読書日和 ~Topo di biblioteca~

読書日和 ~Topo di biblioteca~

2009年7月~9月に観た映画


2009年7月~9月に観た映画

 剱岳
 トランスフォーマー リベンジ
 それでも恋するバルセロナ
 MW-ムウー
 ハリー・ポッターと謎のプリンス
 夏時間の庭
 G・Iジョー
 南極料理人
 20世紀少年最終章~ぼくらの旗
 グッド・バッド・ウィアード
 サブウェイ123激突
 ウルヴァリン X-MEN ZERO
 プール
 カムイ外伝
 ココ・アヴァン・シャネル





剱岳 点の記

人は何故山に登るのか。

前人未到の山を征服する、競争相手に先んじて頂点に立たねばならない…
そういう考え方はいかにも男性的だなあ、なんてちょっと反発心が湧きました。
それは柊が登山に対してふだん関心を抱いたことがないからなのかな…うーん。
柊は登山に対して「どうしてそこまでして登らなくちゃならないの!?」と常々感じている人間なので、実際に登る経験を積み重ねている人からすれば、何を言う資格もない人間です。
それは分かっているつもりです。だけど…。

地図を作るため、初登頂に成功するため、陸軍測量部と山岳会は剱岳を目指す。
死の山、登ってはならない山として信仰されている場所を命かけて登ることに
どんな意味があるだろう…って…なんだかぐるぐる考えてしまいました。

…いろいろ考えてしまったのは今現在の剱岳がひどく観光地化されているという
話を聞いてしまったからだと思います。

山を登るのに便利な軽量化された道具や装備、頑丈な靴を使い誰でも頂上を目指せてしまう。
「挑戦したい」という意欲に水を差したいわけじゃないけれど、そこには自然を畏れたり、
敬ったりする気持ちもまた軽量化されてるんじゃないかと疑ってしまいます。
ゴミを持ち帰らなかったりするマナー違反の人は特にそう。

登頂した、征服した、なんて言うけど自然を敬う気持ちが薄れていないかな。
「挑戦したい」といえば聞こえはいいけど、山をただの自己啓発の道具と見なしてるんじゃないかな。
人間が足を踏み入れてはならない場所、汚してはならない場所がそこにはあるんじゃないのかな。

足袋にわらじ、蓑に笠、ものすごい大荷物を背負って地図のない場所、道なき道を
行く人々を画面上に観ていたら、ますますそんな思いが募ってしまって困りました。

彼らには意義があったかもしれない。
だけどそこに道を拓いてしまった…というのはどういう結果を招くことなのか。

登らなければならないのか、或いは登ってはならない場所なのか…
どれだけ考えても柊にはわかりません。
柊には山を登る人の気持ちはわかりません。

映画は別にそういうことを言いたい訳じゃないと思いますが、柊はそんなことばかり考えてしまいました。

ああだけど、CGを使わなくても、こんなに美しくて迫力のある映像が撮れるんですね…。
自然だけは「素」のままで、雄大さが伝わってくるものなんだな…と思いました。
撮影するにはものすごい忍耐と努力が必要だったと思います。

だからこそ、自然は自然のままにしておいて欲しい…なんて思ってしまうのか。

 *「剱岳 点の記」公式HPは→ こちら



トランスフォーマー リベンジ

ひええ…。なんていうかもう、映像の凄さにただただ圧倒されちゃいます。
ロボット映画もここまできたか~みたいな。
こんな躍動感あふれるロボットなんて観たことない。
(厳密にいえばロボット…ではないですが 笑)
なんだか頭の中のどこかが麻痺してしまうような感覚を味わいました。
この映像に慣れちゃったら生半可なSF映画なんて今後観られなくなってしまいそう…
それはそれで怖い。


 *「トランスフォーマー リベンジ」公式HPは→ こちら

前作と同じキャストが揃っているのが何と言っても嬉しいです。
特に主人公サムのご両親(笑)
ユニークで、コメディの要素を一手に引き受けてる感じですが、後半ほろりときちゃいます。
サムの恋人、ミカエラを演じるミーガン・フォックスの青い目は本当に印象的。
登場するたび目に惹きつけられてしまった柊です…。

