JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.04.06
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
この日は3月27日(月)、地元の日本大学藤沢校舎周辺の花見を楽しんだ後は、小田急線を利用して
JR藤沢駅に向かった。
この日は 鎌倉・長谷寺の合葬墓に眠る元同僚の墓参り に。連れのお二人と合流し江ノ島電鉄・
藤沢駅に向かう。
改札を入ると花時計と美しい江の島そして富士山の夕景の写真が正面に。



江ノ島電鉄(江ノ電)が、3月18日に ダイヤ改正 を実施した。
運転間隔を 従来の12分から14分に拡大
始発や終点の駅での折り返し運転をする際に、2分の余裕を持たせ、これまでギリギリだった
乗客の乗り降りや、乗務員の入れ替えを確実に行い、 列車の遅延を防ぐ狙い があると。
さらに江ノ電は歴史的に路面電車として開業したのが発祥のため道路併用区間が残っていること、
単線で列車交換設備が少ないことから12分間隔運転であっても 道路併用区間での渋滞 よって
余裕時分が少なく遅延しやすくなっているとのこと。
ここ数年、 新型コロナの影響で、乗客が減少した? ことも背景にあるのだろうか?
起点の藤沢駅の時刻で見ると、改正前の86本に対し、改正後は75本と 12%ほどの削減 となる。

「藤沢駅」(左)、「鎌倉駅」(右)の時刻表 である。
これまで、深夜・早朝を除き1時間・60分の約数の12分間隔で走っていたので、 時刻表は
どの時間帯を見ても同じ数字が並び、わかりやすくなっていた のであった。
我が地元の 「藤沢駅」(写真左)であれば、早朝、深夜を除き 11、23、35、47、59 と同じ
数字が並んでいた。 もちろん 「鎌倉駅」(写真右)も 00、12、24、36、48



そして下が ダイヤ変更後の時刻表 14分間隔の14は60の約数ではないため、出発時刻は
バラバラ になってしまったのであった。
ネットによると「7時とか8時とかぴったりの時は『7えの』とか『8えの』って呼んでた」。
 鎌倉駅から乗る場合、以前の12分間隔だと、毎時間0分ぴったりに電車が出発する。
その電車を、例えば7時だったら 「7えの(7:00発)」、8時だったら「8えの(8:00発)」
呼んで、高校生等若者の間ではこの言葉が浸透していたと。
「待たずに乗れる」 という以上に、沿線住民に浸透しきっていた 「記憶に染みついたダイヤ」
それを手放してまで、ダイヤ改正に踏み切る鉄道会社側の事情があったのだろう。



そして 11駅、33分 での移動で「 長谷 」駅で下車し、徒歩で5分強の「長谷寺」の「 山門 」前に到着。



「山門」は昭和の建立だが、妻側をみると、親柱の上に、三斗に支えられた虹梁がわたり、
その上に大瓶束(たいへいづか)が載り、笈形(おいがた)が両脇に配されていて、四脚門としては、
市内で有数の堂々としたもの。



場所を移動して横から見上げて。



長谷寺の山門には長谷寺のシンボルの真っ赤な巨大な提灯が。相変わらず迫力満点。



「長谷寺」案内板と「文学案内板」



長谷寺
●宗派 単立(浄土宗)
●山号寺号 海光山慈照院長谷寺(かいこうざんじしょういんはせでら)
●建立 天平8年(736)
●開山 徳道上人

寺伝によると、開山の徳道上人が大和国(奈艮県)初瀬の山中で見つけた樟(くすのき)の巨大な
霊木から、二体の観音像が造られました。
一体は大和長谷寺の観音像となり、残る一体が衆生済度の願いが込められ海に流されたと
いいます。その後、三浦半島の長井浦(現在の初声あたり)に流れ着いた観音像を遷(うつ)し、
建立されたのが長谷寺です。
境内の見晴台からは鎌倉の海が一望でき、また、ニ千株を超えるアジサイをはじめ、四季折々の
花木を楽しめます。」



