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※ ネット発表のものは、出版された詩集とは異なる箇所があります。※ 本篇の、詩誌AVENUEによるレイアウトは作者校閲を経ています。田中宏輔著 『全行引用詩・五部作・上巻』 思潮社オンデマンド2015 ¥3,024詩:田中宏輔さん ツイッター:田中宏輔 @atsusuketanaka ORDINARY WORLD° 「物分かりのいい子ね」とドリーンがニヤリとしたとき、誰かがドアを叩く音がした。 (シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』1、青柳祐美子訳) 「どうぞ!」とドニヤ・カルロータはケイトに言った。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・10、宮西豊逸訳) あのときもチャーリイ・クラスナーと灰色の明け方に押しかけたのだった。 (ジャック・ケルアック『地下街の人びと』真崎義博訳) 「グレーゴル? 気分よくないの? なにか必要なものある?」 (カフカ『変身』丘沢静也訳) 老いた膝をぽきぽきと鳴らしながら、スリーンはゆっくりと中腰になって花を見た。 (R・C・ウィルスン『無限記憶』第二部・8、茂木 健訳) 「何をクスクス笑ってるの?」とアリスが洗面台から振りかえって言った。 (パトリシア・ハイスミス『愛の叫び』小倉多加志訳) 「とってもきれいだね」モンドが言った。 (ル・クレジオ『モンド』豊崎光一・佐藤領時訳) ダニエルは傍聴人たちを見つめた。 (ギ・デ・カール『破戒法廷』II、三輪秀彦訳) ブラドレーはまばたきした。「なんでしょう?」 (R・A・ハインライン『異星の客』第二部、井上一夫訳) 「シャワーを浴びるのはどう?」エリカが尋ねた。 (カミラ・レックバリ『悪童』富山クラーソン陽子訳) 「たとえば、こんなふうに?」ナタリがたずねた。 (ダン・シモンズ『殺戮のチェスゲーム』第二部・25、柿沼瑛子訳) 「信じられない」とプローコプが考えにふけるようなおももちでつぶやいた。 (グスタフ・マイリンク『ゴーレム』今村 孝訳) 「人間の男の心は暗くて不潔です」グンガ・サムはいった。 (ロバート・シェクリー『人間の負う重荷』宇野利泰訳) エスターは身震いした。彼女は若者の辛辣なところが嫌いだった。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』1、藤井かよ訳) ウサギに見られるのをジャニスは恥ずかしがった。 (ジョン・アップダイク『走れウサギ』上、宮本陽吉訳) トレーが眼鏡をはずしてわたしを見つめる。その顔は少年のように無防備で、頬には愛する者にしか感じ取れない柔らかさがある。 (ダン・シモンズ『バンコクに死す』嶋田洋一訳) マキャフリイの容貌は、何百万の人間と同じ。目を離したら、雲の様子を正確に形容できないのと同じように、その容貌も形容できない。 (ジャック・ウォマック『ヒーザーン』2、黒丸 尚訳) 「上には何があるの?」とプティト・クロワは訊ねる (ル・クレジオ『空の民』豊崎光一・佐藤領時訳) 二階のベッドルームには、いつもスーザンがたくさんいる。みんな、自分が熟してくるとここで待つのだ。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳) この花たちはみんな君のためのものなんだよ、プティト・クロワ。 (ル・クレジオ『空の民』豊崎光一・佐藤領時訳) それはまちがいよ、エンリコ。人間的な問題に関するときにはいつもあなたはまちがうけれど。 (ピエール・プール『E=mc2』大久保和郎訳) ダニエルはかつてこれほど多くの白さを見たことはなかった。 (ル・クレジオ『海を見たことがなかった少年』豊崎光一訳) 隣では、わたしの少年の愛人であるセヴェリアンが、若者らしい気楽な寝息を立てて眠っていた。 (ジーン・ウルフ『調停者の鉤爪』18、岡部宏之訳) 小人は片腕をあげるとパリダに向かって伸ばす。 (フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳) 「ねえエレーン、ぼくらはいま、いくつくらいなんだろう」 (F・M・バズビイ『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』室住信子訳) クリスティーンはいま、自分が予想のつきやすい女だと思われているのではないか、と不安を覚えていた。 (アン・ビーティ『アマルフィにて』亀井よし子訳) 「すてきな名前ね」ジェーンはいった。「どうしてその名前に決めたの?」 (フリーマントル『フリーマントルの恐怖劇場』第2話、山田順子訳) ジョナサンとルーシーは、ある日、地下鉄の中で知りあったのだった。たまたま、とんでもない奴が、ただ退屈だという理由で、催涙弾を電車の中で放った。 (ベルナール・ウェルベル『蟻』第1部、小中陽太郎・森山 隆訳) 「行かなきゃ」とアリスが言った。 (コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳) 「なにもそんなに急ぐことはなかろう」とマークハイムはやり返した。 (ロバート・ルイス・スティーヴンソン『マークハイム』龍口直太郎訳) 「菓子パンをもう一つお食べよ」クラウドがアリスに言った。 (ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』I・[2]・III、鈴木克昌訳) 翌日は、アブナー・マーシュにとって人生でもっとも長い一日だった。 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』11、増田まもる訳) 「ああ、だがほんの一瞬だった」カドフェルは慎重に答えた。 (エリス・ピーターズ『悪魔の見習い修道士』2、大出 健訳) ドライズデールは美しい女性と一緒のところを人に見られるのが好きだった。 (P・D・ジェイムズ『正義』第一部・10、青木久恵訳) 人間がつき合わなければいけない相手の大半は変人なんだよ、とグランディソンは言い切っていた。 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』6、友枝康子訳) 「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。 (エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳) グルローズは、わたしの知った最も複雑な人間の一人だった。なぜなら、彼は単純になろうと努力している複雑な人だったから。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』7、岡部宏之訳) レサマが話をする、するとその話を聞いていた者は、好むと好まざるにかかわらず、すっかり人が変わってしまった。 (レイナルド・アレナス『夜になるまえに』レサマ=リマ、安藤哲行訳) 「クレティアン伯は過去の君とは別れたよ」ロレーヌが言った。「現在の君とももうじき別れる。そして今は未来の君の寸前で踏みとどまっている」 (ヴォンダ・N・マッキンタイア『太陽の王と月の妖獣』上・12、幹 遙子訳) ヴァージニアがゆっくりといった。「古い諺があるのよ。当たり前の人間は友人を選ぶが、天才は敵を選ぶ」 (グレゴリイ・ベンフォード&デイヴィッド・ブリン『彗星の核へ』上・第一部、山高 昭訳) ぼくは幸福だ。わかるだろう、ガーニイ? ナムリ? 人生に謎などまったくないんだ。 (フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち』第2巻、矢野 徹訳) 「生き方を知る人間は、ただ生きるもんだよ、ニコバー。知らん人間が定義したがるのさ」 (マイク・レズニック『ソウルイーターを追え』7、黒丸 尚訳) 人生を使うんだ、ハロルド。人生中毒になれ。 (ハーヴェイ・ジェイコブズ『グラッグの卵』浅倉久志訳) 「まず生きていくことさ」シャープはそっけなく言った。 (フィリップ・K・ディック『想起装置』友枝康子訳) クレヴェルは不審のおももちだが、ぼくには彼の気持がわかる。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・21、土岐恒二訳) こんなふうに考えてみたらどうだろう、マーサ。 (ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳) チャーリー・ジョーンズが卒倒したのは、何も乙女めいた慎みからではなかった。