それにしてもオートボットたちの映像が凄まじい(とにかく動きが速い!!)ので
もっとじっくり観たい!もっといっぱい観たいなんて思ってしまいます。

続編が作られる予定があるみたいなので、それもまた楽しみです



それでも恋するバルセロナ

スカーレット・ヨハンソン&ぺネロぺ・クルスの顔合わせなら観たい!と思いました。
どちらも“自由奔放”なイメージがありますが、この映画では
(マリアという役柄も手伝って)ぺネロぺ・クルスの存在感は圧倒的でした。
前半ほとんど名前だけの登場で姿すら見えないというのに…驚き。

三人の女性を相手にして、柊にはバルビム演じるファンという男性が不実にしか
見えないのですが、恋をすればそんなことも気にならなくなってしまうのかしらん?
恋とはやはり不可解なものなのですね…。

この映画を見ていると、ガウディの建築物をはじめ、スペインのあちこちを散歩してみたくなってしまいます。

ああでもなんといってもこの映画の一番の魅力はぺネロぺ・クルスだと思いました

 *「それでも恋するバルセロナ」公式HPは→ こちら



MW-ムウー 7/8

手塚治虫原作ということで観に行きました。
予告を観たとき、結城と賀来の配役が逆でもストレートな感じがして面白いんじゃないかと思いましたが…。
玉木さん、悪役でもいけますね。
一見善人そうに見えるから、やることが残酷であればあるほど画面に映えるかも…(なんて)。

島民虐殺という状況を目の当たりにした二人であっても、望むものは違ったわけですよね。
結城は復讐を、賀来は平穏を…つまり人の本性というのは持って生まれたものである
可能性が高いのかもしれない、と思わせます。
物語の展開を観ていると、たとえ島民虐殺という事件が起きなかったとしても
結城は何か別の出来事をきっかけとして殺人者に変貌していたのではないか、なんて思います。
それは決して「MW」のせいばかりではない、と思います。

柊は原作未読なのですが、是非是非読んでみたい。
映画と異なり、原作では結城と賀来の関係は同性愛らしいので。
その点は原作どおりに描いてみて欲しかったなあと思います。
賀来は結城の凶行を何とか食い止めよう、説得しようと試みるものの結局彼の望むとおりに動いてしまう。
そういう一連の行為はやはり「友情」ではなく「愛情」からくるものじゃないかと想像するからです。

善悪は簡単に分けられるものじゃない。
相反するようでいて、実は表裏一体なのではないか…。

映画はなかなか楽しめましたが、結城にも賀来にもどちらにも感情移入しきれなかったところが
ストーリーとして弱かったかもしれないなあ…なんて思います。

だから、原作を読んでみたいです。





ハリー・ポッターと謎のプリンス

公開初日の今日、観てきました。
シリーズ中もっとも沈鬱で、つらいお話かもしれません…。
柊は原作の最終作である「死の秘宝」まで読了し、結末までも知っているわけですが、
それでも非常に気持ちが沈んでしまう展開でした。

最終作「ハリー・ポッターと死の秘宝」は前後編の二部構成で、
それぞれ2010年、2011年の公開が予定されていますが
むしろこの「謎のプリンス」とあわせて三部作構成と考えた方がいい位、
“序盤”といった雰囲気が色濃いです。

長い原作を2時間弱にまとめるのは大変だと思いますが、
どのエピソードを採用し削ってほしいかは意見の分かれるところでしょうねー。
あの場面もこの場面も観たいなんて言い始めたらきりがないのは
わかってるんですけど(笑)
脇役とはいえ重要な役どころの人々が少しずつしか登場してこない(できない)のが残念です。
ルーピン先生とトンクスのエピソードとか、原作を読んでいる人にはわかっても、
映画だけ観ている人には何が何だかわからない…といった具合に場面がすっとんでいくのが
やっぱり悲しい…。

うーん、この巻で重要なのはドラコ・マルフォイの苦悩とますます怪しさを増すスネイプ先生、
ハリー、ハーマイオニー、ロンらの恋模様にクライマックスシーンと言いきってしまえば
それまでなんだけど…ああ、細かなエピソードも全部観たいと思ってしまう柊です。

主人公たちの成長っぷりには観るたび驚かされてしまうけど、
脇を固める大人の俳優さんたちの演技にもますます惹かれてしまいます。
だから今回まったくレイフ・ファインズが姿を見せてくれなかったのが無念ですー。

