文章の基本姿勢


 最初のものは、楽天の日記テーマ選択ということをしなかったが、気がつくと、それなりの分量の日記となっていた。
 当初、私の日記に対する、反対意見も踏まえ、文章も手直ししつつ、意見を書いてくれた人たちとも、交流しながら、と考えていたことは確かだ。

 しかし、二回目以降、テーマを選択しての日記を書き進むうち、自分は誰の意見も求めていないし、誰かを説得しようとか、自分を正当化しようとか、していないことに気がついた。

 もちろん同意、賛成はうれしい。それを全く欲しくないというのは嘘だ。

 しかし、今回(6/2「けんかできない人たち」に始まり、6/5よりテーマ選択となった一連のシリーズ)の日記シリーズを書きつづけるうち、自分が文章を書く動機が、「自我」とか、原型とかの言葉で表されるような、内面深くから湧き上がるものであることを認識した。

 書いていて、論理の矛盾にも気がついた。感情的で、脈絡の無いところもある。でも、修正は最小限にとどめ、あえてそのままにしたところもある。

 それが、正に私、道家そのものだからだ。

 また、別の観点から言えば、インターネットの書きこみへの意見の書き方として、文章全体の「意」に対して意見するというよりは、文章の一部を切り取り、その表現に意見するという書き方になりがちである。
 そのような手法で書かれた場合に、それに対する反論を短く相手サイトに書き込みするという行為は、バカバカしく思えてきた。

 ネットエチケットなるものがあることは認めるが、やれ誹謗だ中傷だなんのかんのと、要するに聴きたいことだけ言えということだろう。

 当サイトにおいては批判書きこみは自由。いかなる表現も自由。

 また、別の観点から言えば、自分を作っている要素のうち、小学生当時のいじめられ体験、学校、先生、親、大人不信、を抜きにしては自分自身を語れない、という事である。
 自分の人間理解は、あの時の体験に基づいている。

 それをこの際、できるだけ生の形で書ききりたいというのが、2004/06/02~の日記の文章の基本姿勢である。


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