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前回の続きからです。(そして、この中心に居た人物がなんと明智光秀その人です。)中心に居た人物と言っても明智光秀はもうこの時点では他界されております。明智光秀は山崎において、「こんな民衆が飢えで次から次へと亡くなったり、人が人の手によって尊い命を奪いあう 時代は絶対にあってはならない。私はこの戦いで自分の一生を全うするであろう。 しかし、仏の道を開けなかったことは無念。私の命を掛けた願いを受けてはくれないか。」というイメージを未来に願いを込めて強く抱いたまま亡くなって居ます。武力では絶対に平和は訪れないであろう事を悟った光秀は、仏法の世界で平和の世が来ることを信じ、自分は仏法僧天海である事を意識したまま成仏できずに若者の意志に憑いて居たようです。実はその光秀のエネルギーは怨念に近いイメージで、憑かれている天海にとっては癒されることのない日々であったものと思います。しかし天海の素晴らしい所は、光秀と交わした約束の日からどんなに苦しくて心がおれそうになった時でも、「自分は一度死んだ身。この天海僧正は自分にあらず。御大将光秀公の御命、 そして、世を統一し平和の世を願って、心なかばに亡くなわれた方々の意志を受け継ぐ身。 天の導きがある限り、霊界よりこの地に降り立ち天海の心の行くまま前を向くまで。」という強い信念を持たれていたようです。そんな中で経験したことが、武力や仏法の力では今や過去は守れても未来の保障は確実には出来ぬ事というイメージのようです。人間は殺傷を繰り返す動物。人間が殺傷を繰り返さないためには、子宝を守ること、そしてその子供の成長の段階から教育を重んじる事と考え武、仏、守という三身一体のイメージを、光秀公に憑かれた光秀公の霊(霊界天海)による霊障教育の中の、マイナスイメージから導きだした未来を見つめるプラスの答えだったようです。そうなのです。天海伝説の光秀公は天海大僧正の記憶やイメージの中で課題として生きていたのです。(秀忠、そして家光の名前も天海が光秀公の課題の影響で意識して付けられた 名前であるようです。)馬に乗って武士としての自分にさよならを言って、仏の世界の門を叩いたあの若者の純粋な心の中に一体となって憑いて居たのです。光秀は実は自分が亡くなっている事には気がついてはおりませんでした。そして、あの若者である天海大僧正に多大なる試練を与えているものとも思いませんでした。光秀が思っていたことは、殺りくの無い平和の世です。そして、天界大僧正が願い思っていたことも同じ未来永劫の平和の世です。不浄化のエネルギーの世界と、生を持って生きている人間の世界は違えど同じ信念を持ち得た二つの魂の連携プレイがなし得た結果が、前向きな平和の世の実現でした。天海大僧正は武、仏、守をイメージする上でいつも光秀公がイメージの中心にあったようです。そのため、春日局の血を引く、いわば明智光秀との血の繋がりがあるであろう人物を将軍とすることで、自分の目標は淘汰されたようです。(天海のまったく欲深なイメージがないことからも、光秀公の霊障の影響が 多大にあったようです。)天海大僧正は日光の地にある建物を作ります。そして、その建物を建立している半ばのある月夜の晩に、ある山の中腹に、3っつの杯と1個のまんじゅうを持って行きます。そして、3っつの杯にそれぞれお酒を入れ、まんじゅうを3っつに別けて、それぞれの杯と一緒に添えて置きます。そしてある言葉を言われます。「天来たり、己の赴くままに我が人生来れど、何が自分に出来たものか。 すべて、光秀公、そして時の方々の恩義に尽きること。 平和の世が未来永劫にあらんことを願いつつ、この瞬間(とき)に天の導きこの場所で 生ある我が身がここに居られる事に感謝しつつ、願い半ばのこの天海と酒を酌み交わす ことをお許して下され。」天海大僧正はついに光秀公との約束を守る事が出来ました。光秀公も「うん、うん」とうなずき酒を交わしつつ天に戻る事が出来ました。そして、もう一つの杯は、山崎の合戦で20歳に満たない年齢で戦死した天界大僧正の武士の時の名である、斎藤利三の長男の斎藤利康公に捧げるものでした。斎藤利康は1564年生まれです。天海大僧正が108歳(~1643年)という高齢で亡くなわれたイメージがそのままこの斎藤利康と繋がるものでした。天海大僧正は武士としての自分の魂に、戦国の世の平和を願い、心半ばに亡くなって行かれた方々を重ねてイメージしていたようです。天海大僧正は杯の相手である2つの同志と杯を交わしながら「天はこの地、この場所から、1石の石を大地(平野)という大海原に投げ入れ 1石の石の波紋は迷うことなく全世界まで広がり泡となって消えてつ行く。 自分の一生は儚いものであるかも知れないが、天と海が一緒となったこの場所、 この瞬間(とき)を生涯忘れる事はないであろう。仏法僧天海、今ここにありけり。」というイメージをその場所に残します。自分の一生は寂しい人生ではあったけれど、自分の生きた証がその瞬間にあった事を心に深く刻んでいたようです。天海大僧正がこの月夜の晩に交わした杯で、数え切れないほどの平和の世を願った戦士たちが天国に戻られた事は霊界のみぞ知ることだったようです。長々、私の信憑性のない天海伝説を読んでくださいましてありがとうございました。いろいろとご意見もあるとは思いますが、あくまでも霊視的フィクション内容ですので楽しんでいただけましたら幸いです。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.11.09
