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2014年の正月を無事に迎える事が出来、今年こそは入院0を目指そうと意気込んでいたその矢先の事だった。それは僅かな歯の痛みから始まったが、それがやがて緊急入院の切っ掛けになるとは思いもしなかった。 1月20日、昨年末に予約しておいた三井記念病院の歯科外来へ行き、痛みのある奥歯の事を伝え、一週間後に神経の治療をする事になり、痛み止めのロキソニンと抗生剤を三日分処方して貰った。翌日の朝、左顎に違和感があり少し腫れているように思ったが、さほど気にも止めず処方された薬を服用してやり過ごしたが、22日の朝、鏡を見ると左の頬が昨日の倍ほどに大きく腫れ上がり、口を大きく開ける事もままならなかった。 痛みはそれほどでもなかったが、その腫れ具合からして尋常ではない事が起こっていると察しが付いた。夜になってから流石に心配になり救急外来へ電話を入れると、明日朝一番に歯科外来へ連絡するようにと告げられた。 この時、既に入院の予感が脳裏を掠めたので心の準備だけはしておいた。翌朝8時30分丁度に電話を入れると、「腫れてしまいましたか…」と、予想していたかのような返答だった。直ぐに来院する事と入院の可能性もあるとの事だったので、入院グッズをバッグに詰め込み支度を済ませた。 体重も増えて心不全の兆候もあったが、顎の腫れで救急車を呼ぶ訳にもいかず、かと言って電車で行く元気もなかったのでタクシーを呼んだ。 歯科外来の待合室にいる時、看護師がやって来て顔の腫れ具合を確かめて行った。1時間ほど待った後、診察室に入るといつもの担当医が「かんべさん、ごめんなさいね…」と頭を下げて来た。担当医はわたしが心不全を繰り返し何度も入院している事を知っているし、心臓の事を気遣ってこれまで歯の治療をしてくれていたのだが、今回の腫れを起こした炎症が心不全の切っ掛けにもなっているのだろうと責任を感じている様子に見えた。 「入院になりますので、内科と連携して治療に当たります…」 昨年と同様に12階の一般病棟へと緊急入院、心不全も併発している事から、担当医は歯科と内科の二人が付いた。左蜂窩織炎(ほうかしきえん)での入院となる為、循環器ではなく、一般内科のようであるが、治療方針は前回と同様、ヘパリンに加え抗生剤の点滴、そして体重を落とす為に利尿剤のラシックス投与となり、先ずは「左蜂窩織炎」と心不全の治療が優先される事となった。 炎症を起こしている部分や歯全体の検査をした結果、残存不可能な奥歯が親知らずも含め3本ある事が分かりその3本とも抜歯しなくてはならず、炎症が収まり心不全が軽快した時点で抜歯手術を受ける事となった。 2月5日、心不全が軽快した為、一旦内科を事務手続き上退院となり、翌日6日に病棟もベッドもそのままで今度は歯科・口腔外科での再入院となる。手術は6日の夕方5時頃を予定していたが、2時間ほど早まり午後3時半頃に手術室からお呼びが掛かった。 薄いブルーの手術着に着替え、点滴のヘパリンは外して車椅子で看護師一人に付き添われ7階にある中央手術室へと向かった。手術室へ入るのはこの病院で「僧帽弁置換術」を受けて以来26年振りの事となるが、今回は意識を完全に保ったままの入室である。 7階入口に到着すると、執刀医や麻酔科医、手術室看護師ら数人が笑顔で出迎えてくれた。その横には既に手術を終えた患者が一人、ストレッチャーに乗せられて病棟へと戻る所であった。ドアが開き中へと入って行く。 物々し医療器材があちこちに見受けられたが、そこから更に部屋が幾つかに別れており、私はその中の第9手術室へと運ばれた。約15畳ほどあるかと思われる 空間の丁度真ん中辺りに小さな手術台があり、その上から手術用の照明器具である「無影灯」が満月の様に白く輝いていた。 その周りを囲うように立ち並ぶ医療器材の数々はどれも見覚えのあるものばかりだったが、人工心肺だけは見当たらなった。車椅子からその小さく狭い手術台へと移り、仰向けになった。顔が動かぬ様に頭の部分が枕で固定され目隠しをされた後、口の部分だけが大きく開いた布らしき物が顔に被せられた。 バイタルチェックの準備も整い、執刀医や第一助手が優しく声を掛けて来る。 「麻酔を数本打ちますからね~、ちょっと痛いけど御免なさいね…」 「直ぐ傍にスタッフがいますから何かあれば合図して下さいね」 「メリメリ、ミシミシ…」「はーい、一歩抜けました」それは想像していたより遥かに容易く抜けてくれたようで安心したのと、ワーファリンの影響でかなり出血するのではと不安が募るばかりであったが、そんな不安も取り越し苦労に終わってくれた。 続けざまに、2本3本とトラブルもなく予想時間の2時間を大幅に短縮して抜歯手術は終わった。 「麻酔が切れるとかなり痛みますよね…」私はその後の事が気になっていたので訊いてみた。 第一助手が抜いた歯を3本小さなケースに入れて渡しながら言った。 「48時間が痛みのピークです、個人差はありますが痛み止めもありますから…」 私は抜けた自分の歯を見詰めながら、小さく頷くと車椅子に移り「これからが大変かな?」と独り言を呟いた。部屋の外に出ると病棟の看護師が笑顔で待っていた。 「随分早く終わりましたね~、出血も殆どなくて良かったですね~」 「想像していたより簡単に終わってくれたみたいで安心したよー」と私も笑顔で言葉を返した。ベッドに戻り暫くすると抜いた部分にジワジワと鈍痛が走り出した。様子を伺いに来た看護師にすかさず痛み止めをお願いした。処方された痛み止めは私が予想していたロキソニン等と違って「カロナール」と言う薬だった。 それを2錠服用し痛みの去るのを待ったが、時間が経っても一向に痛みは治まらない。 薬が効かない事を告げると次は「ペンタジン」の点滴が始まった。抗生剤の「ヒクシリン」も始まっていたので、点滴瓶を2本ぶら下げる事となった。然し、そのペンタジンも効果がなく痛みは治まってくれない。 その内に今まで出血していなかった傷口から夥しい出血が始まる。殆どの患者が寝静まっている病棟で、私だけが痛みと出血に悩まされ続けていた。止血はガー ゼを傷口に押し当てるしか方法がない。然し、痛みでガーゼをまともに噛む事すら出来ず、うがいとガーゼ交換でまる二日眠る事が出来なかった。 ガーゼが役に立たない事から、抜いた部分を型どって透明の止血プレートを作り、それを被せて漸く出血は収まって行ったが、出血の原因は痛みにより血圧が急激に上昇した為であった。痛み止めの定番と言えば、ロキソニンやボルタレン座薬であるが、腎機能が低下している私にはそれを使えない為、それに代わる痛み 止めを何種類か試したが結局どれも役立たず、最後の手段として「モルヒネ」の投与となった。 まさか此処で「モルヒネ」のお世話になるとは想像だにしていなかったが、さすが「麻薬」だけの事はあり、その効き目は抜群で、それまでの痛みが嘘の様に跡 形もなく消えて行った。然し、内科の担当医はそのモルヒネを使うにあたり、かなり慎重で中々首を縦に振ってはくれなかった。 痛みが去ってしまうと抜歯後の回復も早く、体調を見て抜糸した後に退院となる筈だったが、結局抜糸は次回外来時に行う事となり、東京に二度目の大雪が降り 始めた14日の午前中に退院となった。心不全から開放され、息切れもなく足取り軽くいつもの道を闊歩し、途中好きな「神田川」で記念撮影をして普通に歩く 事の出来る有り難さを満喫しながらそぼ降る雪の中を家路へと急いだ。 結局の所、今年も例年通りの入院で始まってしまったが、それでも生きている喜びを噛み締めて、どんな状況下にあっても希望と笑顔は絶やさず前向きで歩んで 行きたいと思った。多くの善意ある人たちに背中を押されている自分に気付けば、やはり自分も誰かの背中を押したりさすったりして生きているんだとつくづく思う。
2014.02.24
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わたしは入院する毎に病院で出された食事をカメラに収めておく。記念撮影などと悠長な事は言ってられないが、朝、昼、夕と毎日のメニューを撮影し、退院してからの食事管理に役立てようと思っているからだ。 心不全で入院した場合の治療方法はほぼ決まっているものの、担当医によってその治療方針は若干異なって来る。わたしのように年に何度も入院を繰り返す患者の場合は、前回入院時のカルテを参考にして更に一歩踏み込んだ治療方法を模索する。 基本的には点滴を打ちながらの絶食がお決まりコースで、心臓への負担を出来るだけ軽くする為の処置で、これに加えてラシックス(利尿剤)を投与。これは増 え過ぎた体重を減らし身体の浮腫を取る為であるが、余り大量に使うと腎臓に負担を掛けてしまうので、血液検査をしながら慎重に行われる。 そして最も重要なポイントが食事療法。心臓食の場合、一日の摂取カロリーは1600~1800迄とし、塩分は一日6g、それに加えて水分もかなり制限があり、入院初日~一週間は一日500ミリリットルと非常に厳しいものになる。 絶対安静と絶食、そして食事療法によって一週間も経てば体重は4~5キロ落ち、心臓もかなり楽になり、呼吸もスムーズに出来るようになるから身体の状態によっては酸素吸入も外せるようになる。 絶食をする理由は心臓への負荷を減らす為であるが、食べ物が胃に入ると身体の血液が一気に胃に集中しその為に心臓が普段の倍近い働きをしなくてはならな い。食事=心臓への負担が増える…と言う事になる訳で、更に胃が膨張すると心臓を圧迫して呼吸困難になってしまうため、食事の量も出来る限り抑えなくては ならない。 脳梗塞で右半身が完全麻痺し、救急搬送された1月、その時の食事は「心臓食1800キロカロリー」であった。心不全を併発している訳ではなかったので、脳 梗塞の状態(これと言った治療はなかった)が、安定した事を確認(後遺症は全くなし)し、10日ほどで退院出来たのだが、その一ヶ月後に心不全で救急搬 送。 心不全を起こした原因が前回入院時の担当医が新たな心不全の薬を経過もそこそこに投与した為、その副作用によるものであった。その問題の薬(メインテー ト)を中止して、脳梗塞以前に服用していた薬に一旦戻し、いつもの絶食と食事療法で体重を戻した後に約一ヶ月の入院期間を経て退院となったが、食事内容に 若干の変化があった。前回1800キロカロリーだったものが、1600へと僅かに減量されていた。 そしてその約2ヶ月後の4月末にまたもや心不全で救急搬送となる。3回目の入院で大きく変化したのが食事内容であった。食事が出された時、何かの間違いではないかと思い、看護師に思わず詰め寄ってしまったのだが、それは担当医の指示によるものであった。 腎不全食…と書かれた紙を眼にし、ため息を付いてしまった。心臓食でもかなり厳しい制限があるにも関わらず、今度は更にその上を行く腎臓食である。確かに 腎臓も健康な人と比べればかなり機能も落ちて弱って来てはいるが、とうとう食事にまでそれが及んでしまったかとがっくり肩を落とす羽目になってしまった。 腎臓食は12歳の時に入院した藤枝の志太病院小児科病棟以来であった。摂取カロリー1500、最も厄介なのは蛋白質の厳しい制限である。一日40グラムと言われて、それ以来買い物する度にタンパク質の含有量を気にしている。 独身男性が自宅で病院食とほぼ同じメニューを作るのは極めて難しい。撮影した病院食を参考にしながら出来るだけそれに近い物をと思っているが、中々思い通りには行かない。つい「腎不全定食がコンビニで売ってないかな(宅配は高い)…」と愚痴を零したくなるのである。 退院する時に冗談で「病院食の宅配とかやってくれると助かるのにねぇ…」と、栄養士に話を振ってみたが、「採算が合わないよね」とあっけない幕切れだった。 さて、今回、体重増加による心不全の症状が出た為、ブログを暫く休止し、皆さ様方には大変ご心配をお掛けし申し訳なく思っておりますが、入院時の環境を自 宅で再現出来る筈もなく、無謀とも思える自力療法で増えてしまった体重を約5キロ落とし短期間でブログ復活となった訳でありますが、医師の指示に逆らうよ うなわたしの真似は皆さん絶対にしないで下さい。 自力で回復出来たその背景には長年の闘病生活の中で培って来た、これは主治医にも分からない病気である本人にしか理解出来ない闘病マニュアルがあるからで あり、そのノウハウは先進医療や優れた薬剤をも凌ぐ生きる為のバイブルとも言えますが、難点は自分にしか通用しないと言う事です。が、然し、そのエネル ギーの源は、人との触れ合いの中で育まれ、成長して行く事だろうと思います。 所詮、人間は一人では生きられない、ならばお互いに助け合って笑顔を絶やさず前向きに明日を信じて歩いて行こうではありませんか。
2013.11.02
