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芸術・文化 「デザイン-1」 学生時代、建築のデザインを・・・ 毎回自作の陶器を・・・ 「遣いづらいわね~・・・ 「気に入った家を建てるには・・・ 「デザイン-2」 「今年の流行はチェック柄」・・・ 「自然の美しさには敵わない・・・ 「私にだってできるよ・・・ 「パクリ」・・・ 「価値」 久しぶりに「美術館」に・・・ 子供の画いたような絵が・・・ 「三丁目の蕎麦屋は美味しい・・・ 「○○鑑定団・・・ 「好み」 「有名人の家のデザインに苦情・・・ 「人を見掛けで判断しないで!・・・ 「乗り換えるならエコカー・・・ 最近の女子高生の顔が・・・ ”This is it”・・・ 「ブラボ~!・・・ 「日本」 日本のドラマや映画が苦手で・・・ 優秀なギターリストも・・・ 見えない所まで綺麗に・・・ 日本女性はミーハー・・・ 日本人俳優の評価も・・・ 「漫画」 「(TV)漫画」で情操教育・・・ 「スポ根」モノが好きで・・・ 昔の漫画の実写映画化・・・ ディズニーランドが苦手で・・・ 最近涙もろくて・・・ 「アニメキャラは裏切らない・・・ 「気遣い」 京都では、長居をしていると・・・ 「本当の気遣いとは・・・ 「日本のしきたり」を・・・ 「まったく、うちの嫁ときたら」・・・ なかなか本音って・・・ 「面白い味ですね」・・・ 「バランス」 陶器を作るきっかけは・・・ 片付けが苦手で・・ 休日も制服で遊ぶ・・・ 日本はナメられている?・・・ ’11を象徴する漢字は「絆」・・・科学・非科学 「研究」 とうとう「不死細胞」なる・・・ 「男は必要ない!?」・・・ 「光は1秒間に地球を7週半・・・ 「ホンマでっか!・・・ 「ルール」 「タイムマシン」のテレビを・・・ 「手の温かい人は情に厚い」・・・ 「究極の選択」・・・ 「全ての物質は・・・ 「矛盾」 考古学など歴史の研究に・・・ 「原因が解った♪・・・ 「地球は丸い」・・・ 衝撃映像100連発!・・・ 「自由」には「責任」が・・・ 「モノ-1」 ダウジングがブームに・・・ 「占い」に関わっている知人に・・・ 「自分のせい」・「ヒトのせい」・・・ 「パワースポット」が・・・ 「モノ-2」 私の愛車は、昭和46年型のクラウン・・・ 「ATMでお金が振り込めない!」・・・ 「石に不思議なパワーが・・・ 植物に携わる仕事で・・・ 「宇宙人」を信じますか?・・・ 「この薬を飲めば直ぐに・・・ 「モノ-3」 「財産を投げ出しなさい!」・・・ 「10回払いで買っちゃった♪・・・ 「円高を止めて・・・ 有名人の億を超える義捐金・・・ 「文字」 「言葉」や「文字」から感じる「気」・・・ 「数字」や「図形」から感じる「気」・・・ ラブレターが捨てられない・・・ 「高齢者マーク」を変更・・・ 「言葉」 「クチコミ」という・・・ 政治家達が噛合わない議論を・・・ 最近の若者は言葉が乱れて・・・ 「コジキ」を連発・・・ 「伝達」 「呪い」や「言霊」など、古くから・・・ 「寝る子は育つ」・・・ 2012年人類滅亡!・・・ 「お父さんはダメね~」・・・ 「意識-1」 運転中に考え事をしてしまって・・・ 「気のせいだよ」・・・ 私は優柔不断・・・ 「意識-2」 よく霊を見るという人から・・・ 「怖い話」の季節・・・ 「とても神秘的な体験・・・ 霊は優しいヒトに寄ってくる・・・ 「意識-3」 人の中に複数の「意識?」・・・ 「ミッシング・ツインズ」・・・ 死んだらどうなる?・・・ 深層心理を当てられて・・・ 「病」 特に女性の会話に・・・ 自分の頑張りを認めて・・・ 「理解できる能力」よりも・・・ 索引3へ続く また、一連の日記の原点でありますHP「のあ」/イロヲの世界観もよろしかったら・・・。
2008.12.23

生活 「関心」 生まれて初めて四葉のクローバーを・・・ 「またここにシワができた!」と・・・ 「宇宙エネルギー」・・・ 「嘘から出た真」・・・ 「サーキットの○」・・・ 「想い込み」 「夢」をコントロール・・・ 「健康オタク」という・・・ 食品の消費期限・・・ 「思った通りに・・・ 「理屈」 「愛」の定義って・・・ 「人は平等である・・・ 「無償の愛」って・・・ 「むっつりスケベ」って・・・ 「話せば解る・・・ 「感情」 新しく若い大阪府知事が・・・ 私のシャツは女性モノ・・・ 自分と逆気質のパートナー・・・ 「お姉ちゃんを見習いなさい・・・ 「ワガママ」 TVに出演するような上司を・・・ 有名人達が強いバッシングを・・・ 「頑張って!」という言葉・・・ 皆さんは「寛容」ですか?・・・ 自分のことは棚に上げて・・・ 「無邪気」 いつも周りに人が集まっている知人・・・ 「あっ、ゴキブリっ!・・・ 今日も楽しそうに作業を・・・ 「頭固いわね~!」・・・ 懐メロを聴いていると・・・ 「やっぱりね♪」・・・ 「あまのじゃく」 タバコは吸いません・・・ 「ルールを守りましょうよ!・・・ 気に入らない子が・・・ 「目から鱗が落ちた!・・・ 「納豆は食べられへん・・・ ヤンキーが新体操・・・ 「八方美人」 血液型をよく間違われ・・・ チャーハンが苦手・・・ 「○○さんたらさ~ぁ・・・ 「暴走族はダサい族・・・ 「理由になっていないぞ!・・・ 「プライド」 自分の手で建てた家が・・・ 「夕食何にする?・・・ 「プライドなんか捨てなさい!・・・ 「そんなの赤飯じゃない!・・・ ♪ナンバ~ワンにならなくてもいい・・・ 「信頼」 ためらわず薬をポンっと・・・ 潜水士をやっていた・・・ 初心者運転の助手席で居眠り・・・ 「麻薬は人生をダメにする・・・ 「100%そうかもね?・・ 「あなたは神を信じますか?・・ 「体質」 今日も大食いの○○さんを・・・ 「エネルギー」も曖昧な存在・・・ スポーツ選手の体型変化は・・・ ピアスはしない・・・ ※ あくまでも個人の感想・・・ 「気質」 気功師の中にも超能力・・・ 「我が巨人軍は・・・ 「潔癖」と「雑」な人の討論・・・ 「俺はお酒に強い♪・・・ 「動物」 先日P-ちゃんが逝きまして・・・ 「猫派」・「犬派」?・・・ 炎天下に亀が放置され・・・ シラサギが川で・・・ 伝染病で家畜を処分・・・ 「仕事」 公務員の待遇に・・・ 「楽して稼ぐ」・・・ 「二世議員は認めない!」