夜交



雨宮 鷹志(四四)男性。

結月 音羽(三六)女性。





●夜行列車・車内・夜
   座席で居眠る雨宮鷹志。
   だらしなく開いた口周り。
   青々と目立つ無精髭。
   脂の浮き始めた冴えない顔。
   鼻孔をくすぐる一片の羽毛。
   鼻をムズムズさせてクシャミ寸前。
   *****
   うっすら目を開く鷹志。
   目の前で揺れている衣服の裾。
   年季の入った女物ダウンジャケット。
   着ているのは結月音羽。
   荷物棚にバッグを上げようと必死。
   通路側の鷹志が邪魔な模様。
鷹志「すいません、気がつかずに」
   窓側の席に体をずらす鷹志。
   無事上げ終えても立ったままの音羽。
   何か言いたげに鷹志を見ている。
鷹志「あ、こっち?」
   一旦通路に出る鷹志。
   音羽、会釈して窓側の席へ。
   ダウンを畳んで膝の上に。
   鷹志、遠慮ぎみに音羽の隣に掛ける。
   扉が閉まり走り出す列車。
車掌(声)「次の停車駅は沼津です。ただ今
 の時間より放送を一時休止致します。放送
 再開は・・・」

●同・承前
   明々と電灯の点った客車内。
   熟睡する人、寝つけない人、様々。
   走行音の他は僅かな衣擦れのみ。
   無理やり目を閉じている鷹志。
   しばらく奮闘するも断念。
   さりげなく窓側の席に視線。
   胸までダウンを掛けた音羽。
   暗い車窓をじっと眺めている。
   寒そうにダウンを何度も引き上げて。
鷹志「あの・・・」
   意外に大きく響いた声。
   怪訝そうに鷹志を見る音羽。
鷹志「替わりましょうか(声を潜めて)」
音羽「え」
鷹志「通路側の方がマシですよ、寒さ」
音羽「・・・結構です」
鷹志「窓から冷気が・・・」
音羽「全席指定でしょ」
鷹志「検札、もう無いです」
   見つめ合う二人。
音羽「ご親切に。でも大丈夫ですから」
鷹志「やせ我慢は風邪の元ですよ」
音羽「景色を見ていたいんです」
   車窓に目をやる鷹志。
   漆黒の中に時折流れる寂しい灯。
鷹志「何も見えないと思うけどなあ」
音羽「お休みにならないんですか」
   鞭打つような口調。
鷹志「・・・いや、寝たいのは山々なんです
 けど。中途半端に居眠ったせいでね」
音羽「そうですか」
   車窓に目を戻す音羽。
   仕方なく正面を向く鷹志。
   口の中でブツブツ呟き始める。
鷹志「寿限無寿限無五劫のすりきれ・・・」
   車内のどこかから咳払い。
   慌てて口をつぐむ鷹志。
   音羽もこちらに冷たい視線。
音羽「落語の練習ならデッキでどうぞ」
鷹志「違うんです、羊を数える的な・・・」
音羽「どっちにしても声に出さないで」
鷹志「・・・ここは潔く降参しよう。景色、
 ご相伴にあずかってもいいですか」
音羽「ご自由に。私の窓じゃないですから」
鷹志「お言葉に甘えて」
   体を傾けて窓を向く鷹志。
   今しも無人の駅を通過するところ。
   鷹志の視線、窓から逸れて音羽へ。
   ダウンに隠れた小柄な肢体。
   艶を失いかけたショートボブ。
   色白な肌もどこか疲れが滲んで。
   いつの間にか値踏み目線の鷹志。
   駅を過ぎて再び暗闇に沈む窓。
   音羽の顔がくっきりと映っている。
   幼さと成熟と退廃の同居した顔立ち。
   涼やかな目元を損なうような隈。
   ふっくら唇を際立たせる艶ぼくろ。
   刹那、ガラスに重なる少女の面影。
音羽「・・・私の顔、そんなに変ですかね」
   ガラスを通して目が合っている二人。
鷹志「あっ、いやその・・・そうじゃなくて
 ・・・こんな事言うとアレなんですけど、
 あなたとどこかでお会いした気が・・・」
   また咳払い、トーンを落とす鷹志。
鷹志「って酷い口実ですよね。昭和のナンパ
 かよってハハハ・・・でも・・・」
音羽「ハァ・・・」
   音羽、さえぎるように溜息。
音羽「ほんと、加齢臭がキツすぎて窓を開け
 たいくらい。ガッカリです、雨宮先生」
鷹志「この窓開かないから・・・え?」
   呆気にとられる鷹志。
   音羽、表情を崩して微笑む。
   年相応だった顔が一気に若返る。
鷹志「・・・結月、音羽さん?」
音羽「はい、先生」