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そのため、お福が家光が生まれて最初に行ったことは、家光の護衛を作る事です。相手が力こそは無いとは言え、天下の将軍とその妻です。それに対抗できるのはやはり自分の凄まじい執念に近い行動力しかなかったようです。お福は家光を守るためには自分の命をも引き換えに出来たものと思います。それほど、お福の一度挫折に近かったどん底からの希望の光が家光であったと思います。お福の子供のころから自分の心の中にある「いつかは天下人」という想像の中の居城が、現実的な自分の手の元へと近づく瞬間(とき)でした。お福は家光を守るためにまったく隙の無い護衛システムを考えました。そのために、天界や板倉氏やその他の実力者と深く話をしているイメージです。そして、板倉氏の紹介と思われますが、ある女性を数名、家光の護衛として招き入れています。その女性は実は忍者出身の方なのでないかと思います。伊賀忍者がその当時居たかはどうかは解りませんが、板倉氏との繋がりのある女忍のような女性を家光の守りに付けたのではないかとイメージを通じてそう思います。この剣術などの武力と女性ならではの武器を兼ね備えた女忍の存在が、後の春日局の主導権を握った大奥の基本なり、将軍以外の男性を禁じる大奥システムに繋がって行ったのではないかと思います。家光の敵は、刺客、イジメ、毒というイメージがあります。まず、刺客となる男性の排除、派閥の力の差によるイジメ、家光や自分に関する内部での危険因子の排除、または防衛のイメージが春日局の頭の中に日々あったようです。これで、天界のイメージである光秀との約束である平和の世の構図が完成しました。天海は光秀との約束である「天の導きたる(平和)時が来たら月夜の晩に大きな平野が見える場所で一緒に 酒を酌み交わそうぞ。」という約束です。天海は武力である徳川家康の力だけでは未来永劫に繋がる平和の世は想像がつきませんでした。そのため、天海が持ち得た仏の力である仏法の力でその平和のイメージに望んでみようとしましたが、やはりここでも人間の表裏の部分が見えすぎて、限界がある事を感じていたようです。そのため、人間社会の基本となる子孫繁栄(教育、保護)の部分に平和の世の真髄をイメージして行かれたようです。武力も仏法も人間社会ではプラスマイナスを持ち得た、今から過去をイメージしています。未来永劫の確実なる保証は天海の考えでは持ち得ていないイメージです。しかし、確実なる子孫繁栄は過去ではなく人間の本能と随時して、今から未来のプラスのイメージであるようです。天海は武力、仏法の重要性を重んじる戦国の社会に、確実な平和の世を望める子孫繁栄(教育、保護)なる未来のイメージを3原則として、江戸幕府の未来永劫の存続を考えていたようです。これが、徳川家康、天界、春日局という歴史的人物の存在だったと思います。そして、この中心に居た人物がなんと明智光秀その人だったのです。次で最終話です。楽しんでいただけましたら幸いです。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.11.07
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では天海はお福を江戸に迎えるにあたってどんな手段を考えたのでしょうか?その答えに焦点を当ててみますと、すぐに2代将軍徳川秀忠の父思いで従順な優しさのイメージが伝わって来ます。秀忠は心が優しすぎて、武将としては気が弱く決断力がなく、戦いにおいても武将としての器ではなかったのではないかと思います。どことなく家康の幼少の頃の面影があり、家康との気の弱い部分など根本的には変わりがないくらい似ているイメージですが、大きな違いは育った時代やその環境にあるようです。家康は秀忠の事は自分の弱さの一面を見ているようで、親近感がありとても身近に感じて居たようです。ですから、2代目将軍を自分の内面の心を持つ秀忠に決めたのだとイメージを通じて私はそう思います。その事を家康の身近に居てよく知っていたのが天海です。天海は秀忠にある内密な報告をします。その内容が、父の家康が京都に出向いた時にあるお家の女性と内密の関係になってその女性が子を宿してしまった。といういうものです。「天下の将軍家康公の子なれど、公にすることは出来ぬ事。 されど、天下の将軍の子を粗末にすることもできず。 秀忠公の家康公に対する忠義は天に類を見ないもの。 そして、家康公の愛情もまたこれにしかり。 ことある戦いの家康公の身内に対する御温情は計り知れませぬ事なりけり。 秀忠公の子として育てることこそが、家康公の顔に泥を塗る事もなく 事が穏便に済むこと、他には考えつかぬ事。 ここは一つ天海の相談には乗ってくれぬか?」というイメージの内容を天海は秀忠に伝えます。秀忠は家康に対しての忠義は本当に凄いものがあると思います。家康が死ねと言ったらすぐに死ねるくらい、家康に対する忠義は絶対だったようです。秀忠は父のためならというイメージと汚名挽回のようなイメージを持って秀忠は、お福の子を自分の子供として江戸城に迎い入れる事を決めたようです。そして、その旨を妻のお江の方(おえよの方)に伝えています。秀忠の妻、お江の方は最初は何を言っているの?的なイメージで反対したようですが秀忠の汚名を挽回的な事を聞いて、たかが子供、しょうがないことと考えていたようですしかし、お江の方はお世継ぎに男子がなかなか生まれないこともあってなんとも言いようがないある不安もあったようです。もし生まれて来る子供が男子だったらどうしようとい言う事です。それまで秀忠との間には男子は生まれていないので、お福の子がもしも男子だったならお世継ぎとして問題となるのではないかと言う事です。それに対して秀忠は、お世継ぎとなる人物は私が決めること。私の子でないものは天下の将軍となることは決してない。と強くお江の方の不安を一蹴して、強く約束しているイメージです。しかし、結果、生まれて来た子供は男の子(家光)でした。秀忠と約束はしたものの、お江の方様の慌てようは凄まじかったイメージです。そのため、すぐに自分も男の子を作ろうとしますが、なかなか上手く行かず生まれて来た家光を絶対にお世継ぎにすることは阻止せねばならぬため家光やお福の事をかなり毛嫌い、発達的に問題があるとか、何かと攻撃的な行動があったイメージです。しかし、その行動がそれまで眠っていたお福の気持ちに火を点けてしまったようです。お福はすぐに天海や板倉氏に相談しているイメージです。そして、その行動が大奥を作った春日局の基盤に繋がって行ってしまっているイメージです。「人を殺やめても、自分の信じる人生がそこにあり。我が血縁(血筋)の命より 尊い命なし。我一族を傷めしその存在をこの世から抹消してしまうこと心に誓いけり。」という血ぬられたようなイメージを家光可愛さの心の奥底に日々抱いていたイメージです。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.11.06
