JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.09.17
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
【​ 鎌倉の寺社リスト ​】 👈リンク

鎌倉市台地区の住宅街を進むと、「稲荷神社」の案内板があった。



そして更に進んで行くと「稲荷神社」への石段が姿を現した。
鎌倉市台1795。



石段を上っていくと、石鳥居が見えた。



右手に手水舎。



石鳥居を潜って更に奥に進む。



右手にあった「漱石庵主人」の句碑。
「露ふん亭(で)行くや鎮守の朝詣」
「漱石庵主人」とは小野田泉里(1873~1959)のこと。




「露ふん亭行くや鎮守の朝詣
漱石庵主人(大正七年建立)
小野田泉里(明治六年~昭和三十四年・一八七三~一九五九)
本名は小野田源郎、俳号を泉里または漱石庵と称し人で、台村に生れました。
農業を営むかたわら同じ台村の俳人山ノ井高月について俳句を学び、活発な句作を続け、約ニ千
近くの俳句を残しています。
泉里の俳句仲間との交流は広く、地元の台村のほか、鎌倉全域、横浜、横須賀須方面にも及んで
います。また、泉里の子息の小野田亮太郎も、俳号を雪里と称して句作し、父子ともに俳句に
親しみました。
この句碑の句のほか、泉里の俳句を少し紹介しますと次のようなものがあります。
東雲や四隣の静に露の置く
古寺の須弥壇くろし蚊喰鳥
張板の布かびにけり五月雨
笹光白旗山や冬の月
この台村方面では、泉里・雪里親子のほか、明治から大正にかけて地元の俳人の活動が盛んで
多くの俳人たちが出ています。
泉里の師であった山ノ井高月は、名を山ノ井高次郎といい、安政三年(一八五六)に生まれ、
台村で農業の合間に早くから俳句を学びました。鎌倉群内で多数の俳人と交流して、多くの
俳句を残していますが、特に台村では俳句の先輩として仲間の育成に努力し、十数人の俳人が
生まれる契機を作った人です。
このほか台村には岩崎里京(房吉)、根本烏暁(長平)、葉山一葉(作冶郎)、山本秋好または
茶木(千秋)などの俳人が活躍しています。」



「社殿」
1847年(弘化4年)の「社殿」再建の勧進状には、山城国飯成山に鎮座する神を
承久年間(1219~1221年)に勧請したとあるようだが、神社の起こりの詳細は不明。
鎌倉国宝館には、稲荷神社の本地仏であったと考えられる地蔵菩薩像と木造稲荷明神騎狐像が
寄託されている。
祭神は受気母知命(うけもちのみこと)。



内陣。



「根本萬蔵(ねもとまんぞう)之碑」。
裏面に刻まれた碑文『明治十年四月八日於肥後國山本郡植木村戰死 明治二十九年二月十五日 
根本佐太郎』から、西南戦争に従軍された人物なのであろう。



庚申塔も境内に。



円頂板状庚申塔。
月日・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿
正面右側「奉納庚申供養」
 〃左側「享保二十乙卯十一月吉日」
享保二十年は1735年。







スマホの案内に従い、狭い道を次の目的地の「光照寺」に向かって進む。



カーブの先に「光照寺」の屋根が姿を現した。



ブロック塀には「時宗 光照寺」と。



そして廻り込み「光照寺」の「山門」前に到着。
ここ光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、高度経済成長期に道路の拡幅工事が

鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうとした一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る武士達に
拒絶され、やむなく、江の島に通じる街道筋に一夜の野宿をし、翌 日江ノ島に至り、そこで
踊念仏を修したと伝えられていると。その際に野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、
一遍上人法難霊場となっているのだ。



下の画像は「一遍上人絵伝」の一部であるが、画像の左側には鎌倉入り出来なかった
一遍の一行が野宿している場面が描かれているのだと。
そして、この野宿場所に建てられたと伝わるのがここ「光照寺」であると。


   【http://kamakurasakura.com/tannpou/syakunagedera.html】より

寺号標石「時宗 西台山 光照寺」。
鎌倉市山ノ内827。
この寺を訪ねるのは今回が初めてであった。



光照寺(こうしょうじ)
時宗の開祖一遍上人が、念仏布教のために鎌倉に入ろうとしたのを執権北条時宗の警護の武士に
阻まれ、野宿した地に建立されたといわれる寺です。
山門の欄間には、キリスト教の十字を意味する「クルス紋」が掲げられ、隠れキリシタンを受け
入れていた伝承も残されています。
本堂の周辺には、たくさんのシャクナゲが植えられ、別名「しゃくなげ寺」と呼ばれています。
ほかにも、ハギ、ユキヤナギ、レンギョウなど、四季折々の花を楽しめます。
● 宗  派:時宗(じしゅう)遊行寺派
● 山号寺号:西台山英月院光照寺
● 開  山:一向俊聖上人(いっこうしゅんしょうしょうにん)



境内の「カンヒザクラ(寒緋桜)」をネットから。


   【https://www.kamakuratoday.com/suki/jion/22.html】より

「山門」の手前右手には、江戸時代より続く「子育て地蔵尊」が。



「南無阿弥陀仏」碑。



「山門」
豊後竹田の「 岡城 ​」​👈リンク の三代目城主、中川久清が建立した臨済宗早雲寺末東渓院
(明治維新時の廃仏毀釈により廃寺となる)の門であったがこれを移築したものであると。



