うそ 0
ものがたり 0
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まだ咲いている木立ベゴニアジャフメイト夏季号にエッセイストの松浦弥太郎さんが「しあわせって何だろう」という文章を寄せていた。朝ベッドから起き上がる時に丁寧に身体のコンディションを確かめる。窓から外を見上げて今日の天気を確かめて晴れなら晴れで、雨なら雨で喜ぶ。コーヒーマシンに電源をいれて朝食の支度をする。グレープフルーツジュースとコーヒー、クロワッサンを一つ食べる。朝食後はマラソンに出かける。朝日が昇り、外は明るくなりつつあり、丹念にストレッチしてからいつものコースをゆっくりと一時間かけて走る。呼吸を意識して決して無理をせず、心地よさを感じる速度で歩くように走る。走りながら今日のスケジュールを頭の中で組み立てる。走り終わったら、ストレッチをして今日1日の始まりの挨拶と感謝をする。シャワーを浴び、髪と体を洗い、からっと乾いたバスタオルで体を拭いて身支度をする。ポッドキャストのニュース(スマホにソフトを入れれば好きな時にスマホでニュースが聴ける)を聴きながら台所と部屋の掃除をしたら、30分ほどソファに座って何もせず、何も考えずに、ぼんやり過ごし、頭と心と体の力を抜く。これが僕の毎日の習慣で、一つ一つ全てに喜びがあり、一つ一つ全てが自分にとっての大切な仕事である。毎日の習慣は毎日の幸せと言い換えてもいい。しあわせとは他人や社会から与えられるものでなく、自分自身で生み出し、日々習慣として育てるものであり、その幸せの先に湧いた感謝を行動や営みで精一杯表すのが僕の生き方である。以上が松浦さんのエッセイの大筋を纏めたものである。毎日会社に行ったり、学校に行ったりしている人からみたら、自分とは少し異なるように思えるかもしれないが、幸せに生きるための基本が詰まっているように思った。晴れでも雨でも喜ぶ。マラソンの所に仕事や学校を当てはめてもいいと思う。一般にマラソンや仕事や学校は辛い。それでも無理しないで伸び伸びとする。これが大切なことだと思う。その後30分ほど椅子に腰かけて何も考えずぼんやり過ごし、頭と心と体の力を抜く。この忙しい社会に暮らしていてそんな時間はないと思う人が多いと思う。私もぼんやり座っていたら、さぼった、怠けた、と自責の念に駆られると思う。今までもそんな時があったら先が短い人間なのに時間の無駄使いをしたと自己嫌悪に陥っていた。このエッセイを読み、その30分が大事なのかと気づかされ、一条の光明を見たような気がした。幸せとは自分自身で習慣化するものであり、それを否定したり、恥じたり、もっと早くしたり、上手にしなくてはいけないなどと考えないで、あるがままに繰り返していくことが幸せなのだなと思った。私はいつもこせこせしながら生きてきた。30分間何もしないでソファに座っているなんて自分自身を許せず幸福の反対の気持ちだったが、それを幸せと考える人がいたことを知り、自分ももっと広い心になれば幸せになれるのではないかと思えた。自分を幸せと思えれば感謝の心が湧いてくる。その心が湧いてくればそれにどうしたら報いられるかと考える。いずれにしても各人が自分を幸せと考えられる行動習慣を作っていくことが最も大切なことなのだなと思われた。
2024.07.30
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ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方 (ブルーバックス) [ 能勢 博 ]価格:990円(税込、送料無料) (2024/4/13時点)楽天で購入能瀬 博さんの書かれた「ウオーキングの科学」を読んでいる。誰もがウオーキングは健康によいことは知っているが、どれくらいの速度で、どれくらいの頻度で、どのくらいの時間行えば、どれだけの効果があるかということを明確に教えてくれる書物は少なかった。本書では著者らが10年間に渡って7,000人以上について実証実験した結果なのでかなり説得力があった。彼らが提供する歩き方は「インターバル速歩」でややきついと感じられる早歩きを3分、ゆっくり歩きを3分交互に繰り返す歩行法である。それを1日5回、(3+3=6分)x5=30分、を週4日以上繰り返すと5か月間で体力が20%以上向上して10歳以上若返り、生活習慣病の症状が20%改善し、うつ症状や関節痛の症状も50%以上改善すると述べている。認知症も改善するとのことだ。このインターバル速歩をした人と毎日1万歩歩いた人と何もしない人の3つのグループに分けた検証では、明らかな効果が認められたのはインターバル速歩のグループだけで1万歩のグループは何もしないグループと殆ど同じだったとのことである。インターバル速歩のミソは早歩きが入っておりこれが効果をあげており、漫然と1万歩歩いたのでは効果は期待できないとのことだった。その理由や実験データなどを詳しく解説してあるので、若返りたい人や心身を健康にしたい方にはお勧めの本である。
2024.04.13
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ヒヤシンスが芽を出し咲き始めた今もロシアとウクライナの戦争、ハマスとイスラエルとの戦争が続いており、目を覆うばかりの犠牲者が出ている。人が人を殺しあう無残な戦争はどれも悪であり、良い戦争はありえない。このような時に化学者で平和運動家のライナス・ポーリング氏と宗教家で平和運動家の池田大作氏の対談集「生命の世紀への探求」という本を電子書籍で読んだ。紙書籍で読むより読みやすいのでかなり早く読み終えた。ポーリング氏も池田氏も支配者層が自国の周りに壁を作り他国は敵として自国内に防衛庁とか陸軍省、航空省等を設置しているが、平和省を設置すべきだと述べていた。平和のためには何をしたらよいかを常に考える省庁があれば、簡単に戦争には突入しないと思われる。自国、他国と考えるのではなく、一人一人が戦争のない世の中にするにはどうしたらよいか、人類が幸せになるにはどうしたらよいか考えるべきであり、それは政治家に任しておいても達成できないかもしれない。民衆が平和は何よりも大切であるということを理解し、行動することが大切であると述べていた。宗教の名のもとに異教徒に対して残虐な殺人がなされてきた歴史がある。宗教は人々の幸せと平和を目指すものでない限り、百害あって一利なしと述べていた。今地球上には何百万という宗教がある。入信の動機は願いをかなえてくれるからが最も多いが、世襲で親から子に受け継がれている宗教もある。人々は自分が信じている宗教は絶対正しいと思っているが、それが平和を希求するものであり、人々の幸せにつながるものであるかを確認する必要がある。もしそうでないとしたら100害あって一つも利益がないことなので放棄した方がよいと思われる。日本は戦争放棄を憲法に定めており、素晴らしい国だが実際には万一の場合に備えて自衛隊という軍隊を保持している。災害救援隊の部分だけ残して軍隊をなくせば防衛費の大半は社会保障費等に回せる。国内産業の活性化にも使うことができる。平和のためにはコスタリカのように軍隊や武器は一切持たないようにしてその予算は国民生活の充実に回せば、国民は豊かになり幸せになる。とポーリングさんは力説していた。最終的には民衆の力なので、民衆が平和の大切さを悟り、それを政治に反映していくことが大切だと思った。
2024.03.21
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雪が降った後スイセン(水仙)がうなだれて咲いていた先日テレビを観ていたら読書についてインタビューしている場面があった。昨年何冊ぐらい本を読みましたか?とマイクを向けられた20歳代位の若者は「一冊も読まなかったかな」と答えた。それなら電子書籍はと聞かれたら「そちらも読んでいない」とのことだった。最近は読書離れが進んでいて、町の本屋さんがいくつも潰れているというニュースを聞いたことがあるのでそれを象徴するようなインタビューだと思った。別の人にインタビューすれば何十冊読んだと答える人もいるかもしれないが全体的に読書人口が減ってきているのは確かだと思う。スマホやタブレットを観ていればニュースも見れるし歌や娯楽番組も見れる。その延長で電子書籍の読者は増えている。紙の本を読む代わりに電子書籍を読んでいる人が3~4割いるとのことだ。私もアマゾンで「沖仲仕が医師になって」の電子本を購入し、楽天から「生命の世紀への探求」の電子本を購入した。アマゾンではKindle版という本を読むためのソフトをインストールする必要があり、楽天では楽天Koboというソフトが必要だがいずれも無料でダウンロードできてインストールできた。購入した本はKindle又はKoboの書庫の中に保存され好きな時によむことが出来る。通勤途中にスマホで本を読んでいる人もいる。私はパソコンに保存したので、パソコンで読んでいるが字を大きくすることも出来るし随分読みやすく便利だと思った。紙の本を読む場合は光の当て方が難しく姿勢を悪くして読むことが多かったがパソコンだと正面に適度の明るさで文字も適度の大きさに拡大して読むことが出来るのでとても便利だと思った。これだと紙の本の読者が益々減り、本屋さんが苦しくなってしまうかなと心配になった。紙の本はいつでも好きな時に取り出して、好きな所を読めるが電子本だとそれが出来ないのではないかと思っていたが、パソコンのデスクトップにKindle及びKoboの図書室が設置出来てその中に購入した本が保存されているので、いつでも読めるので紙の本に劣ることはないと思われた。ただ紙の本と電子本では目に与える影響はどうかなという懸念がある。おそらくその研究もなされていると思われるので紙本と電子本の目に与える影響も調べておこうと思っている。
2024.03.12
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『生命の世紀』への探求ー科学と平和と健康と【電子書籍】[ 池田大作 ]価格:748円 (2024/3/10時点)楽天で購入今朝の新聞に二つのノーベル賞(化学賞と平和賞)を受賞したライナス・ポーリング博士のことが載っていた。ポーリング博士は1901年2月28日にアメリカ・オレゴン州に生まれた。父が営む薬局で子供の時から薬の調合を観察して実験の真似事をしたりしていたが、9歳の時父が死亡、病弱な母と二人の妹を養うために早朝は牛乳配達、夜は映画館で映写技師の手伝いをしながら学業に励んでいたが、やがて大学の授業料が払えなくなり、それを知った教授が助手として彼を雇い、苦学の末にカリフォルニア工科大学の大学院に進学して研鑽を積み、30歳で教授に就任している。量子力学を化学に応用した先駆者で、化学結合の仕組みを明らかにした業績で1954年にノーベル化学賞を受賞し1962年には核実験反対などの平和運動によってノーベル平和賞を受賞している。1954年アメリカの水爆実験を機に核兵器の全面禁止を訴える「ラッセル・アインシュタイン宣言」に11人の科学者の一人として署名して、反核の集会に参加した。その後も様々な署名活動を行い、赤=共産主義者のレッテルを貼られ、弾圧の対象となり、マスコミによる避難中傷があり、大学の学科長の立場も追われた。米国上院委員会は博士を承人喚問し、署名運動を手伝った者の名前を明かにせよと責めたが、「私の署名運動を手伝った人達が何らかの仕打ちを受ける恐れがある以上、自分の身がどうなってもいいから、その人たちの氏名を明らかには出来ません」と拒否した。1987年2月以来日本の池田大作氏と4度の対談を行い、「生命の世紀」への探求が出版され、その中で博士は「民衆を苦しめる戦争を防止するのは私達一人一人の課題です。他の誰の責任でもない。ですからとりわけ青年に対して『地上から戦争を追放することを自身の責務とせよ』と呼びかけたい」と述べているとのことなので、私は青年ではなく、これから生きる期間も短いが、ポーリング博士の心意気を学ばせて頂こうと思って、上記「生命の世紀」への探求の電子版を今注文して早速読むことにした。
2024.03.10
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生涯健康脳 (幻冬舎文庫) [ 瀧靖之 ]価格:594円(税込、送料無料) (2024/3/2時点)楽天で購入「生涯健康脳」で男女の脳の比較をしているところがあった。男性の脳は20歳位から一定のスピードで体積が減っていくが、女性は女性ホルモン(エストロゲン)が脳に対して保護的な働きをして50歳を過ぎた頃から男性と同じようなスピードで減少し始める。脳の前頭葉や側頭葉にある言語を扱う言語野の体積が女性の方が大きく、おしゃべりやコミュニケーション能力が高い。女性は夫を亡くして高齢になっても社会とのつながりが保てるが、男性はコミュニケーション能力が低いので社会との関りが少なくなって認知症のリスクを高めたり脳血管障害のリスクを高めたりして女性より寿命が短くなってしまうと書いてあった。男女で平均寿命が違う原因については社会的立場での責任感の違い、男性の働き時間が長いからとかストレスを受けることが多いからなど色々の説があったが、この脳科学的説明が一番納得できた。東京オリンピックの組織委員会会長の森元総理が「委員会に女性が入っている所は話が長くなって困る」と発言して大問題になって会長交代にまでなってしまったが、それは男女の脳の違いを知らなかった故の時代錯誤の発言で汚点を残してしまった。この本を読んで男女の脳の違いを理解していると、発言ミス予防だけでなく異性との付き合いにも余裕が持てるのではないかと思えた。
2024.03.02
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葉ボタンとツバキ(少し枯れかかっていますがお許しを)今お釈迦さんの伝記「ブツダ伝」を読んでいる。いよいよ話も佳境に入りもう少しで読み切るところまできた。ブツダの断食その他の苦行といい、その考え方や行いに感銘を受けることばかりで2500年も前に生きた方なのに現在でも当てはまることばかりで本当に偉大な方だったと思う。ただその中で一つだけ煩悩を打ち払う想念として女体に対する欲望を打ち払う方法として女体は汚れたもの不浄なものと想像して平成心を得なさいという教えは現在としては納得できず、そこをもっと思索を深めてもらいたかった思うが、全体的には理想的でこの上なく素晴らしい人物だったと思う。ところがそのような人物に対しても反逆する人が出てくるものなのだなと思った。読者の中にはご存じの方もいると思われるがブツダの従兄弟でブツダより30歳位若いダイバダッタ(提婆達多)である。ダイバダッタもブツダの弟子になっていたがある大集会でブツダが法を説き終わった後ダイバダッタが前に進み出て「あなたも高齢になられました。この教団は私にお任せになり、余生を安穏にお過ごし下さい」と進言した。ブツダは断ったが3度も繰り返して進言するのでブツダも遂に声を荒らげ「舎利弗や目連にもまだ任せていないのに、お前ごとき者に任せられるか!!」と拒否した。大衆の面前で自尊心を傷つけられ怒りに狂ったダイバダッタは色々な陰謀を企てた。他の人に命じてブツダを切り殺そうとしたり、山上から岩石を落として殺そうとしたり、凶暴な象をけしかけて殺そうとしたと伝えられている。それらの悪い企てはことごとく失敗に帰し、仏教教団内では5つの極端な苦行を定め、これを守るようにブツダに強要したが、これを拒否されて彼は新参修行者500人を連れて教団を分裂させようとしたが舎利弗と目連が出向いて真実の道を説いて連れ戻した。少しばかり学問が出来て思い上がり、名誉欲や権勢欲、利得に駆られると恩義とか正しいことが見えなくなってしまうものだなと思った。この件ではブツダも大変心苦しい思いをしたことだと思うがそのような悪人に対してもブツダは慈悲の心を持ち続けたとのことである。今の時代から考えても人類最高の人物でもこのような災難に遭うことがあるのかと思うと、凡愚な私はこの世の無常さや不合理を思ったがブツダにしてみれば過去現在未来を考えてそれなりに受け止めていたのだろうなと思った。
2024.01.31
