七十路harryの混々沌々日乗

七十路harryの混々沌々日乗

我が麗しのミャンマー


「我がうるわしのミャンマー」


機内

2001年4月4日、午前8時30分、私たちの乗り込んだタイ航空303便は定刻通りバンコック・ドン・ムアン空港をヤンゴンへ向け離陸した。いよいよ未知の国ミャンマーへの出発だ。

エアバス機内の乗客は定員の凡そ三分の一。比較的ゆったりとた空の旅だ。大きな手荷物を黙々とボックスへ担ぎ上げていたタイ・中国・インド系の人々。いずれも運び屋さんか商用とおぼしき地味な乗客がその大半。時折、小豆色の衣を纏った僧侶が、楚々として通路を行き来する。唯一機内を華やかせているのは年老いたフランス人ツアーの一行だけ。日本人らしい乗客も私たち二人以外は確認できない。

バンコックからミャンマーへの空のルートは、現在、1日2便のこのTG機のみのだ。以前は日本からの直行便も出ていたそうだ。関西空港から全日空が週3便飛んでいたが、2000年2月頃に取り止めになっている。これは後に、当時のANA機に乗ったことのある人から聞いた話だが、ヤンゴンから関空まで乗客はわずか日本人3人だったこともあったそうだ。これも後日知ったことだが、TG機の乗員達は凡そ1時間20分のフライトを終えてヤンゴン空港に到着しても、折り返してバンコックに向け飛び立つまでは1歩も機内からは出られないそうだ。両国は現在戦争中だからか。

他に陸路では中国・雲南や中部山岳部に何ルートかあるらしいが、今もタイ軍との間に激しい戦闘が続いており、私達一般の旅行者には現実的なルートではないという。

入国カードの記入を済ませ、機内食を食べ終わると、私は小型のビデオカメラをそっと窓の外に向け、断続的に回し始めた。眼下を覆っていた朝靄が気温の上昇とともに積乱雲に変わり、雲間から薄っすらと山々が見えてきた。この辺りがタイとミャンマーとの国境のようだ。北のドーナ山脈が途切れ、南のピラウタン山脈へとつづく間の山岳地帯。険しい山々がひだのように折り重なりながら拡がっている。この下の深いジャングルの中で今日もまた、兵士たちが銃を打ち合っているのだろうか。

その昔、私の伯父が彷徨ったというジャングルもこの下にあるに違いない。インパール作戦に参加した彼の部隊は、ミトキーナで後退を余儀なくされ、その後は敗走に次ぐ敗走。インドシナ半島を縦断の末、シンガポールに辿り着いたという。幼い頃、彼は戦争の話をよくしてくれた。九死に一生を得たはずのその伯父も既に他界した。生きていてくれればいい土産話ができたのに…。

機がゆっくりと降下を始めた頃、海が見えてきた。マルタバン湾だ。どんよりと黄色く濁っている。この海は大地の養分をたっぷりと含んだ豊な海だという。どんな魚が獲れるのだろう。再び陸地が現れた。一面の湿地帯だ。あれはエーヤーワディ川の支流のひとつだろうか。果てしなく拡がる扁平なデルタの中、ダイナミックにSの字を描いて蛇行する川面が陽光を浴びて浮かび上がる。まるで黄金のドラゴンだ。
飛び島の所々に集落らしいものが点在している。しかし集落と集落をつなぐ道や橋がない。この果てしない湿地帯のど真ん中で、あの人たちはどんな暮らしをしているのだろうか。

やがて機体が左へと大きく旋回して着陸態勢に入ると、一面に眩ばゆいばかりの緑の森が拡がる。そして原野。縦横に道路が伸びる。Mさんが言った「失敗した工業団地が見えるはずだよ」 
ミャンマー軍事政権は一時、経済開放政策をとっていた。積極的に外国資本を誘致するための工業団地をヤンゴン郊外に造ったが、インフラの不整備と、相次ぐ非合理な規制の仕打ちに懲りた外国企業は、やがて次々と撤収していった。現在も操業している企業はごくわずかだと聞いている。今回、その生き残りの一社を訪問する予定だ。一瞬、赤茶けた荒地が過ぎ去った。あ、あれがそうか。

更に高度が下がる。すぐ足元に生い茂る木々の緑が迫る。その陰に垣間見えるひっそりとした佇まいの家並が次々に飛び込んでくる…。タッチ・ダウン。ビデオはまだ回っている。
余りにも殺風景な空港風景だ。あれがターミナルビルか。青緑の切り妻屋根、破風板部分から円柱にかけて施された艶やかな黄金の装飾、白い壁。しかしどこかくすんで、簡素な趣の建物が忽然と建っている。これがミャンマー連邦という国の玄関の佇まいか…。
通路に並んだ乗客たちが動き出すまで、私はねばってカメラを回し続けた。


空港

乗員たちの笑顔に見送られて機外へ出る時も、私はカメラの電源をスタンバイにしたまま肩からぶら下げていた。チャンスがあればいつでも回せる状態にしておいたのだ。しかしタラップへと足を踏み入れた次の瞬間、私の目論みは見事に潰えてしまった。階段下の両サイド、降りてくる乗客を挟むようにして見上げる警備兵。ライフルを手にやや脚を開き、瞬時に反応できるような姿勢で階段の上の私達一人一人を睥睨している。その兵士の眼とこちらの眼が合ってしまったのだ。
年齢は二十代半ばのまだ幼ささえ残っている顔だが、その眼光の射抜くような鋭さに私はたじろいでしまった。そうだ、彼らはこの瞬間にも本物の戦争をしているのだ。もし乗客の中に敵が紛れ込んでいて仕掛けてくればどうなるか。あの眼はまさに殺すか殺されるかの瀬戸際に立っている者の眼だ。私は威圧され、そそくさとノー天気なツーリストよろしくバスに乗り込んだ。


