JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.06.15
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カテゴリ: JINさんの農園
次に訪ねたのが、源頼朝・八重姫ゆかりの「音無神社(おとなしじんじゃ)」。
伊東市音無町1−13。



音無神社は、伊東の中央を流れる音無川(松川)の東岸に鎮座する。
祭神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)。
『曽我物語』によれば、平治の乱後、伊豆国の蛭ヶ小島に流された源頼朝は、一時、
伊東の北の小御所で暮らしていたのだという。
その時に出逢ったのが伊東祐親の娘八重姫。
愛し合う二人が密かに会っていた場所がこの神社のある「おとなしの森」だったと伝えられ、
裏を流れる松川の対岸の「ひぐらしの森」は、頼朝が八重姫に会うため日暮れを待った所と
いわれている。
やがて二人の間には男子が生まれ、千鶴丸と名付けられたが、伊東祐親の怒りに触れて殺され、
二人の仲も引き裂かれたのだと。



石鳥居を潜った直ぐ左手にあった伊東市指定文化財・天然記念物の「タブの木」。
こちらが高さ14m目通し3.50mのタブの木。



市指定文化財(天然記念物)
音無神社のタブの木
タブの木は、海に近い暖地性の常緑高木で、クスノキ科に属し、別名イヌグスあるいは
タマの木ともいう。わが国の中部以南から遠くは沖縄、中国南部にかけて自生する。
伊豆でも、巨大なものは珍しく、このように市街に巨樹が残っていることは、伊東がいかに
温暖であるかを示す標本木(学術的)である。
1.高さ12m 目通し4.10 m
2.高さ14m 目通し3.50m
指定昭和43年6月7日
伊東市教育委員会」



「音無の森、頼朝八重姫伝承
曽我物語によれば、伊東の北の小御所に住んでいた若き日の頼朝は、
伊東祐親の三の姫八重姫と結ばれて、ニ人の間に千鶴丸と名づけられた若殿が生まれました。
ニ人が愛を語らった場所が、この音無の森だと伝えられています。
頼朝は、この対岸にあるひぐらしの森で、出会いの時を待って日ぐらし過ごしたといわれます。
今はその森に日暮八幡社があり、ひぐらし会館が建っています。
両方の森を結ぶ岡橋(左手に見える)の手すりには、頼朝と八重姫の姿が描かれています。」



「玉楠神社」
境内社の「玉楠神社」には、源頼朝と八重姫が祀られているのだと。



この巨木は椎であっただろうか?
横には「尻摘祭」碑が。



「尻摘祭」碑。

毎年11月10日には、ここ音無神社にて「天下の奇祭 尻つみ祭り(尻相撲大会)」が
行われるのだと。
「尻つみ祭り」は、真っ暗な社殿のなかで御神酒を回すときに隣人の尻をつねって合図すると
いう奇祭。今日では、囃子のリズムに合わせて尻をぶつけ合う「尻相撲大会」も開催されていると。

音無神社<br />毎年11月10日には、ここ音無神社にて「天下の奇祭 尻つみ祭り(尻相撲大会)」が行われます

境内の奥には絵巻風展示があった。
源頼朝と八重姫の出会ってからの様子の絵巻。
地元の伊東高校美術部の作品であると。



その手前にあったのが「出居清太郎先生 御足跡記念碑  大正十四年六月十二日」



「出居清太郎先生御足跡碑
出居清太郎先生(1899~1933 )は、青年時代に関東大震災に遭遇し、その惨状を見て、人心救済を
心に誓われました。
そして修行を志して、東海道筋を何度も旅されました。大正14年( 1925)、野宿を重ねたあとの
6月12日、烏の声に誘われてここ音無神社の森に人り、みやしろを拝して人心救済の決意をさらに
固められ、木の根を枕に一夜を明かされたのでした。
先生は、昭和16年(1941)に修養団奉誠会を結成され、人心救済と平和世界の顕現のために
その生涯を捧げられられました。」



絵巻風展示に近づいて。



音無神社の祭神であり、安産と縁結びの神豊玉姫命(とよたまひめみこと)の見守る中、
源頼朝と、伊東の領主である伊東祐親の娘八重姫が出会う。

音無神社の祭神であり、安産と縁結びの神豊玉姫命の見守る中、源頼朝と八重姫が出会う。<br />

頼朝と八重姫はこの音無の森で逢瀬(おうせ)を重ね、やがてニ人には千鶴丸が誕生する。
『曽我物語』には次のような記載があると。
仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平、
天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。
祐親が在京(大番役)の間に頼朝がその三女・八重姫と通じて子・千鶴丸を成す。

源頼朝と八重姫は音無の森で逢瀬を重ね、やがて二人には千鶴丸が誕生する。

祐親は平氏に憚(はばか)り、千鶴丸を稚児ケ淵へ沈めるが、秘かに遠方へ逃がしたとの説も伝わる。

千鶴丸が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、 「親の知らない婿があろうか。
今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。
平家の咎めを受けたらなんとするのか」

