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今回は、母の作品を内緒で掲載してみました。 高さ40cm位ですかね。柄は、一つ一つ手で穴を掘ってから色土を詰め(ゾウガンという手法だそうです)、更にその上から再び一つ一つ手で穴を掘っています。これはまだ少ない方です。こんな感じの作品が大小含めて数百ありますかね。病的でしょう?他にも、編み物で同じモチーフを編み続けたり。 単純な作業が苦にならないようです。逆にそういった事に没頭することで、何も考えずに済んでいるようです。母は大病後、「気」の鍛錬法として、特に「瞑想」に趣を置いていたようですが、そこに繋がるモノも感じますね。ただ、最終的に確信を強める決め手になるのは、術を受ける側の良い反応の積み重ねと感じます。 テレビの好みは、スポーツやニュース(世情)ですかね。バラエティー(お笑い)も好きです。ただ、意外と昔から不思議系の番組にはあまり興味を示さないんですね。私が見ている超能力番組を見て、自分にも出来るか試して茶化す程度です。もっとも私の関心も能力者本人ではなく、そこに関わっている周りの人々ですが。 そして「強い自己主張」(ワガママ)気質の人を見ては怒っています。ただ、その人達がバッシング(強い自己主張)を受けだすと、バッシングしている側に怒り、時に前者の擁護に回っていますね。自分の中にも抑圧されたそのような気質を強く感じて、「嫉妬」(憧れ)もあるように感じます。そして、遺跡の番組は、かかさず見ていますね。 60歳を過ぎてもなお活発で、姉妹や友人を精力的に誘って、年に1度は海外に出掛けるようにしているようです。エジプトやトルコ・イタリア、最近ではペルーなど、いわゆる「聖地」といわれる世界遺産を好んで巡っているようです。マチュピチュでは頭痛との闘いのようでしたが、今までで一番良かったと言ってます。 なにか惹かれるものを感じているようですが、仕事(?)柄、気楽に誰にでも「頼る」ということも難しいでしょうし、そういった「聖地」という偉大な存在において溜まったストレスを落としてもらう様なリフレッシュの意味も強いように感じます。崇高なイメージのモノから、「パワーを貰う」とか「浄化する」とか言う感覚も含んでいるのでしょうかね。 そして毎回、不思議と行く先々で天候や出来事にも恵まれるようです。(07.10.18著)・・・・・・・・・・ 旅行から帰ってくると早速土産話に華が咲きます。 母は、相変わらず機械に弱く、デジカメなどに馬鹿にされながら、一生懸命話をしてくれます。そんな時父が、さも行って見てきたように話しに割り込んでは、母の反感をかっています。ただ、それが驚くほど詳しかったりするんですよね。 一方、今の父は出不精ですが、私が小さい頃は色々な所へ車で連れて行って貰った記憶があります。そして道に詳しいイメージが強く残っています。初めて行く所だって多かったと思いますよ。また、混んでいるのが嫌なのか、遠回りが嫌なのか、細い道を遣うんですよね。クネクネと。そして車に弱い母が気分を悪くして、よく反感をかっていました。(笑) また昔から本が大好きで、部屋には山のように本が積まれています。旅の本や医学書、科学雑誌や動物モノ、スポーツや武道と、ジャンルも幅広く、あまり話しはしませんが、その知識は相当のものと思います。父の頭の中では、世界一周どころか、内外宇宙一周が完結されているのではないですかね。(笑) テレビの好みは、動物ドキュメンタリーやNHKローカルモノ、洋画。そして意外と日本ドラマがジャンルに拘らず好きなようです。また、見ていた番組がコマーシャルになると別のチャンネルに変え、またその番組がコマーシャルになると元の番組に戻しと、結局両方とも内容が中途半端になるんです。 また、他人が見ていたチャンネルを強引に奪っておいて、本や新聞を読み始めたり家事を始めたり・・・。テレビを見ていないのかと思ってチャンネルを変えると「なんだ!見てるんだぞ!」です。また、自分の興味のない番組を他の人間が見ていると、家事を始めたりしてガチャガチャ音を発てます。ボリュームをあげると「うるさいな!音を下げろ!」って・・・。 これにもまた家族から反感をかっていましたね。そしてまた、私がトイレに入っていると、必ず父が来て扉をたたき、「なんだ、入ってたのか」と言います。とてもタイミングの悪さを感じますが、そんなタイミングの事ほど記憶に残るのです。あたかも無意識に(自分のプライドは守っておいて)その存在を示すように・・・ とても健気さも感じますが、やはり父親にはどうしても「尊敬」を求めてしまい、なかなか優しくはなれませんね。。ある意味いつまでもこの人の前では「子供」であると認めている事なのでしょう。私は父が苦手です。他人に見る嫌な所程、自分の中にも強く感じることがありませんか?心の何処かでとても似ていることを自覚しているようです。 前記の「道」の件も含め、父は、頭の中で色々な経験が積まれ、実際に経験しなくても完結してしまうようです。また、絵や彫刻が上手いですよ。具象(写実)的なモノに限られているようですが、半端じゃないですよ。なかなか家族にも見せてくれませんけどね。これもまた自分の中で完結(満足)しているようです。(笑)(07.10.19著)・・・・・・・・・・ 「泣く子はいね~か~!」 「なまはげ」のように悪いことをしないように抑止的に恐怖を飢え込むような慣わしは、秋田県意外にもあるようですね。「死刑制度」や「体罰」など、抑止についても色々と人によってその是非(線引き)も変わってくるようです。私も個人的な線引きは持っていますが、それを他人に強いる自信はありませんし、自分の中でその線引きが不変である自信もありません。 「愛のある体罰」なら許されます?私も子供の頃はよく弟をいじめて父親に締め上げられていました。締め上げられている時は、正直愛情など微塵も感じられませんでしたし、時に命の危険すら感じることさえありましたね。それでも弟いじめは止められませんでしたね。体罰時に愛情を感じられていたら、私には抑止としての力はもっと薄らいでいたでしょうかね? また逆の立場での自分の感覚として・・・真から純粋で家族同然に大切と感じるペットのイタズラにさえ、そのお仕置きの瞬間には「何故言うことを聞けない!」と言った『憎しみ』が明確に自分の中に感じられますね。そして最後は「力」で抑えつけ、少し時間をおいて冷静になってから優しさで繕い、その感覚に自分自身恐ろしさを感じることもありますね。 今になっては、父親に対する(力を最終手段にチラつかせた正義や優しさ等)トラウマ的反抗心は残りましたが、逆にその時受けた体罰には特に違和感はありませんかね。自分なりに悪い事(自分にだけ利益のある欲求)に対する抑止は強く根付いていると感じていますからね。ただし体罰を反対する現代の家庭や社会的環境には、不公平(嫉妬)的違和感はありますかね。 他人に我子を叱られることは許せなかったりするんですよね?自分自身のプライドを傷つけられるような感覚もあるのでしょうかね?時に子供は自分自身になるようですからね。そうかと思えば、他人のせいにして我子を叱ったりするんですよね。「あのおじちゃんに怒られるから止めようね」といった具合に・・・我子に嫌われたくないのでしょうかね? 若い人の中には、叱られることを心の何処かで望んでいる人もいるようです。気を惹いたり、気を遣われる感覚に違和感・プレッシャーを感じたり、親や大人に威厳(いつまでも尊敬できる存在でいて欲しい)を望んでいる子供も少なくないように感じます。またイタズラ(反発)時に逆に同情を見せられると、反発がすう~っと引けてしまったりもするようですね。 自分の経験から、人は本当に「理屈」だけで抑止力を身につけることが出来るか疑問も感じますかね。ちなみに私自身への抑止力は「自由を奪われる」ことですかね。例えば罪を犯して長い時間拘束されるなら、「死刑」でも構わないと感じます。執行の瞬間はジタバタすると想いますが、故に「死刑制度」自体に抑止力は感じていませんかね。 そしてまた心から「やりたいこと」があるのにそれを我慢してまで生きる意味があるのか・・・とも感じてしまいます。方向性によってはとても危険な感覚ですが、他人を傷つけてまでする事に私は満足感を得られるとも感じませんので、今の所、大きな間違いは起こしていないようです。 そういった抑止の感覚には、子供の頃受けた「体罰」(恐怖体験)の影響も少なからず感じますが、それ以外にも多くの要素の絡みを感じますし、体裁もあり、やはり「体罰」の是非は解りませんかね。(08.9.19著)・・・・・・・・・・ 「尊敬する人は両親です!」 年に数億円も稼ぐ若いスポーツ選手がキッパリと言い切っていましたね。私も若い時はそのように答えていたように思います。今はどうですかね?育ててもらった感謝は当然ありますが・・・正直今は世の中に真にやりたい事や目的も探せずに浮いた感覚もあり、せっかく生んでもらって人生を楽しめていない感覚に「負い目」すら感じられることがありますかね。 どんな親だったら「尊敬」できますかね?自分が持てそうもないと感じる技術や才能・社会的地位を持つ親ですかね?自分を才能豊かに育ててくれた親ですかね?私の今の価値観から考えると、既に他人が持つ才能には反発も感じますし、私に常に「戒め」を感じさせる独自の哲学(理屈)を持つ親ですかね?自分のその時々の価値観を常に壊してくれるといいましょうか。 前記のスポーツ選手の立場を借りれば「ここまで稼がせてもらったら将来は安心だろ。好きなことをさせて貰っているのだし、これ以上の稼ぎは応援して下さるに皆さんに還元しなさい」とか、極端な公平感的なモノも良いですね。芸術やスポーツは経費が掛かるとも聞きますが、やっぱりいい生活しているようですしね?嫉妬も入れておきました。(笑) そしてそんな親を持てば、結局「かなわない」といった「負い目」を背負って生きていくのでしょうけどね。また自分を抑制(我慢)できる人間が立派のように教育され、大人になって周りを見れば自分の欲求に素直(ワガママ)な人間ばかりが尊敬され・・・でも調子に乗ると「我慢が足りない」と言われ、また我慢出来る人間にしか尊敬も置けなくなっていて・・・ 私は父に反面教師的な存在をあてていますが、ある意味これ以上自分に戒めを与えてくれるモノは無いようにも感じていますかね。私の性格上、直接言葉(理屈)で悟されると反発も生まれそうですし、「自分で悟った」感覚がないと自分のプライドを傷つけますかね。ましてそれが父の計算であったりしたら・・・尊敬を超えて恐ろしくも感じますかね。(09.12.19著)姉妹日記: 「子供」・「私」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.26