ターミナルビルに向かう私達には幾つかの気がかりなことがあった。あの警備兵の存在がそれを不安に変えた。軍事独裁政権下にあり、アウン・サン・スーチー女史率いる民主化運動への弾圧事件などで諸外国から経済制裁を受けているミャンマーでは、現在、ジャーナリストの入国はほとんど不可能に近い。もし、大変な時間と労力(時には領収書の出ないお金?)を費やして入国出来たとしても、監視役付きの厳しい制約の中での取材しか出来ず、ミャンマー政府のプロパガンダに利用されるのが落ちだと言われている。
こうした状況から、通信社や外国の各メディアはお隣のバンコックに駐在員を常駐させ、旅行者や現地の知人からかすかに漏れてくる情報に聞き耳を立てているのが現状だ。私たちは今、その鎖国の鎖の輪を潜ろうとしているのだ。

私の旅の相棒、Mさんはれっきとしたフリーランスのジャーナリストである。1年のうち300日以上が海外での生活。そのための便利さから住まいを成田空港のそばに移したほどだ。主にバンコックのホテルをベースにアジア諸国を飛び回り、共同通信はじめ国内各紙(誌)やバンコク週報などエネルギッシュに送稿を続けている人だ。身分が分かれば即刻拒絶され、強制退去させられることは間違いない。
彼は今回が3度目の入国である。入国カードのOccupation(職業)欄には「President」か「CEO」Purpose of visit(入国目的)欄ではTouristにしるしをつけて潜り抜けてきた。

彼にとっては1年ぶりの訪問だが、その間、余白が無くなってわざわざ増頁してもらったというパスポートの、所狭しと押された認証印の1つに「PRESS」の文字が入ってしまったのだ。バンコックのミャンマー大使館でビザを申請したときも、その印に気付かれなければ良いがと互いに案じたが、そちらでは翌日にあっさりOKが出た。代わりに1500バーツ余りの2人分の手数料の領収書は請求してももらえなかった(?!)という余談もある。
彼は念のため「経営コンサルタント」の肩書きを入れた名刺を新たに刷ってていた。事実、アジアへ進出する日本企業からアドバイスを求められることも多く、詐称ではないのだ。万が一突っ込まれれば、諦めてバンコックに引き返すまでだと覚悟も決めていた。

一方私の方はと言えば、新たな事業展開の可能性を探るための撮影取材の旅ではあるが、「PRESS」とは程遠い一介のビデオ制作者に過ぎない。いざとなれば「ちょっと深入りするかもしれないビデオマニアの観光客」で言い訳も立つ。しかし最初からカメラを取り上げられたのでは唯の物見遊山に過ぎず、東京で留守を預かるスタッフにも申し開きが立たない。念のため名刺は荷物の奥に仕舞い込んでおくこと。刺激になるような荷物も避けたほうが懸命とのアドバイスに、目立つ業務用カメラの持ち込みは最初から諦めた。

さらに、中型のVX-1000(SONY)は持って来たものの、やはり素人には見えそうもないということでバンコックのホテルにお預けとした。結局、憂い無きは小さな小さなデジタルカメラ(PC-10/SONY)と一眼レフ(α-7/ミノルタ)、両機が併用できるコンパクトな三脚のみで勝負することにした。バンコックを立つ前夜のホテルの部屋で、何度も自分の出で立ちを鏡に映したあげく「ちょっとマニアックな観光客」ということでお許しを請うことで迷う気持ちに決着をつけた。

今のミャンマーには絶対に持ち込めないものがある。それは携帯電話とパソコンだ。前述したように電波やインターネットを使われると国内の情勢がいとも簡単に外に漏れてしまうからである。そのためホテルからは掛けることの出来る国際電話やファックスの料金も異常に高く、検閲されている可能性が高いと言われている。一般のエアメールも開封されているという話を何人からも聞いたことがある。旅行者の国でしか使えない携帯電話であっても、通関で見つかるとたちまち没収されてしまうとか。しかし出国時には返してくれるそうだ。
例えこうしたご禁制品をうまく持ち込んだとしても、外国人が国内で使っているところを見つかると即刻逮捕・監禁されて1年は帰れないと脅かされたこともある。今も密告制度が残っているという背筋が寒くなるような話も聞いたことがある。PCを我が伴侶として糊口を凌いでいるMさんと私は、数時間前のバンコックのホテルで、それぞれ愛用のIBMと泣き別れしてきたばかりだつた。今回は、そのパソコンが一般の人たちの間でどの程度、どのような形態で普及しているのかを知ることも一つのテーマだ。

それでも大胆と言うか旅慣れているというか、Mさんらしいもう一つ心配事があった。彼はワープロ(書院)をキャリーバックの底に忍ばせて来たのだ。空港に迎えに来てくれているはずの今回の旅の案内役Iさん(ミャンマー在住の日本人)への約束のプレゼントだとか。パソコンではないが形状がそれと見間違われる恐れのあるシロモノである。もし見つかったときにワープロとパソコンの違いを説明しても、果たして彼らが理解してくれるだろうか。
バスがターミナルビルに到着した。「さあ、ここまできたら後には引けない。堂々と胸を張っての前進あるのみだ」Mさんが先にバスを降りた。

潔癖なまでにワックスがけされた灰色のリノリウムの床、砥の粉にニスがけの簡素な木製の内壁。私たちが最初に足を踏み入れた建物の中は、無駄な什器や装飾を一切排した、ガランとした吹き抜けの空間だった。人の流れに沿って右手に進むと、中央に2箇所、入国審査のゲートが待ち受けていた。木製のボックスの中にはカーキ色の制服を着た審査官が無表情で書類を見ている。私達は左のボックス、三つ編みを後ろに束ねた中年の女性審査官がいるボックスの前で列に加わった。

Mさんの番が来た。書類を提出して既に数分が経っているがなかなかOKが出ない。不信感を持たれたのだろうか。苛立ったMさんが私を手招きした。彼は私のパスポートも開いて見せながら「We are same group…」とジェスチャーを混じえ、しっかりとした声で説明を続けている。私も近づいてガラス越しにボックスの中を覗き込んだ。

