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YouTubeなんか聞いてるとどこで終わったらいいのかわからなくなってくる。『カレンダー』を聞いていたらいしだあゆみがあって、私はいしだあゆみの歌はほとんど知らないからちょっと聞いてみた。あゆみさんはデビューしたての七人の孫の時が新鮮だった。韓国女優さんは整形だらけだというけれど、あゆみさんも目は『サチオ君』の頃の方が良かった。ついでジュディ・オングを聞く。ジュディさんを知ったのはNHKかなんかのドラマ。渡辺篤が出ていた。ジュディさんはキリッと賢そうでセーラー服が素敵だった。子供の頃からすごく綺麗な人で憧れちゃったりした。そういうのを開いたせいか小川知子の『初恋の人』に出くわした。歌番組で号泣した時のもの。本当は恋人ではなかったらしいけれど、好きだった人には違いないレーサーの福澤幸男が事故死した。あの時はスタジオの人もテレビの前の人間も皆泣いた。あゆみさんも中村晃子も優しくて素敵だ。小川知子は『若草の頃』を、子供育ててる頃よく聞いた。それから何か聞いたからか、リリィが出てきた。リリィなら『心が痛い』が好きだ。というより『私は泣いています』以外ではそれしか知らない。主人はリリィが好きだった。酒と煙草でつぶれちゃったような喉から出す声がいいんだって。ハスキーな声が元々好きなのかな?まーあの人は可愛いのにヘンそうな女の人は皆好きだから。でリリィ聞いたら次はカルメン・マキばっかり。私は『時には母のない子のように』しか知らなかったけど、やたらカッコいい。ちょっとカッコ良すぎる。いや本当にとりとめなくなってきちゃったからここいらで河島直美でも見よう。そのあとでエディットピアフのフランス語を聞く。やっぱり私らしく終わらないとなんか落ち着かない。
2012.04.25
うたを歌っている間に人生が過ぎ去っていくのなら。いかにも早すぎる西瓜を切りながら、そう思った。 人生がたったの三分? 違うよ。走馬灯の人生は あの十年は三分にも満たない。 振り返ればニ十年にも三十年にも匹敵した日々がね、 たったの三分にも満たないんだ。 明るい夢だって いつかは消えてしまう 胸にしみいる 雨のトレモロ なぜ悲しいんだろう 海の青さなんだったかな~ ここはセリフで覚えてる。。。うん!カレンダーだ。 JANUARY ある日どこかで FEBRUARY であった二人 MARCH 愛が芽生えて APRIL かわすくちづけ悲しくて苦しくて、馬鹿みたいに真面目に考えていた時代の歌だ。レコードを聞いてみようかと思ったが、レコードの大半はまだダンボールに入ったままだった。よってYouTubeで聞く。作詞のなかみやこ 作曲三嶋清正 全然知らない人達。カレンダーももう一生ダンボール箱で眠ったままになるかもしれない。
2012.04.25
十年になるか、二十年になるか・・・私は自分の生きた証のような手紙、子供の頃から二十代までの大量のノートを全部惜しげもなく捨ててさばさばしていたのに、あれ以降、また手紙は少なからずたまってしまった。それらは今すぐに捨ててもいいが、いつもなぜともなく置いておく。それは私が死ねば自ずと処分される。毎日、それこそ日課のように手紙を送ってきた枚方のH君からのもの。もう二度と会うこともないサンタさんからのもの。それから・・・それから・・・そういうものの中に少し大きな角封筒があって、そこに一冊の本と、書き始めたばかりの原稿が入っている。名前はない。住所もない。大切だといった無名作家のとある本と、大切だといった原稿用紙が入っているのみだ。話はどこから始まったのだったか。その夜、その青年と二時間か三時間かは話をした。その人は私のまったく知らない人で、顔つきも体つきも、ベージュのジャケットを着ていたこと、やけに寒い日でマフラーをずっと巻いていたことを覚えているくらいで、ほかは全然何も記憶にない。その本もその原稿も、聞けば私にはもう読んだも同然の物語で、私はただひと時、彼がどこからか帰ってくるまでの間預かっただけだったが、一年が過ぎ、三年が過ぎ、確実に十年以上は経ってしまった。聞かなかったけれども、彼は私を漠然とでも知っていたのだろうか?私は、四年間大学に通いながら、これで郷里に帰るからと最後の日に一度だけ話をしに立ち寄ったという青年を思い出した。寂しい日に、人間的なる出会いをこの四年間求め続けたと彼は言った。人間的会話に飢えていたのなら、なぜ最後の日に訪ねて来たのか?もっと早く来ればよかったのに、と私は言ったけれども、これで最後だから来ることが出来たと答えた。内向型の若者のそういう心は、年とった今の私にはもうわかるとは言えず、私はただ話をし、ただ元気でと見送ったが、私は建築科の閉じこもりの男の子には責任の一端はあるのに遂に会えず終いだったから、大学生活最後の日のこういう会話は後々彼に何かをもたらすだろうかと考えた。そうして時が過ぎていくほどに、その作家志望の彼も、もう来る気がないからその本とその原稿をここに置いていったのだと思うようになった。何ゆえに?曰く「不可解!」しかし、彼はあの夜、確かに、いつとはいえないけれども、また来ますと言って帰って行った。だから私はそのカルをまた角封筒に入れて机の引き出しになおしてしまうのだ。
2012.04.24
ホーソン『緋文字』ってちょっとミステリアスな話かな?『緋文字』はタイトルしか知らない。二十歳を過ぎてからは世界名作で読んだのはドストエフスキーくらいだ。他の作品を手にすることはとんとなかった。これからは尚更だ。子供だったせいもあろうが『赤と黒』を読んで失望。『女の一生』なんか学校帰りに橋の上で鞄から本を取り出して川に投げ捨てた。部屋にその本を置いていたくなかったのだが、中さんはしきりと外国作品を読んでいた。私が聞いた名は『チャタレイ』に『ボヴォリー』で、後にカレーニン氏の話が出てきた時、独身の男性が夫ある人の話ばかり読むのはなぜなの?と聞いたことがあったが、残念なことに中さんがなんと答えたかは全部忘れてしまっている。中さんはあの頃『チボー家の人々』や『失楽園』も読んでいた。チボー家はいいとして、ミルトンの『失楽園』は中さんにぴったりのタイトルだと思ったが、あれももしかして淳一さんみたいな『失楽園』なんだろうか。私の想像とは違って、そうだったのかもしれない。調べればあらすじなんて簡単にわかる。しかし不倫なのか純愛なのかは知らないが、外国文学にはそういうものが多くて、どうも自分には合わないと、その頃よく思った。今は感覚麻痺。今夜は『緋文字』が原作だという映画『スカーレットレター』を見てみた。私が薦める映画は絶対みようとしない主人が、どういう風の吹き回しか今頃になって『白夜』を見るというので、久々第一巻を見ていたら、やっぱりシム・ウナの少女時代を演っている女の子が気になってきて。。。アリスが、女性は美しいだけではつまらない。美しくかつ知性的でなければ と谷崎潤一郎小説に登場する女性を取り上げて話していたことを時折思い出す私は、その少女役の俳優さんはその後どういう女性になったのだろうかと、時に大好きな一章を思いだしたりしていたのだが、今日、ようやくその名を調べた。あまりに遅すぎるが。イ・ウンジュ。しかしなんと、彼女は二十五歳を待たずに自殺してしまったとあった。原因はわからずいまい。鬱病だったらしいが、血で遺書が書かれていたとか。二月二十二日生まれの彼女は映画で二十二日に死に、現実にも二十二日に死んだとか。自分の演技は35点と言っていたらしいが、遺作となってしまったのだろう「スカーレット・レター」を見ると、カメラの前に立つのを恥じていたという彼女の苦悩がわかるような気になった。まともな神経の者では俳優は務まらないと私はいつも思うのだ。
2012.04.23
この写真のように 愛もいつか 想い出になるけれど 君だけは 想い出ではない死ぬとわかってから後に好きになった人の、仕事をしている姿をガラス越しに眺め、指で彼女をなぞりながら、そういうセリフ言うんだった。ありがとう 君だけは想い出ではないそれでもう死んじゃうわけだけれども。<思い出ではない>現在進行中で死にたいね って言ったんだけれども、もう私のそんな言葉を、若者達はとっくに忘れ去ったことだろう。なにしろ若いから好き勝手な楽しい未来はいくつだって想像できる。それにしても終わりよければすべて良し というではないか。中だるみ 不要延長 多少は許されてもいいと思うけれど、終章があまりに不味いと、へんなものを無理矢理食べさせられたかのようだ。
2012.04.20
踊ろうか~ 踊りましょ どうせ今宵かぎりじゃないあがた森魚ついでにそういう歌を思い出して、昨日、歌博士みたいなこうこさんに尋ねてみたら、ユーチューブで聞けるというので検索して聞いてみた。それは「最后のダンス・ステップ」という歌で、女の人の方は緑魔子だったとはじめて知ってなんだか感激してしまった。ところで魔子さんは今はどうしておられるのかな~?旦那様の方は時々テレビで拝見していたけれども最近は見ないですね。かわりといっちゃなんですが、韓流にそっくりな人がいて、その人は見てます。「最后のダンス・ステップ」は戸川純のも聞いてみた。実は私は戸川純を知らない。アリスが好きで、あの「『お尻だって洗ってほしい』の人、知りません?」というので、「それは知ってるけど・・・どんな人だったかな~」という具合で。アリスが好きなくらいだから、ヘンそうな人だとは思ったが、やっぱりヘンそうな人だった。しかし私はどうも勘違いしていたようだ。もう少し静かな寂しげな歌で 裸電球の下で 踊ってる みたいな歌詞の歌があって、それはなんという歌だったろうと、その歌が知りたかったのだが、 はだかでんきゅう るるる るるる みたいにしか思い出せなくて、記憶というのは実にたよりない。
2012.04.12
朝起きると、たった一晩なのに桜が結構いい感じになっていて、あちらでは黄色のチューリップが一番に花開こうとしていて、その向こうでは梨の白い蕾がふくらみ、なんだかとても嬉しくなってしまった。椿の花はまだもちそうだし、あの紫は・・・名前は忘れてしまったが、野にあったものを植え替えてみたのだが見事に増えてくれたし・・・緑は日に日に鮮やかになってくるし・・・春だな~ そう思った。昨日は去年 信貴山に行く途中で見つけて失敬してきて植えておいた野蒜を薬味に摘んだ。野生の三つ葉はまだ小さいけれども、結構な数が生き残ってくれた。やっぱり畑よりここの方が数段暖かいらしく、ジャガイモの芽も大分伸びてきた。しかし土が足らない。家庭菜園用の土はどうも気に食わないから、本物の土を探すのだけどこれが貰える所がない。雨よ、降るな。畑までは遠いから、どこか近くで沢山の土をくれる所はないか、、、今日は土を探しに行こう。↓何年前かな~神宮で、珈琲飲みながら見た桜。
2012.04.11
赤色エレジーなんか急に思い出してしまった。遅い我が家の桜もちらほら咲き始め、夜、こうして桜を眺めていると、今年は息子以外、誰の誕生日もすっかり忘れていたことを思い出した。 春の日ざしのなか、ひらひらひらひらお釈迦様の誕生日。 この子はなんて幸せな子だろう と名付けられた娘。息子がまだ高校生で、担任に呼ばれて かず君も一緒に行った日の帰り道、皆で乾杯した。幸子も愛も和も みんな この季節に生まれた。みんなみんな元気かな~みんな幸せかな~お母さんは今年から私のあげた杖持ってお遍路さんになるんだって、 絵手紙に書いてあった。
2012.04.10