と平家への聞こえを恐れ、家人に命じて千鶴丸を轟ヶ淵に柴漬にして殺害し、娘を取り返して同国の
住人・江間の小四郎に嫁がせた。

さらに祐親は頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、伊東祐清(祐親の次男)から身の危険を知らされた
頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めたという。

伊東祐清は頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていたので、頼朝との関係が深かった。
また、頼朝が逃れたのは走湯権現ではなく、祐清の烏帽子親である北条時政の館だったとの説があると。

祐親は平氏に憚り、千鶴丸を稚児ヶ淵へ沈めるが、秘かに遠方へ逃がしたとの説も伝わる。<br />

「音無神社伝承絵巻について
当、音無神社の御祭神は海神の娘、豊玉姫命(神武天皇御祖母)であります。
創建は境内に繁茂する大樹の樹齢が示す如く計り知れません。
ご祭神が産殿の屋根も葺き終わらぬ内に産気づき、安産であったので、「安産」「育児」ひいては
「縁結び」の神として崇敬をあつめて参りました。お産にかかわることから、暗闇を尊び
十一月十日漆黒の中で神事が執行されます。世に天下の奇祭とし「尻摘祭」の名で有名です。
当夜、余興として「尻相撲大会」が盛大です。鎌倉の昔、伊豆に流浪の日々を送った源氏の頭梁、
源頼朝と、地主領主、伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが、この森でくりひろげられ、千鶴丸なる
和子が誕生。平家の恩顧をうける祐親の烈火の怒りに触れ、松川の奥深き「稚児が淵」に沈め
害したと哀話を伝える。また異説に、秘かに和子を助けまいらせ他領に逃し、成長させたとする
説もあって、歴史ロマンは多彩でもあります。
絵巻製作にあたっては伊東高校美術部、伊東市、玖須美区民等、多くのご協力、ご支援のあった
ことを感謝するものです。」
平成ニ十五年三月十七日
玖須美神社氏子総代会 音無神社奉賛会」。




目通しとは細菌では地上 1.3mの高さでの幹の外周の長さのこと。
「妊婦のお腹」にも似ていると。



左側に象の姿が見えると。



竹灯籠に灯りが灯れば幻想的な世界が現れるのであろう。



歌碑の先には「伊東大川」・「松川」の姿が。







鰐や大蛇の姿も浮かんで来るのであった。



ムンクの「叫び」にも似て。



「天然記念物 タブの木
この境内のタブの木のうち特に巨大な二本(高さ最高約14m、目通り円周最大4.1m)を
伊東市指定天然記念物としています。

タブの木は暖地性の常緑樹でクスノキ科に属し、別名イヌグスとかタマノキとも呼ばれています。
中国浙江、福建、江西、広西、貴州の各省 琉球列島に広く分布しており、静岡県では沿岸部及び
低地部に分布しています。

昔はクスノキと同様に多く自生していたと思われますが、開発が進むにつれて用材として次から
次へと伐採されてその姿を消しつつあります。殊にこのように市街地にタブの巨木が残存している
ことは珍しく、学術的にも観光的にも貴重なものとされています。

花は三、四月頃に淡緑色の小さい花を開き、果実は秋になって黒く熟します。
樹皮は灰白色で滑らかなしので暖地の木に見る性質を現しています。

伊東市がいかに気候的に温暖であるかを示す標本木にもなり、郷土を誇る名木でもあります。  
昭和43年6月7日 伊東市文化財(天然記念物)に指定

伊東市教育委員会



そして「拝殿」正面。



豊玉姫命は、音無神社に祀られている神は、お産がとても軽かったことから「安産の神」とされ、
神社の周囲にはたくさんの穴の開いた柄杓が奉納されていた。
以前に訪ねた身延山久遠寺にも同様な神社があった記憶が。
「その昔 祠近くに若夫婦が住んでおり難産で大変苦しんでいたとき
そこを通りかかった旅の僧に安産を願った僧はひしゃくを用意させると何やら呪文(お経)を
唱えひしゃくの底を抜き水を通すと元気な男の子が無事誕生した。
以来、若夫婦は ひしゃくを祠に奉納して祈った といわれている。
このような伝説が秘められている祠は 安産の神として
数百年前から地域の人たちに厚い信仰を集めてきました底の抜けたひしゃくは安産祈願のため
奉納されたもの」と。



安産祈願をした人が無事に出産を終えたお礼で奉納するのだと。
置かれたばかりの柄杓には生まれた子供の名前が書かれたものも。



「底抜け柄杓守」もお礼参りで奉納されていた。



注連縄は本麻で作っているようで輝きがあった。



「竹灯篭」。



境内の「ノボタン(野牡丹)」の花。



現在地周辺の地図。



現在地周辺をズームして。
「松川遊歩道」を、松川を左に見ながら「通学橋」に向かって進む。



伊東大川(松川)の上流を見る。




◎杢太郎に会える道
松川遊歩道のうち、ここによリ上流の通学橋までの約四百メートルの間に、木下杢太郎が
故郷伊東に寄せた思いを感じさせる詩・戯曲・絵画・俳句などを紹介してみました。
ごゆっくりご覧ください。
(いで湯橋よリ順に並んでいます。)
ここ伊東市出身の医学者にして、詩、文学、美術など広い分野で優れた功績を残した
木下杢太郎(本名:太田正雄・1885年〜1945年)。
我々は「通学橋」に向かって歩いたので、写真の順番を逆にしてアップいたします。




