JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.11
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』
【​ 鎌倉の寺社リスト ​】 👈リンク

この日は7月21日(水)、「古都「鎌倉」を巡る」の10回目の散策に向かう。
この日は梅雨明け後の猛暑とのこと、そしてこの日に訪ねたのは、鎌倉市の北部の
岩瀬、今泉地区であり訪ねる場所が散在していたので車での移動とした。
自宅から30分でこの日の最初の訪問地・「五社稲荷神社」。
鎌倉市岩瀬1399。



「石鳥居」とその奥に「拝殿」。



右手に「車祓所」と「掲示板」、「五社稲荷神社」案内板が立っていた。



「掲示板」。




御祭日 八月最終土・日曜日
由緒
建久年間(一一九〇~一一九八)源頼朝の随身一騎奉行である岩瀬与一太郎義正が当地に
居住せし時、五穀豊穣と安寧を願って創建、江戸期には鶴岡職掌、坂井越後が神職を兼ねて
いたと『相模風土記』にある。岩瀬氏は、常陸国奥七 を支配していた佐竹孝義の嫡男、義政の
近習で常陸国那珂郡大宮郷岩瀬(現、常陸大宮市上岩瀬)の岩瀬城城主であったが「吾妻鏡」に
よると治承四年(一一八〇)十一月、源頼朝による佐竹氏攻めの際、常陸国府中手前大矢橋
(現、花園川にかかる大谷橋)で捕えられ、常陸国府中(現、石岡市)の頼朝本陣にて見参した際、
頼朝に諫言し、その武勇を認められ家人となり当地に居を構えたと伝わっている。
その後天明二年(一七七二)旗本、木原家名主、栗田源左衛門政春等により百一両を投じて
再建されたことが、棟札、古文書に記されている。天明の飢饉の折、御神威の発揚で飢饉を
乗り越え民心を引き締め、神社では粥を張る舞い、村内の被害はわずかに終わり、これも
五社明神のおかげと益々崇敬されたと伝わる。
明治六年村社に列し、昭和四十六年屋根銅板葺替工事、昭和五十六年~六十二年、神社本庁
振興対策指定の折、社殿一部改修、手水舎新築等行い、平成十二年神輿の再建、平成二十年
社務所の改築を行った。
境内社 平島弁財天社
御祭神 田紀理毘売命(たぎりひめのみこと)
    田寸津比売命(たぎつひめのみこと)
    市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
御祭日 五月巳の日
由緒  
寛政九年(一七九七)江の島神社の御分霊を奉齋、平成三年平成天皇御大典奉祝記念として
改築した。」



「手水舎」。



狛犬(右)。



狛犬(左)。



「拝殿」
五所稲荷神社は、建久年間(1190-1198)岩瀬与一太郎義正が、当地に居住した際に五穀豊穣と
安寧を願って創建したといいます。保食・大己貴・大田・倉稲魂・大宮姫の五座を祀り
五柱の神を祀っていることから、「五社神社」、「五所の宮」、「五所明神」とも呼ばれ、
江戸期には岩瀬村の鎮守として祀られ、明治6年村社に列格していました。



「拝殿」正面。



「本殿」を横から。



「神輿庫」が左手に。







境内社の「平島弁財天社」であろうか。



内陣には石祠が安置されていた。



石碑が二基。
左は「華表建設寄付人名」。
「華表」の意味は 中国で、宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱のことであるとの事だが




右の「大青面金剛童子」碑。



そして石鳥居の左側には「庚申塔」が並んでいた。



尖塔角柱型
上辺に「日月」、中央に「青面金剛童子」と刻む。
下には浮彫りの三猿。
文政六年(1823)の銘。



駒型
上辺に種子「キリーク」(阿弥陀如来)、中央に「奉造立庚申」と刻む。
右側に「延宝七天」(1679)、左側は「十二月十五日」とある。
下には浮彫りの三猿。



唐破風付笠塔婆
上辺に「日月」をつけ、中心に合掌六手の青面金剛像。
下辺に三猿。
寛政十二年(1800)の銘。



自然石。
中心に「大青面金剛」と刻む。
裏に、万延元年(1860)の銘。



駒型。
上辺に種子「キリーク」を刻み、その下に大きく三猿を刻む。
右側面に庚申供養、左側面に天明七年(1787)と。



そして次に訪ねたのが「大長寺(だいちょうじ)」。
県道21号からほんの少し入ると大長寺の山門が姿を現した。
鎌倉市 岩瀬1464。



「掲示板」
「感謝して今日も一日流す汗」と。



「ここは大長寺」。
次に訪ねた「西念寺」まで600mと。



見事な大きさの「冠木門」。



「大長寺
亀鏡山護国院大長寺と号する浄土宗の寺で、開山は感誉存貞、本尊は阿弥陀如来です。
天文17年(1548)5月に創建され、北条綱成の開基といわれます。寺には北条氏綱室朝倉氏像
(市指定文化財)があります。」



幅10mほどの大きな石段を上る。



「南無阿弥陀仏」碑。



この石碑には「馬頭観世音菩薩」と。



ズームして。



石仏と石塔。



石仏。



石塔。



境内を望む。



左手に「宝蔵」が。
境内手前のこの「宝蔵」には家康と父廣忠の位牌が祀られており、扉には葵の紋が示されていた。
本堂前にはかつて家康公手植えの銀杏もあったと。
大長寺背後の山には北条綱成夫人など後北条一族の墓と言われる石塔が残っていると。
他にも北条氏康寄進による倶利伽羅龍の図や北条綱成寄進による銅雲盤など後北条一族寄進による
寺宝が数多く残されているとのこと。



「宝蔵」の唐破風。見事な彫刻の上には葵の紋があった。



扉格子にも葵の紋が。



そして「本堂」。
大長寺の近く、大船駅の北側一帯は里見、徳川、上杉を阻んだ名城として知られる後北条の
南関東の拠点、玉縄城があり、北条綱成はその第3代城主でした。地黄八幡の旗印を掲げ
北条随一の闘将として恐れられるとともに、外交にも手腕を発揮した知勇兼備の北条綱成は、
北条氏の宿老として知られた大道寺政繁の甥であり、出家して浄土宗の僧侶となった
感誉存貞を尊崇しており、氏を迎えて大長寺を創建したのだと
「本堂」は1882年(明治15年)に消失し、しばらく時を経て1911年(明治44年)に再建された。



扁額「大長寺」。



蟇股(かえるまた)の見事な彫刻。



木鼻(右)。



木鼻(左)。



鎖樋と天水桶。



寺務所。



寺務所を別の場所から。



鐘楼。



廻り込んで。



梵鐘。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:09:43
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