・・・と考えている。 古希を過ぎた今でも、常に(未熟さ)は感じ続けているし、より高みに向けての(勉強)を積み重ねたいと念じている自分がいる。(人生一生勉強)だ。 あの学生運動の仲間たち(自分も含めて)は、相当(傲慢)だったように、今では思う。自分たちには、先進性があり、自分たち(革命家?)が先陣を切って!? 社会を変える、世界を変えると自惚れてしまったのだ。 本当のところは、みんな迷いに迷っていたし、なかなか納得した答えを見つけ出せなかったのに・・・何を血迷ったのか・・・・・混乱の中で・・・選択を誤った大勢の学生たちがいた・・・―――――――――――――――――――――――――高野悦子「二十歳の原点」案内https://www.takanoetsuko.com/「私は詩が好きだ」「私は詩人になりたいと思うときがある」(1969年2月5日 高野悦子の日記から) 以下は、1969年5月、20歳で、自殺した元立命大全共闘の高野悦子の死を覚悟した(?)詩である。(僕も含めて)未熟なモノたちへの悲しさと切なさで、こみ上げてくるものがある。迷い続けた彼女は、別の選択肢を見つけることが出来なかった。 旅に出よう テントとシュラフの入ったザックをしょい ポケットには一箱の煙草と笛をもち 旅に出よう 出発の日は雨がよい 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい 萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら そして富士の山にあるという 原始林の中にゆこう ゆっくりとあせることなく 大きな杉の古木にきたら 一層暗いその根本に腰をおろして休もう そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう 近代社会の臭いのする その煙を 古木よ おまえは何と感じるか 原始林の中にあるという湖をさがそう そしてその岸辺にたたずんで 一本の煙草を喫おう 煙をすべて吐き出して ザックのかたわらで静かに休もう 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら 湖に小舟をうかべよう 衣服を脱ぎすて すべらかな肌をやみにつつみ 左手に笛をもって 湖の水面を暗闇の中に漂いながら 笛をふこう 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中 中天より涼風を肌に流させながら 静かに眠ろう そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう
2022.01.10
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学生運動時代の思い出を、つらつらと・・・・(反省する勇気)は、今からでも遅くない? 遅すぎる? (6) 2022-1-6 (はんぺん)僕の在籍した高校は、一応進学校だった。高校2年から3年にかけて、僕は、受験体制に反発して、高校生活の後半は、社研部の活動に精を出した。日韓条約の問題や韓国の民主化の問題を「世界」(岩波)で勉強したのが懐かしい。 高校3年の時に、政治啓発活動ということで、一人で模造紙に書いた(ベトナム反戦の壁新聞)を何度も、教室の後ろの壁に貼りだしたことがあった。とうとう生活指導の教師(もちろん反動教師だが)に呼び出された。・・・おそらく無許可でそういう宣伝まがいの事を勝手にしてもらっては困る・・・ということだったのか? おそらく、そういう(決まり、校則?)があったのだろう。 また、日教組・大教組傘下の大阪府高教(共産党系)の統一ストの時に、自分から率先して教壇の前に行き、クラスのみんなにストライキの意義や生徒たちの支持を訴えたこともある。クラス担任(共産党員)は、この時は、快く協力してくれた。 大学進学は、最も(学生運動が活発)で知られている大阪市大に決めた。後で知ったのだが、関西の学生運動を仕切るには、京大のC(教養部)自治会と、大阪市大の全学自治会を取ること・・・だったらしい。 