「有難う御座いました」 おつかれさまです‘07 「理屈無く」を「理屈」で表現することは難しいですね。「矛盾」していますものね。書けば書くほど、前に書いたことを補う(言い訳の)ように次々と記事の種が生まれてしまいます。ライフワークにもなりそうですが、ちょっと疲れました。陶器写真が無くなった事を良い言い訳にしてこの活動から少し離れたいと感じました。(笑) 「経験」してしまえばイッパツだったりするんですけどね。でも、それでは物足りなさを感じるんですよね。結果だけでなく、プロセスを楽しみたいような。そして、そこからより強い満足感を得られたりして。自己満足にすぎないかもしれませんがね。そして、そろそろまた「理屈無く」が恋しくなってきました。 「無」から「理屈」が新しい「力」(世界観)を生み、「理屈無く」がその「力」(世界観)に無限の可能性を与え、そこからまた新しい「理屈」が生まれ・・・といった相乗効果的な「無限」のサイクルも感じています。共に大切な役割を感じます。要は、良くも悪くも複数の「想い」がお互いに影響しあって世の中成り立っていると言ったようなことですかね。 また、個人的には、ヒト(想い・意識的な存在)は既に「完璧」であると感じます。沢山の「想い」が存在し、関るため、なかなか「想った通り」にならないことから「不完全」に感じるように感じます。ただ、この表現はあまり体裁良くないとも感じますので、「完全では無いで人間として完全である」くらいにしておきたいと想います。 人は皆、「立派」という画一的なイメージに最後には個性をはめなければならないのでしょうかね?私は外からどんなに「立派」と言われるようになっても、結局根底は何も変わっていない自分を感じ、「負い目」を持った自分が残る気がします。そして、やはり辛い時はどんなに立派な「理屈」で補っても「理屈無く」辛く、きっと逃げ出したくもなりますよね。 でもやっぱりできれば「立派」って言われたいですかね。(笑)そしてまた昔は、「人それぞれだから・・・」が楽で寛容であるように感じられてよく遣っていましたが、今ではとても寂しい感じがします。私は多少辛い想いをしてもやはり「関わり」が欲しいと今は感じています。「想い」は巡って(無限・矛盾して)しまいます。 よって今回のことをどのように締めたらよいか迷いましたが、それも不要なようです。私はそれなりに満足感を得られました。ただ、私の自己満足に納まらず、私のように「理屈」に憑かれ、プライドの高さから他人の世界観に漬かれず、あらゆる自己主張も出来ずに毎日の生活にいっぱいいっぱいになっている誰かの何かの役に立てばなお幸せに想います。 身近な人間への配慮も含め、自分を守るために今はまだ表現をためらっているモノもあります。世の中の変化も感じ、色々な意味で体裁も整えながら、その時期と感じましたらまた表現したいと想います。また直ぐに書きたくなるとも感じていますが、その前に陶器を作らなければならないようです。別の名分を探そうかな・・・(笑) 始めからこのような「世界観」に付き合って頂いた方には特に感謝しています。そして今回私の世界観を表現するために皆さんの世界観を傷つける表現が多々あった事も自覚しています。本当に申し訳ございませんでした。(07.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘08 私の母の気功も含め、他人の創った世界観に浸ることで安心や癒し・楽を得られる人も多いと感じます。ただそのような人にも自分だけの世界観を感じます。他人の世界観に浸って(理解して)いるように見えて、実際は全てその人独自の理解で創られた微妙にズレた世界観のようにも感じますね。そして依存(素直)的気質の強さ(慣れ)も人により違いを感じますね。 そういった身を寄せられる世界観や気質を持てることに対しては羨ましさも感じますね。そしてまた色々な世界観達の間に挟まって身動きできなくなっているような感覚の人達も感じます。どんな世界観を創っても身を寄せられない・・・今ある全ての世界観の縁を少しずつ溶かす(否定する)ような事をしなければ安心できないようなモノを感じられますかね。 この活動の目的として、そんな感覚の人に触れたり求めたりもありますかね。もっともそういった感覚の人はこういった日記にコメントを書けるような気質とは感じていませんけどね。そして伝わらない人には決して伝わらないと感じますし、そういった気質との人付き合いからでないと貰えない感覚も少なくなくて・・・。共に大切な感覚と感じています。 少なくとも私が心の内で他人に理解して欲しいと感じていることは比較的体裁の良いモノで、そこにはもっと内にある体裁の悪い欲求(単純に気持ち良い)を満たすための隠れ蓑のような役割があるように感じています。この活動も一方通行的質のモノであると自覚もありますし、それを望んでいる自覚もあり、時には見守られることが真に幸せに感じたりもしますかね。 大分調子にも乗ってきましたし、愚痴もいっぱい散らかせたのでまたしばらく立派に思われる人間にならないと自分のプライドが崩れそうです。(笑)それではまた近いうちに・・・。(08.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘09 他人よりも優れているとか、私の方が正しいとかを競うことに生き甲斐を求めるなら別ですが、他人の感じていることを共有したいと想うなら、その真偽を問わず、相手の築き上げた世界観にドップリ浸かってみたらどうでしょう。例えば脳科学では人が見(感じ)ているモノ全てを肯定も出来ないのですから、真偽の判断は人により意味の薄いものかも知れませんね。 また例えばAさんの世界観を信頼しきれればAさんと同じモノを感じられるでしょうし、Bさんの世界観を信頼しきれれば例えそれがAさんと正反対の世界観であってもBさんと同じモノを感じられると感じます。正反対の世界観であるのならどちらかが真で偽であるという理屈に拘るのであれば、どちらかの世界観だけを感じていくのでしょうね。 ただ常にいずれも否定も肯定も出来ない中立的な立場を築いてしまうと、いずれの世界観の感覚をも失うと感じます。多くの他人の感覚を共有したいと感じるならば、その時々で、いずれの世界観にも一時的に偏れるワガママ・理屈無さ・都合良さ(心の柔軟さ)が大切なのではないですかね?ただそこには時に大きなリスクも伴うとも感じますが・・・。 また人によっては自分のプライドとの折り合いの着け方が鍵になると感じますかね。時には一時的にも自分の本意や自分の中に築いた上下観を抑え、お互いの世界観を極力合わせる事が「気を合わせる」(気を遣う)と言うことと感じますし、合わせる「気」が多くなることよって、より大きな力や様々な現象も易く生むことができるように感じますかね。 元々一方通行的質の日記の活動を望むとはいえ、今年は外部からの意見(コメント)を絶ってしまいました。本音で生きると楽になるのかと思っていましたが、何かプライドがズタズタな感じで自分の中に懐が無くなる様で逆に辛いですかね。嘘でも建前でもいいからプライドを守りながら生きる方が幾分生きるのも楽で、自分にあっているようにも感じますかね。 またしばらく日記を休んでその辺の調整をしてきます。本年も有難うございました。(09.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘10 今年も一方通行的に頑張って書いてみましたが、やはり書きたい表現の60%も出せませんね。決して嘘を書いている訳ではないのですが、どうしても他人の目を気にしてしまって、体裁の良い表現を残してしまうのですよね。おそらく私の感じている100%ストレートな表現をしてしまったら、炎上する記事も少なくないことでしょう。(笑) また私が何かを決め付けるような表現をしても、世の中にはそれと正反対のことが成立してしまったりして・・・極端に正反対までは行かなくとも、その間を取るように無数のズレた感覚が成立していて・・・それら全ての感覚にも自分の中に思い当たる節があり、いちいち今自分が発言したことを補うようにして限りなく表現が必要となって廻ってしまい・・・ 言葉で表現しようとすると、その時々である程度偏った立場のモノにならざるを得ないように感じますね。そんな自覚を持っているのでそれに対して反論されると「その感覚も解る!」と言い訳もしたい所ですが、信頼を失いそうなのでそれも出来ず、なによりも反論されたことが悔しくてそのまま突き進み、後戻りが出来なくなってしまうことも少なくないですかね。 もっともそういった遣り取り(議論)自体が時に楽しかったり・・・。私の日記の中にある私自身の多くの『矛盾』にその点を読み取って頂けると嬉しく想いますし、そんなことが私の一番表現したいところでもあり・・・そして私が感じることの本音的表現は、結局自分の死を目の前にしない限り私には無理だとも感じますが、出来る限り頑張ってみたいと想います。 また期限をきらずに少し長く休みに入ります。また始める保障もありませんが、興味を持って頂いた方にはその時はよろしくお願いします。欲を言えば私の表現が誰かのなにかの役に立てば嬉しいと感じています。ちょっと分の悪い場を凌ぐ屁理屈にでも遣っていただけたら・・・(笑)本年も有難うございました。良いXmasと御年を・・・・(10.12.23著)・・・・・・・・・・ おつかれさまです‘11 5年にわたって自分の感じる世界の真理的なモノを表現しようと書いて見ました。一例でも例外(個人差・偶然等)のある世界観では真理になりえないと感じますが、今存在するどんな世界観も必ず例外を抱えてしまうことからもその例外、つまりは矛盾自体に真理があると感じ、毎回身の回りに存在する矛盾を取り上げて自分なりにつきつめてきたつもりです。 今年も沢山記事は書いてみたのですが、途中からアップを止めてしまいましてね・・・どんな記事を書いても行き着く所が一緒なので、書いていて詰まらないと言いますか・・・一貫していてブレがなかったと捉えれば自分の感覚の確かさの自信には繋がりますし、不変的なモノ(真理)を表現する上では承知・覚悟していた事ですが、とにかく詰まらなくて・・・ 生きていく上においては、真理よりも理想(想い・世界観の構築等)といったある意味その時点では「嘘(不確定)」的なモノの方が大切なように感じますかね。やはり多くの枝葉から幹を求めるよりも、幹から多くの枝葉を求めるような多様性(無限)に楽しさ(楽)があるのかも知れませんね。真理とは本来単純で退屈(苦)なモノのようにも感じていましたので・・・ ある意味「楽」を選択したことにもなりますかね?実質ゼロからモノを創造した事にはならないですからね。ただ前者も私にはしっくりこない生き方とも感じていますがね。最後まで「巡る」しました。(笑)行き着く所が決まった質のモノなので、初めからどこかで区切りを付けようと感じていましたが、五年と言う区切りを受け、今だと感じました。 今年アップしなかった記事と今後の新たな記事は新規アップはせずに、このブログを極個人的な書庫的に活用して、単純に気づいた事の羅列として過去の記事に書き足し、書き溜めていきたいと感じます。それでもお付合い頂ける方にはお手数をかけますが今後もよろしくお願いします。5年間有難うございました。(11.12.23著) 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

水泳の○島選手が世界記録を1秒あまり更新したそうです。 その一方で水着の性能が騒がれているようですね。さて、「スポーツマン・シップ」(正々堂々)を考慮に入れまして、また○島選手の立場をお借りしまして、私なりの水着問題(水着選択)を考えてみたいと想います。(ここでは自分以外は全ての選手が問題の水着を選択したと設定します) 「正々堂々」・・・やはり水着の性能に頼らず泳ごうか・・・そうすれば負けても言い訳がたち、余計なプレッシャーから解放されて100%の力が出て・・・上手くいけば優勝・・・これ以上の結末はありませんね。英雄です。世界記録はもう出しているし、前大会で金メダルもとっているし・・・どちらに転んでも損は無いかな・・・あれ、これって「正々堂々」? 逆に「負い目」まで感じてきました。やっぱり負けても言い訳できないように皆と出来るだけ同じ条件(水着着用)で出ましょうかね。もっとも水着以前に体格差や練習環境の差といった不公平さもついてまわっていますがね。また、例えば平泳ぎの様な特殊な手足の掻き方になると、ある程度水に対する体の抵抗がないと効率よく体を押し出せないようにも感じますね。 上・下半身の強さ、水を掻く・伸びる時間などの差により、選手によって(掻く力の強い選手は特に)例の抵抗の少ない水着も逆効果になったりするような「理屈」も付けられますかね。有名な学者によってそのような「理屈」が広められると、今まで記録を伸ばしてきた選手でさえ水着に対して不信を持ち始め、記録を落としてしまったりするように感じます。 また、中距離マラソン界で国内敵無しと言われた選手がフルマラソンに初挑戦していましたね。以前より自信ありげな無邪気で強気のコメントも聞かれていましたが、結果は途中で体調を崩し、失速してしまいました。でも最後まで諦めずにふらふらになりながらも笑顔で完走していました。マラソンを見ている側からすると通常よりも強く感動を頂きました。 ただ同じように頑張って1位になった選手のことがすっかり霞んでしまったようにも感じました。是非はともかく、私のように「理屈」でプライドまで考える人間にとっては、「棄権」を選択することも1つの「勇気」・「スポーツマン・シップ」の形でもあるように感じます。ただその選択は、強く受けたあの感動を失うことにもなってしまいますね。 そしてあまり考えすぎるとどんな選択をしても「正々堂々」から外れてしまいそうです。結果的に能力に差が無ければ勝敗は着きませんし、個人差を確認するためにもスポーツ等はあるように感じます。少なくともスポーツに限っては、その人それぞれの満足に任せれば良いのでしょうかね。今回も他人を中傷する表現にもなってしまいましたかね?(謝)(08.6.1著)・・・・・・・・・・ 若い人には「褒められると伸びる」タイプの人が増えていますかね。 私はダメなんですよね。そもそも今まで何をやっても納得のいくことはありませんし(少なからず誰もがそうであると感じるので不思議なのですが)、そんな時に「褒める」されてしまうと、その人に対してがっかりしてしまうんですよね。「この人はその程度か」って。先生やコーチ・師匠などの立場にある人に対しては一気に冷めてしまい、信頼や尊敬も置けなくなります。 私の子供の頃は、体育や美術・音楽等で賞を貰っても、家で両親に褒められた記憶がありません。賞をとって当然と言った雰囲気ですかね。貰ってきた賞状やトロフィーなども引き出しにしまわれるだけです。友達の家に行って、飾られたそれらを見るととても不思議でした。また、スポーツをしていると、時に相手の必死な姿を見てやる気が萎えてきてしまうんですよね。 あの頑張った先に何があるのだろう・・・って。おそらく家族で喜びを分かち合ったありするのでしょうね。そんなことを考えるとワザと負けてもいいかなって思えてきます。自分には無用なモノのように感じますのでね。今ではそんな自分も悪くないと感じますが、特にスポーツなどで成功するには、「褒めて伸ばす」的小さい頃からの環境もとても大切に感じますね。 そんな環境で育ったせいか、「負けず嫌い」の形も違いますかね。単純に表面上の勝負での「勝利」よりも、相手の背負っている諸々を感じ、時には表面上負けを認め、そんな自分に勝手に寛容さを感じ、より強く満足し、「勝利」を感じられたりするんですよね。私が得意とする「気遣い」にもそんなイヤラシさ・ズルさが多分に含まれているように感じますね。 「スポーツマン・シップ」は何処へいったやら。そして他人の「弱音」や「愚痴」に安心を感じたりしているのですからね。矛盾だらけです。(笑)ただTVなどでスポーツを見ていると、表向きの勝敗よりも強い感動的な結末を好むように、無意識に演出のようなことをしている人を感じることも少なくないんですけどね。怪我をしている相手に手心が加わったり・・・。 また優秀な選手のなかには、キザなコメントが言えたり、時には「きめポーズ」などを持っていたりする人も少なくないようですし、自分に酔えるような気質も感じられたりしますかね。そういったことからも優れたスポーツマンと役者(演技に関る人)に共通する気質を感じることも少なくないですね。「演技」とか言うよりも「別人格」的な何か・・・(08.8.15著)・・・・・・・・・・ 「素直な子は伸びる」 確かに先駆者に教わるモノは、素直である事が上達の「速さ」に繋がると感じますね。疑問を持たず、言われるがままに練習を積めば、その先駆者のレベルまでは先駆者程時間を費やすことなく辿り着きますかね。そんなことを考えると、子供が大人並みの才能を示すのも、その環境(憧れる大人の強い想い)によってはそんなに驚くことではないのかもしれませんね。 ただ素直であるが故に、先駆者の限界までも引き継いでしまい、時には先駆者を超える才能の育成の妨げにもなりかねない気質であるとも感じますかね。子供の時に「神童」と呼ばれた人の大部分は、大人になって伸び悩んでしまっているようなことを聞いたことがあります。年齢や見た目のギャップが、プラスαの評価を生むことも少なくないと感じますかね。 実際に一流と呼ばれる人達には、独自の哲学を持っている人も少なくないように感じますかね。時にはタブーとされていることをあえて取り入れたりする逆転的発想を持った人も少なくないと感じますね。「誰もやらないことを・・・」的な他人よりも頑張っている感覚を得る手段の1つにもなると感じますが、ある意味そうしたことは素直でない人の才能ですよね。 ただし誰も通った事のない道を進むため、芽が出るまでに時間を費やし、自分を潰したりもしますかね。どちらも大切で、同時にリスクも備えているモノのようですね。もっともそのような理屈に捉われない「割り切り」(柔軟性)こそ重要なのかもしれませんけどね。 そして「素直になりたくない」と感じた時、素直にならないことが欲求に素直であると言うことでしょうね。(09.5.28著)・・・・・・・・・・ 日本はスポーツをする環境が悪い? 確かに他の国を見ると報酬などが桁違いに高かったり、また国を挙げてスポーツに力を入れている所もあるようですね?そして私も日本人の根底にはスポーツに対する感じ方に他国とは異なるモノも感じますかね・・・何といいますか・・・職業(仕事)と言うよりも趣味とか余暇に楽しむモノ的感覚が・・・少なくとも私の中には強くあるように感じますかね。 大部分の人は他の仕事において稼いだお金を遣って趣味などを楽しんでいる訳で、多くの時間を自分の好きなことに割けていて少しでもお金が入ってくるなら恵まれて・・・最も「日本はスポーツをする環境が・・・」という声の多くは選手自体からのモノではなかったりもしますけどね。最近その声を聞いたのは女子サッカーの栄誉に対してのモノでしたが・・・ 本当に日本がスポーツにとって悪い環境であったとしても、ワールドカップで優勝してしまった訳で、その真偽はともかく、必ずしも環境の良し悪しに強さが繋がってくるとは自ら言えなくしてしまっているように感じますがね?(12.1.4著)姉妹日記「スポーツマン-1」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

外国の女性スポーツ選手は、ウエアーの上から胸の形がはっきりしていてもあまり気にしないようです。 その分競技に集中出来るような気質が強さの大きな要因と感じていましたが、活躍しているプレイヤーの多くは、髪やウエアー、アクセサリーなど、オシャレにはむしろ人一倍気を遣っているように感じます。外からの負の「想い」には比較的「鈍感」で、とにかく自分をアピールすることに「貪欲」なようですね。あの体格もそんな気質の表れと感じます。 「ホーム」・「アウェイ」という言葉も定着し、特にスポーツ界では、「気」(想い)という世界観が欠かせないように感じます。日本の選手は、外から受ける「想い」に「敏感」なようで、これが能力発揮の妨げの大きな要因かと感じていましたが、またこれが逆に体格(体力)差というハンディーを埋める「チーム・ワーク」に結びついてもいるように感じます。 特に少し前の日本人選手は、相手の「気」を読むような能力にたけている人が、良い成績に結びついてきたように感じます。そして日本人同士ではそれを顕著に感じます。相手(敵)の「想い」を感じとって、その裏をかいたりが勝負の基本と感じます。また、相手(味方)の「想い」を感じとって、次の動きに繋げることが「チーム・ワーク」と感じます。 特に他人の目(想い)を気にする日本人には、「他人のために」という名目が力になるようですね。私は個人競技の方が得意ですが、自分の力だけではどうにもならない団体競技の方が、より「やりがい」を強くもてますね。そしてまた時に、自分達より力の劣る相手にまで「想い」を合わせてしまい、いい試合してしまったりするんですね。 ただ、結局自己表現に「貪欲」(無邪気?本能的?)な人にはそれもあまり効果なく、コテンパンにされてしまったりするんですよね。単純に「楽しむ」(気持ち良い)されてしまうんです。戦闘機に女性の絵を描いたり、お葬式で歌を歌ったり、国によって偏りは感じますが、外国の人はあらゆる状況で「楽しむ」の出来る気質の人が多いように感じます。 また最近の若い日本人にも増えてきているように感じます。(07.12.6著)・・・・・・・・・・ 「神の手」 サッカーの試合でハンドをしたにも拘らず、それを見逃した審判のミスジャッジにより得点と認められ、大切な試合に後味の悪さを残してしまったりしますよね。おそらくハンドをした選手本人には自覚があると感じますが・・・サッカーの神と言われる程の国民的英雄にもそんないわれがあったりして・・・ただそれが良いイメージ的に伝説になっていて・・・ またワザと相手の反則に見せるようなことをする選手も少なくないようですね。個人的にはとても見苦しく感じますが、専門家の話によれば、それもテクニックのうちなんだそうで、むしろ優秀な選手の条件の1つのようです。確かに相手を騙すこともスポーツで勝利するための基本と考えれば、そこに審判を欺くことも含めて考えるべきなのかもしれませんがね。 そしてチームスポーツになると、例えば故意ではない反則などは色々な意味で自己申告もし辛いですかね?(09.12.11著)・・・・・・・・・・ 先日のアジア選手権で、何十年かぶりに短距離の2冠をとった女性がいましたね。 普段はのんびりとした口調でギャップも感じましたが、感じ方・考え方は独特で、ある意味マイペースということが良い方向に結びついているようですね。リレーでも第三走者目まではいいところにつけていましたが、最終走者の彼女のバトンタッチのミスにより、3冠を取りそこねてしまったようです。日本に帰ってくると、2冠をとったことで彼女は騒がれて・・・ マスコミにチヤホヤもされて上機嫌のようでしたが、リレーで彼女と一緒に走った選手のことを考えると、とても気の毒に感じてしまいましたね?そういえば昔は「日本のお家芸」とされていた「団体戦」がさえなくなっているモノも多いですよね。一人一人の技術・能力は上がっているようなのですが、それが結果に結びついていないようですね。 もともと個人の技術を上げるためには、考え方も含め、自分だけに集中する必要を感じますし、ある意味「チームワーク」を優先すると、時には相手に合わせるように、個々の能力を一時的に落とさなければならない場面も少なくないですからね。個人競技で高いパフォーマンスの若い日本人も増え、それが時に団体戦においては反発に繋がったりも感じますかね。 また「団体戦」になると「仲間の想い(責任)を背負う」プレッシャーが伴ったりしますが、時にそれが一種の充実感につながったり、逆に個々の責任(他人の目・プライド)が分散されることもあり、特に責任に敏感な昔の日本人の気質には相性の良さを感じることも少なくなかったですかね。ガンバレ日本!(10.11.30著)姉妹日記「個人プレー」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

「頭で考えず、体で覚えろ!」 よくスポーツで耳にする言葉ですね。頭から命令を送る前に体が動くように・・・反応速度をあげるといった意味でしょうかね。「覚える」・・・私にはちょっと違和感のある言葉です。「考える」の方が、後から身についたモノのように感じます。いわば、「本能」に対する一時的なブレーキが、「考える」(理性)のように感じています。 『本能』には、「欲求」(純粋に「気持ち良い」を求める)や、私もその定義もしっかり理解しないまま便宜的に遣う「無意識」、それも無数(無限)の「意識」の基のような、時には他との区別も無いような感覚もあります。「英雄色を好む」といった言葉がありますが、人並み外れた「能力」と「本能」(欲?)との間には密接な関係を感じられます。 時々スポーツ選手が「試合中に体外から自分の姿を見た」と表現していますね。その発言は、大概すこぶる調子の良いときに遣われているようですが、まさに「本能」(欲求)という人格(意識)が解放する場を与えられ先走り、「理性」という別人格(他意識)が置き去りにされている様のように見えてしまいます。 そして『本能』には、「天真爛漫」や「無邪気」、そして「ワガママ」などの気質に重なりを感じる事も多いです。その様な気質の強い人は、「理性(自制)的な他人」からは「嫉妬」、「本能的な他人」からは「憧れ」(主に性)的攻撃の対象になりやすい質を感じます。もっとも「憧れ」の裏返しが「嫉妬」と感じますが。 そこで色々な意味で自分を守るために、「理性」という「別人格」(他意識)的なモノを創りだすことが必要になってくるのだと感じます。誰の中にも、「天真爛漫」や「無邪気」、そして「ワガママ」などの気質は顔を出しますね。そして少なからず痛い目を見ていたりしていませんか?(ある意味「守る」も気持ち良いを求める形の1つと感じます) また、演技に関わる人が役に入り込んでしまうと、仕事が終わってもしばらくその役を引き摺るような話も聞きます。ヒトは必要に応じて(自己表現や自己防衛)、無意識?(本能的?)に「別人格」(他意識)のようなモノを創りだす力を持っていると感じます。それも複数の。「覚える」より「想い出す」ですかね。いや、「解放」ですか。 意識的な「解放」には、「研究」や「練習」・「行」等の世界観の気付き(築き)が必要になると感じます。