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今年三度目の救急搬送。救急車を呼ぶ事にもう躊躇いはなかった。1月5日脳梗塞、2月5日心不全、そして4月28日またもや心不全。奇しくもこの日は25年前に僧帽弁置換術を施行した日でもあった。 GWのさ中でもあり、到着した三井記念病院の救急センターはいつもより運び込まれる患者が少なく閑散としていた。通常であれば2,3人の若い研修医が待ち受けている筈だったが、その研修医たちはは18時で早々に切り上げてしまったようだ。 急患の連絡を聞き駆け付けた当直の医師がわたしの顔を見るなり話掛けて来た。「あら、神戸さんお久しぶりね、わたしの事覚えてる?」「覚えてますよー、忘れる筈がないです」とお互いに笑顔で挨拶代わりの会話を交わした。 4年前になるだろうか…、やはり同じく救急外来に心不全で駆け込んだ時の担当医がこのY女医であった。いつものように左腕にラインを取りながら彼女は呟いた。 「研修医たちは?」看護師の一人が応える「18時で帰りましたよ」「あっそう…GWだからね」全て一人で対応しなければならない事に苛立ちを見せながら、右手首の動脈から採血を始める。 救急隊員から症状の報告を聞きつつ、手馴れた手付きで電子カルテの内容をチェックしていた。血液検査の結果が届くと、今の状態を詳しく話してくれた。 「ワーファリンが過剰に効きすぎて、いつ何処から出血してもおかしくないです…」この言葉の意味を瞬時にわたしは重く受け止めた。脳裏を過ぎったのは「脳 内出血」だった。 本来であれば前回と同様にバルーンを尿道に挿入するところであるが、管が尿道を傷付けて出血する可能性が高い事から今回は見合わせる事となったが、わたしとしてはその辛さを知っていたのでほっと胸をなで下ろした。 然し、今回このタイミングでの緊急入院も脳梗塞の時と同様に、何処か神懸かり的な部分を含んでいるような気がしてならない。つまり、担当医が言った「どこから出血してもおかしくない状態」と言うのは、脳内出血のリスクがかなり高まっていた事を示唆してるからだ。 19歳の時、静岡市立病院で弁形成術を受けたが、その時に不思議な話を聞いて驚いた事がある。わたしの父はその一年前に亡くなっていたのだが、わたしが手 術のため入院した時に、親戚の伯母の枕元に父が現れ、伯母にこう告げたと言う「俊樹が心臓の手術で入院しているから見舞いに行ってやってくれ…」。それは 一週間続いたと言う。 伯母は余りにもしつこいので父に向かってこう言った「あんまりしつこいと行ってやらないよ」。次の日から父の姿は見えなくなったと言う。 わたしのところには一度も現れる事はなかった父であるが、この広い空の何処かで今でも見守ってくれているような気がしてならない。 CCUに二日、循環器専門病棟に1日、そして今回は4年前にお世話になった17階の一般病棟へ。迎えてくれた看護師さんたち、循環器病棟でもそうであったが笑顔で話し掛けて来てくれた。 「神戸さん以前にも入院してますよね…」「はい、また戻って来ました」新人ナース以外は殆ど顔見知りなので会話もスムーズである。 さて、医療にある程度詳しい人であれば、この胸部レントゲン写真を見てその異常な心臓を容易く見抜く事が出来ると思う。右側が5月9日、左側が28日の入院時に撮影したもの。心臓が大きく肥大している事が良くお分かり頂けるだろうか。 「神戸さんの心臓は至る所が悪くて血液の逆流も起こりかなり疲弊しています」「今回は利尿剤を増やさず食事療法と新たな薬(メインテート)の投与でここまで回復しました」。確かにそうだった。外来ではワーファリンの効果を下げる為に「ビタミンK」を点滴したほどであるが、前回の時のように「ワソラン」「ラシックス」と言った心不全治療に於ける定番の薬は一切使用しなかった。 ヘパリンの点滴はワーファリンの効果が安定するまで続いたが、それも早めに終わった。入院二日目から食事が出たのであるが、その内容に戸惑ってしまった。それもその筈でいつもの心臓食ではなく「腎不全食」だったからである。 心臓食よりも更に制限の厳しい腎不全食は、カロリー1600、塩分6グラム、それに加えて蛋白制限がある。病院で出された食事は蛋白40グラム。 中学1年の時に食べた腎臓食以来であり、最初は何かの間違いかと思ったほどであるが、心臓と腎臓は密接な関係にあり、長い期間に渡り利尿剤のラシックスを服用して来た為に腎臓にかなり負担を掛けてしまっている。 腎臓は一度悪くなってしまうともう後戻り出来ないほどデリケートな臓器である。心臓は以外とタフであり人間の臓器の中では最も丈夫に出来ている。腎臓をこ れ異常悪化させない為に必要な事は負担をなるべく減らす事を心がけるしかないが、それは食事内容に大きく左右されるため、重要なポイントである。 病気の為にわたしはこれまで多くのものを諦めて来た。然しその諦めた分それ以上のものを手に入れる事が出来たのも事実である。健康は手に入らないが健康である事の素晴らしさを知る事が出来たし、病気を通して様々な人たちと出会い触れ合う事も出来た。 心臓病になっていなければ詩集を出版する事もなかったし、詩を書く事もしていなかっただろう。失ったものは確かに途方もなく大きいけれども、わたしは希望の光を常に絶やさず前を向いて歩く事を病気から教えて貰った気がしている。 常に感謝の気持ちを忘れず直向きに生きて行こうと思っている。皆さん、これからもこのわたしをよろしくお願い致します。
2013.05.12
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脳梗塞で倒れたあの夜の事、孤独と絶望感に打ちひしがれ、完全に麻痺した身体からは涙の一滴すら流れ落ちなかったが、心は無念の涙で溢れ返っていた。 ベッドから落ちた時に自分の右半身がどのような状態だったか全く想像すら出来ずにいた。紫色に腫れ上がった右腕が骨折しなかったのは奇跡とも言えるかも知れない。 辛うじて自由に動いた左手だけを頼りにベッド上に戻ろうと、必死にもがいていた。声を上げる事も出来ず、半開きの口からたらーりとだらしなく唾液だけが床に糸を引いて流れ落ちた。まるでそれは助けを呼べない苦悶と悲痛の涙だったのかも知れない。 次の朝を迎える事が出来るのか、そんな事すら考えも及ばなかったが、身動きが取れない身体の奥底で「このまま死ぬ訳にはいかない」とくちびるを噛み締めていた。 そして奇跡的な復活を遂げたあの日から丁度一ヶ月が経った2月5日の事だった。心不全の症状は数日前から現れていた。 短期間で急激に体重が4キロ増え、僅か数十段の駅の階段を昇る事が苦痛でならなかった。階段を昇りきったその場所で、もう一歩も動けずに呼吸が今にも止まってしまうのではと思えるほど苦しかった。 手足はおろか身体全体がダルマのように浮腫み、それは肺にまで及んでいたから起座呼吸をしても一向に楽にはならず食事も受付なくなっていた。 もっと早く病院へ行くべきであったが、父親ゆずりの下らないプライドが邪魔をし、限界ギリギリになって友人に諭されながら三井記念病院に電話を入れたのが 夜の8時頃だった。タクシーで行くと救急外来の看護師に伝え、車の手配をしている矢先に病院から折り返し電話が入った。 看護師からきっぱりと「救急車を呼んで下さい」と告げられる。わたしは過去に心不全で何度も緊急入院しているが、救急車を呼んだ事はなかった。おそらく脳梗塞の事もあり病院がその辺りも配慮に入れての判断だったのだろう。 退院後一ヶ月もしない内に病院へ逆戻りとなってしまった訳で、何ともやりきれない思いで胸が一杯であった。 救急外来では3人の若い男性医師たちが電子カルテを見つつ何やら呟いていた。「ラニラピッドを止めてメインテートに切り替えた…ふむふむ」「ラシックス40ミリを20に減らしたんだね…」「この辺が心不全の要因かな…」。 確かに薬が変わった事も心不全を招いた要因の一つではあるが、それだけではない。脳梗塞以前と後では身体に大きな変化があったのは事実であり、そしてまた自分の自己管理の拙さも手伝って複合的に心不全を発症したのである。 不安定なバイタルサインが出ている事から、いつも通りに左腕からラインを取りラシックスとワソランの点滴が始まった。安静時でも120を軽く超える頻脈と、そしてサチュレーションが95を下回っていた事もあり直ぐさま3リットルの酸素吸入が始まる。 高濃度の新鮮な酸素を貰って身体が喜んだのかその酸素がとても美味しく感じ、生きる事の意味が殊更身に染みた瞬間でもあった。 更にこれは自分でも予想外であったが、バルーンを尿道に挿入。そして紙オムツまで履く事になってしまったが、今回の心不全がかなりの重症である事を物語っていた。 絶対安静、ベッドから一歩たりとも降りる事が出来ないのである。外来で応急処置を済ませると運ばれた所は6階にあるCICU(冠疾患集中治療センター)であった。その場所は重症患者を受け入れる施設である。 物々しい医療機器と慌ただしく動き回る看護師たち。そして耳に響いて来る独特の機械音が生きている証の様に聞こえて来た。 「○○さーん、聞こえますかー?」「此処が何処だかわかりますかー」若い看護師たちの張りのある声がとても健康的に思えたが、呼び掛けられた患者からの反応は全く聞こえて来なかった。そしてまた入院慣れしたこの身体が病室のベッドに直ぐ馴染んでしまう事も哀しかった。 次の朝の午前中にある程度症状が安定した事から、そこを出て同じ階にある「循環器専門病棟」に移されたが依然として酸素も点滴もそのままで移動時は車椅子であった。 一週間ほどその専門病棟で加療し、2月14日に12階の一般病棟に移ったのだが、なんと脳梗塞で入院していた時と同じ病室であり、つい最近までお世話に なった医療スタッフたちがそのまま居たこともあり気恥ずかしさを隠す為「戻って来ちゃいまいしたー」と照れ笑いを浮かべて挨拶をした。 身体の浮腫は眼に見えるほどの早さで消えて行ったが、肺に溜まった水がいつまでも抜けずに残り、そして原因不明の微熱も続いていた事から入院は更に長引い たが、2月24日に退院の許可が降りた。「退院おめでとう」この言葉をわたしは過去に何度も聞いて来たが、本音を正直に言ってしまえばわたしは退院を心底 嬉しいと思った事がない。 病気が治って退院するのなら手放しで喜ぶ事が出来るのだが、このわたしが抱えている病気は治る事がなく悪化の一途を辿るばかりなのである。 完全看護のバリアで守られた特別室から厳しい現実が待ち受ける世界に放り出される訳で、自己管理を僅かでも怠ればまた病室に逆戻りという悪循環の繰り返しなのである。 然しながらこの自分が置かれた現実に希望を失っている訳ではない。空気を吸い、口が聞け、両手両足が動き自分の意思で歩く事が出来る何でもない当たり前な事が如何に幸せかをこの瞬間にも感じ取っている。 もちろん脳梗塞の再発或いは脳内出血など様々なリスクを抱えてはいるが、右半身麻痺と言う過酷な運命を乗り越えて奇跡的に生き延びて来たのだからここれを 新しく与えられた命として受け入れ「死」ではなく「生」をスタンスとして残された時間を全うして見せると自分に言い聞かせた訳である。
2013.03.14
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神戸俊樹さんが1/5(土)緊急入院された件についてご報告をさせて頂きます。結論から申し上げますと、来週には退院できると思います!詳しい検査の結果・・・■病名 心原性脳梗塞(場所:左中心後回り頭頂葉内側 横並びに小さな梗塞が二つ)※一度血栓が太い血管を閉塞したが、再開通した為症状が改善。■原因 弁膜症置換術後 心房細動 ワーファリン作用不足■症状 右半身麻痺■頚食道エコー検査結果人工弁が抜いてつけてある部分に血流のうっ滞があり、おそらくそこから血栓が飛んだとのこと今後はワーファリンでしっかり管理して血栓予防をしていけば大丈夫だとか■治療、補液、ヘパリンによる進行予防とリハビリ(ワーファリン3錠から4錠に増えました)※ヘパリン点滴は12日に終わりました。■推定入院期間、約二週間-------------------------------------------心原性脳梗塞とは?しんげんせいのうこうそく心臓の中でできた血栓が、血液を通して脳へ運ばれ、脳動脈を詰まらせる脳梗塞のこと。突然発症し、麻痺や意識障害が起き死に至る場合もある危険な脳梗塞。心房細動(脈拍が不規則に乱れる不整脈)などの心疾患により不整脈が起こり、心臓の働きが悪くなり、血流がよどみ、心臓内の血液が固まって血栓ができやすくなる。脳梗塞の15~20%がこの心原性脳梗塞といわれている。アテローム血栓性脳梗塞やラクナ梗塞などの脳梗塞は、生活習慣病の進行により、動脈硬化が徐々に悪化して起こりますが、この心原性脳梗塞は、前ぶれもなく突然発症し、梗塞範囲が広いため、明らかな麻痺や意識障害もおきやすく、再発もしやすく命に関わる危険な脳梗塞として知られている。一度の発作で倒れてしまうため、「ノックアウト型脳梗塞」とも呼ばれている。一過性脳虚血発作(TIA)とは?いっかせいのうきょけつほっさ脳に行く血液の流れが一過性に悪くなり、運動麻痺、感覚障害などの症状が現れ、24時間以内、多くは数分以内にその症状が完全に消失するものをいいます。