マレーシアで悠悠自適に暮らす酔っ払いマダムの日々

マレーシアで悠悠自適に暮らす酔っ払いマダムの日々

15年間チャレンジ日記その1


1991年9月、ここクアラルンプールに飛んで、早12年目。
友達も親戚もなく、スーツケースに必要最低限の身の回りのものと、30万円だけ持って飛んで来たんだった。
「この30万円がなくなるまで、ここに生活する基盤が作れなかったら、マレーシアとは縁がなかったと思って潔く帰ろう」これが自分への誓いの言葉だった。
この12年、運良く30万円は持ちこたえた。笑ったし泣いたし怒ったし、騙され、助けられ、飲んだし食べた。子供も産んだし、ちょっとだけシミやシワも増えた気もするが、自分ではマチュワになったと思っている。
私は今、3年前にオープンした、クアラルンプール初のカラオケのない(マレーシアの夜といえば、それまではカラオケ抜きには語れなかった。)正統派バーのオーナーママである。毎日好きなお客様達と好きな赤ワインを飲み、楽しく語らい、夜を過ごす。(表向き、ね。実は色々あるんだけれど。)
12年前からずっと思い描いていた光景が、今ここにある。
勿論ここまで安穏と来た訳ではない。マリアナ海溝から這い上がり、アンデス山脈を越え、あちこちすりむき、見せられないが痣だらけである。
長かったのやら短かったのやら、思い出して辿ってみよう。

小学生の頃、海外出張が多かった父がある日突然、弟と私を、近所のアメリカ人牧師夫妻が経営している英会話塾へ通わせ始めた。
理由は、父が出張先で全く英語が話せなく苦労した為、せめて子供達には英語の知識を、と言うことだった。何事にも極端だった彼は、その内「せっかく小さい頃から英語を習っているのだから、将来は海外で生きていく人間になれ」と、二言目にはそう言うようになった。
これはまさしく調教であり洗脳であったように思う。
ところが、子供の柔らかな脳細胞は、この洗脳を受け入れてしまったのだった。
私は随分と小さな頃から、漠然と「海外で生きていく人」になると思っていた。これはまさしく、星飛馬(ご存知?)が巨人の星になるために課せられた、強制ギブス状態。
ところがこの洗脳は、あながち間違った方向でもなかったらしい。
だいたい私には協調性というものがない。団体行動も苦手。自分の判断で納得がいかない時には反論し、率直にものを言い、私を疎ましがる先生も多かったと記憶している。
“何故?どうして皆同じでなくてはいけないの?”その頃から、自分が日本の風土とは波長が合って居ないことを敏感に感じ取っていたのだ。
日本人として日本人の家庭に生れ、でも、日本人にはどうにも馴染めない自分。
高校、短大と進み、私は早くこの管理社会から抜け出すことばかり考えるようになった。
しかし!そんなにただ漠然と海外生活だけ目指してきた私が、短大卒業を控えた就職活動の時期になって、はて?海外とはどのように行くものなのか?と立ち止まってしまったのだ。(当たり前といっては当たり前だが・・)
どこの求人広告を見ても“海外勤務”などと言う文字はない。
とりあえずどこか海外支店を持つ企業に就職したとしても、そこから海外に駐在させてもらえる保証はない。人数にだって限りはあるのだろうし、ましてや女性がばりばり海外進出できた時代でもない。だいたいそんなに待てない。
えいや!じゃあ自分で行くまでだ、と、決心したはいいものの、19才の私にいかほどの資金があると言うのだ。
仕方ない、バイトでもしてお金貯めよか。と言う訳で、短大卒業後、無事就職していった友人達をよそに、知人のコネで1年契約のテレビ局のバイトについた。
テレビ局と言っても、技術局技術部技術管理課、というとてもジミーな部署だ。
これが又、安い給料だった。正社員の半分と言ったところだろうか。
はてはて、この1年間で資金は調達できるのだろうか。


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