「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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やーちゃんばーちゃんの石ころ人生 第1章
第1章
わたしが生まれた時
みんなは喜び 笑っていた
泣いていたのは わたしだけ (後半は最後に)
作者不明
皆が喜んだかどうかはわかりません。もしかしたら「またか――」とがっかりしていたかもしれません。なにしろ当時はまだ男子優先で、男の子が生まれたら「でかした――」とか「よくやった――」とか言われ、女の子だったらまあ「おめでとう」ぐらいは言ってもらえるけど、どちらかというと「残念‼」・・・の気配のものでした。まして私は四番目の女の子ですから・・・。
私の上に女の子三人と男の子が一人おりましたが、その男の子は私が生まれる前に死にました。だからこそ両親や祖父母は“今度こそ男の子を”と願っていたと思います。そんなわけで私が生まれた時、みんなは喜び笑っていた・・・か、どうかはわかりません。幸い数年後に弟が生まれてそれはそれは大切に育てられました。
私の名前は河上八千代。呼び名は「やあちゃん」です。ばあちゃんになった今も幼友だちは私のことを「やあちゃん」と呼びます。だから私は「やあちゃんばあちゃん」です。やあちゃんばあちゃんの私、今年80歳になりました。(2019年現在)
この歳になると周囲で「終活」と言う言葉を聞くようになりました。
「子どもたちにきちんと財産分けしとかなきゃ」とか「何処の施設に入ろうかしら」とか……。
何かそんな話になると、私は一人疎外感を持ってしまうのです。私、財産なんてな―――んも持っていないんです。施設に入るにしてもお金がかかるのです。私はお金を持っていないんです。若い頃から貧乏暮しで、国民年金が払えなかったのです。だから当然受け取り年金が少ないんです。どうする?……って。お手上げの状態です。今はまだ体も動けるから家族の役に立っているけど、そのうちどうなる?
終活かあ……。
全くそれって神様任せ。神様任せが悪いとは思わなくて、むしろある意味良いことかもしれない。だけどそれでもまだ私に何か出来ることがあるんじゃないかなあと思っていた。
ある日突然閃いた。自分史を書こう!……って。
私の人生特別に素晴らしいわけじゃあないけれど、いやむしろ底辺とも言える所をなんとかかんとか歩んで来た。……いやいや底辺だからこそ素晴らしい何かが隠されている。この私の体験談を愛する子や孫に残しておきたい。きっと役に立つことがあると思いました。特に、これから長い人生を歩む孫たちには、絶対役に立つやあちゃんばあちゃんの体験談になると思いました。
さあ私の終活「やあちゃんばあちゃんの石ころ人生」の始まりです。なぜ石ころなのかは後でわかります。
※令和元年 9月5日 ブログ FBでアップ済み
第一章
幼い頃の思い出はとぎれとぎれで淡いものですが、鮮明に覚えているものもあります。私は昭和14年の生まれですから、物心ついた頃には戦争が始まっていました。土間のある上がり框の板の間で、私は一生懸命踊ったことを覚えています。今の時代なら、アイドルちゃん達の歌とダンスを幼い子が夢中で踊る、あのようなものでしょうか。当時は何しろ軍歌が主流で、幼い私が歌って踊っていたのは軍歌でした。訳もわからずこんなふうに歌っていたのを覚えています。
♪おんしのたまこ いたらいて―
あすはしぬると きめたよは―
こうやのかぜもなまづさく―
ぐっと―にらんだてきのじん―(ここで前方を指さしてぐっと睨む動作)
ほしはまたたくふたつみつ―
大人になって知った本当の歌詞はこうでした。
「空の勇者」
♪恩賜の煙草いただいて
明日は死ぬぞと決めた夜は
荒野の風も生臭く
ぐっと睨んだ敵ぞらに
星が瞬く二つ三つ♪
この歌は、命をかけて敵陣に突っ込んで行く特攻隊の歌で、恩賜の煙草と言うのは、その命令を受けた人に、天皇陛下から与えられる励ましと言うか、別れの煙草のことだそうです。とても悲壮な歌だったのでした。そんなことも知らず、私は無邪気に歌って踊っていました。今考えると恐ろしいことですねえ、あんな幼い子が軍歌を夢中で歌って踊っているなんて……。