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山梨県南アルプス市で夕刻5時半頃撮影した富士約2500年前にインドに生まれた釈迦(ブツダ)は厳しい苦行の後、瞑想に入って、悟りの境地を開き、多くの人を教化した。その教えの根幹が「スッタニパータ」などの仏伝に残されている。「あたかも母が己が独り子を命をかけて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみの意を起こすべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし」人間は勿論、一切の生きとし生けるものに最大限の慈しみの意を起こしなさい。全世界に対しても敵意なき慈しみを行いなさいと指導している。ハマスとパレスチナは憎しみあって殺し合いをしている。ウクライナとロシアも領土獲得という欲に駆られて殺し合いをしている。2500年も前に釈迦(ブツダ)が教えたのに行きわたっていない。今はグローバル化した世界である。釈迦の教えを色々な媒体を使って世界に広めていかなければと痛感した。
2024.01.29
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新版 科学がつきとめた「運のいい人」 [ 中野信子 ]価格:1,650円(税込、送料無料) (2024/1/28時点)楽天で購入今中野信子さんの書かれた「科学がつきとめた運のいい人」がベストセラーになり爆発的に売れている。自分は運がいいと思っている人は余り興味ないと思われるが、運が悪いと思っている人が圧倒的に多いので売れるのだと思う。運、不運についてはしがきの所で書いていたがマンボウは何万個という卵を産むが孵化して生き残るのは一匹だけだという。この一個は神が予め決めていたとは考えられず、たまたま一個が運よく生き残ったと考えるのが普通だと思う。人間の受精についても何千万匹という精子の内一匹のみ卵子と結合して受精するが、それはたまたま運のよい精子が卵子と受精したと考えられ、私たちは出生から運に作用されて生まれてきているのだと思われる。あの人は運がいいから金持ちになって幸せな生活を送っていると言われることがあるが、著者は逆だと言っている。幸せだから運のよいことが重なるのだと述べている。幸せの行動パターンが幸運を呼び、不幸の行動パターンが運の悪さを呼び寄せているのだとのことである。まず自分は運のいい人間だと脳に思い込ませる必要があり、折に触れて口に出したり壁に貼ったりするのが良いとのことである。実際に幸せそうで運がよさそうな人を見て自分もそうなりたいと思って自分を変えようと努力している人がいるが、自分を変えることは容易ではなく、無駄な努力で疲れ切ってしまうことが多い。自分は自分で、ありのままの自分を伸ばすと決めることが大事である。そして自分をとことん大事にすることである。それと同じように他人をも大事にすることである。日常生活では毎日その人にとって運のいいことも悪いこともランダムに起こっているが、運の悪い人はうまくいかないことがあると何で自分ばかりこんなにツイていないのだろうかと落ち込み脳にもそのようなマイナスイメージを植え付けてしまう。嫌な事、大変な仕事からは逃げてしまう。運のいい人は世間から見たらどんなに嫌なこと大変なことでも引き受けて挑戦する。そして結果を出していくので運の悪い人から見ると羨ましいが、羨んでいるだけでなく、自分も今の自分のままでいいので、運がよく幸せな人間になるべく、そのように考え、行動していくべきであると述べている。また運のい人はよく祈るが、祈るのは人の為、世界平和の為である。運の悪い人もよく祈るが、それは殆ど自分の為でその願いを叶えてくれない神を呪い、失望し、益々運の悪い人間になって行く。運のよい人は願いは叶わなくても真剣に人のために祈っている自分を感じて自分を褒めることが出来る。祈るだけでなく、実際に人のために尽くす行いをすることによってエンドルフィンが分泌されて真の幸福感を感ずることが出来る。等々、運がよくなる考え方、行動について様々な観点から述べており、運に限定しないで幸せに生きるにはどのように考え、生活して行ったらよいかを述べている本だと思う。ここに上げたのはそのうちのほんの一部で、他にも色々なことが書いてあり、読者によってそれぞれ当てはまるところは違うと思うが、もっと幸せになりたいと思っている方々にお勧めしたい。
2024.01.28
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【中古】ほんとうの法華経 / 橋爪大三郎価格:721円(税込、送料無料) (2024/1/18時点)楽天で購入「ほんとうの法華経」をやっと読み終えた。毎日少しずつしか読めなかったので随分日にちがかかってしまった。最初「法華経の智慧」池田大作他著を読み感銘を受けて「法華経ー誰でもブツダになれる」植木雅俊著を読み、更に植木さんの本を読みたくて「ほんとうの法華経」植木雅俊/橋爪大三郎著を読んだ。今度はこの本の中で何度か引用されていた植木さんの恩師である中村元さんが書いた「ブツダ伝ー生涯と思想」を読みたくなって注文したので明日宅配される予定である。本を読めば必ずしもよく理解できるとは限らない。元々「法華経」そのものが難しいので最初に「法華経の智慧」を読み、もっとよく知りたいと思って「ほんとうの法華経」を読んだが法華経28品という膨大な教えの解説なのであまりよく分からないところも結構あった。ただ法華経というのはお釈迦さんの教えかと思ったらお釈迦さんが亡くなってから500年位たってからインドで編纂委員会を作って原始仏教などを参考にして編纂したものだということが分かった。インドの現地語をサンスクリット語に翻訳し、それを中国の鳩摩羅什が中国語に翻訳して、それが日本に渡ってきたのだということが分かった。そして近年サンスクリット語の原本が発見され、中村元さんの指導を受けながら、植木雅俊さんがサンスクリット語の原本から日本語に翻訳するという大仕事をやり遂げたのである。サンスクリト語の原文を読むと鳩摩羅什は意味を取り違えて翻訳している個所も数か所あったが、鳩摩羅什訳の漢文とサンスクリット語の日本語訳を合わせて読むと法華経の本質が見えてくることもあった。また編纂した人達がその時代の民衆のニードに流されて後から付け加えられたものがあり最後の6品(陀羅尼品、薬王品、妙音品、観音品、妙荘厳王品、普賢品)はヒンズー教などの影響を受けて後から付け加えられたもので、それ以前の品々とは思想的に明らかに異なっているとのことだった。私は法華経は全てが黄金色に輝いている素晴らしいものかと思っていたが、個々人の主観にもよるが植木さん達は従地涌出品第15と常不軽菩薩品第20が重要で上記6品は勿論他の品も第15と第20と矛盾したようなことを言っているところがあり、法華経の神髄は第15と第20とのことだった。私もそうだと思うが、今まで多くの人達が影響を受けてきた重要な経文なので、軽率に判断しないで、これからも学ぶ姿勢を失わないようにしようと思っている。
2024.01.18
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病院4階から昨日3時頃撮影した富士山今「ほんとうの法華経」という本を読んでいるが、小さな字でびっしり書かれており、退屈で読むのを止めようかと思う時もあったがようやく終いの方の法華経のエッセンスである常不軽菩薩品第二十を読み終えた。ここを読んでみて途中で読むのを止めなくてよかったと思った。内容は知っている人も多いと思うが不軽菩薩という学問も知識もなく身分も最下層の貧民で文字も読めないから法華経を学んだこともない。それなのにバラモンの偉い人や階級の上のご僧侶、金持ち、貧乏人、乞食、犯罪者等全ての会う人に「私は深くあなた方を敬います。決して驕慢は致しません。あなた方は皆菩薩の道を行ずれば必ず仏になれます」と言って歩いた。それを言われた人たちは「バカを言うな、学問もないお前になにが分かる。お前にそんなことを言われたくない」とキチガイを追い払うように棒や石で追い払われた。サンスクリット語の原本では「尊者方よ」と「ご婦人方よ」と2行続けて書いてあった。男女差別の激しい時代に男性の方も女性の方も菩薩道を行えば必ず仏になれますよと言って歩いたのである。不軽菩薩は死ぬ間際になって天空から音楽のように響く法華経を聞いて初めて法華経のすばらしさを悟るが、それまでは知らなくて男も女も誰でも仏になれると言い歩いていたのだという。日本では法華経を身をもって読み切った日蓮大聖人が「法華経に南無する(帰依する)」ことによって幸せになれると説いた。法華経の内容を詳しく知らないでも「南無妙法蓮華経」と唱えれば誰でも仏になれますよと説いたのである。不軽菩薩同様、様々な迫害に遇ったが、誰でも南無妙法蓮華経と唱えながら仏道修行すれば仏になれるという教えは武士階級や農民まで男女嫌うことなく浸透していった。法華経の内容を知って題目を唱えるに越したことはないが、法華経という文字の中にも法華経は含まれており、題目だけでも効果があるとのことで現在まで受け継がれている。
2024.01.17
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JAFの雑誌ジャフメイト夏号に小説家の羽田圭介さんが「幸せって何だろう」のコーナーに「(幸福の)質の変化と没頭」の文章を書いていた。17歳で文芸賞を受賞して小説家になり、29歳で芥川賞を受賞して多くの人に受け入れられた気がして多大なる幸せを感じて数年間を過ごした。37歳になった今ここ数か月間あまり強めの幸せを感じられない日々が続いている。心躍るような楽しみが減る一方で日常の中で安らぎを覚えやすくなってきている。幸せの質が変化している時期にいるのだと思うがどっちつかずで少し辛い。質の異なる幸福の種類がそれぞれ半分ずつ位、生きる原動力となっているのが今の自分の状態なのだろうと分析していた。最近初めてハワイに行った。2週間くらい前から英語の勉強を始めたが現地で聞き取りが出来ず、無力感を感じた。英語圏では自分は何も持ってない人間に過ぎないのだとの認識は久しぶりにワクワクさせられた。日本語で小説を書き有名になって日本国内では顔や名前を知ってもらっているが、日本語の通じない国に行くだけで安定していたと思っていた自分の力を失う感覚が愉快で仕方なかった。それで今英語の勉強を続けている。あまりにもやらなければならないことが多くて没頭している。没頭できるものがあるというのが最も確かな幸福の種類なのかもしれない。と結んでいた。小説家を目指している人は何万人もいると思われるが、何度応募しても落選で世に出れる人は少ない。羽田さんは若くして芥川賞をとり、脚光を浴びてきた。幸せだったと素直に感想を述べていた。対して何万人という小説家志望者は報われないまま悲しみに暮れ不幸に打ちひしがれている。その違いは実力もさることながら運が大きく作用していると思う。羽田さんは運のいい人だったのだと思う。日本語の通じない外国に行って自分の力が通じなくて有名人でなくなってしまうことが愉快でならなかったとのことだが、生まれながらにしてちやほやされてきたのかもしれない。そういう運を背負ってきた人だから、外国では誰もかまってくれないということが新鮮で痛快に感じられたのかもしれない。英語の勉強に没頭することに幸せを感じているとのことで、もともとどんなことにも幸せを感じられる素質を持っているのではないかと思う。世の中にはどんなことにも不幸を感ずる人もいる。羽田さんを見習いたいと思った。
2023.09.16
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カリブラコア庭に咲いているハンネマニアトルストイの晩年の作品に短編民話『人は何で生きるのか』がある。貧乏な靴職人セミヨンが集金してその金で上着を買おうと出かけたが料金を支払ってくれる人は少なく上着も買えずにやけ酒をのんで帰宅途中お堂にもたれかかって身動きもしない裸の男に気がついた。「かかわりあうと厄介なことになる」と思い急いで通り過ぎようとしたが心の声「困っている人を見捨てて行ってしまうのか?それはいけないよ」が聞こえてきて自分の家に連れて帰った。妻のマトリョーナは激怒し激しい夫婦喧嘩になった。「晩飯なんかありませんよ、裸の酔っぱらいをいちいち賄えるものですか」とまくしたてた。セミヨンは「お前の胸には神様はいないのかね」とやり返した。その男の惨めな様子に同情して結局妻も受け入れて靴屋の見習いとしてその裸の男ミハイルはセミヨンの家で一緒に暮らすことになった。そして6年の歳月が流れた。ある時、裕福そうな婦人が二人の子供をつれて靴の注文にやって来た。一人の子は足を骨折した障害者だった。二人の子供の実の母親は子供が小さい時亡くなってしまい、その騒ぎの時子供が重なり合って下になった子供の足が折れてしまったとのことだ。その後二人の孤児は今のご婦人に育てられたが、差別なく愛情込めて立派に育ててくれた。彼女の中に生きた神を見てミハイルは微笑んだ。裸の男ミハイルは実は天使だったのである。人は何で生きるのかの何でとは「何をもって」という意味で他人との交流であり、愛情であり、慈しみがあるから生きるのだとトルストイは言いたかったのだと思う。それは孤児を温かい愛情で包みながら育てることだけでなく、命と命をつないで苦しんでいる人をたすけるために生きるのだということでもあると思う。人は何のために生きるのかの答えは難しく何通りもの答えがあり、個人によってもその答えは違ってくると思う。しかしトルストイはこの作品を通じて人は人を助け、人のお役に立つために生きるのだということを伝えたかったのだと思う。
2023.09.03
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恩納村の万座毛の岩 像の鼻に似た岩万座毛海に顔を出している人の頭のような岩沖縄旅行は透明の海とサンゴ礁、首里城や水族館、万座毛など楽しいことが沢山あったが6月28日には甲府に帰ってきた。帰りの汽車の中で『季刊文科』という雑誌を読んできた。その中に土井荘平さんが書かれた『終夢、没イチ男子九十歳超』という短編があった。92歳の土井さんという男性は奥さんを亡くされ、子供達はそれぞれの地で暮らしておりマンションで一人暮らしをしていた。自分はある程度のことができて自分で入浴もできるレベルだったが1週間に一回デーサービスに通っていた。バスで送り迎えしてくれて、ゲームをしたり手作業したり体操したりして結構楽しかったが土井さんにはそんなことより、もっともっと楽しくて待ち焦がれていたことがあった。それは土井さん達を面倒見てくれる介護士を好きになってしまったのである。年齢は不詳で、細面、マスクしているので目しか見えないが美人だと想像していた。Tシャツを着て短パンをはき老人達の面倒を見てくれていた。その人が休みの時が事前にわかる時は自分もデーサービスを休んだ。いると思ってきたのに休みだった時には帰ってしまおうと思ったりした。自分は自宅で入浴できるのでデーサービスでは入浴サービスは受けていなかったがほとんどの老人はそこで入浴させてもらっていたので入浴の時間帯には彼女もそちらに行ってしまい一人ぼっちになってしまって寂しかった。ある時その人と写真を撮ってもらって嬉しくてその写真を使ってカレンダーを作ったりした。週に1回その人にあえるのが楽しみで生きがいになっていた。ところが3~4年たった頃彼女のお父さんの介護の関係で引っ越しをしなくてはならず彼女はその介護施設を辞めることになった。突然の別離に生きる希望を無くしてしまった。めぐってきた誕生日にも生きる希望もなく呆然とソファー座っていたら何と彼女が「以前土井さんに誕生日を祝ってもらったから」と訪ねてきてくれたのである。家の風呂で入浴介助もしてくれたのである。夢かうつつか分からないが天にも昇る気持ちになったという物語である。介護老人は毎日見ているし、介護士も見ているがその両者で恋心が起こるとは考えてもみなかったがありえることだと思った。介護士は全ての通所利用者の面倒を見なければならないし、皺だらけの特定の老人に恋心を抱くことはないと思うが老人が特定の介護士に恋心を持つことはあるかなと思った。小説なので多少のフィクションはあると思われるが土井さんの実体験が主体ではないかと思った。
2023.07.05
