なぜ平和学を学びたいのかについて


ここで言う経験とは、意識が飛ぶくらい殴られたり蹴られたり髪を掴んで回されたりすることや、不条理な事で土下座を強いられ泣きながら土下座を選んだ時の悔しさ、殺されると思って警察に逃げ込んだり、もうこんな人間は殺すしかないと包丁を握ったりなど。そしてその時々に感じた自分の無力さ、結局は従わざるを得ない自分への憤り、いつ危害を加えられるかとビクビクした状態、なんで誰も助けてくれへんの、と自分の運命を恨んだりする絶望感です。
そんな中で、私には夢がありました。一人でも多く、こんな想いをしている女性や子供をなくす事です。
生きていくのがもう嫌だ、と思う度に、私は夢や目標に、何度も何度も助けられました。

きっかけは授業で見せられたとあるビデオでした。
「夢は何か」といった問いかけに、発展途上国の子供たちが「明日生きること」と応えていました。死んだ魚のような目で。
衝撃でした。なんて自分は恵まれているんだ。それなのに、自分だけが不幸であるかの様に思っていたなんて恥ずかしい。

世界中の子供たちが、夢を持てる世界が来れば、彼らの目は生き生きするに違いありません。
その為には、戦争を無くして教育を充実させ、飢餓を無くしたり環境破壊を止めなければ。戦争でいつ死ぬかとびくびくしていたり、生きる為には不条理な権力に従わざるを得ない人たちの気持ちが少しですが、私には分かります。

発展途上国では犯罪に走る子供たちは少なくありません。
その理由が私は分かるような気がします。
私は父親が寝ているのを見ると「今なら殺れるな」といつも思っていました。
そして、そんな感情を抱いている自分が、いつか本当に父親を殺してしまいそうで怖くてたまりませんでした。
同時に自分自身がとてもおぞましく感じました。
大学時代、家を出た理由のひとつは、そこにあります。
いつか自分が本当に父親を殺してしまうのではないか、と怖くてたまらなかったので逃げ出しました。

でも、子供たちは逃げるところがありません。
おいつめられておいつめられて、犯したくもない犯罪を犯してしまう子達がいます。
私は、そんな子供たちの何かの役に立ちたいと思うのです。

ずっと、なぜ神様は私にこんな経験を与えたんだろうと不思議でした。
この経験を生かして、もっと困っている人達の役に立ちなさい。
そういう事だと思います。
これは、私の使命なのです。

神様は、超えられる人にしかその試練を与えないといいます。
苦しいこと悲しいこと。
すべて神様から与えられた贈り物なのではないでしょうか。

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: