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この欄で書きたかった主目的である言葉と語源について、宮城谷さんが小説の中で活用しようとされている言葉への「こだわり」から先きにご紹介したい。講談社刊 「花の歳月」末尾165 ペ-ジから抜粋・・・ ・・・「たとえば「みる」を漢字に直す場合、すくなくとも十三通りある。「見る」「相る」「看る」「視る」「察る」「覧る」「「瞰る」「瞥る」「瞻る」「覲る」「観る」「矚る」「鑑る」それらを全部つかったというおぼえはないが、三分の二ほどはなるべく原義にそってつかった。とくにおもしろいのは、「看る」である。これは目の上に手をかざしてみるわけであるから、中国の古代の人もおなじような恰好をしったのだとわかって、人間の動作の変わりのなさを教えてくれている。漢字は、中国の古代の人々を鑑(み)させてくれる、小さなふしぎな窓なのである。・・・ ・・・以上で抜粋を終えます。今回読ませてもらった小説「花の歳月」においても、このような言葉の原義にそって表現されていると思われます。私も、たぶん宮城谷さんの初期の作品である「王家の風日」で、この言葉の使い分けに驚き、戸惑いながら中国の古代の雰囲気を読み取る努力をした記憶がある。今このブログでも出合いは、人間の場合は「出会い」、野草などとのであいは「出合い」と使い分ける習慣になったのも宮城谷さんの小説からだったように思う。一知半解だから誤解かもしれないが・・・◆さて、本題に戻って、「花の歳月」の読後感ですが:宮城谷さんのこの作品は、前漢の第三代皇帝文帝の皇后猗房(いぼう)が、貧しい生まれでありながら、数奇な運命というか皇后にまで登り詰めたこと。その子が四代目の皇帝になることが出来たので猗房(いぼう)さんのご兄弟なども高い位につき、維持できたらしいことが記された小説ですが宮城谷さんの作品の中では比較的短い作品だと思われます。皇后の猗房さんの周りのことに絞り込んで書かれているので、壮大な歴史小説を想定される方からすれば、場違いな作品かもしれません。ともかく少なくとも古代の中国は、敵国の人間であっても役に立つと思えば、その国のリ-ダ―にして一国の運命を預けた例が数えきれないほどある国なので、皇后の猗房さんの場合も違和感はあまりなかったらしい。この小説に関しては、皇后とは言え女性の事を書いていて珍しいと思った。宮城谷さんの小説は、「王家の風日」や「天空の舟」など今から3,000年ほど前の商(殷)の時代や周の時代などの歴史、戦争などが独特の筆致で描かれております中国の約4000年あまりの歴史の中で、前漢は今から約2100年ぐらい前の王朝であり、我々がその理解は大変難しいが、初代皇帝劉邦のお子さん方は二代目皇帝を除き、地方の王様になっていた中で、5番目か6番目のお子さんであり代国と言う辺境の王様に封じらていた。その方が、2代目がなくなったからと言って三代目の皇帝に選ばれた経緯を書くだけでも一編の小説ができるでしょうが、この小説は皇后の「猗房」(いぼう)さんとそのご家族の物語なのでその辺のものぐささは推察しながら読むことになります。冒頭のご紹介させて頂いた「みる」は語源から言えば、すくなくとも十三通りもある事などを念頭に置かれてこの小説「花の歳月」や「王家の風日」「天空の舟」など機会があったら読むことをお勧めします。
2013年07月17日
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小説家 江上 剛氏著 「異端王道」を読みました。現在、新生銀行というお名前の銀行などが、モデルではないがヒントになっていると思われる銀行に関して、その前身である長銀の最後や新銀行の生い立ち、発展への手がかりの経緯などが描かれておりました。最も注目すべき点は、混迷していて先行きに確固とした見通しを誰もが持ち得ない日本という国の再建に関しても参考になりそう事象が述べられておりました。最も注目すべき点の一つは、銀行の合併に際して、システムの統合にインド人の専門家をアメリカ系金融機関から引き抜いてきて実行に当たらせた事。その結果、日本の最大の銀行などが600億円掛けてシステム開発した巨大なこんピュ-タシステムが不具合で大混乱したのに対して、秋葉原で購入できるようなな能力のパソコンとシステムをつないで、60億円でシステムを完成させたこと。全ての面で、これまでの仕事の単なる継承ではなくて、これからの仕事に最もふさわしい人、組織、仕事ぶりの育成に努めた事。小説に於ける新興銀行という名前の銀行は伊勢社長が外資系金融機関から送り込まれた経営者として設定されておりますが、1.