僕は、68年入学後の5月、中執選挙をダシにして、ある組織に(うまく)加盟させられて、組織員としての生活を始めていた。(正式加盟は、8月)(青2才)を何のレクチャーも無しに(人生をかけた)運動に誘うなど、そもそも今から考えると間違っている。 人生そんなに甘くないのだから。それを(洗脳)よろしく、集中的に、一方的に吹き込まれて、その気にさせる・・・今から思えば、これは宗教的勧誘と、どう違うのだろうか? と。 (革命闘争は、プチブル的な自己の弱さを乗り越えて、新たな高みを目指す困難な道程・・・で、そのために(自己否定)(自己改革)そして、既成の全ての否定からの(大学解体)・・・これって言葉の遊びだろうが・・・!!! 全共闘のメンバーの多くは、言葉の遊びに酔いしれていた・・・そして、意見の異なるグループに対しては、(反革命)と断定して(粉砕)(殲滅)と呼号し、問答無用の暴力事件で、破壊行動に至る。内ゲバ戦争による100名以上のの死者と5千名以上の傷ついた若者たち。それは、左翼運動への人々の決定的な不信を招くことになっていく・・・ 僕の場合は入学後、選択肢があったにも拘わらず、充分な時間をかけることなく、考えられない選択(組織加入)に追い込まれたが、とにかく入学後の半年は、思いもかけない展開が待っていた。第一に、自治会からの(4.26教養部ストライキ提案)、第二に、(5月の自治会中執選挙)、第三に、(6.15御堂筋デモ)、第四に、(社学同による、6.28教養部バリケードストと、その後の学内への機動隊導入事件)だ。 夏休みまでに立て続けに問題が続き、新米の僕は、状況に振り回されっぱなし・・・だった。 (10.8ショック)で、学生運動は大きな影響を受けたが、僕が加盟したDSLが、僕の入学前の3月に真っ二つに分裂したのも、間違いなく、その影響の故だった。この時、分裂した(左派)は、その後、止めどもなく(左転落)を続け、あの三派全学連と同一歩調をとるまでに変質(堕落)していく。 僕が入学時に、集中的に各派からのオルグを受けたが、幾つかの柱、(70年闘争論争)(大学自治論争)(平和共存論争)など以外の 大きな柱の一つは、(街頭行動における戦術論争)だった。 角材投石を認めるのか拒否するのか・・・今から考えると、あまりにも大人げない幼稚な論争だが、4.26闘争、自治会選挙、6.15闘争などにおいて、激しく論争が続いたものだ。 6.15御堂筋デモの当日の僕の日記を紹介したい。デモから帰宅後の深夜に書き綴ったモノだ。(稚拙な表現、気負った未熟な文書で 何度読み返しても、言葉足らず、説明不足、で赤面する・・1968年6月15日、今から54年前の僕が18歳の時の日記だ・・・)―――――――――――――――――――――――――――――――6/15(土)昨日晩から、市大でプラカード作りで、忙しかった。共労党系(DSL)も、革新グループ会議系も、プラカードづくりは一切やっていない様子なので、我々DSL(声系)は、彼らがジグザグデモを想定しているのだと推察している。 今日のデモは多数の1回生が(おそらく初めて参加する学生も多いだろうが)参加するのであるから、その意味でできるだけ無事にすませてしまいたい。こちらのほうから意識的に機動隊と対決することを予測しているような共労党系や、革新グループ系の動きに、一抹の不安を覚えざるを得ない。 ジグザクデモは、我々DSLの方針としては、できるだけ避けたい気持ちだ。プラカードを持つことは、それを避け得る最大の方法であるし、そのためにも我々は、昨晩、(プラカードづくりに)頑張ったのである。 プラカード・ゼッケンデモの上に、その時の力関係に寄っては、フランスデモ、あるいは駆け足デモ、遅足デモといった戦術を臨機応変に駆使すべきであると考える。 京大の共労党系DSLなども、今日のデモ(全関西総決起)に参加するので、彼らが、我々市大の隊列を左右で挟んで、ジグル恐れも十分あり得るので、非常に不安だ。 それから、だいぶ前からわかっていたことだが、民青系全学連は、今回の6.15闘争には参加しない。これは、彼らのセクト的分裂行動の典型的なモノであり、このことは、一般学友から厳しい非難を受けることを意味する。 民青の諸君は、今回の6.15闘争について「5知識人アピール」の「意義」を全く理解せず、前面にまたしても「組織問題」を持ってきた。