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先日生まれて初めて四葉のクローバーを見つけました。 今までにも何度もその様な機会が有ったにも関わらず、決して探し出す事は出来ませんでしたね。そして私の通った跡を後から来る人間が見つけてしまったりするんですよね。自分自身でも、確かに探して見つからなかった同じ場所で、後日探し物が見つかったりします。ただその日は見つけられる「気」がしていました。 その前日、自分の中で大きな決断をして、自分の世界観にも大きな変化を感じていました。私は、これまでも自分の世界観が変わったと自覚した時、見えて来る景色も変化する感覚を、何度となく経験しています。私の母も、大病をした後に「気」の才能を得ています。色々な意味で世界観が変わった事を以前聞いた事があります。 また物事を吸収し易い小さい頃から矯正的に同じルールを詰め込んで来てはいたものの、細かい理解はそれぞれ個々の世界観でやっていて、なんとなくお互い理解した気になっていただけなのだと感じています。微妙にズレているそれぞれの世界観が、それぞれの微妙にズレた景色を見せていると感じます。そして時にそこには「関心」という力の関与も感じます。 母の話題が出たついでに・・・母は、ヘビ・ナメクジなどが大嫌いなのですが、食事中にたまたま点けたテレビにヘビが出ていて食事がその時点で終わってしまい、草むしりをしていて一発目でナメクジと出くわして作業終了・・・といったことが頻繁に起きます。「嫌い」・「苦手」も時に強い『関心』であるようにも感じますかね。 このクローバーは「探し出した」と言うよりむしろ「創り出した」(関心が強まった)感覚です。またクローバーを見つけた前日の決断に当日は少し迷いを持っていたので、葉の虫食い跡がそれを現してくれている様です。(07.6.23著)・・・・・・・・・・ 知人の女性が、「またここにシワができた!」と嘆いていました。 私は何度も「何処?」と聞き返し、色々と詳しく説明を受け、やっと「これ?」と探し出すことができました。また、別の知人が「真っ青な顔」で部屋に入ってきて、他にも何人かいた人達とも軽く挨拶を交わしていたのですが、私が「大丈夫?」と聞いて、初めてそこで「あれっ!どうしたの。大丈夫?」でした。誰も「真っ青な顔」に気付かなかったようです。 普段から見ている景色も、焦点を合わせている所以外はボケて曖昧になっています。科学的に解釈すれば、「脳の処理能力の負担を減らすため」ですかね?一方では、「普段、脳の機能は数十パーセントしか使われていない」と言っておいてですよ。おかしな話です。また、沢山猫を飼っている猫好きな人が、一匹一匹見分けたりしていますね。 人は、そこに「関心」(気)がないと、ボヤけたり、曖昧だったりして、しっかり区別がつかないように感じます。ひどい時には全く見えていなかったりすると感じています。「関心」(気)が生まれることによって、それぞれを個性(姿形も含め)として見分けていると感じます。普段自分に見えていることが、他人にも全く同じように見えているとは限らないようです。 血液型や流行っている診断系の遊びにも「関心」の力を感じます。私も基本的に一例でも例外があるものには全てをそこに当てはめるべきではないと感じていますが、血液型と性格との関係のように、日本中である程度「関心」が高まっているようなモノには、日本(「関心」が高まっているその範囲)ではそこにある程度関係性が生まれてくると感じています。 私は、子供の頃はよく人の中に居て吐き気を感じたり、自分の発言を遮られる様な周りの感覚に何も言えなくなったりして人との付き合いが辛かったことを記憶しています。その時は確かにそんな周りの感覚に、「自然に感じる」感覚を持っていました。今は「本当に他人を感じていたのかな?」って感じています。よく言われる「共鳴」ですかね? 「本当にそこに関心が無かっただろうか?」って感じています。 「自然に・・・」自分以外のせいにした方が何かと都合が良かったな・・・その時の自分を変わりに表現してくれる存在を求めているような・・・自分でするのは恥ずかしいから・・・プライドが傷つくから・・・それが素直に表現できる人への「嫉妬」があったかな? ただ、こうやって解ったように全て自分のせいにする事にも「オゴリ」を感じられ、それを他人のせいにもプライドが許さないとも感じます。自分を理解されたいのも確かですが、他人より下になる感覚が嫌なんですかね?こうやって自己主張をしている時も、少なからずそんなことを感じていますかね。答えは出ませんし、出したくもないです。(笑)(07.11.24著)・・・・・・・・・・ 「宇宙エネルギー」 ある人が「『気』の本を書きたいのでその時は意見を聞きたい」と母を訪ねてきました。その人もそういった世界観に属し、時には頼まれてあちらこちらで講演をする、いわゆる「先生」と呼ばれる立場でもあるようです。そういった世界観の知識も深く弁が立ち、ヒーラーの育成の才能は高いようですが、実際の自分のヒーリングの才能には疑問も持っているようです。 そんなことから定期的に母を訪ねるのも自分の迷いを晴らす意味もあるのでしょうかね。時には母を試すように、調子の悪い知り合いを紹介してはその結果に驚いたりもしていましたからね。そんなことからも自分で「本」を出すにあたって、母の経験談などが欲しいようです。その言い方が「宇宙エネルギーとか波動とか沢山語ってくださいよ♪」なんて。 確かに母も「気」に対しては何か「特別」なエネルギー的存在としても捉えているようですが、「宇宙」とか「波動」とかいう感覚も知識もないようで、ちょっと困って笑っていました。もっと身近な(人間関係的)気持ちの変化などにもその存在も感じているようです。「気」に留まらず、本来「真実」(本質)は身近で当たり前で、時に退屈なモノであると感じます。 ただそれを「特別」(不思議)にあえて置くことで人はそこに「関心」が生まれ、そしてそこにより大きな「力」(エネルギー・変化)が生まれると感じます。その「真実」(本質)を『宇宙摂理』的に定義付け(特別)するならば、それが「宇宙エネルギー」となるのでしょうがね。その人それぞれの世界観の呼び名だけの違いのようなモノなのかもしれませんね。 また彼の説得力のある言葉(理屈)も、母の気功も見た目は違えども相手に変化を与えるきっかけになる点において変わりは無く、同じ「気」(エネルギー・力・才能)であると感じますかね。技術や記録がズバ抜けて優れている選手が、必ずしも優秀な指導者に向いているとも限りませんからね。理屈と感覚の才能には極端な気質の違いも感じますから。(09.7.15著)・・・・・・・・・・ 「嘘から出た真」 普通なモノより神秘的(特別)なモノの方が刺激的で心も動き易く、時には依存(楽)し易かったりもして・・・また時には「ネガティブ」に大袈裟に考える事が「ポジティブ」より深い刺激的を得られたり・・・場合によって人は刺激的であれば嘘(虚像)をも無意識に望むのではないですかね。そして時にその「関心」(想い)の強まりによって真実に変化して・・・ 科学においては「偶然」とされて起こった現象に、理論を設定し研究を重ね、その現象を意図的に再現していますね。初めは理論や理想などの未(?)現実な「想い」(嘘)に始まり、研究や他人の同意(共感)などの積み重ねによりその「想い」の確信を強め、現実化していくようなことも世の中で起こる出来事には少なくないと感じますね。 そして「想い」の強さにより理屈を飛び越えて、「偶然」として生み出されてきたモノも少なくないように感じますね。その「偶然」に起きた現象についてまた科学の世界観を守るように後付(言い訳)的に理論を設定し・・・世の中そんなサイクルが繰り返されているようにも感じられ、多くの現象(変化)の元に「想い」の関りを感じますかね。(09.7.16著)・・・・・・・・・ 「サーキットの○」 先日出先で食事をしようと、お店の駐車場に車を停めたところ、隣にロータス・ヨーロッパが停車して来ましてね・・・。私が子供の頃スーパーカー・ブームがありまして、その火付け役ともなった好きなコミックの主人公が乗っていた車でしてね・・・懐かしい想いもあり、一緒に食事にきた知人にもその旨を話したり・・・特に知人には関心も持たれず・・・(笑) そんなことが頭にチラつきながらの帰り道・・・国産車なのですが、白いボディーのボンネットから屋根・後部トランクにかけての中央より左寄りに一直線に真っ赤なストライプ、そのストライプ上には黒い星印が数個並んだデザインの車とすれ違いましてね・・・今度は前記したコミックの主人公が乗っていたロータス・ヨーロッパのカラーリングそのものなんですよね。 私はちょっと興奮して、隣に乗っていた知人にまたその旨を説明したのですが、特に関心も持たれず・・・(笑)「関心」(想い)が強まると、見え方(感覚)や記憶(能力)などに変化が現れるように感じますかね。そして『偶然』と呼ばれることや、大袈裟に言うと『奇跡』的なことを感じさせる(呼び込む・創る)ような力も感じますかね。(10.4.20著)姉妹日記「想い込み」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.29

皆さんの心の中にある「愛」の定義ってどんな感じです? 「好き」の最上級的な位置づけですかね?ちなみに私は、「好き」は「本能(欲)」で「愛」は「理性」ですかね。言い方を変えれば、表面上の「自分優先」か「他人優先」かですかね。ただ、基本的に「他人優先」ということはありえないと感じます。外目に「他人を優先」しているよう見えても、結局は全て自分の「欲求」を満たしている行為のように感じますね。 皆さんの心の中にある「浮気」の定義ってどんな感じです? 自分を「愛する」と約束した人が、自分以外の異性に対して体やお金・時間を費やすことですかね?ちなみに私はその人が「嫉妬」を感じることなら何でも「浮気」になり得るように感じますが。自分だけが興味を持つ仕事や趣味(宝石・オシャレ・アイドルなども含め)、子供などだけに体やお金・時間を費やすことは「浮気」にはならないのですかね? 私の定義で「愛」を進めていくと、相手が他の異性を心から「好き」になることを望んでいるなら、自分の「束縛したい」(欲)を抑えてでも認めなければなりませんかね。「人間愛」ってどんなモノ?「好き」(欲求)を切り離すようにして、相手によって差別(制限)をつけて行うモノになってしまうと「愛」ってそんなに尊さを感じませんかね。また想いが巡ります。 これ以上話を進めると、「浮気」を肯定しなければならなくなりそうそうなのでやめておきます。(笑)「本能」(欲求)は「理性」(理屈)ではどうにもならないことも多いようです。時に「理性」(理屈)は「ワガママ」(欲求)を通す「言い訳」にすぎないようにも感じます。そして「本意」でない所へ進んでしまい、後戻り出来なくなったりします。 また「気」に限らず、初めは自分の中に「確信」を築くために、「理屈」は大切なモノの一つと感じます。ただその「理屈」で構築された「世界観」(能力・感覚)の更なる「強まり」を求めると、元の「理屈」(制限)が邪魔になることも時に感じられます。「理屈」は状況(矛盾等)により変化し、その時々で自分の心にしっくり来るもので良いと感じます。 また、様々な変化・世界観を受け入れられる心の柔軟性も大切と感じます。 