●同・承前
   居心地悪げに体の位置を変える鷹志。
鷹志「意地悪だなあ。気づいてたならもっと
 早く言ってくれれば・・・どの辺で?」
音羽「寿限無。先生、特技を見せてやるって
 しょっちゅう披露してたでしょ」
   いたずらっ子のように笑いを堪えて。
鷹志「あったかな、そんなこと」
音羽「一度、『やぶらこうじ』を飛ばしたの
 指摘されてムキになって。大変だったな、
 あの時は」
鷹志「そう? 覚えてないわ」
音羽「本持ってる子を探し回って。中学生が
 落語の本持ち歩いてるわけないのに」
鷹志「青かったんだよ、あの頃は」
音羽「もう二十年以上前ですもん」
   感慨に浸る二人。

●学習塾・教室・夜(回想)
   入室する大学生時代の鷹志。
   ざわついていた教室が静まり返る。
鷹志「何や、今日はやけに神妙な空気やな。
 そんなに化政文化に興味あるんか。じゃあ
 早速、山東京伝の解説から・・・」
   黒板に向き直って固まる鷹志。
   黒板に直角に突き立つチョーク。
   鷹志、取ろうとするが取れない。
   根本だけ残して折れるチョーク。
   男子の馬鹿笑い、女子の忍び笑い。
   ゆっくり生徒たちに振り返る鷹志。
鷹志「おーまーえーらーなー」
   生徒たちの中に中学生時代の音羽。
   笑いながら指で涙を拭う。
   どこか熱を帯びた眼差しで。

●夜行列車・車内・夜
   周囲を見回す鷹志。
   ほとんどの乗客が寝息を立てている。
鷹志「まさかこんな場所でバッタリとはね。
 ドラマだったら嘘くせーってテレビに蹴り
 入れてるところだ」
音羽「何かが始まる運命だったりして」
   音羽、一瞬真顔に。
   視線にたじろぐ鷹志。
鷹志「おっと、今さら口説いたって無駄だ。
 先生のクラスはもう満席だから」
   鷹志の左手に視線を移す音羽。
   気づいた鷹志、胸元から革紐を出す。
   革紐の先に結婚指輪。
鷹志「金属アレルギーなんだよ。アレルギー
 フリーで嫁の気に入るのが無くてさ」
音羽「そうだったんですね」
   俯きかけた音羽、すぐに明るい顔で。
音羽「先生はまだ先生なんですか」
鷹志「よく覚えてるな、教師志望だった事」
音羽「それもしょっちゅう聞かされました。
 俺は金八は目指せへん、目指すなら『伝説
 の教師』やーって」
鷹志「お恥ずかしい・・・」
音羽「なれましたか、伝説の教師」
鷹志「声に出せば夢は叶うって信じてたけど
 大事なのは叶った後なんだよな。いざ学校
 に足を踏み入れたら、教育現場の現実って
 ヤツについてけなくなって。三年もたずに
 ギブ。今じゃ似合わない百貨店のセールス
 マネージャー」
音羽「地元の?」
鷹志「そう。結局『はじまりの森』から一歩
 も踏み出せず、みたいな」
   自嘲的に微笑む鷹志。
鷹志「結月はどう、絵描きの夢は叶った?」
   音羽、ダウンのポケットをまさぐる。
   取り出したのはスマホケース。
   ファンシーなキャラがあしらわれて。
音羽「ご存知ですか」
鷹志「あー知ってる、大人気なんだろ。娘も
 グッズ買え買えってうるさくてさ。保育園
 で友達に自慢されるんだって」
音羽「私なんです」
鷹志「ん」
音羽「だからデザイン、私」
鷹志「マジで!?」
音羽「シッ」
   思わず声が出た鷹志を咎める音羽。
   もう咳払いしてくる者はいない。
鷹志「巨匠じゃん」
音羽「へっへー。まあね、たまたまですよ。
 パパッと走り書きしたのをクライアントの
 担当さんが目にして・・・」
   言いかけて苦笑い。
音羽「嘘うそ。本当は血を吐くくらい足掻き
 まくり。『カワイイ』を知るためにテーマ
 パーク通いとか動物カフェ巡りとか。何枚
 ラフを没にされたか数えたくもないです」
鷹志「結月らしいわ。なんか目標ができると
 それに向かって猪突猛進だったろ昔から。
 たとえ苦手な事でも・・・つうかそもそも
 ファンシー系好きじゃなかったよね」
音羽「そうなんです。私の神様はクリムトと
 ギーガーなので」
鷹志「画集見せられて感想求められたけど、
 何一つ気の利いた事言えなかったぞ確か」
   音羽の瞳に電灯のキャッチライト。
   乾いた冷たい頬に赤みが差す。
音羽「先生こそ、よく覚えてますね」