脳梗塞(のうこうそく)の前触れとして重要とされる。------------------------------------------ 俊樹さんの場合も、一度は血栓が太い血管を閉塞し全身麻痺を起こして倒れたのですが、偶然にも血栓が溶解し再開通した為、症状が一気に改善。救急車で病院に到着した際には既に強い麻痺症状が治まっていた為に、緊急外来の医師が一過性脳虚血発作(TIA)だろうと判断して緊急入院となりました。その後の検査結果で心原性脳梗塞と判明。病院に運ばれた時には発作から既に12時間以上も経過していたので時間勝負とも言われる脳梗塞。もし自然に血栓が溶解されてなかったら今頃・・・と考えると本当に良かった・・・。何度も俊樹さんに伝えてきた「冬は必ず春となる」血栓が陽射しに解かされた雪のように感じて涙がでました。命に全てに感謝です。緊急外来で一過性脳虚血発作(TIA)だろうという判断で緊急入院したわけですが、結果は心原性脳梗塞だったので、正しい処置が行われていたのか等の心配もあり、お医者様に詳しく訊ねたところ「一過性脳虚血発作の疑いで入院した場合も心原性脳梗塞で入院した場合も処置は同じなので問題ない」とのこと。「軽いという言い方は適切ではないと思いますが、脳梗塞の後遺症としては軽い方ですよね?」という問いには即答で「軽いです。脳梗塞だけで言えば一週間ほどで退院できます。」とのことで安心しました。今回、ワーファリンという血液をサラサラにするお薬を3錠から4錠に増やしたので、お薬が安定するまで入院になりますが、今のところ順調で、来週早々に再検査して結果に問題がなければ退院になるでしょう。。とのことですヾ(๑^∇^๑)ノ 後遺症は軽かったと言っても、脳梗塞を起こしたわけで再発の可能性が高いと言われているし、薬での予防が肝心になるのですが、だからと言ってワーファリン1錠増やすのも俊樹さんは命がけです。このお薬は効きすぎると脳内出血のリスクが高まるし、効いてないと血栓ができて脳梗塞になってしまうそうで調整が難しくお医者様も悩まれたようです。俊樹さんも「心不全、脳梗塞、脳内出血、腎機能障害までも視野にいれないといけなくなって何もできないよ。」とボヤいておられましが前向きに頑張っておられます!後遺症については、入院当初、手の痺れやメールの打ちにくさを訴えられていてすごく心配でしたが、完全回復とはいえませんが、現在、文字はかなりスムーズに打てるようにもなって、言語に関しても当初は説明しようとしても言葉がでにくいなど心配がありましたが、今は特に問題なく普通に話しもできる状態です。右手の力は完全に戻っておらず、たまに左指が微妙に痺れたりする時があるとのことですが、お医者様いわく徐々に回復していくとのこと。これからも、神戸俊樹さんはたくさんの方々の励ましに支えられて、病魔などに負けずに一瞬一瞬を闘い生き抜く予定ですので(←引くにひけない笑)俊樹さん完全復帰までもうしばらくお待ち下さい☆代理人:マム
2013.01.17
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それは医学界のみならず、世界のあらゆるメディアが注目する画期的な出来事であった。ノーベル医学・生理学賞を受賞した京都大学の「山中伸弥」教授のニュースは地球上の全ての生物に対し「神の恩恵」とも言えるほどのインパクトを齎した。 もちろん其処には山中教授とそのチームによる並々ならぬ努力と探究心があったからこそであるが、途方もなく長い医学の歴史に、月に残したあの足跡の様に今まさに輝かしい医療に於ける未来への扉を切り開き新しい一ページを刻み込んだのである。 このようなニュースは、わたしの様に重い疾患を抱えて生きる者たちにとっては歓喜すべき事柄ではあるが、果たして自分がこの世に生きている間にiPS細胞の実用化の恩恵を授かる事が出来るかどうか疑問は尽きないものの、自分が後30年生きられると計算すれば、その可能性は充分にあるだろう。 ほぼ半分壊れ掛けているこのポンコツ心臓であるが、よくぞ此処まで長らく耐え抜いてくれたと自分の心臓(病気)に敬意を表したいと思っているが、それが可能であるとするならば、薬に頼る生命から脱却したいと思っている。 日本人の死因トップは言わずと知れた「癌」であるが、iPS細胞が齎す未知の可能性として、新薬の開発、治療方法も劇的な変革の時代を迎えつつあると思われる。 然しながら、あらゆる世界には陰と陽が存在する訳で、つい先日、東京大学を懲戒解雇された「森口尚史」研究員のように、その人気に便乗するがの如く悪用する輩もおそらく出現する可能性は高い。 万事が善意によって成されるのであれば良いが、「薬害エイズ」などのように、己の利潤のみを追求せんが為に、数多くの一般人が犠牲となってしまう「禁断の果実」とも捉える事が出来る。 人間は欲を捨てて生きる事は出来ないが、その「欲望」をコントロールする理性を兼ね備えているからこそ人間らしい生き方が出来ているのである。 欲に溺れた者たちの醜態をこれまで幾度となくわたしたちは見て来たが、自分の中の「陰と陽」を理解してさえいれば大きく道を踏み外す事などないだろう。
2012.10.26
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先日、三井記念病院に依頼しておいた『診断書』が手元に届いたのですが、傷病名が5つも付いていたので我ながら唖然としてしまいましたが、自分の病歴を振り返ってみると小学生の頃、祖母に言われた言葉を懐かしく思い出しました。 「俊樹は身体に爆弾を抱えているのだから、絶対に無理をしてはだめだよ」。その爆弾がいつ爆発するかも知れないと言う『恐怖』を常に抱きながら、蓮華寺池のマラソン大会に出て最後まで走り切った時、池の水面を走る風を見詰めながら「このまま死んでもいい...」と、地面に蹲ってしまった事など、思い返せば『死の淵』を幾度となく経験しつつも、こうしていまだに生き永らえている。 そうやって気付くといつの間にか『僧帽弁置換術後』『心房細動』『三尖弁閉鎖不全症』『収縮性心膜炎』『虚血性心臓病(冠動脈ステント留置後)』と病気は増える一方だった。 病気が一つ増える度にそれに比例して増えていく薬たち。この多くの薬によってわたしの命は繋ぎ止められているのは確かだけれど、薬だけに頼っていては『Quality of Life』は得られない。 病気は治らないかも知れないけれど、今の自分に出来る事は限られてはいないという事。患者と医者は持ちつ持たれつの関係であり、自分の病気の症例が将来の医学に少なからず貢献している筈だというプラス思考で捉えてみれば、人生に於いて無駄な病気は一つもないという結論に到達するのである。 わたしは心臓病のお陰で『詩』に出会い、そして詩が書けるようになった。天国の地図の冒頭を飾っている『手術台に上がれば』は、まさにその記念すべき作品でもあるわけで、病気によって失ったものは数多くあるけれど、神様はその代償としてわたしに『詩』を与えてくれたのである。 先日、太平シローさんが『難治性心室細動』が原因で急死したと言うニュースを聞き、心臓病を患っている身としては他人事ではなく、今ある自分の命の有難さを痛切に感じたものであるが、彼がもう少し医者や薬と仲良くしていれば、55歳という若さで命を落とす事もなかったのではないかと残念でならない。謹んで心よりご冥福をお祈り申し上げます。
2012.02.13
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先日、三井記念病院の循環器外来でレントゲン検査を受けたところ、心臓が前回撮影時より肥大している事が分り、主治医より入院を勧められましたが、猫の世話をしてくれる人が見つからない為、入院を断念...。 その代わり、『セララ』という、心不全の特効薬を増量して暫く様子を見る事にしました。これが4年前に『不安定狭心症』で緊急入院した時のような一刻を争う状況だったとしたら「神戸さん、猫と自分の命とどっちが大切ですか」と一喝されるところであるが、うっ血性心不全の場合は病態の進行に若干の余裕がある為、自宅静養という形になりました。
2012.02.02
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新年のご挨拶がすっかり遅くなってしまい、誠に申し訳ありません。改めまして、皆さま新年明けましておめでとうございます。 1月2日に息子が新潟へ帰った後、父と子の適度な緊張感から解放され、気が緩んでしまった為か風邪を引いてしまい、それが要因となって心不全を起こし数日寝込んでおりました。 正月早々にこのような状況になり、これからの一年もまた昨年と同様に病に悩まされる事は想像が付きます。わたしの心臓病はどんな名医の手に掛ったとしても、そしてまた現代医学の粋を集め、出来る限りの薬を使おうと治るものではありません。 心不全と不整脈がセットとなって襲って来るし、心拍数は安静時でも100を軽く超えてしまうほどに頻脈である。 この状態の時に『サチュレーション(SpO2)血液中に溶解している酸素量』を計ればおそらく95%を切っているだろう。当然ながらこの数値では緊急入院して然るべき治療を行わなければならず、酸素吸入が必要になってくる。 心不全を改善する為に新しく追加された薬『セララ』は、予想以上の効果を発揮してくれたが、これもまたラシックスと同様に諸刃の剣であった。 この『セララ』を使うに当たり主治医は腎臓への負担を考慮して、最低量の25mmを投与し一ヶ月間様子を見る事にした。 そして昨年12月28日の循環器外来にて血液検査をしたところ、BNP(心不全の診断基準値)11月30日の時点で25.8だったのものが、19.9へと大きく改善されていた。 駅の階段を上ってもさほど息切れを感じる事がなかったのは、この薬の効果である事は理解出来たのだが、主治医が懸念していた通り、腎臓への負担が増大していた。 数値を見る前に「セララの量を増やして欲しい」と主治医に頼んでみたのだが、CREAT(クレアチニン)が前回の1.41から1.78へと増え、更にUA(尿酸値)は7.7から10.5に跳ね上がっていた。 BUN(尿素窒素)も23から26へと若干ではあるが増加。心不全は改善し、心臓も楽になり肩で息をする事もなくなって喜んでいたのだが、この腎機能の数値では薬を増やすどころか、減らさなくてはならない…。 然し一つだけ救いだったのは、K(カリウム)が4.1と前回とほぼ同じで正常の範囲に収まっていた事である。更にもう一つ付け加えるとするならば、血圧が人工弁置換術のオペを施した時から殆ど変っておらず正常値であることだった。 セララの量は現状のまま、もう暫く様子を見る事にしたのだが、やはり普段の生活の中で最も注意しなければならないのが食事と水分摂取。 塩分の多い外食は出来るだけ避ける事、水分は一日1リットルまで(夏場は1.5)という内容さえ守って生活してさえいれば、苦しい心不全に悩まされずに済 むのであるが、『収縮性心膜炎』と言う、これまで何度か話して来たこの心臓疾患が進行性であり、完治させる唯一の方法は手術しかないと言う事。 然し3回目の手術には大きなリスクが伴う事や、確実によくなる保障は無いという現実、そして再発する確率も高い事など総合的に判断して、手術はするべきではないという結論に達している。 『収縮性心膜炎』の主な症状が『右心不全』である。つまり常に慢性的に心不全状態だと言う事なのである。 食事をして胃が膨張するだけでも心臓が胃に圧迫されて苦しくなる…。お腹はまるで妊婦さんのように膨れて苦しくて仕方がない。身体中の内臓に水が溜まり浮 腫んで来る。全身に血液が十分に行き渡らないから手足の指先はいつも氷のように冷たく青紫色(チアノーゼ)、まるで死人の指先である。 当然のようにここ一年は普通に便が出たためしがない。つまり腸が浮腫んで動きが悪い事に加えて、安静が必要な為、身体を動かす事が殆ど無くなってしまった。それらが重なって重度の便秘になってしまった事。 そして体重増加という悪循環に陥り、一年で6キロも増えてしまいそれも心臓への負担となっている。一年前の体重に戻したいのだが、1、2キロは許容範囲であるが、それ以上になると腎機能に大きく影響するので止めておいた方が良いと主治医は言う。 マグミットなどの便秘薬は殆ど効果がなく、下剤のラキソベロンを週に2回、30滴ほど使用して漸く排便(殆ど下痢状態)となる。 あちらを立てればこちらが立たずという医療のジレンマに陥っている。こんな病気の父親を子どもたちはどのように思っているのだろうか…。 「ラーメンや蕎麦など麺類を食べる時スープは全部残すんだ…」と息子に話しかけると「そんなの当たり前だろ」と逆に諭すような言葉が返って来た。 それが何とも言えず嬉しくて、子どもなりにわたしの身体の事を案じているんだなぁと、眼に見えぬ温かい『絆』を感じ取っているわたしであった。
2012.01.07