「ハリー・ポッターと死の秘宝」完結編を観るまでは何があろうと死ねないわー。
健康と怪我には気をつけなくちゃ、と決意を固める柊です。

くうう、2011年なんて待ち切れないわ


 *「ハリー・ポッターと謎のプリンス」公式HPは→ こちら





夏時間の庭

故人との思い出と、自分たちのこれからの生活。
どれだけ思い入れや大切にしたい気持ちがあっても、それらを並び立たせるのは難しいのだろうか…なんて少し切なくなりました。

実は美術館に陳列されるほどに価値のある花瓶を、そうとは知らず(むしろ価値のないものと思って)個人の形見として貰って帰るおばあさんの姿が一番印象に残っています。

美術品や骨董品の価値ってどうやって決められるものなんだろうなあ…つくづく不思議に思います。
「使われてこそ価値がある」と思う人もいるだろうし、
「未来への遺産としてきちんと保管しなければ」と考える人もいるだろうし…。

自分にとってはとても思い出があり大切な品が、別な人からすれば全く無意味なものとして扱われる不思議さが心に残ります。

この映画で久しぶりにジュリエット・ビノシュを観ました。


 *「夏時間の庭」公式HPは→ こちら




G・Iジョー

うーむ、うーむ…予告編がすべてだったか…という感じでしょうか☆
面白く出来る材料は揃っているのに、何かが足りないような。

うんと未来のお話なのか、それともレトロな感覚なのか。
新しいことに挑戦したいのか、これまでのアクションものをなぞりたいのか。
中途半端さが目立っていたかなあ…。

数年前の東京を回想する場面があるのですが、あまりにも日本じゃなくて笑ってしまった。
「ここは一体どこ。」と思っちゃった時点でコメディですー。
いや、実は笑う場面じゃないかも。
今でも日本という国にこういうイメージしか持たれていないのだとしたら

続編ありそうな雰囲気でしたけど、果たして作られるのかな~。

 *「G・Iジョー」公式HPは→ こちら



南極料理人

家族や親しい人から遠く離れた、しかも閉ざされた場所。
そこにどれだけたくさんの漫画やビデオや娯楽となるようなゲームを持ち込んだところで
“飽き”は必ずやってくる…。
そんなとき人にとって一番の楽しみとなるのは「食」と仲間との気のおけない会話かもしれないなあ…なんてしみじみ感じました。

生瀬さんの台詞じゃないけど、「ここは南極だよね?」って何度も問いたくなるくらい
基地の食卓には美味しそうなおかずがどーんと並んでいて思わずおなかがグウ…。
空腹状態でこの映画を観に行ったら、た、耐えられないかも…☆

映画は終始笑いに充ち溢れていて、(途中きゅんとなる場面ももちろんあって)
久々に館内に笑い声が響く映画を観ました。
一緒に観ている人と、同じ場面で笑えるって不思議と嬉しい気持ちになりますよね。

ほのぼのあったかい気持ちになりたいときにこれは最適な映画だと思います。

映画に登場したごはんがあんまり美味しそうだったので、
映画を観た後ついつい買ってしまいました~

映画に登場したごはんのレシピ集。映画のしーんもいろいろ。



 *「南極料理人」公式HPは→ こちら

原作であるエッセイも読んでみたくなりました♪





20世紀少年 第三章~ぼくらの旗~

ともだち…っていったい何だったんだろう…。

彼の正体知りたさにずずずーっとここまで惹きつけられてきましたが、
ともだちの正体がわかって、エピローグを見て、全てが終わってみると
「ともだちが誰か」ということよりも、彼という存在は何かを象徴していたんだろうか…なんて考えてしまったのでした。

少年期のトラウマ?
いじめの撲滅?

ともだちが、あそこまで犠牲を出してまでやりたかったことって…ほんとは何?
人類滅亡を目標のように掲げていたけれど、彼はどこまで本気だったのかな。
動機と、やってることの残酷さとがアンバランスで腑に落ちない感じは残ります。

が、とりあえず完結です。
シリアスかと思えばコミカルだったり、不思議なテンポの映画だったなあ…。

 *「20世紀少年 最終章~ぼくらの旗~」公式HPは→ こちら



グッド・バッド・ウィアード

騎馬でもって列車を襲う…!?なんて設定はアメリカ映画の専売特許かと思ってました。
アジアの映画で西部劇??なんだか面白そうではないですか。
予告編だけ観るとB級コメディでは…(失礼)なんて風にも思いましたが、
いやー、何というか突き抜け方がすっごく面白かったです。