●学習塾・教員室・夜(回想)
   一人残って採点をしている鷹志。
   デスクの上だけ点った電灯。
   廊下の窓越しに盗み見る音羽。
   *****
   鷹志、椅子の背にもたれて寝落ち。
   その鼻孔をくすぐる羽毛。
   クシャミと共に飛び起きる鷹志。
   辺りを見回すも無人。
   ゾッとした表情で慌てて帰り支度。
   デスクの陰に屈んで羽毛を弄ぶ音羽。

●夜行列車・車内・夜
   停車している列車。
   窓の外は寒々しい駅のホーム。
   震えてダウンに包まる音羽。
音羽「長いですね」
鷹志「確かニ十分弱だったかな」
音羽「ドアも開きっぱなしみたい」
鷹志「しかもデッキ直通なんだよこの系統」
音羽「・・・寒い」
   鷹志、黙って自分のコートを音羽へ。
音羽「いいの?」
鷹志「俺は慣れてるから。あ、加齢臭は我慢
 して」
   コートを引き寄せて目を瞑る音羽。
音羽「・・・懐かしい匂い」
鷹志「煙草はとっくにやめたぞ」
音羽「煙草じゃないです、たぶん」
   ドアが閉まる音、動き出す列車。
鷹志「こういう景色、割と好き」
   流れ去る駅を心惜しげに見つめて。
音羽「良く乗られるんですか、夜行」
   気まずそうに目を逸らす鷹志。
鷹志「うんまあ・・・あまり声を大にしては
 言えないんだけど」
   物問いたげに目を覗き込む音羽。
鷹志「実はさ、明日朝の新幹線で帰ることに
 なってるんだ」
   察する音羽、肘で鷹志を突く。
音羽「出張費水増しの現行犯発見」
鷹志「頼む、見逃して。妻子持ちには貴重な
 小遣い稼ぎなの」
音羽「じゃ、自販機のホットカルピスで買収
 されてあげようかな」
鷹志「せこい不正だなあ。お互い様だけど」
   時が戻ったように笑い合う二人。
   ふと我に返って襟を正す鷹志。
鷹志「結月も帰るのか」
音羽「・・・暫く実家で過ごそうかなって」
鷹志「仕事は?」
音羽「大体はリモートで事足りるから」
鷹志「そうなんだ」
音羽「大きな案件も入ってないし」
鷹志「じゃあ、骨休めと親孝行ってとこか」
音羽「・・・お母さん、いま施設」
鷹志「どこか体が?」
音羽「ううん、そっちは至って健康。ただ、
 ちょっとCPUの方が、ね・・・」
   頭を指して寂しげに微笑む音羽。
鷹志「そっか、大変だな」
音羽「そうでもないですよ。全部職員さんが
 やって下さるから。私はお金を払うだけ」
   言葉に詰まる鷹志。
鷹志「・・・やっぱり時間って残酷だよな。
 結月のお母さん、厳しいけどしっかりした
 人だったのに。俺も一度めちゃくちゃ怒ら
 れた記憶があるよ。あれ何でだったっけ」
   思い出そうとする鷹志。
   見つめる音羽の寂しげな瞳。

●学習塾・面談室・夜(回想)
   神妙な面持ちで座る教室長と鷹志。
   対面に座る音羽の母の引きつった顔。
   *****
   面談室の外の暗い廊下。
   扉にもたれて俯く音羽。
   オルカのキーホルダーを握りしめて。
   その手にポタポタと落ちる涙。

