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JAPAN-STYLE 庵句瑠心理学の観点から音楽を見てみよう。心理学者A.Hマズローは、人間の欲求を5つに分類している。1生理的欲求2安全の欲求3所属と愛の欲求4承認の欲求5自己実現の欲求5つ。1は、性欲、食欲、睡眠欲など、本能と呼ばれる欲求。全ての生命が生きる為に持つ欲求。2は、自分の生命が他から脅かされない状態にありたいと願う欲求。この段階では、『個』であり続ける。3は、社会の一員でありたい、そして、他とのコミュニケーション、愛する事を求める、そういった欲求。4は、他者から自分の存在、力を認められたい。自尊心の満足の為、地位や名誉を手に入れたい、表彰されたい、そういった事を求める欲求。5は、自分が人の為にありたい、という欲求。人の為に自分の力を使い、人に喜ばれる事で、実現する欲求。ご覧の通りに、1から5に進んでいくにつれ、高次元の欲求になって行くのが分かる。マズローの説では、こういった欲求は、1が満たされれば、2へ、2から3へと、前段階の欲求が実現して初めて、次の段階の欲求が生まれるという事が言われている。音楽や、その他の芸術が表現しているものは、その他の伝達手段と大きく違っている。その違いとは、つまり、こういった言葉にならない想い、欲求を音に乗せ、爆発させる事で音を介してエネルギーを伝達するものである。しかし、音での表現とは、どの段階の欲求から発せられるものだろうか。始めに見てみたいのは、3の欲求。音楽の第一歩は、やはり、他とのコミュニケーションから始まっている。元々楽器の起源は通信手段に由来するものだが、現在においても、伝わっている音楽を聴き、感銘を受け、楽器に触れる事が多い。音の世界で次にたどり着くのは、4他の人に聞いて欲しい、合奏がしたい。うまくなっていろんなステージに立ちたい。そんな想いが生まれてくるのではないか。それから5の人を楽しませたいという欲求。自分の技術が他人から認められるほどのものになると、人を楽しませたい。自分の音でなにか、出来ないか。そういった思考が生まれるのだ。マズローは、1から5への欲求のスライドが行われるといっているが、音の世界では、ここで、逆行を起こす。5に即した音を作っていると、ふと、生命のエネルギーに立ち戻る。2つまり、命の伝達、命とは何か。世界はどう動くのか。自分の持つ巨大な命のエネルギーをどう伝えればいいのか。そういった壁が立ちはだかる。最後に行き着くのが1の本能的な欲求。これは、最高の音を発する段階で、最も重要なものであると言える。最高の演奏をしている時。演奏者の意識は『無』の状態である。そこで体を動かしているのは、理性ではなく、本能。そこには、楽しみたい伝えたいという想いを越えて、『ただ』音を奏でている状態。究極の音楽である。この逆行は、どういうことか。心の中で、ありえない変化が起こっているのである。『天才』と呼ばれるもの達は、初めから本能での演奏が可能なものもいる。これは、人間がいかに、理性の鎧を脱ぎ捨てる事が難しいかをあらわしている。人間が人間を、生命を芸術で表現している限り、この5大欲求を全て表現し得る力を持つことは、全ての音楽家の夢である。私は全ての欲求は性欲に根ざしていると考えている。命は欲求であり、欲求は性欲に根ざしている。音楽が命そのものなら、音楽は性欲であり、音で伝える事は、恋であり、音楽を続ける事は、愛であると言える。
2008年08月29日