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大動脈弁は心臓にある4つの弁のうち唯一人間の弁を移植出来る部位である。ドナーから提供された肺動脈弁を移植する方法と、患者本人の肺動脈弁を移植するロス手術。 更に開胸手術を必要としない、自己拡張型人工弁をカテーテルによって置換する方法もある。このカテーテル治療が適用される患者は開心術に耐えられそうにない高齢者向けである。 先日ニュース等で話題になった武田鉄矢さんの心臓疾患「大動脈弁狭窄症」を簡単に説明すると、弁が十分に開かない心臓弁膜症の一種。原因には先天的障害、リウマチ熱、動脈硬化などが上げられる。 武田さんの場合は10年ほど前、不整脈を切っ掛けに受けた心臓の検査で、生まれつき2枚しかない先天性二尖弁である事が判明したが、自覚症状もなく生活に支障をきたすような問題もなかった事から、当時は手術に至らなかった。 但し、このまま放置しておけば狭窄症が進行し悪化する可能性が高い為、何れは手術する方向で主治医と相談しつつ準備を進めており、今回の手術が緊急的なものではなく計画的手術であったようだ。 わたしが19歳の時に受けた弁形成術もやはり主治医と相談した上で、手術時期のタイミングと病気の進行度合いを計りながらの計画的手術だったと言える。 武田さんの受けた手術については、上記に示したドナー或いは自分の肺動脈弁の移植を含めれば選択肢は3つあったと思われるが、武田さんの年齢(62歳)を配慮した結果、人工弁(機械弁)を選択したのだろう。 仮に武田さんが若い女性で、更に将来子どもを設けたいと言う希望があったならば、医師は迷わず生体弁(豚弁)を薦めるだろう。 生体弁の利点はワーファリン(抗凝固剤)を使用する必要がない事。欠点は耐久性が機械弁に比べてかなり劣り約10~15年で再手術が必要となる。 人工弁はその耐久性が非常に優れており150~200年持つと言われているが、欠点として弁の部分で血液が凝固し、血栓が出来やすいため脳梗塞を引き起こす危険性を避ける為、ワーファリンを生涯服用しなければならない事である。 武田さんの弁置換術に使用された人工弁はおそらく、わたしが1989年4月三井記念病院で受けた僧帽弁置換術の時と同種のSJM弁(セント・ジュード・メディカル社製)ではないかと思われる。 このSJM弁は現在最も普及している人工弁で、パイロライト・カーボン(黒いダイヤモンドと呼ばれている)という材質(人工炭素)で出来ており、優れた性能と耐久性を備えた世界基準の人工弁と言っても過言ではない。 わたしの中に装着された人工弁は今年23年目を迎えたが、弁自体は至って元気である。血液の逆流も無くなった。然しながら、余りにも長い期間心臓を患ったため、思わぬ心臓疾患が牙を向き始めた。 三尖弁閉鎖不全は仕方ないとしても、最もわたしを悩ませている疾患が「収縮性心膜炎」。この件についてはこれまでにも何度か記事にしてきたのでご存じの方も多いと思うが、この心臓疾患は進行性であり現状のままでは悪くなる一方である。 根本的治療は手術しか手段はないのだが、内科医も外科医も手術を薦めようとしない。3回目の手術がどれほど危険であるか、手術したとしても高いQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を約束出来ない事など手術に於けるリスクが高すぎる事から、敢えて危険を冒すよりも現在の状態を薬で維持して行く事の方に力点が置かれている。 治る見込みのある病気なら我慢もするし希望も持てるのだが、悪くなるばかりの病気と付き合って行くのは正直しんどいだけである。 然し、希望が全く無い訳ではない。希望など待っていても向こうからやって来るものでもないし、自分から作り掴み取るものだと思っている。その手助けとして医療というものが存在するのだから、取り敢えずは生きている自分に感謝する事である。 但し、もうこれ以上薬が増えるのだけは御免こうむりたいと言うのがわたしの本音なのだが…。
2011.11.01
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2010年1月20 (安静時心電図所見)。 心室性期外収縮 心房細動・粗動 0.2mV以上のST低下 深い陰性T波(0.4mV) 左室駆出率:EF(22%) 年齢を重ねる度に悪化していくわたしの心臓である。 入院しても、薬を飲んでも良くはならない。 EFが22%という数字を今回初めて知ったが、左室収縮障害は重症であった。 普段、わたしは病気について気にしない性質だったが、この心臓で後何年生きられるだろうと考えるようになった。 働くことが自分の寿命を縮めるとしたら…。 遣り残している事はまだ多くあるのにと思うと悔しい。
2010.02.02
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新型インフルエンザの感染者数に歯止めが掛かったようだ。 これまで増え続ける一方であったが、日本列島マスクと消毒液一色になった事が功を奏した訳でもないにしても、僅かに安堵を覚える。 但し油断は禁物、冬はこれからが本番であり、気を抜けば一気にウイルスの餌食となる。 国が薦めるワクチンの接種は義務ではないので、本人或いは親が受けるかどうか決める事となる。 ワクチンは元々毒で作られているから、当然ながら副作用が現れる。 その程度は個々によって異なる。 発疹程度の人や微熱、或いは下痢と言った軽い症状のタイプ。 しかし、重篤な場合は脳を侵され、死に至る場合もある。 ウイルスとワクチン、この両者は実に曲者だ。 人間がワクチンを作り続けた結果、新しいウイルスとそして人間自らが持つ免疫力を低下させてしまったのである。 アメリカでは、ワクチン接種に消極的な親が50%近くもいると言う。 子どもが生まれ付き持つ免疫力を、ワクチンによって低下させてしまう事への懸念がそうさせているのだという。 世の中にパーフェクトは在り得ない。 完全なウイルスもなければ、完璧なワクチンもないと言う事。 トイレがまだ汲み取り式だった頃、現代と比べれば衛生面では大失格となるであろう。 然しながら、子どもも大人もみな元気であったし、糞尿は畑の肥やしとして大地に還したものである。 農薬もなく、虫食いだらけの野菜をそのまま洗いもせず頬張ったものだ。 虫も食わない農薬だらけの野菜や果物は不味いし、果たして安心出来る食物かどうか怪しいものである。 化学の発達は自然界に存在しない環境破壊物質を多く造り出して来た。 その結果が奇形や難病を生み、DNAまでも破壊したのである。 ウイルスより恐ろしい人間の野望と征服欲が果てしなく続く限り、新種との闘いは繰り返されるのである。
2009.12.20
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三井記念病院に入院中、退院がある程度決まった時点から循環器センターにて「リハビリ」を開始した。 そのリハビリが退院後も続いていたが、漸く終了した。 このまま続けてもよいのだが、保険適用外になるため実費となる。 経済的にまったく余裕が無いためリハビリの継続は止めることにしたが、わたしにとって「生きる」こと自体がリハビリなので特に問題はない。 入院生活が長くなると規則正しい生活は送れても、寝てばかりいるので体力や筋力は日毎に衰えて行く。 それらを考慮して、退院後もスムーズな社会復帰が出来るように、病院側も患者のサポートをしてくれる。 慢性心不全のわたしは、入院中病棟外の移動は「車椅子」だった。 歩いて行けるのに主治医から中々許可が下りず苛立っていた。 車椅子に乗ると視野が一変する。 日常的に車椅子を利用しなければならない人たちの気持ちが手に取るように分かった。 数センチの段差が大きな障害となり移動の妨げとなる。 歩道には至る所に放置された自転車や、駐車違反の車が我が者顔で溢れ返っている。 人さまのことを考えない人間たちの多さに憤慨しても、解決されない問題が山積みである。 リハビリを始める前は「歩く事がこんなに体力を必要とする」とは思ってもみなかったと同時に、筋力は凄まじい勢いで低下して行くものだと改めて痛感した。 わたしの場合、体重が増えると心臓に負担がかかり心不全になる。 僅か1キロでもそれは顕著に現れる。 息が切れ、動悸、呼吸困難、倦怠感、浮腫など様々な形で身体がSOSを発する。 それらを予防するためには「食生活の改善」が必須。 自炊を始めてから半年ほど経つが、わたしの食生活は180度変わった。 外食は極力避け、間食も止めた。 内臓に負担の掛かる肉類は殆ど食べない。 糖分が大量に含まれている「炭酸系飲料」は飲まない。 炭水化物を主食としない。 添加物の含まれている物は避ける。 わたしが毎日食べている食材は「卵」「豆腐」「ひじき」「かんぴょう」「心太」「とろろ昆布」「鰯」「もずく」「メカブ」「水母」と言ったところである。 そして出来るだけ味付けはしない。 「かんぴょう」は水で戻し茹でた後、そのまま食べると殆ど味がない。 ところが、よく噛んでいる内に驚く程その食材が生まれ持つ味を発見するのだ。 このような食生活を送ることが出来れば、ダイエットに悩む必要はない。 水分は「ウーロン茶」「トマトジュース」それらに「にがり水」を加えて飲んでいる。 水道水は5分ほど沸騰させれば、美味しくなるが塩素が抜けてしまうため、長期保存は出来ない。 食生活を含め総合的にリハビリするのが長寿の秘訣である。 皆さんも実践してみては如何だろうか。
2009.10.01
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新垣結衣が主演する映画「フレフレ少女」を観て、記事のタイトルを付けてみた。 この映画は既にテレビ放映されているのでご覧になった方も多いと思う。 ストーリーそのものは至って単純だが「人を応援する事は自分を応援する事」。 この言葉だけで十分であり観る価値はある。 わたしの最終学歴は「天竜養護学校中等部」。 卒業出来ただけでラッキーだと思っている。 わたしが在籍した期間は1968年~1970年の3年間であったが、そこはあらゆる病気の坩堝。 難病・奇病の子どもたちが親元を離れ集団生活を送っていた。 医学の進歩により、現在では治療法も確立され助かる病気になったものもあるが、当時はただ延命治療と運を天に任せるしかなかった。 そんな中で卒業すら出来ず、病と闘いながら逝ってしまった子どもたちの姿が脳裏に焼きついたままである。 わたしは重い心臓病だったので、多くの制限があった。 授業は4時間までしか受けられない。 しかし、受けられるだけましでもあった。 個室にいる子どもたちは隣接する学校には行けない。 そんな子どもたちは教師が病室にやって来て、2時間までという制限はあったが、ベッド授業をマンツーマンで受ける事が出来た。 わたしも最初の3ヶ月はそうだった。 勉強が大嫌いだったのでそれすら疎ましかったが\(^o^)/ わたしは小学校を無理矢理卒業している。 出席日数が足りず本来ならば留年だったのであるが、担当の教師が「それでは余りにも可愛そうだ」と言う事で校長に直接掛け合い、めでたく卒業することが出来た。 ご存知の通りわたしは「登校拒否児」。 6年間の学校生活でまともに通学したのは3年間くらいのものだろう。 もちろん心臓病の影響もあったが、やはり劣悪な家庭環境が不登校の背景になっている。 たまに学校へ行けば「いじめ」に会うから、それもまた登校拒否の要因だった。 養護学校(特別支援学校)は謂わば特殊学級である。 履歴書に「養護学校卒業」と書く勇気がなかった時代が長い期間に渡り続いた。 病気のことも隠し続けていた。 そうしなければ生きていけなかったからである。 偏見と差別がひしめくこの社会で、弱者が生き残るには嘘で固める必要があった。 しかし、わたしはもうその過去の呪縛を自ら解き放った。 フレフレ養護学校。 養護学校出身者としてわたしは「応援団長」になろうと思う。 涙と笑顔の同窓会が近づいて来ている。 彼らとの絆は家族愛より深いかも知れない。 PS:「天竜養護学校同窓会」は門戸を拡大して、年代に関係なく会員を募集しております。 関係者は当日参加もOKですの「ブログを見て知った」と受付で話して下さい。 日時:2009年11月1日(日)午後2時より 場所:浜松ホテルサゴーイン(静岡県浜松市) 会費:6千円(未定) お待ちしております。
2009.09.16