彼女はファイルの頁をゆっくりと捲りながら、リストの中からMさんの名前を探しているようだった。1ページにおよそ20人分の名前の頭文字の上を彼女のボールペンの先が何度も行き来している。私ははじめ、それが要注意人物のリストだと思い込んだ。そして何故だか感心した。Mさんの名前があれば、彼の活躍ぶりが証明されたことになる。私の目は場違いにも「どれどれ」と言わんばかりに彼女のボールペンの先を追っていた。

Mさんが「この国はまだこんな原始的なことをやっているのか」と愚痴った。どうやらその書類はブラックリストではなく、航空会社から提出された搭乗者名簿のようだ。それにしても時間がかかりすぎる。私の後ろに並んでいた人たちが一斉にもう一つのボックスの方に移動した。隣に立っていた年上の男性係官が彼女に耳打ちした。やっとOK。続く私も何故かそのままパス。このような作業はコンピュータさえあれば一瞬にしてチェック出来るものを…。時間が過去へとスリップしていく。

次のゲートはあの悪評高い強制両替所だ。この国ではFITビザ(個人旅行者観光用ビザ)で入国する者には、ミャンマー政府が独自に発行する一種の金券で、一般に流通しているチャットに換金するとさらに率が悪くなるというFEC(外貨兌換券)への両替が義務付けられているのだ。要はこの国に入る以上はこれだけのお金を落としていけと言う強引な外貨稼ぎだ。事前に読んだ旅の案内書ではUS$300と記載されていたが、この時は何故かUS$200になっていた。
Mさん曰く、前回は白人のバック・パッカーたちが食って掛かっていたとかで、爪に火を灯しながら世界中を回る貧乏旅行の若者たちにとってはこの金額は大変な負担だ。余りの悪評に政府も少しは考えたのかも知れない。

さていよいよ最後の関門の税関だ。流れに任せて進むうちに私たちは別々のカウンターで受けることになってしまった。いよいよ私の番だ。出来るだけ持ち物を省略したので、荷物は三脚の脚が飛び出たリュックと肩に掛けた小型のビデオカメラだけだ。
係官は3人、30歳前後の若者だ。私のリュックの中から一眼レフや付属のアタッチメンを取り出すその表情や動作には、どこか業務外の好奇に満ちたものがある。一人が早口で私に何かを言いながら、肩にぶら下げたビデオカメラを指差した。「それは最新型か?」それとも「いいもの持ってるじゃないかちょっと見せてみろ」言葉は全く分からないが、私にはそんなニュアンスに感じ取られた。カメラに手をやりながらマニアック?に微笑んで見せると、彼のいたずらっぽい笑顔が返って来た。以心伝心か。
そう、そうですよ、私はこのちっちゃなビデオカメラで、あんたの国の見るもの聞くものぜーんぶ撮らせてもらうよ。よしこれでOKだ。問題なしだ。「Thank you!」

Mさんも、私の後を追うようにして待合室の方に出て来た。「どうでした」「ウン、気がつかなかったみたいだ。不思議だね」「なんだかラッキーですね」
私は初めてミャンマーという国の玄関に足を踏み入れながら、あのタラップの下で銃を手にしていた警備兵の圧倒的な殺気と、入国審査官や税関係官の言動が醸し出す人の良さとのギャップに戸惑っていた。この国の現実とはこういうことなのか。
私たちは無事通関を終えると、ほっとしたところで案内役のIさんと通訳のT青年の出迎えを受けた。

お行儀が良い…という言い方は適切かどうか。待合には20人余りの出迎えの人々が、あたかも足元にラインを引かれたように横一列で到着客を出迎えていた。みんな規則に従順なのか。空間の奥行きが狭く、すぐ左に建物の出口があるためにお客に通路を確保してあげようという心優しい配慮からか。それにしても不思議な雰囲気の対面の場所だ。どの空港でも見かける出会いや再会の定番のアクションはどこにも見当たらなかった。この時はたまたまだったのか。Mさんと再会したIさんTさん、そして初めてお目にかかった私とIさんTさん。軽い会釈と笑顔は交わしたが「挨拶はのちほどゆっくり…」と、ほとんど歩を止めることなくターミナルビルを出た。

外は日差しが強い。しかし前日までの4日間、バンコック中を歩き回った私の身体はもう暑さに頓着しなくなっている。駐車場に向かう緩やかな坂の途中、ターミナルビルが程好く収まる辺りで私は遠慮がちに尋ねた。「ちょっと撮っても大丈夫ですか?」「大丈夫ですよ、どうぞ」Iさんがさらりと促してくれた。小さなモニターの中、表側から見てもやはりどこかのローカル空港のビルにしか
見えない簡素な建屋、植え込みの所在無さ気な数本の痩せた椰子の木。その手前、打ち放しの継ぎ目に沿って雑草が列をなす昼中の坂を、ロンヂーにサンダルがけの男性たちがゆったりと登って行った。とうとうミャンマーへ来たのだ。私は独り頷いて彼らの後を追った。


IさんとTさん

ターミナルビルから一段下がった小さな広場に、車は停めてあった。白いセダンで車種は不明だがこれは確かに日本車だ。何年前の車だろうか、東京ではもう見かけない年代物だ。車体のあちこちに腐食が進み、塗料が浮き上がっている。後でわかった事だが、この車は借り物で、Iさんたちが私たちのために一番状態の良いものを選んでくれていたのだ。87年のソウルを思い出した。空港から市内へ向かうタクシーの中で、足元に空いた小さな穴から路面が猛烈な勢いで走るのを見て、思わず吊革を握り締めたあの車に比べればはるかにものがいい。Tさんの運転も丁寧で落ち着いている。私たちは走り始めた車内で初めて、心からの挨拶を交わした。

