「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2011.01.29
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カテゴリ: クロアチア
シベニクは、クロアチアのとっても古い街で、ダルマチア地方の中央に位置しています。住民のほとんどがクロアチア人であります。そんなクロアチア人の多く住むシベニクの歴史について・・・少しだけ♪そして素晴らしい「聖ヤコブ大聖堂は、【世界遺産】に登録されています。

『クロアチア旅日記』・・・シベニクの歴史


赤い屋根 白い壁 緑の窓 シベニクの街並


           シベニクの港へ向けて大砲が向けられています
CIMG2772.jpg
           シベニクを守る大砲何故に必要だったのでしょうか?







           シベニクが初めて



           今の名前で登場するのは



           1066年



           クロアチア王=ペトロ・ウラジミール4世の時代



           他のダルマチアの町と違い



           シベニクのイリリア人と



           ギリシャ人と



           古代ローマ人が建設した街



           アドリア海東岸の 



クロアチアの都市では最古の町







           それ以来



           クロアチア人が 実際に定住する前の長い間



           聖アンナの城の洞穴は



           居住に利用されてきたと証明されている。



他のダルマチアの都市のように「シベニク」は







           15世紀の終わりには



           オスマン帝国がシベニクを脅かしたが



           征服するには至らなかった。



           16世紀には 聖ニコラスの要塞が建築され



           17世紀までには、聖ヨハネ(Tanaja)と



           スビチェビッチ(Subicevac(Barone))の要塞によって



           シベニクの要塞化が再び促進された



           1797年のヴェネツィア共和国の滅亡によって



           シベニクは ハプスブルク帝国の支配下に



           第一次世界大戦後 ユーゴスラビア王国の一部となり



           第二次世界大戦の間



           イタリアファシスト政権とナチスに占領され



           戦後は 1990年のクロアチア共和国の独立まで



           ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 の一部であった。



           1991年~1995年 クロアチア紛争



           クロアチアのユーゴスラビアからの分離独立および



クロアチア人とセルビア人の民族対立をめぐる紛争



           街は、破壊されたが、市民の努力により徐々に復興へと




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最終更新日  2011.01.29 14:20:27
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