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   分裂としての真理

 誤謬真理の問題については、真理と生との関係、そして価値評価の問題が考えられねばならない。まずニーチェにとって動かし難い<究極的真理>とは、単なる経過としてとらえられた時間である(Ⅲ2.317)。時間においては何ものも固定され得ないがゆえに、自己同一的なものは仮象である。ニーチェにとっては、過去と将来との対立が永遠に流れる時間の本質である。過去と未来が出会う現在という瞬間は、語ろうとするとき既に過去に呑み込まれて存在しないから、時間は自己同一的に存在する定位点を見いだし得ない。従ってすべてが時間の中に「在る」ということは仮象である。「<仮象の>世界だけが唯一の世界である。<真実の世界>はそれに付け加えた嘘なのだ」(Ⅵ3,69)。しかしニーチェは次のようにいう。「ある程度の意識がこの世界に存在するためには、非現実的な誤謬の世界が―発生しなければならなかった。個体や永続するものなどがあることを信じる生物が発生しなければならなかった」(Ⅴ2,11〔162〕)。
 ピヒトは、そのニーチェ解釈において、<真実の仮象>という観点からより包括的に真理の問題を考える。彼によれば、生物は個体であろうとするものらの意思によって組織される。「生命の基礎は、時間の変化の中で自己を維持し自己保存しうる、それ自身において自己同一な自己が存在するという妄想である」。決して実現されることはないがすべての生物に内在する目的である、自己同一的なテロスは、形而上学の崩壊後にはもはや仮象、自己を存在として表現する非存在である。しかし、組織するテロスの統一への努力があって初めて一切の生命があり得るから、誤謬が生命の可能性の条件である*31。
 万物流転の究極的真理は形なき絶えざる分裂そのものであり、現実的なものは純粋な否定性のみであるとニーチェは考えている。永遠の“流転”は、流転の永遠性を得ようとすれば、つまり自己同一的たろうとすれば、仮象を自分から生み出さねばならない。ありのままの真理において、「存在する」ということがあるとすれば、それは仮象の自己産出によってのみである。それ自体としては存在し得ない時間の流転と、仮象でしかない仮象の領域との間の対立によって、真理が現象し、認識が生じうる地平が初めて開かれる。この意味では仮象は、真理を構成する要素である。生のすべてを可能にする「虚構の反世界」は、芸術の産物である。芸術によって虚構が生み出され、虚構によって生が可能となる*31。
 「真理は不可知である。認識可能なものはすべて仮象である。真実の仮象としての芸術の意味」(Ⅲ4,29〔20〕)。芸術は、存在者の存在そのものを構成する契機として、それ自身が自然の力である。それは「自然そのものから人間的芸術家の媒介なしに現れてくる芸術的な力」(Ⅲ1,26)である。<芸術>とは自然の“自己創造”のことであり、自然そのものが、創造される芸術作品である。創造的芸術作品としての<世界>は、作者と作品とを区別することのできない<世界>である。「<世界>という仮象は、人間によって産み出されるのではなくて、その根拠として常にあらかじめ与えられている純粋時間の分裂の克服から必然的に現れ出るということをわれわれが理解するとき、世界は真実の仮象なのである。真実の仮象という芸術作品の自己産出をニーチェは<生>と呼ぶ」*32。ニーチェによれば生の本質は、<力への意思>である(WM617,p.270)。それはつまり「組織された統一体という芸術作品における自己産出への意思、真実の仮象の再生への意思である。虚構の反世界は、絶対的な流転との矛盾が洞察されれば、真実かつ必然的な仮象として、つまり、芸術作品としてとらえられる現実的な世界である」*33。
 「真理はある特定の生物がそれなしには生きられない一種の誤謬である。最終的に決定するのは、生にとっての価値である」(Ⅶ3,34〔253〕)。ピヒトによればここでは真実の誤謬と非真実の誤謬との区別がなされなければならない。存在=テロスが仮象であることが明らかならば、流転の矛盾と、流転と仮象との間の矛盾という二重の矛盾が現れる。すべての存在するといわれるものはこの認識によって二重に分裂する。<真実の誤謬>が、生を肯定し最高に高める仮象である。これに対して<非真実の誤謬>は、従来の形而上学が恣意的に価値を設定してきたように、生にとっての価値が最終的決定を下す真理という基準に従わず、生を否定する誤謬である。「真理そのものは、それ自身の本質によって、それ自身の否定、すなわち誤謬である。存在は、それ自身の本質によって、それ自身の否定、すなわち仮象である」*35。つまり真理は矛盾性そのものである。

   ニーチェにおける真理の構造

 上のようなピヒトの解釈から考えるならば、仮象の産出が“生の条件”となる。生にとって必要な仮象も誤謬と考えるのがニヒリズムの根本的誤謬である。カントにおける純粋理性の自己批判では、批判の審級として理性をはかる“生の条件”が考えられていなかった。形而上学の真理においては、真実の仮象としてでなく、“生の条件”がいわゆる誤謬すなわち生の否定という形で創造されるのである。「絶対的な流転と相容れない虚構の反世界が生じて初めて、この基礎の上に、何ものかが認識され得た」(Ⅴ2,11〔162〕)。認識の枠組み(カントでいうならカテゴリー)として超越論的に企投された真実の仮象によって初めて認識が成り立つ。<真理>は、一義的に定義されうるものではない。真理はそれ自体が現象するのではなく、創造の可能性としてある。「力への意思が、作成された世界―虚構の反世界―を企投することによってはじめて、この世界に現れる全てのものが認識される可能性が作り出されるのである」*36。ニーチェにおいて真理は真実の仮象を創造ずる創造の真理へと変貌を遂げる。だから「世界の存在は美的現象としてのみ正当である」(Ⅲ1,11)ということになる。真理は常に創造され、乗り越えられるべきものである。生を肯定するディオニュソス的な真理への意志が真実の仮象を産出する、それがニーチェの言う意味での芸術である。
 ニーチェの真理概念では、真理は意志による創造にゆだねられているという意味において、われわれの責任において課されている。ニーチェでは、真理が新たに創造され続けることができる可能性が「将来」と呼ばれる。創造される真理の可能性の条件自体が創造され続けなければならない。創造され続ける真理は、未来から過去を見れば仮象であらざるを得ないような真理である。過去が必然的に仮象となっていくような未来への思惟の企投が真理を規定する。自然科学も歴史のなかの思惟であり、その進展は世界が虚構の反世界であることを次々と暴露していく。そのなかで、人間の生は何らかの認識の枠組みとしての<真実の仮象>を企投してきた。しかしそれは人間が自己を乗り越えるために必要としてきた“梯子”なのである。歴史や世界の本質は常に虚偽であるにもかかわらず、時代性のただ中にある人間にとってはそれは真である。それが真であるのは、時代の時代性への埋没を不断に超出する真理への意志によって企投された<真実の仮象>である限りにおいてである。



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