Iさんは1943年の鳥取県生まれ。地元中学を卒業すると大阪の大手電機メーカーに就職したが、結核を患って退社。治癒後様々な職業の変遷を経て45歳で独立。大阪市内に住所を置く商社のプレーイングマネージャーとして台湾、中国、マカオ、フィリピン、タイなどを奔走、89年にこのミャンマーへやって来た。当時、ミャンマーが輸入に頼っていた塩ビパイプの製造工場を政府との合弁で立ち上げる計画に参加するためだった。双方の協議は難航し、いたずらに歳月ばかりが過ぎていった。日本側代表のIさんも、自らの退路を絶ってまでの忍耐強いプロジェクト推進だったが、契約締結の直前、相手方の転意によってそのプロジェクトは破綻した。
二人の日本人パートナーは失意のうちに帰国したが、Iさんはヤンゴンに留まった。当時はまだそれなりの数がいた日本人ビジネスマンや観光客相手に市内で日本食レストランを開いたが、やがてその商いも立ち行かなくなってやむなく閉鎖した。現在はスポット的な輸出入で糊口を凌ぎながら、新たな事業への模索を続けている。灰色がかった長めの癖毛、日焼けてはいるが丹精で穏やかな顔立ち…13年間も、何がこの人をこの地に留まらせているのだろうか。

そのIさんが「君」をつけて呼ぶ通訳のTさん。ヤンゴン工業大学で地理学を学んだが、この国の若者の例に漏れず、卒業しても就職口はなかった。日本での研修に旅立った兄と入れ替わりにIさんの仕事を手伝うようになった。Iさんにとっては唯一の社員であり,良きパートナーでもあると言う30歳。
空港の待合で初めて会った時、私は彼を日本人と見間違えた。髪は短く刈り整え、色白の凛とした顔立ち、糊の良く効いた白いスタンドカラーの長袖シャツ。私たち4人の中で唯一のジェントルマンだつた。話す日本語も流暢でイントネーションにも違和感を感じない。元日本軍の憲兵隊の通訳をしていたお父さんから習ったのだそうだ。彼の名前も耳が慣れるまでは「○蔵」と聞こえた。唯一つ日本人と違ったところは、腰にロンヂーを巻き、サンダル履きだったことだけだ。その薄茶色のロンヂーの着(履)きこなしにもどこか侍にような気品と清潔感があった。

空港の敷地の境だろうか、道路が1箇所だけ狭められ、両側に黄色と黒の縞模様に塗られたブロックが飛び出ている。一見すると何でもない造り損ないのコンクリートの塊だが、有事にはトーチカになるのだろう。
Mさんが思いつくままにミャンマーの近況を尋ねる。助手席のIさんがそれに輪を掛けて応える。沿道に立っていた観光人形オバヨは全て撤去されたこと。ガソリンだけは政府の管理だから1ガロン180チャットのままで上がっていないこと。オフィシャルに入って来る外国タバコはマイルドセブンだけで、ラッキーストライクやマールボローなどは全部追い出された。ヤミでは入っているが高くなったこと…。
私は二人の会話に耳をそばだてながら、始めてみる沿道の景色にカメラを回し続けた。
ミャンマーは右側走行。市内に向かう往復4車線の広い幹線に合流し、上部に金色の装飾を配した白いアーチを潜ると、次第に車の数が多くなってきた。走る車の10台に9台以上は中古、しかも日本車が目に付く。
窓のすぐ上に鮨詰めのバスが接近して来る。車内の乗客たちの表情を暫く収めてからカメラをワイドへと引いていくと、どこかで見かけたバスだと慌てて記憶をたどる。ン、神奈川中央交通?何で。注意していると小田急バスや東急バスなど日本で使っていたペイントそのままの車体が走っている。中には○○株式会社や、銘菓の○○と日本語をそのまま残したトラックやワンボックスカーの姿まである。こんな外国でこんな車と伴走するとは、まさに悲喜交々だ。Iさんが教えてくれた。「グレーのナンバープレートに白い☆印がついた車は撮らない方がいいですよ。あれは軍の車ですから」

MさんからIさんへのプレゼント、ワープロの使い方をホテルに着いたら早速教えましょうと言うことになり、私たちは途中でIさんの家に立ち寄ることになった。変圧器を取りに帰るためだ。ミャンマーの電圧は220ボルト。日本の電化製品はそのままでは使えない。幹線を外れて無舗装の細い道に入ると、背の高い椰子や潅木が茂る閑静な住宅地だった。その一つ、こじんまりとした塀囲いの門の前で私たちは車を降りた。Iさんが声を上げると、鉄の扉が開いて、中からTシャツ姿の初老の男がてきた。このような一軒屋では用心のために必ず門番を雇っているそうだ。借家の独り住まいからか、庭の手入れには無頓着のようだ。私たちは10坪あまりの、物干し竿が空を横切る庭の中で待った。塀の脇の小屋は開けっ放しで、雑多な荷物が無造作に積み上げられていた。その小屋の軒下に並べてあった鉢植えの一つを、玄関から出てきたIさんが手に取って説明してくれた。数週間前に植えたばかりのナフサだと言う。背丈は既に40センチ余りに伸び、幼児の手の平大の葉を元気良く広げている。Iさんは今、紙パルプの原料になるこの植物をミャンマーで大量に栽培し、日本に輸出することを考えているらしかった。


スーチー邸

幹線に戻ると、私はアウン・サウン・スーチー女史が軟禁されている家はどの辺りにあるのかを尋ねた。滞在中にチャンスがあれば…と思っていたが、意外にもあっさりと実現することになった。近くだからちょっと回り道をして寄ってみようと言うことになったのだ。ただし、途中で通行止めになっているので、行けるところまでだという。車は樹木の切れ間から湖畔が見え隠れするインヤー湖の東側を下って行った。

「この右の裏側辺りですもんね」
「もし、Tさん、まずかったらいいよ。そのまま行っちゃって」
「そう、いいですよ、そのまま行っちゃって。無理しないで」
「…」
「この右、もう入っちゃいけない処じゃなかったっけ。あ、お巡りさんがいるよ」
「いや、もうちょっとぐらいまで行けるんです」
車が速度を落とて右折した。運転席のすぐ後ろに座っている私には警官の姿が確認できない。用心のためカメラの位置をぐっと下げた。それらしい人影がないので再び持ち上げた。モニターなしのめくら撮りだが仕方がない。

