JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.09.14
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カテゴリ: 大和市歴史散歩
【大和市の神社仏閣を巡る】目次

真宗大谷派(京都 東本願寺派)の「聞稱寺(もんしょうじ)」に到着。
大和市南林間6丁目9番11号。
狭い参道を進んでい行く。



正面に「親鸞聖人像」。



お顔をズームで。



掲示板。
「精一杯咲くとどんな花も美しい」。
残酷な現実だが、人もまた花である。 いつまでも若く美しく咲き続ける花はない。
しかしだからこそ花は美しい。




「本堂」
浄土真宗大谷派妙香山聞称寺の支院として、平成22年2月に建立。



「蓮如上人像」。



お顔をズームで。



小田急江ノ島線に向けて東に進む。



「大和学園前」交差点角の「聖セシリア小学校・幼稚園」の校門。



「大和学園前」交差点を渡った角にあった「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の校門。
1929年 伊東静江により大和学園を創立。大和学園女学校開校。
1930年 大和学園高等女学校に改称。
1947年 大和学園中学校開校。
1948年 大和学園高等女学校を大和学園女子高等学校と改称。
1980年 聖セシリア女子中学校・聖セシリア女子高等学校と改称。
2013年 高等学校からの生徒募集を停止し、完全中高一貫校化。
2020年  高等学校からの生徒募集を再開。 とウィキペディアより。

交差点の名前「大和学園前」は歴史を残すためにそのままになっているのであろうか?



更に進むと「聖セシリア 女子中学校・高等学校」の脇門。



そして小田急線の「中央林間4号踏切」を渡る。



踏切を渡りながら「中央林間駅」方面を見る。







踏切を渡り左折し線路沿いの道を「中央林間駅」方面に進む。
歩道には「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」のタイルが埋め込まれていた。
「天然記念物 なんじゃもんじゃの木」は深見神社境内にあった。



「市の花 野ぎく」。



「たぶの木」、「市の木 山さくら」。




大津家の敷地内にあるケヤキ、特に目につく巨木(樹高25m、胸高周囲4.2m 、樹齢約500年)。
大和市の重要文化財(天然記念物)に指定され、「 かながわの名木100選」にも選定されている。



道路脇にあった「大和市の古地名」案内板。



「大和という地名の起こりは、明治22年4月に下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村の
4村が合併して鶴見村となったものの村名などについて紛糾し、明治24年9月に大和村と
改名されたことに起因します。明治22年の市町村制の実施により、一般的には江戸時代の
村名が大字となり、検地帳などに小名、一筆書きなどといわれた耕地名が小字となりました。
しかし、市域では江戸時代にっくられた絵図がほとんどないことや、古くからの区画整理などの
実施や近年の住居表示の実施などにより、しだいに小字が用いられなくなり、失われつつ
あります。聞き取り調査により地名やその他の名称を掘り起こしてみたのが右の図です。
朱色が小字、黄色が地域に伝承された名称で、おおよその位置に示しています。
大和市教育委員会」



そして県道50号線・座間大和線下を潜る。



そして150m程進むと右手角にあった「正一位伏見稲荷神社」。



「稲荷大神の御神徳
伏見稲荷大社は、今を遠く千ニ百七十余年の昔、稲荷大神が稲荷山の三ケ峯に御鎮座せられた
のにはじまると、伝えられております。
稲荷大神とは宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、佐田彦木神(さだひこのおおかみ)、
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四之大神
(しのおおかみ)の五柱を総称した御名であり、正一位稲荷五社大明神とも
たたえられております。
その御神徳は、世の人々からそれぞれの精神(こころ)、生命(いのち)、生活(くらし)
生業(つとめ)、生産(つくり)の守護神として篤く信じられ、御神威は、心身健全、五穀豊穣、
商売繁昌、福徳円満、交通安全等々に極めて著しいのであります。」