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後の春日局となるお福はまだ23歳という当時では少しおばさんなのかも知れませんがお福には誰にも負けない武器があったようです。その武器とは、自分の目的のためには嘘を平気で付ける所にあるようです。そしてお福がもっと凄いのは、自分のついた嘘を本当にしてしまうだけの行動力がある事です。お福は由緒ある旦那の主君が死去した事をきっかけに、旦那が浪人になってしまった時に一番初めに考えた事は、子孫が絶えてしまう事です。いつかは天下人の家系であったはずのお福にとっては最大のピンチです。そのため、お福は考え抜いた末にある行動に出るのです。それが、一番偉い人と繋がる事です。お福はある方の繋がりで京都所司代の板倉勝重と会うことになります。そして、事あるごとの板倉勝重に相談を持ちかけることになります。年の差は親子ほどであった事もあり、板倉勝重氏には娘子のように思われ可愛がられていたようです。お福はその間にも他の名のある武家の方とも会っているようで、女を武器にいろいろと自分の都合のいい方向にその方々を自分の手玉に取っているイメージです。しかし、ある日の事お福は、旦那さま以外の方との交際で妊娠してしまいます。お福は武家方を利用して、旦那様の家の名をあげられるような考えを持っては居ましたが妊娠するとは考えて居なかったようです。そのため困ったお福はそれを板倉氏に相談しますが、板倉氏はとても親身になって相談に乗ってくれます。そして、出した答えが旦那さまと離縁して江戸に行くという事のようです。そのため、板倉氏は江戸に手紙を出します。その手紙の先が天海のイメージです。天海は最初はお福の事をよくは知りませんでした。しかし、天海がすぐにお福がどんな人物なのか?身辺を調べたようです。そして、出た答えが何と、お福は実は斎藤利三の娘であり自分の身内であり兄妹だったのです。そうなのです、天海はお福のお兄さんだったのです。天海はお福が天海の血のつながった兄妹である事を知った時に、涙を流し今は亡き自分の昔を懐かしんだようです。そして、多少自分の武士ではない人生に後悔もあったようです。しかし、天海はある事をすぐに考えました。そのイメージが、武、仏、守の3原則です。武は武力である徳川家康。そして仏は仏の精神世界である天海。その2つの力だけでは、徳川家の権力維持が未来永劫に続かない事を天海は考えて居たようです。そのために考えたのが、子を守る、そして家を守り続けられる女子(おなご)の力だったようです。天海はお福の力を見抜いていたようなイメージです。「このくらいでなければお家は守れぬ」と天海のイメージはそう伝えてきます。天海の中では光秀と交わした約束である、「未来永劫の平和な世」のイメージがようやく繋がったようです。そのため天海は手紙をすぐに書き板倉氏に使いを出し、お福を徳川家に招き入れる事を伝えます。その手紙に書かれているイメージが「その女子のお腹に宿し御子は、御大将家康公の御子にあり。丁重に持て成し 江戸に迎い入れること重要なり。されど、御大将家康公の御子であることは 内密なり。お福はそのお腹の御子の乳母として上京する事と総意なり」というイメージです。これで、お福は夫と離縁をし江戸に上京することとなります。そして、お福は天海が自分の実の兄である事に気がつきます。何故、お福が天海が自分の兄である事に気がついたかはですがお福が子供のころにお福の母親が口癖のように言っていた、「お前の兄は戦いで亡くなったのではない。仏の世界に身を委ねて武士として死んだのじゃ それもまた人生。主を思う武士として決して恥じる事ではない。」子供心にお福は、山崎の戦いでの兄の死を母親が自分の悲しみを慰めようと死後の世界の仏の世界に兄は身を置いた事を、母親は言っているものであると勝手に解釈していました。しかし、天界はお福への手紙の冒頭に「我は仏の道に身を委ねし天海なり。その昔山崎の合戦に於いて 亡くなりし若者の亡者なり。そんな死者を背負って仏の道にありし仏法相なり・・・」と他の人が見ても解らぬイメージで、悲しみの一文を書いたイメージです。感のいいお福に兄である事を母親のイメージを通じてすぐに察知したようです。それが、初めて対面したのにもかかわらず、「お久しゅうございます」というお福の挨拶に繋がっているイメージです。(天海もお福の挨拶にうんうんうなずき感涙したようです。)ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.11.06
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次に天海が誰であったのかを解き明かすイメージとして、いろいろな説はあるようですが没年齢が108歳であることと、春日局(かすがのつぼね)が天海と初めて会ったにも関わらず、「お久しゅうございます」と春日局が天海に挨拶した事です。ここに天海が誰であったのか?に繋がる霊視的なイメージが強くあります。では春日局はどんな人物だったのでしょうか?そこに大きなヒントが隠されているイメージですので、春日局の人物像を霊視してみたいと思います。春日局の本名は斎藤福(1579年生まれ)という名前で、父は明智光秀の重臣である斎藤利三です。父の斎藤俊三は1582年の本能寺の変の後の山崎の戦いで、秀吉の家臣に捕まり処刑されています。しかし、斎藤福は女性であったため、秀吉から追われることもなく、母の親戚にあたる公家に育てられます。そして、稲葉正成の後妻となり3人の子供を産みます。稲葉正成は関ヶ原の戦い(1600年)において主君を説得して、小早川軍を東軍(家康軍)に寝返らせ、徳川家を勝利に導いた功労者だそうです。