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チェリーセージノンフィクションライター高橋幸春氏の「だれが修復腎移植をつぶすのか」を読んだ。市立宇和島病院及び宇和島徳洲会病院等で万波誠医師を中心とする瀬戸内グループの医師が腎臓がんなどで摘出した腎臓についてがんが4センチ以下の場合はそのがんの部分だけ切除して腎移植待ちの患者さんに移植して好成績を上げていた実績があったが、それを評価するどころか日本移植学会などから猛烈なバッシングを受けたルポルタージュであった。外国ではすでにそのような病腎移植は積極的に試みられていたが日本では瀬戸内グループが最初でそれは移植された人にがんが発生する可能性もあり、正式に認められていない医療行為として日本移植学会、日本泌尿器科学会、日本透析医学会、日本臨床腎移植学会などが強硬に反対した。腎臓提供者側からも腎臓受け入れ側からも正式な承諾書を貰っていなかったこともあり、法的にも人道的にも認められない手術だとして万波誠医師は医師免許を取り上げられそうな状況になっていた。その時、万波医師に助けられた患者さん達が立ち上がり、病気腎移植は俺たちを救ってくれた医療でありそれを否定する日本移植学会などは人道に反するとして彼らを告訴して、長い裁判が繰り広げられた。宇和島徳洲会病院などは家族などからの生体腎移植、死体腎移植などでその順番が中々回ってこない人達にとってこの病気腎移植は大きな光明になるとして患者負担が軽くなる先進医療に組み入れて貰いたいとして申請したがこの本が書かれた段階(2015年)では認められなかった。病腎移植で助かると思われる患者さんは年々2000例くらいある。それなのにその移植を認めないと言うことは救える命を見殺しにすることで日本移植学会や厚労省は無慈悲であるというのが本書の内容であった。がんを取り除いた腎臓とは言え、がんが発生してきた腎臓なので他人に移植すればそこでまたがんが出てくるのではないかという懸念は分かるが万波先生達が移植した腎臓からはがんは出てこなかったのである。それでも執拗に反対され続けて昨年10月、万波先生は81歳でお亡くなりになってしまった。国内の腎移植は14年待ちと言われており、病気腎の移植が認められればかなりの人が恩恵に浴することが出来る。腎臓は二つあり一つをがんなどの病気で切除しても一個残っていればほぼ正常に機能してくれて天寿を全うできる。その摘出した腎臓のがんの部分を取り除いて透析など慢性腎臓病で苦しんでいる人達に役立てることが出来るなら大抵の人はOKすると思う。万波先生やその支持者達の懸命な努力によって条件付きではあるが2017年12月26日に病気腎移植は先進医療に認められた。今後徐々に病気腎移植で救命される人は増えていくことと思われる。その先駆者だった万波誠先生に心から感謝し、ご冥福をお祈り申し上げる。
2023.06.09
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ブルースター今、朝ドラで牧野富太郎をモデルにした「らんまん」を放映しているので本屋で富太郎が書いた「植物知識」という本を買ってきて読み始めている。前書きにつぎのようなことが書いてあった。「花は植物の生殖器である。花はまことに美麗で、かつ趣味に富んだ生殖器であり、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり比べものにならない。見たところ醜悪な所は一点もなく、まったく美点に充ち満ちている。」動物のそれがそんなに醜悪かどうかはさておくとして花は確かに美しい。この花は種を生ずるために存在している器官で、種を生ずる目的がなければ存在しなかった。美しい花を咲かせ種を作るのは子孫を残し種族が絶えることなく地球が続く限り生き続けるためである。これは動物も同じで人間も同じである。と述べていた。その通りだと思う。人間も年頃の女性が美しいのは花が美しいのと同じだと思う。しかし人間は産児制限法(避妊法)を考案し、堕胎手術法まで考案した。結果として文明が進んだ国では子供が生まれない少子化現象がおこり、未開発国では自然のままで人口はどんどん増えていく。「街頭インタビューで収入が少ないので子供を育てていく自信がない」などの声をよく聞く。それにこたえて政府は少子化対策として児童手当や出産手当を出して出産を奨励するが、殆ど効果はない。それは少子化はお金の問題ではないからである。動植物が自然に子孫を残すように自然の営みを行っていれば自然に人口は増えていく。しかし増えすぎては困るということで上記避妊法や堕胎法が考案されて、人類自ら人口調節を行うようになったのである。未開発国の人口はどんどん増えて文明国の人口は段々減って遂には消滅してしまうかもしれない。「それでは困るので何とかせい」と言われて金を配ったりして、少子化対策は金で解決できると思っている人が多い。しかしそれは全く違うのである。意識の問題なのだ。前述の街頭インタビューの「お金がないから子供は産めない」という人は、子供より重要なことがあるというのであろうか?子供を産むことを第一に考えてその子を育てるために必死で働く。それが当たり前の人生で「お金がもらえるなら産む」というのは本末転倒で、お金を配ることばかり考えている政府は根源的な問題を考えてもらいたいと思う。
2023.05.31
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沖仲仕が医師になって [ 青山 光太郎 ]価格:1,430円(税込、送料無料) (2023/4/20時点)楽天で購入沖仲仕が医師になって[青山光太郎]を読んだ。沖仲仕というのは貨物を埠頭から艀(小船)に載せて沖に泊まっている貨物船の所まで運び、それを貨物船に乗せたり、逆に貨物船の貨物を艀を使って埠頭まで運んで陸揚げする港湾作業員のことである。火野葦平の小説「花と龍」には明治の終わり頃の沖仲仕の縄張り争いによる抗争がドラマチックに描かれているが、青山光太郎の小説の時代は昭和の中頃で暴力による抗争はなかったが、炎天下に40度以上になる艀の底での作業やラワン材運搬作業などはかなりハードで危険な仕事で毎月死者が出ていた。そのような所で働いていた青年が感ずるところあって努力して医師になった物語である。沖仲仕時代は一緒に働く仲間は誰もその素性を喋ろうとはしなかったが死と隣り合わせのような厳しい仕事を通じて妙な親近感が生まれて、医師になってからどんな患者さんに対しても仲間のように接することができたのは沖仲仕を経験してきたからだと主人公は感じていた。表紙の絵は青年医師が海の方を眺めている図で、目の先には昔沖仲仕として働いていた船が浮かんでおり、さらにその先には遠い大海原が広がっていた。彼の夢はアフリカに行ってハンセン病の人達の治療にあたることだったが、それは大学医局の事情や家族の反対などで簡単に実現できることではなかった。主人公は才能がないことを自覚していたので、それを補うべく猛烈に努力して医師になったがアフリカに行く夢は叶わず不本意なまま亡くなるが、奇しくも主人公が無くなってほどなくして孫が医学部に合格した。自分が叶えられなかった夢を孫が引き継いでくれるのではないかと結ばれていたが、一般世間で祖父母の夢が孫に受け継がれているケースは結構多いと思った。「花と龍」の玉井金五郎と「沖仲仕が医師になって」の青山光太郎を比べると光太郎は腕っぷしでは金五郎に全くかなわないが、粘り強さでは引けを取らないと思った。金太郎の大立ち回りの人生に比べて光太郎のそれは地味だが、それなりに波乱万丈で面白かったので一読をお勧めする。
2023.04.20
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ラッパスイセン今月31日でご退職なさる同僚医師から井伏鱒二の「厄除け詩集」を記念に頂いた。井伏鱒二は1898年(明治31年)広島県加茂町に生まれた小説家で「山椒魚」や「黒い雨」など膨大な作品を書いているが詩集はこの一冊だけである。自作の詩と漢詩の翻訳から成っているが翻訳では文字に忠実な翻訳でなく自由奔放、望郷と友人を偲ぶ詩が多い。有名なものでは昭和10年(37歳)発表の「勧酒」がある。干武陵の漢詩の翻訳である。 勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離この巵(さかずき)を受けてくれどうぞなみなみつがしておくれ花に嵐の例えもあるぞさよならだけが人生だ原作者干武陵の真意はどうなのか分からないが鱒二は友人と花見の酒を飲んでいて「友よ!なみなみと注がせておくれ、今はお花は満開だがそこに嵐が来るかもしれない、俺たちだってどうなるか分からない。離れ離れになってしまうかもしれない。大いに飲もうではないか!」と解釈したのだと思う。漢詩というのは短い文章の中に人生が詰まっているものだなと思った。自作の詩では「誤診」というのがあった医者が僕のレントゲン写真を出して「心臓肥大です、要注意ですな」と言った僕は尋常一年のとき運動会で駆けっこに出たすると「用意、どん!」の直前不意に胸がごつとんごつとんと鳴り出したこれが僕が記憶する最初の胸の高鳴りだ最近は胸のときめきを感ずることがなくなった原稿書いていて胸がふと動悸をうちだすことなど更にない僕の感動の最後の助だと思われるのは京竿で一尺山女魚を釣ったときのものである僕の心臓は干涸らびてしまっている筈だ心臓肥大とは誤診だと思いたい井伏鱒二の作品は小説にしろ詩にしろ楽天的なものが多い。上記の詩は昭和50年77歳の時の作品だが「心臓肥大」なんてあるもんか!と突っぱねている。人によっては「心臓肥大」と医者に言われて年も年だし自分もいよいよ終わりかと悲観してしまう人もいる。鱒二は堂々としたもので医者の言葉も詩に書いてちゃらかしている。温泉旅館に行き、友人と酒を飲み、(奥さんが酒を飲まれたのかは知らないが)自由に原稿を書き、悠々自適に暮らしたおかげで当時としては破格の95歳まで元気で過ごし、最後はポックリ逝かれた。元気で暮らす方法を教えて頂いたような気がした。
2023.03.29
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天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い [ 中村 哲 ]価格:1760円(税込、送料無料) (2023/3/13時点)楽天で購入中村哲さんの自叙伝「天、共に在り」を読んだ。これは2006年にNHKの「知るを楽しむーこの人この世界」で放送されたテキストに加筆、修整を加えたものである。中村さんがパキスタンやアフガニスタンで医療活動を始めた動機やその後井戸を掘り、用水路を開くことに力を傾け始めたいきさつなどが主な内容だが、最初の方には生い立ちや幼い頃の思い出も書いてあった。自分が縁もゆかりもなかった当地に赴任したのは強固な信念や高邁な思想があったわけではなく、現地就任までの経緯を思うと、生れてからのすべての出会いや経験が自分の意識を超えて導いてくれたのではないかと思うと述べていた。昭和21年9月15日に福岡市三笠町に生まれたが2歳の時父母の生まれ故郷若松市に戻った。若松市では火野葦平の小説「花と龍」に登場する玉井金五郎(中村さんの祖父)の家に我が家のように出入りし、祖母マンの話を聞くことが多かった。弱者は率先してかばうこと、職業に貴賤が無いこと、どんな小さな生き物の生命でも尊ぶべきことなどの自分の倫理観の殆ど全てが祖母の教えからではないかと思えるとのことだ。中村さんのお母さんは金五郎の娘でそのお兄さんが火野葦平で、中村哲さんの叔父にあたる。哲少年は売れっ子作家だった叔父さんの本は片端から読んだとのことである。叔父は戦争に勝つという一つのことに命を懸けてきたが敗戦なってしまい、器用に転身出来なくて戦後14年経った時自決してしまった。小学校1年まで若松市に住んでいたが、父が事業に失敗したり連帯保証人を気軽に引き受けたりして借金を重ねて食い詰めた挙句古賀町に引っ越した。そこで出会ったのが小学校3年時の同級生の父親郵便局長の吉川さんだった。吉川さんはその同級生と一緒に昆虫採集につれて行ってくれて昆虫の事だけでなく他の動植物や鉱物、地理、天気のことにも詳しく、色々教えてくれて哲少年を昆虫に夢中にさせるきっかけを作ってくれた人である。昆虫を大好きになり将来九州大学農学部の昆虫学科に進みたいと思ったが、厳しい父親は「昆虫を好きだからと大学進学などとんでもない」というのは分かり切っていた。その頃内村鑑三の「後世への最大遺物」を読み、自分の将来を日本のために捧げるという幾分古風な使命感が湧いてきた。当事全国で医療過疎が問題になっていたので、医者になろうかと思ったのが医学部受験の動機で、これには父親も賛成してくれた。そうして医師になり、精神科を専攻して国内の病院に勤めていたが、山岳登山隊の同行医師としてモンシロチョウの原産地といわれるパミール高原に行った時、また訪れたいと思っていた矢先、その地域での協力医師要請の話があり、それに呼応する形でそこに就き、30年間現地の人達と共に暮らし、用水路建設等を行ってきた経緯が述べられていた。しかしそれが出来たのは、子供時代色々話をしてくれた祖母、昆虫の面白さを教えてくれた吉川さん、ペシャワール会を作って援助して下さった日本の方々、理解してくれた家族、現地で協力して下さった現地人や日本人の方々、ハンセン病診療の先輩のドイツ人女医ルース先生等、皆さんんのお蔭で自分一人でできたとはこれっぽちも思っていない。アフガにスタンは干ばつなどの自然災害だけでなくイギリスからの独立戦争、ソ連侵攻、アメリカがアフガニスタンがビンラディンを匿っているとして全面爆撃を開始して、自然災害と人工的災害に苦しめられてきた。中村さん達が今力を注いでいる農村部の建設現場は、常に攻撃される危険地帯に指定されてきた場所だが、「こちらが本当の友人だと認識されれば地域住民は保護を惜しまない。信頼は武力以上に強固な安全を提供してくれて人々を動かすことが出来る。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さが人々の心に触れる」とどこまでもどこまでも誠実を貫いていた中村さん。村人たちからの信頼は絶大だったが、この本の発行から6年後に銃弾に倒れてしまった。思いやり、信頼、感謝、愛情が分からない人間はどこにもいるものだなと思った。世界中の人から惜しまれた中村哲さん、その後を引き継ぐ人材の成長を願っている。
2023.03.14
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わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと[本/雑誌] (単行本・ムック) / 中村哲/著価格:1760円(税込、送料別) (2023/3/12時点)楽天で購入中村哲さんの「わたしはセロ弾きのゴーシュ」を読んだ。中村さんは九州大学医学部卒業後日本国内の病院勤務後1984年(38歳)にパキスタンのペシャワールに赴任してハンセン病の診療に携わり、1986年からはアフガニスタン難民のための医療チームを結成し、山岳無医地区での診療を開始した。1991年からはアフガニスタン東部山岳地帯に3つの診療所を開設し、パキスタン、アフガニスタン両国にまたがって活動していた。2000年(54歳)からはアフガニスタン東部が大干ばつに見舞われ、作物が作れなくて多くの人が餓死し何百万人という難民が生じたので、飲料水や耕作水のために井戸を掘ったり灌漑用水路の建設を開始した。本書はNHKラジオ深夜便や民放ラジオ深夜便で中村さんが喋った内容を中心にまとめたものである。私は中村哲さんがパキスタンやアフガニスタンに35年間も命をささげてきた動機を知りたいと思った。ラジオ深夜便の中で中村さんはそのきっかけは実は「遊び」で行ったのですと述べていた。ちょうどヒンズークッシュ山脈への登山同行医師の話があり、昆虫が好きだったので遊びがてらに参加して帰国後いい所だど思い、医師不足は深刻だなと思って、いつか再度行ってみたいと思っていたところにある医療協力団体からパキスタンのハンセン病コントロール5か年計画に参加しないかとの話があり、前に登山隊と言ったところなので参加してみようということになった。「別に大それた理想や、思いつめた覚悟などなく、遊びで行ったことがきっかけなんですよ」と話していた。それから20年、30年と住み続けたのは適切な医療設備がなく、ハンセン病で苦しむ人や干ばつで餓死したり、難民になる人たちを見捨てることができなかったからとのことだった。そのあたりのことを、イーハトーブ賞受賞に際してのお礼の言葉の中で述べている。「動機は何かと多くの人に聞かれるが、人間愛というのも面はゆいし、自分にさしたる信念や宗教的信仰があるわけでもなく、さしずめ宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」のなかのゴーシュの心境ではなかったかと思う」とのことだった。この童話はいつも楽長に叱られてばかりいるセロ弾きのゴーシュが10日後の発表会に向けて自宅で練習していたら毎晩のように猫やカッコウや子狸、野ネズミが現れて練習の邪魔をしていた。しかし10日後の本番では楽長に叱られなかっただけでなく、客席からは、アンコールが叫ばれ大成功を収めた。下手で駄目だ、駄目だと言われてばかりいたゴーシュが、野心なく、ひたすら練習して、それを邪魔する動物とも会話を重ねて本番を迎えたら、とても上手になっていたという話で、自分はゴーシュみたいな者ですよと述べていた。同じ宮沢賢治の詩に「雨ニモマケズ」がある、その最後の所に「みんなにでくのぼーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」があるが、ペシャワール会会長の村上 優さんは本書刊行に寄せての文章の中で、上記の部分が中村哲さんの偽らざる心境ではなかろうかと記していた。中村さんは、2019年12月4日水利権のことで一方的に中村さんを敵視していた凶悪5人組に襲われ凶弾に倒れた。73歳だった。村人たちには命の恩人として慕われていた中村さんなのに、その中村さんを狙うとはとんでもない悪党だとの非難が盛り上がった。中村さんはお亡くなりになられたが、その遺志を受け継いでアフガン、パキスタンの病人や難民を援助するペシャワール会という組織は今も活動を続けている。私もペシャワール会に協力(寄付)して少しでもお役に立たせて頂きたいと思った。