人材の登用に関して、会社の内外を問わず最適な人材に最適な仕事をしてもらう。2.仕事の仕方に関しても、顧客の最も銀行に今してほしい事に着手させた。3.とにもかくにも貸し剥がしの印象のある銀行に、事業再生・育成部門を育てた。などで、この新興銀行に対する国民の注目を集めて、ダメ銀であったこの銀行が一躍注目を浴びるに経った。銀行の中にコ-ヒ-店やネット施設を置く等旧弊の打破も描かれている。最近の朝日新聞のある特集の中で、新生銀行のインド人システム専門家の活躍で、素晴らしいシステムの完成と低コスト化が紹介されていて、江上剛さんがこの辺をヒントにして小説を書かれた事が伺われました。この小説の中で、もう一つの注目するべき点は、日本の経営者がコンピュ-タなどについて、不勉強でコンピュ-タメ-カ-の言いなりになっていて、著しいコスト高と事業の発展を阻害していることに苦言を呈していいるように見えました。この点は著者自身が、大手銀行の広報部次長をてのご活躍を通じても経験が背景にあり、主張の裏づけとなっている感じでした。銀行などの企業のみならず、政府、地方自治体、学校など全ての組織において、今日本は、今後どのようにすれば、最も良い発展が出来るか、不振を極めており長期化しそうな経済の再建をどうすればよいかこのような事態に対して、形のとらわれず最もふさわしい人材の登用と粘り強い仕事の育成が求められている。これがこの本の主張と感じました。
2009年02月20日
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阿川弘之さんの著作 「井上茂美」 を昨日から読み始めた。2回目か3回目かもしれない。第二次世界大戦(1941年12月8日~1945年8月15日)までの日本の軍人、特に海軍の軍人で優れた方々の中で、特に米内光政(名前誤記であればごめんなさい)や井上茂美に関してそれぞれ力作を著しておられます。井上茂美氏は、第二次世界大戦の終戦時に大将で終わられた方だと思いますが、戦勝国による軍事裁判でも裁かれなかった経歴でも理解できるように、どうやら海軍軍人になって以来、英米との戦争に終始反対し続けた方で、しかもその反対の仕方が苛烈を極め、正しいながらも、人間的に理解者が乏しいうらみがあった方であったようです。その為か、信奉者や砕けた友人などに乏しい為にその功績が一般にあまり知られていないとの事でした。しかしながら、外国語を7ヶ国語も話せた事、日本人の最もはなはだしい欠点であった情報収集の軽視に対して、警鐘を鳴らし続けた方であることが、この阿川弘之さんの著書にて紹介されております。The head is bad についてこの言葉は、この阿川さんの著書によりますと、『便所が汚い』 と言うアメリカ人などの古い熟語だそうです。古い帆船時代に、航海中の帆船から汚い物を船の先端にある抜錨孔(いかりを上げ下ろしする穴)から海中に捨てる習慣があり、且つ船員がそこで小便をしたことから、そこが汚い事から、便所が汚いことを言い表す熟語として、このThe head is bad。が普及したらしい。この阿川さんの著作に何故この熟語が紹介されているかと言うと、終戦後、1945年からしばらくアメリカ軍などの占領が続くき、しばしば小学校などに占領軍がジ-プで乗り込んできて視察を行った経緯がありました。余談ながら私も1945年は10歳でしたから、小学校の教室へ靴を脱がない兵隊がつかつかとやってきて、入り口で身をかがめて入ってきた有様を既報の事のように覚えております。主人公の井上茂美さんのお住まい、横須賀のある小学校を視察した軍人が勧告文を提出した中にこの言葉があって、どの辞書にも載っていないので関係者が困りはて、井上さんの博学と語学達者に救いを求めたら、大笑いされてこれが【便所が汚い】と言う古い熟語である事を教えたと言うことでした。これまた余談ながら;昨年自衛隊の幕僚長が中国侵略の歴史は無かった・・・などとの思想を披瀝された著作が話題となりましたが、この井上茂美さんの生涯を描かれた著作の中にも、そのような独りよがりの歴史観から来る無理難題が個人の周辺のみならず、国の将来を棄権に陥れる有様について、この本から読み取る事ができるようです。私さんだのいのししと米軍の視察の想いでについて;私は、高知県高岡郡四万十町(現在)の出身で、18歳まで居りましたが、1945年か1946年ごろ米軍などの刀狩りなどを兼ねた視察がくまなく行われました。ある時、小学校で音楽の授業中、楠正成の鎧を着た絵が描かれた音楽の本を前にして歌の練習中であったのでしょうか(或いは、すでにこの種の歌は禁止されていたかもしれませんが-新しい教科書が無いのでそのまま利用されていたのかもしれませんね)、兎も角、この査察の軍人が英語と思しい言葉で、しかも興奮して?早口でベラベラしゃべったので女の先生が真っ赤になり、両手を左右に振ってこれは教えていないの意味だったのでしょうが・・・我々も手に汗を握る・・・そんな固唾を呑む雰囲気でした。幸いそれ以上の発展は無く兵士も外へ出て帰って行ったらしい。余談のついでを言えば、我家もそれまでは床の間に大刀、小刀が飾られておりましたが、慌てた防空壕などへ避難させてそのまま錆付かせてしまったのは、返す返すも残念な事でした。