文学案内板 長谷寺境内
境内にある文学碑を紹介します。
◯高山樗牛記念碑
 高山樗牛ここに住む 宮本和吉書
 裏面「樗牛高山林次郎は1871年(明治4年)山形県鶴岡に生まれその文明批評は識見と
 情熱をもって一世に聞えた。1901年秋よりこの地に住み1902年12月24日平塚杏雲堂
 病院に逝く 1959年5月 建碑世話人(後略)」
 31歳で天折した樗牛の著作は博文館版「樗牛全集」全7巻に収められている。
○高浜虚子句碑
 「永き日のわれらが為めの観世音」虚子。
 俳人、高浜虚子は1874年愛媛県に生まれた。正岡子規に兄事。
 「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠を提唱した。1959年に鎌倉で死去。代表作に
 「五百句」「虚子俳話」がある
○久米正雄胸像。
 小説家、久米正雄は1891年長野県に生まれた。東大在学中に芥川龍之介、菊池寛らと
 第三次、第四次「新思潮」を創刊。夏目漱石門下となる。後年は流行作家として活躍。
 三汀と号して句作もした。1952年に鎌倉で死去。代表作に「破船」「学生時代」が
 ある。像は、昭和29年鎌倉ペンクラブにより建てられた
○大野万木句碑
 「観音の慈願尊し春の雨」万木。
 裏面「時めく大政治家前衆議院議長国務大臣大野伴睦氏は、一面純情高節の人である。
 氏が俳句作家の万木であり、慈悲の権化観世音菩薩の信者であり(後略)」
 1953年6月8日建てられた。
     平成6年12月   鎌倉文学館(長谷1-5-3・電話23-3911)」



長谷大観音 」碑。



こちらは 「坂東四番 長谷觀世音」碑
側面には「勅願所 長谷寺」と刻まれていた。



「山門」を横から。



「境内図」。



ズームして。



そして 拝観料/入館料・大人(中学生以上):400円 を奉納し、境内へ。
境内から「山門」を見る。



池は、左から「 妙智池 」、「 放生池 」と並び、鯉がゆうゆうと泳ぎ、山際には滝もあり、
回遊しながら、季節の花や木々を楽しむことができるのであった。
まずは、同僚のOさんの眠る合同墓に向かう。合同墓は「鐘楼」の先の墓地入口前にあると
受付で確認。



石段の横には白いシャクナゲ (石楠花、石南花)の花が開花中。



正面に「 地蔵堂



右手の「 卍池 」には「 奪衣婆(だつえば) 」と「 懸衣爺(けんねおう) 」が座っていた。
写真を撮ったときは気付かなかったが、ちゃんと卍の形をした池になっているのであった。
「卍」は、インドでは幸運のシンボル「吉祥紋」とされ、仏教が日本に伝来した時に
寺院を表わすマークになったのだ と。ヒンドゥー教ではこれを「ビシュヌ神の印」としている と。



そして、その先には「 千体地蔵 」が。
不幸にしてこの世に生まれることのできなかった子供たちのために、無数のお地蔵様が
供えられていたのであった。
手前には「 水かけ地蔵 」、水をかけると幸運になれるとのこと。しかしこの日の目的は
同僚の 「墓参り」!!



反対側にも「千体地蔵」が並ぶ。



取り急ぎ、Oさんの眠る合葬墓に向かう。
正面に「 鐘楼 」。



そして墓地の入口に到着。
多くの歴史を感じさせる墓石が並んでいたがこれより先には入れなかった。



合葬墓 」に到着。
合葬墓には「 永代有縁墓 」と刻まれていた。
自宅から持って来た線香にチャッカマンで火を付けて墓参り。
秦野から同僚、そしてOさんの上司であり早く亡くなってしまったAさんの奥様もこの日の
墓参りに参加して下さいました。



「永代有縁墓」を正面から。
2年に亘る癌の闘病の中、一昨年逝ってしまった同期入社のOさん。
その間、今回もご一緒したFさんとも何回か会い励ましたのであったが・・・。
去る3月15日に三回忌の法要を執り行ったと奥様からメールを頂いていたのであった。
彼の告別式はコロナ禍で家族葬であり、参列できずにお別れが出来なかったのであった。
その後、Fさんとご自宅に伺い、祭壇にお線香をあげさせて頂いたのであったが、
墓前の墓参りをしたいと思い続けていたのであった。