時にはその作業(時には「薬」や「アルコール」)が「解放」する場所を創り、また元から「本能的」な人には不要な作業と感じます。定義はされていませんが、「意識」を通して「欲」と「気」にも密接な関係(世界観的表現の違い)を感じます。(07.11.10著)・・・・・・・・・・ 「お腹にハチマキを巻くと、足が速くなる」先日TVで見ました。 マラソンの苦手なポッチャりした子供でしたかね。ハチマキが腹筋を助け、姿勢が良くなり、歩幅がアップするのが「理屈」だそうです。また他に、右回り(逆だったかな?)に回ると力が強くなったり、一瞬で体が柔らかくなるモノもありましたかね?一見何の科学的根拠の無い「行為」(仕掛け)をすることで、能力が変化してしまうような検証番組をよく目にします。 いずれも1回目は何もせずに記録を測り、2回目にそれらの「行為」(仕掛け)をしてから計測し、かなりの確率で多くの人が記録を伸ばしていましたね。ただ逆に1回目にその「行為」(仕掛け)をしていたら同じような確率でその記録を上回っただろうかとも感じますかね。先に記録(目標)が出来ると「それを超えたい」的心理(気)も生まれ易かったりしますかね。 またTVによって初めからその「行為」(仕掛け)をすると「記録が伸びる」雰囲気を漂わせた検証においては、むしろその「記録が伸びる」という言葉や雰囲気(周りの期待)が大きく能力アップに繋がると感じますかね。特にTVや大勢の前での子供や女性・芸能人(一流スポーツ選手等)には、「周りの期待に答えたい!」という本能的な力の資質を強く感じますかね。 お笑い芸人の「笑いの神様が降りてきた」や、スター選手のチャンスの場面とのめぐり合わせも含め、そんな資質の強さを感じますかね。また一見意味の無さそうな「行為」(仕掛け)→『不思議』的感覚が、人により理屈が生む「矛盾」を一時的にも抑えこみ、またその記録を伸ばした人達を見て触発され、他の人が記録を伸ばしたりするようにも感じますかね。 「クチコミ」(プラシーボ)的効果とか、一種の「気遣い」とでもいいましょうか?そして後に、「その行為(仕掛け)をしたら記録が伸びた」という事実に対して、研究者が信念により自分の世界観(科学的ルール)で理屈を創り、科学的検証結果を生み、ある意味自分の世界観を守る為に『不思議』から「常識」に変えていかなければならないと感じますかね。(09.4.1著)・・・・・・・・・・・ 「脱!精神論」 スポーツ界も昔の「根性」的指導法よりも、理論やデータに基いた指導方法が主流になってきましたかね?確かに私も今の若い人達には理屈っぽさも強く感じたりもしますから、「根性」などの曖昧なモノではなかなか指導者についていくのも難しいモノがありますかね。昔はその指導者の過去の実績(憧れ)だけで充分な説得力もあったように感じますがね。 昔は今より有名人も特殊・少数、メディアも未発達でプライベートもあまり耳にすることも無く、超スーパースターも生まれ易い環境であったようにも感じますかね。今はメディアの発達でスター性も多様化・分散し、親近感のあるスターも好まれているのかプライベートの負な部分も目に付き、昔ほど神(絶対)的「憧れ」のスターも育ち難い環境でもありますかね。 「乳酸」は疲れの原因ではなく、むしろ疲れには良いモノ・・・最近TVで知りましたが、信じていた医学(科学)的常識がその医学(科学)によって後に覆っているモノも少なくないですね。時に腹も立ちますが、理屈は後から(揚げ足取り・逆説的に)構築される新しい理屈によって崩されてしまう質も感じ、単に目新しさに「信頼」の要因も感じますね。 私も指導する立場で、理屈っぽい若い人達に面倒臭くなってつい適当な「理屈」を与えたりしますが、以外にあっさり納得され、結果を出されてしまったりして、特にしっかりと構築された「理屈」に重要性を感じなかったりも少なくないですかね。結局「理屈」は気持を納得(確信)させる手段の1つで、それが精神に働きかけ・・・やはり力は精神(想い)の強さ? 「理屈」は力を出す「きっかけ」の構築法に過ぎないとも感じますが、皆その構築に苦労しているのでしょうがね?また「精神論」(理屈無く・根性)をも身に付けていれば、その信じてきた理屈を失っても、さほど調子を落とさずにいられるのかもしれませんがね。もっとも『論』が付けばそれも「理屈」になりますし、「理屈」が応用力にも繋がるとも感じますがね。 またIDとかいって、データ解析による手法を時に「科学的」裏付けのようにして信頼を得ているように感じますが、個人的には「占い」等の「非科学的」とも根底に違いを感じませんがね。むしろ「占い」の方がその歴史の古さを考えれば、集め処理された過去の現象(データ)の量は膨大なように感じますけどね?いま一つ科学も信頼しきれなくて・・・(09.12.2著)姉妹日記「無」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

日本の「武(精神)道」でも、極限的な力を出す時に「無」と言った表現を遣いますね。 そこには「精神的成長」(理性)のようなモノ(他主張理解能力)に趣が置かれているようですが、個人的には次のような大別も感じます。★「理性」的気質の人が「(無数)意識的な力」→無限(全て在る)★「本能」的気質の人が「無意識的な力」→無(何も無い) 前者は他意識との関わりによる情・想いやりなども含めた「限界(制限)」を伴う資質を感じます。後者は比較的「限界(制限)」を創りませんが、周りの負の「想い」(嫉妬など)を受けやすい資質も感じます。そして文字面での「無」に、極めて近い存在のようにも感じますが、そこには極端な「気質」の切り替えが強く求められるようにも感じています。 ちなみに私はどんなに良い結果が得られても、それが常に意識して得られたモノでなければ今ひとつ満足感に欠けますかね。 また「奥深さを求める」ことは、同時に自分の中に「難しさ」(限界)を築く作業と感じます。「限界」を自分の中に創ることに「弱さ」を当てることも多いと感じますが、私は「無限」を全ての本質と感じる中で、「限界」こそ究極の「到達点」とも感じてしまいます。「限界」を感じられた者こそ幸せなのかもしれませんね。想いは巡っ(無限し)てしまいます。 そしてまた同じようにして、自分の生活にも奥深さ(充実感)を求め、無意識に自分の中に「難しさ」や「忙しさ」、「辛さ」などを自ら築く人もいるように感じます。私などは「疲れ」を感じないと、その日一日損した気持ちになります。厄介な人間ですが、「大変ですね」って一言労ってくれれば喜んで全部背負い込んじゃいますよ。遣いようです。(笑)(07.12.6著)・・・・・・・・・・ 「我慢は美徳」・・・私は特に(少し前の)日本的な価値観だと感じます。 私の学生の頃は、運動系の部活動中は絶対に水は飲ませて貰えませんでしたね。水分を取ると汗をかきやすくなるとかも言われましたが、普段から「限界」的状況を経験させることにより、試合中のいかなる厳しい状況でも諦めない「根性」(我慢)を養うことが主な意図のようですね。「これだけ頑張っているんだから」的、上達のための自己契約的作用もあると感じます。 今では科学(外国)的根拠のもと、価値観も変わり、逆に水分をマメに補充するようになりましたが、ある意味そういった「我慢」を強いないこともまた「力の解放」に結びついているようにも感じますね。やはり「ワガママ」(我慢しない)は、比較的自分に「限界」のイメージを創らず、単純にスポーツで大きな成果を上げるためには大切な気質の一つと感じています。 スポーツや芸能・芸術的世界以外では大きなリスクも感じますが・・・。(08.9.10著)・・・・・・・・・・ 「余計なことは考えるな!」 今、成し遂げようとしていることに集中する・・・時に「無」的に捉えられていますかね。スポーツや武道等の「勝負」で必要とされている感覚の「無」は、時に「他意識にドン感であれ」と言う意味でもあるように感じますかね。他意識にビン感であると、人により「情」や「想いやり」が生まれてしまい、「勝負」に集中出来なくなるようにも感じますからね。 特に「見た目の勝利」の気持ち良さを求めるには「他意識にビン感」は時に邪魔になる才能でもあるように感じます。もっとも「ビン感」に相手の想いを感じ取り、「ドン感」に行動にする・・・極端な気質を遣い分けられれば別ですが、そんな人間は恐ろしくも感じますし、「スポーツマンシップ」や「武道精神」からも外れるようにも感じますがね。(09.7.2著)・・・・・・・・・・ ビックリ人間大集合! そんなTV番組の中で、女性が300kg.ものモノを持ち上げ、少年はオリンピック選手もお手上げの力技で倒立を披露していました。いずれも先天的(突然変異的)な体質(筋肉)を持つようで、筋肉ムキムキな感じで「女性」や「子供」を意識しなければ納得も出来そうですかね?ただ私が気になったのは「子供の頃から(少年)・・・」というところです。 まず子供には、人生の経験も少ないことから負なイメージなこともまださほどないと感じます。大きくなるまでに大人達によって色々と制限(限界・常識等)を刷り込まれるようにして大人になる頃には本来の能力を押さえ込んでいることも少なくないと感じます。人によってはそういった周りからの矯正を比較的受けない環境で育つこともあると感じますね。 女性は親の影響で子供の頃からサーカスのような場所でその才能を披露していたようです。特に子供は親や周りの人達の「期待に応えたい」的な欲求が力として現れたりするように感じます。これは芸能人やスポーツ選手などからも感じられる力ですかね? 少年は兄弟が多く、その中で親の気を惹くためにはどうすれば・・・的な力とかも感じたりしますかね。 その両親も比較的感動しやすく、子供に対しても自然かつ上手に褒めて上げられるような気質に見えましたし、女性は子供の頃から両親だけでなく多くの人達から褒めてもらえる環境に恵まれていましたね。そんな気持ちよさを今でも引き摺るように才能も持続できているように感じますかね。先天的な体質的要因などは科学の後付(逃げ道)的に感じますがね。 少年は2歳の頃にはそういった力の片鱗を見せていたらしく、また女性の子供の頃の映像を見ると特にまだ筋肉ムキムキな印象はありませんでしたが、「筋肉ムキムキ」のように外見的な変化も、まさに成長する過程において大人(専門家)達によって色々と刷り込まれるように怪力の言い訳として後付的に無意識に刷り合わせていったようにも感じますかね? 少し反れますが、よくアリが自分の何倍もあるモノを運んで、それをヒトに例えると何トンものモノを運ぶ事になるような言い方をされますが、私はそんな単純な比較には違和感がありますかね。前記した少年の倒立の力技なども含め、子供の能力にはそんな感覚のトリックも少なからず働いているようにも感じますがね。(10.10.17著)姉妹日記「ビギナーズ・ラック」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

