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 第一節 ニーチェの「真理」を巡る思索

   <真理>と<虚偽>の問題を巡る重要な諸断章

 以下の諸断章は、ニーチェが真理の問題をどう考えていたかを知る上でさけて通れない諸概念を含んでいる。
「われわれのうちなる野獣は欺かれることを欲する。道徳は、われわれが野獣によって引き裂かれないために必要な嘘なのだ。道徳の採用にひそむ誤謬がなければ、人間は動物のままであったろう。そこで人間は自らを高次のものだと見なして、自分に厳しい法則を課したのだ。このため彼には、野獣性に近い段階に対する憎しみがある。非人間や品物として奴隷を侮辱した昔のことはこれから説明することができる」(Ⅳ2,62)。
 人間は<自らを高次のものと見なすという嘘>をつかなければ生きられない存在であるがゆえに誤謬は不可避なのである。
「われわれはまだ知らないが、われわれの使命がわれわれに指令を発している。われわれの今日に規則を与えるのは将来である。われわれ自由精神が、われわれの問題だといってもいいものは位階の問題だとすれば、生の正午にある今、われわれは次のことを理解する。われわれが登場を許される前に、その問題はどのような準備、回り道、試練、誘惑、変装を必要としたか、<人間>と呼ばれる内的世界の冒険者、世界周航者として、また、等しく<人間>と呼ばれるあらゆる<高次のもの>や<上級のもの>の測量者として、魂と身体において、最も多様で矛盾した逆境や順境を、われわれがまずいかに経験せねばならなかったかを。―どこへでも突き進み、ほとんど恐れもなく、何事も侮ることなく、何一つ空費せず、すべてを味わい尽くしながら、すべてから偶然を取り除いて、いわば篩にかけながら、―ついに、われわれ自由精神は次のように言うことができるようになる。『ここに―新しい問題がある!ここに、われわれ自身が腰掛け、上ってきた長い梯子がある、―それは、われわれ自身がかつてそれであった梯子なのだ!ここに、より高いもの、より深いもの、われわれより低いもの、巨大な長い序列、位階が見える。ここに―われわれの問題があるのだ!』と―」(Ⅳ2,15f)。
 「われわれ自身が腰掛け、上ってきた長い梯子」がなければ人間はここまでやってくることができなかったがゆえに、嘘はただの嘘では済まないのである。真理と呼ばれてきたものは、実は嘘たる以外にはあり得なかった嘘である。
「おまえは、あらゆる価値評価にある遠近法的なもの、つまり、地平のずれとか歪み、見せかけの目的論など遠近法的なものに属する一切のものを理解することを学ぶべきであった。そしてまた、対立する価値についてのいくらかの無知や、あらゆる賛否に伴う知的犠牲のすべてをも理解することを学ばねばならなかった。あらゆる賛否における必然的な不正、生と不可分である不正、遠近法的なものやその不正によって制約されたものとして生そのものを理解することを学ぶべきであった」(Ⅳ2,14)。
 実際には嘘を必要としてきたのは弱い者の生であった。しかしニーチェの目的は弱者の弾劾ではない。認識にはいかなる最終的目的もないのである。嘘は嘘として現れてくるまでは無知によって隠されているがゆえに、生そのものとしては、常に嘘による制約が不可避的であった。
「様々な価値評価を超え出て、構築し排除し破壊する思惟様式としての正義は、生そのものの至高の表現者である」(Ⅶ2,25,〔484〕)
 何らかの価値を必要とする限りあらゆる価値は遠近法的とならざるを得ない。生を無制約的な生そのものとして在らしめるのが正義である。それは無知によって未だ現れざる嘘に対してはやがては破壊的に作用する思惟であり、思惟そのものとしては無制約的な生の最も純粋な表現として構築的に作用する。
「アナクシマンドロスよりも大声で、ヘラクレイトスは叫んだ。<見えるのは生成だけだ。おまえたちは、欺かれてはならない。生成と消滅の大洋のどこかに固い土地が見えると思うのは、おまえたちの視野が狭いからである。事物の本質にはそういうことはないのだ。おまえたちは事物という名前を、事物が確たる持続をもつものであるかのように使っているが、おまえたちが再び足を入れる流れさえ、最初の時と同じではない>。…
 このようにヘラクレイトスは、一切の経験から解き放たれて時間を見ることによって、一般に直感的な表象の領域にあるすべてについてのモノグラムを獲得したのである。ショーペンハウアーもヘラクレイトスと同様に時間を認識して、時間について繰り返し述べている。時間においてはあらゆる瞬間は、それに先立つ父親を抹消し、また速やかに自分自身も抹消される限りにおいてのみ存在する。過去も未来も何らかの夢と同じように虚しく、現在はその両者の広がりもなければ永続することもない境界にすぎない。しかも、時間と同様に空間も、そして空間と同様に空間と時間のなかにあるすべてのものも、相対的な存在にすぎず、それににた別のもの、すなわちそれと同じようなあり方しか持たないものによって、そのようなもののために存在するだけである。これが、きわめて直接的な、誰にでも受け入れられる明白な事実の真理である」(Ⅲ2,317)。
 カントでは空間と時間は、物自体から与えられた材料を受け入れるために我々が発動させる、現象界にだけ客観的妥当性を持って適用され得る主観的な直観の形式である。感覚に表れるものはすべて空間と時間の内にあり、現象の空間的時間的規定は先天的である。しかしニーチェは「一切の経験から解き放たれて時間を見」、凡てを相対視することによって先天的という前提を破壊する。経験がその中でなされるところの時間と空間というものは所与のものではない。
「ある程度の意識がこの世界に存在するためには、非現実的な誤謬の世界が――発生しなければならなかった。個体や永続するものなどがあることを信じる生物が発生しなければならなかった。絶対的な流転と相容れない虚構の反世界が生じて初めて、この基礎の上に、何ものかが認識され得た」(Ⅴ2,11〔162〕)。
 カントでは理論物理学は直観形式と悟性のカテゴリーによって成立し、カテゴリーが現象界の因果性を確実にする。神はあるがままの事物を認識できるが、有限な人間理性の認識対象は現象界のみである。世界は理性に依存して存在し、つくられる。しかしニーチェにおいては先天的な悟性のカテゴリーはあくまで虚構であり、世界は捏造された仮象である。
「真理は不可知である。認識可能なものはすべて仮象である。真実の仮象としての芸術の意味」(Ⅲ4,29〔20〕)
 カントでは人間理性は自然界の形式的構造の立法者である。人間理性による形式の創造は、自然そのものの創造ではなく、与えられるものを受け取る形式の創造である。ニーチェでは「立法者」は「芸術」とよばれる自然の自己産出となる。
「真理は、それがなければ或る特定の生物が生きられない一種の誤謬である。最終的に決定するのは、生にとっての価値である」(Ⅶ3,34〔253〕)。
 ニーチェのいう真理においては先天的悟性のカテゴリーと世界の存在構造の確実な一致はもはやあり得ず、価値評価が真理を決定する。



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