私のような人間には、物事を「理屈」無く楽しめる人と同じように、「理屈」を考えている時が「理屈」無く楽しかったりするんですね。そしてそこから新しい「感覚」や「能力」が生まれることも感じますし、物事を「理屈」で理解していると、急な状況の変化にも他人の知識を頼ることなく、自分自身で対応できる力(応用力)になると感じます。(07.12.11著)・・・・・・・・・・ 「人は平等であることが基本なんだから、たとえ好きな人でも常に優先するのはおかしい」知人の言葉です。 確かに存在的には平等だと感じますが、そこに人の基本があるかはちょっと違和感がありますね。元々(本能的)の人は自分以外の存在に好き嫌いで順番をつける事が自然(基本)のように感じます。ただ、私も彼女の「たとえ好きな人でも常に優先して考えるのはおかしい」には共感もありますね。「一生おまえだけを愛する」・・・って、私は時に不信感を抱きますかね。 「そのうち浮気するんでしょ?」と言うよりもむしろ、同等に問題が起きた時も常に「愛する人」を優先し、他の人間は後回しにしてしまうのですか・・・という不信感ですかね。その「愛する人」より前からの付き合いで、時には一緒に頑張って来たのにそりゃ無いよ・・・とかもあったりしますかね。出来る限り今目の前に居る人を最優先していたいと感じています。 平等的価値観も、これまでの人生において教育(後付け)されたモノであると感じますが、自分の善悪(好き嫌い)等の選択が強く働いていることも感じます。確かに素直な感覚ではありませんが、どこかで自分をコントロールできている満足感も感じていますかね。そういったことに優越感を感じるのも「理屈」(理性)の楽しみ方の1つと感じています。(08.8.18著)・・・・・・・・・・ 「無償の愛」とか言いますね。 与える一方で見返りを期待しないような意味ですかね?「欲」の無い崇高なイメージもありますかね。ただそこにも「与えたい」という気持ちが必要で、それって「欲求」になりますよね?そして「与える」という行為に移った時点で「欲求」を満たしたと言うことになりませんかね?かなり体裁は良いですが、欲しいモノ(満足)を手に入れる行為に変わりませんね。 与える側には例えその気は無くとも、相手には少なくとも「感謝」や時には「負い目」なども与えてしまいますよね。「無償の愛」って時に一番贅沢な「満足」を得られる欲求でもあるように感じますね。ただ、時に「感謝」って、する側にとっても気持ち良い感覚があったりしません?「感謝せずにはいられない」的にそれこそ自然に湧いてくるような・・・。 お互いが同時に欲求を満たせる感覚ですかね。チャラってことで、これがある意味「無償の愛」ですかね?あとは本人が何も意識しないでした事に対して、周りが勝手に「感謝」等の感情を持つことですかね?ただそれって「愛」なのかな?やはり「与えたい」という意識(欲求)を伴って初めて「愛」のように感じますけどね。 私の若い頃は男性が様々な支払いを請け負う雰囲気がありましたが、最近おごられる事を嫌い、割り勘にこだわる女性も少なくないですね。確かに下心も感じますが、相手のプライドを立てて「負い目」を負ってくれても・・・(笑)(08.11.15著)・・・・・・・・・・ 「むっつりスケベ」って言いますよね。 人前では「スケベ」さを隠してはいるが、いざその時になると・・・て言うことですかね?となると基本的に私もそこに当てはまると自覚しますが、あまり良いイメージには遣われていないように感じますかね。普段から下ネタなど「スケベ」さを表に出していた方が嘘がなくて好感を持てるとか?確かに「ギャップ」にも要因を感じますが・・・。 ただ実際に隣にそんな人間が居たらどうですか?少なくとも私は周りの雰囲気を壊さないかハラハラさせられたり戸惑いを感じる方ですがね。へたすれば「セクハラ」とか騒ぎ出す人も居るのではないですか?ただそれが好きな人だったりすると許せてしまったりもするのでしょう?それもある意味むっつりスケベにもなりますかね? 未成年を「好き」になることは、罪に問われるくらい世間では嫌われていますよね。TVのコメンテーターとして罪を犯した人に正義感たっぷりに諭しをしているミュージシャンもいますが、確か彼の奥さんは20以上歳が離れ、16歳の頃には交際をしていたようですが・・・結婚の意志があれば許される?・・・その辺の線引きも微妙なモノがありますかね。 性的下心は切り離して書いてしまいますが、一種の純粋を求める形の1つにも感じますかね。もっともそれを切り離してしまったら語る意味も無くなるのかも知れませんがね。ただ未成年同士の「好き」だったら少なくとも罪に問われたりはしないのでしょうが、かえって若い時の恋愛にも性的興味が強い分、不純だったりすることも少なくないと感じますけどね。 そして性的興味(好奇心)は純粋な欲求ではないという定義が前提になりますかね。 また女性でも未成年のアイドルに群がる光景も多く目にしますが、男性のそれとはイメージの悪さに差を感じますかね。そして芸能界をみると人気の主力はどんどん若年化していますかね。もちろん仕掛け人は大人達でしょうし、売り込む対象も同じ若年層だけであるとは感じられませんかね。少なからずメディア(大人)による煽り的力も感じますけどね。(09.11.5著)・・・・・・・・・・ 「話せば解るよ!」 例えば映画などで「悪を根絶するにはより強い悪が必要」的な表現がありますよね。またヒトの心を動かすには悲惨であればあるほど効果的であったり・・・社会の裏にある不条理を正すのに正攻法でいっても周りには見向きもされなかったり、力でインパクトを与える方法をとると「暴力はいけない」という事に重きが置かれ、身動きとれなくなってしまったり・・・ 皆さんは自分の欲求を全て「話合い(理屈)」で抑え込めます?特に悪いことと理解してあえてやっているヒトに理屈が通じますかね。そして「暴力はいけない」という言葉が出ることを期待し、正義感を逆手にとっていつまでも悪がはびこる事が出来ているとも感じますがね。少なからず私の「子供」の頃は、親の言葉による諭しはほとんど効果は無かったですがね。 もう子供じゃないんだから・・・?悪いことと理解しても欲求が先行して自制が効かない大人の中身は子供のような気質なんじゃ・・・確かに幼い頃からの教育(刷り込み)によって非暴力的な気質に矯正も出来ると感じますが、そこに少なからず「嫌な想い(暴力)」的経験の関与も同時に感じ、まして大きくなってしまってからの矯正は難しいものも感じますかね。 「ハンガーストライキ」なども細かく内容を見直した時に、その非暴力的な方法をきっかけに心を動かされた人達が、末端では暴力的な運動をした結果世界が変わったりして・・・「ハンガー」も結局はヒトの「命」を盾にしているように感じ、純粋に非暴力的な方法が存在するのかは疑問も残りますがね?「理屈」は鬱陶しいと感じたり、喧嘩の後に親友になったり・・・ ヒトの基本に単純に「気持ちよい」を求める広い意味での「自己主張」があり、各々がその違いを表そうとするならば、良いイメージのモノだけでは収まりきれる訳もなく・・・「善~悪」的な共存(幅)が生まれるのが必然なのですかね?個人的には善悪の価値観も生まれながらの環境や教育によって創られるモノで、ヒトの基本に正義があるとは感じませんし・・・ 罪を犯しても自首をすると減刑されることがありますね。つまりヒトの心情としては、そこで逃げてしまうことが普通として考えられているためにご褒美的に減刑があると聞きました。法律的にも本来のヒトは「弱い」を基本に置いているようですし、正義の感覚にもヒトによってズレを感じます。そして正義の根本にも嫉妬やワガママ(欲求)的資質を感じますかね。 「正義は必ず勝つ!」・・・「正義」に勝ち負け的表現が付いて回る事に違和感がありますし、言い方次第かもしれませんがなんか威張っている感じで反発したくもなりますかね。そして現実を見れば、世間で「勝ち組」と呼ばれる人達には、むしろ正義的な印象が薄いように感じられることも少なくなく、その言葉にも時に「上手く扱われている」感があったり・・・ また悪1人を諭すまでに多くの善に犠牲が出たとしても、ヒトとして「話せば解るよ!」に拘りますよね?そして全ての悪を諭すのにどれだけ多くの善の犠牲を我慢できます?その中に自分の身内が居ても我慢できますか?そうなれば私は一時的に悪に成ってもそれを制する・・・ほら、少なくともここに一人「話しても解らない」ヒトがいました。 ♪キミ~が笑ってくれるなら~僕は悪にでもなる~♪・・・定義にもよりましょうが、愛も常に正義なのですかね?私も「暴力反対」ですし、過去の自分に対する「暴力」の経験から決して肯定もできませんが、正義感からというよりもその行為自体に恐怖(気持ち悪さ)や、時には面倒臭さを感じるからで、あくまでも受身的立場な感覚でもありますかね?(10.11.16著) 姉妹日記「感情」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.29

私もテレビに出演するような職人的人物を何人か上司に持った事があります。 彼等からは共通して、とても「自信家」的気質を強く感じられました。とにかく一度こうと決めると多くは「理屈無く」突き進むんですね。そして私の感覚において特にその「自信」に結びつくような根拠を感じられることも少なかったですね。また個人的にはむしろ人間的に参考にしたくない気質を多く備えていたようにも感じています。 ただ私のような気質の人間には、その自信と直向さ・勢いに「安心感」や「手伝ってあげたい」的気質をかりたてられてしまうんです。なにか起こりそうでワクワクしたり、時にはお金儲けの臭いがしたりと、気が付けばその人達の周りには人が集り、奉られるようなことも多いですかね。時に他人の「助け」を得られやすい気質でもあるように感じます。 私の中にも時々顔を出します「ワガママ」という才能(気質)にも、「能力」(特に強い自己主張系の能力)との強い因果関係を感じています。多くの人は、少なからず常に周りの目を気にして「気」を遣い、目的の事に集中しきれず、「気」を分散させて(バランスをとって)いるように感じます。 「ワガママ」気質の強い人(天真爛漫や無邪気なども含め)、またその気質が顔を出した時、周りに対して遣っている「気」を、目的の事により多く注ぐことが出来る分、通常を上回る成果を上げられるように感じます。「天才」や「サヴァン」と呼ばれる人達からも似た感覚が伝わってきます。「自閉」も自分に集中する1つの形のように感じられます。 ただこの気質の人は、その表向きの自由さが嫉妬を受けたりして、ちょっとしたきっかけでも他人の信頼を裏切ったり、「想い」の細かい負の変化に鈍感になって周りの不満を蓄積させ、通常以上に反発を受け、自分自身を潰してしまうリスクを感じます。最近有名人達が受けているバッシングの原因も、品格云々以上にそういった嫉妬的質を強く感じられますね。 また例え偉業を成したと言われる人であっても、「ワガママ」を通した結果には感動は薄れてしまいます。人並み以上の能力を身に着けた人には、その能力(自己主張)を遣う目的の場面以外の人前では、自・他を守るためにも普通の人以上に皆が持っている崇高なイメージの「精神的成長」を装ってでも持ち合わせることが特に日本では望まれているように感じます。 