もう一つ、戦争の気配を感じる嫌な思い出があります。当時住んでいた家は、浜田の練兵場から1.2キロ離れた長沢と言う所にありましたが、兵隊さんが何人もで一団となって走らされて、家の前を通って行くんですよね。先頭あたりの兵隊さんは走るのが得意なようでしたが、びりっこの方を走ってくる兵隊さんは、息も絶え絶えで可哀そうでした。それなのに、上官らしき人は棒を持って、一番ビリを走っている兵隊さんのお尻をビシビシ叩くんです。それが可哀そうで可哀そうで、幼かった私の心は張り裂けそうでした。嫌な光景でした。
令和元年 9月8日 ブログ FBでアップ済み
気分を転じて、私の不思議な経験を話しましょう。
4歳か5歳の時で、小学校に上がる前の年齢でした。お母ちゃんと一緒に近所のおばちゃん達と、その子どもたちとで山に行きました。そこにブドウ畑があって、おばちゃん達はそのブドウ畑の周りの草刈りか何かをしていたのですが、子どもたちはブドウ畑に入ってかくれんぼをしていました。ブドウ畑は棚になっていて、ブドウの木は枝を伸ばして伸ばして、棚に巻きついて伸びて行って、実を実らせます。棚が頭上を覆うので、ブドウ畑の中は薄暗くなります。そんな中で、子どもたちはかくれんぼをしていました。私も木の陰に隠れて鬼が見つけに来るのを、じっと待っていました。ところが、待っても待っても鬼が来ないのです。それに、さっきまで聞こえていた子どもたちの叫び声が、まったく聞こえないのです。ブドウ畑の中が、妙にシ――ンとしているのです。不安になった私は、木の陰を離れてそろそろと歩き始めました。
すると、ふと見た向こうに、古い茅葺き屋根の小さなあばら家があって、その入口に綺麗な女の人が立っていて、私に向かっておいでおいでをしているのです。まっ黒な長い髪を後ろでくくっていて、着ている着物は真っ白でした。遠目に見てもそれはそれは綺麗な女の人でした。
こんなブドウ畑の中に小屋があって、綺麗な女の人がいるなんて何か変と思った私は、じりじりと後ずさりをして、ぱっと走りだしました。ブドウ畑ってあんなに広い筈ないのに、走っても走っても出口が見つからないのです。「お母ちゃん!お母ちゃん!」と母を呼びながら走っていたら、とたんにブドウ畑の外で草刈りをしているおばちゃん達の声や、一緒に遊んでいた子どもたちの叫び声が、一気に耳に飛び込んできて、一瞬にして現実世界に戻りました。
振り向いて見ると、さっきまでうす暗くて広く、迷子になりそうだったブドウ畑は、向こう側の出口も見えるぐらいの普通のブドウ畑でした。もちろん茅葺き屋根の小屋も、女の人もいませんでした。
私は、お母ちゃんや近所のおばちゃん達に、さっき見た出来事を話しました。
「ねえねえ、あの中に小さな小屋があってねえ……」と言っても、「まあこの子はばかなこと言って」と取り合ってもらえず、「キツネにでも化かされたのかねえ」と笑われてしまいました。
当時は、キツネに化かされた話とか、カワウソに化かされた話とか、けっこう聞いたものです。
「もっさんところのばあさんが油げ煮たものを重箱に入れて親せきに行こうと夜道を歩いていたが、歩いても歩いても親せきの家にたどり着くことが出来んで、同じ所をぐるぐる回っておったと。挙句の果てに重箱ごと油げを落としてしもうたそうな。ありゃあキツネにだまされたんだでえ――」……てな具合に……。
それにしてもカワウソに化かされるって何だろうなあ。私にはわかりません。
……というわけで、私の不思議な体験はいったい何だったんでしょうね。絶対にウソではありません。こんな見事な体験、4歳や5歳の子が空想してウソの話を作り上げるなんて出来ませんよ。もしこれが私の作り話と言うなら、私ってもしかして天才かも……。
そんなこんなの幼児期を長沢で過ごしました。現在、九号線から服部タイヨ―に入るT字型の道の脇に、その頃私たちが暮らしていた家がありましたが、今は空き地になっています。毎日服部タイヨ―に買い出しに行くのでそこを通りますが、子どもの頃には大きな家に住んでいたと思っていたのに、空き地になったのを見ると、あれー?と思うほど狭いです。