 *「グッド・バッド・ウィアード」公式HPは→ こちら

まずチョン・ウソン(good)、イ・ビョンホン(bad)、ソン・ガンホ(weird)という役者さんが適材適所なのです。
人間ここまですっぱり善悪で割り切れるもんじゃないと思うんですが、わかりやすさというのは観ていて安心する効果があるのでしょう。

イ・ビョンホン、柊が観るたび(「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」「G・Iジョー」)悪役なのですが
凄みと悲壮感が混在していておまけに色気もあるという悪役。
悪役が魅力的じゃないと、こういう映画は面白みが半減してしまうところですが、
彼が登場するたび「うぎゃー」と残酷な場面に目を閉じたくなりつつ、ついつい観てしまう柊でした。

それと好対照なのがチョン・ウソンとソン・ガンホ、二人が組んでいる場面。
チョン・ウソンの生真面目っぷりと、ソン・ガンホの無茶苦茶っぷりが妙に可笑しくて。
好対照というか、まったく異なる個性が生み出す相乗効果というか、この三人の顔合わせはすごい魅力的でした。

PG-12の指定がかかっているだけあってやたらめったら銃で撃ち殺されちゃう場面の連続ですが、それすら映画と割り切って観てしまえるならきっと楽しめます。
冒頭の列車を襲う場面といい、闇市での銃撃戦といい、非常に凝った“魅せる“場面が続くので飽きません。
馬やらバイクやら車やらで疾走する場面なんて、「よくこんな疾走感、躍動感あふれる映像撮ったなあ…」と感心してしまいます。

おまけのように出てくる日本軍はやっぱり悪役(かつコメディ)で、
ライフル一丁でがんがんやっつけられてしまう彼らを見ていると苦いものも感じるのですが、
このシーンで見られるパク・ドウォン(チョン・ウソン演じる役名)の姿は韓国の人たちが爽快感を覚える、まっことヒーロー像なのだろうな、とも思いました。

観終わった後、もう一回観たくなりました。
頭空っぽにして、むちゃくちゃっぷりを楽しめる爽快な映画に柊は飢えているのかもしれません☆



サブウェイ123 激突 9/9

予告編を観て、「あ、トラボルタが悪役だ」と思って観に行きました。
ジョン・トラボルタが演じる悪役ってなぜか好きです。
計画的なようでいて本気でキレているのか、それすら演技なのか、惑わされる感じが。
傍にいたら「怖さ」で固まっちゃうだろうなという気がします。

 *「サブウェイ123 激突」公式HPは→ こちら

しかも今回相対する相手がデンゼル・ワシントン。
サスペンスの結末云々より、この二人の演技対決観たさで足を運びました…。

うーん、しかし。
もっと物語は二転三転していくのかと思いましたが、結果、常道を歩んだような。
この二人の“交渉”でなかったら映画はすごく「平凡」な出来だったかも…

NYという街の大きさとか、圧倒される感じとか画面いっぱいにとらえる様は
とてもスタイリッシュで好きなんだけどな。




ウルヴァリン X-MEN ZERO

ウルヴァリンはどこまでも、どれだけ時を経ようとも孤高のヒーローなのだなあ…としみじみ思いました。
いっとき、平穏な時間を持ててもそれが長く続かないというのは…寂しい。
だからこそ、本篇の方においてローグの孤独を唯一理解し慰めることが出来る人なんだろうけれど。

 *「ウルヴァリン X-MEN ZERO」公式HPは→ こちら

X-MENシリーズというと近未来のSFもののようなイメージがあるのですが、
今回は過去に遡るせいかSF色は非常に薄く、代わりに肉体をとことん酷使するような
アクション重視になっています。
特にウルヴァリン演じるヒュー・ジャックマンの強靭な肉体はものすごい。
超能力に頼らなくともがんがん戦っちゃえそうな雰囲気を実際にまとっちゃえるというのはすごいです。

あらすじについては触れられませんが、次なる作品への布石だろうかと思わせるシーンや
本篇の三部作に繋がるシーンがいろいろありまして、帰宅後早速DVDで「X-MEN」を
観返してしまいました。
「ウルヴァリン」を観てから「X-MEN」を観ると、平穏な日々とは縁遠くとも信頼できる
仲間を得ることが出来て良かったねえ…としみじみ思えます。
あ、でもウルヴァリンの過去と直接繋がりを見せるのは「X-MEN 2」の方だったかしら。