・・・ 賃金の上限を・・・ 「子供」 小学校前の兄弟が・・・ 「息子が車両事故を・・・ 「30歳にもなって・・・ 逆子なんだって・・・ 「子供は国の宝」・・・ 「両親」 母の作品を・・・ 父は出不精で・・・ 「泣く子はいね~か~!・・・ 「尊敬する人物は両親・・・ 「私」 「生きる目的」が探せなくて・・・ 色々と日記にしてみて・・・ 「独身貴族」って・・・ 「自分が解らない・・・ 「不思議」 「解らない」と不安に・・・ 「解った」でも不安に・・・ 「男性も肌ケアした方が・・・ 「1・2・3・ハイ消えた!・・・ 「崇高」 気功師にも「精神的成長」が・・・ 僧侶が「精進料理」を・・・ 「神様」ってどんな存在?・・・ 「勝ち組・負け組」も・・・ 女神様は嫉妬深い・・・ ご利益がありますように・・・ 「気」 身近で「気」という世界観に関わり・・・ 感覚によって世界観が構築され・・・ 「真の気」ってどんなモノ・・ 大病をきっかけに・・・ 「想い」 「信じる」と聞いて・・・ 頭で理解できない力に・・・ 自分以外の世界観を・・・ 「悟り」 感じ方の「ルール」は・・・ 全ての「想い」が存在するために・・・ 一人の中にも・・・ 存在を感じあう・・・ 後のご挨拶 「有難う御座いました」 おつかれさまです ’07・・・ おつかれさまです ’08・・・ おつかれさまです ’09・・・ おつかれさまです ’10・・・ おつかれさまです ’11・・・ 索引1へ戻る また、一連の日記の原点でありますHP「のあ」/イロヲの世界観もよろしかったら・・・。
2008.12.22

「スポーツマン・シップ」という言葉がありますね。 私が持っているこの言葉のイメージは「正々堂々」ですが、いくら自分との戦いとは言っても大抵のスポーツは他人と競い、形上相手を負かす事で成り立っているように感じています。それには相手の考えを読んで相手の嫌がる事をしたり、裏をかいたり(騙したり)といった能力にたけている者こそ優れたスポーツマンだと感じ、その精神とはズレを感じます。 また、負けた相手の目の前でのガッツポーズなど喜びをあからさまに表現したり、怪我をして試合に出場することは、相手からの気遣いを考えれば避けることがその精神のように感じます。ただ、そういった気質が集まり、またそういった気質に陥りやすい環境だからこそ、「スポーツマン・シップ」をいちいち掲げる必要があったのかもしれませんね。 「勇気」は、その人の気質によってその形を変えるように感じます。怖くて喧嘩できない人にとっては喧嘩をする事が単純に「勇気」だと感じますし、逆に喧嘩っ速い人にとっては喧嘩を我慢する事が「勇気」だと感じます。前者は単純に争い事に対する「恐怖」、後者は「弱者」に思われる事に対する「恐怖」に対して立ち向かう行為だと感じます。 まさにスポーツ選手は「勇気」の塊の様です。自分に自信のある人なら、あえて他人と競う必要もないでしょう。本来、弱い気質を持ち合わせた人ほどスポーツにその存在の価値を求め、そして、優れたスポーツ選手になっているように感じます。 人は、自己主張する時「気」を強く(高く)し、他人の主張を理解しようとする時「気」を弱く(低く)していると感じます。 前記した「相手の考えを読んで・・・」は、もともとは、弱い気質の人の才能のように感じています。そして優れたスポーツ選手は、その強弱(高低)の切り替えにたけているように感じます。(07.9.16著)・・・・・・・・・・ 「気」を弱くすると、他の「意識?」(想い)に繋がりやすいと実感しています。 今スポーツで活躍している人達の中にも、ある程度自分の中に確信を得るまでは精神面で強く親や他人(コーチ)・モノ(ゲン担ぎや時には薬)のサポートを受けていたり、また子供の頃に各立場で「いじめ」などに関わりがちだった人も少なくない様に感じます。そして、奥さんが年上だったり・・・これには、より自分に集中できる環境であることも感じられます。 また、弱い気質の根底にこそ高いプライドを感じられる事が多いです。ある意味プライドが高すぎるため、それが傷つくのを恐れ、気が弱くなるのかも知れませんね。 そして弱い気質の人が確信を得た時、他人が揺るがす事が非常に難しい強い世界観が出来上がると感じています。「優柔不断」な人ほど完璧主義であったり、根は頑固だったりするように感じます。 「無邪気」という才能を持った気質の人が時々気まぐれの様にやってきて、そういった弱い気質の人達の高いプライドを打ち砕いていってしまうことがありますね。弱い気質の人が大切にする強くなるプロセス(世界観)など気にしないで、とにかく楽しんでいってしまうんですよね。ただ誰の根底にも少なからず「無邪気」という才能は感じられます。 そして時々顔を出しては、想いも寄らない成果を上げているように感じています。また私には体育会系の人が営業職においても活躍しているイメージが強くあります。今何かと騒がれている元官房長官もああ見えて、なかなかのスポーツマンだったんじゃないですかね。気功に関っている私には最も好きなジャンルですし、恐らく母も負けていないと言うでしょう。 子供の頃はクラスで選手に選ばれ、強いプレッシャーを感じると、よく試合前に体調を崩したり怪我したりするんです。そうすると負けた時の言い訳(特に自分自身に対しての)が出来たせいか、プレッシャーが弱くなって、逆に良い結果が出たりするんです。そして今となって考えると、さぞかし相手の選手や審判はやりづらかったでしょうね。(笑)(07.9.17著)・・・・・・・・・・ 「ハングリー精神」も、なかなか最近は耳に遠くなったように感じますかね。 昔は特に経済的に恵まれない人など、「お金」や「見返してやる!」的卑屈な想いなどが成功を手に入れるためのモチベーションのイメージが強かったように感じますかね。そして上り詰める過程での練習や、やっている事自体に楽しさ的なモノも感じられなかったり、目的を果たしてしまうとモチベーションも長続きしにくかったりするイメージもありますかね。 今の優秀な才能を持つ若い人達などをみると、逆に比較的経済的に恵まれた家庭に育った人も少なくないように感じますかね。金銭的余裕は気持にも余裕を創り、リスクのある仕事の選択もし易くなったり、求めるモノは同じ名誉的でも「見返してやる!」とはちょっと別質の「褒められたい」モノが、より直接的なモチベーションになっているようにも感じますかね。 また最近の才能のあるスポーツ選手達は容姿も美しい人達が、また例えば高学歴のお笑い芸人などが増えてきているように感じますかね。