宇宙は本の箱

     宇宙は本の箱

もしもピアノが弾けたなら


特に好きだったというわけではなく、中さんが「うん、これがいい!」ってにっこり笑って買ってくれたからだ。
29歳はその半分の年の私にはおじさんで、おじさんはなぜあんなに私の前で明るく笑うのか、おじさんはなぜ私が死ぬんじゃなかろうかと会社を休んだりするのか、なぜ私が詩を朗読したら喜ぶのか、なぜ私が歌てるのが好きなのか、自分のことを夢想家だとは言ってたけれど、眼を閉じていると風の吹き渡る緑い草原に永遠の少女がいて音楽が流れてくるんだと言った。
その旋律はすごく鮮明だから、僕にピアノが弾けたなら五線譜に書き留めるんだけど、そう言った。
そんなある日、おじさんはビバルディの四季を持ってきた。
だけど私はそれは返した。聞きもしなかった。おじさんは夢の中で遊んでるだけだと思った。
油絵教室から帰ろうとするとバス停で待ってたけど、私は姿をみつけると二回に一回は回れ右をして路地を抜けた。でもバイオリン協奏曲第一番嬰ヘ短調は毎日聞いたし、十七歳で死んでしまった女の子の「みぞれは舞わない」も大切に読んだ。

おじさんとも誰とも会わなくなって二十一歳も過ぎた頃、懐かしくてあの音楽喫茶に寄った。
流れていた曲はシューマンの『女の愛と生涯』で、その歌声が心にしみた。中さんを思った。自分が二十歳を過ぎてみれば、29歳も、付き合った5年 34歳もべつにおじさんではなかった。
私はそれからはその店の二階で、貧しい者にもただでいいから音楽を聞かせたいと言っていたご主人の意思をついだママさんと喋りながら原稿を書くことにした。
中さんは今も毎日来ているだろうかと思った。
無想にふけって会社を休んで、お金のない日にもこの店に立ち寄って、一人の夜に満席の後ろの壁にもたれて音楽を聴いているのだろうかと思った。

見ていてくれ。僕は意志の弱い人間だけど一生結婚はしない。これだけは貫くよ。
片恋こそが本当の愛なんだ。

中さんはなぜあんなにまっすぐにこっちに歩いて来て、なぜあんなに明るく笑うのか、
ずっとずっとわからなかったけど、あとになれば、ああ、そうか、と。
そんな人間がいますよね、と。

もしもピアノが弾けたなら、今はどんな楽譜書きますか?
今朝は向こうの部屋からバイオリン協奏曲第一番嬰ヘ短調が聞こえます。




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