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 ニーチェは次のようなアフォリズムを書いている。
「その際、妄想は彼の永続的な同伴者である。彼は、観客として、聴衆として、生に他ならぬ大きな演劇や演奏の前に自分が立たされているように思っている。彼は自分の本性を観想者と呼んで、自分自身も本物の生の詩人であり続けているということ、―彼自身はもちろん、このドラマの役者、いわゆる行為者とは非常に違うが、舞台の前にいる見物人とも祭りの客ともさらに違っている。確かに創造力や自分の作品への追想は、詩人である彼のものである。そして同時に、また何よりも、行為者に創造力が欠けていることは、見ただけで明らかであり世間一般の通念でもある。思考によって感ずるものである我々は、評価や色彩、重さ、遠近法、位階、肯定と否定が永遠に変化する世界全体という、まだ存在していない何ものかを現実に、しかも絶えず作り出すものである。我々によって作り上げられる詩は、絶えずいわゆる実践的な人(前の言い方では、我々の役者)」によって、覚え込まれ、練習して習得されて、血肉となり、現実となり、日常生活に移される。現在の世界でしか価値を持たないものは、本性的に―自然は常に無価値である―それ自体では価値を持たない。人間がそれに価値を与え、贈呈したのである。我々こそは与えるもの、贈与者である!われわれが最初に、人間に関わりのある世界を創造したのだ!―ところが、まさにこの認識がわれわれに欠けているのだ。例えわれわれがそれを一瞬目にしても、われわれはそれを次の瞬間には忘れている。われわれは己の最高の力を知らず、観想者だと自分をいささか過小評価しているのだ。―われわれは自分たちがありうるより以上に、高慢でも幸福でもない」(Ⅴ2,220)。
 ニーチェの課題はニヒリズムの克服である。ニーチェの洞察は、従来の真理を欲するものは、真理なしでは生きていけないがゆえに、真理を信じざるを得ないということであった。ニーチェの洞察によれば、デカルト的な誠実な真理への意志は、欺かれては生きてはいけないことの表明であり、従って唯一の真理を信じずにはいられない。だから、神は誠実に違いないという信仰も存在した。従って、従来の真理においては、「われわれが最初に、人間に関わりのある世界を創造した」という認識がわれわれに欠けていたことがニーチェには明白である。われわれは真理を新たに創造しなければならない。創造する力が、「己の最高の力」といわれているものである。それは、どうしても創造してしまう力、衝動力、あり得る限りの最高の力、まさにドゥルーズのいう「己のなしうる限りまでなそうとする能動的な力」*51である。意志は、常に力を出し切り続けてしまうこと、力を出し切ろうとする意志である。それは自由を<自己贈与>せざるを得ない抗いがたい力である。
 今までの真理は人間が生きていくために作り出した嘘であり、それへと逃避してきた困窮の真理であったとニーチェは従来のように「考えた」のではない。ニーチェは「生にとっての価値」を破壊する。それはニーチェにとって誠実な生を可能にする破壊である。そうなさしめる力、そして力への意志の本質は一体何か。ピヒトによれば、力が未だ知られない力としてあり、しかし不断に力の結果として真理が現れていくということから、それは<深部の理念>として考えられている*52。企投は、結果を考えて自己保存し、安定性へと逃走するのではなく、起こってくることに対しては責任を持とうとする勇気からなされる。企投する者に企投をなさしめる力は、危険と冒険を恐れず、傷つくことを恐れず運命を受け入れる力、創造してしまう力である。そのような力が、過去に意味を置き入れようとする欲求から自己保身的なエゴイズムを排除させ、浪費される己の生を省みず将来を企投し続けてしまう創造的な生を可能にする。肯定する力は誠実性であり、ディオニュソス的な意欲である。<ディオニュソス的なもの>とは、恣意的な意欲の自己正当化的発露ではない意味で「計算する」(WM635,P.277)意志である。力への意志とは、創造への責任を「それにも関わらず」担おうとするパトスである。