2023.03.12
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墨子よみがえる “非戦”への奮闘努力のために/半藤一利【1000円以上送料無料】価格:1540円(税込、送料無料) (2023/3/8時点)楽天で購入半藤一利氏の「墨子よみがえる」を読んだ。紀元前5世紀の後半くらいに活躍した古代中国の思想家で平和論、非戦論を唱えた墨子の紹介である。孔子、孟子などは有名だが、墨子は殆ど知られていない。天下統一のために敵を次から次に滅ぼしていた秦の始皇帝にとって墨子の非戦論などはとんでもない邪説として退けられていったことが墨子の教えが後世に伝わらなかった一因と考えられる。墨子の根本思想は兼愛で、「すべての人を愛するという広い心を持たなければ善なる行為にならない。人を愛せば必ず人から愛され、人を憎めば必ず人に憎まれる。自分の親族や関係者ばかりでなくあまねくすべての人を愛し、他人に苦痛を与える争い(戦争)はしてはならない」という教えだが現実性のない絵に描いた餅だと孟子に批判されていた。著者は歴史のかなたに置き去りにされてきた墨子の教えを今こそよみがえらせなければならないと訴えていた。中村哲さんはアフガニスタンで貧民層の診療や水利事業に携わってきた人で2019年12/4車で移動中銃撃されて亡くなった方である。それより7年前の2012年に中村さんが帰省中著者が東京で中村さんと対談した内容が巻末に特別付録として収録されていた。中村さんがアフガニスタンと関わるようになったきっかけは、元々昆虫採集が好きでアフガニスタンを訪れたことがあり、ここにしばらく住んでモンシロチョウの故郷を調べてみたいと思っていた矢先、偶然にもキリスト教海外医療協力会から現地で働いてくれないかという話があり、そこで働くことになったとのことである。最初はパキスタンでの「ハンセン病コントロール5か年計画」に沿ってのハンセン病治療を行っていた。最初は5~6年で日本に帰るつもりだったが、自分が解決できる問題があるのにそれをほったらかして逃げるのはいさぎよくないと思って居続けることにった。長引いた原因は1998年にハンセン病根絶宣言が出されたけれど現場ではどんどん患者がやってきた。国家の見栄や都合で根絶宣言するが現実は全然違った。そこでその年にペシャワールに病院を建ててこれから何年も患者さんの面倒を見ていこうと思った矢先に大干ばつに襲われ村が全滅して2~3百万人の難民がアフガニスタンに生じた。病院の仕事よりも人々の生活援助が大切となり、干ばつで難民を生じさせないために河川工事に力を入れることになった。対談した頃は医療活動よりも殆どが河川工事で自ら起重機を運転して土木工事を連日行っているとのことだった。また子供たちのためにマドラサという学校も建てて教育にもかかわっていくことになった。現地はイスラム教で食生活にも違いがあり、豚肉はだめ、他の肉でも一週間に一回位しか食べないとのことだった。お酒はだめという生活だったが郷に入っては郷に従えで、現地に溶け込んで生活していた。正に墨子の教えそのままにすべての人を愛し、村人からも愛されていたが凶弾に倒れてしまった。アフガニスタンでは麻薬の栽培は国で認められており、大きな収入源になっていたが、中村さんは食料を得るための灌漑事業を行っており、麻薬栽培のタリバンにとっては中村さんは取水口関係で邪魔な存在として標的にされたみたいで無念でならない。中村さんが墨子を勉強なさっておられたのかどうか知らないが、中村さんの生涯をみていると墨子の教えそのままで、正に現在の墨子の称号に相応しい人だと思った。
2023.03.08
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寛容と希望 未来へのメッセージ (多田富雄コレクション(全5巻) 第5巻) [ 多田 富雄 ]価格:3300円(税込、送料無料) (2023/2/28時点)楽天で購入多田富雄先生と言えば免疫学の世界的泰斗で千葉大、東大の教授を務められ能やエッセー、小説なども書かれた先生である。東大教授定年後しばらくして67歳の時脳梗塞になり右半身不随で嚥下障害になり口から食べられなくなり、声も出なくなったがリハビリに励み左手で文字を書き、文字入力しながらそれを声に変換して講演も行ってきた。脳梗塞発症後、約10年間病気との格闘の途中で前立腺がんにも襲われて76歳で生涯を閉じたが、その業績はあまりに偉大で、残して下さった教訓は多い。その中のエッセー集「寛容と希望」の中の「人それぞれの鵺(ぬえ)を飼う」を読ませて頂いた。鵺というのは伝説上の怪獣で頭は猿、手足は虎、体は狸、声は虎鶫の鳴き声に似ている。虎鶫(とらつぐみ)はスズメ目ツグミ科の雀に似た鳥で夜ヒョーヒョーと口笛を吹くように鳴く。 本編の内容は千葉大学医学進学過程に入学した多田と同級生関沢、秦、そして関沢の小石川高校時代の同級生土井の交流物語である。当時は医学進学過程の学生がすべて医学部に進学できるわけでなく2年修了した段階で医学部の試験があり、それに合格した者だけが医学部3年に進学できるシステムであった。関沢は小児まひの後遺症で足が不自由で松葉杖をついていたが富山県の大病院の御曹司でお金はふんだんに持っており当時はまだ売春禁止法が施行されていなかったので、学生の身でありながら秦、土井を従えて毎夜のように遊郭に繰り出していた。大学にも殆ど出席しなくて勉強もしていなかったので恐らく2年修了時の医学部試験には多田もあまり勉強していなかったので関沢、秦、多田の遊び仲間は全員不合格だろうと思われていた。特に秦は女好きで遊郭の女性だけでなく看護婦や事務員、大学食堂で働いている女性等次から次にものにしていた。挙句の果ては下宿のおばさんまでものにしてしまったというから相当の者だったと思う。医学部試験の結果は関沢、秦は不合格で誰もが納得する結果だったが、多田も自分では不合格だと思いその次のことを考えていたが、幸運にも合格していた。その違いが彼らの進路の明暗を分けた。多田は遊郭にこそ入りびたりにならなかったが関沢達との仲良し遊び仲間だった。その仲良し4人組の将来はどうなったのであろうか。多田は世界的な免疫学者になったが、土井は大学卒業後フジテレビに就職したがフジテレビの屋上から飛び降り自殺してしまった。秦も若くして脳出血で亡くなってしまった。関沢は両親の期待に添わず医者にならずにドイツ文学科に入学するも中退して遊興していた。そのころ大黒柱の父親が若くして亡くなってしまった。広大な敷地を有する病院は後継ぎがいないことで閉院することになり、土地を売ったお金で関沢は様々な事業を行ったが、いずれも失敗した。結婚して子供3人生まれたが8年後には離婚している。多田は土井、秦、関沢、そして自分の4人はそれぞれの鵺を飼っていたのではないかと思った。鵺とはその人にとりついてその人の意に反して暴れまわるものだが、土井も秦も内なる鵺に振り回されていたが、鵺が死んだとき自らも死んでしまったのではないかと思った。関沢は小児麻痺による障害のコンプレックスを表には出さなかったがそれは巨大で、鵺のように暴れていたのではないかと思われた。多田自身についていえば医学部試験の時はっきり医者になるという目標が定まっていなかった。合格したいという強い気持ちがなく、関沢達と遊んでいて受からなくてもいいと思っていた。しかし幸運にも合格してその時に、社会に役立つ研究をしようという鵺が入り込んでその鵺に動かされて大きな研究を続けることができたのではないかと思う。人それぞれが鵺を飼っていてそれで自分が滅びることもあるし、高みに連れて行ってもらえることもあるのだなと思った。良い鵺を飼うにはどうしたらよいかが人生の大問題なのだなと改めて思った。
2023.02.28
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新版 日蓮の思想と生涯 [ 須田晴夫 ]価格:3850円(税込、送料無料) (2023/2/26時点)楽天で購入1222/2/16に千葉県鴨川市小湊に生まれて1282/10/13武蔵国で61歳でお亡くなりになった日蓮大聖人の生涯が書かれた上記伝記本を本日読み終えた。読み終えたといっても信徒に宛てた鎌倉時代の古文で書かれたお手紙(御書)がたくさん出てくるので難しくて中ほどは読み飛ばしたところも多い。読みだすと眠くなり、睡魔に襲われながらもなお読もうとすると文字が赤く見えた。横になったり、腹ばいになったり仮眠をとったりしながら何とか最後のページにたどり着いたというのが実情である。時は鎌倉時代、日蓮は漁師の子として生まれたが勉強好きで清澄寺に学僧として入れてもらい仏教の勉強をしていた。大変向学心が旺盛で比叡山などにも留学している。数ある釈迦仏の教えの中で法華経が最高の教えであり、その法華経を自分なりにさらに深めた南無妙法蓮華経を覚知してそれを広めることを決意して1253/4/28、32歳の時に立宗宣言している。1260年39歳の時に立正安国論を顕し、前執権で実力者の北条時頼に提出している。その頃大地震や大雨による洪水、大火災、伝染病の流行、飢饉が深刻化して死人の山が築かれていた。これは悪い宗教、念仏宗を庇護しているからだ。それを改め日蓮を用いなければ災害は続き、さらに蒙古による他国侵逼難や謀叛などの自界叛逆難が起こると予言して国家諌暁を行った。時頼がそれを聞き入れて念仏を退けて日蓮を採用してくれなかっただけでなく、当時国で庇護され、信者数も最大の真言・念仏宗信者から恨みを買って夜討ちをかけられたり、命を狙われたりする法難が続くことになった。伊豆流罪になったりするが中でも最大の難は1271年50歳の時竜の口で首を切られることになり死刑執行侍が刀を振り上げた瞬間光物が現れ、一同驚いて死刑は中止になり佐渡流罪になった。恐らく雷だったのではないかと思っていたが、その後様々な研究がなされて雷ではなく、流星のかけらみたいなものだったのではないかと言われている。この不思議な出来事で自らを上行菩薩と内証し、佐渡から信徒に何通もの書状を書き、南無妙法蓮華経が書かれた曼陀羅も渡した。3年後佐渡流罪を許されて甲斐の国身延に入山して弟子の指導に当たった。その時の講義の内容を後で一番弟子の日興が筆録してまとめたものが御義口伝である。御義口伝の思想の①は種脱相対で日蓮の法華経は従来の法華経28品ではなく、南無妙法蓮華経を指すものである。②は日蓮本仏が示されている。末法に広めなければならないのは釈迦の法華経28品でなくその奥にある南無妙法蓮華経なのだから教主も28品を説いた釈迦でなく南無妙法蓮華経を説いた日蓮になるのは必然である。③は法華経の生命論的把握で法華経を釈尊一仏による説法として固定的にとらえるのでなく、万人に当てはまる普遍的法理を見出していくことが必要である。法華経の普遍的、生命論的解釈は苛烈な弾圧に耐え、法華経を実践の中で身読した日蓮のみが到着した境地である。本書には数えきれないくらい日蓮の手紙(御書)が引用されているので一々紹介できないが、立正安国論のテーマは何だったのか著者の言葉を借りて紹介する。様々な迫害を受けながら国家諌暁した日蓮の心底は、国家及び権力が存在する意義は、民衆の生命、生活を守るためにあるという民衆根本の国家観があった。それには低い教えである念仏や禅宗ではだめだという強い思いがあり、身命をかけて戦ってきたのだと思われた。晩年、自らの病状が重く、食事も殆ど食べられないような時に弟子南条時光が命にかかわるような重病に陥った。その時自らの体調も顧みず、渾身の力で時光宛ての激励のお手紙を書いている。時光は師匠の鬼神をも呵責しているお手紙の気迫に触れ、無事回復したが師匠自らはそれから8か月後に入滅なされた。日蓮という人類史的巨峰に近づくために著者の須田晴夫さんは多数のお手紙(御書)を閲覧し、参考文献を調べて精一杯書いて下さっていたが、467ページのこの本ではとても書ききれなかったと思う。その本の感想もとてもこここで書ききれるものではないが、日蓮大聖人を知って頂く一助になって頂ければと思って書いた。
2023.02.26
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カランコエ今、須田晴夫さんが書かれた「新版日蓮の思想と生涯」を読んでいるが、中々進まなくてやっと日蓮の代表的著作「立証安国論」の叙述にさしかかった。立正安国論というのは客と主人の問答形式の著作で客は北条家支配を確立した北条時頼、主人は日蓮とする会話形式の諌暁書で時頼はじめ当時の鎌倉幕府の指導者層に配布した。10の問答があり、最後の問答は客の発言のみで締めくくられている。時頼というのは大河ドラマでの第2代執権北条義時の子供で誠実な人柄として描かれていた3代執権北条泰時の孫で、第5代執権になって出家後最明寺入道と呼ばれた人物である。日蓮は他の著作では真言、禅宗なども破折しているがこの安国論では主として念仏宗を破折している。自己を否定的にとらえる罪悪感と死後への恐怖をかき立てる教えでは外敵が攻めてきた時や苦難に遭遇した時力になってくれない。娑婆世界こそが仏国土であり現実世界での幸福の実現を目指す法華経と対極をなすものでありそのような教えを国家が支持していたら国が滅びてしまうと述べており、日蓮仏法は国家権力に庇護されたり国家と関係なく内向的に信仰する宗教と違い国家に働きかける宗教であることを示した画期的な著作であり、行動であったと須田さんは述べていた。主人と客が問答する形式の薄い冊子だがそのような深い意味があったのかと教えられた。この安国論に対して時頼始め幕府用人は何の反応も示さなかったが、日蓮によって攻撃された多数の念仏者の暴徒が安国論提出の40日後、日蓮の松葉ケ谷の草庵を襲撃して日蓮を殺害しようとした事件が起きた。安国論の次はこの松葉ケ谷の法難の所から読み継ぐことになる。
2023.02.09