朱の鳥居の扁額は「正一位稲荷大神」。



「社殿」。



近づいて。



後にして振り返る。



更に「中央林間駅」方面に進み右折し住宅街を右に折れ進む。



汚水管マンホールの蓋
大和市の市の花「のぎく」をデザイン。「やまとし」「おすい」の文字。   



そして「本道宣布会 皇神乃宮(はんどうせんぷかい すめかみのみや)」の一の鳥居に到着。
直線的なデザインが特徴の「神明鳥居」
大和市中央林間4丁目19-12。



参道を進むと二の鳥居が現れた。
木が鬱蒼としていたが、狛犬は無し。



「境内」の「案内板」。



「神明造」の「拝殿」。
天照大御神をご神体とする神社。



「拝殿」に近づいて。



「中央林間東急スクエア」前の道を西に進む。



そして「中央林間駅」東口のロータリーに到着。



「大和の文化財 中央林間駅周辺」。
昭和初期の林間都市
林間都市は、スホーツ都市の機能を備えたものとして計画されました。クラブハウスを
中心とした四面の野球グラウンドやテニスコート、ホッケー場、ラグビー場が整備されました。
この企画運営には、雑誌「べースボール」の編集に携わっていた鷲沢與四ニ(衆議院議員)や
田中清隆(画家)が参加しました。
また、昭和初期の林間都市には吉井勇(歌人)、高木蒼梧(徘人・俳文学者)、唐木順三
(文芸評論家)、龍瞻寺雄(作家)らが移り住んでいます。

檀一雄
作家 明治45年~昭和51年
昭和26年に「真説石川五右衛門」で直木賞を、昭和51年の没後には、連作長篇「火宅の人」で
読売文学賞と日本文学賞を受賞しています。
昭和35年、檀の母とみは練馬区南田中の家ーー檀が昭和23年から25年まで住んでいた家ーーに、
檀の長男太郎を預かっていました。ですが、太郎の通う玉川学園には遠かったことから、南田中の
家を売却し、中央林間(一丁目)に家を購入、移り住みました。
とみと太郎が暮らしたこの家を、檀もたいへん気に入り、よく友人たちゃ編集者を案内しては、
夜おそくまでの酒宴をひらいたといいます。

龍膽寺雄(りゅうたんじゆう)
作家 明治34年~平成4年
昭和3年、雑誌「改造」創刊十周年記念の懸賞小説に「放浪時代」が当選。昭和初頭のモダン
ライフの反映ともいえるモダニズム文学流行の波に乗り、一躍文壇に登場。反プロレタリア
文学を標傍する新興芸術派倶楽部の結成に奔走し、その中心的存在でした。
また、シャボテンの栽培、研究で国際的に知られています。
鷲沢興四ニに奨められ、昭和10年に中央林間(二丁目)に転居。


滝山街道【古道】 ​---------​
 戦国時代の滝山城(八王子市)と玉縄城(鎌市)を短距離で結び、小田原北条氏の
 領国支配上重要な道でした。
巡見使道【古道】 ​----------​
 巡見使は将重の代替わりに府が派遣する調査団。天保9年、十ニ代将重家に就任の
 際の巡見使が通ったといわれる。
矢倉沢往遠【古道】 ​---------​
 江戸時代東海道の脇往還。港区青山なら、南足柄市矢沢一足柄峠へ至る。
 大山道ともいい参詣に利用されました。



林間都市計画と小田急江ノ島線
小田原急行鉄道株式会社は、昭和2律に小田原線を開通、同4年には江ノ島線を開通しました。
この鉄道建設と平行して江ノ島線沿いの約80万坪に、「林間都市」と称する都市計画がたてられ、
「中央林間都市」・「南林間都市」として具体化されました。昭和16年、駅名にあった「都市」の
文字がなくなり今日に至っています。
都市デサインは、格子状の街路を基調とし、駅前広場を配置しています。現在も、当初の
デザインは大さく改変されることなく残されています。



「つきみの駅」周辺の遺跡。



正面に東急東横線「中央林間駅」表示板



「中央林間駅」2Fの「大阪王将」で腹こしらえ。



「餃子」も。



そして小田急線を利用してこの日の大和市散策を終え、「大和市の神社仏閣を巡る」を延べ
3日間で完遂し帰宅の途についたのであった。
この日の歩数は「23,411歩」であった。




明日から再び「古都「鎌倉」を巡る」をアップさせていただきます。

                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・ 大和市  ​完​ ・・・





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Last updated  2024.08.28 07:18:56
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