ただし、そこには極端な気質の使分けが必要と感じ、少なからず能力を抑えこんでしまうジレンマも感じます。(07.9.1著)・・・・・・・・・・ 最近各分野で才能のあるとされている有名人達が、強いバッシングを受けているようです。 例えば相撲において、とても強い横綱が「品格が足りない」といったバッシングの対象になっていますね。批評家達の話によれば、元々相撲の最高位は大関であったらしく、その言動は相撲界に限らず多くの人に影響を及ぼすことにより、強さに人間的品格を加えた更に上の位として横綱が設けられたような話を耳にしました。 「横綱は勝って当たり前!」で、そこに+α(他人を想いやる・自己自制的精神の強さ等)が求められているようですね。元々「神事」でもありますし、他人の目を強く気にする古い日本特有の美的感覚もあり、他のスポーツとは一線を引きたいのでしょうかね。ただ多くのスポーツも元は少なからず「神事」的な要素のモノから変化してきていると感じますがね。 また祭りなどの「神事」には、日常生活における抑圧を解き放つ役割のようなモノも感じますかね。「神事」には争いや暴力的で正気ではない内容のモノも少なくないですよね。「神」の名の元にガス抜き的「ワガママ」を体裁よく吐き出す場といいましょうか。究極には宗教戦争など、時には「神・崇高」などは、「ワガママ」の発散を正当化する役割も感じますね。 そして確かに「何が何でも勝つ」的勝利への執着も一流と呼ばれている選手から感じる大きな要素ですし、見る側も「強ければいいじゃない」的解り易い満足感への欲求も感じます。私も基本はそうですし、また私が強さに「品格」を求めるのは、「ワガママ」・「偉そう」・「金儲け」的なモノを感じたときの「嫉妬」が少なくないようにも感じます。(08.10.21著)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「頑張って!」という言葉も最近敬遠されているように感じますかね。 またあまり「我慢」を強いず、「楽」を求めたりする行為が見直されているように感じます。ただ時には心の深い所で「楽」を得るために、体裁整え的に心の浅い所で「苦」を背負ってしまったりしているようにも感じます。私も体裁を守るために具体的にはそこに触れられませんが・・・。そして周りにも少なからず「苦」のシワ寄せが出たりしているように感じますかね。 また表向き「苦」を選ぶ人は比較的いつも「苦」を選んだりその逆だったり、その選択には気質によって偏りも感じますかね。仲間内で一番頑張って(我慢して)いる感覚を得られないと不安を感じる人もいるように感じますね。そして「たまには逆の立場にもなってみたいよ」とかいいながらもそれぞれの立場でそれぞれの欲求(優越感等)を満たしていたり・・・。 いつも「我慢」する側の人がストレスを募らせて精神的に悪い状況を背負いがちに感じますが、むしろいつも「我慢」せずにいる側の人ほど「我慢」に免疫が無く、前者よりひどい状況に陥ったりするようにも感じますね。同様に普段から本当にネガティブな人は、なんだかんだ言って逆境に強いようにも感じますね。心に準備が出来ているといいますか・・・。 ただ、いつも「我慢」する側の人も、長いことそこに気付いてもらえないと、悪い形での主張が現れてきたりもしますかね。私は今でも「頑張って!」が一番力を貰える言葉ですかね。ただ使われるシチュエーションによって「もっと頑張って!」はカチンッ!、また「よく頑張ったね」にも「俺はまだまだこんなもんじゃない!」的にカチンッ!とね。(08.11.29著)・・・・・・・・・・ 皆さんは「寛容」ですか? いよいよ「トラックバック」まで拒否設定に・・・設定の仕方が分からなかったこともありますが、困った書き込みに対してその都度消去することもちょっぴり気持良くて・・・でもさすがに飽きました。コメントも拒否にしましたが、愚痴やストレス解消的ワガママな内容にも何も言わず見守って頂いた方々には感謝もありますね。私はつい諭したくもなりますから。 「寛容」というと私の中では広い意味で「自分と異なるモノを受け入れられる」ようなことですかね。また他人の失敗を許したり、時には諦め的に遣ったりもしますかね。ただ私に限っては、いずれも「寛容」になることによって相手より優位な立場になり、安心や優越を感じていますかね。言葉は体裁よいですが、気持良さを求める他の行為と変わりなく感じています。 「次元が違うんだよ♪」・・・他人に言われると腹が立つ言葉ですよね。ただ私も時にこの言葉を遣って容易に立場を優位にしたりしていますかね。「次元」とか言うモノの設定こそその人その時々で勝手・曖昧なモノのように感じ、確かに上下的な設定ばかりではありませんが、私に限っては、どんな時であれこの言葉には少なからず「上下」が含まれていますかね。 私は次元が低い?理屈によって深く緻密に構築され、それを「次元」のようなカテゴリーに分けるようにして考えられたモノよりも、時に前記した「寛容」の「気持良さを求める他の行為と変わりなく・・・」のように境(次元・カテゴリー)を取り除いて単純にしてしまったモノの方が、「次元」が高くなるように感じられてしまうことも少なくないように感じますかね。 そして理屈によって難しく構築しても、究極は逆転的発想に留まるわけで、それを繰り返して議論するうちに、いつの間にか立場が入れ替わってしまったり・・・。また口に出さない「想い」も、単純な「欲求(ワガママ)」的なモノと、その「欲求(ワガママ)」を体裁良く満たすためにある程度理屈で(複雑に)構築されたモノが感じられますかね。 個人的には素直に(浅く)感じようとすると逆に後者(複雑)な方に、深く感じようとすると逆に前者(単純)に繋がってしまう感覚もありますかね。本質は単純な欲求と感じますので、ある意味深く考えたことは心の浅い所に置かれるように感じます。理屈を盛って体裁よくしたことであれば、無意識にも人目に付き易い所に置きたくもなるでしょうからね。 そして初めから前者にふれてしまうと、大概は機嫌をそこねてしまいますかね。(09.7.22著)・・・・・・・・・・ 「自分を棚に上げてよく言うよ!」 私はとても短気で、ちょっとしたことでイラっとしてしまうのですが、それ以上に冷めるのも速いので感情を表に出す暇も無く、周りからは穏やかな人に見られているように感じます。イラっとした瞬間に「本当にお前(自分)は今まで一度も他人に同じようなことをしたことはないか?」とか「これからもすることはないか?」とか自問してしまうのですかね。 同時に何人もの自分が現れてそんな遣り取りをしたり、自分の怒っている姿が浮かんで情けなくなり、気持ちがなえてしまうんですよね。ただ本来、世間で常識や正義と確信を持っているモノであれば、例え今の時点で自分には出来ていなくても、それとは別に主張してしまっても構わないと感じますけどね。皆が共有する「良いこと(理想)」なんでしょうからね。 ただ皆が共有する「良いこと(理想)」であれば、あえて他人に言われるまでもないことでもあるんでしょうかね?解っていることを他人に言われることほど腹が立つこともないですからね。なかなか欲求には勝てませんかね?最近特にTVなどを見ると政治家や検察などのエリートと呼ばれる人達ほどこの「棚上げ」的才能(鈍感)が大切なようにも感じますね? 「私は運がいい♪」・・・何回も事故に遭ったにも拘らず奇跡的に無事であった事に対して知人が言います。「不幸中の幸い」的な意味合いもありましょうが、本来「運」が良ければ事故自体に遭わないように感じますし、多くは自分の過失らしく、周りには不運を与えていることでしょう?場合によっては不幸の中で「不幸」が棚に上げられてしまうようです。 無意識なミスの誤魔化し・自身の慰めも感じますが、不幸な目にあって初めて幸せを実感できたり・・・(10.11.27著)姉妹日記「無邪気」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.25

私は、基本的にはタバコは吸いません。 ただ、吸わないと決めている訳でもありません。その時の自分の立場によりますが、個人的にはタバコに悪いイメージを固定していないです。確かに、客観的に受けるあの臭いはたまらないものも感じる時もありますね。食事をしているときなんか、隣で吸われたら最悪ですね。なんか「ストレスの塊」的感覚ですか。ストレスの権化のようです。 ただ、嫌な人には「理屈無く」なんでしょうね。 私が「タバコを吸おうと想う時」とは、周りに吸う人が一人も居なくて、申し訳なさそうにして吸っている人を感じた時ですね。ただ、自分で吸ってみると結構気持ち良いものです。あの意識した深呼吸で少し落ち着いたり、周りとの鬱陶しい会話から離れられて集中出来たり、極めつけは周りの人に無言で自分の受けているストレスを表現できているようで。 ただ、好きな人には「理屈無く」なんでしょうね。 私からすれば、「気」の世界観も「科学」等の他の世界観も同等な世界観です。どちらからも「楽しい」や「辛い」といった正負の想いを漏れなく小さい頃から頂いてきましたので。自分のこの能力にも同じことが言えます。ただ、今は「科学」等の世界観が比較的「イバっている」ように感じていましたので、「気」の世界観に少し偏って表現してみました。 逆であったら、「科学」に偏っていたでしょう。(笑) 「あまのじゃく」をすると、想いもよらない(時には本意と正反対の)立場にたたされ、その立場で必死に考えて(感じて)いるうちにその立場の気持ちが理解できたり、想いもよらない「気持ち良い」を体験できたり、あげくの果てには元の立場を棚にあげてしまったり・・・悪くないです。(笑) 「想い」が集まって歪みの大きい「科学」や「気」などの世界観の単位ではなく、個々の単位での世界観でも関わって生きたいと願っています。個人で感じた「正しい」(悪い)は、確かに本人には「正しい」(悪い)ですが、他の人にとって(同じ人であっても)必ずしも「正しい」(悪い)に常にあてはまるとは限らないということを嫌という程かんじてきました。 私のような世界観も、世界観を統一して、ある意味「安心」を得ようとする働きからは、「不信」や「ワガママ」などを生み、協調性を欠く可能性のある危険な存在であることは自覚しています。それがもう一方の「不安」となり、いままで表現をためらう原因でした。そして、調子に乗ると最近特に顕著なとんでもない「しっぺ返し」があることも自覚しています。 人が強く主張する時、得てしてその対極にある主張に対しての嫉妬(憧れ)のような裏腹の「想い」が含まれることもありますかね。戒めていきますので、一連の私の自己主張のことは、なにとぞ大目に・・。(真剣)また、愛煙家の方達には、逆にご迷惑をお掛けする表現になってしまったかもしれません。すいませんでした。(07.11.23著)・・・・・・・・・・ 「ルールを守りましょうよ!」 街で歩きながらタバコを吸う人を、TVキャスターが追い回していました。その人は「うるせんだよ!」とタバコを路上に投げ捨てて行ってしまいました。確かに彼等からすればそんなルールを決める会議に立ち会ったわけでもなく、「勝手に決めるな!」くらいの文句もあるでしょう。元々「タバコを吸いたい」も「タバコは吸わないで」も同じく理屈無い欲求でしょう。 