「この右ですね、撮ってね」
「はい」
「まだまだ、もうちょっといったら…あの…言いますから」
「どっか、この湖の裏に面した…」
「あ、あの前からは入れない」
「あっ、あっ、あそこから入れない」
「お巡りさんがいるでしょ。あの先がスーチーさんの家です」
「左の前にお巡りさんがいるでしょ。ゲートがあって、あそこの先がスーチー…あっ、見えるじゃない。赤い旗が立ってるところの奥のほうがスーチーさんの家ですよ。いま見えますから回してて下さい」
「回してます」
「…」
「…」
「じゃ、Uターンして」
「大丈夫です。もう大丈夫です」

車は再び幹線道路に戻った。私は流れる窓の景色に目をやりながら、日本で放送されたテレビニュースの映像を思い出した。道を覆うまでに緑の葉を茂らせた街路樹。その下の涼しげで平和な空間であるはずの木陰を、恐る恐る、時には勇敢に前方へと歩み寄るロンヂー姿の若者達の列。突如、乾いた銃声が鳴り響き、一斉に身を伏せる者、逃げ惑う者…。傷つき血を流した若者が仲間に運ばれて行く。
どうしてこういう状況にふさわしい機能的な服装で出かけないんだ…。69年前後を新宿で過ごした経験を持つ私は、ブラウン管の中の彼らのロンヂー姿に、ある種愚鈍さを覚えた記憶がある。
確かにこの風景だ、この街のどこかの一角でそれは起こっていたのだ。

Iさんが話をしてくれた。
エイト・フォー(1988年8月8日に始まった民主化運動)の発端は若者同士の喧嘩でヤンゴン工業大学(元ラングーン工業大学・YIT)の学生がナイフで刺殺された事件の裁判の行方をめぐって、YITの学生達が構内で騒ぎ出した。騒ぎは他の大学にも飛び火し、やがて彼らはデモ隊を組み、覇を争うように市内へと繰り出した。市内のあちらこちらで警官隊との小競り合いが発生し、それに一般市民が加わった。付和雷同する群集でヤンゴン市内は騒然となった。騒ぎに加わった市民の中には公務員や主婦、警備の側のはずの警察官、なかには僧侶の姿もあった。その人出を当てにした物売りまで並んだと言う。後に知ったことだがこの騒乱のきっかけと、ヤンゴン市内の騒乱の様子はIさんが若いミャンマー人パートナーのTさんから聞いた話だった。当時、ちょうど18歳前後のTさんは何らかのかたちでこの騒乱に関係していたのかも知れない。

Iさんは運動とは言わずに「あの暴動」と言う。掠奪行為はひどかった。商店や工場、学校までやられた。殊に狙い撃ちされた国営企業では原材料や機械はおろか、屋根のトタンまでが剥がされて持って行かれた。押し寄せる暴徒を前に、バリケードの内側で懸命に工場を守った知人が、今もその当時の状況を身を震わせながら話してくれると言う。
悲劇は更に深刻化した。警察や軍隊がリーダー達の探索を始めると、疑心暗鬼となった彼らは、警察のスパイだと勘違いした名も無き一般市民を捕らえ、悲惨なリンチを加えた。ヤンゴン市北のミャ・オックラや南のトウン・オックラ地域では、切り落とされた彼らの首が道に晒された。その写真もあると言う。こうしてエスカレートしていった民衆の暴挙を鎮圧するには軍隊の出動しかなかったのだと言う。

民主化運動の指導者達は「民主化を要求したデモだった」とか「自由選挙の実施を要求したデモだった」と口にするが、デモの実態を調べれば調べるほど、彼らの主張するところと現実には大きな隔たりがあった。ほとんどのデモ隊が民主化運動の指導者の範疇に無く、民主化運動とは全く別次元の無統率で無軌道な暴動に他ならなかった。
世界のマスコミはこの1988年から89年にかけての暴動をこぞって民主化と自由選挙を求めて立ち上がった善玉=民衆と、それを武力で鎮圧する悪玉=軍事政権という図式で報道した。そこに、千人あるいは二千人とも言われる犠牲者が出た暴動の最中、民主化運動の旗印としてアウン・サウン・スーチー女史という美人のヒロインが誕生したんだ。マスコミのシナリオにとっては欠かせない、まさにジャンヌ・ダルクの登場である。悲劇のヒロインとして祭り上げられた彼女は、暴動デモが終焉した後、ノーベル平和賞を受賞することになる。

Iさんは「穿った見方をすれば…」と前置きをする。多くの名も無き市民が軍隊の銃火に命を落としたにもかかわらず、民主化運動の指導者たちは誰一人として犠牲になることなく、暴動が終焉した後の90年に実施された総選挙に立候補している。民主化運動の指導者達は、指導者としてデモの先頭に立って指揮をしたのではなく、常に群集の中に隠れてデモ隊のリーダー達を操った、卑怯な先導者の烙印を押されたとしても仕方がない…。

ここで私は、日本を発つ前に開いた日本ビルマ救援センター(BRC-J)のホームページを、帰国後改めて開いてみた。「はじめての方々への解説」のコーナーで1986年までビルマに留学をしていたという根本敬氏(PFB運営委員、東京外国語大学助教授)はこう書いている。
この1988年は、中国・天安門事件の1年前であり、フィリピン・マルコス体制が民衆の蜂起によって崩壊して2年後のこと。韓国でも民主化宣言がなされるなど東アジア、東南アジアでは民主化への大きなうねりが生じていた…。と前置きのあと、こう続けている。

「ビルマの民主化運動は、ビルマ式社会主義という体制に反対する運動から始まりました。それはネィウィン(1911年生まれ)という独裁者に対する民衆の強烈な反発でもありました。ネィウィンは元国軍最高司令官で、1962年に軍事クーデターによってビルマで全権を握ってから26年間、軍と情報組織の力を用いながら、独自の社会主義思想に基づいてビルマを治めてきた人物です。しかし、ビルマ式社会主義は、極端な経済不振と、国軍将校を中心とする特権層の腐敗、さらに人権抑圧をもたらしたため、国民の不満を買い、それが1988年に爆発したのです」