しかし、1602年主君が死去して小早川氏が断絶すると、浪人となってしまったようです。これが、福にとって最大のピンチだったイメージです。お福のそれまでの人生は自分では何も考えなくても、周りに任せてさえいれば安泰というイメージで、自分の生まれた血筋から自分で考えなしでもいつかは天下人に繋がると何の根拠もなくプラスに考えていたようです。これはお福の幼少期に母親とその親族のこだわりがかなり影響を与えているようでやはりお福の母親やその親族にとって明智光秀、そして斎藤俊三が無念の死を遂げている事に悔しさが消えることはなかったようです。お福の幼少の頃の影響を与えていますエネルギーに、先祖代々の栄光がこの代で絶対に朽ちるものかというようなイメージを先祖エネルギーが伝えてきます。このエネルギーは斎藤利三の妻の親族にあたる方のエネルギーで、末代までの栄光をという強い怨念に近いイメージを持たれていたようです。それほど、斎藤俊三の無念の死が悔しかったものと思います。お福の母方の親族のイメージは、「斎藤家は由緒ある御家柄。その祖先は天下をも取ろうであろう大武将。その祖先の名において 斎藤家代々の血を絶えることは決してあってはならぬこと。斎藤家に生を受けた女子(おなご) に出来る事は子種を絶やさぬこと。 由緒ある御家柄の子種を絶やすことは天下に泥を塗るようなもの。 由緒ある代々の家系に女子として生まれた事に誇りを持て。そして先祖代々に恥じる事の ないように、女子として生涯を成就すること」というイメージを伝えてきます。お福はそんな母方の斎藤家代々の怨念に近いイメージをもろに受けて成長をしているようですが、とても明るいイメージの性格で、好奇心も旺盛でプラス思考のイメージです。そんな楽天的性格や行動の未来に「いつかは天下人」という無意識に近い考えをいつも抱いていたようです。しかし、お福が23歳の時に無意識の中の天下人に導くであろうはずの相手方が浪人になってしまったのです。お福はそれまでの「いつかは天下人」という想像の中の楽天的な居城は、非現実的な何も根拠もない想像の世界であった事に気づいてしまうのです。そのためお福は自分自身をそれまで支えていたものがすべて崩壊してしまったようです。夫の不甲斐なさを憎むでもなく、子供たちの未来を嘆くでもなく自分を支える心の中の居城である「いつかは天下人」を支えるために自分を維持するのが精一杯だったようです。そのため、お福が取った行動は自分の想像の中の居城を妄想の中で支える事です。お福のイメージに入って行きますと、かなり完璧主義で自分の願いは絶対に叶えなければ気が済まないイメージの方です。この心理的なお福のイメージですと、普通はこのような挫折的な障害があった場合に、心因反応のような自分の予想を超えた外的トラブルによる神経症が発症してしまったり、そのままほっておきますと、精神分列病(統合失調症)のような病気に発展する可能性があるくらいの粘着性のあるしつこい性格の一面もあったようです。しかし、そんな人生最大のピンチであってもお福はすぐに現実回避の行動に出て行ったようです。福の凄い所は迷いのない前向きな行動力です。そして、幼少の頃よりの由緒ある先祖代々に恥じる事のないように誇りを持って女子として生きるという「ゆるぎない意志」である最大の心の武器がある所です。(何が何でもというイメージです。)福は自分を支えている心の中の居城である「いつかは天下人」を実現するためにある行動に出ます。その行動とはですが、福のイメージでは、その地域で一番偉い方、力のある方と接する事です。そこに出て来たのが、京都所司代の板倉勝重です。板倉勝重は福を家光の乳母の選考で任命したとされる人物です。ここでいったいお福と板倉勝重の間で、どういう事が展開されたのでしょうか?次に続くです。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.11.01
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光秀の人生をかけたタスキをもらった若者は明智城として有名な琵琶湖にある坂本城から近い場所の天台宗のある寺院に馬を走らせているイメージです。ある寺院に着いた若者は光秀にもらった手紙をその寺院を司る、ある高僧にその手紙を見せます。その高僧は何も言わずにその若者を寺院へと招き入れ、山崎の戦いが終わった翌朝にその若者に対して、ある言葉を伝えました。その言葉とは光秀の意志である僧侶名、天界を受け継ぐ事です。その高僧は、「戦国の世、仏の道もまた蛇なり。お主に導く崇高なものおれど、その道を行くも 帰る(止める)もお主の意志が決めること。天海という仏法僧の荒波を現世界の 生涯において、貫く事は出来ようか。」と問いかけています。それに対してその若者は「私は御大将とともに武士として名誉ある戦いにおいて亡くなった身。今、ここにある 我が生かされる身体は武士にあらず。仏教僧天海なり。いかなる荒波も我が恩師光秀の 名において、この命が続く限り全うすること、一寸のゆるぎなし」と答えています。高僧は、何も言わずうなずき、武士の命とも言える頭髪に刀を入れ、今ここに仏法相天海、天界の天命によりこの若者に降りたし。と言われ、大粒の涙を流しています。そして若者もまた何も語らず涙を流して居ます。これがこの高僧と若者の御大将、明智光秀への最後の別れとなったようです。その日から若者は天海として仏法の世界に入りますが、その素質たるや凄まじいものがあったようです。まさに天命だったのではないかとイメージを通じてそう思います。そして、その若者はある偉大な目標があったようです。その目標とは、仏教界の天下統一のイメージです。仏教界の天下統一と言ってしまいますと、いろいろな宗派の統一的な印象があるかも知れませんが、ここでいう天下統一と言うのは、その時代は宗教が中心となっている農民などの一向一揆が多発していた時代のようです。その一向一揆が天下統一を妨げたとして織田信長が比叡山の焼き打ちなどの問題あるとされる行動に出ているイメージです。