どんなことだって卒倒する原因になりうるのだ。 (シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』大久保 譲訳) 彼はバッリにもアンジョリーナにも嘘をついていなかった。 (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』3、堤 康徳訳) モネオは、何かをつかみそこねたことを悟った。 (フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第1巻、矢野 徹訳) きみはフームを愛する。そしてフームを愛しているから、きみの一部はフームになる。きみを知る者たちもまた、その一部はフームになる。 (オースン・スコット『神の熱い眠り』9、大森 望訳) イノックは首を振った。それは気違いじみた考えだ。 (クリフォード・D・シマック『中継ステーション』19、船戸牧子訳) スティーヴは肩をすくめたが、その動作は厚いコートとたくさんの下着の下に隠れて、ほとんど見えなかった。 (ハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』第二部・13、浅倉久志訳) スティーヴの説明によると、潜在意識は脳の一つの機能であり、一つの状態であって、決してただの一部分ではないという。 (ピーター・フィリップス『夢は神聖』浅倉久志訳) 「貫通するものは一なり。」と芭蕉は言つた。 (川端康成『日本美の展開』) ソレルはおし黙っていた。それはなにもいわないのとはちがう。 (テリー・ビッスン『冥界飛行士』中村 融訳) マルティンはナイフを広げた、そして、いまではもう遠い昔のことのように思えるあのころのことに思いをはせた。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・20、安藤哲行訳) ガーセンは、語られたことよりも語られなかったことから相手の真意を察して、立ち上がると、いとまを告げた。 (ジャック・ヴァンス『殺戮機械』5、浅倉久志訳) フォン・レイは輝く山なみにむかって、あごをしゃくった。 (サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』2、伊藤典夫訳) サージアス、人間は自分の生活をいったいどうするんだろう? (ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳) スパナーは手をさしだしたりはしなかった。もし彼女が手を出しても、わたしはその手をとっただろうか。 (ニコラス・グリフィス『スロー・リバー』7、幹 遙子訳) アンは足もとの床の小さな円を見つめた。 (デイヴィッド・マルセク『ウェディング・アルバム』浅倉久志訳) カーニーが見ると、白猫はそのほっそりした小さな気むずかしい顔を彼のほうに向けた。 (M・ジョン・ハリスン『ライト』22、小野田和子訳) クレート叔父はテーブル、コップ、瓶、溲瓶、窓枠をスティックで軽くたたきながら、“ジャズ・バンド”を弾く、それぞれの物はその音を持つ、 (カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳) エリーズの肉体のなまめかしさについては言うべきことがたくさんあったが、その精神については言うべきことはほとんどなかった。 (ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』28、三田村 裕訳) じっと彼女を観察していたカレルは、やがて突然、エヴァが本当にノラに似ているような気がしてきた。 (ミラン・クンデラ『笑と忘却の書』第二部・11、西永良成訳) アドリエンヌと長く話しあうほど、ふたりの気持ちはどんどん離れていく。 (フレッド・セイバーヘーゲン『ゲーム』浅倉久志訳) スーザンはそういう人間だよ。過去に生きない。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳) 自分の心に特別の存在として映った女と、これほど多くの女が似ていることに、ギャロッドは鈍い驚きを覚えた。 (ボブ・ショウ『去りにし日々、今ひとたびの幻』4、蒼馬一彰訳) オラシオは間違っていない。 (コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・133、土岐恒二訳) そもそもどんな分野であれ、決定的な貢献ができる人の数など、ほんの僅(わず)かなんです、とバンクスは語った。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・4、御輿哲也訳) フォックスが何か音を立てる。痛みに彩られた、ドスンというような音。 (ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳) アーテリアは肩をすくめた。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳) ぼくが見るレイミアの夢は、レイミアの見る夢とまじりあっている。 (ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第一部・3、酒井昭伸訳) レイグルの幻覚はぼくの経験とどこかで同調している。 (フィリップ・K・ディック『時は乱れて』6、山田和子訳) ベンは退屈している。そういうとき、彼は人を挑発する。 (アン・ビーティ『グレニッチ・タイム』亀井よし子訳) ハヴァバッドは手帳につぎのように書きこんだ──「スカヴァロの件で昼食、二十八ドル四十セント」。 (アン・ビーティ『ウィルの肖像』ジョディ・9、亀井よし子訳) エヴェリンは、魅入られたもののように、かれのうえに身をかがめた。 (シオドア・スタージョン『人間以上』第一章、矢野 徹訳) ダニエルは自分の一生を一行ごとに翻訳したものを与えられたような気がした。 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』18、友枝康子訳) ラムジー夫人はそれらを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここで立ち止まりますように」とでもいうように。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・3、御輿哲也訳) 「これが人生ってものよ」とジェロメットがいう。「少しずつ物事を発見していくの」 (クロード・クロッツ『ひまつぶし』第五章、村上香住子訳) 「何だって? 何と言ったの?」彼は目を眇(すが)めるようにしてジャネットを見ました。 (ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第三部・II、友枝康子訳) 「おそろしい気がするのよ!」とケイトは言った。真実を語っていたのだった。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・7、宮西豊逸訳) 「うん」と信行はうなずいた。 (志賀直哉『暗夜行路』第一・十二)かれは、それがアイダホの考えの中に形をなしていくのを見ることができた。 (フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第2巻、矢野 徹訳) パパジアンはなにも知らずに通りを歩いていった。なにも知らないことを心から楽しんでいた。 (ロバート・シェクリー『トリップアウト』4、酒匂真理子訳) いまのチョークの決意や行動を左右するのは、もっとほかのもの、もっと精神的なものだった。 (ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』9、三田村 裕訳) スダミの手。それがクリスにつきまとう問題だった。 (シオドア・スタージョン『閉所愛好症』大森 望訳) どうしたの、マルセル? (ケッセル『昼顔』九、堀口大學訳) ──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) そのとたん、キルマンのことが急に心に浮かんできた。仇敵キルマン。 (ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治 愛訳) デ・ゼッサントは、読みさしの四折判本をテーブルの上に置き、伸びをして、煙草に火をつけた。 (J・K・ユイスマンス『さかしま』第六章、澁澤龍彦訳) それから何が起こったか正確に描写することはできないが、数分間は極めて活劇的だった。シリルのほうから子供に飛びかかったようだ。空気は腕や足やその他で充満していた。 (P・G・ウッドハウス『ジーヴズと駆け出し俳優』岩永正勝・小山太一訳) ルイスは独りでいると驚くほど熱心に物を見て僕たちよりも長く残るかもしれないいくつかの言葉を書く。 (ヴァジニア・ウルフ『波』鈴木幸夫訳) エリザベスは、一年に一日しか休みをとれない、貧しい召使いの少女をうたったロバート・ブラウニングの詩のタイトルを思い出そうとした。 (アン・ビーティ『蜂蜜』亀井よし子訳) 「物事は明るい面を見なくちゃいけない」とルーク氏は言った。「みんな優秀な番犬になるだろう」 (ケリー・リンク『黒犬の背に水』金子ゆき子訳) アリス、いまよ! 青春なんて束の間よ、束の間なのよ。 (ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳) ブリケル夫人の恋は失敗に終わった。夫人の反論がないのをいいことに、彼はいいつのった。自分と妻のあいだでは、何ごとも気軽に打ち明け合う、と。 (アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』6、亀井よし子訳) しかしな、マーティン、向こうへ帰ったら、きみのいる世界にもメリーゴーラウンドやバンド・コンサートや、それに夏の夜があるということが、きみにもわかると思うよ。 (ロッド・サーリング『歩いて行ける距離』矢野浩三郎訳) ジョンはゆっくりとキスをしたので、そのことをクレアが考え、受け入れて、その意味を知るには充分な時間があった。 (グリゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上・第四部・4、山高 昭訳) サマンサは分数から野生の馬の群れを連想する。 (ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子訳) 彼は指を突き出して、宙に小数点を書いた。でも、ラルフ・サンプソンはその点にさわれる。彼がさわると、点がバスケットボールに変わる。 (アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』7、亀井よし子訳) アーテリアは肩をすくめた。わかったわ、頭とりゲームをやりましょう。最初はあなたがわたしの頭をドリブルして床を走りまわる。そのつぎに、わたしがあなたの頭をドリブルする。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』13、浅井 修訳) かつてトイスは、「この世をふり向けば疑問にぶつかる。答えは全部どこかに隠れているのよ」と言ったが、まさにそのとおりだった。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』30、宇佐川晶子訳) エドガー・ポウについて、他のすべてを忘れたとしても、あの瞳の印象を捨て去ることはあるまい。ポウの瞳は外を見ているばかりでなく、内も見ているようだ (ルーディ・ラッカー『空洞地球』4、黒丸 尚訳) サビーヌ、ぼくは探究だとか判断だとか知性だとかいうものに、信頼をおかないんだ。 (シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年一月二十四日、関 義訳) 「あのねえ」とマイロ。「何も考えずに始めたはいいけど、知らないうちにそれに足をすくわれて身動きがとれなくなってるということだってあるんだぞ」 (アン・ビーティ『シンデレラ・ワルツ』亀井よし子訳) 「プランタジネット」ジェレミーは言う。「それも実在の場所だよ。(…)」 (ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳) ルーシーにいうつもりはなかったが、ルーシーにあってじぶんにはない資質がなにか、最近分かってきたような気がしていた。 (アン・ビーティ『愛している』16、青山 南訳) 彼女の身体を持ち上げて頭の上でぐるぐる回してやると、嬉しそうにきゃっきゃっ声をあげて笑っていたアミラミア。彼女はきっとゆっくり回転しながら、べつの角度から世界を見渡していたのだろう。 (コルタサル『女王人形』木村榮一訳) ペドロは、彼女は頭がおかしいと言う気になれなかった。事実おかしかったからだ。 (ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』2、野谷文昭訳) 地下鉄とは人類の倒錯(とうさく)であり、ジューブにはどうしても馴(な)れることができない。 (ジョージ・R・R・マーティン『ワイルド・カード 2 宇宙生命襲来』下・ジューブ 6、堺 三保訳) 彼はベンチから立ちあがり、ゆっくりと遊歩道を歩いていった。あと少ししたら、ヒューバートが朝食のしたくをしているあの続き部屋に戻ることになる。 (クリフォード・D・シマック『法王計画』11、美濃 透訳) けれども彼女が出ていき、裏口のドアがバタンと音をたててしまったとき、ウィリアムは刺すような悲しみが胸をよぎるのを感じた。 (トマス・M・ディッシュ『M・D』上・第三部・32、松本剛史訳) 私、ジェラールが好きでも何でもないんですもの。好きになったことは一度もないの。彼のことがほしくてほしくて仕方がない時でも。それがセックスの恐ろしいところだわ。 (P・D・ジェイムズ『原罪』第一章・5、青木久恵訳) パウトは苦痛を与えるのが好きだった。 (バリントン・J・ベイリー『禅〈ゼン・ガン〉銃』5、酒井昭伸訳) レキシントンへの道中は若いペイ中に変装して移動しなきゃならなかった──ビルとジョニーって名前に決めたんだが、これがしょっちゅう入れ替わってある日は目をさますとビルで次の日はジョニーって具合── (W・バロウズ『ソフトマシーン』1、山形浩生・柳下毅一郎訳) ああ、ライサ! 恋人の顔をじっと見つめるとね、《何か》がくずれて、そして、《現世》では、もう二度と同じ人は見つからないことがわかるのよ! (ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳) ジョニーはレコーディング・ルームで靴を脱いだが、あれは頭がおかしくなっていたからではない。昨日、そのことを話してくれたマルセルとアートには、それが分かっていない。 (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳) ケイトが言った。「頸動脈がきれいに切断されています。意外と手に力があったんですね。特に強そうには見えませんが、でも手というのは弱々しく見えるものですよね」 (P・D・ジェイムズ『正義』第三部・32、青木久恵訳) 「だれだってみんな死ぬんだ」トゥールは低い声でいった。「ちがうのは死に方だけさ」 (パオロ・バチガルピ『シップブレイカー』14、田中一江訳) ミリアムのウェディングドレスは、溺れた飛行機の霊魂のようだった。 (J・G・バラード『夢幻会社』26、増田まもる訳) ブライアが目の前の光景を表現する言葉を十個選べといわれたら、“きれい”はその中に入らなかっただろう。 (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』20、市田 泉訳) カルソープは、その光景ばかりでなく、それが持つ意味に気分が悪くなって、顔をそむけた。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』3、山高 昭訳) 「ああ、グローリィ!」わたしは首をまわして彼女の手に頬を押しつけた。 (ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』帰郷、宇佐川晶子訳) スワミはしばらくそれをつづけた。観客は陶然として身を乗りだしていた。 (マーク・クリフトン『思考と離れた感覚』井上一夫訳) アンのブルーの目には魅了され、叱責し、崇拝する感情が同居している。こんな組みあわせを同時に抱くには若さが必要だな、とバザルカンはふと考えた。 (ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』23、金子 司訳) あなたがどんな質問をなさるか分かりますよ。ルーシーとの関係は性的な関係だったのか。私にはそんなことを考えるだけでも冒瀆だとしか答えようがありません。 (P・D・ジェイムズ『秘密』第三部・4、青木久恵訳) 時としてほんとうに伝えたいことは言葉で言い表わすことはできない、ジャンヌはこれまでそう信じてきた。 (コルタサル『すべての火は火』木村榮一訳) ジョンは芝居の批評を続けた。かれはそれまでより突っこんだ見方をしているように、わたしには思われた。 (オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』13・ジョン、同種族を探す、矢野 徹訳) チーチャンズは犬だし、したがって細君よりは高等な動物である。ぼくは、ストリックランドが鞭でひっぱたくものと予想して、彼の顔を見た。 (R・キップリング『イムレイの帰還』橋本福夫訳) 「いまでも聞える」プニンは塩か胡椒の容器を手に取りながら、記憶の持続性に驚いて軽く頭を振った、「いまでも聞えるよ、命中して木魂が空に舞いあがったときのパシッという音がね。肉を食べないの? 好きじゃない?」 (ウラジーミル・ナボコフ『プニン』第四章・8、大橋吉之輔訳) ブルーノは答えた、人間というものを云々するとき、真実が語られることは滅多にない、なぜなら、苦痛や悲しみ、そして破壊をもたらすだけだからね。 (サバト『英雄たちと墓』第II部・8、安藤哲行訳) そうだ、あんただって細部のひとつなんだよ、ロードストラム。もし一瞬でもあんたが俺の心の中になかったら、あんたはいなくなっちまう。 (R・A・ラファティ『宇宙舟歌』第四章、柳下毅一郎訳) 「本名でいきますよ」セランはいつもそう答えるのだが、これがまちがいだった。ときには、新しい名が新しい性格をひきだすこともある。 (R・A・ラファティ『九百人のお祖母さん』浅倉久志訳) 「ミケランジェロが」とジョンはいった。「どういうわけか吸える空気はぜんぶ吸ってしまったようですね。(…)」 (アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳) パリーモン師はかつて、わたしに教えてくれた。恩情はわれわれ人間のものであり、一引く一は零より多いと (ジーン・ウルフ『拷問者の影』30、岡部宏之訳) ヒラルムは無言だった。 (テッド・チャン『バビロンの塔』浅倉久志訳) ラッセルはその半分もわかっていなかった。 (ジョー・ホールドマン『擬態』37、金子 司訳) そしてボースンゲイト氏は判事がふたたび一連の意見をのべているな、と思った (ジョン・ゴールズワージー『陪審員』龍口直太郎訳) 「ラーキンはこの本に、詩想と作品の断片は必ず同時に浮かんでくるものだと書いています。あなたも同じご意見ですか、警視長さん」 (P・D・ジェイムズ『死の味』第二部・1、青木久恵訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) ベンジャミンもそこに加わった。 (デイヴィッド・マルセク『ウェディング・アルバム』浅倉久志訳) 「同時にふたつの場所にいることができるものかしら?」アリスはじっくり考えました。 (ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳) おそらく、エルザンはいまそれらの頁のことを考えていないだろうし、それらの頁を書いたとき以来、それについて考えたことは一度もなかっただろう。 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』12、菅野昭正訳) 「明りはここに残してゆきましょう」サラがささやいた。「あなたがいなくても光ったままでいるんでしょう?」 (ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヨルダン、深町真理子訳) 「ドクター・ミンネリヒトは明かりに目がないのさ。明かりそのものも好きだし、明かりを生み出すものも好きなんだよ。(…)」 (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』21、市田 泉訳) エレナはいたずらっぽい口調で、「たぶん、それについてもあなたが正しいんでしょうね」 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳) 「ネッリーは他の誰も見ないようなものを、あたしに見てるんじゃないのかなあ」 (カミラ・レックバリ『氷姫』V、原邦史朗訳) スタークは頭をめぐらし、ミリアム・セントクラウドをじっとみつめた。 (J・G・バラード『夢幻社会』32、増田まもる訳) 自分自身のことはなにも思い出さずに、ミュリジーに抱いていた関心を徐々に思い出した。 (クリストファー・プリースト『ディスチャージ』古沢嘉通訳) マークは、過去を理解せずして現在を理解することはできないから歴史の研究を選んだと言っていましたよ。 (P・D・ジェイムズ『女には向かない職業』3、小泉喜美子訳) ジェミーは言った。「残酷な時代を思いだすのを拒めば、悪と共存する善の記憶をも同時に拒否することになる」 (ゼナ・ヘンダースン『血は異ならず』大洪水、宇佐川晶子訳) レサマは「覚えておくんだよ、わたしたちは言葉によってしか救われないってこと。書くんだ」とぼくに言った。 (レイナルド・アレナス『夜になるまえに』通りで、安藤哲行訳) わたしはグレイダスに以前会ったことがあるのだろうか? ちょっと考えさせてくれ。会ったことがあるのだろうか? 記憶は頭(かぶり)を振る。 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) 見るともなしにグリフィスを見ながら、何とか記憶を取り戻そうとした。 (マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第2部・14、嶋田洋一訳) 記憶がよみがえってきた。そうだ、この記憶だったんだ。あの子は、パメラの先触れだったのだろうか? (アントニイ・バージェス『ビアドのローマの女たち』2、大社淑子訳) ヌートがまだ生きているということに、クリフはもはやまったく疑いを抱いてはいなかった。「生きている」という言葉が何を意味しているとしても。 (ハリイ・ベイツ『主人への決別』6、中村 融訳) いったいスサナ・サン・フアンはどういう世界に住んでいたのか、これはペドロ・パラモがついに知ることのできなかったことのひとつだ。 (フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山 晃・増田義郎訳) それをぼくが考えたこともなかったなんて思わないで欲しいね──とオリベイラが言った──。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) ラングは水の栓を開閉して、そのつどかすかにかわる音に耳をすました。 (J・G・バラード『ハイ-ライズ』16、村上博基訳) それはスケイスに何も語らなかった。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第二部・1、青木久恵訳) しかし、カレルは、エヴァを通して美しいノラ夫人を時間をかけてゆっくり見ていたかったので、その瞬間を引き延ばそうとした。 (ミラン・クンデラ『笑と忘却の書』第二部・11、西永良成訳) トゥカラミンの口調にある何かが、クゥアートに質問させた。 (グレゴリイ・ベンフォード『光の潮流』下・第五部・2、山高 昭訳) 「その定義を認めるとすると」とサン=ジュリューが言った、「実現された行為は恋愛を排除しませんか?」 (アルフレッド・ジャリ『超男性』I、澁澤龍彦訳) 僕はなにもしませんでしたよ、イレーヌは僕になにも言いませんでした。なにもかも察しなければならなかったんですよ、いつでもね…… (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』16、菅野昭正訳) ドク・ポルの話だと、複合感覚は人間には非常によく見られるものなんだそうです──一般に考えられているよりも、ずっと多いんですって。 (ドナルド・モフィット『第二創世記』第二部・9、小野田和子訳) 自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物の満(みち)干(ひ)のままに、ここに、かしこに、わたしが生き残り、ピーターが生き残り、お互いの胸のうちに生きる、と信ずることが。 (ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』富田 彬訳) 野蛮人なんてものはいないんだよ、フィル。あるのは野蛮な行為だけなんだ (ポール・プロイス『地獄の門』24、小隅 黎・久志本克己訳) クレアは髪の毛をゆすると、前へ全部たらし、それから息をのむほどすてきに、うしろへさっと投げた。 (シオドア・スタージョン『神々の相克』村上実子訳) レジナルド卿は、精いっぱい抵抗するものの、銃口がまっすぐ自分を狙っているのに気づいた。まるで、スローモーションの映画を見てでもいるように、奇妙なくらい鮮明にすべてを見ることができ、感じることができた。 (テレンス・ディックス『ダレク族の逆襲!』2、関口幸男訳) ヴィクターは薔薇のとげに親指をふれた。「女ってやつは。男は自由でいいっていいやがる。で、女に自由を与えると、むこうはそれをほしがらない」 (ジョン・クロウリー『ノヴェルティ』6、浅倉久志訳) フィオナは首を振りながら反対意見をのべた。 (ジョン・ブラナー『地獄の悪魔』村上実子訳) モニは、相手のことばをさえぎった。 (テレンス・ディックス『ダレク族の逆襲!』1、関口幸男訳) ベンウェイは学生で一杯の大講義室で手術をしている── (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』病院、鮎川信夫訳) 「帝王(スルタン)は壮大な夢をお持ちだ」ルビンシュタインが言った。「だが、あらゆる夢はもしかしたら、さらに大きな夢の一部であるのかもわからん」 (ドナルド・モフィット『星々の教主』下・16、冬川 亘訳) 「それは循環論法的なパラドックスですか? 大半の真理は循環パラドックスでしか表現されえない、とドン・クリスタンが言ってます」 (オースン・スコット・カード『死者の代弁者』下・18、塚本淳二訳) 「何だって?」とヴォマクト。その目──その恐ろしい目!──は、いうまいと思ったことまでいわせてしまう。 (コードウェイナー・スミス『酔いどれ船』伊藤典夫訳) 最近妻を亡くしたばかりの植物学者のベルクと──自分のよりも、むしろ相手のミスに腹を立てながら──チェスをした。 (ナボコフ『賜物』第2章、沼野充義訳) ジェラルド・エメラルドは片手を差し伸ばしていた──こうしていま書いている瞬間にもそれは依然としてその位置のままにあるのだ。 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ミンゴラはそのわきに坐ってライフルの掃除をしながら、これからの日々のことを思っていた。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳) アンドロイドは再びまたたきし、桃色の唇の両端をひげに引きつけると、めったにお目にかかれないダールグレンの微笑のかたちになった。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』2、藤井かよ訳) エンリはベク・アレンのこうした非現実な行為を見る機会が前にもあった。 (ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』24、金子 司訳) 「古代の神々を呼びもどそうとしていらっしゃるんですか?」とケイトはあいまいな調子で言った。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・10、宮西豊逸訳) K・Cの行く手には栄光が待っている。彼はそれをまさしく歯の詰め物にも感じていた。 (トマス・M・ディッシュ『第一回パフォーマンス芸術祭、於スローターロック戦場跡』若島 正訳) いつかきみのいわゆる中心的姿勢とやらについて、もっと詳しい議論を聞きたいもんだ──とエチエンヌが言って立ち上がった──。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) アリスがいう、何を愛しているの。 (グレゴリイ・ベンフォード『ミー/デイズ』大野万紀訳) 医者がピギーにコーヒーを渡した。 (アン・ビーティ『愛している』20、青山 南訳) フィリッパはモーリスの少しもうろたえない皮肉っぽい視線をなかば意識して戸口に立っていた。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳) 名前はなんて言うんだろう。アルタグラシア・モラレス夫人? それともアマンティーナ・フィゲロア夫人? それともフィロミーナ・メルカド夫人? そういう名前をおれはこよなく愛している。それは一つの純粋な詩なのだ。 (ロバート・シルヴァーバーグ『内死』1、中村保男・大谷豪見訳) カティンのやつ、あいつは過去しか眼中にないんだ。そりゃ、過去は、今が明日をつくるみたいに今をつくったものだし、キャプテン、まわりじゃ河がごうごうと流れてんだぜ。 (サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』2、伊藤典夫訳) メリックはこの場所に生気を吹きこんでいるのはふたりの心臓の鼓動なのであり、ふたりがいなくなるとすぐに、滝の流れは止まりツバメも姿を消すのではないかと考えることがあった。 (ルーシャス・シェパード『竜のグリオールに絵を描いた男』2、内田昌之訳) ホリー独特のものの考え方は、チェスターの話の中に無意識のうちに入りこんでいる。 (アン・ビーティ『コニーアイランド』道下匡子訳) それわたしのよ──とラ・マーガは言って、それを取り返そうとした。 (コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・108、土岐恒二訳) よく引用されるバークリーのことばに、「存在するということは、知覚されること」ということばがある。 (ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』4、小田島雄志・小田島則子訳) そしてフィリッパは母にキスをした。何もかも簡単だった。すばらしく簡単だった。愛することを怖れる必要はないとわかるまで、どうしてこんなに時間がかかったのだろう。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳) それが彼の心を期待でいっぱいにした。なんについての期待か?──それは彼にも確かではなかった。フリーマンはなおも自分のもたぬものに憧(あこが)れている人間なのだ (マラマッド『湖上の貴婦人』加島祥造訳) デイヴィッドには、大人たちがどうして顔と心で別々のことを言うのかさっぱり理解できなかったが、そんなことはもう馴れっこだった。 (ロバート・シルヴァーバーグ『内死』2、中村保男・大谷豪見訳) しかし、霧が晴れるにつれてさらに輝きを増した一対の窓の黄色い灯は、ダルグリッシュをヒューソン夫妻のカテージへと引き寄せた。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳) ムアドディブはすべての経験にそれ自体の教えがあることを知っていたのだ。 (フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第1巻、矢野 徹訳) 「二つの世界に住む人は誰でも」ヴィットリアは言った。「複雑な生活を余儀なくされるのよ」 (ジョアナ・ラス『フィーメール・マン』第五部・Ⅺ、友枝康子訳) ガーニイはいつも、ぴったりとくる引用をしましたね。 (フランク・ハーバート『デューン 砂の惑星』第3巻、矢野 徹訳) 食事の間中、レイは自分のことばかり話していた──配役、批評、敵に勝つ喜び。ダニエルはこの人物の抱く、虚栄心と飽くことのない賞讃への渇望をはじめて目のあたりにした。 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』14、友枝康子訳) だが、あのジョニーからあふれ出しているものは美しい、恐ろしいほど美しい。 (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳) マーサはいつもそれを、カウリーでの日々の不安と焦燥がそれを記憶に焼きつけてしまい、そのため思いだすことがたやすいのだというふうに考えるのだった。 (ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』2、深町真理子訳) フィンガルは心配なんかしていなかった。ただくたびれて神経がピリピリしているだけだった。 (ジョン・ヴァーリイ『汝、コンピューターの夢』小隅 黎訳) ホッブスが何度もくりかえし強調したことと言えば、明晰な定義は幾何学にだけじゃなくて明晰な思考にも肝心なものだということだ。 (ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』3、小田島雄志・小田島則子訳) ガウスゴーフェルは一目でチェルパスを憎んだ。