「罪を犯す人は、相手の立場になる想像力が欠けている」とワイドショーでコメンテーターが強く主張していました。 私も同感ですが、後に同じコメンテーターが「私には罪を犯す人の気が知れません」とも強く言っていました。立場もありましょうが、矛盾を感じました。過去に何があろうと大きな「ワガママ」を通してしまった後の人に私も同情もできませんが、同情とは別に「ワガママ」を通す前の立場を想像してみるのは犯罪を根本から減らすために必要な事かもしれませんね。 また、「死刑制度」の是非についても議論が成されていますね。私の正直なところは・・・ ★私が「被害者の立場」(感情的?)で感じようとした時・・・「死刑制度賛成」 自分の大切なモノを奪われた想いから躊躇なく「死刑」を欲求するでしょう。ただ裁判が長引いて徐々に冷静になり、周りの違和感を感じられるようになると「初めから謝罪していれば死刑は回避できたかもしれない」といったような「それ以外の立場」(体裁)の考えに少しずつすり合わせをしていく事でしょう。あくまでも「死刑」が確定した事が前提ですが。 ★私が「それ以外の立場」(理屈的?)で感じようとした時・・・「死刑制度違和感在り」 「犯罪」というモノが一時的にそこから切り離され、「命の違い」・「殺したい欲求の違い」ということに重きが置かれます。ただ、これは生まれながらのモノではなく、教育(体裁)により創られた価値観のようにも感じていますかね。そしてそこには「死刑を望む」人達の強い姿(気)に対する違和感にも後押しをされているところが少なからずありますかね。 ただ、「被害者の立場」にいても、「死刑にしたい」という欲求を意地張って抑えられたとして、加害者の生い立ちに同情的言葉を掛ける事が出来たら、加害者はどんな反応をするだろうとも考えてしまいますね。もっともこの想像も「それ以外の立場」が成せる技なのかも知れませんがね。 結局の所私は、その時の立場による感情・感覚により「理屈」(体裁)を整えながら、出来る限りのその時の欲求を満たそうとするでしょう。そしてこのように書ける自分に怖いものも感じ、そしてまた誰かの感情を逆撫でしていることでしょう。 全ての立場(世界観)を受け入れられる事もすばらしい事だと感じますが、良くも悪くもその時々で、何かしらの立場(世界観)に偏らないと世の中動いていかないようにも感じています。「死刑になりたかったので殺すのは誰でも良かった」も「死にたいなら一人で死ね」も立場は違えども深く絡み合った寂しい言葉ですかね。(08.6.7著)・・・・・・・・・・ 「万引きGメン」と言うのをTVで見ましてね・・・ お店に雇われて万引きした人を捕まえるお仕事ですね。捕まえてお店の責任者に突き出すところまでは良かったのですが、犯人に向かって説教をし始めたときにちょっと違和感をもってしまいましてね・・・確かに悪い事をした人に対してだから当然だとも思うのですが・・・お店の人が説教するのは解るのですよ。直接的に迷惑を受けているのですからね。 何故ですかね・・・こんな不況のなか仕事にも就けていない人(時に万引き犯もここに含まれますか?)がいるのに、万引き犯を捕まえることによって給料を貰い、生活が成り立っているのに犯人に対して説教までしていることがどこか気持悪く・・・「万引きGメン」という職業が成り立つのは、万引きをする人が居るからというジレンマや矛盾からですかね。 「本物の銃が撃ってみたかったので自衛官になりました!」とか「戦車・戦闘機がカッコいいから自衛官に・・・」とかいう言葉を聞き・・・とても純粋で正直な動機であるとも感じますが、ちょっと違和感もありますかね?例えば「国民の安全のために・・・」だとか「正義のために・・・」とかいった言葉が建前でも欲しかったようにも個人的には感じますがね。 また国防に関る政治家や専門家達が軍事に対して語るとき、また例えば学者達が地震などの天変地異などが起こる可能性を語るとき、生き生きした目をしていたりしてちょっと怖かったり、そしてまた世の中が平和になったら軍隊や自衛隊、武器の製造に拘る職場で働く彼らを他に受け入れる仕事量がありますかね?自然災害等の対応のために組織を存続したとして・・・ 決して災害が起こることを望んでは居なくても、救助をするその姿に直接の憧れを感じてその職業を選び・・・結局災害といった他人の不幸に繋がることが起こって初めて成り立つ仕事が、時にその人の人生の遣り甲斐になり、命に関るのでなによりも尊い職業と言われたり・・・「平和」=「幸せ」?「必要悪」とか言われたり・・・そんな事って世の中多いですよね。 例え金銭的公平な世界が訪れたとして、人が皆公平な立場で長く納まっていられるのですかね?自分よりも不幸な人を見たりして他人よりも少しでも上な感覚を得られて初めて自分に安心感や癒し(満足)も得られたり・・・人が目指す「立派」も他の人より「上」って事で・・・「下」があって初めて「上」が成り立つ・・・とても気持ち悪い摂理ですね。 せめて平和的に皆スポーツ選手になりますかね?また時に万引きするのはモノが欲しいからやるのではなく、寂しくて人との関わりが欲しいからやると言う心理分析もされたりしますかね。無意識に見つかる事を望んでいるとか?それも含め、私には違和感・疑問もありますが、これ以上は色々と体裁も悪いので今回は突っ込むのは辞めておきます。(09.12.17著)・・・・・・・・・・ 「日本人が中国で死刑に・・・」 私はちょっと違和感がありましたかね。日本の量刑の感覚からすれば犯した罪に対して罰が重過ぎるとか・・・お恥ずかしいことに、私に限っては外国人によって日本人が処刑されたということ自体に違和感がありましてね・・・犯罪者ということを棚に上げてしまい、「同じ日本人」ということに仲間意識(情)が芽生え、優先してしまったのでしょうかね? 一方、沖縄で米軍兵士による日本人に対しての犯罪がありましたよね。なかなか日本の法律で裁くことも難しいようですね。これに関しても違和感がありましたが・・・基本的に前記の件と立場が変わったということで、自分の正直な感情に矛盾が成立してしまうんですよね。もっとも「同じ日本人」という観点では一貫しているのでしょうけれどもね? 私の基本は情よりも理屈(ルール等)を優先し、表向きは理屈(正義観等)で情を抑えることは難しくないのですがね。情に厚いことが「正義」的イメージがあるようにも感じますが、時にどんな情にも流されないことが「正義感の強さ」であるようにも感じますがね。他国のルールを把握し、意図してそれを破るのであればそれなりの覚悟は必要と感じますが・・・それでもやっぱり違和感は残りますかね。(10.4.6著)・・・・・・・・・・ 「○○反対!」 最近では「原発」などが大きく取り上げられているようですね。推進派からの「原発を止めて足りなくなった電力を何で補う?」に対して、反対派からは「太陽や風などの自然エネルギーに移行すれば・・・」と言ったような議論も聞かれますが、そもそも根本は原発・自然エネルギーに拘らず、電力自体の遣い過ぎなところにあるように個人的には感じますけどね? 電力等のエネルギーの遣い過ぎによって温暖化が進み、地球環境が変化して自然災害が頻発して・・・生む事が安全なエネルギーに移行した時、ヒトはその使用に歯止めが利きくのか怖さも感じます。そしてまた根本にもっとヒトの「想い」(気)的なモノを感じますがね。ヒトの「対立」には、良くも悪くもエネルギー(気・想い)を容易に増大させる資質を感じます。 大概はどちらかに「正義」的なモノの存在が有り、二者には大きな違いも感じますが、それを除いて純粋に感じた時には両者には似た強い「気」を感じますし、ぶつかり合っているうちにそれがさらに強まって、またそれらがメディアに載って周りにも「関心」が広がるとさらにエネルギー(気・想い)を増幅させて様々な現象(物質)が生まれるように感じますかね。 自然などのヒト以外の存在にはヒトの想いを反映する「気」を感じます。大概はその時点で自信(正義・体裁等)の強い側の都合の良い現象が現れるように感じますかね。最近特に世の中では政治などを見ても「先に進まない感」や、「不公平感」・「リセットしたい感」などの想い(気)の強まりも感じられ、負な自然現象等も頻繁になっているようにも感じますかね。 最近携帯電話に「脳ガン」との因果関係が国際的に報告があったようです。特に新しいテクノロジーが背負うと感じるモノに、その時点では体裁の良いモノに移行できたと感じても、そこでまた特定の人間だけが得しているようなことが明るみに出れば、そこで嫉妬などの強い「想い」(気)が発生し、対立・反発(気の増幅)の発生が繰り返されるとも感じますがね。 放射能などの毒も、核開発時の根本に「人殺し目的の道具(原爆)」的なヒトの「想い」の関与がなかったら変わっていたようにも感じますがね?飛躍的ですし、何より今となっては後の祭りですがね?自然エネルギーへの移行と共に、これからのヒトの英知が放射能を無毒化したり、放射能に順応させるのを期待するのはやっぱり無意味なことでしょうかね? また原発反対派に反発する人の中には、推進派ではなくて反対派に正義を感じていても、単に反対派の主張の強さへの嫌悪が反発の引き金になっていることも少なからず感じます。私は、原発は危険であり、ヒトはそれを完全にコントロール出来ないという自覚もありながら、それを有する会社が作り出す電気を遣って快適な生活を送って来てしまいましたので・・・・・・おおっぴらに反対することに負い目も感じますかね。そして皆が公平に「不便」に戻るならその覚悟もありますが、特定のヒトだけが得をするのであればやはり考えてしまいますね。そして対立・反発自体が生きていくうえでの欠かせない営みとなっており、時に何よりも人生に張りを与えてくれるモノになっているように感じますのでジレンマもありますかね。 そして前記した「正義」もその時々のヒトの価値観の変化によって一瞬にひっくり返されてしまう恐ろしさも感じますかね。例えば比較的先進国では「命」こそ最も尊ぶべきモノといった価値観も根付いているようにも感じますが、他の発展途上国のなかにはとてもそれを感じられない文化や習慣が残っている国も少なくないように感じますかね。 日本の戦国時代などを見て、先進国のたどって来た道が発展途上国にあるとするならば、発展途上国のそれにこそヒトの本質的なモノがあると考えることが自然であると感じますし、自然災害などによって先進国的価値観がそこへ何時引き戻されてしまわないともわかりませんかね?現に戦国武将などが多くの人に尊敬されていたりもして、少し怖さも感じますかね。 豊かさ・利便さを知ることがヒトの価値観に大きく影響を与えると感じますかね。対立が激しくなった時こそ、どちらか(特にその時点で優位な立場にいる側)が、一時的にも相手の立場に同情や労いの気持ちを示してあげるだけで、色々と事が良い方向に進むことも少なくないと感じますがね。もっともそれを利用しようとするズルい輩も居ますがね。(11.6.7著)姉妹日記「立場-1」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

‘07年を象徴する漢字は「偽」でしたね。 政治や経済・スポーツなど、各界までに渡りましたね。そして内部告発という、なんとも気持がしっくりこない「正義」が、これから各界の「偽」の抑止力となっていくのでしょうかね。ただ、自分の中に「気持良さ」を少なからず感じていることも正直な所ですね。 最近「嫉妬」・「嫌悪」(不公平感)的な「想い」が蔓延していますね。一部の得(ワガママ)をしている人たちに対する「嫉妬」や、またその「嫉妬」している人たちに対する「嫌悪」や、色んな所にその「想い」が結びついていくようで「自己主張」することが怖いです。そしてまた、「自己主張」するきっかけや、「正義」の根底にも関る「想い」のようにも感じます。 とても本質的な強い「想い」(力)の形のひとつで、時に大切なモノとも感じていますがね。 また霊感商法での被害が出ているようですが、その商法の多くは確かに意図的な「騙し・脅し」(嘘)が含まれているようです。ただ私の世界観もそこに陥り易いモノがあると感じ・・・例えば、薬はその人が効くと想えるモノこそ効果が上がると感じ・・・そして人は「安い薬」より「高い薬」にその想いを置き易いと感じ・・・私には売るモノが無くて幸いでした。 そしてブランド品や宝石には霊感商法的不信感が生まれないのも不思議に感じます。そしてまたお金に執着する人も、お金が無いと「プライド」的に本当に生き辛いのでしょうね。私も世間体的(安心を得る)にはもう少しお金が欲しいかな。ただヒトは、皆がしている(公平)と感じられると、多少の苦労や不便も我慢できたりもするんでしょうね? その人の「正しい」や「真実」は、受け手側の世界観やその時の精神状態で全く正反対のモノにも化けてしまうとも感じています。その人の世界観での「正しい」や「真実」を通すためには、他人の想いの同意は欠かせなく、多くの他人の世界観の利害(欲求)が一致したとそれぞれが感じた時に初めてその時々の「正しい」や「真実」(常識)になると感じます。 「嘘」は元々「正直」(欲求)を通すために生み出されたように感じます。また、世の中「正直」では生き辛いと感じた人が創り出した能力のようにも感じます。私は「正直者」同士が乱した雰囲気を「嘘つき者」が整えている場面も少なくないように感じています。質にもよると想いますが、どちらに偏りすぎても歪みを生むように感じています。(07.12.16著)・・・・・・・・・・ 「エイ・エイ・オー!」政治家達が、他の党を相手に拳を振り上げて叫んでいました。 ちょっと変な光景です。政治家の主な仕事ってそこにあるようですね。その人それぞれ「生きがい」を感じるモノも様々と感じますし、中には本気で志の高い理想を掲げている人もいるようですが、いずれも自分の人生ゲームに他人のお金(税金)を遣うのは勘弁してほしいですね。