彼らは小さい頃から褒められる「気持良さ」を知っていたり、元々目立つことも好む気質でもあるのでしょうから、スポーツやお笑い的なモノでも体裁よく目立てると知れば、才能を伸ばし易い気質でもあるように感じますかね。 「卑屈的ハングリー」よりも比較的悲壮感も感じず、むしろ時には到達点も高いように感じますね。少子化なども小さい頃からチヤホヤ(褒める)できる要因にもなりますか、「楽しめる」的気質が根底にあり、上り詰める過程において辛さの感じ方も変わってくるのでしょうかね。比較的自分の中に「限界(到達点)」を築きにくいようにも感じますかね。 私が子供の頃は、勉強ができなかったり、容姿が良くない人間が活躍する場がスポーツやお笑いでもあったようにも感じますが、今の美しい容姿の才能豊かな選手達はちょっとズルい気もしますかね。他でも十分活躍できるでしょう。(笑)そして今でもスポーツ選手や芸術家には言葉による直接のコミュニケーションが苦手な人は少なくないように感じますかね。 でも営業職に適している元スポーツマンも少なくないか?またパターンにハメたがる悪い癖が出ました。どんな分野にも様々な気質(世界観)が存在して始めて「切磋琢磨」(競い)が成り立っているようにも感じますからね。(09.10.1著)・・・・・・・・・・ 「卑怯者!」 ドラマを見て知人が言いました。格闘家役の主人公が素手であるのに対して、相手役が武器を使って喧嘩を挑んでいました。確かに素手に対して武器を使うのは「正々堂々」ではないような気もしますかね?ただ喧嘩となればその手段より結果が問われるように感じますし、時には卑怯な手段で出来る限り相手に悔しい想いをさせて勝利することにその意味も感じますかね。 ただ、もし格闘の素人だった時、格闘経験者に対して素手で戦うことが本当に「正々堂々」(公平)と言えますかね?例えば相手は好きで日頃から体を鍛えているのに対して、自分は暴力的なことを嫌い、生涯において格闘的なモノを避けてきた場合に、そういった場面に出くわした時に素手で身を守らなければならないのですかね?肉体が武器の相手に対して・・・ 私の父も空手をやっていて、小さい頃はよくイタズラをしてはこっぴどくやられましたね。自業自得を自覚していますので、そのこと自体に不満はないのですが・・・私は格闘技自体はとても好きで、必ずTVなどは見るのですが、自分がやることには抵抗がありましてね・・・過去の父との関わりからくる恐怖的トラウマや、相手に怪我をさせることも怖くて・・・ 自分が体力的に強くなると、他人に優しくなれる・・・弱さから相手に「媚びる」ような優しさはどうかと感じますが、「力」的裏打ちがある優しさもちょっと違和感がありますかね。今の私は体力的な弱さの立場もありますが、元々の気質的にどちらかと言えば前者を選択しますかね?また、格闘家などは普段はそういった技術を封印しなければならないようですが・・・ 私が力を身につけたならやっぱり最終的には遣いたくなっちゃうので止めておきます。(10.11.12著)姉妹日記「スポーツマン-2」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.21

先日TVで「超能力の有無検証」番組を見ました。 私としましては、久しぶりのこのジャンルの番組でしたが、相変わらずマスコミの興味は「有無」に有るようですね。と言いながら私もすごく興味をそそられ最後まで楽しく見入ってしまいましたね。(単純にこのジャンルは楽しくて良いですね) 皆さんは能力者と否定派A氏とどちらにその存在感を強く感じましたかね?私はA氏の方ですが、あの様な自己主張の強さを競うデモンストレーション的なモノの場合、「真実は一つ」とする今の主世界観においては「気」(世界観の信念)の強い方が弱い方を淘汰する性質がある様に感じています。そして強さが拮抗した時、矛盾の形をとって現れると感じます。 この検証方法には、A氏側のアイデアを強く感じます。またこの検証には、A氏が負けた場合「$100万を支払う」という提示がなされています。そこには、自分に気合を入れ、同時に少なからず「能力者は金目当て」といったイメージを与える事で視聴者の「気」をも味方につけ、能力者にプレッシャーを与える力を感じます。 増して今回の能力者の、「他意識?」(彼の世界観で言う「精霊」)に繋がると思われる能力の場合、一時的に自分の自己主張する「強い」質の「気」を鎮め、相手の主張を理解しようとする「弱い」質の「気」を必要とする様に感じます。 結局能力者が負けてしまいましたね。A氏の「負けられない」と言った強い「意識」に能力者が繋がったと考えれば、今回の結果は、ある意味彼の能力を証明した事になりますね。捉え方次第でどうにでも解釈出来ますが、自分が今まで見ていた景色(今の自分の世界観)を変えるヒントがそこにあると私の経験から感じます。 科学的に検証されてしまうと、全て科学の「世界観」の一部に取り込まれて、せっかくの「他世界観」の持つ力の特性を失う様に感じます。「不思議」(≒無知)はその人の世界観(理屈)からハズれるモノとも比較的易く折り合いを付ける強い資質と無限の可能性を感じます。 そしてA氏や他の否定派の人達と、出演している肯定派の人達の間には同じ質の「気」を感じる事が多いですね。お互いにその自己主張する「気」の強さにある種の「嫌悪感」を覚えている様で、「プライド」(世界観)のぶつかり合いの様です。 ただ私は、否定派の人達やマスメディアにこそ「不思議な世界」を激的に切り開いていく大きな力を感じ、期待しています。 色々な方向・立場(世界観)から物事を見て感じる事が「他意識?」に繋がって行く様に感じられ、色々な景色を見せてくれます。またいわゆる「気が弱くて優柔不断」な人は、無意識にそれをやっている様に感じられます。「気」を弱くすると「他意識?」と繋がり易くなると実感しています。今回の陶器は同じモノを別の角度から映してみました。(07.6.20著)・・・・・・・・・・ 超能力等には強く否定的な立場の芸能人が、超能力者と言われる人達と変わらず見事にスプーンを曲げていました。 後に彼がタネ証しをしていましたが、能力者が曲げるのを傍で見ていて「腕力・握力」で曲げる「コツ」を掴んだそうです。ちょっと能力者に対しての皮肉も感じますかね。ただ一緒に出ていた司会者の男性は、「腕力・握力」を遣っても曲げるのに苦労していましたね。おそらく本人も「コツ」を掴む前と後では、力加減に変化を感じているように感じます。 