そのため、その武士側の視線も持ち得た若者は、仏教を中心に民衆の心を一つにして仏の心を持ったゆるぎない地盤を民衆の心の段階から作ろうとしているようです。これも光秀の考える平和の世で一緒に酒を酌み交わすことに繋がる導きざるイメージだったようです。若者天海は、武士と民衆が一緒になって平和を営む世の中を考えていたようです。そして、天海はその寺での修行だけではなく、いろいろな寺院やいろいろな歴史的な場所に行かれているイメージです。その場所にあるいろいろな書物や人々の話から、いろいろな知識や人徳を積み重ねて行ったようです。天海の素晴らしかったのは、どんな大変な荒行と呼ばれることも、どんなに困難な学習も笑って進んでいるイメージです。これは、自分の背中には何万人もの武将や罪もない人々の霊魂を背負っているイメージを持たれ、その背にしたマイナスのエネルギーを、光秀との約束というプラスの導きに向けて、すべて楽しんでプラスに終わっている所です。本当に辛い事も多々あったと思います。しかし、天海はあの時大粒の涙をこぼして交わした光秀との約束を生涯、忘れることはなかったようです。そして、天海の運命の地となる徳川家康の居る関東に移住することになります。天海のその存在感たるやその名がすぐに有名となり家康との再会を果たします。そして、天海は家康と再会した時にある手紙を家康に差し出したようです。その手紙を見た家康は、人目を避けることもなく泣き崩れているイメージです。その手紙には、光秀の魂ここにありという天下人になるであろう方に伝えるメッセージが書かれている内容であったようです。光秀はいつの日かこの手紙を渡す人物が現れた時に渡してほしいと、若者に渡した手紙のようで、その判断は若者に任せたようです。そして、その手紙の先が家康であった事も天の導きがあったのかも知れません。家康は、その若者天海と2人きりになり話をしています。家康は天海が本能寺の変の後に伊賀であった若者であることにもすぐに気がつきました。天海は光秀の事については多くは語っていますが、自分の事は全く語ろうとはしません。天海は「武士としての私は死にました。光秀の魂を引き継ぎ天海としてこの世に存在させて いただいている身」というイメージを伝えてきます。家康は天海との2人きりの時空を超えた世界を懐かしくも尊い時間を胸に天下統一を心の決めたようです。「我が命など、時の武将の耳くそにもなりはせず。この命と引き換えに 天の赴くままに(平和の世)この身を捧げてしんぜようぞ。」と光秀の手紙を胸に当て、天下統一のために自分の命を捧げる事を決意されたようです。ついに私の中での天海伝説である時の武将、徳川家康がが動く時が来たようです。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.10.30
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いよいよ今回のテーマであります、天海伝説です。天海は私の霊視的なイメージでは実は明智光秀ではなかったのです。ではいったい誰だったのでしょうか?歴史的には本当は無名な人物だったのでしょうか?霊視的なイメージでこの真相に入る上でのキーワードが実はあります。1、徳川家康が本能寺の変の時に堺から伊賀を通って周りからかなり 守られている時のイメージです。2、第一に3代将軍徳川家光の乳母である春日局の天界と初めて対面した時の 「お久しゅうございます」という言葉です。3、天海が高齢(108歳?)で亡くなっている事です。ではこれらにあげた3つのキーワードより天海伝説の真相に霊視的に入って行きたいと思います。徳川家康は歴史的には命からがら大阪の堺より、自分の城である岡崎城(愛知県岡崎)へ帰って来たとあります。その後、家康は明智光秀討伐のためにすぐに進軍をしていると伝えらていますが、実は家康のイメージに入って行きますと、光秀を守るために援軍として軍を向けているイメージです。しかし途中、山崎の戦いで光秀が敗れた事を聞いて、なくなく自分の城に戻られているようで、岡崎城に戻ってからの家康は光秀の喪中に入っているイメージです。そこで、家康はとても落ち込んでいるイメージですが、家康が自分がその中で前を向くために心に決意したのが、天下人になろうであろう偉大な豊臣秀吉への人生を掛けた反抗(成敗)でした。家康のイメージは気が少し弱いイメージで、行動するには石橋をしっかり叩かないと行動出来ないタイプのイメージです。でも家康の凄さは誰よりも優しく温情を大切にする方のイメージです。信長の事よりも、絶対に曲がらない武将としての光秀に心より尊敬の義を呈し、自分の危険よりも家康に対する礼儀を優先してくれた事に対して(本能寺の変で堺より大事な家臣の護衛をつけて命を助けてくれたこと)、恩を持って、自分の人生を掛けてもいいという、武将としての恩義を決意したようです。そのため、その後家康は力がそれほどないのに秀吉に対して戦いを何度か挑んでいるイメージです。(それほど、光秀は素晴らしい方だった事をイメージで伝えてきます。)この家康が伊賀を通った時に、先回りして、伊賀の実力のある方々に光秀が家康が通ることそして、大事な殿の客のためその身を丁重に警護してもらいたい内容を書いた手紙を先回りして渡しているイメージがあります。その手紙を届けた人物が実は天界に繋がるイメージです。ここで、その人物は家康と伊賀で出会い光秀についていろいろと語り合って、身分や年の差も関係なく、一人の人として心で意気投合しているイメージです。(短い時間ですが)そして、その若者は光秀の元へと戻って行きますが、光秀に対してとても嬉しそうに家康との出会いや、家康のお人柄などの印象を話しているのを見て、光秀はある事を決意したようです。その決意した事とは、自分亡きあとの仏の供養です。光秀のイメージは自分が意図しないとは言え、比叡山の焼き打ちなど沢山の悪業となる罪を作って来ました。その罪を自分の命ある生涯において少しでも償おうと、地域の復興のための努力をして来ましたが、天の意向はそんな自分を許しては下さらなかったようです。天はまた新たなる天下人を作り上げて、戦乱の地へと導くつもりであるようです。