そしてそれを理由として今回の闘争をボイコットした。彼らの良識は、いったいどうなっているのか。彼らの言うところの「組織問題」とは、言うまでもなく(府学連)(反戦青年委員会)(軍縮協)の3つである。 しかし「5知識人アピール」は、そういった組織問題を一切保留して、「課題の一致」に基づく「行動の統一」を実現しようと呼びかけており、このことは、今の学生戦線において、もっと広くみれば今の日本の民主主義運動において、最も緊急に要請されていることなのである。 社学同は、「大阪府学連再建準備会」(第3府学連)のほうに参加する予定である。最近特に激しくなってきた関西の潮流間運動。各潮流が、それぞれ「戦線統一」を口に出しながら、現実には ますます戦線は分裂の一途をたどるかのようにみえる。 (ニュース)神戸大教養自治会選挙で、DSL躍進する・・・ フロント(統社同系) 4(選挙前)→→→6(今回) DSL(声系) 0→→→5(今回) 民青(共産党系) 11(選挙前)→→→3(今回) 北京系トロ 0→→→1(今回)(注:昨年11月、(統社同系)が、羽田闘争の総括をめぐって(とりわけ三派系の戦術批判をめぐって)、民青系に敗北し、神戸大教養部を中心とする神戸大全体、そして兵庫県学連の運動は極めて大きな困難に遭遇した。今回の結果は、まさにその障害を破り、運動を大衆的に発展させる大きな礎を築き得たことを示している=民主主義の旗) 当面の予定・明日の日曜日。唯研がある予定。平和共存の問題について学習をやる予定である。317号教室。1時から5時にかけて・18日、H君(同じJICクラス)と音楽会に行く予定。森ノ宮厚生会館ホール。6:00から・19日、平和委員会シンポジウム。学生ホール2F大集会室、1:30より・19日、6月行大阪府民集会・21日、公判闘争委員会。公判は大阪地裁にて1:00~ JICから動員をかける 6月15日の御堂筋デモ。(スケジュール)は、次の予定 1時 全市大学生総決起集会 211教室(~3時まで) 3時 バス出発(市大→扇町公園) 4時 全関西学生総決起集会(扇町公園にて) 5時 デモ隊出発(扇町公園→大手前公園) 5時30分 6月行動大阪実行委員会集会(大手前公園にて) 6時30分 御堂筋デモ出発(大手前公園→→→ナンバ) 午前中、雨が降ったり止んだりの不安定な空模様。僕たちは、内心やきもきしていた。1時限目の授業はなかったので、僕たちはプラカードづくり。共労党系の統一会議(主流派)の諸君も、革新グループ会議の諸君も、プラカード・ゼッケンデモは一切言わなかった。共労党系(主流派)の諸君は、「フランスデモ」を立て看板に書いていた。 だいたいスケジュールどうりいったが、ただ大手前公園から御堂筋デモに出発する時、指導者間において、ちよっとした暴力事件が発生した。すなわちDSL(声系)とDSL(共労党系)の間において、市大の隊列をどうするのかということが原因であった。 僕は、その時、近くにいたので、すぐに仲裁に入っていったけれど、双方感情的な対立というものが強く感じられた。暴力をふるったのは圧倒的に共労党系(DSL)の人たちだったが、僕自身、仲裁に入って、蹴られた。殴られたのは、市大DSL(声系)のIGさん(文学部3回生)。阪自連、阪大DSL(声系)のSAさんも、小突き回されていた。 原因は、さっき言ったように、市大の隊列をどうするかという問題での意見の相違であり、市大DSL(声系)のFUさん(経済学部3回生)の言うところによれば、本町4丁目(交差点)において機動隊が阻止線をはっているのは、初めからわかっており、それに突入する部隊とプラカード・ゼッケンでフランスデモを敢行する部隊とを分けるべきである。 DSL(声系)は、多数の1回生を含めた市大のデモ隊を 機動隊の阻止戦に中央突破させるために(ぶつける)のには反対である。(ぶつかりたい)共労党系DSL及び革新グループ、フロント(統社同盟系)の諸君は、ぶつかっても構わないが、DSL(声系)の我々)にしてみれば、その突入には、そんなに大きな意義を認められない。むしろマイナス面が多いのではないかーーーそういう主張である。 