よく言えば、お金に恵まれる人はそんな所に「生きがい」を求めていくのでしょうかね。 また例えば、直接モノを創らず、他人の生んだお金を主に使う側にいて、それでもなお沢山のお金が流れてくれば、お金に対しての価値観も庶民とは異なりますかね。そんなシステムも基は彼らが造ったモノなんでしょうがね。ただ、周りからこれ程嫌われているにも拘らす、そこまでして続けたいと感じる「生きがい」とその「鈍感さ」には、正直嫉妬さえ感じますかね。 そして政治家に限らず不思議とそんな人の所にお金は集っていくんですよね。単にお金の臭いを嗅ぎつけて集る輩も少なくないと感じますが、好きな事に没頭していると本人にはそんな感覚は無くとも周りからは努力しているように見えたり、多くの助けも得られたりするようですし、必ずしも努力にお金は結びついていないようにも感じますね。(08.7.20著)・・・・・・・・・・ 「甘ったれるな!」と全ての指にデッカイ宝石をつけた女社長が、ワーキング・プアーと称される人達に怒鳴っていました。 お金を稼ぐ努力ややる気が足りないといっているようですが、彼らはその女社長のような裕福な生活も望んでいないようです。とにかく普通に生活できる報酬や、社員と同等に努力したり責任を負っている場合は扱いも同等にして欲しいだけのようですね。私も彼らにはもどかしさも感じますが、デッカイ宝石への嫉妬の方が勝りますかね。(笑) 「金儲けして何が悪い!」・・・確かに「金儲け」自体は悪ではないと感じますが、「お金持ち」でいることは少なくとも善では無い様に感じますかね?お金のようにある程度流通している量が一定しているようなモノは、誰かが沢山所有してしまうと何処かにそのシワ寄せがでるように感じますね。そして世の中にはお金が無くて命にも関っている人が沢山居る訳で・・・ それを知りながらもとても余裕のある生活をつづけていける神経がなければ、「お金持ち」が発生するわけないでしょう?本人には「他人より頑張ったのだから」とか人生ゲーム的な生きがいはありましょうし、今の私の立場からの嫉妬も多分にあると認めますが、命が危ない所にも廻さないなら生活に困らない分は「金儲け」ですら程々にして頂きたくも感じますね。 一般に8時間労働と言われますが、寝ずに働いたとしても24時間・・・3倍ですね。仕事に対してのやる気の違いを考慮に入れても、せいぜい5倍・・・?どんなに多くても10倍もの頑張りの差なんて出ないように感じますね。好んで頑張っている人も少なくないですからね。それが給料には10倍・100倍・それ以上の差が出て来てしまうのだから不思議です。 人や商品(作品)の評価・価値は他人によって与え(上げ)られるモノで、いわば稼がせてもらった(気に入ってもらった)訳で・・・自分の力で稼いだなんて恥ずかしくて私は大きな声では言えませんね。ただ、世間で社長と呼ばれる人達のそういった自信ある気質にはいつも嫉妬させられますし、時には「安心」さえ感じられることもありますね。(08.9.20著)・・・・・・・・・・ オーストラリア森林火災救済のために、世界の有名俳優達がチャリティーを呼びかけていました。 彼等の呼びかけで13億円も集ったそうです。尊敬しますね・・・あれ?13億円って言ったらその俳優達一人の映画1本のギャラにも満たないですかね?ある俳優は離婚の慰謝料450億円とかも言っていましたかね。サラリーマンが生涯で稼ぐお金の平均は2億数千万円程と聞きますし、資産の半分も投げ出しても一生そこそこ高水準の生活も出来そうですがね。 私など多くても5億円も頂ければ先々の安心を得られ、そうなれば私もボランティアで社会貢献出来そうな気もしますかね?まして好きな仕事に就けていたなら、なおさら無償で働けるかな?いや、私のように他人の目を強く気にする人間は「嫉妬」を恐れて、逆に進んで社会貢献をせざるを得なくなるとも感じますね。それでも結果的に沢山の人が救われて・・・ 私も沢山のお金が入り始めると、色々と感じ方(新たな不安等)も変わるようにも感じますし、今困っている人達よりも優先して、そういった「金銭」事に気が行ってしまう自分に気持ち悪さも感じていますしね。ただ確かにその時々で優先順位はあると感じますが、表の体裁の良い事実に拘ることで、裏の体裁の悪い事実が見えなくなってしまう怖さも感じますね。 今問題になっている「格差・貧困」にも、そういった事が原因の一端であるようにも感じますがね。いくら他人より頑張っているとはいえ、一人で450億円も持っていれば、何処かにそのシワ寄せが出るのは当たり前のことでしょうね。もっとも今回の私の場合そんな立派なモノではなく、単に「お金持ち」に対する「嫉妬」が強い自覚もありますがね。 自分に余裕があると周りに気も配り易くなり、呼びかけによって起こった活動自体からは何物にも代えられない感動を得られたり・・・「金持ち」や「格差・貧困」の是非も分からなくなって・・・また裏の事実が見えなくなる。(09.6.23著)・・・・・・・・・・ 「給料泥棒」 私が今まで働いてきた職場にも、「この働きで同じ給料?」と思えるような人が少なく無かったですね。まあ私も正直自分の働きに対して給料が安いと感じていたことが多かったので、彼等の「貰っている給料分以上働くのは損」的考え方も解らないではないのですが、まず自分が頑張っていると感じるくらいやらないと給料アップの交渉も難しいですからね。 そしてどんなに頑張っても一人ではなかなか会社は動かせなかったりするので、やはり皆にも頑張って貰わないと・・・なんて考えながら、いろいろ会社と遣り合ってきましたかね。ただ私は仕事の内容よりも、「他人より頑張っている」とか「会社の不条理と戦っている」とか言うところに直接的な遣り甲斐や満足を感じていたのも正直なところでして・・・ 今では公務員の「天下り」などの問題に対しても、その組織や人数自体を削って働く場を減らすこと自体は違和感があるのですよね。民間の企業においても「給料泥棒」的人間を見てきていますし、私が頑張ってきたのも「会社のため」とか体裁を整えて結局の所自分の欲求を満たしていた自覚もありますからね。人によって「頑張り所」は変わると感じますから。 ただ民間の年収の平均が500万にも満たないのに、その税金で給料を貰っている公務員に民間の平均よりも何倍も貰っている人間が居ることには不条理を強く感じますかね。民間の平均年収層は平均より頑張っている人が多いと感じますから。役職に拘らず多くても公務員の給料は民間の平均程度にして、浮いた税金で公務員も含め仕事場を増やすべきじゃ・・・ 「事業仕分け」と称し、「無駄」を削るなどして頑張ってくれているようですが、そもそもヒトは必ず死ぬ訳でしょうし、ヒトのすることは全て「無駄」とも言えたりしません(飛躍しすぎ)?それでも今の世の中のシステムの中で生きて行くためにはお金も欠かせず、それには無駄であっても事業を起こし、雇用を増やしてお金を回すことが必要だと感じますがね。 むしろ既に多くの給料を貰っている国会議員達がやっている「事業仕分け」自体が多くの経費を喰う無駄な作業のようにも感じますがね?ただ単に民間の平均よりも多く貰っている公務員の給料を一律に下げる打ち合わせを国会内ですれば済むことであるように感じますがね?それにはまず公務員のトップである国会議員自ら賃金カットし(頑張っ)てみせないとね。 寝る間も無いくらい「事業仕分け」を頑張ってくれている議員さんも沢山居るようですが、民間と同等の基本給にその分はしっかりと残業の申請をして貰って・・・「事業仕分け」のおかげで不条理なことが見えただけでもやった甲斐があったと言いますが、個人的には改善されないのであれば知らない方がイライラせずに済むだけマシだったかな? そして結局は仕分けをする側・される側は「同じ穴のムジナ」的共存関係にあるのでしょう?「仕分け」は「いつかやってくれる」期待を煽ることで事を先延ばしにして、長く不条理が存在できる「隠れ蓑」的な術にもなりうるように感じますかね。(10.6.5著)姉妹日記「戒め」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

今日も「大食い」のギャル○○さんをテレビで見かけました。 彼女の容姿からは、非常に「周りの目を惹きたい」気質を感じ取れますね。例えば小さい頃、家族が皆そこそこの「大食い」で、その中で大好きな家族の気を惹くとなれば・・・また、沢山食べたことで褒めてもらったりしていれば・・・そのような小さい頃の環境によっても発達する才能のようにも感じます。食べっぷりも気持ちよいです。 また彼女の場合、おそらく沢山食べても普通に食べても「満腹」を得られない感覚はさほど変わらないように感じますね。「満腹」という満足感よりも、「美味しい」という満足感の欲求が優先するのでしょうかね。食べた物や得たエネルギーも体の中を単に通過するだけで、普通の人よりも長く「美味しい」を感じられるのでしょうかね? 私は「食べる」ことに、あまり執着を感じません。空腹時の手の震えや、イライラを止めるために「食べる」感覚です。好きなことをしているときは、むしろ邪魔な行為ですね。そんな時は空腹感さえ取れれば、薬で済ましても構わないとも想ってしまいます。(皆で楽しく食べるなら別ですが)よって、「食べる」をすると非常に疲れます。 少し前にも「大食いブーム」がありましたね。「大食いバトル」でしたか?当時の彼らから感じたのは、「食べる」=「運動」ですね。乱暴な言い方に変えれば、「食欲」<「自己顕示欲」ですかね。また、「大食い」の人達には「食べる」に「太る」が必ずしも結びついていないようですね。本人達に「運動」の感覚があれば、それも少しはうなずけますかね? 今の世界観では「体質」ということになってくるのでしょう。食べた物がすぐにエネルギーに・・・満腹を感じる中枢が・・・排泄能力が・・・という具合ですかね。ただこれらは、大食いの「原因」的なモノではなく、むしろ大食いであるために体が変化した「結果」的なモノのように感じます。「体質」とは、この能力を確信付ける「後付」(言い訳)の質を感じます。 おそらく熱を感知する機械(検証番組の定番ですね)を通してみると、背中辺りが真っ赤に映るんじゃないですかね?そんな映像が流れて、後に誰かが、「背中が熱くなるイメージをすると痩せる」などと噂をすれば、人によってはダイエット効果が出たりするように感じますよ。実際に似た例を知っていますし。(笑)「体質」・・・結構曖昧な言葉ですよね。 彼女達の場合、元々は小さい頃から単に「太る」というイメージを刷り込まれずに済む環境にあっただけと感じますがね。そして、無意識にそれが自分を表現する手段になると気付いて、その能力に拍車がかかったように感じますが。また時には「太る」にも、「刷り込まれる」とは別の色々な意味で周りの目を惹きたい気質を感じられることもあります。(07.10.9著) ・・・・・・・・・・ 「エネルギー」も、実に曖昧ですね。存在自体も曖昧です。 「エネルギー」って物質が運動をするために必要なモノですかね。例えば「光や熱」自体が粒子(物質)だったとすると、それ自体に運動を働きかけるモノの存在が別に必要になるように感じますがね。「熱や光を放つ粒子(物質)」・・・この場合、物質に含まれていたり、発せられてはいますが、直接物質ではないモノという捉え方になってしまいますかね? ただそうなると物質ではないモノが時には視覚や触覚等の五感で認識・・・?科学の世界観においても物質以外に存在するモノを認めるって事になってしまいますかね。そもそも最小の物質が見つかったとして、物質と物質の隙間には何があるのですかね?ただ最小の物質が見つかると、科学自体の基本ルールが成り立たなくなりますがね。それは置いといて・・・。 少なくとも「熱」や「光」、時には「宇宙」など、それ自体ではなかなか形として捉えづらいモノばかりです。困った時に、色んなモノに当てはめてしまえるように感じますね。そして「曖昧」であるが故に、逆に「可能性」や「信頼」を強く置けることも少なくないように感じます。「曖昧」は不信を生む「矛盾」を抑え込む大切な役割・力も感じます。 また運動をする人(運動好き)にとってはエネルギーが欠かせないという表現になりますが、逆に食事などで溜まってしまったエネルギーを出すために運動をしなければならないというのが多くの人に当てはまる表現のようにも感じます。エネルギーも出し場を考えず摂って溜めてしまうと、時に病気等の形をとって排出されるようにも感じますかね。 