この作品で登場した新たなミュータントたちとはまたいつか別なところで遭遇したりもするのでしょうか。
それがすごーく楽しみだったりします。

エンドロールが始まると席を立って出ていってしまう人がいたけれど、
この作品はエンドロール後にも映像があるので、観ないで行くのはもったいないです。
このシーンが続編への大いなる布石になるのか、単なるおまけなのかは
わからないですけど…(笑)



プール

私はどうして毎日急いた気持ちで過ごしてしまってるんだろう。
誰かに何かを強制されているわけでも、ノルマが課せられているわけでもないのに
「あれやんなきゃ、これやらなきゃ、何かやらなきゃ」って
常に自分を急かしていて、それで疲れてしまっているような気がします。

旅に出たいなあ。出来れば一人で。
普段自分がまとっている時間の流れとは全く異なる流れの中に身を浸してみたい。
心のお洗濯がしたい。

「かもめ食堂」「めがね」そして「プール」と、これらの映画の中にある空気感が好きです。
心地よくて、ほっとします。

こういう時間、こういう空気をまとえる人になりたいなあ…というのが柊の夢です。



劇中流れる音楽が好きです

 *「プール」公式HPは→ こちら

カムイ外伝

実をいいますと、白土三平氏による原作を未読な柊です…

 *「カムイ外伝」公式HPは→ こちら

予告で観た印象より、忍という存在がシビアに描かれていたのが良かったーというのが第一印象。
でも、それでも当時最下層に生きた人々が押しつけられていた理不尽さとか、
憤りとか、これでもかーとばかりに残酷に描かれるのかと期待していた点は、
エンタテイメントにされていましたね。

人間離れした動きを無理にCGで描くより、多少スローに思えても体張ってアクションしてもらった場面の方が印象に残ります。
ドラマ重視な分、カムイらの人間味に近寄れる方がずっといいと思う…。

“外伝”の映画化というのは正解だったと思います。
「外伝だから許せる」という気持ちが原作ファンにはあるだろうと思うから。
(かくゆう柊の夫は原作ファンで「本編の映像化は絶対不可能!」と豪語している…。)

物語はカムイが既に忍びから抜けて逃げているところから始まるのですが、
抜けるのを決心するまでにどれだけ悲惨な状況に置かれていたかが
断片からでも伝わってこなければ、自由に生きたいと願う説得力に欠けるかな…。

忍び=殺しを生業にしてきた過去を持ちながら、自由に生きたいと願うのは
やっぱり無理じゃないかなあ、と思います。
自らがそれを望んできたわけじゃないとはいえ、命奪う者は罪深い存在でしょう。
自分が殺した相手の分まで業を背負って生きてかなきゃいけないんだから。
相手の人生を奪えば奪うほど、自分の人生を生きることが出来ないんだから。
可哀想というより哀れな存在ですね、忍って…。

掟を破り、忍を抜けた者は常に追われる存在になるのですが
抜けた忍一人を追いかけるのに何人も追手がかかるのは効率悪そう…と
そんなことばかり柊は気になってしまいました。
抜けた人間のことはほっといて、本来の仕事に従事したら?と思うのは私だけ?

ココ・アヴァン・シャネル

正直、観ていて気持ちが苦しかった。

映画がどうこうじゃなく、女が自立して生きていくことが難しい社会に対して。

彼女くらい自分というものをしっかり持っていて、先を見る目を持っていても、
財産や地位のある男の庇護を受けなければ生きていけなかったなんて。
プライドを切り売りし、屈辱を感じることも多かったはず。

そういう思いの積み重ねがやがて実を結んでいくのだとしても…
そういうシーンの数々は観ていてやっぱり気持ちが沈んでしまった。

華やかな世界の裏側では…という見せ方なのかもしれませんが、
満場の拍手を浴びてなお幸福には見えない彼女の表情がとても気になりました。

この映画ではシャネルをオドレイ・トトゥが演じてますが、
シャーリー・マクレーンがシャネルを演じる「ココ・シャネル」も見比べてみたくなりました。

余談ですが。

柊は煙草が大嫌いなので、彼女がすぱすぱ喫煙し、
くわえたばこで洋服に触れているシーンが気になりました。
「灰が落ちたらどうするんだろー。服に煙の臭いがつくんじゃないかなー。
そういう洋服は着たくないなー。」と思いました。

 *「ココ・アヴァン・シャネル」公式HPは→ こちら






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