それに対して共労党系DSLの諸君の主張は、市大の隊列はひとつにまとまって行動すべきであり、隊列を分断するなどということは犯罪的行為である。(YA元市大全学自治会委員長)。 客観的に僕が見た場合、共労党系DSL諸君及びフロント、革新グループの諸君は、突入するつもりだったのだが、隊列を分断(突入する隊列とプラカードでフランスデモを敢行する隊列)すると、どうしても(突入する隊列)を構成するデモ隊員の数は、一部活動家に限られてくるので、少数にならざるを得ない。 それでは、(突破)は不可能である。それで多数の1回生を含む市大の隊列をそのまま強引に(後で考えてみれば、非常に腹が立ってくるのだが)、(結局、多数派は、市大の隊列を=注)突入する隊列の中に押し入れてしまったーーーそういう感が強い。 非常にムード的なモノで、引っ張っていった感じだ。このあたりは、共労党系DSLの学生活動家諸君の無責任な態度に強い怒りを覚える。。御堂筋デモより以前に行われた『ボス交渉』(DSL:声系のFUさん(経済学部3回生)、IMさん(法学部3回生)と DSL:共労党系のIFUさん、NAGさん)では、(突入部隊)と(プラカード部隊)とに分けるということが確認されていたという。 その点(革新Gは、ボス交渉はナンセンス。あるいは、その事実を否定している)について、かなり共労党系DSLのやり方には、大きな問題点がある。DSL(声系)にしてみれば、だまされたという格好である。 そして、もっともショックを受けたのは、学生大衆、特に初めてデモに参加した多数の1回生ではないだろうか。本町4丁目の交差点での機動隊への突入では、1回生の間に多数の負傷者が続出した。 LIC(文学部1回生Cクラス)の一女子は、頭に三針も縫うケガをしたとも聞いている。JIC(法学部一回生Cクラス)の僕の友人も突入した時に、機動隊に頭を殴られたり足を蹴られたりしている。これは、単に戦術の時点で云々する問題ではなく、指導者層の(姿勢)の問題ではないだろうか? 僕は何回も言ったように、活動家諸君の(無責任な態度)に非常に強い怒りを覚える。僕たちは、僕たちの友人をデモに参加するようにオルグをした時、はたしてこんな(突入)を想定していただろうか。DSL(声系)は、ビラに(プラカードゼッケンデモ)としていたし、DSL(共労党系)は、(フランスデモ)となっていた。 初めてデモに参加した人たちは、果たして最初から機動隊とぶつかることを予想しながらデモの隊列に加わったのだろうか。彼らにしてみれば、結局(だまされた)格好になったわけであり、この一般学生大衆に対する重大な責任を DSL(共労党系)や革新Gの諸君は、いったいどうとるのだろう。 あもデモに参加した学生大衆のデモ指導者層に対する不信感は、非常に大きなものがあると僕は考える。それは、「オレは、もうこれからは民青のデモにしか参加しない」という一般学生の声が、何よりも雄弁に語っているのではないだろうか。 4.26教養ストライキで、一般学生との遊離を招いた市大の学生運動は、中執選挙(5月)での構改派(DSLなど)の敗退となってあらわれた。そして、今回の6.15御堂筋デモが、又もや学友の不信感を増大させた。このことは、これからの市大の学生運動を考えていく際に、もっと真剣に反省されなければならないのではないか。 ―――隊列を分断するか否かの問題についてーーーあの時点においては、いろいろな条件(デモ隊列の中には多数の1回生がいたことなど)を考えた場合、機動隊と衝突する必要は無かった・・・・そういうところのDSL(声系)の考え方に僕としては、原則的に賛成である。 緩行車道から機動隊の後方に回って、また中央車道に出て、果敢にフランスデモを展開した阪大をはじめとする大阪府学連の隊列と労働者の隊列は、その点、賢明であったと考える。なぜ、ぶつかる必要があったか。 「我々は、中央車道を堂々と行進する権利がある」というMM君(革新グループ?)の主張は正しい。しかしそれは、あの時点において、中央突破を敢行しなければならないという主張を肯定しない。 DSLが分裂したのは、僕が入学する少し前の3月。分裂直前から直後にかけては、かなり暴力事件もあったらしいが、僕が入学してからは、少なくても僕の目には、そんなにはっきりとはうつらなかった。