スポーツは体に良いイメージも強いと感じますが、スポーツマンには運動による持病を抱えている人も少なくないようですし、活性酸素云々とか・・・特にスポーツに興味関心が無なかったりストレスを感じたり、また普段から摂生ある食生活をおくっているような人にとっては、気分転換的役割を除けば必ずしも体に良いモノでもないように感じますかね。(07.10.10著)・・・・・・・・・・ スポーツ選手がそれぞれの競技によって特徴的な体型の変化を起こしますね。 それによって色々な意味で「上達」を目で確信しているように感じます。そして私は、人並以上に体が硬いのですが、2日で胸が膝に着いた経験をしています。そこには頭の固さとも関係があるように感じています。(この経験に関しては、また別の機会に詳しく)そしてまた私は、就く職業によってもすぐ「体つき」が変わると言われます。 また「食べ過ぎ」(量的には他の人よりかなり少ないと思いますが)を感じると、すぐに体に表れますが、食べ物では最も好きな「米」を夜だけ絶つと太りません。その分、オカズを食べる量はかなり増えますし、他の炭水化物をより多くとっても大丈夫です。その代わり、その期間は、とにかく「米」を絶つことに関してだけはストイックになりますよ。 他人の好意を無にしても・・・位、「ワガママ」でいきます。また全部食べられるのに、あえて(意識的に)少し残したり・・・。(お百姓さん、ごめんなさい)私の中には、そこまでして好きなものを我慢(制限)しているんだから・・・のような契約が自分の中の何かと結ばれているようです。(笑) 「風水」などにも、「何だか解らないけど、専門家が言う決り(制限)を守っているんだから・・・」的信頼のような前記に似た自分との契約を感じます。宝くじを当てる人も、自分なりの様々な制限を自分に加し、それをクリアしていくことで当たる確信を自分の中で強めていく人も多いようです。そして、スポーツや宗教などの「練習」や「苦行」にも同様に・・・。 科学も幾つもの条件(ルール・制限)を整えることで現象を起こす点では変わりませんね。そして他の世界観より表面上の信頼(日本人においては、外国評価に弱い的信頼とでも申しましょうか?)が篤いので、その条件の数も比較的少なくて済むように感じますね。(07.10.11著)・・・・・・・・・・ 私はピアスはしません。 もう沢山の人が当たり前のように着けていますし、直ぐに飽きてしまうので・・・なんて2の次の理屈ですね。1番は単に「痛そう」だからです。痩身や整形の手術・刺青など積極的にできる人がいますよね。歯が痛くなると「ちょっと歯医者にいって抜いて貰ってくるわ」なんて男らしい女性の知人もいます。「痛み」に比較的鈍感な体質もあるのでしょうかね? ただ小学生の頃の予防接種の注射は積極的に1番で受けていましたね。私の頃は1本の注射器で2人を打っていたこともあり、子供心にそれが気持ち悪かったこともありましたが、1番に受けると、ある意味ヒーロー(勇敢)になれるんですよね。また順番を待っている皆に「どうだった?痛くない?」とか聞かれ、言葉で安心させたり不安にさせたり・・・。(笑) 先に待っていると想われる「気持良い」が優先して、目の前の痛み(恐怖)も軽減されるのでしょうかね?また整形手術などをしていつまでも若々しくいる人を見ると、「親に貰った体にメスを入れて・・・」とか言ってしまいますが、自分には怖くて(経済的にも)踏み込めないことへの嫉妬があったり、自分自身を誤魔化しているのが私の実際のところですかね。 同じ「痛み」でも、「酷く痛いんだろうな~」なんて考えを前持っていると大したことなかったり、「大したことないんだろうな~」なんて考えを前持っていると酷いことになったりしませんか?たまには「ネガティブ」も悪くないと感じたり、「痛み」の感じ方にも体質より気質が関っていることも少なくないと感じますかね。(09.11.24著)・・・・・・・・・・ ※ あくまでも個人の感想です。 または ※ 個人差があります。といった注釈が、通販のTV・広告などの隅に必ず書かれていますよね。私などはそれを目にした途端に、そのモノに対する信頼を失くすタイプですが・・・だって例えそれが100人中に1人の確率であったとしても、自分がそこに当てはまらない確証は無いですし、なによりダメだった時の逃げ(ズルさ)を感じるので・・・ 事実そういった「不信」を持ったヒトには「効果」も得られにくいと感じますかね。 例えばダイエットには(ダイエット食を)食べて痩せるといった一見矛盾した(都合の良い・ワガママな)モノもあり、それで結果を得ている人も少なくないようですね。確かに食べる量やカロリーは減っているのでしょうが、個人的にはその食材を薦める専門家の言葉(理屈)や、時に都合の良い・ワガママな気質に体型を変化させる力があると感じますがね。 また「これだけやったのだから、効果がでるだろう」的な自分の中のなにかとの契約(想い込み・信頼)的なモノに要因があると感じますがね。その「これだけやった」の満足度もヒトそれぞれで異なり、中にはたいして努力しなくてもすぐに成果を得られてしまう人も少なくないと感じ、個人的には体型の変化も「体質」というよりも「気質」と感じます。 食べないことによって「我慢」を養うことにも痩せる効果を感じますが、個人的には「我慢」にヒトとしての格好よさを感じてしまう気質になってしまいましたので、例え痩せなくてもそちらの方が意味があるようにも感じてしまいますがね。そしてまた個人的にはテレビなどの痩身企画に参加するのが一番効果が高いようにも感じますがね。(笑)(10.8.22著)姉妹日記: 「気質」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

TVでマジックのスプーン曲げを見て、子供達が本当にスプーンを曲げていました。 その真偽はともかく、人はなかなか自分の感覚(能力)に自信を持てなかったりしますよね。どんな能力者であっても、感じたことを言葉や行為にするなどして自分以外の存在から同意を貰うことで初めて確信に進み、現実のモノになったりするように感じますね。科学者を始め、時には占い師・霊能者・気功師達の自信に満ちた強いアドバイスだったり・・・。 またアドバイスする側も、例えば科学的理論を立証する実験を始め、占いの道具や霊視で言うところの霊、気功師などの言う宇宙意識やエネルギー、そして自分の中に感じる他意識的なモノのアドバイスだったり・・・。感じた自分や相手の想いの確信を得るために自分以外の存在を無意識に創りだしているようなことも少なくないと感じますね。 そして少なからずそこには自分から「責任」を外す(楽を得る)役割も感じますかね。また例えば霊視や透視・占いなど科学的根拠の無い方法によってその時の相手の想い(時には特に悩みに直接関らない過去の出来事等であっても)を言い当てたりする能力を見せられると、「何か特別な存在」的強い信頼を得られやすいことも少なくないように感じますね。 よってその人の発する「言葉」は相手に強く影響を及ぼす力を得ると感じます。アドバイスの通りに行動すれば、その信頼(自信)から言った通りの結果が得られることも少なくないと感じます。時にはそれを「予言・運命」(あらかじめ定まっていたモノ)とか位置付け「楽」を得る役割も感じますが、「言った(想った)通りに事が進んだ」であるように感じますね。 ただ後ろ向きの想い(不安等)をそのまま伝えることによって負の確信をも創り、事態を悪くしてしまうことも少なくないと感じます。本当に相手のことを考えるなら、時には「秘密」(孤独)や「負い目」(嘘)等のリスクを自分に背負うことが必要に感じます。ただヒトの想いは変わりやすく、常に良い方向へ向かう保障はありませんから相当の覚悟がいると感じます。 まして健康や命に関るとなかなか一人ではそのリスクを背負う勇気(責任)も持てませんかね。病気の診断は医学以外では法的にも問題ありますし、時にはそこに関る周りの人まで巻き込み、潰してしまうことにもなっているように感じますね。そしてなによりそんなリスクを常に考える私にはそういった世界観に直接関る資質に疑問も感じますかね。 医学的検査で見捨てられるように悪い結果を貰った後に気功を受け、そこで調子の良さを得た人でさえも後日再び医学的検査で良い結果をもらって初めて本当の安心を得ている人が少なくないようです。どんなに不思議なモノを信じているという人も、結局最後は科学的実験・検査等による物質的・五感的に解り易い立証(主世界観の同意)が欲しかったりするようです。 かえってその人が苦手と感じている方法によってその事態を乗り切ったり、色々な世界観から同時に認めてもらうことでより確信が強まるとも感じます。そして人は何か決断するときに、時には真偽を問わず自分以外の強引な(自信に満ちた)言葉の後押しを望んでいますかね。そして時にその強引な(自信に満ちた)言葉に強く反発したくもなるようです。(08.12.4著)・・・・・・・・・・ いよいよ総選挙ですね。 各党のマニフェストに高齢者の医療費や子供の教育費を無料とか掲げられていますが、「100年に一度の経済危機」の金欠年にそんな約束が出来るなら、もっと前から出来たんじゃ・・・?後出しマニフェストとか正式なマニフェストではないとか、また最近は他党の政策の揚げ足取りや悪口など、相手を貶めて自分を優位にする某外国的演説も増えてきましたね。 昔は日本人が一番嫌うやり方と感じていましたがね? 資本主義・自由主義・民主主義・・・政治家達がそれらを「正義」のように主張していました。ところが彼ら自身は「公務員」という、ある意味それらに反するシステムに自ら望んで入り込み、また逆に社会主義・共産主義の国においても、それらとは反する資本主義的なシステムにおいて莫大な利益を得ている輩も少なくないように感じますがね。 「政治家は国民が選んだのだから国民に責任がある」・・・って、時には政治家自身の口から聞きますね。「国民が政治に関心を持って、よく政治家達を監視していないから・・・」とか言いたいのでしょうが、庶民は自分達の仕事をして税金も納め、そこまでする責任は無いですよね。政治家自身が同じように自分の仕事を極普通に果たせば済むことですよね。 「悪いのは、ほんの一部の人間だけだ」・・・とも言ってますが、同じ職場にいて、その実体を知っているにも拘らずそれを見逃している「大部分の良い人間」(?)には大きな責任があるように感じますがね。「信頼できる人物がいないから・・・」といって投票を棄権すれば無責任と言われ、無理に投票すれば「国民に責任が・・・」と言われ・・・理不尽です。 「世論調査に左右される政治家が多すぎる!」・・・政党を問わず、政治家自身の口からそのような言葉を聞きました。いわば国民の声によって、自分の信念がブレるような政治家は信頼も出来ないと言うことなんでしょうかね。政治の素人である国民の意思が、常に正しい方向に向いているとは限らないという言葉も出ていたように記憶しています。 プロ意識や責任を感じたりもしますかね。ただ彼らは国民の意思を代弁し、国政に反映する「代議士」ですよね。であれば国民の意思の方向性が変われば政治家の信念も変え(調整す)るのが責任(能力)と感じますがね。口を開けば「国益を優先」とか言う政治家達の正しい方向性にも、世界共生的価値観から見れば少なからず疑問も感じますけどね。 某資本主義の大統領選の盛り上がりを見ると、国民の政治への関心や責任の高さも感じますが、沢山の大人達が揃って「Yes ,we can!」を叫び、また何でも「お祭り事」にして、あらゆるシチュエーションでも「楽しむ」してしまえる国民性(気質)に少なからず怖さも感じますかね。他国において靴を投げられてジョークで返すリーダーにも違和感はありますかね。 昔はそんなジョークや熱い国に憧れも感じましたが、今は冷めた大人が多い国に安心を感じることも少なくないですかね。とにかく今回は投票してきます。(09.8.25改著)・・・・・・・・・・ 18歳から成人に・・・? 20歳から引き下げするような議論がなされているようですが、個人的には現代の若者に感じる主な気質からは、むしろ引き上げるべきではないかと感じますかね。たしか「元服」とかいって、昔はもっと早かったですものね?私の成人時もその頃の成人に比べれば幼かったように感じますし・・・平均寿命も伸び、年々成人も晩くなっているようにも感じますかね。 そもそも「成人」(大人)の定義って何ですかね?主に自分の行為に「責任」をとれるってことでしょうかね? 