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これから冬を迎える南半球の国々では、新型インフルエンザの急速な感染拡大に戸惑っている。日本国内でも、一時は終息に向かうと思われたが、更に感染者の数が増えつつある。WHOのフェーズ6宣言は、1968年の香港風邪以来41年振りとなった。前回の時、パンデミックなどという言葉は聞いたことがなかったし、香港風邪そのものの記憶すら残っていない。日本はこれから夏を迎えるので、季節性インフルエンザの心配はないだろう。新型と季節性が同時に流行し、ウイルス同士が合体して突然変異を起こし、新たなウイルスの誕生が最も懸念されている。マスクについては、前回の記事で散々語ってきたので今回は画像だけにしておこう。地球的規模で拡大するインフルエンザウイルスであるが、地球上には星の数ほどの生物が存在している。確認出来ていない新種の生物もまだ多く残っているだろうし、地球環境の異変による突然変異の生物も在り得る。ウイルスはその中の一つに過ぎないが、バクテリアのような微生物にしても、偶然に生まれてきた訳ではない。必ず何らかの原因があり、誕生の素となるものがあるだろう。人間の持つ科学や医学だけでは説明の付かない事象もあったりするので、ウイルスに対する既成概念を捨てて新たな視点で考察してみるのも必要かも知れない。例えば、SF映画に出てくるエイリアンのように、親ウイルスと子ウイルスが存在するとしよう。親が次々と子を産むので、子ウイルスを削除しても限りがない。親ウイルスを殺せば子ウイルスも自然消滅するといった具合に、新たな対処方法を発見出来れば新種のウイルスに脅えることはなくなる。子ども染みた発想だと、一笑に伏されてしまいそうだが、固定観念で凝り固まった頭脳よりも、子どものような柔軟な頭脳が大発明を生むこともある。自分がウイルスだったら、次はどんな方法で人間を苦しめるかよく考えてみよう。その先にきっと新たな解決策があるかも知れない。
2009.06.18
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もし新型インフルエンザが自然の産物であるならば、これは地球の防御本能が招いた結果だろう。 環境を破壊し続ける人類は地球にとって見れば「天敵」以外の何物でもないからだ。 全ての生物に防御本能が備わっているように、宇宙そのものが生命の塊であるから、自分を外敵から守るのは当たり前のこと。 日本は島国であり鎖国でもすればウイルスから身を守ることが出来るかも知れない等と、下らない発想を思いついてみたが、所詮は浅知恵の世迷言だった。 ウイルスは空気よりも軽く、風よりも素早い。 毎日のように何便も行き来する航空機の荷物に紛れてやってくる。 水際作戦はいつの間にか用を足さなくなり、日本各地で毎日のように感染者が現れるが、報道される数字だけが感染者数を正確には伝えていない。 ゴキブリが一匹いればその数百倍はいると言うように、感染者はその数十倍にも上るだろう。 マスクが売り切れ、店の何処に行っても手に入らないという状況は前代未聞だし、マスコミの過剰報道が、更に国民を一時的なパニック状態に陥れようとしている。 もちろん正確な情報を流すのはマスコミの義務でもあるが、過剰反応することにより、正確さが失われてしまっては何の意味もない。 新たな感染者が出ればTVではニュース速報を流し、不安材料ばかりが一人歩きするこの現状を政府は鎮めるどころか、更に煽り立てる始末。 未知なる恐怖から逃げてばかりいては、何の解決にもならない。 「攻撃は最大の防御なり」という言葉通り、ウイルスに対し防戦一方では「無知」としか言いようがないし、消毒液を全身に浴びながら、「さあかかってこい」と言ったところで、ウイルスに勝てる訳がない。 人間の身体は敵を体内に取り込みそして闘いを繰り返し、そうやって免疫力を高めてきた。 現代人は医療や薬に依存し過ぎたあまり、最も大切な「免疫力」を犠牲にしてしまった。 ウイルスは自分の身体を鍛え直す一つの道具に過ぎない。 さあ、今日からマスクを捨てて街を闊歩しようではないか。 新型インフルエンザ恐れるに足らず。 自分の身体にもっと自信を持っても良いのではないだろうか。
2009.06.02
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みな様、先日はわたしが勝手にパニック状態に陥り、余計な心配をお掛けしたことを深くお詫び致します。 足の浮腫みはわたしの思い込みと「朗読ライブ」の疲れが影響したのでしょう。 ウーロン茶をビール代わりにジョッキ一杯飲んでしまったのが祟りました。 少し位ならいいだろうと言う思いあがりが招いた結果で、痛く反省しております。 さて、気になる検査結果を記しますので参考にして下さい。 T-CHO:218、GJU:101、BUN:24、CREAT:1.2、UA:8.2、Na:140、K:4.1、GOT:37、GPT:28、CK:97、γ-GTP:118、HDL-CHOL:80.9、TG:93、BNP:40.1、WBC:5.0、RBC:450、HGB:13.4、HCT:41.4、MCV:92.0、MCH:29.8、MCHC:32.4、PLT:16.5。 この結果だけで判断するならば、僅かな異常値はあるもののわたしは健康です。 弁置換術後心不全、心膜炎、狭心症、三尖弁閉鎖不全、不整脈(心房細動・期外収縮)と言う、5つもの心臓疾患を抱えている身体とは思えません。 唯一疾患を示しているものは、BNP値。これは心臓から分泌されるホルモンで、40~99という値は心疾患の疑い程度で軽度の段階。 本当にこれが将来3回目の心臓手術を必要としている心臓なのでしょうか。 もちろんレントゲン、心電図を見れば明らかに異常が認められ心胸郭比(CTR)は60%を超えています。 「奇跡」とはこの検査結果の内容ですが、最も注目する点は善玉コレステロール(HDL-CHOL)と、総コレステロール(T-CHO)なのです。 善玉の場合、健康な男性の平均値が40~60で、T-CHOは正常な成人で約140、正常値になると220。 その4/1は脳に含まれており、コレステロールが身体にとって必要不可欠な脂質であるかが納得頂けると思う。 つまり、脳の栄養素は脂肪と糖分。これらが不足すると思考低下が起こり、脳細胞の死滅スピードが数倍も早まり認知症、アルツハイマーの原因に繋がるのです。 生活習慣病やメタボリックが危険因子であると騒がれ、ダイエットに励む人たちが非常に多くなっている現代社会には誰も気付かない影の部分があります。 体重の度合いにもよりますが、実は痩せている人より太っている人の方が長生き出来るのです。そして同時に太っている方が癌に罹りにくい。 つまり適度な脂肪は必要であるということ。妊婦の身体を守っているのは脂肪です。お腹についた脂肪がクッションの役目を果たすのです。 脂肪がどれだけ重要かご理解頂けたでしょうか。 コレステロールは肝臓で作られ、細胞膜やホルモンなどの成分となります。そして善玉(HDL)悪玉(LDL)に分けられます。 コレステロールは血液に乗って全身の細胞に届き、不要になったコレステロールが善玉となって肝臓に戻ってくる仕組みとなっています。 誰もが嫌う悪玉と必死に求める善玉ですが、どちらが高くても低くてもいけない。 重要なのはバランス。そしてもうひとつ重要なのは、この善玉が人間の免疫力や抵抗力更には自然治癒力の素となっていること。 総コレステロール中でこのHDLが占める割合が高いほど良好ですが、高すぎると「高HDL血症」になりHDLが善玉として働かなくなります。 40以下は動脈硬化、100を超えると高HDL血症になる危険性が増大します。 皆さんが最も気になる「奇跡」ですが、このような検査結果が出るには相当な健康管理が必要になるでしょう。 入院中はバランスの取れた食事などで完璧に近い管理体制下にありました。 退院して1ヶ月を向かえますが、退院後の生活は入院中と比べ180度変わりました。入院中に比べ良くなる筈もなく、バランスの取れた食事など全く摂れません。出来るのは水分の制限くらいがやっとです。 善玉コレステロールはどうすれば増やし作れるのか。わたしのような生活を送っていたらまず無理でしょう。 善玉を増やすのに必要なのは、運動と適度な飲酒。お酒は赤ワインがお奨めです。 運動量は汗ばむ運動を30分が必要。食事に関してはDHAを多く含む青魚を食べることです。 そして禁煙です。 検査結果の数値を見てください。「奇跡」としか思えませんか? わたしの生活はまったく逆行しています。因みにLDLが表示されていませんが、これは計算式で算出されます。わたしの場合119と理想的です。 血圧も120~80と正常。異常なのは脈拍数で平均90~110。総コレステロールが218という値は理想的。 わたしの身体に一体何が起こったのでしょうか。たった1ヶ月で・・・。 わたしが欠かさず毎日食べているものがあります。それは「トマト」「もずく」「ところてん」「卵(1個)」「豆腐」「白米」。そしてドリンクは「ウーロン茶(にがり入り)」。 間食は一切止めました。しかし煙草がどうしても止められません。 わたしはやはり何か目に見えない力に守られているようです。 長い文章となってしまいましたが、少しでも皆さんの病気や健康に対するお役に立てればと思います。 但し、わたしと同じ物を摂取したからと言って効果があるかは責任持てません。 人間の身体はみな個々に違っているわけですからね。 主治医もリハビリの先生も薬剤師もみな説明がつかず首を傾げるばかりでした。 一つだけ思い当たるとすれば、遺伝です。しかしこれもわたしには納得出来ません。 わたしの家系は脳卒中と糖尿病で短命ですから。 そしてもう一つの奇跡が心臓内にある機械弁。21年目を向かえましたがこれはおそらくギネスものでしょう。 大半は約10年程度で動きが鈍くなるか或いは感染症で壊れてしまいます。医療関係者はその年月に驚いておりました。 お酒も飲めず、運動も出来ないわたしがお伝え致しました。
2009.05.02
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皆さん、足がまたも浮腫んできてしまいました。 体重は殆んど変化なしなので好い事と思っていたのですが、日を増すごとに元気になっていく自分に僅かな隙が生じてしまい、足の浮腫みを見落としていました。 これは心不全の兆候です。 塩分、カロリー、水分とこれらはかなり気を使っていましたが、やはり独り暮らしで自炊と言うのには限界があるようです。 身体は正直です。異変があれば直ぐにサインを示しますが、それに気づかないでいると手遅れと言うことも有り得ます。 明日はタイミングよく外来の日なので病院へ行きますが、最悪その場で入院も考えて置かなくてはなりません。 一ヶ月前に退院したばかりだというのに、これでは社会復帰も出来ません。 ショックのため落ち込んでしまいましたが、豚インフルエンザより自分の抱える病気の方がよっぽど恐いです。 誰か少しでよいから健康をわたしに分けてくれませんか。
2009.04.29
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お笑いコンビ「ハリセンボン」の相方「箕輪はるか」さんが肺結核で入院治療を受けていたようだ。これに関して結核が一人歩きを始めている。個人の不適切な判断で風評被害が広がることも懸念されるが、どんな病気も正しい判断と適切な処置を行えば必要以上に恐れることはない。結核で恐いのはこれが空気感染するということで、場合に寄っては死に至ることもある。しかし毎年大流行するインフルエンザに比べれば、感染は僅かな確立であり、患者も少ない。結核は既に過去の病気とされ治療法も確立しているので、昨今では殆んど知らない人も多い。しかしながらそれでも年間2000人が罹患し、死亡しているという報告もあり、現代の若者層にこの結核が拡がり始めているのも事実だ。新種の結核菌が登場?と思わせるあまり有難くない話題であるが、これは若年層に於ける免疫機能の低下と病気に対する抵抗力の衰えが顕著だという警笛でもある。わたしは中学生時代を天竜荘(現在の天竜病院)で過ごして来た経緯がある。ここは当時サナトリウムと呼ばれ、国立の結核療養所であった。入院棟は1~13病棟あったが、わたしが入院していた一般病棟は12病棟だけだったと記憶している。殆んどの患者は結核或いはそれに類似した感染症で、もちろん隔離であったが近接する養護学校では病棟に関係なく同じ教室で勉強を共にしていた。ただし、病室、病棟を出られるのは「菌」を放出していない者に限られる。病気の重い者は個室から出られない。せいぜいトイレに行く時くらいのものだったろう。患者によっては一生をその小さな暗い部屋で過ごし短い生涯を終える子どももいた。友達を一人も作れず、外に咲く春夏の花々の美しさも知らず、心の拠り所は時々訪れる白衣の看護婦さんの笑顔のみ。わたしも長いこと心臓を患ってはいるが、それでも選択し行動する自由がある。病は人間に対し不平等に訪れ個々の計り知れない苦しみを生む。しかしその苦しみと共存してしまえば不治の病も恐れることはない。子どもの時からツベルクリン反応で陽性と出たためしがなく、BCGを打って泣きべそをかいていた自分が懐かしい。最後に箕輪はるかさんの早い回復とお笑い復帰をお祈り申し上げます。PS:内田有紀主演の映画「クワイエットルームにようこそ」に彼女が患者役で出演しています。結核患者ではありません。大竹しのぶ、妻夫木聡の怪演も見ものでした。