最近では病気とタバコの因果関係(理屈)も定着し、すっかりタバコは悪のイメージも強く、立場も弱いですが、ルール(他人や病気)のせい(強い立場)にしないで、せめて「タバコの煙が苦手なので・・・」とか「タバコの火が危ないので・・・」とか、その人それぞれの理屈(責任)として伝えられたら人の関りももう少し柔らかくなったように感じますがね。 煙草を吸う人にも穏やかを感じられることも少なくなく、また吸わない人にもきつさを感じることも少なくないですかね。想いますね、最初に煙草に健康に悪い原因をみつけた学者って、普段どっちの立場だった人なのだろうって。(08.8.2著)・・・・・・・・・・ 学生の頃、同じクラスに気に入らない子がいました。 ただその子がよそのクラスの子にいじめらているのを見ると、助けたくなるんです。仲間意識が芽生えるのでしょうかね。 よそのクラスがスポーツ大会でよその学校に負けそうになると、応援したくなるんです。仲間意識が芽生えるのでしょうかね。 こんな感じで宇宙人でも攻めてくれば、地球は1つになるのでしょうかね? ただ、いつまで経っても敵対する(競う)存在は必要になりそうですね。(笑)(08.7.15著)・・・・・・・・・・ 「目から鱗が落ちた!」 科学や歴史などの世界観にも相対する理論が同時に存在し、私たち一般人にはどちらもそれなりに受け入れられ、それなりの効果をあげているモノも少なくないように感じますね。また物事の発見などには、行き詰ったときにまったく違った方向(時には正反対)から見たり、考えたりすることで、想いもよらぬ結果を得られたりすることも少なくないと感じますね。 「逆転の発想」って言いますかね。この発想法にはある意味、手っ取り早く人に強くインパクトを与えられたり、信頼を得られたりする力を感じますよね。今までの発想に想い込みが強ければ強いほど、その効果は絶大だと感じますね。俗にいう「深い話」なども他人によって後に「逆転の発想」的に意味付けされたりして、似たような作用を感じることも少なくないですね。 ただこの「逆転の発想」も周知されたりして行き詰って(飽きられて)くると、またその「逆転の発想」・・・つまりは元の発想に戻ったりすることもありますよね。昔のモノが今の時代に見直されていることも少なくないように感じますね。そもそも対極にある2つのモノは、極身近で背中合わせだったりするように感じることも少なくないですね。 直ぐ右隣にいる最も近い人も、左隣で考えると最も遠い人になるように、極近い世界観や「憧れ」ていた人も、それが近いほど・強いほど何かの拍子に最も遠い存在や「嫉妬」に裏返ってしまったり・・・。「無限」(サイクル)を基本と感じる世の中では、正負も元々は同じモノ・発生源・力など感じたりしますね。そして「理屈」の力を感じさせられます。 不幸な時により強く幸せの有難さを実感できたり、死を目の前にして命の尊さを強く実感させられたり、正反対の立場になって始めて強く認識できることも少なくないように感じますね。(08.10.29著)・・・・・・・・・・ 「納豆は食べられへんねん!」関西の芸人さんが言っていました。 私は毎日でも食べたいくらい納豆が大好きなのですが、やはり他人が食べている時のその臭いはたまらなく嫌なモノを感じますね。時には我慢できなくなって、気が付かれないように食べ終わった他人の容器をさっさとかたづけてしまったりしますかね。ある意味、人の味覚や嗅覚等の感覚も含め、「好み」っていい加減(ワガママ)なモノですよね。(笑) そもそもその芸人さんの普段の言動からは、何でも自分が最初・中心で無かったりすることへ反発するような「あまのじゃく」的気質も少なからずうかがえたりもしますかね。子供の頃の周りからの価値観の擦り付けを大きな要因と感じますが、「美味しいのに~」的優位な立場(感覚の押し付け)に少し意固地になって反発していることも少なからず感じますかね。 私の父は外国映画好きの影響もあるのか「葡萄」を食べる時は房に直接かぶりつき、「この食べ方が一番美味いんだぞ!」といって、家族によく反発かっていましたかね。作業の進め方において、「こうした方が早いよ」なんてアドバイスされたものの、その方法を試すことなく「私はこっちの方がやりやすいの!」なんて言ってしまって、苦労したことはないですか? 確かに人それぞれの体格や癖などによって必ずしも1つのやり方がベストとも言い切れませんが、それ以上に素直になれない何かがありません? 「今やろうと想っていたのに!」とか、例え同じ答えを持っていても、先に言われてしまうことで手柄を横取りされた感覚になったり、相手に優位に立たれる感覚が悔しかったり・・・終いには「ほらね。言った通りでしょ♪」 な~んて言われたら・・・(憤)。ただそんな感覚から、より良いアイデアなども生まれたり・・・(09.4.14著)・・・・・・・・・・ ヤンキーが新体操? 昔から不良役は人気がありましたが、特に最近はどんな設定でもドラマの主役は不良ばかりで・・・昔からヤクザ映画も人気がありますよね。義理・人情、「仁侠道?」には私も共感できる所も多いですし、堕ちこぼれたことによって世間にあてつけるようにその世界に入るような分析も耳にしますが、正直人気があるのはもっと表向きな所にあるように感じますかね。 個人的には単に(理屈抜きで)そういった世界に格好の良さ・楽しさを感じて入る人も少なくないと感じますがね。私も良い悪いを別にすれば彼等の様は楽しそうに見えますし、時にバイクや車両のデザインの発想には感心させられることも少なくないですからね。また反体制的で周りに媚びていないようなところが時に男らしく見えたりもしますかね? 表向きの負けを嫌い、直ぐに喧嘩したり、規則を破ってでも自分のファッションを通したり、ひねくれは感じても欲求に素直で表現方法もストレートで解り易いので、ある意味『純粋』さえ感じさせてくれる事もありますかね。まあ彼等の世界の中ではある意味において外の世界よりも規律が厳しくて、そこに従順だったりするんでしょうがね。それもある意味『純粋』? 「人目を気にして・・・」と言う点では一緒ですが、私などは育った環境や教育の影響もあったのか、気が付けば我慢できることに格好良さをより感じるようになっていましたので、彼等のその行動をしている時の様に楽しさ・自由さには嫉妬を感じても、その素直な表現方法には素直に格好良さを感じられないのでその世界にも入り込めずにいますがね。(10.7.3著)姉妹日記「八方美人」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.22

自分の手で建てた家が、10年になります。 そろそろ修復も兼ねて改装を考えていました。母が例によって旅行で家を数日空けるので、そのタイミングで工事しようと決めました。ただ、どの様に改装しようか、かなり前から考え、結局決まらずにその日までズルズル日程が延びていました。周りからの、「そろそろ・・・」のようなプレッシャーも感じ、半ば強引に工事を決めました。 工事の前日、母は旅行へ出掛け、私はまだ納得いかない計画のまま、段取りを始めました。材料を持ち、階段をおりていましたが、最後の1段で・・・ゴキッ!足首を想いっきり挫いてしまいました。今までにない痛みに、急いで足首を冷やしましたが、私の中で、「これで工事をやらなくてすむ口実ができた」という安心を感じていました。 昔から、本当に「嫌」と感じた時は特に、必ず身の周りに何かが起こって避けられてしまうんです。小さい頃は今回のように直接自分自身に変化が現れ、大きくなると間接的な身の周りの変化が増えましたね。会いたくない人など、相手の車が動かなくなったり・・・急に相手側の都合が悪くなったりして、一見自分に責任が無いところで変化が起きます。 その時、自分の中に、自分や他人に対してプライドを保ちながら「嫌」を避けられた「安心感」があるのです。「土壇場」を感じるとそんな事がよく起こるのです。少し反れますが、「火事場の馬鹿力」など、追い詰められることで、固まってしまった自分のプライド(世界観)を傷つけることなく、いろいろな形で別の力を「解放」できることも多いように感じます。 話を戻しますが、そこからは「痛み」との戦いです。これまでも自分の「痛み」と向き合ったことはありましたが、「痛み」や「不安」から悪い方向への「想い」ばかり強まってしまい、結局母の力を借りることになります。ところが今回は、その最後の「頼みの綱」がいないのです。三日間苦しみ、その晩、「今晩痛みが退かなかったら、医者に行こう」と決めました。 正直私の中では「気功に関わる人間が情けない」という気持ちがありましたね。そこで患部に手を当ててみると、1~2分で「痛み」が消えてしまったのです。また「土壇場」でプライドが守られた感じでした。(良い子は真似しないでね。笑) 様々な能力を得るための厳しい「練習」や「苦行」、時には「大病」や「臨死体験」などは、意識的・無意識的に一種の「土壇場」の演出・名分となっているように感じます。そして、全ての意味で「無限」を本質と感じる中で、個々(プライド)がその存在を表現し、時にはそれを守るために個々の理屈で制限を付けて世界観を創り上げていると感じます。 切ったり縫ったり、単純に痛いのが怖いんですが、医者や薬の方が結果的に楽だったりするんですけどね。複数の世界観から認められて「治った確信」になる人も多いと感じます。時にプライド(自分自身)は厄介です。(07.12.14著)・・・・・・・・・・ 「夕食何にする?」 知人はいつも「何でも良いよ。」と答え、相手の機嫌を損ねてしまっているようです。「優柔不断」とか言いますかね。ただ実際は自分だけを考えるなら答えは直ぐに出ているんですよね。他人の評価を気にしたり、複数の想いが関ってくると「この人はこう考え・・・」「こんな人はこう考え・・・」とか瞬時に頭の中で色々シミュレートされているようです。 また自分に自信が無く、とても無責任なイメージも付いていますかね。ただこんな気質の人に限って根(拘りのモノ)はプライドが高かったり頑固だったり、必要以上に「責任」の重さを感じているような人も少なくないように感じます。故に全ての人を満足させられるように考えたり、失敗するのを恐れてなかなか答えが出せなかったりするように感じますね。まあ気心知れた相手になると、ただ単に面倒臭くって「何でも良い」とか言ってしまいますけどね。(笑)(08.11.14著)・・・・・・・・・・ 「プライド(体裁)なんて捨てなさい!」 自殺の名所で志願者を思い止まらせるボランティアの男性の言葉です。確かに私も「プライド(体裁)」に大きな原因を感じますし、時に「自殺」が「自己主張(プライド)」的質を含むケースも感じたりしますかね。ただ逆に「プライド(体裁)」が人を生かしているモノとも感じてしまいますね。それを守り切れなかった結果が自殺に繋がったりもしませんかね? 他人に好かれたり、他人より優れていると感じられて初めて安心を得られたり、生きがいを感じる人も少なくないと感じますからね。その男性もTVにおいて「元警察官」といった肩書き(体裁)の紹介を受けていましたね。情報の出所は本人でしょうし、そのことで少なからず説得力も増して、そういった活動(人生・生きがい)に生かされていると感じますがね。 その男性のモノ言いも割りとハキハキとして、自分の考えに自信を持つタイプのように感じましたが、そういった気質の人も含め、「ワガママ」気質の人が自分の欲求を多く通せるのも、そういった「プライド(体裁)」に縛られるような気質の人間が色々とバランスをとってくれていることもあると感じますがね?