私は「腕力・握力」で曲げたか「超能力」で曲げたかという事よりも、「コツを掴む」(確信を得る)ことにより、広い意味で「力が強くなった」(力が変化した)ことに惹かれてしまいます。スポーツ等で練習を積むことによって、自分自身に上達した確信(コツ)を得て、記録が伸びていく(力が変化していく)ことに類似しているようにも感じます。 見方を変えれば、スプーンを曲げられないでいる我々多数派の人間の方が、小さい頃からの教育などによって刷り込まれた本来柔らかいモノを固くして使う超能力を無意識に遣っているのかも知れませんね?(笑)(08.6.22著)・・・・・・・・・・ 「地球に優しい」としてエコが強く叫ばれていますね。 知人は早速エコカーに乗り換えましたが、高速道路1000円乗り放題も助けてか、走る距離は乗り換え前よりもかなり増えたようです。ガソリンの消費やタイヤ等の消耗も増えそうです。私の家もトイレを節水タイプの新しいモノに変えましたが、自動洗浄やウォシュレット等の多機能にもなり、下手な使い方をすると結果的に電気・水量も増えてしまいそうです。 補助金などが国から出てエコ的なモノに買い替えも進んでいるようですが、結局そこで消費が進んだり、エコ商品に必要な新素材が品薄で、その確保のために新たな環境破壊が進んでしまったら元も子も無いように感じますね。少なくとも私に限っては「地球に優しい」という言葉によって自分をも誤魔化して消費もし易く、遣い方も雑になったように感じますかね。 「地球に優しい」は、自然への思いやりや人間のエゴに対する自身の戒めなど『崇高』も感じますが、地球(自然)は環境が悪くなったなりに生きて(変化して)いくだけでしょう?人間以外の存在にも自分や家族・仲間を思いやる能力があったとしても、「自分の種を守る」という概念を持ち合わせていますかね?結局の所、「困る」と感じるのは人間自身でしょうね? まして他種(種の保存)をも思いやれるのはヒトのみが持つ『能力』のようにも感じますが・・・もっともそれが大切(崇高)なモノなのかもしれませんがね。こんな事を客観的(他人事)に言えてしまう私にはそんな『能力』があるのかも疑問ですがね。そして個人的には人間以外の存在に人間の想いを投影(具現化)する質の「気」を強く感じますからね。 反エコ的人間の本音には、悪い事と思っていないにしろ自分達だけ得や楽してきた負い目なども少なからずありましょうから、人間以外の存在(自然)にも負な想いは投影され易いと感じます。反エコ的人間の想い・営みに嫌悪を感じ、「地球に・・・」や自然の姿に人間の想いを投影して体裁を整え、エコ的人間も自分の想い・営み(好み)を通しているように感じますかね。 時に「人間が地球(自然)を救う」という『崇高』も、形を変えた人間のエゴのように感じますけどね。私も以前はエコ派的立場に共感でしたが、それが主流(威張る)になると反発したくもなりますかね。そして結局エコ派にも反エコ派にも付けず、事が進んで行かないもどかしさも感じたりして、どちらでも良いから偏れる生き方を羨んだりもしていますかね。 植林したりして直接のエコ活動に参加されている人達には負い目も感じますかね。そして活動の内容に限らず「やりたい事」・・・まして体裁まで良いモノが見つかっているということには嫉妬も感じますかね。ただそれが主流になると反発したくもなり・・・常識でいう「正義(生命)」が必ずしも私の生き方の選択の基本にはなっていないようです。 そして「幸せ」自体よりも「不幸」な所から「幸せ」に移っていく過程の「やり甲斐」を人生に欲していたりする人も少なくないと感じますかね。また時に、「エゴ」と「崇高」に因果を感じますし、「エゴ」にも生きて良く上で大切な役割も感じますかね。その存在の是非ではなく、お互いに本気で嫌悪を感じ、拒絶し合うことも生きる営みの1つなのでしょうかね。 どんな方向であれ、想いが偏って増え、強まって行くことが具現化(現象)に繋がるようで怖さも感じますかね。よくある諭し的表現にもなり、ドライな自分自身に気持悪さや怖さも感じますが、どうか皆に嫌われませんように・・・(09.12.7著)・・・・・・・・・・ 環境問題改善の話し合いも一向に進展しませんね。 先日ある番組で、少し経済界寄りな評論家のこれ以上の経済の締め付けは破綻をもたらすような発言に対し、有名な司会者が「地球が危ないのにそんなこと言っている場合ではないでしょ!」といったような趣旨の発言をしていましたかね。その司会者は、ある宗教団体とも関わりがあると聞きましたが、正義感のある言葉にも聞えましたし、評論家もタジタジでした。 さてここでその二人の立場を借りまして、私なりに議論を進めていきたいと想います。評論家:「失礼ですけど、あなたは一般庶民より良い暮らしをしているように見えますが、庶民程度まで生活水準を落として、浮いたお金を貧しい所に回すような考えはお持ちではないですか?」司会者:「世間がそうなれば、勿論その覚悟はありますよ。」評論家:「周りがやらないと出来ないのですか?」司会者:「私だけやっても意味ないと感じますし、不公平でしょ。」評論家:「まさにそれと同じようなことが世界規模で行われているのではないですかね?」司会者:「・・・」(09.12.20著)・・・・・・・・・・ 「生態系を壊すな!」 最近では海底油田施設の事故など、またヒトによる外来種の持ち込みなど、ヒトの営みによって生態系が崩れ、今でも多くの種が絶滅の危機に瀕しているようですね。他の動物のせいというよりも、どうもヒトが増えたことに一番大きな原因があるようにも感じますかね?他の動物が増えすぎると駆除もするのに、子供を増やし、高齢者の手当てを厚くしようと・・・ 戦争などによって自ら、また逆に天災などの自然の力によって間引かれていますかね・・・個人的には全ての物事にヒトの「想い」的なモノの関りを感じますので、これら自虐的な表現には少なからず真理も感じますが、おそらく他種の保存を意識出来るのもヒト特有の能力と感じますし、「神」的目線に嫌悪も感じますかね。何より体裁も悪いですし・・・ また何度も豪雪や台風などの自然災害や基地などの事故や騒音の人災に見舞われているにも拘らず、「故郷」的なモノに拘りますよね?私はその感覚が無いので羨ましくもあるのですが、例えば自然を守り、無駄な設備(道路や公共施設等)を減らす名分で、都会の住宅も余っているようですし、国の補助の基でヒトが一所に集って暮らすって言うのはどうですか? 