当時は幼稚園や保育園はなかったので、小さい子どもたちは、近くの真行寺さんが開いておられた託児所に通っていました。幼かった私は、真行寺さんは大きなお寺で庭もずいぶん広いところだと思っていましたが、大人になって行った見たら、まあこんなに狭かったんだと分かりました。やっぱり子ども時代には、何でも大きく広くみえるもんだなあと思いました。
令和元年9月13日 ブログ FBでアップ済み
小学校入学前に、三宮に引っ越ししました。三宮は、今は相生町と言う町名になっていますが、私が引っ越した頃は、まだ黒川町三宮と言う町名でした。……と思うけど……うろ覚え……。三宮神社は子どもたちの格好の遊び場でした。
三宮神社のことは良かったけれど、我が家は大変なものでした。ああいうのをバラック建てと言うのでしょうか、材木は寄せ集め、壁は土をこねて作ってありましたが、畳はなくて、藁で編んだ筵でした。正座をすれば足の脛が痛くなります。何と言っても屋根はすごかった。トタン屋根だったのです。激しい雨やアラレが降った時は、ものすごい音なので、家族同志話も出来ませんでした。
小学校入学の頃は、いよいよ戦争も激しくなった頃でした。でも確か教科書は、まだ挿絵の入ったハナ・ハト・マメでした。そのうち新聞紙のようなものになって、自分で切って綴じる、そんな粗末な教科書になりました。
校門の入り口には、天皇皇后両陛下の写真が飾ってある立派な建物があって、校門を入る時、上級生の号令に従って、その写真に向かって深々と頭を下げた記憶があり、それが何の意味があるのか全く分かっていない一年生でした。授業中に警戒警報のサイレンが鳴った時は、全校生徒が校庭に集まって、地域ごとに隊列を組み、上級生が一年生を背負って皆で走って家に帰ったことを覚えています。
令和元年 9月18日 ブログ FBでアップ済み
戦争が終わった日のことも覚えています。
「今日は天皇陛下のお言葉が放送されるから」と、お父ちゃんもお母ちゃんも早く山から帰って来ました。近所のおじちゃんやおばちゃんも、一緒にラジオを聞かせてってことで、窓際にラジオを置いて皆で聞きました。
私はまだ小さくてそれがどんなに大変なことなのかは分かりませんでしたが、放送が終わった時、誰かが「……負けたか―……」と溜息のように言った言葉や、お母ちゃんががっかりした悲しそうな顔をしたのを覚えています。その時、お母ちゃんのお腹が大きかったことも・・・。
そのお母ちゃんのお腹にいた赤ちゃんが産まれた時、私は朝になるまでそのお産の騒ぎを知らずに眠っていました。当時はみんな家でお産をし、産婆さんが来てお父ちゃんもお湯を沸かしたりして、近所のおばちゃんも手伝いに来てくれたりして大変だったのに、私ったら何も知らずに眠っていたのです。そして、朝起きて寝床から出て歩き出そうとしたその足先、「フギャー」と言う声がして、ビックリして足を引っこめたのですが、もしもあの時、一瞬遅れていたら、生まれたばかりの妹の運命はどうなっていたかわかりません。
結局妹は元気に育って高齢者になった今でもバリバリ元気に暮らしています。
※令和元年 9月25日 ブログ FBでアップ済み
結局、母は8人の子どもを産んで、4人が幼い頃に死に、無事に育ったのは4人でした。昔は栄養衛生共に状態が悪かったので、子どもが無事に育つのは大変なことだったのです。だから、七・五・三のお祝いのお宮参りなどがされていたのだと思います。3歳、5歳、7歳と、無事に育つと言うことは大変なことだったと言うことです。
妹が生まれた頃は、日本中大変な食糧難で、食べる物がなくて皆お腹を空かしておりました。お母ちゃんもおっぱいが出ないので、妹にはうすーい重湯を作って飲ませたりしておりました。お米もなかなか手に入らなかったし、ましてミルクなどはとても手に入るものでなかったのです。親たちの苦労は並大抵のものではありませんでした。
食べられるものなら何でも食べた。木の芽の若芽が食べられると聞いて摘みに行って、晩御飯に煮て食べたが……が、これはまずかった……。
まずいと言えば「ふかわごはん」