2009年01月29日
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著者は横石知二氏三田市立図書館からかみさんが借りていた1冊で、教えられて読んでみて(@_@)。過疎に悩む農村が自分の郷里で、都会に出てから50年、常に付きまとうのは”我が故郷四万十町よ 栄えて下さい” の思いだったから。この『そうだ 葉っぱを売ろう 過疎の町 どん底からの再生』の本を読んで、故郷が再生するのに必要なヒントが100%書き込まれた著作だと感激しました。勿論、この著作の町はもともとの人口が6000人あまりから2,000人台に落ち込んだ地域であり、四万十町とは存立の元を無視して語ることは出来ないが、大いに参考になる部分があると感じました。1. 過疎の町で、高齢者の締める割合が高い所は、高齢者が暇つぶしをしないで、 意欲的に働くよう周囲から工夫することが肝要だ。 手足を動かすと知恵が働き、意欲が湧いて、健康で病気になる割合が激減する。2. 日銭や毎月のように収入を得られる仕事作りには、率先垂範働くリ-ダ-が要ること3. そのリ-ダ-も現場主義に徹する人であること。などが語られていた。この本の町、徳島県勝浦郡上勝町は、テレビなどで盛んに放映されたので、知識としてはあったが、何故そんなに有名になったのか。そのことについて、著者横石知二氏が詳細に触れているが、すざましい努力が必要なことがわかった。衆議院議員選挙も間近で。国を挙げて地方の再生について議論され、我が党こそ、我が政権こそ再生を決めてみせると主張しているが、少なくとも国や県など上のほうから着手しても健全で長続きのする再生は難しいのではないかと思わせるような内容になっている。この上勝町は標高が100mから700mに人が住み、農業を行って生活している。徳島市から1時間。横石知二さんは昭和54年(1979年)に徳島県農業大学を卒業されて、いわばとりあえずこの上勝町の農協に就職されて、紆余曲折の末、生涯この町で働きそうな現況にあるらしい。テレビなどで紹介されているので詳細は省くが、”さしみのつま”と言われる料理の飾りに使われる紅葉、南天、梅の小枝・・・はかって料亭の板前さんがご自分で調達されていたのを生産者が意図的に作り市場を通じて、欲しい方にほしい時に提供する方法を確立して注目を浴びたこと。その上に椎茸などの生産と販売などを商売ぺ-スにのせた事などによりこの上勝町と言う2,000人あまり過疎の町を豊で、病人が減った福祉の町に変えて行けたようだ。さらに詳しいことにご興味ある方は、各地の公立の図書館には蔵書があるはずですのでお目を通して下さい。私の故郷、高知県では;馬路村の”ゆずを使ったぽん酢醤油”が全国的に有名だが、これも1988年、昭和63年に東京の西武百貨店で開かれて「日本の101村展」で日本一に輝いたのがきっかけだそうだ。尚、その時に2位だったのが上勝町の商品だったそうだ。我家でも全くの必需品であるが、近々20年の歴史だと知って驚いた。地方興し、村おこしの高知県代表ですね。あれやこれや関心を持つくらい四万十町の再生、活性化についても日々祈っている。おそらく故郷を持ち、都会で暮らしておられる方々は等しく郷里の発展を祈っていることと思います。この本から感じたことは、理屈抜きに人生を掛けてその土地に見合う産物を見つけ、その産物が消費地で歓迎されるかどうかを見極めて、生産地の人々に情報を提供できる現場主義の人材、しかもリ-ダ-シップを発揮できる人材を見つけることが地方の過疎の村や町に求められていることです。この著者横石知二氏は、ご両親達と同居であり、奥様も働いていて、ご自分の給料を20年近く1銭も家に入れないで(それも相当の安月給だが)、料亭などでも情報取りにいれあげたらしいが、そのくらいの人物が居ないと過疎の村や町では町おこしは成功しないのかもしれない。この上勝町の農協やお百姓さん達が20年近くそんな横石知二氏の生活に全く無頓着であったのも奇跡か?