それほど、私が犯した罪は大きかったのでしょう。その何の疑いもない透き通った若者のすがすがしい表情を見て、光秀は自分の最後を決めたようです。そして、その夜に白装束の姿の光秀が一つの手紙を書いて居ます。そこに書かれている文面の最後に、天海という名前があるイメージです。実は天海と言う名前は、光秀の僧侶としての名前。光秀がある寺院(比叡山)に援助しながら信仰心を持って出向いていた頃の、ある高僧が光秀に付けた名前であるイメージです。天海の意味は、光秀が霊界に行ったときに天にある荒波を行き進む事で自分の生涯の業を清らかにする事とイメージは伝えてきます。それほど、戦国時代は光秀にとっては自分の力ではどうしようも出来ないくらい悲しい世界であったようです。光秀が自分の死を決めて書いた手紙は、山崎の戦いの3日前にその若者の手渡され、その若者にある願いが伝えられました。こんな民衆が飢えで次から次へと亡くなったり、人が人の手によって尊い命を奪いあう時代は絶対にあってはならない。私はこの戦いで自分の一生を全うするであろう。しかし、仏の道を開けなかったことは無念。私の命を掛けた願いを受けてはくれないか。というイメージでその若者に、自分の未来の希望を書いた手紙を自分の命のタスキとして手渡しています。その若者は光秀の願いを聞いて、場所もわきまえずに泣き崩れています。そして、その若者を見た光秀も、こんな老いぼれに泣き悲しんでくれる事に感謝せずにはおれませんでした。目に涙を浮かべながら、若者に向かって「天の導きたる(平和)時が来たら月夜の晩に大きな平野が見える場所で一緒に 酒を酌み交わそうぞ。」と、その若者に会せてくれた天の導きに心より感謝され、自分の人生の尊さに感謝されているイメージです。(もう迷いはなかったようです。)若者はその日の夕方に父にだけ別れを告げて、自分の武士としての人生と、光秀の最後の時を悲しみ、そして惜しみつつ、光秀の示した場所に向かっているイメージです。フィクション霊視ですがついて来てくださいね。(汗)ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.10.25
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明智光秀 対 秀吉の山崎の戦いでは、双方何万という兵を出して時の智将と名高い両雄が戦力に差があるとはいえ世紀の大決戦です。そんな歴史的な武将の戦いがたかだか2時間で決着が着くなんて、誰が予測が出来たでしょうか?歴史的な内容からすると、光秀は山崎の戦いで秀吉の軍に圧倒されて勝竜寺城に立て籠もり、秀吉連合軍3万人に完全包囲されました。しかし不思議なことに光秀は、夜陰にまぎれて深夜、城外への脱出に成功しました。まことに不可解ですが成功したらしいのです。これって、どういうことなんでしょうか?光秀が逃げ込んだ勝竜寺城という城を3万人もの兵に包囲されて、夜陰にまぎれて光秀は脱出に成功したと言うのです。そんな事って物理的に可能なのでしょうか?今で言ったらカッパーフィールドのマジックのようですよね(汗)そして間もなく秀吉の元に、光秀がいつの間にか脱出して逃亡したと言う知らせが伝わり、秀吉は一言、「光秀を・・・追うではない・・・。」と言って家臣団を驚かせたと言うのです。これもいったい秀吉は何を考えてそう言ったのでしょうか?山崎の戦いでは秀吉は何万人もの兵を自分が将として指揮し、織田信長の仇討的な本能寺の変の騒動を納めるための戦いだったのではないでしょうか?当時の戦国の世は、自分の殿様である織田信長の謀反者を取り囲むまで行って、当人が逃げたから首も切らずに逃がすということは、許される事なのでしょうか?山崎の戦いの織田家代表のそのほかの将方より、秀吉の責任の追及にならないのでしょうか?(私は歴史の事に詳しくはないですが、秀吉の行為は切腹ものの話なのではないかと 勝手に考えてしまいます。)そして、せっかく脱出に成功した光秀でしたが、間もなく逃亡途中の京都伏見の竹藪で落ち武者狩りの土民の餌食となり殺されてしまいます。小栗栖の明智藪といって今でもその場所は寂しげな竹藪に石碑が残っているそうです。これらの部分が意図的に秀吉が歴史的に一目置かれるために作られた話ではないかと霊視的なイメージを通じて私はそう考えます。秀吉のイメージは気が小さくてとてもズル賢い頭のいい方というイメージです。光秀を謀反を犯した裏切り者の武将とし、そして自分とは比べ物にならないほどの小さい武将として伝記に残そうとしているイメージです。光秀は秀吉よりも位は上だったと思います。(手柄の数が多い秀吉にとっては、妬みのイメージもあります。)秀吉はそんな自分よりも位の高い位置に居る光秀を、歴史的に謀反を犯して天下を取ろうとして失敗した武将に当たらない裏切り者としているようです。そして、そんなどうしようもない裏切り者でも、逃がせる懐の広さ。「光秀なんて、私の手のひらでどうにでも出来るほどのうつけ者よ。」的なイメージで後から話を勝手に作っているイメージです。そしてあろうことか光秀の武士としての最後を、武士でもない農民に竹やりで殺されたなどと、本当に情けないばかりの感情論的な終わり方を、自分の都合だけで勝手に作り上げているものであると、霊視的なイメージでそう思います。(最後は秀吉との一騎打ちでギリギリ秀吉が勝って、光秀は本能寺の変では間が差したが あっぱれな武将だった位の歴史を残してくれたなら、秀吉をもっと尊敬する所だと ゴルさんは勝手に思います。)では、光秀の霊視的な最後はどうだったのでしょうか?光秀は、やはり戦う気持ちがなかったようです。すべてを天の意向に任せて、全責任は自分にあると自害しているイメージです。光秀直属の家来が光秀の首を持って、山崎の戦いが始まる3時間ほど前に秀吉に対して降伏しているイメージですが、その家来の者をうそつき的なイメージで斬ってしまったようです。明智軍はそれでも戦っているイメージですが、総大将の姿もなく統率力もない状態で鉄砲隊なども戦術に欠け、兵の数も圧倒的で、内部かく乱などもあり、まともに戦う術もなかったイメージです。