〝ふかわ“と言うのは、何かの穀物を脱穀して出た殻の部分で、本来は捨てるのですが、これを精米所からもらってきて、これをお米に混ぜて炊くのです。もちろん米の量が少ないので、出来あがったふかわご飯は、モサモサして不味かった。それでも子どもたちは食べました。でも、妹が食べている姿は、本当に可哀そうだった。なにしろ妹はまだ幼くて、やっとおかゆからご飯に移った頃でしたから、モサモサのふかわご飯を食べている姿を見るのは、とても辛かったのです。
姉と私と弟と妹、4人の子どもたちはいつもお腹を空かしていました。汁を掬う杓子がいびつに欠けていたのを思い出します。それは、お腹が満たされない4人の子供たちが鍋の底の汁を一滴も残すまいと、カリカリと引っかいた挙句の果ての杓子の哀れな姿なのでした。
※令和元年 10月7日 ブログ FBでアップ済み
ある日私は、ふとお母ちゃんが、いつもちいっとしかご飯を食べないことに気がつきました。小さな茶わんに半分ぐらいしか食べないんです。
「お母ちゃん。たったそれだけでええん?(いいの?)」と聞いたら、お母ちゃんは「大人になったらちいっとでもせやない(大丈夫)もんだよ」と言いました。私は「フ――ン。そんなもんなんかなあ」と思いました。でも、自分が大人になって、その頃のお母ちゃんの歳になった時、それは嘘だと分かりました。お母ちゃんだって、もっともっと食べたかったはずですもの。
子どもたちはお母ちゃんが大好きで、いつもお母ちゃんの取り合いっこをしました。お父ちゃんは病弱だったので、お母ちゃんが魚の行商をして子供たちを養ってくれました。とてもとても貧乏で、地域でも学校でも一番の貧乏でした。
6年生の時、修学旅行がありましたが、私は自分でもそんなもの行ける訳ないこと位分かっていました。でも、修学旅行が近づくにつれ、クラスの皆が浮かれて楽しそうに話し合う姿に、一人ポツンと離れて淋しい思いでおりました。
そんなある日担任の先生に呼ばれました。
「河上。修学旅行には先生が連れて行ってやるから心配するな」。
思わず泣きそうになりました。ほんとに夢かとばかりに嬉しくて、家に帰る畑のなかの道を少しでも早く親に知らせようと、走って帰った時のことを今でも忘れません。
修学旅行の当日、汽車の中で「おぼろ月夜」をみんなで合唱しました。私は声が低かったのでアルトを歌いました。担任の先生は私の隣に座って一緒にアルトを歌って下さいました。先生は大学を出たばかりの男の先生で、音楽の得意な先生でした。先生にとって私たちが最初の生徒でした。
♪菜の花畑に入日薄れ 見渡す山の端かすみ深し♪
車窓からは菜の花畑が見えて、あの時の景色は今も忘れることが出来ません。
私を修学旅行に連れて行って下さった山根先生、本当に有難う御座いました。因みに修学旅行代金は私が小学校を卒業するまでに、親が少しずつ先生に返したようでした。
※令和元年 10月23日 ブログ FBでアップ済み
中学生の頃の私は、誰でも考えるんじゃないかと思う「何のために生きるんだろう」と言う思いをいつも持っていました。特別に頭も良くないし、美人でもないし、気は利かないし、おまけに体も丈夫ではない。家は超貧乏だから、中学校卒業したら早く働きに出て、家の経済を助けなきゃならないし、夢も何にも持てない状態でした。こんな私が生きていて、何か役に立つんだろうかと、結構深く悩んでいました。
そんなある日、学校からお薦めのイタリア映画「道」を映画館で観ました。ジュリエッタ・マシーナ演ずる頭の弱い女、ジェルソミーナの悲しい物語でした。その物語の中で、ジェルソミーナが自分の無価値さを嘆いて「私は何の役にも立たない。生きていてもしょうがない」とサーカスの芸人仲間の男に悲しい心の中を訴えた時、その男は「この世にあるものはみんな何かの役に立つからあるんだよ。道端に転がっている石ころだって何か役に立つからあるんだ」と言うシーンがあります。
この言葉は当時の私の心をバア―ンと貫きました。そうかあ。道端の石ころだって何かの役に立つからあるんだ。私だって何かの役に立つことが出来るんだ。何かの役に立つから生きているんだ。」
この思いは、その後もずっと私を支えてくれました。中学を卒業し、すぐに姫路の東洋紡績で働きましたが、一年かそこらで病気になってしまい、故郷に帰りました。帰っても病院通いばかり・・・入院も長かったし・・・。