皆一斉に「ワガママ」を通すのは難しいですかね? だからといって「ワガママ」気質の人には、逆の役割も期待できないでしょう?そして「ワガママ」気質な人に限って表向きのプライドを傷つけられると手が付けられなくなったり・・・役割は偏らざるを得ないと感じますよ。ただ真にプライドの高い人は「ワガママ」気質に対しての我慢に優越も感じ、逆境にも強く、時には無意識に逆境をも好むと感じますがね。 今回はその男性の言葉面だけ捕まえて私の表現に都合よく意味を捉えました。そして他人に想いを伝える時には、曖昧にならないように色々な意味で偏った表現に成らざるを得ないとも感じますし、私もあの立場では同じような言葉で諭さざるを得ないと感じてもいます。嘘やお世辞の自覚はありませんが、このまとめ方にも体裁整えの質も含まれますかね。(09.8.4著)・・・・・・・・・・・ 「そんなの赤飯じゃないよ!」 同じ呼ばれ方であっても、各地域によって大分異なるモノも多いですよね。TVにおいてレポーターが小豆の入った赤飯を他県の人に見せ、「一般にはこれが赤飯と言われていますが・・・」といって勧め、食べた他県の人達はまずそうな反応をしていましたね。ある人は「知らないモノをむやみに口にするなって言われているから」といって食べもしませんでしたね。 自分の所の赤飯のイメージ(想い込み)を持ったまま食べたことにより、そのギャップに驚いてまずそうな顔になってしまったことも少なからずあると感じますが、ちょっと過剰な反応のように感じますかね。それ以上に「一般には・・・」にプライド的な反発も感じますかね。「常識だから」とか「皆が言うから」・・・ちょっとカチンと来ますね。 せめて自分の言葉(感覚)で勝負して欲しいものです。普段私は「郷土愛」的なモノを自分の中に感じていませんが、いざとなると出てくるものですね。と言うよりも個人的なプライドが置き換わっているだけのようにも感じますがね。皆さんも自分の子供や仕事(趣味)に自分(プライド)を置き換えていませんか?時には「ヒトのため」とかいって・・・(09.10.22著)・・・・・・・・・・ ♪ナンバ~ワンにならなくてもいい~ も~ともと特別なオンリ~ワ~ン♪・・・人によっては癒される言葉ですかね。ただ一番ではないにしろ、ある程度成功を果たした人にはあまり言われたく無い言葉でもありますかね?自分は上を目指しておいて、他人には・・・なんて。ただ特に人生において成功を収めていない私などが同じ言葉を口にすると、負け惜しみ的に扱われてしまったりするのでしょうね? 確かに同じ人は一人としていないという意味では全ての人が既に「オンリー・ワン」なのでしょうけれど、何かを表現して初めて「オンリー・ワン」も認められ(満足でき)ると感じますかね?となれば何かしら他人との差別化(競い)をせざるを得なくなると感じますかね。「オンリー・ワン」・・・他人が既に興味を持っている事に便乗はできないってこと・・・? 野球やテニスなどの既に他人によって創られたカテゴリー(世界観)内において「ナンバー・ワン」になれる才能は「オンリー・ワン」では無い?「オンリー・ワン」になるには新しいカテゴリー(世界観)自体を創造しなければならない?まして「野球やテニス・・・」ではなく「スポーツや芸術・・・」といったもっと大きなカテゴリーを求められると・・・ これだけ表現が多様化してしまった現在では、「オンリー・ワン」を目指すと身動き出来なくなってしまい、かえって「ナンバー・ワン」を狙う方が楽かな・・・?例え新しいカテゴリー(世界観)が見つかっても他人に認められなかったらつまらないし・・・でも認めら(共感さ)れてしまったら「オンリー・ワン」と言える・・・?飛躍し過ぎましたか?(10.5.8著)姉妹日記「信頼」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.22

胃潰瘍の原因は95%が「ピロリ菌」。ノーベル賞?医学者の言葉です。 安心しましたね。これで「ピロリ菌」さえ退治すれば胃潰瘍にならずに済みます。「ストレス」などの曖昧なモノじゃ、どう対処してよいか解りませんものね。不安ですよね。素直にこれで多くの人が救われると感じます。ただ、5%は「ストレス」とも、はっきり言い切られてしまいました。できれば、残りの5%にも具体的な原因を当てて欲しかったですかね。 人は「解らない」と不安になりますかね。 他人の性格があらかじめ解ったなら少なからず対人関係も「楽」(安心)になりますかね。血液型などの性格判断などは、人の表向きのいくつかのパターンに性格を当てはめて、事前にその性格を把握し、その対応に対して「安心」を得ようとした世界観のようにも感じます。人間関係に特に敏感な日本人には関心が高まるのも解るような気もします。 「運命」や、占いなどの「殺界」や「厄年」など、「想い通りにならない人生」(他意識の集まり)的力のような曖昧なモノに対して、そういった「言葉・文字」を当てるだけでも、「楽」(安心)や自分のプライドを守りながら定期的に「弱音」を吐く(休憩の)よい名分を築いてくれます。力の存在の真偽はどうであれ、その「言葉・文字」には大切な役割を感じます。 ID野球で有名な○○監督は、意外と「ゲン」を担いだりするようですね。奥さんの影響も多分にあると感じますが、理屈っぽい人ほど、理屈ではどうにもならない(不思議な)力を強く感じている人も多いように感じます。故に、そういった「ゲン担ぎ」などによってそんな力をも押え、「安心」を得ようとするように感じます。 そして前記の「5%」にも、医学者の立場からのそんな質(個人差等)も感じます。そして、世情が変わらなければ、「ストレス」(想い)のはけ口的な、新たな病気が発生する(必要となる)懸念も感じます。(07.12.12著)・・・・・・・・・・ 美容に関する世界観も多様化していますね。 時には全く正反対の世界観もあるように感じます。そして、それぞれの世界観でそれなりの効果も得ているように感じます。ダイエットなどにおいて、新しい方法を試しているうちはなんとなくそれなりの成果が上がるのに、テレビなど外からの情報を耳にしているうちに効果が下がり、新しい方法に乗り換えるようなことをしていませんか? ほとんど何も「知らず」に信頼を置いていたモノの理屈を知ったために自分に矛盾をつくり、不信を生み、効果を失っているように感じます。そして新たな「知らず」を求め・・・を繰り返したりしていることも多いように感じます。他人が創った「方法」(世界観)には、逆に適度な「無知」があった方が、色々な意味で効果が上がったりもするように感じます。 「専門家が言うのなら間違いないだろう」位で信頼しきってしまうのも、その是非はともかく結果を得る方法の1つと感じています。 人は「解った」でも不安になりますかね。 「気」の治癒にも自分の病気に対してとても深い医学的知識を持っている人は、治癒に比較的時間を費やす場合が多く感じます。特に難病とされるモノに関しては、知識のルール通りに病気を進行させ、「不安」を抱えるようなことも感じます。「解った」ことにより「不安」を増長させて、治ろうとする気持を押し下げてしまうリスクを感じることもあります。 なかなか一度固まった(理解した)世界観を覆すことはとても難しいことでもあるように感じます。ただ、「不思議」」(≒無知)というモノは、時にそれを易く覆してしまう力を秘めているように感じます。「不思議」を易く受け入れられる柔軟さといったほうが良いでしょうか?また、追い詰められると「不思議」を受け入れやすくなったりもしますかね。 私も何度かそう言った場面に出くわしたことがありますが、お医者さんは、医学のルールから外れてまで嘘をつく必要は無いと感じますが、「もう治らない」宣告はちょっと疑問を感じます。ただ、時に医学的治療をやりつくしてから気功にみえる人に顕著な変化が見られることも感じています。「苦しい時の神頼み」や「見返してやる」的プライドなモノも感じます。 そもそも「不信」とは、そこに「力」が無いことではなく、「信頼」の逆方向的な強い「力」のように感じています。いわば「負信頼」とでもいいましょうか?「不思議」には、その「不信」を生む「矛盾」を抑え込む力を感じています。そして「不思議」(解らない)には、無限の可能性が感じられます。また「気」も決して特別なことではないと感じています。 ただ、「気」に限らず、始めはそれを「特別」な位置にあえて置くことで意味や力を生むように感じています。そして自分の感覚から、「不思議」を求めるときの精神の状態には、必ずしも良いモノを感じられているとは言えないのが正直な所です。ただ、今の世情から、「不思議」ということにも大切な役割と力を感じています。 これからも「不思議」という感覚は大切にしていきたいと思います。(07.12.13著)・・・・・・・・・・ 「紫外線対策は万全♪」 アラフォー女性が、二の腕まである手袋をして、顔の隠れるバイザー付きの大きな帽子を被り、日焼け止めで真っ白にして出掛けて行きました。将来的にシミだらけにならないように・・・綺麗なおばあちゃんにもなりそうですが・・・そのために今の若さの綺麗さを隠してしまうのは・・・ちょっと不思議ですし矛盾も感じますかね。 ある程度歳を重ねると、女性は単純に若い時の自分の方が綺麗と感じていると思っていましたので・・・その時々で今の歳よりも若く見られたいってことですかね?それにしても普段外出するときにも隠してしまったらそれすら叶わないことのようにも感じますけどね。ここぞという時に見せる・・・?主に自分自身に向けてのモノなんでしょうけどね。 「男性も肌ケアした方が良い」・・・街角での女性に対してのインタビューで多かった意見です。 中年の男性に対してのインタビューでも臭いや肌ツヤ・コンディションを気に掛けている人が多かったようですね。ただ臭いの件は別として、女性達よりも男性達の方が肌ツヤやコンディションも良いように見えましたね。私の周りでも、ほとんど化粧に関心無い女性の方が、関心ある女性より肌は若々しいように見えますかね。日焼けやシミ・そばかすは別ですがね。 手がカサカサになるとクリーム(油)をつけるのに、歳をとると食べ物は油モノを控え・・・顔の油や毛穴の汚れはマメに取り除くのに、その上から化粧品を塗り込んで毛穴を塞いでしまい・・・いつまでも若く「見られたい」と言って紫外線対策で体全体を覆ってしまい・・・ちょっと私の感覚ではやっている事に矛盾を感じてしまいますね。 また「肌は排泄器官。栄養は要らないと想います。」などと最近コマーシャルで耳にします。ある意味今までの肌ケアとは正反対の理論だと感じますが、理屈的には私の心にしっくり来ますかね。ただどちらもそれなりに効果はあると感じますね。その理論(理屈)に対しての、そのひとの心(信頼)次第だと感じますね。 また人によっては大切な身内のお葬式の時にも、先日の24時間マラソンのように大変な時でも化粧は欠かせないようですね。女性の身だしなみということらしいですけど、服を着ることの延長のようなものなんですかね?ちょっと不思議。そんな風に感じる私にとって、前記の「若々しい」も私の化粧に対する嫌悪的な想いが見せるものかもしれませんね。(08.9.2著)・・・・・・・・・・ 「1・2・3・ハイ消えたっ!」 よくマジックなどでモノを消すときに布などで1度視界から遮りますよね。