さらに続ける。「ただし、1988年のある日に人々がいきなり立ち上がったというわけではありません。運動の直接のはじまりは、その年の3月、ラングーン工科大学の一部の学生が、体制に対して命がけの抵抗を始めたのがきっかけです。警察や他の官憲によって発砲されたり撲殺されたり、警察車輌内で窒息死させられたり、獄中でレイプされたり、さまざまな弾圧を受けながらも、彼らは屈することなく、運動を続けました。そして多くの大学生・高校生がその後に続くようになり、同年8月に一般市民も合流するようになったのです。」
ニュアンスが違う。後に続く文章にも、この若者達の喧嘩殺傷事件、晒し首事件のことには一言も触れていない。いずれ機会をつくって掘り下げてみたい課題だ。


カンドーヂー・パレス・ホテルはヤンゴンのダウンタウンから北に約1キロ。市民の憩いの場として知られるカンドーヂー湖の南岸に佇む高級リゾートホテル。このような建物をビルマ建築様式と言うのだろうか。頂きに切り妻屋根を三層に重ねた楼を組み、生い茂る緑の中から忽然と姿を現す褐色の屋根の雄大さ。内部には巨大な柱と梁を大胆に廻らせ、細部はコロニアル調の格子に至るまでチーク材がふんだんに用いられている。その木肌の黄褐色と下層部のどっしりとした漆喰の白壁とが調和して、南国らしい風情と豪壮さを醸し出している。建物の半ばは辺りの深い緑に沈み、半ばは湖面へと迫り出したその佇まいは、まさに名前が示す通り湖畔の宮殿そのものだ。

私たちはそんな壮麗で華美なホテルの車寄せに、決してそぐうべきも無いあのオンボロセダンで乗りつけたことになる。私たちも驚いたが、迎える側もきっと驚いたに違いない。というのも、これは後に知って感動したのだが、私たちはVIP歓迎セレモニーの真っ只中で、その主役になっていたのだ。
車が頼りないブレーキの音を立てて静止すると、ドアボーイがすかさず寄ってきてドアを開け、丁重に赤絨毯へと導いてくれる。立ち止まってロビーへと続く階段を見上げると、下段、中段、上段の踊り場には、この国の古代の兵士とおぼしき赤と黄色の雅な衣装を纏い、槍を手にした屈強そうな若者が整列し、直立不動の姿勢で到着した客人に敬意を表してくれている。その赤絨毯の上を、ヒョイと気軽に隣の国に出かけてきたオジサンといった風のMさんと、トレッキングシューズに黒のGパン、黒のTシャツに黒のルンペンハットの、怪しげな中年バック・パッカー風の私が威厳(実は戸惑い)を正して進んでいく…。わずか一分余りの体験だったが、狐に抓まれたようなとはこのことか。

このVIP待遇については話が前日のタイにさかのぼる。バンコックの空港から高速道路で市内へと向かうと、途中右手にひときわ高くそびえるビルが見える。94階建ての超高層ビル、 バイオーク・ビルディングである。市内では最も高いビルだが、現在のビルの上に更に180メートルのテレビ塔を乗せる計画で世界一を目指して建設中だったが、97年の経済危機以降は工事が中断。その間にマレーシア・クアラルンプールのペトロナス・ツイン・タワーに先を越されてしまったという、バンコック市民にとっては遺恨の象徴的存在になっているビルである。現在は工事が完了した部分をバイオーク・スカイ・ホテルとして営業をしているが、私たちのヤンゴンでの逗留先であるカンドーヂー・パレス・ホテルも、このバイオークグループが経営しているのである。以前はミャンマー政府直営の言わば国立のホテルだったが、深刻化する国内の経済不振から同グループに売却されたものだった。
そのバイオークグループが経営するホテルの一つで、バンコック・スクンビット通りに近いソイ22にあるジャディ・パビリオン・ホテルのマネージャーPさんがMさんの知人だった。ビザが取れた日に、私たちは早速このPさんをホテルに訪ねたのだった。ホテルのレストランでスパゲティーとバニラアイスクリームをご馳走になる私たちの目の前で、Pさんは快くカンドーヂーに国際電話を掛けてくれたのだ。

部屋に案内された私たちは、更に驚いた。30畳はあるかと思われる板張りの部屋の中央にキングサイズのWベッド。サイドテーブルにそっと添えられた赤いランと白い小さな花のレイ。その向こう、間口一杯の窓の外には椰子やバナナの葉が茂り、ガンドーヂー湖の水面が拡がっている。シックでしかもゴージャスな部屋だ。こんな部屋を一人で使うのは勿体無いなと感激しているうちに、こちらもお使いくださいと案内されたドアの向こうに、なんと同じ広さのリビングルームがあるではないか。私たちは暫し驚嘆の声を上げるばかりだった。
あとからMさんに宿泊料金を確かめて三度驚いた。東京に例えるならば、椿山荘かホテルオークラあたりのスイートルームに、市中のカプセルホテル並の料金で泊まれる計算になるのだ。   
荷物を解き、カメラのバッテリーを充電器にセットしている間に器一杯の果物が運ばれてきた。ボーイが退くと、私はパパイアの一切れを口に頬張りながらベッドに向かってダイブした。Pさんに感謝、感謝。
小休止の後、方々へのアポ取りの電話と今後のスケジュールの打ち合わせが終わると、ディナーまでの時間をMさんとIさんは彼の部屋でワープロのレッスン。私とTさんは所用を済ませるためにダウンタウンへ出かけることにした。