映画での「道端の石ころだって何かの役に立つからあるんだ」……と言うあの言葉を知らなかったら、きっと希望を失った暗い日々だったと思います。
病弱ではありましたが、働けるようになったので、宝塚市にある親戚の甘党屋さんに女中さん兼店員で、2年ぐらい働きました。家事のことはそこで色々学べたと思います。
※令和元年 11月6日 ブログ FBでアップ済み
故郷に帰ってからは原町にあった麦わら帽子を作る会社で働きました。
その頃、私にも結婚話がいくつか持ちあがりましたが、結局は父親同士がいとこ同士で中が良かったところから、私にとっては二従兄にあたる河上義文さんと結婚することになりました。
恋愛結婚でも見合い結婚でもありません。強いて言うなら成り行き結婚でしょうか。親がいとこ同士で仲が良かったっていうことだから、お互いの家のことは分かっているし、年齢も三つ違いでちょうどいいし、義文さんの両親はもう二人とも亡くなっているので、嫁姑のことで気を使うこともない。仕事も看板書きの職人で、若いのに腕は良いし、真面目だし……って、自分に都合のいいところを探して、まあいいか……と承諾したわけです。ケチをつけるとしたら、義文さんが背が小さいと言うことと、女は結婚して姓が変わるという楽しみがあるのに、私は河上から河上に嫁に行って、つまらんなあと思ったことでした。よく養子さんですかと言われたものですが、河上から河上に、嫁に入ったんです。
結婚したのは昭和35年5月で、長男昌樹が生まれたのは翌36年8月でした。この昌樹が私のお腹に来た時は大変でした。周囲が「あんたそんな弱い体で子を産んだら、あんた死ぬよ……」って。特に両親は心配して大反対でした。なにしろその少し前、裏の家のゆきちゃんが、赤ちゃんを産んですぐに死んでしまったばかりでしたから。私の幼なじみのゆきちゃんは、妊娠中に病気がひどくなって、赤ちゃんを残して死んでしまったのでした。そんなこともあって、私の両親も大変心配して、私が子どもを産むことに大反対だったのです。
でも私は産みました。昌樹の誕生です。思ったよりお産は軽くて、産後も元気に子育てに励みました。そんな調子だったので、二番目の子どもが与えられた時には、もう誰も反対しませんでした。
※令和元年 11月23日 ブログ FBでアップ済み
ところがこの二番目の子ども、祐樹の出産は大変でした。人が思うことと神様がなさることとは違うんですね。お産そのものはとても楽なものでした。まるで「脇の下から生んだのかい?」と言われるほど楽々と生まれたのです。
でもその後です、大変なことになったのは・・・
時間が経っても出血が止まらず、ベッドはたちまち血の海になってしまいました。私の意識も遠くなって行きました。体内の血が沢山出てしまって、私の元々の病気だった心臓が弱り、起き上がることも出来なくなりました。何日経っても何日経っても、食べる力も排泄する力もなく、寝たきりになって弱って行きました。祐樹への授乳も寝たままで、起き上がって抱くことも出来ませんでした。
産婦人科の病院なのに、内科のお医者さんが通って来て下さって診て下さいました。笠田先生という内科医の先生でした。笠田先生は心臓外科が専門だったと思いますが、名医と名が高くて、国立病院と自分の医院と掛け持つほどの、とても忙しい先生でした。それでも一日に一回は、必ず私の診察治療に来て下さいました。心強かったです。
輸血もしました。当時は、今と違って血液も売血などによる劣悪なものもあり、私が受けた輸血はこの時の悪い血だったせいか、ず――っと後になってから、血液による感染症、C型肝炎にかかっていることがわかりましたから・・・。
※令和元年 12月7日 ブログ FBでアップ済み
来る日も来る日も寝たきりで、どんどん弱った行く私でしたが、二歳のかわいい盛りの昌樹は、元気いっぱいに見舞いに来てくれました。昌樹は父ちゃんのお姉さんが預かって下さっていました。父ちゃんとは義文さんのことです。義文さんは昌樹と祐樹の父ちゃんになったので、ここからは父ちゃんと書きます。