「百花譜」の紹介
「百花譜」は、医学者でありながら、豊かな画才に恵まれていた木下杢太郎が、昭和十八年
三月から死の直前のニ十年七月までのニ年余にわたって描き続けた一連の植物画集です。
収められた画稿は八七ニ枚にのぼり、紙不足の戦時中のため横罫の医学用箋に描かれています。
それらは、東大構内や植物園、出勤途上の路傍に生えている名もない雑草がほとんどで、伊東で
描かれただけても百枚以上あります。
「百花譜」より抽した「つばき」は、伊東市の「花木」でもあり、本市南部の城ケ琦海岸に近い
蓮着寺付近には大木の原生林があって、初冬より晩春までの季節に見事な花を観るこどが
できます。」



美しいアジサイ。



上とは時間的な変化なのであろうか。



遊歩道の途中には休憩用の椅子も。



「伊東文学散歩の地図」。



「史跡と文学碑のごあんない」。

史跡と文学碑のご案内

伊東文学散歩の地図に近づいて。

伊東文学散歩の地図を大きくする

「百花譜」より  画 木下杢太郎
松川遊歩道には伊東にゆかりの杢太郎作品が紹介されていた。



竹灯篭も遊歩道のいたるところに。



画「松川河畔」。



「なんてん」。



「伊東の生んだ偉大な文学者 木下杢太郎
木下杢太郎(本名・太田正雄)は、明治十八年八月一日、当時の商家「米惣」
(現在の杢太郎記念館)の三男四女の、末子として生まれ、幼少年期を伊東で過ごしましたが
医者にさせたい家族の勧めもあり、十三才で上京し、独逸学協会、中学、一高、東京帝大
医学部と進みました。
随筆「伊豆伊東」(昭和五年)に「伊東は小生の生まれたところで、もし大地に乳房どいうものが
あれば、小生にとってはまさにそれです。」と書いているように、郷里伊東を愛し続けた
杢太郎は、詩をはしめ戯曲、随筆、紀行などの文学のほか、美術の分野においても立派な功績を
残しましたが、本職は東京帝大教授を務めた医学者で、皮膚病学とハンセン氏病(レプラ)の
研究では世界的な権威でありました。
その多才な杢太郎も、胃癌のために昭和ニ十年十月十五日、六十才をもって不帰の客となって
しまいました。」



「伊東大川」に流れ込む小川。



竹灯篭が見事に並んでいた。



杢太郎画「湯川海岸の夕景」・詩「海の入日」
「浜の真砂に文かけば また波が来て消しゆきぬ
 あはれはるばるわが思 遠き岬に入日する」



「友好都市 伊東---リエティ
松川で行われているタライ乗り竸走どイタリア・リエティ市のべリーノ川で、”太陽の祭"に
行われているパリオ・デルラ・ティノッツァが類似していることがきっかけで、
1985年7月21日に伊東一リエティの両市は友好都市の締結を行いました。」



ここにも「鞍馬」の如きベンチが。



杢太郎色紙 杢太郎自画像。



「information」。



杢太郎画・文 
「ふるき仲間
ふるき仲間も遠く去れば
また日頃顔合はせねば
知らぬ昔とかわりなきはかなさよ
春になれば草の雨
三月桜、四月すかんぽの花のくれなゐ
また五月にはかきつばた
花とりどり、人ちりぢりの眺め
窓の外の入日雲」



桜の老木が遊歩道、伊東大川を覗き込むが如くに。



杢太郎句碑  
「行く水におくれて淀む花の屑」



杢太郎句碑 
「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」



木下杢太郎 戯曲「和泉屋染物店」
戲曲「和泉屋染物店」は明治四十四年、杢太郎ニ十六才、大学卒業の年の作品である。
舞台はある海岸の町、紺屋和泉屋の店先。現在は杢太記念館になっている市内湯川の
生家「米惣」のイメージそのままと考えてさしつかえない。
元日の夜。降る雪、店は大戸を閉じ、内は女たちのにぎわしい声、三味の音色。ところが主人
徳兵衛の息子幸一の出現によって一転舞台ば緊迫する。幸一はかっては足尾銅山のストラキに
関係し、今は大逆事件の加担者として官憲から追われる重大な国事犯なのである。
先祖の遺文を守る一徹な老父と時代の先に魂を奪われる息子の新旧断絶のドラマであり、
それが、議論としてではなく、音楽的に統一され、夜の海、船の汽笛などを配して、明治末期の
伊東の情緒をあますところなく描き出している。
当時はイブセン劇の全盛時代であったが、杢太郎は西欧的な近代劇の理念と旧劇の手法とを
巧みに融和させ、独特の世界をつくり出すことに成功したのである。」



                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.07.19 07:54:30
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