「永代有縁墓(えいだいうえんぼ)
当山において全ての管理とご供養を行う合葬墓です。
どなたでもお申し込み頂けます
ご案内は寺務所へ
              長谷寺」



近づいて。



七重の塔が刻まれていた。



墓参りを済ませ、しばしの「長谷寺」の散策に。
まずは「 阿弥陀堂 」へ。



長谷寺の阿弥陀堂に安置されている「 阿弥陀如来像 」は、源頼朝が42歳の厄除けのために
建立したという伝承から「厄除阿弥陀」と呼ばれている。



近づいて。



脇侍の「 如意輪観音像 」は、2017(平成29年)に開眼供養が行われた像で、
2021年(令和3年)に金箔が施されたのだ。



そして「 阿弥陀堂 」の隣にあったのが「 本堂(観音堂) 」。



本堂(観音堂) 」内はカメラ撮影禁止であったので、以下の写真はネットから。
十一面観音像
長谷寺に伝わる話によると 、こちらにまつられている観音さま(十一面観世音菩薩:
じゅういちめんかんぜおんぼさつ)は、奈良時代の721( 養 老 5 )年 、僧侶である
徳道上人(とくどうしょうにん)が楠(くすのき)の 霊 木から2体 の観音さまを造り、
そのうち1体を大和国長谷寺(奈良県桜井市初瀬)にまつり、残りの1体を海に流したのだと
その1体は15年間もの間漂流し、736(天平8)年、相模国長井の浜(現在の横須賀市長井)
に打ち上げられた。
そこから現在の場所まで人々が力をあわせて運び、ご本尊として鎌倉の長谷寺が創建された と。
徳道上人がこちらの観音さまを造られてから1300年を記念し、昨年・2022(令和4)年
12月18日まで長谷寺では「長谷寺1300年プロジェクト」としてお参りされる人々を
お迎えしていた。いつもは、観音さまの膝下は仏具や供物などで全身のお姿を拝見することが
できないが、期間中は全身を拝見できるようなしつらえになっていたのであった。
また、例年であれば12月18日にのみ行われる観音さまの足先に手を触れて、ご縁を深める
ことのできる「御足参り(みあしまいり)」も下の写真の如く毎日行うことができたのであった。



長谷寺のこの「十一面観音像」は、右手に錫杖を左手に蓮華の花瓶を持ち、蓮華座ではなく
岩座に立つという独特の像であることから「長谷寺式十一面観音」と呼ばれる。
金箔は足利尊氏が施し、光背は足利義満が納めたと伝えられている。



本尊は十一面観世音菩薩像。木彫仏としては日本最大級(高さ9.18m)の尊像で、
坂東三十三所観音霊場の第四番に数えられる。



隣にあったのが「 観音ミュージアム 」。
平成27年、長谷寺宝物館の開館35周年を迎えるにあたり、老朽化の進んだ設備を刷新し、
これまでの寺宝の展示だけでなく、鎌倉長谷寺の本尊である「観音菩薩」を主題とした
博物館「観音ミュージアム」へと新生した。
日本に伝わり、広められた仏教のなかでも、とりわけ多くの人々に敬われた「観音菩薩」の
教えを展示と映像によってわかりやすく紹介しているのであった。
この日は「観音ミュージアム」館内へは入らなかったが。



入口にあった「 聖観音菩薩像 」。




聖観音菩薩像
昭和12年(1937)作 ブロンズ
古来より日本人が最も敬愛してきた御仏、観音菩薩。その慈悲深き心は母のごとき愛情に満ち、
救いを求める者のもとへたちどころに現れるという、現世利益を体現した御仏であります。
故北村西望によって制作された本像は、人々の心の安寧を約束する平和の象徴として当山に
納められました。
北村西望(1884-1987)
長崎県に生まれた作者は、同地の平和祈念像の制作でも知られる、日本屈指の彫刻家。
昭和33年(1958)には文化勲章を受章し、文化功労者となりました。」





                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2024.08.28 08:20:56
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