「この辺りは全部アーミーの施設です」
ホテルを出て暫く走ると、一帯が軍事施設だという道へ出た。左右に緑の鮮やかな森が続く。延々と伸びる有刺鉄線の柵までが蔦の緑に覆われていて、その向こうにどんな施設があるのかは窺えない。時折通過するゲートの物々しさでそれと判るくらいだ。この森のどこかでこの国のまつりごとが行われているのだろうか。
しばらく丘陵を下って行くと森とビルとが次第に入れ替わり、まっすぐに開けた道の行く手正面にパゴダが見えてきた。低層のビルが広がるダウンタウンのど真ん中。但し、そのすぐ向こうに建築中と思われる高層ビルが2棟建っているのはやや興醒めだが、金色の塔が南国の陽を浴びて、眩いばかりの輝きを放ちながら空へと延びている。スーレーパゴダだ。車が近づくにつれ,やはりミャンマーへやって来たのだという実感が湧いてくる。
ちなみにこのパゴダの名称のスーレーとは、原始仏教経典で使われている古代インドのパーリ語で「聖なる髪」の意味。仏陀の頭髪が納められているという。私たちはパゴダを取り巻くロータリーを一周すると、人々でごった返す市庁舎前の路上にようやくスペースを見つけて車を止めた。
外国人が珍しいのか、カメラが珍しいのか、路上に三脚を広げてパゴダを撮ろうとする私を、幾人もの人が取り巻いた。こちらも間の悪さから彼らの顔を窺う。誰の目にも好奇心や羞恥の色はあっても敵意は感じられない。素朴で温厚そうな人たちだ。彼等は液晶モニターに写るパゴダの景色と、私の動作を見比べながらいつまでも覗き込んで立ち去ろうとしない。
Tさんに促されてパゴダの中へ入った。徴収は外国人だけだと言う拝観料を払って靴を預けると、カメラを回しながらホールを渡り、階段を上っいく。ひんやりとした石畳の感触が、素足になんとも心地良い。階段の上は塔の基底部を囲むように回廊が廻り、東西南北の4箇所に大きな祭壇が設けられている。祭壇の前のお祈り所では、合掌とお辞儀を繰り返す人、じっと仏様を見詰めている人、老若男女それぞれが思い思いの佇まいで時間を過ごしていた。
どんなことを祈っているのだろうか、訊ねてみたい衝動に駆られながらカメラを回す。たいてい男は正座、女は右に足を流した座位で背筋を伸ばし、額の高さで合掌をして祈る。つぎに上体を前へ倒しながら手を床に揃え、額が付くように深く平伏す。その動作を三回繰り返した後、再び額のあたりで合掌をしながら静かに願い事を唱える…といった感じだ。こうした祈りの動作はタイの寺院でも見られたが、同じ仏教徒でも、会釈程度のお辞儀と胸の辺りで合掌をする私たち日本人の祈りの姿とではかなり印象が違う。一律に推量ることは軽率だが、敬虔の深さがが伝って来るような祈り方だ。このスーレーパゴダは市街の中心に位置していることから、買い物や仕事で近くを通ったときは、誰もが気軽に立ち寄ってこのようにお祈りをする庶民的なパゴダだそうだ。

次に私たちは「聖なる黄金の塔」シュエダゴォンパゴダへ廻った。スーレーパゴダが首都ヤンゴン市のシンボルであれば、こちらシュエダゴォンは仏教国ミャンマー連邦の象徴的存在ともいえるのパゴダだ。ダウンタウンのインド人街を走り抜け、再び北に向かって緩やかな道を登って行くと、シングッダヤの丘の上に巨大な黄金の塔がそびえている。
丘の麓から続く山門は幾何学的とも思える美しさで、切り妻の多層屋根が更に幾重にも丘に向かって連なり、その両脇を白い獅子の巨像が固めている。通常はこの屋根の下の回廊を階段かエスカレーターで登るそうだが、私たちは駐車場へ車を停めるためこの山門をやり過ごし東側の道から丘を登って行った。
ここでちょっとしたトラブルがあった。丘の斜面の上下に駐車場はあるのだが、私たちが入り口に差し掛かると、たむろしていた5・6人のポロシャツにロンヂー姿の男達の一人が駆け寄ってきて車を止めた。運転席の窓越しに、Tさんとやり取りをしていたが埒があかない。やむなく車をバックさせ、別の迂回路から上段の駐車場に上がった。30台分はあると思われる広場に車は僅か数台。私たちは涼しい木陰に車を停めた。すると突然背後から激しい怒号が浴びせられ、坂を駆け上がってきた先ほどの男達がTさんを取り囲んだのだ。ボスらしい小太りの男が彼に向かって早口で何かを捲くし立てていが、彼は毅然として動じない。暫くやり取りがあった後、Tさんが小額紙幣の一枚を渡すと、男達は私に「ご免ね」とでも言うような妙な笑顔を見せてたちまち引き上げていった。どうやら国連からのお客さんが拝観に立ち回る予定があるらしく一般の使用を止めていたらしい。例のアウン・サウン・スーチー女史と軍事政権との対話促進の仲立ちなのだろうか。それとも噂されている軍の強制労働など人権問題のことでこの国に来たのだろうか…。入り口の階段に腰を降ろして靴紐を解いた。

スーレーパゴダと同じように外国人だけだという拝観料を払って靴を預けると、境内に出るエレベータに乗った。こんな所エレベーターがあることが私には意外だった。正面の山門の階段にもエスカレーターがあると言う。2500年の歴史があるといわれる名刹なのに…。ちょうど大阪城の天守閣に登るときのエレベーターで味わった興醒めに似た複雑な気持ちだ。しかしそれも、エレベーターを降りて境内へ渡る通路で、掃除をしている娘さんを目にして私はたちまち気を取り戻した。
彼女は両頬に白くて円いタナカをしているではないか。ミャンマーに来てまだ数時間、街行く人たちの中に何人もこのタナカをしている姿は見かけたが、こうしてすぐ目の前で眺めるのははじめてだ。このタナカとは、ある植物の幹を石版と水で摩り下ろし、出来たペーストを頬や額に塗りつけるミャンマー人独特の化粧法。私たち外国人の目にはその白い粉の吹き出た顔はどうみても奇異にしか映らないが、彼女たちにとってはもっとも美しいとされる装いだ。
「撮らせてくださいね」
歳のころは15か6。彼女はモップの枝を握ったまま無防備にカメラの方に向いてくれたが、写されていると知って恥ずかしさに耐え切れなくなったのか、たちまち顔を赤らめて俯いてしまった。この寺院に奉仕に来ているのだとか。日本のお嬢さんならカメラ目線で品を作るか、照れ隠しにVサインでもするところだが、やはりこの国の人ははどこかが違う。「驚かせてご免ね」