勿論そこで技術を屈してスリ替えたりするのでしょうね。でなければ皆の目の前でモノを消してしまえば良いことですし、「マジック」と断りを入れる必要も無い訳ですからね。ただ私が超能力でモノを消せたとしてもやはり布などで1度視界から遮る手法をとりますかね。 ある程度成人した人の目に見える病気(皮膚病等)の治癒は比較的難しいと感じています。痛みやかゆみは一瞬に消えても、傷や腫れは目に見える分、一瞬に治って行く過程を意識上でイメージするのが難しいのでしょうかね。そんな時は特に施術中に世間話をしたり、居眠りさせてしまったり、一度意識を患部からハズしてあげると症状が大きく変化したりします。 例えば成長ホルモンは寝ている時に活発に分泌されると言われたりしますが、広い意味で顕著な変化は、そういった意識が外れたときに起こることが少なくないように感じますかね?また小さい頃から植付けられた世界観(主に科学)のルール(固定概念・理屈)が、意識上の顕著な変化を強く邪魔したりもしますかね。 少しそれましたが、そんなことからも、例え超能力でモノを消す時であっても、布などで1度視界から遮る(意識を外す)手法をとった方が、モノが消えていく過程をイメージする難しさが無くなりますかね。自他共に沢山の人にその効果が現れる(成功の確率が上がる)と感じますかね。不思議(理屈無く)を演出してあげることですかね。 また、いかにモノをすり替えるか、いかに相手に意図するモノを選ばせるか、機材や「サクラ」などマジックの技術やアイディアは素晴らしいですよね。そしてまた熟練されてくるとトランプの厚さで枚数の解る人もいると聞きました。ある意味超能力よりも凄い世界だと感じますし、欺くためにその時々で相手の想いを無意識にも感じ取っているようにも感じますかね。 そういった点においては超能力と変わらないように感じますかね。 自称「マジシャン」の使用済みテレカの穴を「超能力」で塞ぐという出し物で、私はある時点で一瞬に塞がったよう(マジック的)に見えたのに、ある人はテープを逆戻しにするよう(超能力的)に徐々に塞がっていったと言いました。その人の事前の心の設定(想い込み)によって、同時に同じモノを見ても違って見えてしまうのでしょうかね。不思議?(09.11.9著)姉妹日記: 「崇高」・「気」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.18

気功師の中にも、超能力的なことが出来る人がいたりと、自分の理想とする世界観を構築する上で必要と強く感じた他世界観を取り入れられる柔軟な人も多いと感じます。 私や母も、テレビを見ては「スプーン曲げ」に挑戦してみるのですが、「やっぱりダメだぁ~アハハ~」で終わります。「やっぱり」や「アハハ」では「必要と強く感じた」という事にはならないようです。腕力で曲げた方が速いですし、今は無くても不便も感じませんしね。確かにそこには「出来なくて悔しい」が少なからず存在しますが、それ以上に「二番煎じは悔しい」なんですね。 母も、私に「後継ぎ」を期待していることは、薄々・少なからず感じていますが、ここでもその「二番煎じ」が引っかかって、なかなか受け入れられないのが正直な所です。そんな事に拘っているようでは、その資格にも疑問がありますしね。本来自分の感覚が、「気功」という世界観に便乗している感覚にも強く「悔しい」なんですね。 個々の中には、「自己主張する強い気質」と「他人の主張を理解しようとする弱い気質」が、対極に存在するように感じ、人によってその偏りの度合いが異なっているように感じています。よって、私は、最近「気」の「質」よりも、その「強弱」に関心を戻しています。強弱も質と感じますが・・・いや、やはり私の中では強弱の偏りこそ「気質」ですかね? 別の「気質」の表現として「やわらかい―かたい」・「あたたかい―つめたい」・「きつい―やさしい」などでも表現されますが、結局のところ、いずれも対極の関係にある表現で言い表されている事には変わりませんし、私の感覚からすると「強弱」や「高低」とも、気を習い(意識し)始めたシチュエーション等による単なる表現の個人差の範疇のように感じます。 個人的には、気の感覚的「質」も、その世界観を創った先駆者達による一種の「刷り込み」によって創られるモノと感じます。 あえて「強弱」と別に言うなら「気」の質とは、個人的には「想い」のようなモノで、人それぞれその時々で、同じモノは1つと無いと感じています。そしてその「想い」の強さによって・・・結局「強弱」に戻ってきてしまいましたね。 そこに「関心」(気)が生まれた時、「個性」(姿形の違いも含め)として見分けられていると感じます。関心が薄いモノは同じ様に見えていませんか? 私の今の基本は「他人の主張を理解しようとする弱い気質」に偏り、固まっているようで、「スプーン曲げ」のような「自己主張」型には、少なからず私の中に「嫌悪」・自分の個性との「差別化」的抵抗も感じます。 ただ、そこには自分に無いモノに対する「憧れ」や「嫉妬」の裏腹を感じます。またそれがプライドに触れ、より強く拒んでいるように感じます。そして、弱い気質の裏には、自己主張に対する強い欲求を感じられます。 また、私にとっては、より「柔軟性」が必要と感じます。こうやって、自分自身を見つめ、「文字」や「言葉」に表し、周りに知らしめる作業が、色々自分のプライドに働きかける作用があることも感じています。「スプーン曲げ」は、私自身の「精神的成長」のバロメーターとして、これからも事あるごとに挑戦していきたいと考えています。(笑)(07.9.30著)・・・・・・・・・・ 「我が巨人軍は永久に不滅です!」有名な台詞ですね。ただ、「永久」と「不滅」って・・・意味が重複していませんか? 私は小さい頃からこの手の事がダメなんです。以前にも話したことがありますが、私は人の話を理解しようと話している内容に気を向けるほど理解が出来なくなるんです。むしろ言葉の調子に気を寄せるようにするのですが、前記のような場面に出くわすと、まだ意味も理解する前に、何かどうしようもない「気持悪さ」が何より先に伝わるんです。 今では「意味が伝わればいいか。皆に尊敬される人の言葉だし・・・」と言った具合に「気持悪さ」を抑えられるのですが、小さいときは難しかったですね。他の人の話では、床の模様(線)にテーブルがそろってなかったり、壁に掛かっている額絵がわずかに曲がっていると「気持悪い」とかいう事も耳にしますね。彼らも何だか解らないけど「気持悪い」そうです。 「神経質」(几帳面)とか言う括りの性格ですかね。(私のヤツは「揚げ足取り」ですか?笑)ただ私などは、興味事や必要性を感じない事に対しては他の人以上に面倒くさがりだったり、大雑把と呼ばれる人にも「なんでそんな所に拘るの?」と感じたりします。誰にも興味事には拘り、興味薄いものにはズボラさを少なからず感じますね。皆さんはどうですかね? 以前に、催眠術の番組で被験者が、「どんな感覚なんです?」と司会者に聞かれて、「恥ずかしい事と解っているんだけど、指示された事をやらないと気持悪くてしょうがないんです。」って答えていた事を思い出します。ある意味のルールを刷り込まれた感覚なんでしょうかね。ルールに縛られたり、逆に奔放だったり、人の言うことに素直な気質時に多いように感じます。 少しそれますが、私は常に自分の周りを把握していたいと感じています。元々お酒は強い方ではありませんで、そこそこ呑むと「気持悪い」になります。ただ、「今回は周りに任せて羽目を外しちゃおう!」と割り切ると、酔い(飲酒量)が違ってくるんですよね。そこでもルールに縛られ、自分を抑える性格の影響も感じます。 「性格」って生まれ持ったモノ(遺伝等)っていわれますが、私は違和感を感じますね。赤ちゃんの「人見知り」も耳にしますが、生まれたばかりでもそんな反応があるんですかあ?もっとも「胎教」とかいうモノの研究もあるようで、生まれ出る前から外からの影響を受け始めているのかも知れませんね。 時に「性格」は、それぞれの「想い」の遂げ方・表現方法の違いのようなモノでもあるように感じます。(08.6.6著)・・・・・・・・・・ 自称「潔癖」と「雑」に別れて、芸能人達が討論していました。 今回「潔癖」な側の拘りは主に『汚い』のようでしたが、他にも細かくキチッと物事をこなしているようです。「雑」な側からすると「それじゃ楽しくないし疲れちゃうでしょ?」と言われていました。それに対しては「キチッと生きることはとても気持ちよい」と答えていましたね。少なくともキチッとしないと理屈無く「気持ち悪さ」は感じているようですから。 確かにある意味あれだけ物事に拘って生きられることには時に羨ましさも感じたりしますかね。ただその受け答え等の他人との関りに関しては、むしろ「雑」さを感じられることも少なくなかったですかね。(笑)結局の所、いずれの性格でも興味事には「潔癖」(拘る)であるようですし、同じように「気持ちよさ」(満足)は得られているように感じますがね。 「拘り事」が日常的に目に付く事柄であるか否かもありましょうし、極端な性格の討論で、あまり噛合っていないようでしたが、相手を否定することでお互い自分の生き方(世界観)を正当化する(守る)ような役割もあるのでしょうかね?そして以前血液型でも同じような討論をしていましたが、今回はいずれの性格にも複種の血液型の人間が含まれていたようですね。 私も何か表立ったモノによる気質の分類方法を探ってはいるのですが、全ての人をきっちり当てはめられるモノは無いでしょうね。偏りは感じますが、特に関わる相手によって全ての人に全ての気質の変化は感じますからね。ただ、同じモノに人の関心が集まった時においては、比較的気質がそろうようなことも少なからず感じたりしますかね。(09.9.29著)・・・・・・・・・・ 「俺はお酒に強い♪」 そう言う知人は今日も沢山お酒を呑んで上機嫌です。確かにいくら呑んでも気持ち悪くならないようですが、大きな声を出したり、見知らぬ人にまでちょっかいを出してしまって、トラブルになることも少なくないですかね?私の周りの「酒豪」には、特にお酒が入るとハメを外せるタイプの人が多かったりしますかね?そして比較的女性も多いですかね? また一見真面目で物静かなタイプの人にも「酒豪」が居たりしますが、このタイプの人も結局は自分の意見を強く持っていて、それ(表向きな頑固)を日頃から迷わず表すことができる人が多く、「自己主張」気質という点においては、前記したタイプの人の部類に入るように感じますかね。広い意味で欲求に「素直」という所にも括られる人ですかね? 逆に私の周りにいる「下戸」と呼ばれる人を見てみると、割と他人の目を気にするタイプの人が多く、「常に周りの状況を把握していたい」的なモノを感じたり、酔って醜態(?)をさらすことを恐れるような強い「自己抑制」気質を感じますかね?一見普段から調子の良い人も居ますが、裏には常に周りを伺っている「したたかさ」を感じたりしますかね。 また、他人に先に酔っぱらわれ(ハメを外され)てしまうと、周りや後のケアを考えてしまって不安になって酔えなかったり、騒ぎの中心に入り込み損なって後から追いかけるように酔うのも二番煎じ的な感覚があって悔しくて酔えなかったり・・・とにかくアルコールによって普段から理想とする自分の姿を崩さないように無意識に抵抗しているようにも見えますかね? せっかく欲求の吐き出しの場を与えられたにも拘らず、葛藤しているようにも見えますかね?もしアルコールにそういった自制を外すような力があるとすれば、そしてまた「下戸」と呼ばれる人がそれでも自制を保とうとするような気質の人であるならば、「下戸」と呼ばれる人の方がむしろ「お酒に強い」ということにもなりませんかね? そして前記したストレスなどの精神的なモノの他に、広い意味で「自分の中に溜めているモノを吐き出す」的なことに「酔い」との関係を感じたりしますかね。個人的には汗(熱)や尿など物質的なモノの代謝が活発な人ほどお酒の量がいけるようにも感じますかね。ただそういった医学(科学)的要因に繋がりそうなモノ(体質)の基には気質的なモノを感じますかね。 小さい頃からルールを刷り込まれるように、起こる現象にいちいち科学的要因に繋がる根拠を残し、無意識にそちらに刷り合わせるように・・・時にはそこに「逃げ道」(責任転嫁)の余地を残したり・・・。そして汗や尿などは、周りを気にする気質の人にとっては時に最も天敵となるイメージのモノだったりして、結局そこでまた我慢が発生したり・・・ そしてまた「自己主張」気質・「自己抑制」気質として大別してみましたが、結局のところいずれもその時々で最良と感じるモノを選択しているわけでしょう?見た目の解りやすさや時に体裁に違いは感じても欲求を満たすという点では変わりなく、いずれも「自己主張」になるようにも感じますがね。(10.12.5著)姉妹日記: 「体質」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.11

