★おまつりにっし!・・・おむすびころりん♪人生ころりん( ̄∇ ̄;)

(3)浪人時代



三ツ目くん

               (昭和55年当時)


あっしが上京したのは昭和55年。ちょうど松田聖子さんがデビューして
大ヒットを飛ばしていた頃でやんす。
「青雲の志」を持って、あっしは大学に入学しやした。

それ以前の浪人時代に、「大学受験」に関して父親から言われていた。

・・・「入るなら法律の勉強をしておけ。法学部なら潰しが効くから。」
「ワシの知り合いが東京に居るから、そこで書生にしてもらえばいい。」
などと(^^ゞ、
・・・「書生」なんて言われても、「坊ちゃん」しかイメージできないあっしにとっては
とってもバラ色な大学生活しか想像できなかったんでやんす。


◆前の年(昭和54年)は国立大学の教育学部「中学美術」を受験したが、
共通一次試験(マークシート方式)の段階で、既に絶望的な結果だった。
二次試験は2月の受験だったので、とても寒い寒い時でした。
雪がどんどこ降り、鼻をたらしながら受けやしたが、見事に「撃沈」でした。

その一週間後、東京のある大学の教育学部をひとつだけ受け、やはりダメだった。

オカネが無い家ゆえ、大学浪人など許してもらえない状況だったが、
「東京に行きたい」・・・ただそれだけの理由で、あっしは親を説得した。

あっしは3人兄姉の末っ子であるが、兄も姉も音楽系の大学に行きたかったのを
家庭事情が許さず断念。
七歳上の兄は神奈川県へ、4歳上の姉は京都へ就職しやした。

あっしの家は毎月の兄姉からの仕送りのお陰で、何とかやりくりしていたのであろう。母も懸命に働いていた。
あっしも小学4年の時から新聞配達をやっていたでやんす。
(これがまた、部活などに非常にプラスになったんでやんすが・・・。)

そして高校を卒業しても、新聞配達は続けました。
また、昼間は建設現場での日雇い人夫のバイトをやりやした。

・・・そういう姿を知ってか知らずか、家にまったく収入を入れなかった父親が
珍しく、
「予備校の前期の授業料を出してやるから浪人して大学を受けろ」と、のたまった。

・・・「何かウラがありそうだなぁ」・・・と思ったら案の定、
父親は入学金の3万円だけを支払って、例の如く(?)『長期出張』の旅に出やした(^○^)
どういう事かと言うと、あっしの予備校の学費を国民金融公庫の教育ローンで100万円借りたのに・・・!
3万円だけ払ってトンズラしたんでやんす(^○^)

・・・またしてもオヤジに騙されたあっしは1か月遅れのゴールデンウィーク明けに
予備校に「ゴム長」を履いて行ったでやんす。授業料49万円を払うために。。。
そして次の日からは、後期の授業料と受験費用を稼ぐために
モーレツに働かなければならなかったでやんす(T_T)。

行きもしない予備校の授業料を稼ぐために 昼間せっせと働いて、
夕方、浪人仲間たちと会うために作業服を着たまま電車に乗り込み、
電車の中で単語カードを覚え、歴史の本を読み、
予備校の隣にある図書館で予備校の試験の情報を聞く。
・・・そんな生活をくり返していました。

その間、27歳の女性と交際し、東京で一緒に生活しようと誘いやしたが
悲しい恋に終わりやした(これについては又別のところで・・・)。
その間、遊び過ぎてそれまで覚えた事を「大放出」したって感じでやんす(^○^)

それから年明けの正月三日まで、バイトに明け暮れて、
翌四日から宮本武蔵の「姫路城にタテコモッタ日々」のように
貯めこんだ資料を部屋に揃えて、トイレと風呂の時以外は、
食事もいつ摂ったか覚えていないくらいの集中力で
片っ端から「赤本」を制覇していきやした。

・・・約1ヵ月半の受験勉強。
志望校は「『某』大学法学部の夜間部」と
「『何某』大学法学部(昼間)」でしたが、2つとも目出たく合格しやした。

そのあと、母親に「学費も授業料もぜんぶ自前でやるから」と言って許可を貰い、
日本経済新聞の新聞奨学生に応募しやした。

・・・そして、あっしのバラ色の学生生活が、始まる・・・・予定だった。


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