私はあまり他人との関りも得意としませんが、かえって人混み(都会)の方がプライバシーを得られ易いとも感じますし、正直日常的には自然の美しさとかを欲してもいないので名分無しでもOKですがね。基本は都会で暮らして、欲しくなった時だけ自然に出向けば良いかなって・・・田舎でなければ得られない生活となると、「自然を独り占め」的感覚ですかね? それ以外はヒトの「心がけ」次第で全て都会でも得られそうな気もしますからね。ただその「心がけ」がヒトとして一番難しいことのようにも感じますけどね。ヒトの関りがもう少し柔らかくなる方法でも見つかればね。個人的にはヒトの歪にも生きていく上で欠かせないモノも感じますかね。 そして単に自然(物質的)を守るためにはそこからヒトを遠ざけることがベストと感じますが、その自然に価値を当てているのはそのヒト自体でありましょうし、そのヒトが自然から離れてしまったらその価値を誰が感じていくのだろうかというジレンマも残してしまいますね?(10.5.22著)姉妹日記「立場-2」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.21

私は学生時代、建築のデザインを学んでいました。 当時の教授が「できるだけ多くの他人の作品を見なさい」と言っていました。その頃は、「他人の作品を見て良い所を取り入れ、自分なりにアレンジしてより良いモノを造る」というように捉えていました。そうやって出来た作品は、確かに他人受けが良いのです。ただ、自分の中には何か「負い目」のような感覚が残っていて、素直に喜べなかったりするんですね。 やはり元は「人真似」ですからね。元々雑誌に取り上げられるような作品から引っ張り出してきたものなら、受けが良くて当たり前ですね。自分の中で「いいなぁ!」と感じたモノは、元々自分の中にもある感覚のように感じています。むしろ、「なんだコレ?」と感じたモノに、「やられた!」という感覚が残るのです。 他人には受け入れられない感覚って、本当の意味でその人だけの感覚に近づいているように感じ、今は教授の言う「できるだけ多くの他人の作品を見なさい」は、「他人と同じものを作らないように」と捉えています。多くの他人の作品をみて、自分の中にある同じような感覚を削ぎ落とし、既に生まれた時点で存在する自分だけの感覚を探し出す作業とでもいいますか。 やはりモノを作る時、「皆に認めてもらいたい」とも想うのですが、それとは別に、自分だけのモノも追い求めてみたくなるんです。自分だけの感覚・・・自分だけ満足できて、他人には理解できない感覚・・・。それを考えると、モノ作りが辛く、ついつい遠ざかってしまうのも事実です。まさに、一生をかけての作業のように想います。 それが出来た時に生きている意味も失いそうで、「悟り」とは究極の自己満足とも感じてしまいますかね。(07.9.22著)・・・・・・・・・・ 毎回自作の陶器を一緒に掲載しまして、時々褒めていただいて、嬉しく想います。 ただ私のこのモノ作りに関しては、前回に記したものとはまた別の意味合いもあります。モノ作りを生活の糧にしていると、買って頂く為に少なからず「他人受け」を気にしますかね。そういったモノ作りを続けていると、どうしてもストレスが溜まってきます。そういった時に、機能やデザインの「他人受け」を、一切気にしないでモノを創ってみたくなります。 自分の中に溜まった「ワガママ」を吐き出すような、いわば排泄的なモノ創りなので失敗もなく、ある意味とても気持ちよいです。いくらでも創造できますね。前回の「自己満足」とは、また別の性質のものですね。ただ、それは、他人の評価を気にしなくても良いので、大概は頭の中で完結し、それで満足してしまいます。 よって毎回掲載している作品のように形にするには、例えば誰かに貰って頂くといったような「名目」が必要で、そこには、少なからず「褒めてもらいたい」の質が入っていますね。(笑)この日記も少なからずそういった質のモノである自覚はあります。また、自分の作品が、それを遣う人それぞれの感覚で、どう遣われ(変化し)ていくのかが、とても楽しみです。 いわゆる他世界観を楽しむためです。ゆえに後期の作品は、モノを蓄える機能だけ備えて自分の感覚において上下裏表が無いように(全て正面)作っています。家を設計するときも、なるべく住む人が、その時々のシチュエーションに合わせて変化できる事を第一に考えていました。私自身が飽きやすく、また何度でもその家に訪問したくなるようにですね。 ただ、残念なことに日本人は、得てして技術的な事に趣を強く置くようです。「本当に良いモノは一つ」とか言ってですね。また、日々の生活に追われ、なかなかその様な余裕もないようです。事実私がそうですからね。(笑)(07.9.23著)・・・・・・・・・・・ 「遣いづらいわね~」 デザインを優先してしまって、本来の機能を損なってしまったり・・・。建築など特に機能を蔑ろには出来ませんね。むしろ日本では、機能を優先したモノが評価され易かったりしますかね。いわゆる「機能美」と言うヤツですかね。機能を突き詰めることで想わぬデザインが生まれたりもしますが、最終的には画一的なデザインになってしまうって理屈ですかね? 一つの考え方として、まずデザインを先に生み出して、そこに機能を持たせるために突き詰めるアプローチもありますかね。確かに前記に比べ機能は落ちますが、「自分だけのモノ」的な、機能にも勝る満足感もあったりしますかね。時に「遊び心」とかいって「贅沢」を味わえたり、また時に「これどうやって・・・」とか遣い辛さにより会話がうまれたり・・・。 また曲線って、わりとその人それぞれの美的センスが出易かったりするんですよね。ただある意味完成度(個性)が高く、他のモノとの相性が悪かったり、後に他人が手を加えようとしても難しかったりするんですよね。直線や完全な円、45や90度の角など、ある意味それぞれは個性が薄いモノの方が変化の応用も容易で、遣い方の個性を生んだりもしますかね。 ただ日常的に遣うとなると、いずれも鬱陶しかったりするんですけどね。そして周りが皆複雑に個性を主張し始めると、逆に単純に無個性なモノが「個性的」になってしまいますけどね。(09.5.12著)・・・・・・・・・・ 「気に入った家を建てるには2・3軒建てないと・・・」 私も家を建てる時、色々とやりたいことが膨らんでしまい、まとまらず、結局水周りを除いて1・2階総吹き抜け(大空間1部屋)の建物になってしまいました。