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4階病棟の廊下に小さな本箱が置いてあり、その中に古ぼけた「続この道」という写真中心の本があり、なぜか目についたので回診の帰りに医局に持ち帰って読んだ。その本の著者は障害者福祉ホームの所長井出たけ子さんが写真を解説するような形で書いた本であった。教師をしていた井出さんは21歳頃同僚の先生と結婚し、長男が生まれた。学校の近くに家を借りて生まれた直後から学校の休み時間に授乳に行くと言う今では考えられないような育児生活を送っていたが長男は生後3か月頃40度の発熱が続き、脳性小児麻痺の診断で、色々な病院にかかったが結局治らない病気だと告げられ、手足に障害が残った。それから我が子も含めた障害児の教育、訓練、授産施設の建設へと突き進んでいくことになった。その当時障害者に対する教育や福祉関係体制は今よりずっと整っておらず、県や国に陳情したりして教育施設を作り、障害者の生きる場を作り、障害者が働く場所(授産施設)を作り、最後には家族と障害者が一緒に住める障害者福祉ホーム建設までご主人の協力を得ながらやり遂げたのだ。本はその流れを写真つきで説明していた。施設の壁に 夢は見るもの描くもの 描いた夢は消えぬ間に 確たる姿で残すこと 井出たけ子 の標語が貼ってあった。井出さんは自分のことを「為せば成る」が口癖だった祖母の血を引いていると思い、為せば成るの精神でがむしゃらに突き進んできたとのことである。競馬では競走馬の値段は祖父母の血統証で決まるとのことだが、人間でも親よりも祖父母に似ている人が多く、そう思っている人も多い。私も父より祖父に似たのではないかと思っているが、井出さんも「何でも本気でやれば出来るのだよ」といつも言っていたおばあさんの薫陶をうけて育ってきたので殆ど不可能と思えることにも挑戦し、それを突破して若き日に夢見たことを成就したのである。ところで夢の障害者福祉ホームを作り上げた井出さんの息子さんはどうなったのか?息子さんはその時55歳になっていた。息子と同じような障害者のために必死で戦ってきた井出さん。障害者だって不自由な体だけれど「やれば出来るのだ。そのために自分は献身する」という信念で突き進んできたが、教育施設を作り、授産施設をつくり、不自由な体でも字を書いたり、折り紙折ったり、仕事だって出来るようになれるのだと思って必死で障害者たちを教育、指導してきたが、いつしか生徒の一人である息子の心に不満がたまり、心を病むような状況をきたしてしまった。自分は為せば成るの精神で突っ走ってきたが、誰でもがそうできるわけではない。障害者にとって過剰な期待や負荷はなかったか反省した。こちらはできると思っても障害者にとっては高すぎるハードルがあったのかもしれないとも思った。自分も新しくできた障害者と家族が一緒に住める施設の一員として入居し、息子の気持ちに寄り添って一緒に暮らしていこうと思っていると述べていた。障害のある息子を思う一念が同じような子供全体のことを思い、県下の障害児のための施設充実に生涯をささげてきたが、息子のケースを思えば他の子供さんも同じように辛いことがあったかもしれないとも思えた。夢に向かって突進して、その夢を掴んだと思えてもまだまだそれは完全なものではないかもしれない。しかし井出さんは想像を絶する戦いをして県下の障害者福祉政策に大きな足跡を残してきた。県の障害者の福祉環境の前進、向上のために、全財産、全精力、全智力を捧げて下さった井出さんに心から感謝申し上げたい。
2023.02.06
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宮沢賢治は生前自費出版した詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」2冊しかなく、世間に全く知られていない存在であったが死後人生詩「雨ニモマケズ」が発見されて以来、国民的人気作家となり、今では夏目漱石、芥川龍之介を超え世界中で読まれている作家である。世界中の人達が共感を寄せているのだ。しかしその作品の多くは難解で300冊以上の賢治研究書が出版されてきたが神秘に包まれてきた。私も賢治の作品をいくつか読んでみたが「雨ニモマケズ」以外はあまりよく分からなかった。ところが菅原千恵子さんが書いた「宮沢賢治の青春~たった一人の友保阪嘉内をめぐって」を読んだら難解の理由が氷解し、今まで読んだ作品の意味もよく分かるようになった。賢治自身がある友人に「私の書いたものは絶対誰にも分からないと思う」と語ったとのことだがそれもその筈、それは一般向けでなく、唯一の友、保阪嘉内に向けて書いたものなので、嘉内が読めばすぐわかる内容だが、一般の人には何のことかわからなかったのであると菅原千恵子さんは書いている。菅原さんがこの本を書けたのは昭和43年(1968年)に保阪嘉内の息子 保阪庸夫さんが賢治から嘉内に宛てた手紙72通を「宮沢賢治ー友への手紙」として公表したからである。その手紙の中には賢治の嘉内に対する切実な気持ちや悩みが切実に書かれており、賢治の作品を読み解くカギがふんだんに書かれていたのである。したがってその本が公表される以前と以後では作品の評論もずいぶん変わってきた。中でも菅原さんのこの本は賢治の心の動きまで含めた実に詳細な伝記になっており、この本を読めば賢治の本当の姿が分かる。宮沢賢治とその作品に興味のある方には強く一読をお勧めする。
2023.02.05
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菅原千恵子さんの「宮沢賢治の青春」の中で賢治の「冬のスケッチ」に関する考察が書いてあった。冬のスケッチは賢治が保阪嘉内と別れた後に書かれたものだが、悲しみに満ちた表現が多い。例えば ひたすらにおもいたむれどこのこいしさをいかにせんあるべきことにあらざればよるのみぞれを行きて泣く など恋しい人と別れた悲しみが延々と綴られている。多くの賢治研究者はこの時期に賢治に好きな女性がいてその女性と別れた悲しさを詠んだものだとしているが菅原さんは法華経一筋だった賢治にその時女性の恋人はいなかった。妹トシを恋人としてその病気を悲しんで詠んだのではないかという評論家もいるがそれも違う。失恋の相手は保阪嘉内だったと述べている。大好きな保阪嘉内と世界一の法華経を保って生きていくことを夢見ていた賢治は久しぶりに東京で会った時に、熱心に法華経入会を勧誘した。それにに対して嘉内は「法華経信者として生きていくための具体的な望みや願いは何か?ただ南妙法蓮華経を唱えるだけでなく、具体的な生活法を教えてもらいたい」と質問した。賢治は嘉内と一緒に信仰の道を歩んで行きたいと夢中になっていたが、嘉内の質問に的確に答えることが出来なかった。「そのような曖昧なものに入ることは出来ない」と嘉内は決然と去って行き、賢治は取り残されて悲しみのどん底に突き落とされた。それまで賢治は「南無妙法蓮華経」と唱えながら街中を歩くほど熱心だったが、嘉内と別れた後は法華経の表現方法も折伏一辺倒から変わってきた。総ての人を幸せにするという法華経なのにこんなにみじめで不幸な状態になってしまったと法華経に対する疑問も湧いてきた。いずれにしても保阪嘉内に去られた悲しみは耐えきれなかったと思われる。殆どの評論家が賢治にかくれた恋人がいたのではないかと推察していたが、私は菅原さんと同様、嘉内と別れた悲しみを詠っていたのだなと思った。男でも女でも最愛の人と別れるのは辛いものだと思う。
2023.02.03
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【中古】 宮沢賢治の青春 ただ一人の友 保阪嘉内をめぐって価格:19900円(税込、送料無料) (2023/2/1時点)楽天で購入今菅原千恵子さんが書かれた「宮沢賢治の青春-たった一人の友 保阪嘉内をめぐって」を読んでいる。以前552円で買った文庫本である。今も売っているかと楽天ブックで調べたら電子書籍で660円で売っていた。紙書籍では売っていなくて古本を売っていた。古本だからさしずめ100円か200円だろうと思ったら何と19900円で約2万円だった。今は電子本の時代だが紙の本を読みたい人も多いのだなと思った。本の内容は宮沢賢治は盛岡高等農林の2年の時1学年下の保阪嘉内と寮で同室になり無二の親友になった。賢治が3年になった時は寮を出ているが保阪嘉内と岩手山に登りお互いに目指すものが自己犠牲で一致し、賢治はまことの国の建設が目標で、嘉内は農民のパラダイス(楽園)の建設で意気投合した。同人誌アザリオを創刊し、お互いの友情を深めていた。ところが嘉内が2年生の時アザリオに「社会と自分」という文を投稿しその中に「おい今だ、今だ、帝室を覆すの時は、ナイヒリズム」という箇所があり、いきなり退学を命じられてしまったのだ。傷心の嘉内に対し賢治は法華経を一緒にやっていこうと強く勧めるがうんと言ってもらえなかった。傷心の嘉内にはさらに母親の死がのしかかったが、その時も賢治は法華経の南無妙法蓮華経を唱えて母親の成仏を願い、共に法華経の信者として進んでいこうと折伏するが嘉内の心は動かなかった。賢治が法華経の信者団体国柱会に入った時、嘉内が軍隊に入営しした時 二人が東京に来たので、その時に二人が何年ぶりかで直接会って話し合ったが、宗教のことで激しく言い合い、ついに喧嘩別れしてその後の音信がなくなり決別になってしまった。生涯の友として慕っていた嘉内に去られた悲しみは想像を絶するものだったと思われるがその後賢治は立ち直り「銀河鉄道の夜」を始め嘉内に語りかけるような気持ちで次から次に童話などを書いていったという内容であった。賢治にとっては唯一の心の友,保阪嘉内に72通の手紙を書いて法華経への帰依を勧めるが嘉内は応じなかった。その交流の様子は保阪嘉内の息子さんが宮沢賢治からの72通の手紙を公開してくれたことから明らかになり、貴重な資料である。嘉内との友情そしてその決別が宮沢賢治が多くの作品を生む原動力になったのではないかと著者は述べているが、青春時代の友情やその蹉跌はその後の人生に大きな影響を与えるものだなと思った。
2023.02.01
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宮沢賢治は1993年(昭和8年)9月21日に喀血(結核)して37歳で亡くなったが、亡くなるまでに実に多くの詩や童話を書いており、いくつかの作品を自費出版しているが全く注目されていなかった。亡くなった翌年の1934年2月16日にホテルで賢治を偲ぶ会が行われた際、賢治の弟、宮沢清六が賢治から託されたトランクを戦火を免れた蔵から発見して持参した。トランクの中に賢治が使っていた黒い手帳があり、その中に雨ニモマケズの詩があり、それを回し読みして多くの人達の心に残り、地元の新聞にも紹介されて、一躍、宮沢賢治の名が広がったと言われている。賢治の作品は難解なものが多く、雨ニモマケズが見いだされなければ、ずっと誰にも知られない無名作家で終った可能性が高い。雨ニモマケズはカタカナと漢字で平易に書かれており、大人から子供まで誰にも理解できる内容で、社会に受け入れられ、それにつられて難解な他の作品も次々に宮沢清六等によって出版され、多くの人に読まれるようになった。いわば賢治を世に出すきっかけになった作品だがいつどこでどのようにして生まれた作品であろうか。賢治は盛岡高等農林卒業後東京に出て法華経の国柱会での活動をするが、妹の病気の看病で郷里花巻市に帰り花巻農学校の先生になった。先生をやりながら理想の花園農村建設を目指して、羅須地人協会を作って活躍するが、共産主義的活動だとして官憲に見張られるようになり、羅須地人協会を辞めて東北砕石工場の技師兼営業マンとして働いてた。雨ニモマケズの詩を書いた手帳の日付けが1931年(昭和6年)11月3日になっていたが、その頃は病気で東北砕石工場を休んで自宅で場闘病中だったと推察されている。雨ニモマケズの最後はソウイウモノニワタシハナリタイで結ばれており、そういう者にまだなれていない時に死に見舞われてしまい、志半ばで無念の死だったように思われたが、死後、雨ニモマケズが発見されたおかげで志を遂げたのではないかと思う。
2023.01.24
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1/18から始まった県立美術館の書道展で目にした金子みすずの詩を書にしたもの。金子みすずは大正末期から昭和の初めに活躍した詩人で26歳で夭折した。宮沢賢治の二つ違いの妹トシは、鈍重な兄と違って利発で可愛く成績優秀で誰からも愛されていたが、日本女子大学卒業後代用教員などしていた頃、結核にかかり賢治達に見守られながら24歳の生涯を閉じた。賢治は妹についていくつもの詩を読んでいるが 無声慟哭 永訣の朝 の冒頭部分を紹介する。けふのうちにとほくにいってしまうわたしのいもうとよみぞれがふっておもてはへんにあかるいのだうすあかくいっそう陰惨な雲からみぞれはびちょびちょふってくるあおいじゅんさいのもようのついたこれらふたつのかけた陶椀におまえがたべるあめゆきをとろうとして わたしはまがったてっぽうだまのやうにこのくらいみぞれのなかに飛びだした蒼鉛いろの暗い雲からみぞれはびちょびちょ沈んでくるああとし子死ぬといういまごろになってわたくしをいっしょうあかるくするためにこんなさっぱりした雪のひとわんをおまえはわたしにたのんだのだありがとうわたしのけなげないもうとよわたしもまっすぐにすすんでいくから(あめゆじゅとてちてけんじゃ)・・・・・・妹というより恋人のように思っていたトシの死は悲しくて2年間は何も書く気力も無くなってしまった。家の宗教は浄土真宗で南無波阿弥陀仏、賢治は法華経で南無妙法蓮華経、兄賢治に勧められて唯一南無妙法蓮華経を受け入れてくれた妹だった。親友保阪嘉内でさえ宗教の問題では拒絶して絶交になってしまった難題、実家でも政次郎はじめ兄弟親せきに法華経の素晴らしさを語ったが、誰も応じてくれる人はいなかった中で唯一人トシだけが同調してくれたのだ。結核を病んでいたトシは離れの一軒家で常時お手伝いの心優しい細川キヨさんに面倒を見てもらい臨終の時まで面倒を見てもらっていた。賢治も病状が悪化したころは二階に泊まり込みでトシの看病にあたっていた。ところが時々二階から降りてきてトシに手を合わせて南無妙法蓮華経と唱えることを強制する賢治を見てキヨさんは何と無神経なお兄さんだろうと思った。こんなに弱っているトシさんに無理やり手を合わせて何妙法蓮華経を唱えさせることは益々弱らせることになるのではないかと思ったそうである。恐らく賢治は信仰の力でトシが病気を克服できると確信していたからだと思うがキヨさんには理解できなかった。亡くなった後火葬して遺骨を収集する時、政次郎達は代々浄土宗なので当然すべての遺骨を集めようとしたら賢治が「法華経に帰依していたから法華経側で頂く」と言い出して、結局遺骨を半分ずつに分けたとのことである。気が弱かった賢治だが、こと信仰に関しては一歩も譲らない強靭さがあった。美人薄命とよく言われるが、気だてがよくて美しい人は早く亡くなってしまうものなのだろうか。悲しい現実だと思った。
2023.01.21
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宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにした演劇を観に行ってから宮沢賢治に関する本を色々読んでいるが、その中に東大戦没学生の手記「はるかなる山河に」があった。これは東大生が学徒出征して、戦死した学生たちの手記をまとめたものだ。それを読んでいたらその手記の中に宮沢賢治の童話のことを書いていた学生がいたので紹介する。それは経済学部学生 佐々木八郎さんの手記で東大2年生の時、昭和18年11月10日の出陣に際して書かれたものである。彼は昭和20年4月14日沖縄の海上で特攻隊員としての任務を果たして戦死した人である。その手記の題は「愛と戦と死」だった。副題は宮沢賢治の「烏の北斗七星」に関連してだった。冒頭から宮沢賢治について書いているのでそのまま引用させて頂く。「宮沢賢治はその生い立ち、性格から、その身につけた風格から、僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人であるが、彼の思想、言葉を変えて言えば、彼の全作品の底に流れている一貫したもの、それがまた僕の心を強く打たないではおかないのだ。『世界が全体幸福にならない中は個人の幸福はありえない』という句に集約表現される彼の理想、正しく清く健やかなものー人間の人間としての美しさへの愛、とても一口には言いつくせない、深みのある、東洋的の香りの高い、しかも暖かみのこもったその思想、それがいつか僕自身の中に育まれてきていた人間や社会に対する理想にピッタリ合うのである。『烏の北斗七星』中に描出された彼の戦争観が、そのままに僕の現在の気持ちを現しているといえるような気がする。佐々木さんがそれほどまでにほれ込んだ賢治の『烏の北斗七星』とはどんな童話なのかと青空文庫で検索してプリントアウトして読んだ。A4版5枚の童話だった。烏の軍隊が山烏と戦争する話で、烏の大尉にはいいなずけの烏がいた。大尉は明日山烏との戦争に自分に出撃命令が出された。戦争なので死ぬかもしれない。その時はいいなずけは解除だから他の烏の所に嫁に行ってくれというが、いいなずけは「それはあまりにひどいわ」と泣き崩れる。戦争は大尉などの活躍で山烏に勝つことができて大尉は少佐に昇級する。昇格した少佐は北斗七星に向かって「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、私の体などは何べん引き裂かれてもかまいません」と祈る。これが大体のあらすじだが佐々木さんががなぜ特攻隊を志願したかについては「日本に生まれた人間としてその運命のままに戦い、お互いが全力を尽くすところに世界史の進歩もあると信じ、人間らしく卑怯でないように生きたい」としているが志願理由を文章にするのは難しかったと思う。その時の青年たちの考えは様々だったと思うが、基本的にはお国のために尽くすというのは子供の時から刷り込まれた考えで、そのためには命も惜しまないと考えた若者は多かったと思う。そのような状況の中で宮沢賢治に憧れた青年がいたのかと思うと救われたような気がした一方、戦争の悲惨さを改めて思った。