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結局、私のいう、『伝える』は生命の伝承、と言うことになります。前にも、書いてみました。↓http://blogs.yahoo.co.jp/humanitysingo1978/10883125.htmlそして、人間の行動、欲求の根源は、全て性欲(種の保存のための欲)であると、考えます。食欲、睡眠欲などの本能的欲求ですら、性欲のためにある、と言っても過言ではないしょう。見たい、聞きたい、そういった欲求や、社会的欲求も、つまりは、性欲が昇華された物であると考えています。道具や科学にしても、生きて種を残しやすくする、と言う点では、これに当てはまると思います。音楽においても演奏する側、受け取る側も、ある種の興奮状態、つまりは、真の意味でのエロチズムを追い求めている、のだと考えています。。。相手のいない音楽。。。私は一時期、山の木を相手に伝えようと努力してましたが、伝えようとせずにただ叩き続ける場合にも、深く深く探っていけば、内から沸いてくる、熱い熱い感情、そこに行き着くのではないでしょうか。それこそが、命の力。周りに誰もいなくても、本能で、その興奮状態を求めている、そんな自分が見えてくるように思います。こういった意味での文化を、私たちの周りの物に例えると、『燃える様な恋』が、適当でしょうか。激しい恋は、理性を超え、ただただ、好き。なぜ好きか分からないのに、自分でも止められず、走ります。なぜ、演奏したいのか、なぜ、聴きたいのか、なぜ、伝えたいのか。分からないのに、止められないんです。まさに究極の恋、まさに究極のエロチズムだと思いませんか???伝える側も、伝えられる側も、伝えられない物も、本能で、同じ思いを持っています。『意思を、命を、自分を』伝えたい。それが文化の根源であると、私は考えています。玩具太鼓 平胴白 45号
2008年06月15日
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和太鼓、音楽を、五段階に分け、どのように進み、どこに行き着くのか、といった話です。難しそうですね。人によって、かなり違ってくるところですよね。私が考えますのは、1は、伝達方法に、音を使うということ。2は、叩く技術を追求するということ。3は、その地域、国のおんがくの特性で、奏法や音質が 非常に異なってくること。4は、耳や目で見える以外のもの、間のとり方、グルーブ感など、 呼ばれているもの。その音楽や奏者によって全くといっていい ほど、違ってきますね。真の表現 の域ですね。これが、4に来てしまいます。これも私の考え方の特徴ですかね。ここで、様々な、文化、音楽で、共通するところたくさんもでてきますが、各地域の、文化、音楽の発生のエネルギー源、発生理由が異なるということから、人としての文化活動は、この段階では、異なったものと考えます。さて、5、なんですが、私は、全ての文化は、自分の魂と、外の世界と、融合 を図る、ということに根 ざしているものだと考えています。 他者との疎通、他者との解合、もちろん他者とは、人間の事で なく文字通り全て、というこ とですが。 “伝える”という言葉に、心を伝える、命を伝える、 そして、自然と一体になる、という意味を持たせた時の “伝える” 文化をたどっていくと、子を産み、死んでその無限の連鎖に 行き着くと考えています。全ての表現は、そこに行き着くという意味での、5番目になり ます。つまり、自分の形、魂の形を破り、空間に自分を満たし、他の命(自然)との、同一化を目指しているのが、文化の真の姿ではと思ってます。文化は、人だけのものではない、という理想論かもしれません。でもね。人がそこまでたどり着けたなら。本当に、人は、真の平和と、自由をつかめるんじゃないかと、思うんですよ。私らしい、非現実的な考え方ですね。もしも、死ぬ瞬間まで、太鼓を叩いていれたなら、その力は、無限のものになるのかも・・・。と思っていますが、そこまでいけるのか、いけないのか。太鼓人生は面白いものです。あくまで、私の意見ですから、これが正しい、という事はないです。ジャンベ [太鼓] H.50cm ドットペイント ブラウン