住みながら追々手を加えていけばいいかな・・・って感じで後の改装の為に今も所々体裁良く下地も残しています。個人的には建物の骨(躯体)にこそ美しさ(機能・構造美)も感じたりしますので・・・。 また家具や階段にまでキャスターを付け、急なレイアウトの変更にも対応できるようにしています。そしてそれらが必要の無いときは全て無くせたり、また他のモノに転用出来るように分解・変形出来る事を基本に作製しています。私は集中は深い反面飽きっぽく、欲張りで多機能にしないと満足もできないのですよね。「一石二鳥」とか大好きな言葉ですね。(笑) 大概のモノは自分で造りますが、モノを購入する時は本来の用途は無視して選んだり、逆に全く用途のないモノにも惹かれたりしますかね。他人の思惑に従わされているような感覚に嫌悪を多少なりと感じたりもすることもありますかね。また造っている最中にはすでに次のことを考えているので計画変更もざらで、他人に制作を依頼する事はほぼ不可能です。 と言うよりも、申し訳なくて変更を頼めないので自分でやってしまっている所もありますかね。いざ住み始めると面倒になって、せっかくの多機能も宝の持ち腐れになりがちですがね。(笑)(09.12.10著)姉妹日記「デザイン-2」 / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.18

車を運転中、思わず考え事をしてしまって、気が付いたら目的地の近くまで来ていた・・・ なんて経験が皆さんは無いですかね?その間、道を曲がったり、信号で停止したりといった運転の諸作業はどうやって行われたのでしょう。ちなみに私は、そんな危険な運転はしませんがね。(裏切り・笑)私の頭の中は、常に色々な映像が次々に現れ、かぶさる様に瞬時に変化しています。 視覚を邪魔するようなモノではないのですが、とても頭の中が煩くてしょうがありません。確か坂本龍一氏が、常に頭の中に音楽が流れている様な表現をしていたのを記憶しています。ここで、少し私の母に触れておきます。 基本的に自分から話はしたがらない母ですが、施術中の患者さんの質問に対してだけは、何か自分の心に問う様にして答えを導き出し、伝えていました。患者さんはその答えに妙に納得し、その時点からみるみる症状が良くなって行った様に見えました。まるで「こう言ってくれたら気持ちを直す方向に向けられるのに」と無意識の中で想っている事を言い当てた様でした。 私が、「気」の施術において患者さんから伝わって来る感覚に、1. その人のプライドに触れないような間接的(比較的表層的)なモノ2. 直接その人のプライドに触れてしまう(深層的な)モノとが在ります。前者は、いわゆる「病気」やその「原因」などに直接関わるイメージですが、母は主にここに繋がっている様に感じます。後者は「寂しい」とか「悔しい」などの感情に似た感覚ですが、私は最近ここばかり強く伝わってきて少し困っています。子供の頃の感覚が戻って来る様な感覚です。一度後者に繋がると、前者には繋がり難くなりますね。 そして、初めから後者に触れると大概はプライドを傷つけ事態を悪くしてしまいます。私は経験ありますが、人と話している時、特に自分の都合の悪いプライドに触れる話で、核心(本意)をつかれたと(後から考えると)感じる時に限って、ひどく怒ったりしていませんか?ただ、子供の頃の感覚とは少し違った感覚もあるのですよね。 施術中に伝わってくる「寂しい」や「悔しい」の「気」は健気で、いとおしく感じられるような心地よいモノです。普段の生活の中で他人と関わる時の「気」は、同じ人であっても必ずしも心地の良いモノだけではありませんね。(07.7.22著)・・・・・・・・・・「気のせいだよ」 「気のせい」というと、一般には「勘違い(錯覚)」的意味に遣われていますかね?少なくとも「気」の世界観においては「気の影響で・・・」的に扱われていることが多いように感じますかね。ところで皆さんは、意識(関心・想い等)が別の所に向いてしまって、痛さや痒さなどの症状(感覚)が一時的にも消えてしまった経験の一つも無いですかね。 そして医者に再検査して貰ったら、病気が治っていたり、良い方向に向かっていたり・・・といった不思議な経験は無いですか?むしろ再検査して変わっていなかったり、悪くなっていたりの方が不思議ですかね。原因が在るにも拘らず、一時的にも症状が消えてしまったと感じるのですからね。そもそも症状(感覚)って何によって創られるのでしょうかね? 今流行の脳科学などで言えば、症状が消えたことが脳の引き起こす「錯覚」とか言うことになるのでしょうかね?脳内物質等の発生のメカニズムの研究は進んでいても、その物質が何故「錯覚」を起こすかという根本の解明はなされていないようにも感じますがね?また時に脳が「偽」を見せる(感じさせる)のなら「真」の判断はどうなされるべきなのですかね。 その時々で利害が一致した多数派の似通った感覚ですかね? また例えば初めて同じ色を同時に見て、そこでその色が「赤」であると約束を交わし、後に同じモノを見せればその約束により皆「赤」と答えるのでしょうが、それが皆同じ「赤」を見ている証明になるのでしょうかね?極端に言えばAさんの「青」がBさんの「赤」だったりしていることは無いという証明になっているのですかね?色の好みも人それぞれですし・・・ 「色盲」とかもあったり・・・まして焦点(意識)の反れている視界にあるモノに関してはとても曖昧なように感じますがね。意識が反れて症状を感じなかった事実は物質的な立証も蔑ろになっているようにも感じますが、「錯覚」とか「偶然」・「個人差」のように科学の逃げ道的に遣われるモノにこそ大切(真)なモノが在るような「気」がしますがね?(09.11.12著)・・・・・・・・・・ 私も「優柔不断」な方でしてね・・・ 自分一人を考えれば答えは直ぐに出ているんですよね。ただ複数の人が絡んでくると、全ての人を満足させられる答えが見つかるまで答えられないんですよね。それぞれの相手の立場になってシミュレートしている感覚ですかね?そして私の行為により一人でも不満を感じる人が出るようなら、なにもしない方がマシ・・・的に大概は心が収まってしまいますかね? 一部の人だけが幸せになったことで他に不幸のシワ寄せが行くのであれば、皆で不幸でいようよ・・・的に。大勢で背負えば不幸も少しは軽減できそうですし、皆が公平に不幸であれば、それは不幸では無くなってしまうようにも感じますしね?