2023.01.19
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佐々木時雄氏が書かれた「よだかの星ー宮沢賢治を読む」を読んでいる。宮沢賢治の生い立ちから37歳で亡くなるまでの思想的背景などについて書かれた388ページの大作である。盛岡中学を卒業して友人達が大学進学しているのに自分は父政次郎の反対があって進学は諦め、畑作業や古物販売及び質屋の家業を手伝っていた時、政次郎の友人高橋勘太郎から送られてきた島地大等編『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで異常な感動を覚えた。中学卒業までの賢治の評判は数学は苦手で落第点が多く、物理化学の点も悪かった。運動神経の鈍さはクラスでもとびぬけていて軍人上がりの体操の教師のかっこうのなぶりものになっていた。卒業時の成績はびりから数えた方が早く、本人も悩んでいた。所がその『妙法蓮華経』を読んでから生まれ変わったように元気になり店番もいとわず受験勉強に励み盛岡高等農林学校に首席で合格し入学式で代表として誓文を読んだと言うからその代わり様には周囲も驚いた。熱心な信者で竜の口法難650年の夜は一晩中題目を上げながら道を歩いて道行く人に奇異な目で見られたということである。自分はこの法華経が世界最高の生き方だと確信したので家の近くにビラを貼ったりして啓蒙に勤めた。盛岡高等農林時代の親友保阪嘉内にもこの本を送って一緒にこの信仰をしようと折伏したが嘉内は受け入れることが出来ず言い争いになり、絶交状態になり、その悲しみを書いたのが童話「銀河鉄道の夜」と言われている。いくら素晴らしい宗教だと言っても大親友の嘉内に退けられ、家族でも賢治の言うことを聞いて一緒にやってもいいと言ってくれたのは妹のトシだけであった。おなじ信仰の同志としてトシが病に倒れた時には東京に行って下の世話までして看病していた。賢治は沢山の童話を書いているが、殆どが自分の影の投影であり、法華経信仰の中で頭に浮かんだ情景である。最愛の妹トシは日本女子大を卒業させて頂いたが賢治よりも早く若くして亡くなってしまった。多くの作品に妹トシのことやその死について書かれているが賢治とトシの深い関係を知らないと理解できないかもしれない。本日読み始めたばかりだが面白いので一気に読んでしまおうと思う。
2023.01.17
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須田晴夫さんが書かれた新版日蓮の思想と生涯を読んでいる。481ページの厚い本で難解な古文も多く中々進まないが結構面白い。日蓮は1222年(貞応元年)2月16日(現在の暦では4月6日)に安房国長狭郡東条剛片海(千葉県鴨川市)の漁村で誕生した。当時鎌倉仏教を代表する高僧、法然、親鸞、英西、道元らは全て貴族や武家などの支配階級から出ているが日蓮だけが漁業を生業とする民衆のの出身だがそれを劣等感としないで「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ云々・・」と民衆の出身であることを誇り高く宣言している。漁師の子供であったが12歳の時、東条郷にあった清澄寺に入れてもらって学習を開始した。「日蓮幼少の頃より仏法を学び候いしが、念願すらく人の寿命は無常なり。・・・かしこきもはかなきも老いたるも若きも定めなき習いなり。さればまず臨終のことを習うて後に他事を習うべし」と幼少の頃からこのような問題意識をもっており、16歳の時には「日本第一の智者となしたまえ」の願いに対して虚空蔵菩薩より大宝珠を頂いた夢想体験をしている。そして「一切経を見候いしかば、八宗並びに一切経の勝劣ほぼこれを知りぬ」と述べており、すべての経を勉強し八宗派の優劣もほぼ分かったと述べており、大変な勉強家で大変な自信家だったのだなと思った。まだ読み始めたばかりだが、大変興味深いので、ずいぶん厚い本だがなんとか読み切ろうと思っている。
2022.12.25
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君たちはどう生きるか [ 吉野源三郎 ]価格:1430円(税込、送料無料) (2022/12/10時点)吉野源三郎さんの「君たちはどういきるか」を読んだ。1937年(昭和12年)発刊なので古い本だが、現在にも通じる内容と言うことで2017年に装丁も新しく漫画版と同時発売された本である。主人公本田潤一君は旧制の中学2年生、友人の北見君が5年生の柔道部の黒川らに鉄拳制裁を受けるという噂が流れる。仲良しだった本田、水谷、浦川は指切りをして、もし北見君がやられそうになったら自分達も出て行って一緒に殴ってくれと言おうと約束した。そして雪の降る日の校庭で事件は起きた。上級生たちの作った雪だるまを北見君が壊したとの言いがかりである。「すみませんでした」と謝ったが「声が小さい」「あやまる態度が悪い」と詰め寄られ「これからは下級生らしく上級生に従うか?!」と言われて北見君は「嫌です」と言ったものだから殴られそうになった時、浦川君、水谷君はその場に駆けつけ北見君を守ろうとした。「お前らはひっこんでいろ」と突き飛ばされたがなおも起き上がって上級生と北見君の間に入ろうとした。本田君も行こうと思ったが体がぶるぶる震えていて出て行くことが出来なかった。「他に北見の仲間がいるなら出てこい」と上級生が叫んでいる時も進み出ることが出来なかった。やがて北見、浦川、水谷の3人は殴られるだけ殴られて3人肩を抱き合って教室の方に戻っていった。浦川君がちらっと本田君の方を見たが、約束が果たせなかった自責の念はそれからずっと本田君を悩まさせることになった。勇気のなさ、意気地なし、友達から絶縁されても仕方ない、死んでしまいたい、様々な想念が浮かび苦しみ続けていた。自分がだめな人間だからこんなことになってしまったのだと一人で悩んでいたが、かねてから相談相手になってもらっていたおじさんから問い詰められて遂に打ちあけた。おじさんからは「人間だれでも間違うことはある。ともすればなんやかやと言い訳を考えたりしがちだが、しっかり反省し、謝ることが大切だ。手紙を書きなさい」とアドバイスを受けて手紙を書いて結果的に4人は元通りの友情を取り戻すことが出来たと言う話である。私にも同じような経験がある。中学1年の時皆で遊んでいた時友人の一人が鎖骨骨折してしまった。友人なのだから真っ先に駆け寄って保健室につれていってやるべきなのに事故に関わりたくないと思ってその他大勢の内の一人として遠くから見ていた。意気地なし、卑怯者と自分を責めてその時の事は今でも事あるごとに思いだされる。本田潤一君の件ではアドバイサーのおじさんが、「人間は自分を意気地無しであわれな人間だと認めることによってその偉大さが現れる。樹木は自分は哀れだとは認めない」と本田君を激励している。人間は誤りを犯すがそれを反省する能力を持っている。誤りを犯してもそれを反省して次に生かしていけばいいのでそれが人間の偉大さだと肝に銘じて生きていこうと思った。
2022.12.10
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朝ドラ「あさが来た」の原作者古川智映子さんの「負けない人生」を楽天で注文したらすぐ送ってきたので昨日と今日で読み切った。冒頭に離婚の話が出てくる。有名私立大学の助教授だった夫と仲良く暮らしていたが家を新築した直後32歳の時、夫が大学の教え子といい仲になり、突然家を出ていってしまい、その女性と一緒に住むことになってしまった。あまりのことに呆然自失してしまい、生きる気力も無くなってしまった。食べる物にも困り野原の野草などを摘んできて食べたりしていたとのことである。そんな時に知り合いの人から「この信心をすれば宿命転換できて必ず幸せになります」と言われれ、悲しく落胆していたのでその人の言うとおりに信仰に励んでみることにした。教員免許があったので高校の教師に復帰し、傍らで小説を書く生活が始まった。女性の生き方に関心があった古川さんは、実業家で大同生命や日本女子大を創設した広岡浅子について調べ、ゆかりのありそうな場所をあちこち訪ねて関係者から取材し、実業家・広岡浅子の生涯「土佐堀川」を書きあげた。その間、緑内障になったり、変形性股関節症や胆石症の手術を受けた。力作「土佐堀川」をやっとの思いで書き上げたが出版する術を知らず長い間引き出しの中で眠っていたが、師匠のご配慮でやっと出版してもらえる道が開けたが、あまり売れなかった。ところが出版から27年たったある日、大阪市中央公会堂裏の府立中の島図書館にあった「土佐堀川」が朝ドラテーマを探していたNHKプロデューサーの目に留まり、第93作目の朝ドラに決まり「あさが来た」の題名で放映された。無名だった古川さんはいきなり有名人になり、その原作本も何10万部も売れた。その喜びもつかの間、朝ドラ放映後しばらくして、今から5年前の85歳の時に悪性リンパ腫にかかり、全身に転移しており、命が危ぶまれたが、2年間の治療で奇跡的に転移巣が消えて、ほぼ治癒した。すごい体験だなと思った。最後は「かってあまりに不幸だった自分を顧み、今苦しんでいる人がいたら、奮起して宿命と取り組んでいただきたい。何としても幸福になって頂きたい。負けない人生を歩んで頂きたい」で結んでいた。離婚や不治の病と言われる病気を克服して、90歳の今も元気で活躍している姿は輝いてみえた。
2022.11.20
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庭のガーベラ古川智映子さんの「負けない人生」先日、ラジオでNHK2015年下半期の朝ドラ『あさが来た』の原作「土佐堀川」の作者古川智映子さんのインタビューを聴いた。悪性リンパ腫などを克服して現在90歳とのことだがその声の若々しさに驚いてしまった。インタビューアーの女性よりずっと声に張りがあり最初どちらが90歳超えの古川さんなのか分からなかった。古川さんは辛い離婚を経験し、病気で8回も手術したり、血液の癌である悪性リンパ腫にかかったりして苦難の連続だったとのことである。七転び八起きの言葉があるが、自分は九転十起をモットーにしているとのことだった。九転びどころか何十回も転んできたがそれに負けないで生きてきたとのことである。自分は勝(かつ)という言葉には縁がなかったが、全てのことに負けないできた。と、きらきらするような明るい元気な声で喋っていた。小説家ではあったが売れない作家で、広岡浅子の伝記「土佐堀川」を書いた時もそれほど売れず有名作家でも何でもなかったのに、NHKの編集者がたまたまその本を図書館で読んで、朝ドラに採用され、その朝ドラが、今世紀になっての歴代朝ドラの内、いまだ最高の視聴率を保っていると言うのだからすごい幸運の持ち主だったのだと思う。しかし実際には苦しいことばかりだったとのことである。だが負けなかった。「冬は必ず春となる」で辛くて寒い冬の季節は必ず花咲く春になるのが自然の流れなので、自分はどんなに辛くてもじっと我慢して春を待っていたとのことである。最後にラジオ聴いている人に一言と言われ「どんなに辛いことがあっても必ず春はきますので負けないでがんばって下さい」で結んでいた。「負けない人生」が単行本になったことも話していたので、ネットで調べてみたら880円で発売されていたので早速注文して読むことにした。人が歳を取るのは当たり前のことと思っていたが、声の調子や話の内容から人間が歳を取るのは当たり前のことでなく、歳をとらない人もいるのだなと思った。そして病気にも負けない人がいるのだなと思った。
2022.11.14
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庭のドウダンツツジが色づいてきたインドネシア元大統領アブドゥルラフマン・ワヒド氏と創価学会名誉会長池田大作氏の対談『平和の哲学・寛容の知恵』(2010年刊行)を読んでいる。副題に「イスラムと仏教の語らい」が付いていた。イスラムと言えばイスラム過激派ISとかタリバンなど暴力的で男女差別、自爆テロなどが思い浮かぶが、この本を読んで少しその思いが変わってきた。ワヒド氏は2億3千万人の人口を有し、そのうちの90%がイスラム教のインドネシア共和国の元大統領である。さぞかしコチコチのイスラム教信者だと思ったら大変な平和主義者で寛容な心を持った人だった。第1章平和こそ宗教の使命、第2章世界にかける友情の橋、…第8章新時代を開く女性と青年、の8章から成っており、まだ第2章の中程まで位しか読んでいないが、その内容のすばらしさに感動している。ワヒド氏は「青年には自身の利益だけを考える人でなく、社会の利益を考える人、世界の平和共存のために行動する人になってもらいたいと願ってやみません」「私は困難を困難と思ったことはありません。視力を殆ど失った時も、大統領就任の前年に大病を患った時もまず神が与えることはそのまま受け入れようと思い、同時に『自分がベストを尽くそう』と決意しました。ですから自分の運命を嘆いたことは一度もなく、そのことによって自分の仕事が止まることのないよう今日まで努力してきたつもりです」と述べている。イスラム教徒でもこのように素晴らしい人がいたのかと感嘆の連続である。この本のマレー語の翻訳が出たという新聞記事から興味を持ち、ネットで検索して注文したらすぐ購入できた。良い本に巡り会えて感謝している。
2022.11.08
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「人生は自分が思うようにならない」長年の経験からそれが人生というものだと思い込んでいる人が多いのではないかと思う。私もその一人で「神にどんなに願っても叶えてもらえない」と神を恨んだり、人生とか自然界というものは人が思った通りにならないものだと思ってきた。所がその考えに敢然と異を唱える人がいたのである。先日90歳で亡くなった稲盛和夫氏である。氏は著書「生き方」の中で、「思い通りにならないのが人生だ」と考えている人は、その通りの結果を呼び寄せているのであり、真実は「自分が本気で思っている通りになるのが人生なのですよ」と書いている。「人生はその人の考えた所産であり心が呼ばないものが自分に近づいてくるはずがない。その人の心の持ち方や求めるものがそのままその人の人生を現実に形づくっていくのであり、そう思っていない方向に行くことはない。人生は思い通りにならないというのは迷信で本当は人生は思った通りになっているのである。従ってまず自分はこうなりたい、こうなるべきだと誰よりも強く、身が焦がれるくらいの熱意をもって願望することが大切だ」と述べていた。願望には個人的な願望と社会を良くするための願望があるが、自分の成長と社会の幸福のための願望をしっかり心底にもって努力していくことが必要なのだなと思った。
2022.10.05
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ムラサキゴテン和田秀樹さんの『60歳過ぎてから老ける人老けない人』などの一連の健康書を拾い読んだ。60過ぎたらキャバクラ通いは恥ずかしいことと世間で思われたり自分でも思ってしまっている人が多いがそんなことはない。若い人とふれあって身も心も若さを保った方が良い。会社務めの間は嫌いな人とも付き合わなくてはやっていけないが、定年過ぎたら気の合う好きの人と気兼ねなくつきあえばよい。ストレスのない生活が若さを保つ秘訣である。「高齢になったら運転免許返納しましよう」とマスコミで煽っているが、統計では高齢者事故が特別多い訳ではない。高齢者の事故を大々的に取り上げて「だから高齢者は免許証を返納ましよう」と宣伝されているがそのマスコミ報道に振り回されてはならない。運転免許証は絶対返納してはならない。それだけ生活範囲が狭くなり、前頭葉がやせ細り、老化の道まっしぐらになってしまう。と述べていた。高齢になると判断力が衰え、事故を起こしやすくなることが考えられるが、統計では特別高齢運転の事故が多いわけではないとのことだが、それは和田さんの統計の読み方も関係しているかも知れない。和田さんにもマスコミにも高齢者事故に関するきめ細かな実際のデーターを示してもらいたいと切に望むものである。私の想像では綿密なデーター調査を行えば高齢者は事故が多いと推察するが、だからと言って免許返納しなければならないとは思わない。より慎重に運転することを心掛け、自分で運転が無理だと思える時がきたら潔く運転を諦めるのは当然で、何歳になったら免許返納しようとは考えていない。