「大人」を画一された定義付けできるなら、誰かが言っていましたが、免許・試験制度により成人を決めるって言うのもありですかね。中には「大人になりたくない」といっていつまでも試験を拒みもしましょうが、成人(自己責任を負う)にならないと常に管理され、広い意味での楽しい(破目を外す)行為も許されないようにすることにしましょうかね。(笑) 「大人」の定義も多様ならば、成人の明解な区切りも不要な気がしますけどね。未成年(子供)の引き起こした犯罪などは罰則も軽減されますが、成人の犯罪も主に精神的には未成年(子供)の気質が起こしているようにも感じ、結果的に未成年(子供)を罰しているように感じますがね。単に「長く生きた」が責任感に繋がるとも感じませんかね。 私も仕事で若い部下を持ちましてね・・・ 私など会社の利益を考え、時には個人的な仕事の完成度(満足)を抑えてでも時間を優先して進めたりしますが、若い部下にはその感覚が伝わらず、逆に「適当」を教える事になったりしましたかね。変に割り切り(諦め)を身につけた大人達よりも律儀で、少し質は違う(個人的プライド)とも感じますが、時に若者の方に責任感の強さを感じたりもしますかね。 やはり早めに成人させて「責任」を負わせる訓練を始めた方が良いですかね?「若い」(純粋・素直)であればあるほどその刷り込みもし易いように感じますし・・・自分で言っておいて恐ろしさや腹立たしさも感じますかね。私も自分の中の「子供」を抑え込む能力はある程度身に付けたと感じますが、根本は子供の頃となにも変わっていないと感じていますね。 個人的には「抑え込む能力」を身につけるのに、小さい頃に他人からの批判・嫉妬などの厳しい抑え込みを沢山経験してきたと感じています。嫌な想いも沢山残し、大切なモノを無くした(損した)感覚もあり、結局の所その是非は分かりませんかね。もっとも相手の「想い」の選択には、想いを受ける側自身の内にも大きな要因を感じていますがね。 またそれと同時に、格好をつけて何でも自分の責任(大人)に捉えようとする自分に煮え切らなさや驕りを感じることもあり、なにかと動き出さない自分に苛立たしさも感じますかね。そして一般に成功を収めて尊敬される人達にも、この「子供」的気質を強く感じられることが多いのですがね。(09.5.5著)・・・・・・・・・・ 「スピリチュアル・カウンセリングを受けたのだけれど・・・」 知人はお金を払って色々と相談をしたようですが、結局「やりたいと思ったことをやり、やりたくないと思ったらやらなくて良い」ような諭しが返ってきたようですね。彼女は自分を抑え、我慢するような生き方を選択しているようなので、ある意味そういった言葉で「安心」や「癒し」、また自分の生き方にある意味「優越」なども少なからず感じたことでしょう? ただ結局の所、普段から私と話していたような内容がそのまま返ってきてしまっただけで、何か変化を望んでいる彼女はあまり進展を感じなかったようです。ただ例えその時望んでいることを読み取って具体的な言葉の後押しをしても、人によって、例えば常に人より上の立場を望んだり、直ぐに結果を欲しがったりして反発や不信・心変わりが生まれてしまったり・・・ 良かれと思ってしたことが、後に「あなたがあの時ああ言ったから・・・」的恨みとなって返ってくる人も少なくないですかね。ただ私も全て基本は「自己責任」的なカウンセラーが言った言葉に賛成ですが、お礼(お金)を貰うとなると、少しは自分に「リスク」を背負ってでも、もっと具体的な(偏った)方向性を示してあげるべきだとも感じますかね。 そういった時にカウンセラー自身にも自分から責任を外せる(信頼を置ける)モノが自分の中にあると、想ったことも口に出し易いですよね。そう、例えば「守護霊がそう言ってるんだから・・・」とか「手相にそう出ているんだから・・・」とか、その人の信じる世界観のルールにより無意識に感覚(五感)化・物質化出来ているモノがあればなおさら・・・(10.9.26著)姉妹日記「運命」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14

「今年の流行はチェック柄」とか言っていましたか? 評論家にそう言われてしまうとそこに乗らないと不安ですよね。そんな所(流行)に敏感な人達は時には安心を得るようにチェックを着始めるのでしょうかね。ただそんな専門家の言葉に乗って周りが皆チェックを着出すと、これまた恥ずかしくなったり感じませんかね?少なくとも私は抵抗を感じるので、専門家の言葉を耳にした時点でそれは避けますかね。 ただ例え同じように「流行に敏感」であるが故にそれを避けたとしても、皆がやっている時に一緒になってそれをやってはじめて「流行に敏感」が成り立つようにも感じますね。なんだかんだ言っても皆と同じことをやってはじめて認められることも少なくないように感じますね。そして「流行」と「新しい」は必ずしもイコールではないようですね。 結局私達が昔していたことを若い人達がしていたり、その私達の昔もそのまた昔の人達の真似をしていたり・・・。その度ごとに多少のアレンジは感じますが、基本的な所は常に巡っているように感じますかね。各種芸術的表現方法も基本形はかなり出尽くしてきているように感じられ、後から生まれて来るほど真の自分独自の表現は難しくなりますかね。 そして人間全体として見れば、おそらく「流行」にのっている人間の方が少数派になるのでしょうがね?(08.12.9著)・・・・・・・・・・・ 「自然の美しさにはかなわないね~!」 自然の造作物には想像を出来ないような形や色がありますかね。ただ私は、建物や都市風景の方が好きだったり、自然の線よりも機械や定規で画かれた線、植物においても剪定された植木の方が美しく感じるのですよね。また時には直接見る風景よりも、写真で切り取られた風景の方が美しいと感じたりもしますかね。写真には事実+α(想い)的力も感じますかね。 人の手が加わることで、自然もまた美しさを増すことも少なくないと感じます。また人工物が自然の風景を壊すと言いますが、例えば緑の中の真っ赤な神社や太鼓橋などは、色やデザインが個性的で派手ですが美しい風景に感じますけどね。そこには「神」や「歴史的」な崇高なイメージ、また専門家や主張の強い人による「刷り込み」などの力の助けも感じますかね。 色やデザイン以前に、その人の「想い込み」や人間関係の「感情」的なモノも「美しい」に強く影響していたりしますかね。 反れますが、自然素材のモノは体に優しいといいますが、例えば薬品(毒)など、人工のモノより自然界で作られたモノの方が何倍も強いというようなことも耳にしますね。天然健康食品などで健康を保とうとして、逆にエネルギーの出し場も考えず必要以上の栄養を摂って溜め込んでしまい、体調を悪くしているような人も少なからず感じますかね。 時にその溜まったエネルギー(ストレス等も含め)を吐き出すために無意識に病気(咳や熱等)の形をとる・・・といった世界観もあり、かなり共感も出来ますが、自分が病気と闘っている立場で考えると、少し腹も立ちますかね。もっとも都合の悪い本音を突かれたりしても腹が立ちますけどね。(09.5.14著)・・・・・・・・・・ 「その程度でいいなら私にも出来たよ」 最近評価を得られている作品には、どちらかと言うと一見技術よりも感性を重視したモノが多いようにも感じますが、そういった作品を見て放たれた言葉です。その人にはその発想が無かっただけだったり、そういった発想や技術は在っても自分の感覚には合わないので(下手と感じて)あえてその表現方法を避けた結果、その言葉が発せられたりもするでしょうね。 また、とある展示会のポスターにおいて、デザインの一環として出展者の名前が羅列されているのですが、二人の名前だけ唐突に別の場所に配置されていましてね・・・知人の絵画教室の先生はそれを見て、「なんでこんな所に二人だけ・・・」といった疑問をそのポスターの作者にぶつけ、作者は「ポスターの隅々まで目を惹きたかったから」と答えました。 その絵画教室の先生は、スタンダードで上手な絵を描く人ですが、何処かそのレイアウトに素直に気持ち悪さを感じてしまったのでしょうね。ただ作者のコンセプト(理屈)を聞けば「なるほど!」との感動も覚えると感じますかね。私は正直その二人の名前が書かれた場所はほとんど余白的で、特に目を惹いてまで見せるモノも無かったように感じましたがね。 ただそうした事により、他人の関心を引いて、その作品を印象付けたことは間違いなく、ある意味思惑通りになり、自分の感性を出せたことになりませんかね。そして作者のその配置の理由も、「単に関心を引きたかったから」で充分とも感じましたが、少しズレていても、コンセプト(理屈)が、その作品にいっそう深みを与える効果になっていると感じますね。 芸術とは単に上手・綺麗といった感動だけではなく、時には他人に疑問・嫌悪を与えてでも関心を残す事に強い意味を感じたりもしますかね。そして技術を持っていてもその表現方法を恥ずかしくて、または気持ち悪くて発表出来なかった(発表する勇気がなかった)ということも含めて、その人には出来なかった作品であったと言うことなのでしょうね。 そして同じモノ造り好きにも、褒められたり時には批判を受けてもとにかく他人の目を惹いてストレートな気持ち良さ(感性)を優先したり、特に他人の目を惹かなくとも誰の批判も受けない上手(本物そっくり・無難)な絵を描いて安心(技術)を優先する人がいるように感じますね。(10.6.12著)・・・・・・・・・・ 「パクリ」 某隣国の露骨で時には完成度の低いソレを目にすると、怒りを通り越して笑いすら出てしまい、そこまでして金儲けしたいかとも感じてしまいますが、そもそも我々日本人も、彼等のように経済成長の過渡期には間違いなく欧米の「パクリ」をしてきた・・・というよりも、特に芸術・デザインなどの分野においてはいまだに「パクリ」が続いていると感じますがね? 車などのデザインなどは比較的顕著だと感じますが、外国車に似た車はいまだに消費者に受けも良いように感じますね。私は「外国車のデザインそのままに、日本のエンジンを積んでくれれば最高!」なんて感じ・・・。そして科学的世界観も含め、逆輸入(外国評価)に弱かったりするんですよね。日本製の車に日本語のモノが少ないものそんな顕れのように・・・。 また最近アイドルなどの「パクリ」が報道されていますが、日本国内を見ても、一つ流行りモノが出ると次々と同じようなモノが便乗するように現れてきますよね。そしてパクられた日本のアイドルのテレビに映ったCDジャケットを見れば、パクった某国の民族衣装的なモノを着たデザインになっていて・・・なんか変な話しですよね? 個人的には著作権・特許のようなシステムもちょっと違和感はありますかね。三ツ星を貰うような立派な料理屋において、「お客様の喜ぶ顔が何よりも嬉しい」と言っておきながら、「それ以上は企業秘密です」とか言う言葉を聞くと「お金儲け」的なモノがちらつき、いくら技術・アイディアが高い人でも人間的にがっかりさせられることも少なくないのですがね。 また「そんなのオレは10年前にもうやっていたよ♪」的な言葉も聞きますね。私も若い頃は他人と同じ事をするのが何よりも嫌で、色々な事をやってきたのでそんな言葉にも共感を持てることも少なくないのですが、例え今大流行しているモノであっても、過去のその時々のニーズに合わ(流行ら)なかったモノは、やはりセンスに問題があったということでしょう? ただそれが周りの流行を素早く感じたためにあえてソレを避けたと言う意味では、流行に敏感であったということにはなりますかね?そして誰にも理解されないことに少なからず優越も感じていましたかね?完成度を除けば、学生時代にアイディアの基本は出尽くしていたように感じますね。今振り返えると消し去りたいモノも少なくないですけどね。(笑) とにかく色々な意味でモノ(表現)が溢れる今の世の中では、何を表現しても見るヒトがみれば「・・・に似ている!」になってしまうようにも感じますけどね?某隣国に対する「パクリ」の声の中には、自国のパクリ気質を棚に挙げた先進国的差別のようなモノも少なからずあったりしませんかね?(11.10.6著)姉妹日記「デザイン-1」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.06.14
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