先日「P-ちゃん」(写真)が逝きまして・・・。 まだ5歳位でしたかね。もっとも、私が深く関り始めたのは1年位ですが。元々野良猫ですが、小さい頃から人間の中だけで育ったせいか、あまり猫らしく無かったですね。餌や水を摂りに行く途中でも、「カワイイ!」という声が掛かると、くるっと行き先をかえて頭を撫でて貰いに行ってましたね。それ以外はよく人を選んでいたように感じます。 私の見る限り、大人しく、理性的で、穏やかな人が好きなようでした。他の猫や動物、そして子供や気の強そうな大人も苦手なようでした。ただ逃げ損ねると、そういった人間に対してもオベッカつかっていたようです。後で裏に来て、大きな溜息を吐いていましたね。そして寝る時は必ず人間のように仰向けになって、好きな人に並んで体の一部を着けていましたね。 よく複数の人間で話が盛り上がっていると、必ずみんなの中央に来てお腹を出してゴロゴロして見せました。抱き上げて膝の上に乗せ、また話を続けると、自分の話題ではない時など特に、私の唇を引っ掻くのですよね。そしてまた他の人間と仲良くしていると、近くの座布団などを、気が違ったように蹴飛ばして、何処かに行ってしまうんです。 外に出掛けるときは、ドアノブに吊るしてある鈴を背伸びして叩くのですが、忙しくてドアを開けてあげられないと、物凄い勢いで鈴を叩きます。それでも無視していると一度呼びに来て、また鈴を叩いて見せます。時に面倒くさがって叩かないのですが、「P-ちゃん、ちょいちょいは?」と言うとしょうがなさそうに叩いて、開けると「ニャア!」と出て行きます。 まだまだ想い出はありますが、世界で一番可愛い猫でしたね。ペットを飼っている人の定番の言葉ですね。(笑)私が感じるに、ペットって容姿もそうですが、飼い主の性格的なモノや、その時の「想い」のようなモノまで映し出してくれるように感じます。そして時に飼い主に留まらず、そこに関る人間のそれぞれの「想い」も映し出してくれるように感じますね。 占いや儀式に遣われる鉱物や道具、また音楽を聞かせると植物の発育が変わったり、掛ける言葉によって水の結晶の形が変わるなど聞きます。色々と体裁良くないこともあり、必ずしも動物と一緒には扱いませんが、時に人間以外のモノは、人の「想い」を映し出してくれるように感じますね。 また相手に伝え辛い想いなど、例えば「・・・なんだよね~P-ちゃん!」を後に着けるだけで角が立たない意思表示になったりしませんかね。自分の想いを伝える「代弁者」や人間関係の「緩衝」的役割を担ってくれたりします。そして時に、人間の色々な想いやプライドまで背負ってくれるように感じますね。 今回の突然の死に関しても、正直私は、私の人には言えないモノを背負ってもらった感覚がありますかね。そして「動物が好きな人に悪い人は居ない」とか言いますかね。基本的に私もそう(純粋を求める的)感じますが、私も含め、動物や植物などが好きな人やそこに関る仕事に就く人には、時に対人に関することで負のモノも感じたりしますかね。(08.8.10著)・・・・・・・・・・ 炎天下に、裏返しでもがいていた大きな亀がそのまま放置されました。 昔、あるドキュメンタリー番組で見た光景です。ナレーションによると、「そこで人間が手を貸して亀を助けてしまうと、自然の摂理に反してしまう」そうです。確かに理屈では、人間の手が入らないものを「自然」(物質的)と定義付けているのでしょうが、そこに人間が居合わせたと言うことは「自然」(変化・流れ的?)ではないのでしょうかね。 「自然」を敬う意味も感じられますが、人間を他の生物(自然)と分けて扱っていることに、逆にオゴリも感じますかね。最近では日本でも打ち揚げられた鯨など、人の手によって助けられたりして、だいぶその価値観も変わってきているように感じますね。ただ一方では捕獲して食べたり、鯨を守ろうとする団体に憤りを感じたりしていますがね。不思議です。 また、崖っぷちに取り残された野良犬に飼い主の申し出が複数あったようですが、町でふらふらしている同じ野良犬たちは駆除の対象にされていますね。そして処理施設に何匹もの動物がいるにも関らず、ペットショップにはお金を払ってでも飼い主になりたい人が何人もいますね。お金が「情」をつり上げることもありましょうし、またメディアの力も不思議です。 繋いで飼うことに抵抗があったり、やはり死別の度に辛い想いをするので、我が家では迷い込んできた猫しか飼いませんが、そうやって私もそこ(命の違い)から目を背けている人間の一人ですね。そして正直私も人間とそれ以外の存在に対しては、何か異なる(気・意識的)質を感じています。(08.8.20著)・・・・・・・・・・ あなたは「猫派」?「犬派」? 私は「猫派」ですかね。あの気まぐれでなかなか言う事を聞かない所がシャクに触りながらも堪らないんですよね。そして時々ふと見せる甘えも堪らなくいいですね。そしてまた何よりも繋いで飼うことに大きな違和感がありますかね。私も自由的な感覚を何よりも大切にしているので、そんな所を映し出してくれているかのようです。無責任さも自覚していますが。 無邪気でよくリーダーシップを発揮する知人は犬を飼っています。そしてその犬がまた良く飼い主の言う事を聞くんですよね。確かにその犬からはそんな扱いに対して嫌なモノを感じませんが、私にはちょっと・・・。そして良く言うことを聞くことに対して「頭が良い」とか言うんですよね。なんでもヒトの言う事を聞くことって「頭が良い」ですか? 確かに人の要求を理解出来る頭の良さも感じますが、時には理解していてあえて「拒否」出来る事が頭の良さにも繋がったりしませんかね。ただこれっていずれも動物には当てはまらないように感じていますね。あくまでも動物を擬人的に用いたときに言えることだと感じます。動物にはそんなモノを越えた、色々な意味で人とは別の気質を感じますかね。 その人の想いを反映したり、欲求をそのまま純粋に満たしてくれたり、厄介な言葉を遣わず無言で代弁してくれたり・・・。「私、あの人苦手なのよね~」とか気軽に人前で言葉に出せたりする人が居ますね。得てしてそんな人と「あの人」には極めて似た気質が多く感じられたりして、時には人間にもその人を映し出す力を強く感じたりしますね。(08.11.10著)・・・・・・・・・・ シラサギが浅い川で餌を探していました。 水中の藻に長い足を突っ込んで、ガサガサとやっていました。餌の小動物を追い出そうと言うのでしょうね。でもなかなか見つからなくて、ずっとガサガサやっていました。そんな光景を見て、初めは無意識に自分の似た体験の心理に置き換えてみたりして、ほのぼのとなったりして笑いもしていましたが・・・あれ?動物って、『野生の勘』とか持ってるんじゃ・・・ 超音波とか超嗅覚・超聴覚・超視覚とかあるんじゃ・・・擬態とか生きるために必要な特殊な進化とか出来る知能も持ってるんじゃ・・・とか想ってしまい、餌を捕るのに手間取っている野生の動物を見て少しガッカリもしてしまいましたかね? 「人間と違って嘘を付かないから・・・」 動物好きな人から時にそんな言葉を聞きますが、人付き合いを苦手にしている人も少なくないですかね。ただ前記の「擬態とか・・・」も含め、獲物を捕らえる手段を見ても「騙し」(嘘)的質のモノを感じますが・・・本能(生きる)に基いた行動で「嘘(悪)」の自覚も無いだろうから人のそれとは違う・・・人のそれも本能に基いていると感じますが・・・ 動物は本能的能力が強く、人間より気質的にも勝り、嘘が無く純粋のイメージも強いですが、そんな光景を見せられると、色々な意味で人間とたいして変わらないと感じますね。ただ私も細かく感じれば「嘘」なども含め、人のそれらとはちょっと異なる質も感じますかね。擬人的に感じさせてくれる気質と言いましょうか・・・つまりは「嘘」か? 「動物園のライオンは目が死んでいる」 何度もアフリカに旅行して野生の動物達を見ている人の言葉です。「運がよければ、ライオンが餌を狩る場面を見られるわよ♪」とも言っていました。自然の摂理とはいえ、正直私は「弱肉強食」的なモノには強い嫌悪感があり、そんな場面は見たくもないですし、野生の動物の目も「生き生きしている」というよりも「飢えている」ように見えてしまいますかね。 むしろ動物園の動物達の目の方が時に「穏やか」にすら感じてしまいますかね。もっとも私も動物好きですが、私の場合動物そのものよりも様々な形をしたモノに惹かれることもあったり、彼等の自慢そうにアフリカ旅行の話をすることへの嫉妬が動物達の目をそのように見せるのかもしれませんがね。別に旅行自体には興味も持っていないのですがね。(笑) その時のその人の心のあり方によって見え方をも変えてしまう・・・と言うよりもその人の想いを反映する力(気)を動物(人間以外の存在)からは特に強く感じたりしますかね。(09.12.8著) ・・・・・・・・・・ 伝染病で多くの家畜が処分されているようですね。 「家畜も家族同然で、それが殺されてしまうのはとても辛いこと・・・」飼い主が言っていました。私はどうせ大きくなったら食肉の為に元気なうちに殺してしまうので、割り切って育てているものと思っていましたので申し訳なく感じました。だとすると毎回出荷の時はそうとうの辛さを感じているのですね?直接殺さなくても私には絶対に出来ない仕事ですかね。 そして感染が広がってしまったことには政府の対応の遅さに原因もあると感じますが、やはり発生させてしまった原因は、結局の所酪農の現場の管理にあるのでしょうからね。そういった所の責任を考えて管理をすればお金も手間も掛かるでしょうし、私には手におえる仕事ではないと感じますので、酪農に拘る人達には感謝と共に尊敬すら感じますかね。 沢山の野良猫に餌付けをしていた人が訴えられていましたね。フン害など衛生面で近所の人達は迷惑を感じているようですね。捨てた当人でも無い訳ですしね。でも目の前にある命はどう割り切ります?猫好きで無く、直接殺される所を見なければ割り切れてしまいますかね?人が死んでも身近で無かったり自分に置き換えなければ気持ちはスルーしてしまえますかね。 中には「家族同然」に動物を飼っている人も居ますので、万が一の時は他人の子供よりも自分のペットの命を優先してしまってもしょうがないですよね?ただそんな人でもいざとなったら他人の子供の命を優先できてしまう・・・?(願)私も動物好きですが個人的には体裁を気にしてしまいそうですし、動物の存在(命)に対してはヒトとは異なるモノも感じて・・・ また私は食べること自体にあまり執着もないので食肉を止めてもいいのですが(ズルい言い方?)、もう直ぐ食肉だけの培養も出来るようですし、そしたら家畜の食肉は止めますよね・・・?遺伝子操作やなにやらで、やっぱり本物の動物の肉の方が安心ですかね・・・動物に感謝(10.7.25著)姉妹日記: 「仕事」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.07