結論

 いずれにせよ、ニーチェにおける真理の概念とは、形而上学的に、先行する何ものかを一義的に決定される、あるいは決定する、ということから構成されているのではない。というよりむしろ、構成するはたらきそのものとしてある<力>によって生成する、<ディオニュソス的なもの>、真理への衝動それ自体として諸々のものを一定の遠近法によって構成するのである。時間の外にある永遠不変の自己同一的な存在者が一切存在しえない地平において、真理への意志は構築する。何を構築するのであろうか。何を、とはもはや問うことはできない。構築された何かが残るのであろうか。何も残らない。「生の表現」は透明化していく生のあり方である。それは結果として構築された何かが残ることを断念し期待しない生のあり方そのものである。残らず与え尽くす生、表現し尽くす生、企投的・能動的な生のありよう、それ自体である。<それ>として指されるものがもはやあり得るのかは定かではない。真理はまさに我々の思惟の実践に課されているものとして未知なるものである。存在は透明化する生に対してはまずおのづから価値を置き入れてそれを対象化しようとするであろう。なぜならドゥルーズのいうように、たいていは「反動的」な諸力が勝利を収めるであろうからだ。無垢を欲する限り、生は、能動的で透明化した生に排除され破壊される。というよりも、生それ自体が構築する、排除する、破壊する<ディオニュソス的なもの>である。従って生成の無垢を経験したツァラトゥストラは、下降する運命にあったことをニーチェは知っていた。生そのものは、排除的破壊的にはたらいてしまうと、次は別のものによって排除され破壊される。<力>が決定を覆すのである。その無限なる生の透明化の反復の過程、膨張し続ける<力>が、ある一点において現れる形が、真理である。力のカオスのなかで力の諸関係が成立し、別のものが生成する。しかし、別のものも、<力>のなかにあるものとしての一である。
「<ディオニュソス的>という言葉で表現されているのは、統一への衝動であり、個人、日常、社会、実存を超え出て、消滅の深淵を超え出てつかみかかるはたらき、すなわち、より暗い、より豊満な、より不動的な諸状態のうちへと激情的に痛ましくあふれ出るはたらきであり、あらゆる転変のうちにあって変わることなく等しきもの、等しい権力を持つもの、等しい浄福を恵まれているものとしての、生の総体的性格へと驚喜して然りと断言することであり、生の最も恐るべき最も疑わしい諸固有性をも認可し神聖視するところの、大いなる汎神論的共感と共苦であり、生産への、豊饒への、回帰への永遠の意志であり、創造のはたらきと絶滅のはたらきの必然性の一体感である」(WM1050,P439)。


*1ゲオルク・ピヒト「ニーチェ」、青木隆嘉訳、法政大学出版局、1991年、P.159
*2前掲書、P.397
*3前掲書、P.397
*4前掲書、P.397
*5カール・レーヴィット「ニーチェの哲学」柴田治三郎訳、岩波書店、1960年、P.258
*6前掲書、P.64
*7ゲオルク・ピヒト、前掲書、P.42
*8マルティン・ハイデッガー、「ハイデッガー全集」第五巻「仙径」、P.235,239
*9ゲオルク・ピヒト、前掲書、P.181
*10カール・レーヴィット、前掲書、P.18
*11前掲書、P.23
*12ゲオルク・ピヒト、前掲書、P.218
*13ジル・ドゥルーズ、「ニーチェと哲学」、足立和浩訳、国文社、1982年、P.70
*14前掲書、P.20
*15ホルガー・シュミット、「ニーチェ 悲劇的認識の思想」国文社、1996年、P.85
*16ジル・ドゥルーズ、前掲書、P.28
*17カール・レーヴィット、前掲書、P.96
*18ゲオルク・ピヒト、前掲書、P.198
*19前掲書、P.242
*20カール・レーヴィット、前掲書、P.258
*21前掲書、P.262
*22前掲書、P.263
*23前掲書、P.264
*24前掲書、P.5
*25ゲオルク・ピヒト、前掲書、P.399
*26前掲書、P.15
*27前掲書、P.53
*28前掲書、P.59
*29ジル・ドゥルーズ、前掲書、P.78
*30前掲書、P.128
*31ゲオルク・ピヒト、前掲書、P.287
*31前掲書、P.287
*32前掲書、P.289
*33前掲書、P.309
*35前掲書、P.310
*36前掲書、P.298
*37ジル・ドゥルーズ、前掲書、P.128
*38前掲書、P.121
*39前掲書、P.93
*40前掲書、P.129
*41ホルガー・シュミット、前掲書、P.85
*42ジル・ドゥルーズ、前掲書、P.161
*43前掲書、P.136
*44前掲書、P.135
*45前掲書、P.134
*46前掲書、P.133
*47前掲書、P.139
*48前掲書、P.140
*49前掲書、P.152
*50前掲書、P.153
*51前掲書、P.95
*52ゲオルク・ピヒト、前掲書、P.92
Note


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