2022.09.07
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アサガオバラク・オバマ氏が書いたDreams from my father(日本語翻訳版 マイ・ドリーム)をようやく読み終えた。原著の題名は「私の父の夢」だが翻訳本の題名は「マイ・ドリーム」になっている。内容はオバマさんが結婚する前に自分のルーツを探しにアフリカ・ケニアを訪れて曾祖父や祖父、父親のことを調べて書いているので日本語版の題名も「父の夢」の方が良かったかもしれない。オバマ氏の父親バラク氏はその父オンヤンゴの子として生まれた。母親はオンヤンゴの暴力に耐えきれず3人目の子供が生まれた時にその子を背負って実家に逃げ帰ってしまった。バラク少年(9歳)も12歳の姉サラと一緒に脱走して実家を目指すも2週間目に実家の近くまでたどり着くも発見されてオンヤンゴの下に連れ戻されてしまう。オンヤンゴはその頃ケニアに侵入してきた白人の下で働き西洋的な身だしなみや振る舞いを子供に求めたりして厳しかった。実の母がいなくなった後は前からいた前妻が母親代わりにバラク達を育てた。バラク少年は父親の前ではおとなしいが外ではやんちゃでいたずら好きだった。頭が良くて同級生に教えて先生の誤りを正すくらいだった。高校もエリートが入れる全寮制の高校に入った。所が女の子を自分の部屋に呼び入れたり友達と近所の畑からイモを盗んだり、鶏を捕まえて食べてしまったり散々悪いことをしていたが成績が良いので大目に見られていたがそれが余りにひどくなった時に遂に退学させられた。家に帰ったらオンヤンゴに猛烈に怒られ鞭で叩かれた。オンヤンゴが職を探してくれたがアラブ系の使用主と喧嘩してそこも辞めてしまった。次にある会社の事務員のような仕事をしている時二人の西洋系の女生と親しくなり、彼女らがバラクの才能を認めて大学に行くべきだと勧めたが高校を退学させられているのでその資格はなかった。自分よりずっと頭の悪い連中が大学に進学しているのに焦った。所がその二人の女性が日本で言う「大学入学資格検定試験」が受けられるように手配してくれて合格し、晴れて大学入学資格を手に入れることが出来た。ケニアの大学は勿論アメリカ中の大学にも入学希望の手紙を出したが何処も受け入れてくれなかった。ところが名も知れずどこにあるかも知れないハワイ大学から奨学金付きで受け入れてくれることになった。その時既に18歳で結婚して二人の子供がいた。ハワイ大学2年目には白人のアンと結婚すると言い出しオンヤンゴが「ケニアに妻と子がいるのでアンの父親と自分が話し合ったうえで決めなさい」と言ったがそれもしないで勝手に結婚してしまいオバマ氏が生まれた。所がオバマ氏2歳の時ハーバード大学で勉強したいと言って家を出てしまいハーバード大学時代に新しい白人女性と結ばれてしまい帰ってこなかった。その後バラク氏はアメリカとケニアを股にかけて実業家として成功した時もあるが、最後はアル中になり交通事故で亡くなっている。外見は真っ黒な黒人だが、頭が良くて女たらしのバラク氏の夢は何だったのだろうか?息子を大統領にしたのだから夢を叶えたのかもしれない。アフリカに妻子がいるのにアメリカで白人と結婚とはひどい男だと思ったが、ケニアではその昔一夫多妻制があり、その名残が残っていたのかもしれない。オバマ氏が大統領になったのでその父親として脚光を浴びたが、そうでなかったら単なる無責任男だったのかもしれない。しかしオバマ氏は自分をこの世に出生させてくれた人として感謝と敬意を捧げている。
2022.08.24
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今バラク・オバマ元アメリカ大統領が若い頃書いた「父からの夢」を読んでいる。もう何年も前から読み始めたのに時間がなくてまだ読み切っていないが、全体で442ページあるうち416ページまでは読んだ。 今読んでいる所はオバマさんが自分のルーツを求めてアフリカのケニアに渡り、父のことやお祖父さんのことを聞き取りしている所である。お祖父さんのオンヤンゴが青年時代に白人達がアフリカの地にやってきて勝手に住居税を黒人に請求してそのお金は白人の貨幣で支払わなければならず、白人達が切り開いた農場で働いて得たお金で住民税を払うシステムを押し付けられた。 村人たちの多くはは白人を避けていたが、オンヤンゴは積極的に白人の家に入って食事とか農作業を行って白人から報酬を貰って西洋化した生活を送っていた。サラ(女)、バラク(オバマさんの父)、アウマ(女)の3人の子供が生まれたが奥さんはアウマが生まれた時その子を背負って家を出て、実家に帰り別の男と結婚した。 サラ(12才)とバラク(8才)もそれから数日後家を出て母親の実家を目指すが距離がかなりあるので2週間歩いたが実家に到達できずオンヤンゴの家に戻され、実の母ではないオンヤンゴの別の妻に育てられることになる。 当事のアフリカは夫の妻への暴力は日常茶飯事だったが、オンヤンゴは特にひどくて奥さんは嫌になって家出してしまったのである。いう事をきかなければ直ぐ殴るので誰でも嫌になったと思う。 オンヤンゴは家庭では暴君だったが、社会的には西洋社会から逃れるのでなく積極的に入り込んで行く才気があって頭が良く地域でも一目置かれていた。その子であるバラクも頭が良くて学校の先生よりよくできて先生の誤りを指摘するくらいだった。後に成人して奨学金を貰ってアメリカのハワイ大学に留学できたのは学業が優秀だったからと思われた。ハワイ大学の白人女性と結婚して生まれたのがバラク・オバマさんである。 2世代、3世代前のアフリカ社会を実に細やかに描写しており、ベストセラーになった本である。今は西洋化されてアフリカもかなり変わってきていると思われるが、オンヤンゴの頃は女性の教育は全く無視され、バラクは教育を受けたがサラは受けられなかった。夫の暴力も当たり前のこととして受け入れられていて、オンヤンゴの妻は家出したが、大半の女性は我慢して暮らしていた。女は無能で牛や馬のように叩かなければ動かないと思われていたようだ。 日本でも昔は男尊女卑、夫の暴力があったがこれほどではなかったと思われる。バラク・オバマさんがアフリカを訪れた時には祖父の時代からみるとかなり変わり、オバマさんの腹違いの妹も大学まで行っているがまだまだ女性の地位は低いようだ。それぞれの地域や国によって歴史や文化は異なるが、同じ人間として男は女を、女は男を尊敬し大事にしていく社会を目指してもらいたいものだと思った。
2022.08.18
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庭のヒアシンスが咲き出した昨夜東北地方を震源地とする大きな地震(震度6~7)があり、その影響で当地方も朝方まで停電があった。お亡くなりになった方もあり、被災なされた方々には心よりお見舞い申し上げる。昨日文芸春秋4月号で2月にお亡くなりになられた石原慎太郎さんの遺稿「死への道程」等を読ませて頂いた。遺構は少し難しい表現が多く難解な所もあったが、死の直前まで一緒に暮らした四男の画家石原延啓さんに対するインタビュー記事「父は最期まで我を貫いた」は分かりやすく、慎太郎さんがより身近に感じられ、ほのぼのとしたよい話だった。父慎太郎氏は自由人として誰はばかることなく傍若無人に暮らしてきて死の直前までその姿勢は変わらなかったとのことである。小学校の時はずっと級長で、大学生の時たまたま書いた小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、その後国会議員にも選ばれ、東京都知事にもなった。自分は選ばれた人間だという意識が強かったのではないかと延啓さんは述べている。2年前早期すい臓がんが見つかり千葉県の病院で重粒子線治療を受けて腫瘍を撤退させた時も俺は選ばれた人間だからがんも逃げていくと思っていたに違いない。しかし昨年10月腹痛で受診した時CT検査かMR検査で腫瘍の部分が光る画像でほぼ全身に光るものをみて愕然として余命何か月かと聞いたら3か月と言われて観念して上記「死への道程」を書いた。それが多分に哲学的で難解だったのは「自分は死ぬ時だって女々しくはしていないぞ。選ばれた人間だって死ぬのだ。その死に様をみておけ」というような気迫が感じられれた。画家である延啓さんがみた慎太郎氏の死顔は生きていた時以上に艶があり、生前より優しさが加わっていたとのことである。死してなお尊厳を失わなかったとは大した人間だったのだなと思った。慎太郎氏は自分を選ばれた人間だと思っていた。自分をどう思うかは勝手でこう思ってはいけないああ思ってはいけないと言うことはないがこう思った方が幸せでこう思った方が不幸という思い方があると思う。慎太郎氏とは反対に自分は呪われた人間だと思って暮らしてきたらどうだろうか?学校では先生に怒られてばかり、小説を書いても何時も落選ばかり、恋をしても失恋ばかり、仕事もうまくいかず、体調はいつも悪い。これは自分は呪われているからだと思う。そうすると益々不幸が重なっていく。自分が自分をどう思うかは全くの自由なのだからどうせ自分のことを思うのだったら慎太郎氏のように運が良いように選ばれて生まれてきたのだと思って失敗や調子の悪いことはあまり気にしないで自由気ままに生活するのがいいのではないかと思った。
2022.03.17
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石原慎太郎氏の「老いてこそ生き甲斐」を読んだ。87歳の時書いた本で7年前に脳梗塞を患い老いと死に直面して老いても生きがいはあるのかを思索した内容だった。前半は老いや死について友人だった有名な人達が実名で何人も登場して自殺の詳細なども書いてあるのでプライバシー侵害にならないのか心配した。身内については父親が大きな汽船会社に勤めていたが51歳の時会社の会議中脳卒中で急死してしまった。非常に多忙だったので周囲の人はお疲れになってちょっとお休みにななっているのだろうと思っていたら死亡していたとのことである。つい最近、極親しい医師が診察後薬屋さんと話をしている途中で居眠りしてしまったと思ったら亡くなっていたというショッキングな例を体験したが慎太郎さんのお父さんもそのような死に方だったので昔からそういう死に方があったのだなと思った。弟の裕次郎さんは肝臓がんで52歳で亡くなったが、病名や余命について慎太郎さんは本人に正確に告げた方がよいと思っていた。しかし奥さんの北原三枝さんやマネージャーがそんなことをしたら裕次郎さんがショックで自殺する可能性があるとのことで病名を伏せていたので裕次郎さんは「どうして少しもよくならないでどんどん悪くなっていくのだろうか」という精神的苦悩と激しい痛みや言いようのないだるさで最後まで苦しみながら亡くなったとのことである。私も最近二人の膵臓がん末期の患者さんを受け持ったが一人は病名と余命をはっきり伝えられていたがもう一人は病名は伝えられていたが、余命は伝えらえていなかった。病気の進行状態にも個人差があるので一概にどちらがよいかは言えないが、入院期間中明るく楽しそうに暮らしていたのは余命まで伝えられていた人で、余命を伝えられていなかった人は精神的にも肉体的にも苦しそうで本当にお気の毒な状態だった。裕次郎さんも病名と余命を伝えられていたらもう少し平穏で有意義な余生が送れたのではないかと思った。自殺については慎太郎氏と同じ脳梗塞を苦にして「脳梗塞になり自分は元の○○ではない」という遺書を残して自殺した非常に有名な評論家について書いていた。奥さんの死という悲しいことが重なったとはいえ、慎太郎氏だって今この病気に挑戦し闘っているのだから○○君も戦って欲しかったと述べ、自殺する人は忍耐力がなく、先を冷静に見る力を失い、責任放棄で残念でならないと述べていた。慎太郎氏は脳梗塞で字が書けなくなってしまったがワープロ打ちは出来たので入院中短編小説を書きベストセラーになった。退院後は毎日散歩を欠かさずスクワットやロングブレスの呼吸法を実践して麻痺の克服と筋力をつける努力を重ねてそれが生きがいになってきたとのことである。毎日1時間ほど決まった道を歩いているが途中で娘さんと思われる女性に介助されながら散歩している老婦人に出会うようになった。行き会うたびに互いに声を掛け合う仲になったがいつも晴れやかに笑いかけてくれるので不思議な勇気を頂いた。時間がずれて行き会えない時には寂しい気がして相手の身が心配になった。これも一つの生きがいだったろうなと思った。慎太郎氏には多くの有名人の知己がいたが評論家の渡辺昇一氏もその一人で晩年いくつかの病魔にとりつかれていたが、いつも泰然としており、さらに晩年転んで腕を折って治療に通っている時も会うたびに「痛いというのは有難いことですね。私はまだこうして生きている証ですからね」と淡々としており、老いを迎えた者にとっての理想であり、人生の達人であると称賛していた。人は必ず死ぬ。老いの中でそれにどう向き合うかが問題だ。それが老いてからの人生を満たしもするし損ないもする。精神分析学者ジャック・ラカンは「死への意識は人間にとって新しい現実への認識を促進する」と述べているがこれは真の生きがいへの道筋を示したものだと思う。ラカンのいう新しい現実への認識とは老齢になり、日々誰も見たことがない未知の経験を積んでいくのだから新しくて冷静な物の考え方であり、促進するとはその考え方をしやすくなるということだと思う。長い人生を歩んできた老いたる者達こそ、その経験を生かして後からやって来る者たちのために常に新しい生きがいを見出し、人生を見事に全うすることが老いたるものの責任でではなかろうかと結んでいた。老いたる者達よ!軽挙に自殺などしないで生きがいを見つけて最後の人生を飾ろうと言うのが本書の趣旨だが、その間に様々なエピソードが挿入されていて大変面白くて読みやすい本だった。
2022.02.08
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老いてこそ生き甲斐 (幻冬舎文庫) [ 石原慎太郎 ]価格:649円(税込、送料無料) (2022/2/2時点)石原慎太郎氏がすい臓がんで89歳で亡くなった。大学時代に書いた小説「太陽の季節」で脚光をあび、その後多くの小説を書き、参議院議員になり、大臣にもなった。その後衆議院に転じて青嵐会を結成したり自民党総裁選にも立候補した。総裁選には敗れたたがその時はそれ程大きなダメージは受けていないと思う。その後東京都知事になり4期務めたが2期目に2016年の東京オリンピック誘致に奮闘したがリオデジャネイロに負けてしまいこの時のショックは尋常ではなかったという。都知事4期目に再び総理大臣を目指して都知事を中途で辞め太陽の党を結成して衆議院選に臨むも落選してしまった。今までは全ての選挙に楽勝してきただけにこの時のショックは大きかったと思う。2016年オリンピック落選とこの衆議院選選挙落選は大きな挫折だったと思う。この時は年齢が80歳を超えていたことと、都政を中途で投げ出したことなどで支持が集まらなかったのではないかと思うが、それにしても人生で2度しか大きな挫折を経験しなかった人は極めて稀である。一般人は挫折、挫折の繰り返しで願ったことは殆ど叶わないことが普通だ。石原氏は小説で芥川賞の願いが簡単に叶えられ、国会議員、大臣の願いも簡単に叶えられた。流石に総理大臣の願いは叶わなかったが、それ以外の願いは殆ど叶えられたすごい星の下に生まれた人だと思う。昨日回診の途中で廊下の片隅に置かれている患者さん用の本箱に石原慎太郎さんの「老いてこそ生き甲斐」の本があったのが目に留まりはしがきの所の最初の所を読んでみた。面白そうだったのでもっと読みたいと思ったが回診を待っている患者さんがいるので本箱に返した。そして家に帰って石原さんが亡くなったのを知って本日偶然石原さんの本を手に持った奇遇を思った。楽天で検索したら同じ本を649円で売っていたので買うことにした。定価は1500円位だったと思うので中古本だと思うが内容は同じなのでしっかり読ませてもらおうと思う。