しかし、お互いの心の中には、感情的なものも、まだだいぶあるようだ。 僕は一貫して暴力には反対している。それで、自分の方からは手を出さないDSL(声系)の姿勢に、かなり好感を持っている。 僕自身、僕がオルグした友人に対して、6.15が結果的に、ああいう形(DSL(共労党系)並びに革新グループの諸君にだまされた格好になった)になったということに関して非常に申し分けないと思っている。 僕の 僕の友人に対する責任を考えると つくづく悲しくなってくる。それは、もはや法学部1回生の僕、一個人では、どうにも解決しようのない問題であるから。街頭デモ終了後、帰宅。11時頃だったか。―――――――――――――――――――――――――――6/15の日記は、デモから帰宅後、一気に書いたことは、間違いない。よほど、腹が立っていたので、「記録に残しておこう・・・」また、「自分の考えを整理しておこう・・・」という気持ちだったのだろう。(僕の日記は、気まぐれで、1~2行の時もあれば、長文になる時もあった。) 当時の状況・・・アメリカ帝国主義によるベトナム侵略の中で、多くの無辜のベトナム民衆が殺され続けていた。ナパーム弾で焼き尽くされ逃げまどう民衆の映像が、何度もテレビで流されていたし、日本全国で、ベトナム特需で潤う日本企業の在り方にも、疑問符が付きつけられていた時代背景があった。(大阪では、豊中の『新明和工業』という会社が、米軍戦車の修理を行っているというので、その後、何度も豊中の現地闘争、抗議デモに、僕たちは出向いたモノだ。) 当時、ベトナム戦争に対する日本政府の加担を認めるのか?という、リベラルの側からの強烈な抗議が、全国的な反戦運動に繋がり、大きな街頭デモが繰り返されていた中で、70年安保と結合された(6.15御堂筋デモ)があった。 (10.8ショック)に幻惑された学生セクトは、一斉に(左転換)にかじを切っていく。DSL(共労党系)やフロント、革新グループも、ビラの論調からも、目に見える戦術(行動様式)からも、ありありと見てとれるもので、このつるべ落としの如くの転落は、まさに(青2才)の運動そのものであった。 (青2才)の目指す社会変革というのは、この程度のモノであったが、それが、(赤信号、みんなで渡れば怖くない・・・)というわけで、地獄への道をまっしぐらに突き進むことになる。 DSL(共労党系)は、しばらくして、プロ学同(プロレタリア学生同盟)に名称変更して、中核やブント(社学同)などのトロツキストと共闘!?して、(左転換)を完結させ、東大や京大、市大の時計台闘争に立てこもるまでに、堕落していった。 入学時、僕をオルグしたDSL(共労党系)の中の比較的良識派(?)のKRさん(法3回生)、ISさん(2回生)などは、その左転換について行けず、次第に(脱落)していくことになる。 僕の入学の1か月前に分裂したDSLだったが、その当時、DSL(共労党系)に走った活動家の中でも、アホ以外の良心派は(元に戻ることは出来ないので)静かに距離を置くしか方法は無く、知らぬ顔して一般社会に潜り込んでいったのだろうと推察する。彼らにも、きちんとした(総括)をしてもらいたい・・と僕は切に思う次第だ。 そう、あの山崎博昭の大手前高校の同期生や先輩たちが、京大、立命、同志社の中核派の路線について行けず、67年羽田事件の後、わずか1~2年で、組織(中核派)を離れたのと同じように・・・なんの自己批判も、総括もせず、運動から離脱したのが思い出される。 「あの時点においては、いろいろな条件(デモ隊列の中には多数の1回生がいたことなど)を考えた場合、機動隊と衝突する必要は無かった」と僕は日記に書いているが、もし(突破)できたとしたら、彼ら(突破派)は、そのあとどうしたのだろうか? どうするつもりだったのだろうか? と僕は、考える。 トロツキストたちの無責任極まる(一点突破全面展開)戦術と、いったいどう違うのだろうか? おそらく機動隊のジュラルミン盾の壁を実力で突破できても、前に障害物が無くなれば、ジグルわけにはいかないだろうから、一気にフランスデモにならざるを得ない。そして次の交差点で待ち構える機動隊の阻止線に、またぶつかると、また隊列を組みなおして、機動隊にぶつかっていくことになり・・・これが、どういう展望をもたらすのだろうか??? 見通しの無い(見えない)戦術での、参加者(引き回し)は、トロツキスト(三派全学連)のお家芸だったが、その行き着く先が、連合赤軍の(あさま山荘事件)(山岳アジト事件)だったのだ。