私は毎日泣いてばかりいました。自分の体がどんどん弱って行くことで、私はこのまま 死ぬんだろうと思いました。昌樹や祐樹を残して死ぬのかと思うと、私には二人が不憫で不憫で仕方なかったのです。なにしろ昌樹は二歳、かわいい盛り、祐樹は生まれたばかりですもの。この子たちのために頑張らなきゃと思っても、私の体は弱って行くばかり・・・。
ある日私は本気で祈りました。・・・と言っても、私はその時はまだ本当の神様を知りませんでした。ただ、神社仏閣に祀られているあの八百万の神々ではなくて、私をこの世に生まれさせ、私の人生を手のひらに収めて導いておられる唯一絶対の神様がおられると信じておりました。私はこの神様に祈りました。丁度その時、付き添ってくれていた私のお母ちゃんはそこに居なくて、祐樹はすやすや眠っているし、この時とばかりに真剣に祈りました。
「神様。私は今激しい痛みもなく狂うような苦しみもありません。ただ、毎日毎日弱って行くばかりです。このまま死ぬとしたら、もしかして楽に死ねるかもしれません。でも神様お願いです。私は死ぬわけにいかないのです。昌樹はまだ二歳です、祐樹は生まれたばかりです。この子たちを置いて私は死ねないのです。神様お願いです。子の子たちが成人するまで私を生かしておいて下さい。もしこの願いを聞いて下さるなら、今度死ぬ時、狂う程の苦しい死に方をしてもかまいません。だから今は生かしておいて下さい。」
と。
不思議なことにその日から私はだんだん元気になって行きました。ほんとだよ、だって私は今も元気ですから。神様は私の必死の祈りを聞いて下さったようでした。
退院して、しばらく実家でお世話になっていましたが、何とか動けるようになったので、自宅に戻って普通に生活するようになりました。その上、あれほど弱かった私が、二人の子供を育てるうちに体もぐんぐん元気になって行きました。
ところが、今度は一家の主の父ちゃんが病気になってしまいました。最初は盲腸だと言うので手術したのですが、手術しても良くならないし、変だなあ…・と言うことになって詳しく検査したところ、腎臓結石だと言うことが分かり、結石を取り除く手術をしました。ところが開けてみると、もう手遅れってことで、腎臓そのものを取らなきゃならないという羽目になっていて、片方の腎臓を摘出することになりました。おかげで父ちゃんは、三十歳そこそこの若さで片腎の体になり、一生弱い体になってしまいました。
それまで市内の塗装屋さんに勤めておりましたが、体がついて行けず、独立して看板屋を開業しました。お金があって独立したわけではありませんので、金銭的にはとても苦しかったですが、体は自分の都合に合わせて仕事が出来たので、何とかやっていけました。そのうち私も住友生命の集金係に就職して、家計の助けをすることが出来たし・・・。
住友生命には12年間勤めました。毎日毎日バイクで走り回りました。もともとはコミュニケーションの苦手な私でしたが、この仕事のおかげで人と会話できるようになりました。
令和元年 12月15日 ブログ FBでアップ済み
私の趣味について書いてみましょう。
私は子どもの頃から絵を描くことが好きでした。小学校の図画の時間は、楽しい時間でした。出来上がった絵は、たいてい廊下に貼り出されました。中学校の時、生徒の名前を覚えるのが苦手だった美術の清水先生が、私の名前をすぐに覚えられたというので、同級生がやきもち焼いてざわついていました。(笑)
大人になってからも、いつか油絵を描いて見たいと思っていましたが、家計は相変わらず厳しくて、絵具やキャンバスを買うのはちょっとなかなか大変でした。それでも三十代に入った頃、住友生命の集金係の仕事もあって、少しはゆとりも出来たので、通信講座で油絵の基礎を学び、東光会の山陰支部である山光会にも入れてもらって、画家の方々からも指導を頂けるようになりました。指導者の山崎修二先生は、私の絵をとても気に入って下さって、「河上さんにしか描けない良い絵だ」といつも褒めて下さいました。市美展では市長賞、文化協会長賞などいただきました。
この市美展ですが、初出品はただの入選から始まって、次の年は秀作賞、その次の年は特選と、だんだん良い賞を頂けるようになりました。そしてとうとう最高賞の市長賞を頂きました。