──憎しみは、ときには恋とおなじほど自然で奇跡的なものなのである。 (コードウェイナー・スミス『夢幻世界へ』伊藤典夫訳) ヒューゴは“チーズ”という言葉を知っている。自分の名と同じくらいよく知っている。ある種の言葉を聞くと目をぱっと輝かせ、耳をぴんと立てる彼の仕草がわたしにはいとおしい。 (アン・ビーティ『待つ』亀井よし子訳) こうしたすべて、そしてその千倍ほどの多くの事柄が、この啓示の瞬間にオバニオンの頭の中でくっきりと浮かび上がった。 (シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』13、若島 正訳) タロス博士は観衆の想像力から多くのものを引き出した。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』32、岡部宏之訳) 「あんたはもうちょっと空中浮揚を練習すべきだと思わないかい?」ロウの無言の問いが、がやがやいう話し声のかげから、ぴーんと明瞭に伝わってきた。 (ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』荒野、深町真理子訳) 〈あの子はこの先、どれだけ苦しむことになるのだろう〉と呟きながらも、ブルーノは優しげな眼で彼の後を追った。 (サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳) 「ありがとう」とピギーはいった。ジェーンの亡霊がいわせたのだった。 (アン・ビーティ『愛している』20、青山 南訳) ソーザが超能力のなんらかの証拠を見せるとき、かれは常にはっきりと異常なほどの関心を示すのだ。 (マーガレット・セント・クレア『アルタイルから来たイルカ』10、矢野 徹訳) その物体が近づいてくるにつれ、まずキャリエルに、数ミリ秒遅れてケフにも、その物体の形がはっきりとわかるようになった。 (マキャフリー&ナイ『魔法の船』5、嶋田洋一訳) 彼は雲をこんなに近くから見たことがなかった。ジョンは雲が好きだった。 (ル・クレジオ『童児神の山』豊崎光一・佐藤領時訳) 「母か」エルグ・ダールグレンは何か不調和なものを見つけたように微笑した。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』12、藤井かよ訳) 人生ってものはすばらしいものなんだよ、ケイト。一人っきりでは生きられないものなんだ、だれかほかの者と分けあうものなんだね。だから、相手の苦しみは自分の苦しみなのだよ。 (ジョン・ゴールズワージー『陪審員』龍口直太郎訳) これこそ、ラルフ・ストレングだった。いま、ストレングはぼくたちにむかってにっこりと笑い、自信たっぷりなようすで、落ち着きはらって立ち去っていく。 (マイケル・コニイ『ブロントメク!』2、遠山峻征訳) まるでシプリアーノはラモンの顔に、自分自身をさがしているかのようだった。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・12、宮西豊逸訳) 一方、ドウェインの狂気はどんどん進行していた。ある晩、彼は新しいミルドレッド・バリー記念芸術センターの真上の空に、十一個の月を見た。 (カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』第4章、浅倉久志訳) 「アーヴァ夫人!」と彼は呼んだ。「あなたとお話がしたいのです!」 (フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山岸 真訳) 「エカテリーナ」とギュンターがやさしく呼びかけた。「どれだけ寝ていないんだい? 自分の胸にきいてごらん。自分じゃなくて覚醒剤に考えさせてしまっているよ」 (マイクル・スワンウィック『グリュフォンの卵』小川 隆訳) マルティンは服を着終えたとき、《そう、それじゃ、一人にさせて》というアレハンドラのあの恐ろしい言葉を耳にしたミラドールでのあの夜明けをふたたび思いだしていた。 (サバト「英雄たちと墓」第I部・20、安藤哲行訳) いくら積分社会数学にくわしくても、ヘアーの内部には分割がある。最古で最悪のパラドックスのように、そこには部分への分割がある。 (ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳) 二人とも人の仕事を批評したり、他人の才能で肥え太ることしかできないものだから、モーリスが創作的な仕事をしているのが我慢ならなかったのよ。よくあることだわ。芸術に寄生する人たちの創作家に対する嫉妬。 (P・D・ジェイムズ『不自然な死体』第三部・3、青木久恵訳) それでもおれは窓を降ろした。イーニアス・カオリンの庭園にただよう馨(かぐわ)しい香りを嗅ぐには、窓をあけるしかないからだ。 (デイヴィッド・ブリン『キルン・ピープル』下・第四部・72、酒井昭伸訳) 「ほら、リーシャ──この木はこの花をつけてるだろ。そうできる(、、、)からだ。この木だけがこういうすてきな花をつけることができる。 (ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』2、金子 司訳) デボラと庭を見れば、それが絶えざる(、、、、)創造であることは明らかだった。つまり、ぼくが言いたいのは、庭が毎日、毎時間、新しくなっていたということだ。 (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十六章、榊原晃三・南條郁子訳) 「ねえきみ、自分の感情を反映させてはいかんよ。わたしがマイロンをほめるときは、単に彼を(、、)ほめているのであって、別にきみをけなしているわけじゃないんだから」 (ゴア・ヴィダール『マイラ』33、永井 淳訳) 「あたしはいまでもあなたの味方です」イネスは彼に近づいてそういった。恥ずかしがり屋の恋人がそっと近づいて、愛しているわ、というときのように。 (アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳) ラングには、彼女のばかげた気まぐれを満たしてやろうとするとき、彼女の饒舌な叱責がうれしかった。 (J・G・バラード『ハイ-ライズ』16、村上博基訳) じつはね、とプールは彼女にいった。向こうの宇宙にはさらにゲートがあって、またべつの宇宙に続いている (スティーヴン・バクスター『虚空のリング』下・第五部・32、小木曽絢子訳) フォードはこぶしでコンソールを叩き、そのドンという音を聞いていた。「ゼイフォード、このドンという音を忘れてたよ。つまり、この音とかそういうことを。 (オーエン・コルファ『新銀河ヒッチハイク・ガイド』第3章、安原和見訳) ジークは逃げ出しそうになったが、新たな音に注意を引かれた── (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』25、市田 泉訳) ロビンはますを眺めていた。 (シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とブフ』16、若島 正訳) なぜなら、ブルーノが言うように、精神の悲劇的な不安定さの一つは、また、その最も深みのある繊細さの一つは肉を通してでなければ現れないからだ。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・17、安藤哲行訳) ミリアムの手もとをのぞきこんで、彼女が半分をクレヨンで、半分を鉛筆でしあげている作品に驚嘆した (ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』ヤコブのあつもの、深町真理子訳) とにかく行動することがラムジー夫人の本能だった (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・11、御輿哲也訳) 全行引用詩『ORDINARY WORLD°』 2/5 へ
2016年01月19日