2022.01.06
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『きみが死んだあとで』(代島治彦著)を読んで・・・思う ⑥ 2021-1-5 (はんぺん)(きみ)とは、山崎博昭のこと。 1967年10月8日、第一次羽田闘争で、山崎は、3派全学連の中核派の一員として(闘った!?)そして、機動隊の実力(暴力)で亡くなった・・・・ 「独りであること、未熟であること、これが私の原点である」(「二十歳の原点・・高野悦子)の書き出し)・・・には、ため息しか出ない・・・ 67年10.8闘争で、羽田・弁天橋上で亡くなった山崎博昭も、60年安保闘争時、国会前突入時に機動隊との(闘い)の中で亡くなった樺美智子も、失恋と革命幻想に打ちのめされて鉄道自殺した、立命大全共闘の一員だった高野悦子も、72年山岳アジト事件などで、仲間に殺された若い連合赤軍メンバーたちも、60年代後半から頻発し、10数年の間に100名以上が殺されたり、5,000名以上が傷ついた(内ゲバ事件)のメンバーたちも・・・みんな(青2才)の若者たちだった。 彼らは、確信をもって、その行動に至ったのではない。大きな流れの中で迷いながらも、他の選択肢を見つけ出すことが出来なかったのだ。 多くの同期の仲間(中核派)や先輩たちが、70年を前にして、早々と戦線離脱していったことには、驚いた・・・が、もともと確たる理論も無く、人間関係で(運動参加)していった学生たちが、手の平を返すように、運動から距離を置くのは自然と言えば自然であったが、しかるに(自己総括)できないのも、自然であったということだ。 山崎は、64年に大手前高校に入学して、その後(反戦高協)のオルグを受け、高校2年の65年には、日韓闘争のデモに参加し、66年の大阪の(反戦高協)結成にも参加、組織員として各種闘争を経験。67年4月京大入学後、5月には(中核派)に正式加盟、砂川闘争や(三派全学連)大会にも参加。そして、10.8羽田闘争・・・と続く流れ。 組織に入る(加盟する)とは、そういうことで、社会変革するというのであれば、(闘争)課題が途切れることは無い・・・組織員は、24時間闘うことに(闘わされることに)なる。勉強する時間などは・・・無いし、上(指導部)もそれを求めない。忠実な良き(兵隊)を期待するのだから・・・ これが、組織的拘束の無い(ベ平連)や(全共闘)などの個人参加の集団との決定的な違いだろう。 僕の経験から言っても、とても勉強する時間は無かった・・・山崎は、10.8羽田に向かう時に、10数冊の本(文庫本だと思うが)を持っていったという事だが、彼は、よほど自身の勉強不足を気にする真面目な人間だったと思う。 普通、こんな闘争時に勉強しようなどと考えること自体、あり得ない・・・機動隊との衝突が既定路線の彼らには特にそうだろう・・・・ 彼の場合、大学入学後に、すぐ組織の一員となったために、組織の要請に、応えねばならなかった。機関活動(各種会議、情宣活動)、街頭闘争参加は、スケジュールで迫ってくるし、逡巡している間もない。 『きみが死んだあとで』の中でも、高校同期の中核派メンバーがインタビューで・・・「いつ(運動を)やめる・・・?」「いま、それを言うなよ・・・」とのやり取りが、何度も繰り返されたと答えている。 組織と個人の関係性で悩みぬいていた当時の状況は、組織の中にいた僕には、ようくわかる。 中核派は、他のセクトを暴力的に(ゲバルト)で、徹底的に潰しにかかっていたことでは有名だ。意見の違う他セクトを殲滅するためには、平気でゲバルトを行使して恥じなかった。 山崎博昭が、もし今生きていたら、君たち(中核派)による暴力が運動にとってどんなプラスがあったのか? 聞いてみたいものだが・・・彼がもし、人生に誠実に向き合おうという生真面目な人間であれば・・・その解答には、相当悩んだことだろう・・・・ 多くの大手前高校同期生が、京大、立命、同志社などの中核派、早稲田の革マル派などに加盟して、権力に戦いを挑むつもりが、自分たちが考えていた(運動)とは違っていて絶望(?)