そのため、2時間という短時間で方々に散らばったりして、戦いにならなかったのではないかとイメージは伝えてきます。もちろん、城に逃げた兵はいた事は確かですが、秀吉の性格的なイメージではアリの子一匹逃さないイメージです。あくまでも信憑性がない私のフィクション的霊視では、光秀は信長や自分の家臣を守ろうと、自らの命を持って自害している事が伝わって来ます。そして、秀吉の事を武将として尊敬もしていましたが、降伏と言う武士の温情を持って命を守ろうとした自分の首を持って行った家臣が、何の温情もなく斬られる様に成仏できずに激高しているイメージです。光秀のイメージは「仮にも我が将、信長の家臣。 光秀そして秀吉の直属の家臣なるぞ。 謀反を犯したおん責任は我にあり、降伏したおん家臣を温厚もなく斬りつけるとは何事ぞ。 武士としての慰み者にもならぬやつ」と伝えてきます。(慰み者とは一時の慰みにもてあそばれる者という意味だそうです)一時は、天は秀吉にその意向を示したと自分の身を委ねれば、自分の損得のために将の首を差し出す信長の家臣は自分の家臣でもある者を、何の温情もなく斬りつけるとは光秀、武士としての生涯を捧げようとした甲斐もないやつと、怒りのエネルギーに代わっているイメージです。そして、これが天海伝説に繋がって行くイメージです。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.10.23
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明知光秀は、本能寺の変で信長が殺されたと言う事は、絶対に信じることが出来ませんでした。信長こそが下刻の地の天下人と、天から生を受けた人物だと信じていたからです。比叡山の焼き討ちなどという信長の問題があると思われる行動も、それまでの下刻の時代の殺傷や殺戮行為を浄化するための天の意思と信じていたようです。それほど、罪もない人間が何十、何百万人と死に行く時代で人間同士の意味のない血で血を拭う争いに矛盾を感じていたイメージです。そして、それを変えられるのも信長という天下人ただ一人だと思っていたようです。(光秀は自分に信じ込ませていたと言うほうが正しいのでしょうか?比叡山の修復やその援助をその後、信長に隠れてなのか?行っているイメージを伝えてきます。これが後の伝説に繋がるイメージです。)ですから光秀は、本能寺の変で自分がはめられた事を知った時も、信長の無念を晴らす事を強く意識したようですが、自分の智将としての至らなさが織田信長の死と繋がって、1万以上もの兵の危険を作ってしまった現状を、自分が責任を負うことで消す事が出来るなら、自分の身を差し出す覚悟もあったイメージです。そのすべてを天の意向に任せようと思っているイメージです。しかし、さすがは信長精鋭の光秀率いる正規軍です、信長や光秀に対する恩義忠誠を優先したようです。ただ問題であったのは、その他の援軍となるであろうはずの者達がことごとく裏切った事です。内部にもかく乱させる者や裏切り者が多数いたようです。(秀吉の光秀孤立作戦と、内部スパイ工作の影響で最初から戦にはならなかったのでは ないかと思います。)結局、山崎の戦いの時には光秀軍は1万6千、秀吉軍が約4万とも言われて居ますが、光秀軍は実際は1万も居なかったのではないかというイメージが伝わって来ます。1582年6月13日の午後4時に山崎の戦いが行われて2時間後の、午後6時には秀吉が圧倒的に勝利したと言う事です。(光秀軍は後退して城に籠城したと言われていますが、戦いはこの時点で終わって いたようです。)私は戦については全く良くは解りませんが、双方が数万人もの兵を率いる戦いで2時間で決着が着く戦いってあるのでしょうか?そして、光秀の軍の鉄砲隊はいったいどうしたのでしょうか?布陣をちゃんと組めなかったからまったく機能しなかったのでしょうか?秀吉の作戦では天王山を手にしたものが勝利するような作戦があったようですが、たかだか山を手にしたくらいで戦は勝つものなのでしょうか?光秀はそんな戦い方しかできなくて、織田信長の謀反者となる道を選んだのでしょうか?本能寺の変の光秀の謀反?もそうでしたが山崎の戦いでの内容も素人の私には疑問だらけです。ここで、山崎の戦いの真相のヒントとしてですが光秀さんのイメージで「我はゆくなり、我が道がそこにある限り、わが心(天下人=信長)武将としての恩の 義にかけて、ゆるぎない心を持ってこそ、その光の向こうに天は来たり。」というイメージを光秀は伝えてきます。私は言っている事は良くは解りませんが、私なりにイメージを通じて通訳したいと思います。「私の信じているものそれは、信長を位置する天下人。」「私の一生は、我が道の武将としてその恩義をまっとうすること。」「その心が私の一生(死)を持って、永遠の未来の時に続くもの」たぶんですが、光秀は戦国という時代で、自分自身の一生を誰よりも真意に受け止めていたのではないかと思います。このイメージで山崎の戦いにのぞみ、最後までゆるぎないイメージでいたようです。(光秀は智将でもあり、高僧的な哲学論者であったのではないかと勝手に思います。)あくまでも私の霊視的なフィクションイメージでは、この山崎の戦いもまた秀吉の都合のいいようにその伝記が後世に伝わったものではないかとイメージを通じてそう感じます。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.10.18