                      (つづく)  



南東側の小さなゲートから境内へと(素)足を踏み入れた。右の広場に菩提樹の巨木があり、その大きな根本に小さな廟が祀られている。女性が独り祈りを続けている。どんな願い事をしているのだろうか、距離があるので声は聞こえない。私は横からのシルエットを狙ってカメラを回したが、一心に祈るその姿は例えレンズ通していても近寄りがたい雰囲気だ。街中のスーレーパゴダと違い、辺りには静寂が漂っている。時折小鳥のさえずりだけが響く。ふと、オウムの連中が菩提樹の下で座禅を組んでいる写真が思い浮かんだ。このような場所で実に不埒な奴等だと思った。
奥へ向かうといよいよ巨大なパゴダの出現。燦燦と降り注ぐ南国の太陽に向かって金色の塔がそそり立っている。その金色の壁面からの照り返しが、辺りの大小様々なパゴダや廟を際立たせ、まさに天上の世界を映し出している。荘厳としか言いようがない。私たちは右に左に見惚れながら、時計回りに歩き廻った。

途中、石畳の焼け付くような熱さに耐えかねて、涼を求めて大きな廟の中に入った。堂の奥に大きな寝釈迦仏を仰ぎ見る。どうしてこちらの仏様はこんなにリアルな顔をしているのだろうか。愛嬌があるとか、素っ頓狂なと言ったら失礼かも知れないが、我々生身の人間の表情に近い、親しみの持てる自然な造形だ。この世のあるがままをしっかりと受け止めて飄々とさえしている感じだ。否、その飄々さこそがありがたいのかも知れない。そこには日本の仏像の哲学的あるいは、苦行の果ての悟りの姿と言ったある種近寄りがたい崇高な雰囲気は微塵も感じられない。眼は殊に特徴がある。日本のように半眼の慈愛に満ちた眼差しではなく、どの仏様も気力を充実させてカッと見開いようなまなこだ。まるで生きた人間にフォーカスされ、全てを見透かされているようでかえって怖ささえ感じる。このあたりに小乗仏教と大乗仏教の違いが出ているのだろうか。
お堂の床には人々が思い思いに車座を作って過ごしている。いずれの組みも家族のようだ。大きな声で談笑するでもなく、まるでずっと以前からここで過ごしているかのように時が静かに、ゆっくりと流れていくようだ。私は彼らにカメラを向けた。誰もが素朴で柔和な顔をしている。Tさんを介して、家族の輪の一つに話し掛けた。北の方のの田舎から列車でやって来たそうだ。今日一日ここで何もしないで過ごすのだそうだ。とても満足そうだ。とてもシンプルな参詣というよりも雰囲気は行楽といった感じを受けた。私たち日本人の多くはいつのまにかこんな過ごし方を忘れてしまったようだ。カメラを床に置いてしりもちをつき、天井や仏様を見上げながら、彼らと同じ静かに呼吸をしていると、私にも同じような時間があったことが思い出されてきた。
私の家は母子家庭で、母親が働きに出ていたため、学校にあがるまでは近くに住む祖父母に子守りをしてもらっていた。祖父や祖母は、小学校にも上がらない幼い私をお寺の法会によく連れ出した。小さな漁師町の高台にあるお寺の本堂には、年老いた檀家の人たちが集まり、静かにお坊さんの説教を聴いていた。お説教の細かい言い回しまでは憶えていないが、私は、背中を丸めた年寄り達の間で、お坊さんの顔の表情や声の調子に、祭壇の仏様の姿や周囲の装飾を恐る恐る覗き込んだり、天井の極色彩に描かれた唐草模様や柱の上部から飛び出した像や獅子の首の彫り物を食い入るように見詰めながら、地獄や極楽の世界を想像して怖くなったり、心地良くなったりした記憶が今でも確かに残っている。檀家の人たちはお説教が終わった後も、余韻を味わうように広い本堂で三々五々ゆっくりと過ごしていた。
その頃の私のように地獄は想像しないまでも、ここに過ごしている人たちも同じような心境で過ごしているのだろうか。
私が撮ったばかりのビデオを再生して見せるとみんながが覗き込みに寄って来た。この人たちはビデオに写っている自分や家族の姿を見るのは恐らく初めてだろう。まるで釘付けになった子供のような目で見ている。モニターに映った当人と比較しながら笑っている。私はそんな彼らの屈託のない顔をさらにスチールカメラにも収めさせてもらった。一息ついた私は、一期一会と言う言葉を思いながら廟を後にした。

シュエンダゴォンパゴダを出た私たちは、丘を下って再びダウンタウンに戻った。インド人街にほど近いボーヂョーアウンサウン・マーケットの裏の駐車場に辛うじてスペースを確保すると、一軒の食料品店に入った。別に食料の調達に来たわけではない。空港で無理やり換えられたFEC(外貨兌換券)を通貨のチャットに両替するためのヤミの両替屋へ来たのだ。間口が狭く、奥行きのある店内は、右側の棚に外国製の缶詰や瓶詰め、箱入りのスナック類が疎らに並べてあるだけだ。左のカウンターにはパック入りの米が積まれてはいるが、物が頻繁に動いているような雰囲気は無い。カウンターの中に30代後半と思われる涼しげな顔をした店の主人、奥のフロアーにはその母親らしき女性が低い椅子に座って扇風機にあたりながら食事を摂っている。
Tさんとは顔見知りらしく二人は2~3言葉を交わすと、先ず、Tさんが私とMさんから預かったFECを数えて主人に渡す。それを主人が手際よく数え直し、今度はカウンターの下からチャット紙幣の束を取り出してTさんに渡す。私はそれを見て驚いた。ものすごい量だ、その紙幣の色といい厚味といい、これではまるで小さなレンガの塊と同じだ、一人分が50チャット紙幣20枚を1束にしたものが3束と小さい紙幣が数枚、とても財布には入りそうもない。大半をウエストポーチになんとか詰め込むと、マーケットの中に入っていった。外の日差しが強すぎるために、眼が慣れるまではマーケットの中が暗く見える。






































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