2009.04.27
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東京に春一番が吹いた日の夕方、わたしのベッドに循環器内科の主治医がやって来て一言。「神戸さん変わりはないですか」「検査の結果薬の方も安定して来たのでそろそろ退院しましょうか」この言葉をどれほど待ちわびただろうか・・・。約一ヶ月前、1月17日のことを何気なく思い出しながら17階の窓から繁華街の夜景を見つめた。左足に僅かな違和感と軽い痛みを感じつつ、遅い朝を迎えていたあの日のこと。まるで毒虫にさされたように大きく腫れ上がった左足の甲。指で押すと、それは波紋を広げるように深く沈み込んだ。「あれ・・・浮腫みだ」。右足と比べてみてもはっきりとそれは異常を訴えていた。取りあえず、薬を飲んで今日のところは様子を見ることにしたが、ここ数日妙に息苦しく、少し動いただけでも息切れしていたし、夜も寝苦しく熟睡できないでいた。そして18日の朝だった。足の浮腫みは更に酷くなり、左足だけでなく右足も同じような症状が見えていた。さすがに驚き、ただ事ではないと思い、三井記念病院の救急センターに電話を入れ、タクシーに乗り出かけた。休日担当医が二人来て、早速点滴が始まった。そしてそのまま17階の入院病棟へ。そして約一ヶ月に及ぶ入院生活が始まったのである。様々な検査をしていく内に新たな心臓の病気が見つかった。「収縮性心膜炎」この病名は聞いたことがなかった。主治医の説明に寄れば心臓の外側を覆っている心膜に炎症が起き、心臓が十分に拡張出来ない状態だと言うことだった。根本治療は手術しかなく、硬くなってしまった心膜にメスを入れて切るのだと言う。しかし、それでも100%の回復は見込めないようで20%の確立で再発すると言うではないか。この件でかなりわたしは悩んでしまったが、結局、直ぐ手術が必要ではないこともその後の検査(CT)で分かったので安心した。心不全も治まり、昨年6月に受けた狭心症のステント挿入部位の再狭窄もなかったので一安心と言ったところである。病棟のデイルームに設置されたPCを使い一日置きに自分のブログを確認しながら、入院生活を送ってきましたが、皆さんの心温まるコメントに励まされました。本当にありがとうございました。退院したばかりで体調の方はまだまだですが、自宅でリハビリを続けながらボチボチブログもアップして行こうと思います。
2009.02.16
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皆さん、突然ですがわたくし今入院しております。18日の午前中に三井記念病院の緊急外来へ行ったところ、そのまま入院となってしまいました。去年の6月時と同じような状況になってしまいましたが、今回はうっ血性心不全による体調不良です。最悪、狭心症の再発かと思われましたが、その可能性は今のところ少ないようです。退院の見通しはいまだ立っておりませんが、早ければ2月上旬には退院できるかと思います。友人が静岡から駆け付けてくれ、モバイルPCを貸してくれたので自分で記事をアップすることが出来ました。それでは、みなさんもう暫くお待ちください。
2009.01.21
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その日は通常通りの循環器外来だった。慢性心不全を抱えているわたしにとっては、息切れの症状や呼吸困難は付き物だったので特に何の心配を抱くこともなく、主治医の門を叩いた。「調子はどうですか」と相変わらずの質問に答えは決まっていた。しかし、その後に「この頃いつもとは違う胸の違和感があるんです」「胸の中心に重苦しい熱いような...」わたしの問いに主治医はあっさりと言った。「狭心症かも知れないね、負荷心電図撮りましょう」狭心症?このわたしが...?。40年以上心臓弁膜症を患い、過去に二度手術を受け、人工弁置換を行いこれまで大きな異常もなく過ごして来たというのに、ここに来て虚血性心疾患である狭心症とは。予定外のことが起こり、頭の中が少し混乱していた。診察を途中で終え、心電図室に向かった。その結果、心不全が顕著であることを心電図のグラフが物語っており、このまま家に帰ることが不可能になった。新しい病名が下された。「不安定狭心症」、空きベッドの確認が始まり、処置室へと運ばれ循環器内科の医者が数人やって来る。「点滴しますからね」若い20代後半と思われる医者が言う。太い注射針を見ながら、頭の中では秋葉原に寄る予定が消えて行った。車椅子に乗るのは20年振りになる。そして超音波室へ。病室は緊急患者用の6Bだった。心不全を改善するために禁食。栄養剤とヘパリンの2本を打ちながら、二週間ほどの入院生活が始まった。カテーテル検査を結果を踏まえた上で冠状動脈の一本に「ステント」を挿入。もう少し発見が遅れていたなら、間違いなく「心筋梗塞」を起こしていた。強運のわたしは、またしても命を拾ったのである。昨日、18日に退院したばかりで、PCに向かうとかなり疲れるが、無事に退院できたことを皆さんにご報告しようと思った。
2008.06.19
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皆さん、体調が入院前より悪くなっているような気がします。何の為の入院だったかと言えば、それは心臓の三尖弁逆流に対するオペの可能性を調べる検査入院だったようなものでした。お腹が張って苦しかったり、急激な体重の増加など、心臓病からくる症状だとばかり思っていたものがそうではなく、うつ薬の副作用によるものだとの見解で入院している必要がなくなった訳ですが、退院してからの毎日が日を追う毎に悪化しているようで、ここ二三日、歩くのも息切れがしてお腹が苦しく、横になっていても辛い状態が続いております。今日はそれでも、何とか雑誌を買いに自転車を乗りましたが、ほんの僅か走っただけなのに激しく息切れ...。これでは退院した意味がないですね。毒入り餃子やイージス艦の事もアップしたいのですが、もう暫くお待ち下さいませ。入院時の体重は63キロ、現在68キロ...食事は炭水化物抜き、少量を食べているだけなのですが、増える一方。ベスト体重は60キロ。以前52キロまで痩せたのが嘘のようです。毎日8キロの肉を背負っているようなものですね。炭水化物抜きダイエットを始めます。
2008.02.29
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3回目の心臓手術を受ける為に、テンションを上げて挑んだ訳であったが、事態は思わぬ方向に向かって行った。三井記念病院とは20年もの付き合いなので、友人のような存在でもあった。わたしのカルテは百科事典のように分厚く年月の長さを物語っているが、これはわたしの寿命が積み上げられて来た証ともいえた。前回の時は10階C病棟だったので、今回も同じだろうと思っていたところ、職員に案内されたのは8階C棟。それも「脳外科」「耳鼻科」「眼科」である。疑問を抱いたわたしはついナースセンターに問いかけてみた。「わたしは循環器なのですがいいんですか?」「はい、大丈夫ですよ。」歯切れの良い返事が返って来た。8人部屋のC858。この病棟には内科、循環器内科、呼吸器などの比較的短期入院の患者が多いことに気が付いた。眼の手術では3泊4日で退院出来るらしい。三井記念病院は眼科、脳外科とも非常に優秀な病院でもあるため、他の病院から転送される患者が多い。懐かしさも込めて真っさらなシーツに手を伸ばしてみた。病院特有の緊張感が看護師の笑顔でプツンと切れた。患者それぞれに担当の看護師が付くようである。20年も経つと細かなところで大きく医療も変わっていることに気付かされた。やはり患者重視なんだと思った。しかし患者は子どもではない。病人ではあるが真摯な態度で病気と向き合い、看護師やドクターの手を借りる、二人三脚であることを忘れてはいけないと思った。先ず、循環器外科の先生方数人がわたしのベッドを取り囲み、問診や触診を行う。この時点で循環器外科の主治医が決まった。わたしより遙かに若い青年である。左脚の付け根(動脈)から大量の血液を抜き取った。そして「入院診療計画書」には手術を前提とした検査を進めて行くことが記されていた。病名は「三尖弁逆流症」。そして様々な検査の日々が続くことになる。先ずは心電図、レントゲン、検便。三日目からは循環器内科がバトンタッチし、これも若い青年医師が主治医となった。心臓超音波、腹部超音波、そして歯科。ここで思わぬ落とし穴が待っていた。虫歯或いは、歯に何らかの病巣がある場合、それを治療してからでないと手術は出来ないという。なんとかなり昔に治療した歯(犬歯)に抜かなくてはならないほどの病巣があったのだ。この歯を治療したのは4年ほど前。治療は完璧だった筈が、実はそうでなかったようである。19歳の時に受けた抜歯の恐怖が蘇る。カテーテルも嫌だが抜歯も同じ。しっかりした歯なので抜くには惜しいが心臓のためには仕方ない。2月6日に「経食道心臓超音波」という聞きなれない検査を受けたのだが、これは「胃カメラ」と同じで直径1cmほどの先端にカメラが付いた管を口から飲み込み、更に鮮明に心臓の状態を調べるもの。喉を麻酔するのだが、これがまた苦しい...。40分ほどで検査終了。循環器の技師が見た感じでは思ったほど弁は痛んでいないようであった。そして循環器内科チームの出した結果、「手術をする必要はない」との意見だった。これには驚きを隠せなかった。わたしはこの半年間、手術の事だけを考え、手術なしで元気な身体を取り戻すことは無いだろうと思っていたからだ。そして次に神経内科の医師と臨床心理士の問診が2回ほどあった。これは「うつ病」に関わることである。ここで事態が急変した訳である。つまり、抗鬱剤の服用がもたらす心臓への影響。副作用の話が大きなテーマとなった。心臓の検査を一通り終えて出た検査結果は腹に水が溜まっている様子もなく、肝臓が腫れている訳でもない。うっ血性心不全があり、正常な心臓の40%程度の力しかなく、三尖弁の逆流もかなり高度に達しているにも関わらず、それらの身体的症状が確認出来ないという。すると残ったものは「うつ病」。これについて、循環器の医師も心臓とうつ病の関係についてまったく知らないことで、今回のわたしの入院で初めて知ることになったわけである。これについてはいまだ正式なレポートも出されていないが、わたしは自分のHPでうつ病と心臓病の関係について述べている。やはり薬の副作用とは実に恐いもので、調査して初めて明らかにになる事例があるようだ。手術については、高リスクを敢えて冒してまで実行しても、それに見合うメリットは何も得られないということで、今回は手術回避と言うことになった。思いも寄らぬ結果が出て嬉しい反面、この三尖弁は一体いつまで持つのだろうという一抹の不安もあったが、主治医の言葉に同意した。約20日間のわたしの入院物語はハッピーエンドで幕を閉じたが、油断は禁物。皆さん、虫歯や歯周病には充分気をつけた方がよいですよ。最後に、お世話になった8Cの看護師さん、職員のみなさん、医師の方々にお礼を申し上げて今回の報告を終わらせて頂きます。
2008.02.17
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1989年4月。結婚式を終えたわたしの行き先は新婚旅行ではなく、病院のベッドであった。余命一年の宣告を受けてから半年が過ぎていた。三井記念病院は当時心臓手術では国内で最も忙しい病院であった。一人の天才心臓外科医を頼って、日本中から患者が集まっていた。世界で5本の指に入る「神の手」を持つ心臓外科医。TVドラマ医龍のモデルにもなっている人物である。最前線で戦う病院とはこのように常にベッドは満員、予約が半年先までぎっしり埋まっているまさに戦場であった。9時間近くにも及んだ大手術から生還し、最新医療や家族、そして善意ある人たちに支えられて20年の歳月を生かしてもらった。昨年6月の循環器外科で主治医から告げられた言葉がわたしの心に重くのしかかる結果になるとは全く予想もしていなかった。20年前、執刀医は言った。「神戸さん、3回目はありませんからね、安心してください。」その言葉をこの20年信じて生きてきた。しかし、病魔は足音も立てず、わたしの心臓を再び蝕んでいったのである。「神戸さん、手術しないとまずいです。」「え?...」わたしは冗談だと思った。有り得ない、そんなことは絶対有り得ない...。頭の中が混乱し収拾がつかないまま、診察室を後にした。3回目の手術?しかも、前回手術した部位ではなく、三尖弁閉鎖不全。僧坊弁閉鎖不全は子どもの頃に罹患し、打つ手なし。と言われていた。長い闘病生活の末、19歳で1回目の弁形成術を受けた。そして13年後に人工弁置換術を行った。そしてみたび傷口をさらけ出し、内臓を外気に触れさせ、傷だらけの心臓に三度目のメスが入る。命の保証はない。詩集「天国の地図」冒頭の詩「手術台に上がれば」その恐怖がまたもわたしを襲うのである。しかしもう逃げる訳にはいかない。今のままでは10年持たない。人はよくわたしのことを強運の持ち主と呼ぶ。自分の人生を振り返るとまさに「強運」としかいいようのない人生を送ってきた。だから大丈夫、最初の手術の時、亡き父が現れわたしの心臓に生命の息吹を吹き込んで行った。あの出来事は今でも忘れない。わたしは大きな愛に守られている自分を感じている。この命、今終わらせる訳にはいかない。鋼鉄の心臓を手に入れ、やるべきことを果すまでわたしは死なない。1月29日、入院します。