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ブログ相談より、明知光秀は本能寺の変後、生き抜いて天海大僧正になったのではないかという、光秀と天海同一人物説について霊視して欲しいという相談が多くありましたので機会があればと思っていました。そこで、掲示板よりいいイメージのご意見がありましたのでそのイメージに深く入って、その真相について霊視してみたいと思います。(掲示板よりです)光秀は京都の合戦で敗れ、竹やりに襲われ亡くなったと言われていますが、“襲われたのは影武者で光秀は生き延びて天台宗総本山の比叡山(信長に焼き討ちをされた寺)に身を寄せた(その敵を討った光秀を優遇)”という噂です。長寿院にて是春と名のり、剃髪して仏教を学び、大僧都にまでなった光秀の名が比叡山の文庫のなかにはっきりと記載されているそうです。天海は、日光で一番眺めのよい荘厳な華厳の滝のある地を「明智平」と命名した。比叡山長寿院にも、願主光秀、慶長20年2月17日の日付で灯籠が寄進されている。日光東照宮の社殿には 明智家の家紋である桔梗の紋が描かれてる。 徳川「秀忠」と「家光」は、天海大僧正が名付け親になった。(両方とも光秀の字が使われてる)さらに天海大僧正は135歳まで生きたという説もあり、明智光秀、秀満2代位に渡って演じたのかもしれません。→凄く温かいイメージの内容の文面です。この文面を元に明知光秀の本能寺の変のその後を 霊視してみたいと思います。 明知光秀は本能寺の変の後、豊臣秀吉と山崎の戦いで戦っています。(山崎の戦いについてです)光秀は京都を押さえたが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の態度は期待外れだった。本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、新政権を整備する間もなく、本能寺の変を知って急遽毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる山崎で迎え撃つことになった。決戦時の兵力は、羽柴軍2万4千(2万6千から4万の説もあり)に対し明智軍1万2千(1万6千から1万8千の説もあり)。兵数は秀吉軍が勝っていたが、明智軍は当時の織田軍団で最も鉄砲運用に長けていたといわれる。合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。実際には、羽柴軍が山崎の要衝天王山を占拠して大勢を定めると、主君を殺した光秀に味方する信長の旧臣は少なく、兵数差を覆す事ができずに敗れた。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で、落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたとされる。「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも)。西教寺と谷性寺の記録によると首は三つ見つかっており、その全てが小柄で顔面の皮が全部剥がされていたという。→歴史的にはこのような内容になっていますが、明知光秀のこの当時のイメージに 入ってみますと、織田信長の正規軍を犠牲にしてまで、戦う気持ちはまったくない イメージです。 それよりも、本当の謀反者を探し出し、殿の名において征伐しようとしている イメージです。 しかし、直属の部下は、豊臣秀吉の謀反であると解っている事と、天下を取る チャンスのイメージを持っていたようで、その会議のようなものが何日かあった イメージです。 その中で最終的に出た答えが、戦えば答えが出るであろうということです。 その結果が、山崎の戦いであったようです。 光秀は山崎の戦いの前にいろいろな策を考えたようです。 まず、最初に行ったのが、堺に居る家康に織田信長の死を知らせることと、 自分は潔白である事、そして家康も信長より信頼があるので敵に狙われる可能性が あるので、早く自分の城に戻るように家康と伊賀の方(伊賀の知り合い?)へ同じような 内容の手紙のようなものを送っているイメージです。 (家康はこの手紙をもらって、かなり動揺しているイメージですが、光秀直属の部下で かなり実力のある方々が護衛となって先導し、伊賀を通って数日かけて安全に岡崎城に 戻っているイメージです。) 次に、周りの織田信長の繋がりのある国に信長が本能寺で亡くなったことや、 自分が濡れ衣を秀吉にかけられている事を伝えるために使者を送っているイメージです。 (しかし、それを伝えられた側は、秀吉の策略でもっと早くから謀反があった事を早くに 各国に伝えてられているイメージで、秀吉が相手という事もあって情勢の流れを 見ているイメージです。) そして、1万3千の各総大将を集め、本能寺の経緯を説明しているイメージで、 どうするか? それぞれの家臣である総大将にも意見を求めているイメージです。 その結果が、全体的なイメージとしては、本当の謀反者を倒すという統率力が出来て 山崎の戦いに望んでいるイメージですが、ここでもやはり一番活躍したのが 秀吉の秘密兵器のスパイ工作部隊(忍者?)のようです。 合戦は数は秀吉の方が多いようですが、やはり寄せ集めの人数よりは信長直属の 精鋭部隊の方が有利なイメージです。 しかし、秀吉は攻め込むというリスクではなくて、内部かく乱的なイメージで戦いに 臨んでいたようです。 秀吉のイメージは「時がたてば自ずと悪の牙城は崩れるもの」という時間を待っている イメージです。 それに対して、光秀のイメージは 「統一をもって(信長の意思を一つにして)天の意思にゆだねる」 という、秀吉の影でコソコソ裏工作とは対象に正々堂々との戦いがそこにあったようです。 そして、光秀の素晴らしい所は、天下の謀反人という汚名をきせられているそんな 状況にあっても、天下人とは天が決めるものという揺ぎ無い気持ちを持って 居るところです。 (織田信長の仇や、自分が天下人になるということなどという事よりも、 宗教的なイメージの天の意向(天の判断)を重んじていたイメージです。) あくまでも私のまったく信憑性がない霊視ではですが、何があっても信長を尊重する 光秀に応援したくなってしまいます。 歴史に関してまったく詳しくないゴル流の霊視的なブログですので、ご意見はいろいろと あるかも知れませんが、楽しんでいただけましたら幸いです。ブログランキング参加中(応援して下さる方はクリックしてくださいね)ここをクリックしてくださいねにほんブログ村ブログ村 スピリチュアル・精神世界
2009.10.17
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