2008年06月12日
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みなさん、こんばんは!!ストーリーテーラーのつーぱぱです。。。。今から8年ほど前、地元の太鼓屋さんに、オーダーメイドで、太鼓を作ってもらい、ルンルンと練習していた私は、学生なのに、勉強もせず(コラ。)アルバイト以外は、山に登って太鼓を叩いておりました。。。。不知火の古屋敷という地区です。この地区から、竜燈太鼓は、大太鼓をお借りして演奏しています。過去記事は、こちら。http://blogs.yahoo.co.jp/humanitysingo1978/7825559.htmlみてね。私のチームの、リーダー青木眞一さんの、家があるので、毎日、上の山で練習しては、ご飯を頂いていました(コラコラ。)不知火の町を一望できる場所です。当然、下の町にも、聞こえるので、『変な宗教が来てるぞ!!』と、町の人にささやかれるほどでした。(オイオイ。)で、ここからが不思議なんです。確かに、毎日練習に来て、太鼓を叩いているんですが、それは、昼間のお話。ちゃんと家に帰って寝てました。ある日の事、『つーぱぱ、今日の朝とか、こっちに来てないよな。』ある日、山に行くと、リーダーから言われました。『いえ、今来たんで、朝からは来てないですよ。』と私。『新聞配達のおじさんがね、朝の4時ごろ、つーぱぱがいつも太鼓を叩いている所を通りがかったら、太鼓を叩き寄るやつがおったらしい。街頭もないくらいところで、たたいとったけん、車でひきそうになって、怒ったてたい。』と、リーダー。おじさんの話では、怒ったら、その少年は『すみませんでした。』と謝ったそうです。そして、太鼓といえば、リーダーで家も近くということで、配達ついでに言ってこられた、との事。私は、『そんなに早くは、起きてもいないですよ。こっちにきたらここに顔を出すし。。。』と言いました。私は、自然を感じるため、リーダーの家に、車を置かせてもらい、そこから太鼓を叩きながら、歩いて山を登っていました。『そうよね。じゃ、誰???』と、リーダー。不知火で、太鼓を叩くといえば、限られています。ましてや、私の練習場所に、練習に来るなんて、同じチームの人でもやりません。外部の人が、わざわざここに、しかも早朝に、太鼓を叩きに来ることもありえません。じゃ、だれ???俺???俺じゃないよ====!!!!!!!その少年は、それ以来現れることはなく、真相は、闇の中・・・・・。あんまり、一心不乱に太鼓を叩きすぎたから、私の怨念が、その場所にでた????私の太鼓を聴いた、森の精が『私も叩いてみたいわー。』と言って、叩きに出てきた????全く知らない人が、早朝太鼓を叩いていた????真相は闇の中・・・・・・。当時、私は、人だけでなく、自然(木や草)に、自分の思いを伝えようと、必死に叩いてました。(いまでもできませんがやりたいですね。)その想いが通じた結果と思いたいですね。真相は闇の中・・・・・・。でも、私は知りたい。『あなた、誰???』今日の太鼓こぼれ話、いかがでしたか???これ、実話なんですが、おじさんと、リーダーと奥さん、それに私。もやもやが取れずにいるんです。心当たりのある方は、申し出てください!!!(いないよねー。)さて、皆さん、奇妙な話ですが、ご意見、ご感想、お待ちしております。(実話ですからねーーー!!)