公務員の待遇(労働時間・福利厚生等)に不満の声があがっていますね。 私も民間の建築関係(設計・工場・現場)の会社で働いてきて、1分1秒の生産効率や釘打ち1本の節約のために色々アイデアを考えたりしてきましたので、「パソコン打ち込み/1日数千タッチ」とかいうことを耳にすると腹が立ちますね。ただし、私の働いてきた民間企業では、そういった努力に後になって見返りがあることも少なかったですね。 私は、直接モノを創ること意外に、仕事において作業時間や材料の効率を考える「段取り」ようなモノが好きで、ある意味「仕事」というモノに生きがい(プライド)を置けるタイプでしたね。こういった人間は社会的には体裁がとても良いようで、周りからも「出来る人間」とかいって一目置かれたりして時には「いい気持ち」していました。 一方、家族や趣味に生きがい(プライド)を置ける、極端に言えば「仕事」はその生きがいのための資金稼ぎの手段と考えるタイプの人も少なくないようですね。昔はそういったタイプの人に「嫌悪」を感じていましたが、結局の所、私のやってきたことも「やりがいをもてること・好きなこと」が直接「仕事」(金儲け)にたまたま繋がっているだけだとも感じています。 そしてまた、自分が勝手に生きがいを置いていたことに、「企業のため」とかいう理屈をつけて一生懸命にやってきたことが、後に「見返り」(認められる)となって帰ってこないことに腹を立て、争い、結局やめることになることもありましたね。最近は想いますね。公務員の待遇を民間に合わせるのではなく、民間の待遇を公務員に合わせて欲しいと・・・。(笑) 中堅の女性アナウンサーが若いアナウンサーのキャッキャと楽しむ仕事振りに、「あなた達が羨ましい」といっていました。どうもその中堅の女性アナウンサーは、「厳しさ」的なモノに自分の仕事に対してプライド(満足)を置けるタイプのようです。最近の若いアナウンサーのように、直接的な「楽しさ」が表に出た仕事ぶりには「嫌悪感」があるように見えます。 そして「あなた達が羨ましい」にも本音(自分の若い時の扱いに対する嫉妬など)を少なからず感じますね。私などはどちらかと言えば中堅の女性アナウンサーに強く共感を持てますが、他の見ている側の人達には、本気で(裏の無い)楽しく仕事している若いアナウンサーの姿に共感を覚える人も少なくないように感じますね。(08.6.15著)・・・・・・・・・ 「楽して稼ぐ」 私のイメージに株のデイトレードなど思い浮かびます。モノを作り出すわけでもなく、熱い・寒い中体をつかって稼ぐわけでもありませんね。ただ、全て自分の判断(責任)において損得を目の当たりにしたり、他人との駆け引きでイライラしたり、体裁悪かったり・・・毎日このプレッシャーに誰もが耐えられるものなのでしょうかね? 企業の利益のほとんどが株主に優先的に配当されるようなことを聞きました。生活に余裕なお金があり、株をやれれば企業に対して待遇等の不満も少なくなりますかね。そして株のやり方さえ解って自分も参加できれば、株のトレーダーへの違和感も無くなりますかね。私の感じている「楽して・・・」は、結局自分が出来ないことに対しての「嫉妬」でしたかね。 駆け出しの芸人はギャラが数百円で、とても「大変な職業」と自分達で言っていました。周りの人達からも「大変ね」と労いの言葉を貰っていましたね。彼らは好きなことを仕事に選んでいるわけではないのですかね?多くの一般の人は、他の仕事で苦労してお金を稼ぎ、そのお金を払って好きなことをしているように感じますけどね。少しでも貰えるなら・・・ またプロ野球選手が「スポーツ選手は選手生命が短いから年俸1億円は安い」って言っていました。確かに頑張っても40歳前後で・・・あれ?40歳以降は働かないつもりですかね?庶民的に考えれば一番働き盛りの年代に感じますし、一般的なサラリーマンが稼ぐのは生涯で2億数千万程と聞きますがね。40歳にして安泰ですね。また「嫉妬」入りますね。 ただ、いずれの仕事も結果的にそれを選択し、それを続けられているということは、なんだかんだしょうにあっているということなんでしょうかね。本当に自分に出来ないと感じたものは無意識にも避けていると感じますし、どんなことにも損得が必ず伴っていると感じます。良い意味でも悪い意味でも「隣の芝は青くみえる」ということで・・・。 好きな仕事(天職)に就けて、無意識にも多くの時間や労力を費やしている人を他人が見れば努力・苦労しているようにも見えますかね。またそのような自分に努力・苦労の自覚がない天職もある意味「楽して稼ぐ」ですかね?(08.8.21著)・・・・・・・・・・ 「二世議員は認めない!」 シガラミや癒着まで前世代から引き継ぐので、キレイな仕事が望めないとか?結局はお金や権力に対する「嫉妬」ですかね?少なくとも私はその「嫉妬」を除けば彼等の仕事に何の魅力も感じませんし、少なからず必要な仕事とも感じます。とにかく人数を減らして働く場を減らす方が大問題と感じますかね。これで「シメシメ・・・♪」とか思われているのかな~? 一般でも親の家業を受け継いでいる人はざらですし、広い意味で技術を学ぶにはこれ以上の環境は無いでしょうね。際立って儲けたり威張っていなければ何の不満も出ないのでは?個人的には単に給料や特権を減らせば済むことですかね。生活不安のない財力を引き継ぐ二世でも、名誉や人気を求めて無償でやってくれるならむしろ感謝・尊敬すらしますかね。 また議員に限らず芸能人やスポーツ選手等においても、お金や権力(人気も含め)の恩恵の格差が無ければ、個人的には今はその仕事自体に魅力は感じませんかね。プライバシーを考えれば、とても大変な仕事と感じますからね。逆に言えばそれらの恩恵を一般の人の何倍も受けているならば、24時間労働(プライバシー無し)も仕方無いですかね。 「元お笑い芸人が総裁に・・・(笑)」 そんな言葉が政治家の口から出て、周りからは「職業差別」といった非難の言葉も出ていたようです。ただね~正直私も普段から職種によって「差別」的な想いも少なからず持っていますかね。なぜなら働くなら何でも良いという訳にもいかず、必ず職業を選択していますからね。そして職種によっても基本給が変わってくるのも「差別」的なモノを感じますけどね。 人気のあるモノに人が集り、沢山のお金が動くので人気商売が高給取りになるのは分かりますが、本来お金以外に「人気」(権力)などの恩恵を強く受けられる職種ほど給料は安くなるべきと感じますがね。皆が嫌う仕事をする者こそ高給で有るべきとも感じますがね。結局高給職になったモノが人気職になってしまえば元も子もないですがね。また巡った! そして他人より頑張っている人が必ずしも金銭的にも報われているとも感じませんしね。またそんなに仕事に生き甲斐を望んでいる人ばかりではないでしょうし、それでも他人のお金や権力は妬ましく感じて・・・。(09.9.15著)・・・・・・・・・・ いっそ一人が一生涯に稼げる金額の上限を決めてしまったらどうですかね? 10億円とか・・・。「優秀な人材が育たない」とも言いますが、お金に拘る「優秀」が創るモノにはあまり良い方向性も感じませんがね。急速に便利になったことで失ったモノも少なくないと感じますしね。むしろモチベーションが下がることで新しい人材の入れ替わりも活発になると感じますがね。実際に新しいモノを創り出しているのは新しい世代ですし・・・。 確かに昔の功績はありましょうし、その「名声」により新しい世代が利益を得られていることも少なくないと感じますが、それ以上にその上前を撥ねてながく上位に居座っている「先駆者」も多いんじゃないんですかね?ある程度満足を得られたら次の世代自身の「名声」によって稼げるように上手に移行してあげるのも「先駆者」の責任・能力と感じますがね。 そして高い志の伴った「優秀」がふるいにかけられていくように感じますがね。ただ、こういった「高い志・・・」的人間こそ、方向性によっては本当に怖い人間にもなったりするんですけどね。そして一度高い地位や暮らし・便利を経験してしまうと、それを少しでも落とすことに恐怖や不安も感じましょうがね。今回もどっちつかずですいません。 また政治家が「事業仕分け」とかいって無駄を失くそうとしているようですが、お金が無いと生活できない今のシステムを続けていく以上、例え「天下り」(既に充分な蓄えがある人は別ですが)であっても事業や働く場は確保すべきと感じますが・・・「天下り」に限らず「高給取り」の役人の大幅減給でしょ。そしてまず初めに政治家が自主的に減らしてみせなければね。 いくら「他の人より頑張っているから」とは言ってもこんなに格差ができる世の中のシステムはやっぱりおかしいでしょうし、まして税収が減っているのに公務員が高給じゃ・・・ローンなどの金融システムの数字的マジック等もからんでいるとは感じますが、出回っているお金の総量が減る訳はないでしょうし、理不尽で極端なお金の偏りもあると感じますがね。 民間でも10億円と言えば平均の3・4倍、本来一生寝ずに働いたところで稼げる額でもないように感じますけどね?寝ながらアイデアを考えたり仕事のシミュレーションをしている人もいるように感じますから、10億円で手を打ちませんか?後は稼がせて貰った皆の為に税金に回して貰って、感謝されるその名誉で満足を得て貰って・・・だめ? 特に創造的才能を自分に感じず、せめて金銭的に他人より勝っていないと不安を感じたり、マネーゲームや他人を傷つけるモノでないと生きる満足感を得られない人も感じたりしますが、私などからすれば、わざわざモノを創らなくても人柄だけで世の中を渡れる(直接的コミュニケーション)才能の方が羨ましく感じますけどね。 そして私も全てが全力を尽くしてまでやりたいことばかりではないですし、皆と同等(公平)ではなく、何でも良いから1つは他人より勝らないと不安だったりして、そんな人の立場にもわりと抵抗無くなれる自分も感じますが、体裁も悪く、想いを進めるとキリがないので線引きをします。(09.12.1著)姉妹日記: 「動物」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.07.07
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