●夜行列車・車内・夜
   いつの間にか眠りこけている鷹志。
   その顔を愛おしげに眺める音羽。
音羽「・・・ずるいなあ、都合の悪いことは
 みんな忘れてもうて」
   カメラ、鷹志の耳孔にトラックイン。

●高速バス・車内・夜(夢)
   高速を走行中のバス。
   窓際の席に掛けた中学生の音羽。
   精一杯背伸びした大人コーデ。
   膝に抱えた中型の旅行カバン。
   流れゆくオレンジの灯を見つめて。
   隣席に誰か座る気配。
   顔を向けると息を切らした鷹志。
音羽「先生?」
鷹志「何やってんねんお前」
音羽「・・・別に」
鷹志「別に、とちゃうやろ。塾サボってどこ
 行くつもりや」
音羽「白浜」
鷹志「何しに」
音羽「オルカ見る」
鷹志「アホか、こんな時間に起きてるオルカ
 なんかおるか」
   プッと吹き出す音羽。
鷹志「あ・・・わざとちゃうぞ」
音羽「耳たぶ赤いで」
鷹志「・・・・・・」
   黙り込む二人。
   道路の継ぎ目で揺れるバス。
音羽「・・・探しに来てくれたんや」
鷹志「塾担やからな、一応」
音羽「ちょっと嬉しい、かも」
鷹志「・・・・・・」
音羽「お母さん何か言うてた?」
鷹志「知らん、まだ喋ってへん。けどたぶん
 ブチギレやぞ。覚悟しとけ」
音羽「ええねん。勝手にキレさせとけば」
鷹志「ケンカしたんか」
音羽「・・・マンガ捨てられた」
鷹志「・・・・・・」
音羽「描く道具も」
鷹志「バレてしもたか」
音羽「アンタ何のために今勉強してるか理解
 してるんかとか・・・そんなん知らんわ」
鷹志「・・・とにかく帰ろ。帰ってちゃんと
 話しよ。先生もついといたるから」
音羽「嫌や」
鷹志「ごてるな。サービスエリアで休憩ある
 やろ。その時一緒に降りるからな」
音羽「そんな所で降りてどうやって戻るん」
鷹志「・・・・・・」
   言い返せない鷹志。
音羽「乗ってしもたんが運の尽きやったな。
 先生も一緒にオルカ見るで」
鷹志「参ったな・・・てか何でオルカ。普通
 はパンダちゃうんか」
音羽「オルカの方がカッコイイやんか。骨格
 標本見たことないん?」
   罪のない笑顔に口元のほくろが踊る。
音羽「あ、あれ海かなあ」
   暗い窓に頬を寄せる音羽の横顔。

●夜行列車・車内・早朝
   まだ暗い窓に頬を寄せる音羽の横顔。
   車内に流れるアナウンス。
車掌(声)「おはようございます・・・」
   寝ぼけ眼で音羽を見ている鷹志。
鷹志「・・・結局オルカって見たんだっけ」
   振り返る音羽。
音羽「ひどい。覚えてないんですか」
   鷹志、頭を振って。
鷹志「ごめん、寝ぼけてた。いま見てた夢と
 ごっちゃになって・・・」
音羽「夢じゃないです」
鷹志「え」
音羽「バスが夜遅く着いて。帰る手段なんか
 全然なくて。やっとのことで開いてる宿を
 見つけた時は涙出そうになったな」
鷹志「いや、ちょっと待ってよ。そんな記憶
 俺には・・・」
音羽「部屋が一つしかなかったから、兄妹だ
 なんて大嘘ついちゃって」
鷹志「・・・・・・」
   艶っぽい目を直視できない鷹志。
音羽「忘れたことなんかないよ、私」
   音羽の口調に故郷の訛り。
   鷹志の脳裏にフラッシュバック。
   旅館の部屋、浴衣姿の音羽。
   華奢な肢体と白い肌。
   涙、紅い唇、艶ぼくろ、夜明けの窓。
車掌(声)「このあと終点大垣には・・・」