2008年06月06日
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今日の練習曲は、福田隆作曲『神秘』私作曲『狼』2曲でした!!!『神秘』は、ティンパニ奏者が作った曲のため、ものすごく、複雑です。三連符の中の、八分音符単位で、各パートの掛け合いが入り、完璧に流れて初めて、聴いてる方が、『あ、あってるんだ。』と思うくらいです。高校生、覚えるだけで、大変。少しずつ、やっていこうね。張り詰めた『間』。題名です。『狼』という曲を、アレンジして、一人ひとりの、ソロを入れるという、子供のコンクールでは、普通やらないことに、挑戦しています。ソロの前に、違う太鼓を叩くために、移動します。一人ひとり、ばちで、気を切るように、ばちをあげます。それから移動、構え、ソロ。その間は、わずかな伴奏の中、ソロ奏者は、歩みます。太鼓は、叩かないんです。音はありません。そこにあるのは、『間』。お客さんに見せるもの、太鼓に見せるものは『間』なんです。つまり、音が『無い』ではなく、間が『在る』ということ。日本文化の真髄ではないかと、思っています。空間的、時間的な無を見ること・・・。見せること・・・・。それが、本当の意味で、出来るようになれば、たった一つの音で、全てを伝えられる。。。。それが、夢、理想です。この子たちが、それを、見ようと、感じようと、表現しようと、してくれることを、心から祈っています。表現する言葉が、存在しないので、言葉では、伝えられないですから・・・・。エーテル理論というのがあります。宇宙は真空で、何も『無い』と考えると、絶対、質量が足りないのです。そこは、エーテルという物質で満たされている、という説です。私たちの周りも、エーテルで満たされている・・・。というのです。一説ですから、間違いかも知れません。しかし、日本の文化、全てにおいて、目に映る、耳に聞こえるもの以外に、その空間に満ち満ちている、はりつめた、強大な『エネルギー』を、『間』と呼んだに違いないと思います。これが、表現できるか、見えるか、感じれるか。その資格を、得るために、精進したい。。。。。太鼓の話が宇宙まで、飛びました。私にとって大きな一歩です。お付き合いありがとう!! また明日も更新するよ!!!コメントよろしくね。 ワンダーみなくる【楽天市場店】
2008年06月06日
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子供達の練習ですが、基礎練習の後、好きなリズムを叩け!!をやってみました。八分の地の音で、何でもいいから、好きな音を出して!!時計回りね!!はいっ!!好きに叩く、とても難しいものなんです。。人に教えてもらった方が楽ですし、何より、自分の叩きたいもの、見つけるのは、難しい・・・・。ほとんどの子は、やはり戸惑ったり、持ち曲のフレーズを、右へ習えで、叩いてしまします。そのフレーズも、自分が本当に好きで叩いてれば良いのですが・・・・。例え、一発だけでもいいんです、叩きたい、と思って叩いた音なら。我々でも、考える時がありますね。自分が何をしたいのか。。。。自分がどうなりたいのか。。。。自分が何のために生まれてきたのか。。。。。基礎練習での、小さな出来事ですけど、つまりはこういうことだと思います。子供達も、今は自分の音がなくてもいいんです。ただ、習い事で、終わらせるのではなく、太鼓と会話して、自分を、世界を知るために、探し続けて欲しいですね。自分の音。 キティ十二支蓄光太鼓鈴根付携帯ストラップ(丑)【開催962p0605】
2008年06月05日
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こんにちは。今日は作曲について書いてみます。まず、私は、全ての文化の真髄は『伝えること』にあると考えています。言葉、文字、絵画、音楽、踊り・・・。数え切れないほどありますが、全ては相手に伝えたい、と言う想いから生まれています。芸術の分野は、言葉や文字で表せないもの、目に見えないもの、耳に聞こえないものを相手に伝えることに長けているように思います。音楽の中では、演奏と作曲などに分かれます。しかし、これだけ分かれても大事なことは、『伝えること』に変わりありません。作曲=伝えることなんですね。私はプロではないので、書きたいときにしか書きません(書けません)半年に一回くらいの周期で書きたい衝動に駆られるのですが、曲が出来るときは、頭の中でたくさんの点点が線で、つながっていく感じがします。全然うまくいえません(んーーー。)なので、出来るときは一気に最後まで出来ます。それを書き留めるのが大変!!私は、五線譜を使って書くのですが、4パート五分の曲で、10ページ超えます。ものすごく暇なときしか書けないんです。大概、忘れてしまします。(もったいない・・)それでも、1年に一曲は頑張って書いてます。アドリブ演奏から生まれたり、このテーマについて書きたい!!と思ったりしますが、結局、『伝えること』なんですよね。私の場合は、伝えたいことは、簡単に言うと、命のつながりや生きること、です。でも、この言葉ではまったく足りません。難しくはないんですよ、好きなこと書けばいいんですから。私の曲のいい悪いは別にして、書き上げたときの爽快感は、お客さんがものすごく喜んでくれたステージのものに似ています!!!作曲って楽しいですよ!!!!!!和楽器ショップ ど~ん 楽天市場店
2008年06月04日
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