バカちょんカメラの幻



朝鮮人と、「バカちょんカメラ」とは何の関係もない。関係も何もないのに、「傷つく人がいるのだから、使用は控えるべき」というとんでもない論理で、「人の誤りを正す」正義感に浸り、己は安全な所から「おまえは間違っている」と発して自己満足を得ている輩がいる。

武田和歌子と名乗る人物からのメールは、その典型であるので、この際その論理に反駁する形で考えをまとめることにした。ただし、そのアドレスはすでに使用不能・・やっぱしネ。
(すでに「~返信」にあるとおりなのだが、今回別のサイトにも言葉狩り浸透あるを知り、再度まとめ直すこととした。)


1.傷つく人がいるのだら、使用は慎むべき

一見もっともなようにも見えるこの議論こそ、最大の偽善である。

世の中には、たとえば「ポスト」「なすび」「赤」「さんま」「石」「先生」、それこそ幾百の言葉に結び付けて悪口を言われ、傷つけられた人たちがそれひそ何万人となくいるはずだ。

それらの言葉一つ一つを検証し、以後「なすび」は止めましょうと言うことになるのか。少なくとも、そのような運動を展開しているなら、「バカちょんカメラ」は止めましょうと言うのも分からないではない。
ところが実際には、特定の言葉だけが選抜され、言葉狩りの標的にされる。

そのような言葉の中から、「バカちょんカメラ」が選抜されたのはなぜか。

自分は国際派で、ヒューマニストで、正義漢(おーっと女の人の中でこういう表現もいやという人もいるんだ)、それをアピールしやすい上に、弱者の味方らしいし、しかも賛同者も多そうだ。

さらに、相手はというと、「無意識に」その言葉を使っているので、「あっ、それは知りませんでした」という反応が期待できる。ものを教えるという優越感に浸れる。

要するに組し易し、という安直な考えである。すなわち卑怯。


2.その言葉を使っている本人に悪意=差別意識がなくても、それを聞いた人はいい気はしない、「言葉には力があります」やっぱり止めるべきでは。

そういう人が、一度の反論を受けたぐらいで二度と何もいってこないのはなぜか。すなわち、「言っても分からないやつ=私などほっておけ」「そんなやつの言うことなんかどうでもいい」ということだ。

おまえなんか取るに足らない、もう相手にしないということである。

このとき、私の言葉は、少なくとも武田和歌子氏に対しては力がないということだ。それで、ぬけぬけと言葉には力がありますなどとは、よおぉーゆーた。

その言葉に力を与えているのは、まさに聞き手側なのである。それをあたかも、おまえが、誰が、と言って責任を転嫁するとは、自分勝手の無責任野郎だ。

この言葉狩りの最大の罪は、「あなた方はこの言葉によって傷つけられているのですよ」と在日朝鮮人に言っていることであり、彼らをして、無用の気苦労を背負わしめ、自分たちの善人ぶりを言うためのだしにしていることである。

バカちょンカメラ=(朝鮮人のように)バカでも使えるカメラ、との説があります・・などと言うのなら、その説に対してこそ、そんな「バカ」なことを言うなといってやれ。
それをせずして、そのこじつけに乗っかって気分のままに浮かれるのはそれこそ馬鹿のすることだ。

韓国人たちは日本人が「不用意に」、バカちょんカメラと言いはしないかとびくびくし、この言葉狩りにうかつにも同意してしまった日本人たちは同胞の罪を摘発しようと、神経を尖らせることになってしまった。

以下に1と2のため、もう一つ付け加えておこう。

「光あるうち光の中を歩め」これは、トルストイのよく知られた名作である。目の見えない人、車椅子の人がいたら、本棚からこれを隠すか。岩波に掛け合って、絶版にしてもらうつもりか。


3.あなたも欧米人から、ジャップなどと言われていい気はしないだろう。

残念ながら、平気です。ジャップもジャンプも大して違わない。

それからついでに言っておくと、「ジャップ」と言うのは差別のために用意された言葉であり、その言葉と「バカちょん」という一般的な言葉とを一つにして論ずると言うのは、こじつけもいいところ。
そもそも次元の違う言葉なのである。そんなことも分からず、ただひたすら差別差別と言うは、よほど「私いい人」を示したがっていると見える。


4.「知人に韓国人の人もいますし・・云々」

察するに、言わんとするところは、朝鮮人と接したことがない、または接し方が少ないので、こういう問題に敏感でないのだろうということなのであろう。

私は十年ほど会社の社長をやっていたが、その会社の役員(専務取締役)は在日韓国人であった。その家族と旅行にも行った。また、顧客には韓国人も多くいた。その人が商売をやっていれば、こちらも相手の客になるということもあった。

また、先のワールドカップサッカーの折には自分は、ガードマンとして会場にいたが、そこでも滞日十年という韓国人と知り合いになり、メールのやり取りもしていた。

だいたい武田和歌子氏の言う、正真正銘日本人なんて、怪しいもんだ。桓武天皇も母は百済系帰化人の娘であるし、自分の家も明治五年以来同所にあるが、それ以前は分からない。

さらに言えば、先の大戦において開戦時外務大臣だった東郷茂徳は、五歳まで「朴」という苗字だった。

ある個人がどこにどういう形で生まれるかという、全く偶然のなせる業をもって、その個人を規定しても意味はない。

我らは総て、混血である。


5.まとめ

私が特に彼ら「言葉狩り」を嫌うのは、己は安全な所にいて発信し、反論でもあろうものなら、さっさと投げ出し、さらに議論をしようともしない、という態度だからだ。
これは、百円ならお試ししてもいいが、自分の収入の何パーセントかでも、費やそうという気がない、ということである。その程度のやる気なのである。
その程度のやる気で、うっかりこちらが、「ああそれはあなたのおっしゃる通り」などと言ってしまうと、百円の投資が、何十倍にもなって返ってくるというわけだ。

おまえたちのやっていることは、単に自己満足のために朝鮮人を利用しているだけだ。恥を知れ!

「自分は反差別主義」たらんとするなら、自ら泥をかぶり地を這って戦え!

ようせんのなら、外野から指をくわえて見てろ。

~このページは今後も改定の可能性あり~

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