ところで皆さんも自分の中に複数の自分が同時に現れて、初めの自分の判断の邪魔をするような感覚は無いですかね? 「多重人格」と言う症例を聞きますが、一人の人間が瞬時に別の人間の様に変わってしまうようですね。ただそれって複数の人格にスムーズに移行できている訳で、本人にも演技(嘘)の自覚も無いようですし、個人的にはより一人の人間的感覚ですかね。中には前世・言語等も含めそれぞれの過去の事実と合致する記憶を持っていたりする例もあるようですが・・・ 私は今ある「輪廻転生」的世界観そのままの肯定者ではありませんが、前にも少し書きましたが、科学で言う「死後は無」的世界観にもいまひとつ違和感がありましてね・・・そもそも「無」と言うモノ自体も感覚的に理解できず、生まれてから今までの記憶でさえほとんどが忘れ去られている訳で、生まれる前には何もなかったと言いきることも難しく・・・ ただヒトは追い詰められると並外れた能力を発揮するようで、そこに記憶力も含まれたりして・・・例えばサヴァンと呼ばれ、一度聞いた音楽や風景などを一瞬に記憶してしまう人達がいたりして、過去に何気なく目にしたモノが突然よみがえったり、ましてヒトは強い「想い(自己主張や自己防衛等)」により、物質や現象をも創り出してしまう力も感じますかね。 そして言葉なしで相手にそれを伝える力も感じますし、肯定的研究者には「共鳴」的力も芽生え易かったり・・・ヒトは都合良く(無意識に)記憶も書き換えてしまう能力も感じますので、どこまでが本当の過去の記憶なのかは自分でも解らないと感じます。そもそも「今」から振り返った記憶は、詳細まで見ればほとんどが今創ったモノのように感じますかね。 また「悪魔憑き」や「催眠術」なども、普段から開放的な人は勿論、根は素直で普段我慢強く抑圧されているような人にとっても、そういった儀式をきっかけに汚い言葉を吐いたり恥ずかしいことをして、祭・酒同様に無意識な欲求不満の解消の場になったり、また術師に対しての無意識な気遣い(期待に応えなきゃ!)的な気質を感じることも少なくないですかね。 俗に「気遣い」と言われるような、相手の気持ちに沿うように気持ちを合わせることが「気功」などでも言われる「キヅカイ(気を操る)」とも大きく関りを感じますかね。そして何回も遣いました「無意識」自体が他人や時に自分自身に対しての体裁・プライド等を守ってくれる都合の良い他意識なのであると感じ、多くは幼い頃に身につけているように感じますかね。 厳密には欲求(自己主張や自己防衛等)を満たすために、人格を変える際に無意識に自分にする言い訳・・・結局ここでも無意識が発生してややこしくなりましたが、ニュアンスは伝わりましたかね?個人的には前記した「優柔不断」的人間の方が同時に複数の人格的なモノが存在する訳で、むしろ「多重」という意味においては近いように感じますかね。(10.11.14著)姉妹日記「意識-2」・「意識-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.17

よく霊を見ると言う人から、「疲れ」を感じる事が多々あります。 疲れから自己主張する「気」が落ち着いた事により「他意識?」と繋がり易い状態になり、もともとその人が持っている世界観が「他意識?」を霊の形に変え、見せている様に感じられます。そして疲れ切っている時の「何かに頼りたい」「何も考えられない」様な感覚が無意識に「他世界観」にドップリ漬かる感覚に近づいているのではないでしょうかね。 そしてまた時に、自分の「想い」を無意識に「他意識?」の様に変えて見せる(自分自身に嘘をつく)力も感じます。個人的な「霊」の感覚(特に悪い質のモノ)の多くは、「生霊」と呼ばれる質のモノであると感じますがね。生きているヒトの強い想いが見せる(感じさせる)、主張の形の一つ・・・特に女性や子供にはそのような能力を強く感じます。例えば・・・ 小さい頃から信仰の深い環境に育ったり、大好きな家族を亡くして寂しさのあまり自分の中に他意識的な家族のイメージを創ったりして霊的世界観を無意識に築き上げるように感じます。そして大きくなるまでそれを比較的矯正されない環境にある人は、他人の「意識?」(想い)、または自分の想いを一度その世界観(霊的)に置き換えて感じるような能力も感じます。 そしてまた、そういった霊的世界観を遣ったカウンセリング等を受ける側も、自分の「想い」として受けるよりも、亡くなった大切な人だったり、霊という崇高なイメージのモノからのメッセージとして伝えられた方が、時には自分のプライドを保ちながら受け入れ(確信を得られ)やすかったりするように感じます。 「気」や「意識」、「霊」など、その人の「世界観」によって見え方は様々のようですが、何かが「伝わっている」、「繋がっている」感覚は極めて近い様に感じています。そして、その中の「意識」という「世界観」を借りて例えれば、様々な「意識」の視覚的形の1つが「人」のように感じます。 また、「幻覚」や「暗示」にも今の主世界観(科学)の中で過ごしていくための大切な力と役割を感じますが、主世界観(科学)でその表現を遣う時に、未知に対しての「逃げ」の資質も同時に感じられてしまいます。(07.7.23著)・・・・・・・・・・「怖い話」の季節でしたね。 あちらこちらで心霊の番組を見ますが、霊にも性格があるようですね。「寂しい」だったり「怖い」だったり、特に外国では「陽気」な霊もあったりするようです。そして不思議なことに、霊能者によって扱うタイプが偏っているようにも感じます。まるで霊が、それを扱う霊能者の気質(世界観)を映し出しているように。彼等の言う「共鳴」というモノでしょうかね。 ちなみに私は、もう亡くなられた宜○愛○さんが好きでして、あの人が扱う件の霊はいつもやさしくて寂しい感じでしたね。霊の存在云々よりも彼女自身やそこに関る人達の人柄が心地よくていつも楽しみに見ていました。晩年は有名な超能力者や歴史学者などと一緒に出演していたようですが、特に「テレパシー」(他意識と繋がる)的な能力が秀でていたようです。 霊に限らず、人間以外の存在には、そこに関る人の「想い」を映し出す気質を特に強く感じます。そして人は、「関心」や「想い込み」によって見えるモノ(各種感覚を含め)や記憶も変わるようですし、「想い」を映像化(具現化)する力があるように感じます。また映像技術がここまで進み、一般化されると、心霊写真やビデオもあまり意味を成さないように感じます。 