私の絵は、人の心に訴えかけるような心象的な絵でしたから、それが人の心を引いたようでした。絵の題は「聖書の消えた日」でした。私はその時はまだクリスチャンではありませんでしたが、もし世の中から神の愛、聖書の教えが消えたら世の中はどうなるだろうかと考えて、もしそうなったら一番の被害者は子どもたちだろうなと思って、悲しい子どもの絵を描きました。それが市長賞。
次の年も同じような趣旨の絵を出展しました。題は「悲しみの魂」。賞は市長賞に次ぐ文化協会長賞。市美展の最終日、表彰式と審査委員長による講評がありましたが、私の「悲しみの魂」は市長賞に値する絵だと褒められました。
ではなぜ市長賞ではなかったのか。それは、前年に市長賞を取っているので、同じ人が二年続けて最高賞を取るのはよくないという意見が審査員の人たちの中にあり、それが通ったのだそうです。講評をされた審査委員長の山崎先生は「良いものは良いものだから二年続こうが三年続こうが最高賞を上げるべきだと私は思うのですが・・・」と残念そうでした。ま、私の絵を言い絵だと言っていただいたのだから、私はどちらでもいいと思います。
この「悲しみの魂」は気に入って下さった方がいて、買って下さいました。なんだか私も思い入れが深くて手放すのがつらかったです
山崎先生は「河上さんは良い絵が描けるから東光展に出してみませんか」と言って下さったけど、東光展に出すには数万円お金がかかるので、とてもとても我が家の経済では手が出ませんでした。たかが主婦の趣味にそんなお金を出すことは出来ません。油絵の趣味の話はそこまでですね。
令和元年 12月28日 ブログ FBでアップ済み
後は詩吟。
これは準三段まで行きました。島根吟詠連盟と言う流派で、北斗支部と言う支部を任され、弟子が五,六人居りました。詩吟は大好きで、今でも声が出ると思いますよ。試していないけど・・・。
だいたい私は、歌舞伎とか日本舞踊とかの和風の芸が好きなのです。そのくせバレエなどの洋風の芸術も好きです。スポーツの部類なのに、フィギュアスケートが好きなのも、バレエやダンスの要素が入っているからでしょうね。とにかく美しい所作が好きです。自分では出来ませんが・・・。
楽器も好きです。美しい音が出て、音楽が奏でられるものは何でも好きです。ハーモニカは三本持っています。ケーナは持っているけど吹けません。だいいち音が出ません。難しいです。オカリナは五年位習ったでしょうか。オカリナの音、大好きです。・・・が、難しい。
私は文芸系が好きで、体育系は全然駄目です。その私がママさんバレーを始めたのです。それは祐樹が中学生の頃、「保護者による学校対抗のバレーボール大会があるので、出て下さい」と言われ、参加したのが運のつきで、スポーツで汗を流すことの快感と練習後の水の美味しさにはまってしまって、毎回練習に通うようになりました。昌樹がバレー部であったこともあって、この運動オンチの私を特訓してくれて、サーブも入るようになり、アタックらしきことも出来るようになって試合にも出ました。試合に勝ったか負けたか覚えていないけど、どういうわけか私はキャプテンと言うことになっていました。背番号一番でした。
そんな切っ掛けで、私はバレーボールが好きになって、一中ママさんバレーの友達に誘われ、社会人バレーのチームにも顔を出すようになりました。もちろん玉拾い要員です。ママさんバレーとはレベルが違いましたわ。若くて力があって、女子でもものすごいアタックを打って来ますもの。
私がバレーボールをするようになった理由は、練習後の水の美味さに惹かれたからだけではありません。・・・と言うより、一番の理由は、運動苦手の祐樹に「ほら、運動苦手な母ちゃんだってやったら出来るようになったよ。やってみると面白いよ」と身をもって伝えたかったからでした。「やったら出来るよ。ほら、やってごらんよ」・・・と。
令和2年 1月10日 ブログ FBでアップ済み
※令和元年9月5日 ここまでチェック
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