●終着駅・ホーム・早朝
   荷物を持って歩く鷹志と音羽。
   夜と変わらない暗い空に白い息。
音羽「みんな走って行ったの何でだろ」
鷹志「・・・大垣ダッシュ」
音羽「?」
鷹志「席取り。乗り換え電車の」
音羽「へー、じゃあ私たち吊革確定ですね」
鷹志「今のシーズンそこまで混まないよ」
   二人、何かを嚙みしめるように歩む。
音羽「先生は着いたらどうするの」
鷹志「昼から職場に顔出す予定だから・・・
 それまでにどっかでシャワー。たぶん快活
 クラブ」
音羽「おうちには帰らないんだ」
鷹志「嫁も新幹線って思ってるから」
音羽「・・・じゃあ」
   数歩先に進んで鷹志に向き直る。
音羽「うちのシャワー貸してあげる。駅から
 そんなに離れてないし」
鷹志「それはさすがに迷惑・・・」
音羽「言ったじゃないですか。お母さんもう
 家にはいないって」
   二人の間の張り詰めた空気。
音羽「私を見てた時、何を考えてたの?」
鷹志「何って・・・」
音羽「この女いくつくらいだろ結構いってる
 っぽいぞ、とか、冴えない格好してんな、
 とか?」
鷹志「・・・・・・」
音羽「別にいいの、事実だから」
   さらけ出すように立っている音羽。
音羽「一人で必死に生きてたらいつの間にか
 忘れちゃったんです、自分に構うこと」
鷹志「・・・・・・」
音羽「でもね、あの頃より少しくらいは色っ
 ぽくなったんですよ、ほら」
   ダウンの前をチラリと開いて。
   セーターに包まれた豊かな肢体。
音羽「だから、先生・・・」
   音羽の手を取って早足になる鷹志。
音羽「先生?」
鷹志「乗り遅れる。急ぐぞ」
   鷹志に引っ張られる音羽の手首。
   幅広の地味なブレスレットが光る。

●音羽の実家・玄関外・朝
   差し込まれ回される鍵。
   揺れるオルカキーホルダー。
   開くドア、一歩踏み入る音羽。
   振り返ると、躊躇った表情の鷹志。
   音羽、鷹志の手を引いて。
   二人を飲み込んで閉まるドア。

●雨宮家・リビング・午後
   歌うような掃除機の音。
   軽やかに操る鷹志の妻。
   大きく膨らんだお腹を労わりながら。
   微かに聞こえる電話の呼出音。
   掃除機を切って駆け寄る妻。
妻「もしもし雨宮です。・・・はい、いつも
 お世話になっております。・・。え、まだ
 伺っておりませんか。・・・いえ、こちら
 の方にもまだ。・・・私も直接出社すると
 聞いていたものですから」
   玄関ドアが開く音。
妻「はい、一度携帯にかけてみます。申し訳
 ございません。失礼いたします」
   受話器を置いて振り返る妻。
   亡霊のように立っている鷹志。
   妻、ビクッとして。
妻「・・・鷹志くん、どうしたの」
鷹志「どうしたのって、帰って来たんだよ。
 ただいまって聞こえなかった?」
妻「電話してたから。って、会社は?」
鷹志「え」
妻「今その電話だったのよ。まだ出社されて
 ないけど大丈夫ですかって。仕事用の携帯
 も繋がらないからって」
鷹志「あ・・・そうだった・・・」
妻「新幹線遅れてた?」
鷹志「いや、うっかりしてただけ・・・」
   手首をポリポリと掻きながら。
   どこか夢うつつの風情。
鷹志「とりあえず今から行くよ。連絡は俺が
 しとくから。ごめん、心配かけて」
妻「何でもないならいいけど・・・」
   赤くかぶれた鷹志の手首を見て。
妻「塗り薬、いる?」
鷹志「ああ、うん、お願い」
   初めてかぶれに気づいたように。
   薬箱を探す妻。
   鷹志、窓辺に歩み寄って。
   どこかから聞こえる少女の鼻歌。

●旅館・客室・早朝(回想)
   広縁の窓に肘をついた少女の音羽。
   風に髪をなぶらせ明ける空を眺めて。
   着崩れた浴衣から覗く上気した肌。
   穏やかな表情で鼻歌を口ずさむ。
音羽「たった十年そこそこの人生♪」
   背後の部屋には寝乱れた布団。
   はっきりとは見えないが眠る人の姿。
音羽「私じゃないと出来ない方法♪」

●音羽の実家・自室・午後
   学生時代のまま残された音羽の部屋。
   淡い光に浮かぶ少女時代の残滓。
   薄着で窓辺に腰かける音羽。
   その体は熟しているが表情は幼い。
   ブレスを反対の手で回しながら。
   唇から溢れ続ける歌。
音羽「私の人生だもん♪」





                   了

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