し、多くの仲間たちが68年、69年に、すでに(運動)を止めている・・・という現実。 ・・・頭の切れる彼らには、絶望的な展望という認識の故、職業的革命家の道を早々と断念したモノだが、その後の内ゲバ(殺し合い)の嵐が吹き荒れることを考えると、賢明な判断だったともいえる・・・ しかし、(総括)抜きの(撤退)は、無いだろう・・・それは、自分にも、オルグした相手(他者)に対しても、無責任の極みだ!!!!お前ら、エリートだったんだろう・・・!!!! (山崎博昭時代の前後の簡単な出来事)1960年6月15日 60年安保闘争時、国会前デモで、樺美智子、死亡。1963年4月 革共同(革命的共産主義者同盟)、中核派と革マル派に分裂1964年4月 山崎博昭、大手前高校に入学1965年2月 アメリカが北爆。ベトナム戦争が激化。1965年4月24日 ベ平連が、初めてのデモ1965年5月 社研部長:岩崎の呼びかけで「マルクス主義研究会」結成。山崎博昭も参加。 8月~10月 日韓基本条約批准阻止闘争に大手前高校から、山崎も参加。1965年11月 文化大革命始まる1966年1月 早大全学ストライキ1966年4月 反戦高協大阪府委員会結成。1966年5月 中国で紅衛兵運動始まり、大混乱に・・・1966年12月17日 三派全学連結成(中核派、ブント、社青同解放派)1967年5月 山崎博昭、中核派に正式加盟。砂川闘争に参加。1967年7月 山崎、全学連大会に参加。1967年10月6日 山崎、羽田闘争に向けて、深夜バスで京都を出発。1967年10月7日 山崎たちは、法政大学で宿泊。1967年10月8日 山崎、第1次羽田闘争(佐藤栄作首相南ベトナム訪問阻止闘争)に参加。弁天橋で死亡(享年18歳)1967年10月17日 「虐殺抗議山崎博昭君追悼中央葬」1967年11月11日 由比忠之進が、佐藤訪米に抗議して焼身自殺。1967年11月12日 第2次羽田闘争(佐藤首相訪米阻止闘争)1967年11月13日 ベ平連、米軍脱走兵援助活動を公表1968年1月17~21 佐世保エンタープライズ入港阻止闘争1968年1月29日 東大医学部スト・・・東大闘争始まる・・・1968年2月~4月 王子米軍野戦病院反対闘争1968年5月 フランスで、パリ5月革命1968年5月27日 日大全共闘結成(議長:秋田明大)・・・日大闘争始まる・・・1968年6月15日 東大安田講堂バリケード封鎖。二日後、機動隊導入。 7月2日、安田講堂再封鎖。1968年7月5日 東大全共闘結成。1968年8月20日 ワルシャワ条約軍(ソ連軍)、チェコのプラハに侵攻1968年10月21日 国際反戦デー・新宿騒乱事件1968年11月22日 東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会1969年1月18日 東大安田講堂攻防戦1969年2月 京大闘争始まる1969年9月5日 全国全共闘結成大会1969年 赤軍派結成集会1969年11月5日 赤軍派、大菩薩峠事件1970年3月21日 赤軍派による(日航機よど号ハイジャック事件)1970年6月15日 日米安保条約自動延長1970年8月4日 内ゲバによる初の殺人事件(海老原事件)1971年12月4日 関大で、中核派が革マル派2名を殺害。1971年7月 赤軍派と革命左派が、連合赤軍を結成1972年2月19日~28 連合赤軍、あさま山荘銃撃戦。その後リンチ殺人が発覚(14名)1972年5月30日 日本赤軍がテルアビブ空港乱射事件を起こす。1973年1月27日 ベトナム和平協定(パリ協定)調印1973年~ 中核派、革マル派、社青同解放派による内ゲバ(殺し合い)が、激化。80年までに、100名以上が死亡。1975年4月30日 サイゴン陥落。ベトナム戦争終結。―――――――――――――――――2014年7月 山崎博昭の兄・山崎建夫の「10.8山崎博昭プロジェクト」が発足。
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