2008年09月25日
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作家 鳴海 風さんは、江戸時代の数学”それも日本独自に発展した通常和算と呼ばれた”数学を研究された数学者とその後継者達を題材にした小説を書き続けておられるユニークな小説家らしい。この”円周率を計算した男”の他にも次々に江戸時代から明治にかけて活躍された和算の数学者を題材にした小説を発表されております。1. この小説の主人公は、我々の誰もが知っている有名な和算の学者関孝和のお弟 子さんで建部賢弘と言う師匠勝りのお弟子さんのお話です。 徳川幕府で言えば5代将軍綱吉から8台将軍吉宗の頃のお話です。2. 師匠の席和孝が円周率を小数点以下10桁まで計算(他の課題もあり、ここっでや めていた)した後を受けて、21桁まで計算したことなどの経緯が述べられている。3. 多分、この時代の著述は、この数学の専門書と言えども全て漢文で、数字も漢字が 当てられていたものと思われます。 例えば、現在、円周率はス-パ-コンピュ-タ-で計算されて、1073140000桁 まで計算されている。 これを漢字で全て表したらどうだろうか。 我々は、多分、アンビリ-バボ-! と叫ぶであろう。4. その辺の苦心について、小説で触れられいるが、計算するのには算盤や算木など も使ったが、書き付ける紙に困って、家の襖やトイレの落し紙(トイレットペ-パ-) 習字の手習い紙などの裏なども利用せざるウィ得なかったらしい。今、一般的には話題にもならないが、江戸時代の和算の学者が日本の数学や暦、天文 の研究の尽くした貢献は計り知れないものがあったらしいことをこの小説を通じて知 ることが出来た。ともかく非常に興味ある風景が見られるので、ご一読下さい。私も三田市立の図書館でお借りしました。さて、このように数学を漢文漢字で表しながら世界レベルで研究していくことの意義は色々在るでしょうが、当時の経済の基盤になっていた農業は、暦なくして語ることが出来ないらしいが、この小説でも関孝和さんを初め多くの数学者が暦の研究にこの和算を当てていたことを知り、なるほどと思いました。また、この小説の主人公は最後は徳川幕府に仕えた武士建部賢弘だが、当時銀座、金座と言われたお金の鋳造所のお役人、地方農家の子供などその出自は様々であり、封建社会といわれながら、様々な場所、階層から数学者が輩出したが、そのレベルが高かった事が、後に明治維新後日本があのように奇跡的に世界から脅かされないで存立できた要因の一つらしい。遊学と言うか、一定の高いレベルの人間が地方を巡回して高いレベルの知識を教えて回り、地方で天才少年でありながら埋もれていた子供を江戸(東京)の最先端の学習場所へ結びつけたことも有効な働きであったらしい。有名な神社仏閣の軒先?に新しい研究成果を題として掲げて、研究者を刺激することも盛んだったらしい。今、日本はこれからの50年、100年に亘ってどのような経済活動を行えばよいか、1945年以来の社会が変革を必要としていて、もだえていることは衆目の見るところ異論の無い所でしょうが、この小説に見られるように幅広く、深く、人材が輩出して社会の変革に取り組んで欲しい。そんな事をこの小説からも感じました。
2008年09月06日