ただ、霊の世界観にも、科学やその他の世界観同様大切な役割も感じますね。どうやら私には霊の世界観は根付いていないようですが、少なくとも霊を通してそこに関る人を理屈無く楽しめる(感じられる)大切な世界観ですね。バチがあたりませんように・・・。(08.8.9著)・・・・・・・・・・ 「とても神秘的な体験でした♪」 46年ぶりの皆既日食を悪天候で見られなかったにも拘らず、現地で体験した人達が涙を流して感激していました。科学において月が地球に影を落とす現象として原因がハッキリしているにも拘らず、人に「神秘」的感覚を与えるのだから自然現象って不思議ですね。地域によって良いイメージや悪いイメージをも与えるのですから、これも不思議に感じますかね。 『昼間』に暗くなる体験がそんな感激を生んだ大きな要因とも感じますが、『夜』が暗いのも地球自身の影な訳で、私だったら大金をかけたにも拘らずあの悪天候では無理(無意識)にでも「神秘」的にも感じなければ自分の気持を治め切れなかったでしょうかね?(意地悪い?)時にヒトは自分自身にも嘘をつくと感じますし、ヒトの感性こそ不思議に感じますかね。 また日食のレポートにおいて「宇宙から見れば人間なんてちっぽけな存在・・・なんだかんだ言っても人間の営みなど大したことではないですよ・・・戦争や環境破壊なども、宇宙的視点から見ればとても小さなこと」と、いつも説教的な発言をするTVのコメンテーターが言っていました。ただですよ・・・その「宇宙的視点」から見ているのも人間ですよね? 宇宙という世界を見せているのも人の中にあるモノのように感じますし、全て人間(意識・想い)的なモノから発生しているようにも感じますが。であるとすれば、人間(意識・想い)的なモノは宇宙よりも大きな存在(影響力)のように感じますがね。ちょっと傲慢な捉え方で、体裁も悪いので自分自身でもいかがなものかとも感じていますがね。 ただそうやって何か大きな存在の一部であるという捉え方によって、例えば過去にやってきた悪い営みなどの責任を、あやふやにすることで楽にもなりますかね。時に人の「想い」を投影するような大きな存在(宇宙・自然等)の気質を利用して、人間個々の「想い」(意識)的なモノを高め、様々な現象も体裁よく起こしているようにも感じますがね。(09.11.16著)・・・・・・・・・・ 霊は優しい人に寄って来る~ 確かに私はとてもドライなので、子供の頃から一度も霊というモノを見たことが無いのでしょうかね?ただ私の感覚から言うと、よく霊を見ると言う人には自己主張(気)の強い人も少なくないように感じますかね。でもそういった人は得てして感覚的に行動する人でもあったりして情にも厚かったり・・・「情に厚い」と言えば一種の「優しさ」かもしれませんね? 個人的に言えば「霊」も普段から私達が見ている・・・例えばコップなどの物質・現象と同じように、子供の頃から代々刷り込まれる(信じ込む)環境によってソレを見ることが出来るようになり、大人になるまでその感覚を矯正されずに今に至り・・・脳科学の「脳は時に無いモノも見せる・有るモノも見せない」的に各々の都合で創り出す世界観のようにも感じます。 そして霊やその他のヒト以外の存在にはヒトの想いを反映する気を感じ、またヒトは他人の「意識?」(想い)、または自分の想いを一度そのヒト以外の存在(霊等の世界観)に置き換えて感じるような能力も感じます。時には「霊」が見えることでチヤホヤされて、怖いと言いながらも無意識に優越感をえられ、その気持ちよさを忘れられずにいたりして・・・ そしてまた「霊」の世界がこの世の中の「真理」的な表現をして、「霊」が見えない人に対して優越を感じているようにも見えて腹が立ったり・・・そもそも夢の中でもモノを見たり、触ったり、臭いを感じるなどの五感が存在するわけで・・・そんなことを考えれば、この世の中の「真理」とはむしろ「無」であるといった方が正しいのではないのですかね? ただ個人的にはそこにも違和感はあるのですがね。(笑)ヒトの想い込みによって全ての感覚を生み出せる・・・「無限」とでも言いましょうか?そしてそれよりも私の感覚からすると単に「霊は優しい人に・・・」は腹が立つ表現でもありますかね。こんな表現をきっかけにヘソを曲げて、「私は一生『霊』を見ないぞ!」なんて少なからず感じていたりもして・・・ そんな「想い」が今まで「霊」を見られないでいる一因になっていたりして・・・「霊」が見えるヒトにとってはそれが・・・見えないヒトにとってはそれが少なからずそれぞれの今現在での真実と感じます。どちらかの感覚を「真理」と決め付けることが反発を生み、よりその感覚の間を広げてしまうことも感じますかね。「真実」はヒトの数だけ存在すると感じます。 そして他人の世界観に興味を持ったり、気を遣ったり(譲ったり)して、時には自分の世界観を抑え、相手の世界観に歩み寄るようなある意味自己での「刷り込み」(自己暗示的)などが出来たとき、他人と同じような景色が見られたりするのではないですかね?そういった面では「優しいヒトに~」もまんざら間違いでは無さそうですがね。(笑) また死者を敬うよう(人間・自己戒め的)な意味で霊の存在を否定しないような気質が大切なのかも知れませんが、バチが怖いからとか、自分に力(幸せ)が欲しいという理由でも墓参りしてしまったりしているのですよね?私は墓参りも怠っているのでそれ以下ですがね。ホントに私はドライですね。霊どころか人間まで寄ってきてくれそうにもありませんね。 ただ私には表向きにはそれらを隠せる術も小さいときから刷り込まれてきていますので・・・そして私だって初めからドライだった訳ではないのに生まれて一度も霊を見たこと無い訳ですからね?そしてまた「優しい」は好きな異性の条件で常に上位にあるようにも感じますが・・・この場合は主に「自分にだけ優しい」という意味で遣われていますかね? 確かに肉体や金銭的関わりだけを期待して誰にでも優しく接する人も少なくないと感じますが、特定の人だけに限定し、割り切って使い分けてしまえる人の「優しさ」にもいまひとつ違和感や不信は残りますかね?個人的には「優しさ」を感じる有名人に「不倫は文化」の人を感じたりしますが・・・女性を敵にまわしたかな?(10.8.15著)姉妹日記「意識-1」・「意識-3」へ / 「索引1」・「索引2」・「索引3」へ
2008.12.02
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