昨日は駅で一時間近くも待たされた。亀の瀬渓谷あたりで電車が転覆した、なんていうことになったら大変どころの騒ぎじゃないから致し方なしと思えども無為な時間ではあった。今日は用事があって、二週間ぶりに大阪の家に帰ったら桜が咲いていた。ほぼ満開のものもあれば、三分咲き程度のものもあったが、大阪はやはりここよりは大分暖かいらしい。ここの桜はまだ蕾。挿し木から育てたものも今年は沢山蕾をつけているが矢張り花開くにはまだまだ。窓を開け放つと寒い。花冷えの季節は朝夕寒いもんだが、今年は春の嵐で寒い。ヘッセに『春の嵐』という小説があった事を思い出した。ヘッセを少し読んだのは十代の頃で、なぜ春の嵐なのか、主題はさっぱり思い出せない。それにしても寒い。日本海側なんか雪だというではないか。昔、もう四十年か四十五年か前のこと、四月に雪が積もったことがあたった。冬でも滅多に雪の降らない大阪で。どうせなら、桜吹雪の頃にぱらぱらぱらぱら粉雪が舞うなんていうのがいいような気がする。
2012.04.04
私はあの人をとても良いと思うし、そのお師匠様は、その人が師匠と仰ぐ人だから更に素晴らしい人に違いないと思う。が、なぜに坊主になる人を求めるのか、気持ちはわからぬではないが、そこはいつもおかしい気がしてならない。
2012.04.04
第一番 荒陵山 四天王寺 詠歌 ありがたやのりのはじめのてんのうじ かめいにうかぶみほとけのかげ 本尊 観世音菩薩 開祖 聖徳太子 建立 推古天皇元年第二番 桂木山 太融寺 詠歌 あいがたきのりのよしきをえたるみは くるしきうみになどかしずまん 本尊 千手千眼観世音 開祖 弘法大師 建立 弘仁 年ぱらぱらぱらぱらめくるに印のあるのは半分くらい。ずいぶん行きやすい所ばかりなのに、全部行くより前にお迎えが来たのだ。あの朱印はべつに有難いものではない。書生もどきの坊様か、達筆のバイトさんかが筆で寺名を書き入れてくれる。そこに好きなスタンプを押すだけのことだ。たしか五百円。私のよく知っている寺ではそうだ。けれど御詣りした人は、あの宝印帖には感慨深いものがあるだろう。宝印帖を見ていたら御陵謹拝帖のことを思い出した。法帖を手元において一週間目。命の墓案内人さんが現れたのだ。私にはスタンプラリーもどきの趣味も御陵巡りの趣味もないが、命の墓所を知りたくて、御陵関係の本を漁って読んでいた時期があり、戦前の御陵謹拝帖も一冊だけは持っていた。陵巡りはいつ頃まで奨励されていたのか。多分敗戦と同時にそんなことをする人は目立って少なくなったはずで、今ではもう御陵に行っても押印しては貰えない。印は何回か替わってもいるし、戦前のものの中には相当珍しいものもある。謹拝帖に我が恋する命の墓が載っているわけはなかったけれど、ある人が命も古代天皇の一人に加えるべきとして扱っていたから、私の謹拝帖は、神武天皇陵の前、つまり一番最初のページに饒速日命を付け足したいと思った。そんな楽しい空想で一週間か十日かが過ぎた頃、突然に人が現れた。「○○さんはもしや、命のお墓の案内人さんの○○さんではありませんか?」「僕がその案内人の○○です」大本の時にはOさんが、神聖龍神会の時には龍神会の人が現われる。そんなことはいくらでもあったから驚くにはあたらなかったが、その時は驚くというよりは飛び上がるほど嬉しかった。約束成立。土砂降りの雨続きの日々だったのに、その日だけは快晴で、真弓塚にも金鴉の場所にも案内してもらった.ついでのついでに、皆がわからないという碑のある所ではない本当の一の矢の場所も訪ねてみれば私にはすぐわかって、これは反対に案内人さんの方が喜んでくれた。そういうことがあった。道に迷ってたまたま垂仁天皇陵に行き当たった私は、崇神天皇陵は御馴染みの所だし、それでは九代天皇までの所をまわってみようと。あとは行き当たりばったりで今日まで来たが、この法帖の持ち主は一番どこに行きたかったのだろうかと、陵印の押され方を見ながらよく考えたもんだ。今手元にずっと置いているこの新西国三十三所宝印帖は、ほぼ順番通りに朱印が押してある。おそらく一番目から順に全部まわろうとしていたのだろうと思う。私に寺巡りの趣味はないが、飛鳥寺、橘寺、当麻寺、鞍馬寺なんぞとみれば、それは随分まわりやすそうで、これは案内人さんが誰もいなくても行けそうで、多少気にはなってくる。
2012.04.02
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