2008.01.28
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先日は東京都内でも二年振りの雪になり、僅かではあったが薄っすらと雪景色を見ることが出来た。雪にあまり馴染みがないので、雪がやってくるとつい子ども心に帰ってしまい、白銀の世界を自分の足で楽しむのだが、今年は手術を目の前にしていることもあり、寒さは心臓に堪えるので、二階の窓から降り積もった雪を眺めるだけに留まった。この時季、心臓発作などで倒れ、命を落とす老人が多くなる。そしてその場所が風呂場であること。家の気温と風呂場の気温差があまり離れていると、その気温の変化に心臓が耐え切れず不整脈を起こす。その結果、心臓に持病が無くとも心筋梗塞に襲われ、運が悪ければその場で即死する。もちろんわたしも当然ながら不整脈の持ち主だが、命に関わる不整脈ではなく、「心房細動」という一般的な不整脈であるため、特に命に関わることはないが、厄介なのは血栓が出来安いということだ。最も恐い不整脈は「心室細動」「心室頻拍」である。つまり心臓停止状態。この不整脈に襲われたら、一刻の猶予もない。助かる道は時間との勝負。救急車を呼び搬送される時間と治療開始が運命を分けることになる。さて、今年に入ってからも頻発する、救急車の受け入れ拒否。特に関西地方で多く見かけられたのだがが、つい先日、関東地方でも起こった。東京都清瀬市での事例。救急搬送された女性は95歳と高齢であり、心臓に持病を抱えていたと思われる。受け入れ拒否した病院は11。一昔前であれば、救急車が自宅に着いた時点で安心出来たものである。救急車は命を助ける車であると誰もが思っていた。そんな昔が懐かしい。11もの病院が同時に受け入れ出来ない状態だったのか疑問が残る。もしこの患者が政治家だったらどうなっていただろう。治療中の患者を隣のベッドに移し、この政治家を助けるべく準備に大慌てだ。「病院の名誉にもかかるから、必ずこの政治家をわたしの病院に...」となるかどうか知りませんが、病院が一般庶民の味方では無い事は明らかである。ここにも格差社会が蔓延っているのである。助かるのは金持ち、命は金で買うのが現実。現代の医療現場が崩壊していること。医師不足、行政の遅すぎる対応など、救急車はそんなことなどにかまっていられない。一刻も早く受け入れ可能な病院を探すのに必死なのだ。少子高齢化が進んでいることも安全で確実な医療体制が整わない現実が拍車をかけているのだろう。
2008.01.26
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皆様、新年明けましておめでとうございます。大晦日の晩、調子に乗って水分を摂り過ぎたのが祟ったのか、元日早々体調を崩し、一日中身体を休めておりました。休めども休めもども一向に胸の重苦しさは改善せず、横になろうが起きようが呼吸が楽に出来ない。自分の回りだけ酸素が薄いのではないかと思うほどで、このような症状は初めての経験でもあり、お腹は大きくまるで妊婦さんのように膨れてしまう。利尿剤を飲んでもあまり効果が出ず、排泄される尿量はごく僅かで肩で呼吸をする始末。心肺機能が低下しているので、身体の隅々まで血液が行き渡らず、手足は冷たく去年まであれほど暑がりだったわたしが一転して寒がりになってしまいました。主治医から、「冬場は心臓病が一気に悪化することがあるので気をつけるように」と言われておりましたが、自分の病気に対して40年も付き合って来た中での「油断」が出てしまったのかと自分の心臓への思いやりの無さに今頃になって気付いた大馬鹿者です。元日に予定していた「初詣」、自宅から徒歩で数分の所にある帝釈天が数十キロ先の遠い場所に見え、外に出て歩く気力も失せてしまい今年は初詣を諦めました。本来なら心臓の手術が成功するよう祈願したいところでしたが、断念。ベッドの上から祈願するはめになりました。ただ、わたしの代わりに家内が行ってくれ、お守りを頂いて来てくれたのでそれを持って手術に臨もうと思っております。わたし3回目の手術に対し、かなり弱気になっているようで、こんな自分を見るのも初めてで、生まれて初めて自分が死んだ夢まで見てしまうとは...。ただその夢の中の自分が子どもだったのが救いだった。どんな手術でもリスク0はなく、必ず危険は付き纏うもの。それを全く恐れることもなく、1、2回と手術に臨んだのはやはり若さが持つ生命への揺ぎ無い自信だったのでしょう。その自信が今揺らぎ始めている。死への恐れを感じている。これはおそらく死というものをこの歳になって漸く理解出来たという一種の到達点ではないかと思う。わたしが書く詩はその殆どが生と死であるが、どこかの著名な女流詩人が「詩は死である」という言葉を残している。死の中にこそ生命の躍動感や美しさが見えるのも事実であり、まさにその通りなのだと思った。半月もすればわたしは古巣へ戻る。2回目の生を授かった場所へ3回目の生を授かる為に。
2008.01.05
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例年より一ヶ月も早いインフルエンザの流行に戸惑いを隠せない人々。これは環境破壊がもたらす時間のずれが生じているのかも知れない。12月に入りインフルエンザは本格的に猛威を各地で振るい始めている。今回の特徴は近年にない「Aソ連型」。予防注射で何とか感染を防ごうと早めのワクチン摂取で病院は混雑している。岡山県倉敷市では早くも死者が出ており、体力のない子どもやお年寄り、慢性の疾患を抱えている人たちは要注意である。昨年から今年はじめにかけて話題となった「タミフル」だが、現在は処方が10代止まりとなっているため、治療の選択肢には限りがある。ただ、予防注射が確実に効くという保証はどこにもなく、ワクチン投与済みだからと安心するのは早計。予防の基本はうがい、手洗い、洗顔、人ごみを避けるなどしか方法はない。インフルエンザを人類最強の敵と捉えれば、人間同士で争っている場合ではないのだが。そういえばこのわたし、ここ5年ほどインフルエンザにかかっていない。運がいいのか、偶然なのか定かではないが、心臓を患っているわたしが最も注意しなければならない。小学生以来予防注射を受けたことがない。もちろんその間にはインフルエンザに罹患したことはあっても、多少の熱で治まっているし、心臓にそれほど影響を及ぼさなかった。確かに悪運が強い部分はある。しかしそれは生命力の問題だろう。人はみな持って生まれた生命力があり、人それぞれ異なっている。心臓の手術は成功したものの、その後の体力が回復せず亡くなってしまう人もいたりする。闘病生活が長いと様々な病気を知ることになるが、中には奇跡的な回復を示す者もいたり、病気の世界は予想以上に医学で割り切れない部分が多々ある。人間の持つ自然治癒力或いは偶然が重なっただけなのか、死の淵を彷徨ったあげくにこの世に舞い戻った話はよく耳にする。病気は出来るだけ避けたいが、そのお陰で人間の細胞が活発になり抵抗力を増す部分もあるだろう。人の口の中は雑菌だらけだが、それを抑えているのが唾液であることを付け加えて置きたい。
2007.12.27
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産まれたばかりの赤ん坊には母親の免疫がしっかりとガードしており、暫くは風邪も引く事はないだろう。自然界は眼に見えない危険な存在で溢れ返っている。そのような中で生き抜いて行くには自然を味方に着けるのが一番。ウイルスも生物だから自然の法則に沿って生きている。子ども時代に済ませて置きたい病気の代表と言えば「はしか」「おたふく風邪」「水疱瘡」ではないだろうか。それほど医療が進んでいなかった時代でははしか等の予防注射はなかった。わたしは「おたふく風邪」「はしか」については辛かった記憶が残っている。小2の時「おたふく風邪」に罹り、両頬が腫れてしまい口を動かす事が出来ず食事も摂れなかった。そんな状態で何を血迷ったか、わたしは学校へ行ってしまった。勉強や学校が嫌いで登校拒否児のわたしが辛い思いをしてまで何故学校へ行ったか、それは「映画」だった。社会科の時間に映画を見る事になっていたので、どうしても観たかったのである。教室に入ったわたしを先生や生徒が見詰めそれは徐々に驚きの表情に変化して行った。そして直ぐさま「神戸君、直ぐ帰りなさい」と教室を追い出された訳である。当たり前な話ではあるが。「はしか」は小4の時。これはかなり辛かった。40度の高熱と痒みを伴う痛みのような発疹が全身に現れる。それは眼に触れない内臓にまで及ぶ。約4日間うなされ続け一週間後に漸く元気を取り戻した。病気になった時嬉しい事が二つあった。それは皆が優しい事と病気見舞いに親戚の人から、普段食べられないような果物の詰め合わせを頂くこと。当時バナナ等は高級品でとても口に入る代物ではなかった。パイナップルも同様である。昨今「はしか」が大流行しているが、大人になってからこのような幼児期に罹っておくべき伝染病に罹患するとその症状はかなり重くなり、場合によっては死に至る事もある。出来れば入院した方が良いだろう。医療の進歩によって寿命も延び長寿大国になった日本ではあるが、除菌に追われる生活、清潔を健康と結びつけてしまい、間違った方向に進んでいる現代人は自分の持つ抵抗力、免疫力を大きく低下させてしまった。その結果が今回の「はしか騒動」に現れている気がしてならない。近所の子どもがおたふく風邪に罹ったのを聞いて、わざわざ菌を貰いに行く。子どもは大きな菌や小さな菌と戦い、自分を強くして行く。ひ弱な大人にならない為にも菌は金を出してでも貰うべきだろう。
2007.06.09
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ゴールデンウィークも終わり、それぞれが思い思いの休日を愉しんだ事だと思う。わたしはこの時季が苦手で、体調が狂いいつも辛い思いをしている。心臓には油を指せば大丈夫だが、どうもメンタルな部分でリズムが整わない。季節の変わり目は要注意である。四季のある日本は実に情緒豊かで変化に富んだ風景を楽しむ事が出来るのだが、日本人の身体もやはりその風土にあった作りになっているようだ。食生活にしてもその季節に合った食材がスーパー等の店頭に並び、人の食欲をそそってくれる。ところで、最近よく耳にする言葉にメタボリック症候群というものがある。簡単にいうと、内臓脂肪型肥満(内臓肥満・腹部肥満)に高血糖・高血圧・高脂血症のうち2つ以上を合併した状態を指す。要するに人間(全ての生物)にとって肥満が齎すリスクがかなり大きいという事。食文化は歴史とともに大きく変化して来た。特に日本は戦争に負け、貧困の時代から今日に至るまで、文化や生活スタイルまでもが短期間で極端に変化した国としては他に類を見ないだろう。冷蔵庫などが普及していなかった昭和の時代では、その日買い物した食材は明日に持ち越せず、その日に食べてしまうしかなかった。大型スーパーなどはまだ出来ていなかったからもっぱら食材は近くの八百屋で採れたての物を買う。この時代に不便という言葉も生まれていなかった。それが自然だったから。ゴミも殆ど出ず、公園や町中に時々見かけるのは犬の糞くらいだっただろう。肥満に悩むような人もいなかったし、もちろんダイエットなどと言う言葉もなかった。時代は進化?し今や3人に一人がダイエット経験を持っていると言う。和食から洋食へと食生活も大きく変化を遂げた。冷凍食品の氾濫、24時間のコンビニ。いつ何処でも食べたい物が手軽に手に入る時代。生活スタイルも大きく変われば、食生活にも影響が出る。食の基本は噛むことだ。顎を使いよく噛み砕く、それが脳に伝わり身体全体にサインを送る。柔らかい物ばかり食べていると顎や歯は退化し硬い物を受付なくなる。食事のバランスが崩れると心にも影響が出始める。飢えの苦しみを知っている人はおそらくこの現代ではまずいないだろう。戦争体験者か或いは、虐待を受けまともに食事を与えられない子どもくらいのものか。飢えほど恐ろしいものはない。生きる為の本能が眼を醒ます瞬間だ。食べられそうな物は全て口にする。わたしは子ども時代この飢えに苦しみ、赤蟻にまで口に入れた経験がある。まさにサバイバル。日本は物が有り余っていてそこら中に残飯の山が出来ている。その裏側で明日の食にもあり付けない人たちが多くいる。メタボリックは贅沢な食生活と偏った食材選びが引き起こす自然界からの警告の鐘ともいえるかも知れない。
