言葉に力はあるのか


信ずればこそ、あえて言いたいことがある。

ことばそれ自体に、何の力も「ない」ということだ。

たとえば、ここに「病気でないからといって健康だとは限らない」という言い回しがある。これはまことにその通りだ。

しかし、今しも病の床に苦しんでいる人の枕もとで、これを言ってどうなる。

言葉とは、その用い方、受け止め方、さらに言えば、それが用いられる哲学の中でのみ、生きているのである。


ここに「倭人」という文献上の語がある。これは明らかに、かつては差別用語だ。だが、いまわれわれが、自ら「倭人」と名乗る時、何らの自虐の念のあろうはずもない。

驚いたことに、現在「支那」という呼称が、差別用語と言われようとしている。かつて毛沢東は「支那第一の論客」と自負していたのである。


「言葉には力がある」
「傷つく人がいるならその語の使用は止めるべき」
「あなたも相手の立場に立たされたら同じように悲しいはず」
まことに尤もなお言葉で、それ自体に反論しようとは思わない。

ただ、そのような「言葉の仕組み」を利用して、己の論を擁護し、「おれたちはこんなに傷ついている、おまえはひどいやつだ、と言う論理を展開するやり方は、暴力である。

金持ちが金で人の横面張り倒し、権力者が権力というかさを着て物をいい、弱者が自分の「傷」でことを有利に運ぼうとする。
それが消費者となれば、「わしは客やで、どうしてくれる」。
私は、いずれの者にも組しない。

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