「くるす門」碑。



欄間には中川氏の家紋のひとつである「中川クルス紋」が掲げられていた。
江戸時代には一遍上人の“信じる事ができない者さえ阿弥陀如来はお救いくださる”との信念により、
鎌倉周辺の切支丹を光照寺檀徒として匿って(かくまって)きました。
40年近く前、切支丹の研究家でもあったルメ神父の調査を受け、切支丹が寄進した燭台や
クルス紋を確認したと。ルメ神父の調査によると、江戸時代の切支丹が書き残した文書の中に
鎌倉郡光照寺の名が残っていた と。
この紋は I H S というアルファベットを図案化したものであると。
中川家は、幕府から、「この家紋は十字ではないか」ととがめられたために外側にもう一つ○を
加えて、「この家紋は馬の轡(くつわ)を模した家紋である」と弁明した。
そのために別名を轡紋とも言う。中川家臣団にはこのように十字をあしらった家紋を持つ家が
多いのが岡藩の大きな特徴の一つであると。



ラテン語の Iesus Hominum Salvator「人類の救い 主イエス」の頭文字。
IHSに「太陽のコロナ」、「十字架につけられた三本の釘」と「十字架」が加わるとイエズス会の
紋章になる。それは北鎌倉の東慶寺にある葡萄蒔絵聖餅箱の蓋の文様でもある と。
あるいはギリシャ語のイエス=キリストのラテン語表記、 Ihsouz Xristoz の、最初の三文字
IHSであるとも言われている と。


  【https://twitter.com/tubulerbells/status/1200294969124081664】より


「I H S 」というアルファベットを図案化したもの。
縦にI、横にHで十字架を表現、内側の◯はSを表現していると。
幕府から、「この家紋は十字ではないか」ととがめられたために外側にもう一つ○を
加えて、「この家紋は馬の轡(くつわ)を模した家紋である」と弁明したのだと。


   【http://kamekokishi.web.fc2.com/kyrie/210/toukeiinryou.html】より

山門をくぐると、左手に咳の神様「おしゃぶきさま」と呼ばれる石の祠があり、
毎月お参りすると子供の咳が止まるのだと言われていると。
「おしゃぶき」とは、”咳き込む”を意味する”しわぶく”の語が転じたものであると
ちなみに「おしゃぶき」には”合図する””注意を引く”の意味もあるそうで、もとは関所の位置を
示す結界石であったのではないかと考えられているとも。
”関”が”咳”へと転じ、”咳の神様”と信仰されるようになったとされる石祠であると。



掲示板には
●「念は往生なり    一遍上人 語録
 お念佛を称える一念々々に 極楽往生が約束される
●「楽しまずして 何の人生ぞや    吉川英治
 人生の中で、何をやるかも大事だが、どのくらい楽しめるか(幸せを感じられるか)も大事。
 どうせ生きるのなら(どうせやるのなら)、少しでも楽しめたほうが良い。
 何かをやる時には、「楽しもう」と心がけることも大切」。こうありたいと!!。



「本堂」の天水桶。
 時宗の宗紋「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が刻まれていた。
これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られたのだ。



「本堂」。



「このお寺の宗旨
名稱 時宗
宗祖 証誠大師一遍上人(智真)
開宗 鎌倉期(一ニ七四年)
本山 清浄光寺(遊行寺)神奈川県藤沢市
本尊 「阿彌陀佛」を本尊に仰ぎます。
稱名 南無阿彌陀佛
教義 大慈悲の阿彌陀佛に帰命する只今のお念佛が一番大事なことです。
   家業につとめはげみむつみあって只今の一瞬が充たされるなら人の世は正しく生かされて
   明るさを増し皆倶に健やかに長寿を保つことになります。浄土への道はそこに開かれると
   する教えです。
経典 無量壽經 観無量壽經 阿彌陀經 六時禮讃などの經典を読誦致します。」



内陣。
隠れキリシタンの燭台が2基あると。
「一遍上人受杖霊場」と。



ズームして。



本堂の扁額「英月院」



墓地内には多くの種類の墓石が並んでいた。



本堂横の巨大な柱サボテン。
本堂周辺に多数のシャクナゲが植えられており、別名「しゃくなげ寺」とも呼ばれる。
またシャクナゲのほかにユキヤナギやレンギョウの名所としても知られ、四季折々、
花の絶えない寺である と。



墓石が並ぶ。



歴史を感じさせる五輪塔群。



シュウカイドウ(秋海棠」
本堂の脇には「花めぐり順路」と書かれた青い矢印の看板が立っていた。
境内の所々にこの看板があり、本堂裏の庭や墓苑に咲く花を見て回れるようになっていた。
別名「しゃくなげ寺」と呼ばれているとのことで、四季折々の花が楽しめるのだと。



睡蓮の花。



ズームして。



「寺務所」
「寺務所」の扁額は開祖・一向俊聖上人から「一向堂」。



寺務所前の「遊行観音」像。



近づいて。



現在JR北鎌倉駅周辺には、下図の様に塔頭を含めると36の寺院があるが、光照寺以外は
全て臨済宗なのである。
JR北鎌倉駅から巨福呂坂洞門までにある寺院は全て禅宗・臨済宗の寺であるという事。


   【http://kamakurasakura.com/tannpou/syakunagedera.html】より

「くるす門」を再び境内から。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2024.08.28 07:21:16
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