2007.05.22
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誰もがその惨劇を幻想だと思ったに違いない。起こる筈のない事故。しかし運命とは皮肉なもので、人間の想像を遙かに超える事態が待ち受けていた。5月5日子どもの日にその事故は起こってしまったのである。大阪府吹田市の万博記念公園内にある遊園地「エキスポランド」でのジェットコースター事故は過去に類を見ない遊園地での惨劇となってしまった。大型連休のゴールデンウィークともなれば、どこの遊園地も書き入れ時で多くの乗り物にモーターが焼き切れるのではないかと思うほどフル回転を続ける。遊園地によっては従業員だけでは対応できず、アルバイトを雇ってその場を凌いでいる所も少なくはない。遊園地で最も人気の高い乗り物がジェットコースターで、最近ではその種類も数多く登場し更に刺激を求めてスリル満点の遊具が次々と新登場している。遊園地を運営する側も集客が命だらかそれぞれの遊園地では売り物を前面に出し、庶民の関心を引く事にやっきになっている状態。それに追いつかないのが安全管理である。点検の回数は運営側に寄ってまちまちではあるが、危険度の高い乗り物については一日一回は点検をする必要があると思う。確かに技術の進歩により昔の乗り物に比べれば安全性は確保されて来たとは言え、所詮相手は機械。いつ何が起こるかは誰にも予想はつかない。ボルト1本が緩んでいた為に大惨事手前まで行った飛行機事故もあるように、あらゆる場面を想定して安全な遊園地を作り上げて行ってもらいたいものである。折角の休日を奪われた人たちにとってみれば、もうこんりんざい遊園地に足を運ぶ機会はなくなったのではないだろうか。亡くなった方にはご冥福を祈るばかりである。
2007.05.13
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7月1日から煙草が一斉に値上がりした。愛煙家にとっては30円ほどの金額でも結構痛手ではないだろうか。値上がり前日に秋葉原を歩いていると、ミスタードーナツの店先でワンカートンを売っており、買い求める客が列を作っている光景が見えた。私は愛煙家ほどでもないが一応吸っている。銘柄は人気のマイルドセブン8、一日5,6本しか吸わないのでそれほど財布には響かないが、何せ小遣いが少ないのでもう少し一本を大事に刻もうと思う。これを機会に禁煙に踏み切る人も多いだろうが、やはり切っ掛けがないと、酒や煙草は止められない。煙草のパッケージには健康を害する恐れがある等と書かれているが、吸い過ぎで亡くなった人はまだ知らない。煙草が原因で癌になったり、肺を患ったりと悪者扱いの煙草。百害あって一利なしと昔から言われ続けて来たが、これら煙草が及ぼす人体への影響は医学の進歩と共に解明されてきた。統計的データを重んじる人間は健康に限らず、学力を決める偏差値なども取り入れて生活の役割に定規を求めたがる。対象物がないと不安に駆られ、自分が今どのレベルでどの様な基準の位置にいるのかと考える。社会の枠について行く必要などないのに、その枠から外れると落ち零れなどと言った馬鹿らしい表現でレッテルを貼る。自分の人生は自分で決める、そして常に主人公は貴方自身。健康を害して病気の恐さを知るもよし、生活習慣の見直しをするには良い機会でもある。それにしてもこれほど害のある物を国は平然と売り続ける。病人をこれ以上増やしたくない、医療費を抑えたいのなら煙草販売中止にしてみたら如何なものか?税収入の落ち込みと健康どちらが大切かである。
2006.07.07
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街に出てみると時々見かける献血車両。その姿を見ていつも虚しさを覚えうなだれてしまう。私は人に血をあげられない身体。死ぬまで薬に浸かっていなければならず、人の世話に頼ってばかりいて役に立たない自分に腹が立つ。もちろん血を分けることが出来ない人は私以外にも大勢いるだろう。身長制限や年齢などもあるからだ。その昔、父の友人が酒代欲しさに自分の血を売っていた。今はそれに変わって臓器売買が様々な国で行われている。貧しさは酷く人の心を荒野の果てに追いやってしまう時がある。世の中に、役に立たない人間はいない。この世に生を受けた時既に喜びをもたらしている筈なのに人間の欲とエゴがそれを踏みにじる。血は毎日勢いよく貴方の体中を駆け巡る。今日の命を明日に繋げる為に・・・。
2006.06.12
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午前中病院へ行ってきた。大型連休明けという事もあり循環器外来は非常に混んでいた。病院はどこもそうだが、予約時間に診察が行われる事など皆無。1時間待たされ、5分診療。一番ひどかった病院は○応大学病院の精神科。3時間待ちの3分診察。どのような体制をとっているのだろう?ワーファリンの効き具合を調べる為の血液検査、心電図、レントゲン。心房細動の波形が美しい波のようにグラフに描かれていく。不整脈で一番恐いのは心室細動。突然死の80%はこれが原因。レントゲンに映し出された白い影。歪んだ鈴のような心臓。前回のものと比べ主治医が定規で大きさを測る。心胸比56%。まあそんなものだろう。手術前は80%近くあった。大きく風船のように膨れあがった心臓は肺を圧迫し呼吸すらまともに出来なかった。よくここまで復活したものだ。そういえば障害者手帳を取得する際に診断書を書いた医者が「この心臓でよくここまで生きてきましたね」と言った。私の心臓はタフである。人工弁が壊れるまで生きてやるさ。
2006.05.08
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未成年の喫煙を減らす方法の一つとして、煙草の自動販売機を街から無くせばある程度効果はあるだろう。その昔、煙草は贅沢で高価な嗜好品だった。私が小学生だった40年ほど前は当然自販機など無く、煙草屋へ買いに行かされたものだ。父は「いこい」好んで吸っていた。祖母は長い煙管で刻み煙草を粋な格好で楽しんでいた。煙草1本吸うにもゆったりとした時間が白い煙と一緒に流れていたものである。1日に1箱なんてもったいなくてとても吸えない。1箱50円もする「いこい」本当の「憩い」だった気がしてならない。それは子どもには理解出来ない大人だけの世界だった。現代の人たちは煙草を楽しんでいない。だから禁煙するはめになる。時間を楽しむ余裕がない現代人は様々なストレスに晒されて、煙草1本を吐き捨てるように吸う。煙の流れさえ気付かずに。心にゆとりがなくなった口先に煙草の煙はもう染みない。
2006.05.03
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子どもの頃、虫歯がうずきその痛さに耐え切れず一晩中泣いていた思い出がある。家が貧乏だったため、歯医者にかかれず「根治水」という薬を塗って痛みを和らげていた。大人になってもやはり歯医者は苦手。どうもあの治療する時の機械の音に原因があるのかも知れない。19歳の時最初の心臓手術をし、退院した後自宅で3ヶ月の静養を言われた。その時に重い虫歯が悪化し、膿が溜まってしまった。右側の顎がはれ上がり、物を食べることすら出来なくなった。一般の歯科では手に負えず、歯を抜く専門の歯科外科に行った。入院施設もありそこに来る患者は皆、歯医者が匙を投げた重症の患者ばかり。治療を受ける順番を待つ女性が治療中の音を聞き倒れてしまった。もう殆ど歯医者というより大工である。ハンマーとみので歯を叩き割るからだ。麻酔は効いているものの、その衝撃は頭蓋骨に響きわたる。もう二度と経験したくない恐怖の思い出だった。歯が大切なのはスポーツを例に取ってみれば良く分かる。野球の王貞治が何故あれほどのホームランを打てたのか。それは歯が丈夫だったから。バットを握りボールを打つ瞬間歯を食いしばる。歯が丈夫でないと身体に力が入らない。丈夫な歯を持っていれば長生き出来る。健康の証でもあるのだ。
2006.04.25
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1970年14歳だった頃、中2のクラス全員と天竜養護学校の白い校舎の前で撮影した写真。モノクロなので分からないが、重度の心臓病だった私は常に貧血状態で蒼白い顔をしていた。授業に出る朝は決まって隣接する病棟の処置室で太い注射器に入った造血剤を打っていた。その割には結構元気で、悪戯をして教師に怒られ、職員室に立たされたこともあった。昨年の30年ぶりに開いた同窓会の時に下級生から「養護学校で神戸さんが一番恐かった」と笑いながら言われてしまった。確かにかなり苛めた記憶があるが、誰一人当時の事を恨んでいる人はいなかった。養護学校は様々な病気を抱えた子どもたちの集団生活の場でもある。病気を除けば普通の学校と何ら変わらない。なのに大人達は特別扱いをする。特殊学級の延長に養護学校があるからだ。子ども或いは保護者の中には養護学校にいた事を忌み嫌う人がいまだに多く存在する。とても悲しく寂しいと思う。確かに私も社会に出てから養護学校にいた事を必死に隠し続けていた時期があった。就職する時など履歴書に書く勇気がなかった。心臓病で障害者である事さえも隠した。分かってしまったら採用して貰えないだろうと自分で思い込んでいたのかも知れない。だが、そんな風潮が社会に蔓延っていたのも事実である。採用する側にとってみれば健常者を最優先するだろう。私は健常者を装い100時間近い残業もやった。内部障害なので見た目は健康な人と同じだが、やはり健康な心臓を持った人には適わない。腕や足があり、耳が聞こえ目が見える事、当たり前なようである事がどれだけ大切かを知るには障害者になって初めて理解するのかも知れない。
2006.04.24
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アイドル或いは有名人は人前では見せられないような行為を隠れてこそこそやっていたりするもの。別にそれがいけない訳ではなく職業上仕方の無い事。ただ未成年の喫煙はまずいだろう。私が煙草を吸い始めたのは20歳。未成年の時は一度も吸っておらず法律はきちんと守った。最初に吸ったのは「マリーナ」少年マガジンに連載していた「ワル」という漫画の主人公が吸っていたのでそれを真似してみただけ。最初に口にした煙草の味は旨くも不味くもなくただ煙にむせるだけだった。口から吐き出す紫の煙(ジミヘンか)が青春のシンボルのように感じていた。次に色んな銘柄を試してみた。エコー、ハイライト、ホープ、ピースなど。そして最終的にたどり着いたのがセブンスターだった。今はマイルドセブン8を吸っている。この30年間一度も禁煙をしようと思った事はないが、心臓手術の為入院中約1ヶ月間だけは吸えなかった。ベッドでパイポを咥えていると、婦長がそれを見て「そこまでして吸いたいの?」と怒られてしまった。当然ではある。心臓に限らず如何に煙草が身体に害を及ぼすかは立証済み。もし国民全員が煙草を止めたとしたら税収入は落ち込みそれこそ消費税30%に切り上げなんて事になりかねない。私が一番恐いと思っているのは病気ではなく煙草の火の不始末で起きる火災と周りの人に及ぼす煙の影響である。
2006.04.07
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人間の身体の中で唯一脳に支配されていない臓器は心臓だろう。脳死の状態でも心臓が動いていることで説明がつく。心臓は至って単純な臓器で筋肉の塊。心臓の洞結節という部分から電気信号を心臓の細胞に送り、拍動を繰り返す。1日約10万回。全身に新鮮な血液を送るのである。ところが不整脈などでこの信号が正しく送る事が出来なくなると正常な状態を保てなくなる。心臓は自分の使命をまっとうする為、懸命に拍動を繰り返す。それを放置しておくと心臓はやがて風船のように肥大しいづれは破裂する。脈のリズムを正常に保つ為によく使われるのがペースメーカー。これは電池で動いているため電池交換をしなくてはならない。携帯電話などに敏感に反応し著しく誤作動を起こし、あやうく命を落としそうになった方もいるかも知れない。心臓病を大きく大別すると二つ、先天性か後天性。私は後天性で僧坊弁閉鎖不全症。小4の時この病に冒されたが、家が貧しかったので病院にかかったのは小6の時。数回死に損なった後、19歳で最初の手術。2回目は結婚と同時、最後の選択弁置換だった。そして一緒にもらったのが身体障害者手帳1級。煙草をくゆらす不良障害者だ。人工弁の動き方by 酔いどれ天使
2006.02.17
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