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この頃ではさっぱり目に付かなくなった話題。飛騨牛、うなぎの詐称、大阪の吉兆と一時期これだけを取り上げていればテレビや新聞、雑誌類は話題に事欠かない有様だったが、この頃では他の話題が多すぎて?目立たなくなった。氷見のブリ、静岡のお茶、かの有名な魚沼産の”こしひかり”、灘の生一本、伏見の銘酒など有名ブランドに対して寛容の精神が豊かな日本人のこととて問題にされないか、これから調べたら、これまでの事件以上に問題化する事項が存在するかもしれない。例えば氷見のブリは富山湾の中で取れたブリを氷見港に水揚げして”氷見のブリは美味しい”と言っているから、厳密には詐称とはいえないかもしれないが、どこかこのあいまいさに寛容な日本人の性格に関して、この辺で国がもっと乗り出して整理をして掛かる必要があるのではないか。テレビや新聞などが追っかけないからいいやでは、今後さらに重大な問題が出現しないとも限らない。こうして投稿の原稿をつづりながら頭に浮かぶのは、この三田は牛では有名であるが、どの肉までは本物であろうかと疑ってみたくなる。あるお店などでも、牛肉料理で名前が全国に轟いているが、お昼の定食の中には”あの定食の肉はオ-ストラリアの肉よ” なんて噂話が地元でも飛び交っていたのを聞いたことがある。もとより真偽は不明であるし、信じたくも無いが、黒毛和牛をオ-ストラリアで飼育しているから、その黒毛和牛を輸入して、黒毛和牛と呼称するのは問題はなさそうだが、三田の牛肉とは言えないだろう。この場合”オ-ストラリア産黒毛和牛”と呼称しているのだろうか。など、足元にも慰労路課題がありそうだたんにここの商品の詐称などの対策はここの場所にお願いして、国レベルでは、全ての業界の指針になるような整理を行うよう国やマスコミの指導者にお願いした所です。
2008年07月21日
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有名なワイアット ア-プは英雄か悪人か1881年10月28日の決闘の検証逢坂 剛さんは、スペイン或いはスペイン学の専門家のようで、この方面の、特にスペイン内乱の小説が面白い。今回、アメリカの西部に関する著作がこれまた面白いので、2回目となるが読書:『墓石の伝説』gunfight near the OK corralこの本によると、1881年10月28日、有名なトゥムストンのOK corral(馬囲い)で決闘をして勝ちをせいした天下の英雄ワイアット ア-プとその一家及び飲んだくれの歯医者ドクホリディが我々の常識となっている。が、この小説によると、実際はそんな暢気な物ではなくて、もはや英雄か、はたまた悪人かはっきりしそうにも無い。ヤヤ英雄組みが有利かということらしい。ただ、ガンマンはほとんど若死にしているのに、ワイアッと ア-プは長寿を全うしたそうだ。この1881年の決闘でも不思議にも玉が当たらなかったらっしい。1881年当時のアメリカのアリゾナは、準州で小さな町を離れると、何処に山賊が居るのか、牛泥棒が居るのか、又牛泥棒でも一家で町の来る事なんて珍しくも無い有様であったそうだ。1)不思議というか、面白いのはこのOK corral本当は、馬囲いであったのに、これを日本の映画が牧場とタイトル化してしまって以来、OK牧場が決定版となったこと。2)又、実際の決闘上はこのブログの題として紹介したように、OK馬囲いの近くの決闘となっているのに、近くという場所を外してOK corralそのものにしてしまったことだ。これはアメリカの映画製作現場の問題らしいが。nearに下線を入れたのは私です。有名な黒澤明監督の羅生門ではないが、歴史の作られ方には不思議さと、そうであったほうが生き生きとした存在感を示す環境が後世に生まれるものらしい。誰が考えても、いくら広いアメリカだって、町の真ん中に牧場なんて???どろう。それでも標題としてはやっぱりOK牧場の決闘のほうが良い。最後にずっこけた話:ドク ホリディは歯医者であり、かなりの名家の出身らしいが、当時治療方法の無かった結核に罹ったための西部流れであったそうだ。結核でゴホンゴホンと咳をする歯医者にかかる患者は居るはずもなかったとのこと。
2007年12月15日
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