2022.02.02
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昨年3月に107歳で亡くなった書家で墨を用いた抽象表現という新たな芸術を切り開きニューヨークの一流ギャラリーなどで発表を重ねて世界的な評価を受けて今や世界中の有名美術館、海外王室や宮内庁等に作品が収蔵されている篠田桃紅さんが死ぬ間際の2年間に書いた「これでおしまい」という本を読んだ。生涯独身、一人で自由を謳歌して人生を駆け抜けた人だと思った。はしがきに「人生というのは長く生きてきたけれど何もわかりませんよ。この百余年ばかりこの世に生きてこの宇宙、人生、そういうものをわかろうなて思ったってそりゃ無理です。」と書いているが誰にだってわからないと思う。しかし「春の風は一色なのに、花はそれぞれの色に咲く」とは「人は皆それぞれに生きなさいってことよ」と書いており、篠田さんという一人の女性の個人的で爽やかな生き方の集大成で素晴らしい一幅の書のように感じられた。最初は「人は結局孤独で一人、人に分かってもらおうなんて甘えん坊はだめ。誰も分かりっこない」で始まっている。「人生は最初からお終いまで孤独ですよ。一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬんです。誰も一緒にはやってくれません。仲良く手をつないでいても中身は孤独なんです。夫婦だって親子だって友人だってみんなそうよ。後になって孤独だってことが分かる」と述べており、孤独でない人なんていないのだから誰かが助けてくれるだろうとか誰かが一緒についてきてくれるだろうなどと思わないで自分で人生を切り開いて行くべきだと述べている。「自分の生き方は自分で生み出していかなければいけない。自分で苦しんで自分で掴んでいかなきゃ」「あの人があの時ああ言ったから自分はああした。他人のせいにしてはだめ」「人はこう考えてはいけないなどということはなく、自由にどう考えてもよく、むしろあらゆる方向から色々考えなくてはいけない」「自分の思い通りに人生がなったという人はあまりいない。こんなつもりではなかったとみんな言っている。」「大抵の人は不幸な思いをしてそれでも慰めを見つけて暮らしている。自分で自分を勇気づけるというのか生かしていこうとする。何か生きる術を見つけ出す力を持った生き物なのよ」「死ぬというのは人間と言う生き物が息絶えるということでいくら人生がどうのこうのと言っても他人からみたら何でもないことですよ」等々、あくまでこの世には最終的には自分一人しかおらず、自立して生きるべきで自分はそのように生きてきたと述べていた。この世は人と人が助け合い、繋がりあって成り立っているので他人のことに関心を持ち他人を助けるために生きるべきだという人もいるが篠田さんはあくまで一人ということを自覚して自由に生きてきたと述べていた。生き方はそれぞれなので自分は自分の生き方をしていこうと思った。
2022.01.15
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庭先にあるオモト。今までこんな赤い実が生っていた記憶がないので気になっていたが他のオモトにもこのタマサンゴに似た赤い実が生っていたので本日掲載させて頂いた。今朝の新聞の人生相談は19歳の女子学生からのもので、「自分が観て全然面白くないドラマを他人がほめそやしているのを見ると馬鹿々々しくて何故だと思う」「自分が素晴らしいと思って観ているドラマでは自分も同化して褒められれば嬉しくなり貶されれば怒りの気持ちが湧いてくる」これは自分が未熟なためなのだろうか?との相談だった。回答者は歌手の美輪明宏さんで、「いい悪いの受け止め方は10人十色で、多様性を理解する必要がある。やさしい哲学の本を読まれたらよい」とアドバイスしていたが哲学の本を読めばこの問題が解決できるとは思えなかった。上記の事は哲学の本を読んでいない若い娘さんだけに起こる問題ではなく哲学を学んだ老人にも起こる問題である。巨人フアンは巨人以外のろくでもないチームを応援している人をみたら馬鹿馬鹿しいと思い、巨人の事を心配して応援している人は仲間だと思い貶す人がいたら自分が貶されているようで腹がたつ。政党についても同じで自分と違う考えの政党はばかばかしいと思い自分と同じ考えの好きな政党は真っ当であり、正しいと思う。それを応援してくれる人はいいが貶す人はお馬鹿さんで嫌な人だと思う。人それぞれの好みがあり、他人にこれを好きになれ嫌いになれと強要することは出来ないと思う。上記で政党の好き嫌いについて書いたが政党の場合は政治に直結しており、日本の将来に関係してくる。好き嫌いだけで判断したら自分の生活に関係してくる。各党の政見をよく読みそれまでの実行力などをよく見極めて支持するとかしないかを決めるのがよいと思う。美輪明宏さんの回答「哲学書を読め」はあまり感心しない回答だと思ったが、他の人はいいと思ったかもしれない。私なら「いい悪いの判断は個人の感性の問題でその人のそれまでの勉強や経験から生み出された判断でそう判断した自分を責める必要はないと思います。しかし良い判断が出来るようになるためには普段から色々な本を読まれるのが良いと思います。その中には哲学的な本、宗教の本、文学書、科学の本、経済の本、政治の本等自分を高めてくれたり、世の中が良く見えるようになる本など色々読まれるようにしたらよいと思います」と回答してやろうと思った。
2021.11.27
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庭のガーベラ釈迦族の王子であった仏陀が生きる目的が分からず悩みぬいて妻子や一族を捨てて修行の旅に出た理由や最終的に救われた思想について「ゴーダマ・ブツダその先へー思想の全容解明」の著者で創価大学大学院教授 羽矢辰夫氏が11/6の新聞でインタビューに答える形で解説してくれていたので紹介する。仏陀の本当の苦しみは何だったのか?それは一般的には欲望のために苦しみが生じたのではないかと言われているが著者はそうではないだろうと述べている。食欲、性欲、睡眠欲、生存欲などは人間誰にもあることでそのことで悩んだのではなく、苦しみの根源的原因はサンカーラ(自我を形成するもの)だと述べている。サンカーラとは人間の自我を形成する原動力であるがそれによって自分と他人を分離して自己の孤立化や自己の存在根拠が分からなくなってしまうので苦しむのであると述べている。このサンカーラを鎮めることが出来れば自分と他人を区別する自我が収まって自他融合型の自己が現れてくる。自分は孤立していて他者とばらばらな存在ではなく、他者と一緒の存在であることが認識出来た時に苦しみが解決できるが、このサンカーラが鎮まった状態を安楽と呼んでおり、仏陀の思想の核心はここにあると述べている。著者はバーリ語の文献に基ずいて長年仏陀の思想の研究に取り組んでこられた方なので表現に難解のところもあったが、要するに仏陀が長い修行と苦しみの末に得た救いは自分と他人は同じだとする自他融合思想だったという事だと思う。仏陀が長い修行の末に覚知した悟りの経典である仏教は非常に部厚い深い教えであるが、要点は自分と他人は同じで自分と同様に他人も大事にしなさいという教えだなと思った。この教えでは他人の領土を奪ったり他人を殺したりしてはいけないが、宗教によっては自宗教を攻撃するものは殺してもよく、自分達の領土や勢力を広める者は神の御心に叶うものとして称賛される。仏教は他を攻撃しないのでイスラム教やヒンズー教、その他の宗教の攻撃によって衰退の一途を辿っており、勢力圏が減少している中で、幸いにも日本は仏教信者が多い国である。釈迦の自他融合思想を心肝に染めて世界平和に貢献してもらいたいと願っている。
2021.11.10
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中村哲医師は1984年からパキスタンやアフガンで食糧支援や用水路建設、診療所を造っての診療活動などをしてきた人である。今度の事件で中村さんが書かれた「医者・用水路を拓く」を読み直してみた。2001年9.11のアメリカ貿易センタービルの破壊事件後、アフガンがテロリストのビンラディンを匿ったとして米・英によるアフガンの無差別的空爆が始まった。その時中村さんは負傷者の手当てや食料支援に奔走していた。アメリカや日本では報復爆撃は当然でタリバンは極悪非道で女性の教育や仕事を奪い、厳しい戒律で人民を苦しめていると報道されていた。しかし長年アフガンで暮らしてきた中村さんにはタリバンが極悪非道とは思えず、むしろ無差別爆撃を繰り返して多くの市民を殺している米英軍の方が悪いと思えた。その頃アフガンで長く暮らしてきた中村さんが国会で参考人として呼ばれて演説を行った。「爆撃よりも食糧支援をするべきで日本の自衛隊が出動するのは有害無益だ」と訴え、日本で言われているタリバン極悪説は間違いだとも訴えた。中村さんは現地の実情と日本で報道されている内容が如何に違っているかに驚いていた。中村さんにとっては報復爆撃こそ庶民を苦しめており、タリバンはむしろ被災者の救済に協力してくれていた。今回の政変でも残虐タリバンが武力で首都カブールを陥落させてまたかっての悪魔の弾圧政治が始まるのでそこから逃れようと難民が空港に殺到しているなどと報道されているが事実は違うかもしれない。いずれにしてもアフガンは山岳国家で干ばつに苦しめられている貧しい国である。その国で1500の井戸を掘り13キロの用水路を拓いてきたのが中村さんだ。アフガンの人々の対日感情の良さは圧倒的で日本人ということだけで尊敬されたが中村さんの献身的な活動はさらにそれに輪をかけていた。その中村さんが2019年12月凶弾に倒れた。麻薬(ケシ畑)を資金源にしていたタリバンとの間で水路の利権争いがあったので犯人はタリバンだろうとされているがタリバンの間でも中村さんは尊敬されていたので、もしそうだとすれば大変痛ましい悲しい出来事であった。今回の武力による政変で20年ぶりにタリバンの政治に戻りアメリカの外圧もなくなった。中村さんの医療活動を支援するペシャワール会には日本を主体に何億円と言う支援金が集まっているという。政変のあるなしに関わらず中村さん亡きあともアフガン住民への支援活動は続いているとのことである。この本を読んで表面的なニュースに翻弄されてその裏にある真実を読み取っていかなくては間違いをおかすなと思った。
2021.08.18
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朝顔国際政治学者藤井厳喜さんの「9.11とコロナの共通点」というメルマガを読んだ。support@worldforecast.jp>今は第4次世界大戦の最中である。第一次、第2次はよく知られているとうりだが第3次世界大戦もありそれは米ソ冷戦時代である。第4次というのは2001年9月11に同時多発テロが起こってからで現在まで続いている。この戦争は兵隊や兵器を繰り出して目に見える形で行う戦争と異なり、ゲリラ、テロ、経済戦争、情報戦争、心理戦争、サイバー戦争などで最近では中国は世界制覇をめざし、あらゆる工作、超限戦をおこなっている。超限戦は非正規戦争であり間接手段を用いた戦争でサイバー攻撃やコロナウイルスもその手段と考えられる。気温が上昇しても消滅せず却って増殖するウイルスは自然発生したとはとても考えらえず精密に設計して作られたものと思われる。中国の兵隊に打っているワクチンの製造年月は2020年2月で新型コロナウイルス感染症の最初の症例の公表の約1か月後で新型コロナウイル完成とほぼ時を同じくしてその防御法の研究と製品開発を行っていた証拠と思われる。しかし我が国は平和でそのような目に見えない兵器によって戦争が仕掛けられている現実を知らないし、それを知ろうともしない。今は第4次世界大戦のさ中にあることを自覚すべきである。と言うのが要旨であった。核兵器は目に見えるので核兵器禁止条約などで禁止しようという動きが高まっている。生物兵器(細菌、ウイルス等)禁止条約は既にあるが、それは目に見えないので取り締まり方がない。各国、各部族、各犯罪グループなどの首長の倫理観に関わってくるが一般の人達もそのような兵器があることを認識し、その防御や制圧について日ごろから関心を持ち、研究していく必要があると思われた。
2021.08.13
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今朝庭に咲いていた白いバラ世界的な大ベストセラー「7つの習慣」の著者コヴィー博士の言葉に「自分の中に変わらない中心を持つことが大切だ」との言葉がある。 自分の中に変わらない中心があってこそ、人は変化に耐えられる。変化に対応する能力を高める鍵は、自分は誰なのか、何を目指しているのか、何を大切にしているのかを明確に意識することである。そうすれば予断や先入観を持たなくとも、生活全般を把握しなくとも、人や物事を既成概念に当てはめて分類しなくとも、現実に対応していけるようになるのだ。世の中は刻々と変化している。コロナに対する見方も日に日に変化している。大騒ぎしている人達は間違っていると思っていた人が日が経つにつれて実際は大騒ぎしていた人達の方が正しく自分が間違っていたと思えることもある。アメリカや中国は友好国で日本のことを思ってくれていると思っていたら彼らは自国のことしか考えていないと思えることもある。世の中やウイルス事情は刻々と変化している。それらの変化に対応できない人々に対する警告だと思う。外の変化に対応できないでふらふらしている人達をきちんと自立させるキーワードがある。それは「自分は誰なのか」「何を目指しているのか」「何を大切にしているのか」を明確に意識することだとのことである。コロナについては毎日感染者数爆発が報道されている。自分は誰か?「病気やウイルスに対してわずかながら知識を持っている医師である」何を目指しているのか「戦争のない平和の世界であり、人々が病気から解放されて幸せな生活ができるようにお手伝いすることである」何を大切にしているのかの答えは「人の和であり、世相に流されず正しいことを発言したり行ったりする勇気」と答えたい。今コロナの感染者数は爆発的に増えて人々は恐怖のどん底に落とされている。しかし感染者の内訳は示されていない。年齢、性別はどうなっているのか?感染者中ワクチン打った人の割合は何%で、ワクチン打たない人の感染率と打った人の感染率は何%づつなのか? マスクは予防効果あると言われていたが感染者中マスクをしていたのは何人で、マスクをしていてもどこでマスクをどのくらい外していたか?密がいけないというが密の場所に出かけたことがあるのか?など詳しく分析して報告する必要がある。感染率は高いが死亡率はどうなのか、何歳の人がどういう状態で亡くなったのかなどの詳しい分析が必要である。現在の発表方法だと人々に不安をあおるだけで何の役にも立っていない。気を付けようにも気を付けようがない。発表結果によって二重マスクをかけようとかワクチンを打ってもらおうとかどういう所に行ったから感染しやすいということが分かればそれに注意するが、現在では外出しないで下さいと言うおっざっぱなものだ。実際外出しなかったのに感染してしまった人は何人いたのか等詳しく分析して報告してもらいたい。人々はそれぞれコロナ対策を考えていると思う。医師もそれぞれの考えで対応しているが敵は暑くなっても衰えず却って勢力を増しており常識では考えられない強敵である。しかし負けるわけにはいかない。最近デルタ株の変異株が発見されたという。通常なら感染力は増すが弱毒化して殆どの人が感染し、ワクチン又は感染後の抗体を有するようになってウイルス病は収束すると言われており、デルタ変異株に期待しているが感染力が強くて毒性も強いかもしれず油断はできない。コヴィー博士は自分は誰か、何を目指しているのか、何を大切にしているのかを明確にすれば怖い物なしと言っているが、コロナのことを考えれば怖い物だらけである。「7つの習慣」は世界中で何億人という人が読んでいる大ベストセラーだがそれでも解決できない問題もあるとしみじみ思った。
2021.08.08
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