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「しかし、永遠の生命の目的はなんなのだろう?」コヴリンはたずねた。 (チェーホフ『黒衣の僧』5、原 卓也訳) 孤独よりも悪いことがいくらもあることを、ケイトは身にしみて知っていた。 (P・D・ジェイムズ『秘密』第二部・2、青木久恵訳) わたしはハンスの眼の下にわたしの顔があることを意識していた。まるでわたしの顔だちの一つ一つが、その形に苦しんでいるかのように。 (シャルル・プリニエ『醜女の日記』一九三七年四月十日、関 義訳) ジョニーにはそうなりえたかもしれないもう一人のジョニーの影のようなものがある。 (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳) スーザンたちは何か昔の話の結末について言いあっている。みんなの記憶がそれぞれ違っている。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳) ミス・キャロルが一瞬こわばった指をのばして、両の手のひらをねじりあわせ、そしてやがて話しはじめると、一同はただひとりきりの人間になって耳をすました…… (ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』5、深町真理子訳) シプリアーノはやはり一個の力なのだ。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』下・20、宮西豊逸訳) ヘンリイの神経と血液とはその瞬間をはっきりと記憶しており、そして、死ぬまでそれを忘れはしないだろう。 (P・D・ジェイムズ『黒い塔』3・2、小泉喜美子訳) ブルーアーの獲物を狙うような愛相笑いを見たフィリッパには、ガブリエルがなぜ彼に惹かれたのか理解できた。特異な顔、一風変わった顔に彼はいつも惹かれる。そうでなければ、フィリッパを相手にしなかったはずだ。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳) ミンゴラにとっては蜘蛛の巣の動きや、ロウソクが投げる不規則な影が知覚できない呼吸のしるしだった。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳) おれはトーニの心を読むまいと必死に抵抗しなければならなかった。間違った答ではなく、正しい答をつかむのがこわかったのだ。 (ロバート・シルヴァーバーグ『内死』8、中村保男・大谷豪見訳) コンラッドは人とそれを取り巻く環境──都市、ジャングル、川や人々──との間に、科学がまとめて否定するような意義深い関係を確立する。 (ウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』山形浩生訳) 午前の授業がなかばほど進むころには、アンナがあんなにも躍起になっていた問題というのが、わたしにもすこしはわかってきた。 (ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』囚われ人、深町真理子訳) 「詩は万人によってつくられなければならない。ただ一人によってではなく。」というロートレアモンのことばに耳を傾けましょう。 (ポール・エリュアール『詩の明証』平井照敏訳) 奇妙なことにマルティンの眼には涙が溢れ、体は熱でもあるように震えていた。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・17、安藤哲行訳) ジェレミーの父親の忠告はたいてい、なんらかの形で巨大蜘蛛に関係している。 (ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳) クリフォード・ブラッドリーがエドウィンをああも怖れていたのはそのせいじゃないかと思います (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・1、青木久恵訳) きみは実在しているものについて語る、セヴェリアン。こうして、きみはまだ実在しているものを保持しているのだよ。 (ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳) とつぜん、二コルの声が聞こえた。でかけていなかったのだ。階上でお風呂にはいっていたのだ。 (アン・ビーティ『愛している』28、青山 南訳) ぼくはジンシヌラの新しい言葉を受けとめる新しい径のついた新しい〈灯心草〉をつくった。 (ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳) 物語だよ、フローラ。 (ロジャー・ゼラズニイ『ユニコーンの徴(しるし)』3、岡部宏之訳) どのオセロもまだ恋をするには到っていない (サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳) わたしはベッドに横になったまま、フランクがバスルームから出てくるのを待っている。 (アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳) 誰にだって愛情を期待する権利はない、とダルグリッシュは思った。だが、それでもわれわれは期待する。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・5、青木久恵訳) だが、カドフェルは完全に取り違えていたのだ。人はなんと簡単にだまされることであろう。一つひとつの言葉、一つひとつの表情がカドフェルには正しく読み取れなかったということだ! (E・ピーターズ『死者の身代金』10、岡本浜江訳) セヴェリアン、愛しているわ! 一緒にいた時に、わたしはあんたに恋焦がれていた。そして、何十回もあんたにわたしの体をあげようとしたのよ。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』29、岡部宏之訳) ボウアディシアは気のきいた微笑を浮かべながらかれを眺めていた。そろそろ倦きてきた、ピンクレディをすすった。 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』5、友枝康子訳) 「今、わたしの存在を維持しているのはだれか? オッパシゴか? 休んでもいいよ、オッパシゴ」 (ジーン・ウルフ『新しい太陽のウールス』50、岡部宏之訳) ダールグレンは自分の半白の髪やひげや口にさわり、眼を閉じた。彼は倒れなかった。 (フィリス・ゴッドリーブ『オー・マスター・キャリバン!』2、藤井かよ訳) 一瞬俺たちは、エドが夢の話をするんじゃないかと恐れる。他人の夢の話を聞かされるほどうんざりなことはない。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳) そのロバたちが帰ってくるまでのあいだ、空いている厩舎が、ビーンポールとぼくの寝床になるのだった。 (ジョン・クリストファー『トリポッド 3 潜入』2、中原尚哉訳) どっちが本物のパーヴェルです? 両方とも本物ではないのでは? (イアン・ワトスン『ヨナ・キット』21、飯田隆昭訳) もう一人のピーターがこう口を切った。「どう見ても、ぼくらはみんな同じくらい本物ですね。つまり、あなたとぼくとは、例の扇子のそれぞれちがった骨の上に存在しているからなんですな、これは」 (ジョン・ウィンダム『もうひとりの自分』大西尹明訳) 「もちろんですとも」だが、それはパオロのあいさつにはこめられていなかった。 (グレッグ・イーガン『ワンの絨毯』山岸 真訳) ついにテンノが言った。「それはとんでもない選択ですよ」 (フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』32、宇佐川晶子訳) シプリアーノが邸から出て来た。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・13、宮西豊逸訳) 今日は木曜日だから、ヒルダは審判所に出かけている。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳) ソニアの香水や帰る時にそっと自分の肩に置いた掌のほうが、言葉よりも多くのことを語りかけていたように思える。 (コルタサル『すべての火は火』木村榮一訳) ジャスティンはヒロインに好感をもった。ヒロインの姿に自分の姿を重ねた。せめてそこに自分を見いだしたかったのだ── (デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』1、川副智子訳) ドアのうしろにバドリイ神父の黒い僧服が吊してあり、その上にはすり切れて形も崩れたベレー帽。 (P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・1、小泉喜美子訳) バリスの言葉の残酷さは、言葉そのものが消えたあとも、沈泥のように部屋の中に残っているようだった。 (ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』18、三田村 裕訳) フラズウェルとシーラとは、人間が負う重荷の責任を分ちあった。 (ロバート・シェクリー『人間の負う重荷』宇野利泰訳) ウィリアム・ブレイクの言葉がフィリッパの心にふと蘇った。(…)〈生あるものはすべからく神聖だ。命は命を楽しむ〉 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳) 極めて稀にだが、確かにアレハンドラがマルティンの傍でくつろいでいるときがあったようだ、 (サバト『英雄たちと墓』第I部・8、安藤哲行訳) きみがルシオのことを思い出すのも無理はない。今頃の時間になると、昔のことが懐かしく思い出されるものだ。 (コルタサル『水底譚』木村榮一訳) サムは気取っているふりをするが、気取っていなければそんなふりはしないのだ。 (キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』1、藤 真沙訳) ダヌンツィオを彼女はたいへん可愛がったと、新聞が書いている。可愛がったか。このばあさんの写真を見てごらん。どう可愛がったものやら。 (フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳) ニコルの悲しんでいるのは分かっていたが、じぶんの母親の死とどうやって折り合いをつけようとしているのかは、ルーシーにはさっぱり見当がつかなかった。 (アン・ビーティ『愛している』28、青山 南訳) 彼はラモンのそばへ来て立ち、ラモンの顔をちらと見あげた。が、ラモンの眉はひそめられていて、その目は中庭の向こう側にならぶ小屋のあたりの暗黒にすえられていた。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・13、宮西豊逸訳)バックの部屋から、五時に会いたいという電話があったときも、事態はいっこうに好転していなかった。彼のひどく上機嫌なようすがちょっと気になった。 (ゴア・ヴィダール『マイラ』30、永井 淳訳) 「では愛が終わったということですわ」メリセントはいっそう熱をこめていったが、それは心のすみっこがそれは嘘だと叫んでいたからだった。 (E・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳) ルーシーに分かったことは、なんだってそうなりうるのだということだった。そのとき以降、彼女はなにかに夢中になるルーシーになった。じぶんと状況を遠くからながめるルーシーになった。 (アン・ビーティ『愛している』25、青山 南訳) モコロとは、一、二度会ったことがある。威勢がよくて感じのいい男だった。それに、自分の型を持っていたな。型ってのは、やるべき仕事があればさ~っさと片づける腕のことだ。 (コルタサル『牡牛』木村榮一訳) 「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) 「自由というようなものもありませんよ」とドン・ラモンの静かな、太く低い、不気味な声がくりかえしているのを彼女は聞いた。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・4、宮西豊逸訳) ロナは自分がバリスの言葉を正しく聞きとったのかどうか確信がもてなかった。しかし、もう一度くり返してくれとは頼まなかった。 (ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』22、三田村 裕訳) シルフが木立の中に隠してあった自転車に案内してくれたので、モードはステージ・サイドまで漕いでいった。 (マイクル・スワンウィック『ウォールデン・スリー』小川 隆訳) メアリ=アンの完全無缺な肉体には何かしらわたしを興奮させるものがある。彼女の中にか、わたしの中にか、それとも二人の中にあるのかわからないけれども、探りださなければならない秘密があることは確かだ。 (ゴア・ヴィダール『マイラ』35、永井 淳訳) エスターの瞼は少し細くなり、角膜から反射した黄色い灯の点を隠していた。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』27、藤井かよ訳) 彼女を追いもとめ、彼女に侵入しそうだったのは、シプリアーノの内部の未完成なものであった。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・12、宮西豊逸訳) 『図書館』がジェレミーとカールとタリスとエリザベスとエイミーを友だちにした。 (ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳) メイアーの言葉は感受性を感じさせた。ジェイン・ダルグリッシュは確かに彼にとって不死の存在に思えた。高齢の老人というのは、われわれの過去を作っているのだと彼は思った。 (P・D・ジェイムズ『策謀と欲望』第一章・6、青木久恵訳) 始まりは簡単だった、とジーンは思った。何事も始まりは簡単なものだ。表面は簡単だ。しかし深くなると複雑なものだ。 (ケイト・ウイルヘルム『杜松の時』5、友枝康子訳) ラウラが嘘をついたところでどうってことはない。あのよそよそしい口づけやしょっちゅう繰り返される沈黙と同じ類のものだと考えればいいのだ。そして、その沈黙の中にニーコが潜んでいるのだ。 (コルタサル『母の手紙』木村榮一訳) この国が生み出すことのできる最高のものは、男と男との何か強力な関係かもしれない、とケイトには思えた。結婚そのものは、つねに気まぐれなものだろう。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・9、宮西豊逸訳) 彼の望んでいることは、何があったかいっさいをダールグレンに告げ、それが良かったか悪かったかいっさい彼の判断に委せることだった。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』26、藤井かよ訳) 「いいです! 大へんいいです!」とシプリアーノは言いながら、なおも相手の男の顔を、おどろいたような、子供っぽい、さぐるような黒い目で見つめた。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・12、宮西豊逸訳) 審査官はフェリックの眼をじっと覗きこんだが、その視線は人間くさく、一種の確信を欠いていた。 (ノーマン・スピンラッド『鉄の夢』1、荒俣 宏訳) パーシー様、お手紙でございます。 (シェイクスピア『ヘンリー四世 第一部』第五幕・第二場、中野好夫訳) ウィスタン、口を出さないで。 (ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』上・&、志村正雄訳) セルバンテスは小説の小説を書き、シェイクスピアは芝居の中で芝居の批評をし、ベラスケスは描いている自分の姿を描いた。 (パス『弓と竪琴』詩と歴史・英雄的世界、牛島信明訳) 忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函など無視する魂を持っているのだ。 (ロバート・リンド『遺失物』行方昭夫訳) 店の入り口に、セリジー夫妻の姿を見つけるといきなり、ルネは、店の奥からハンカチを振って叫んだ、 (ケッセル『昼顔』一、堀口大學訳) ウィンクホーストは叫ぼうとはしなかった──。いかにも落ち着いて、彼は腰を掛けた──。 (ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急報』中国人の洗濯屋、諏訪 優訳) 「ええ、見えるわ」セリア・マウはいった。「よく見えるわよ、あのクソ野郎ども!」 (M・ジョン・ハリスン『ライト』17、小野田和子訳) 彼は、その態度や高価な衣服からみて上流階級と思われる背の高い美男子がアーヴァに近づくのを見た。彼女はにっこり笑って立ちあがり、彼を小屋に連れこんだ。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳) 「いやよ、マーク!! いや! いや! いや!」とメァリーは悲鳴をあげ、壇のほうへ引きずられながら恐怖のあまりに大小便をもらす。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) しかしエミリ・ディキンスンは耳や目を閉じようとはしなかった。 (トーマス・H・ジョンスン『エミリ・ディキンスン評伝』第八章、新倉俊一・鵜野ひろ子訳) ルイーズが言う。「とにかく、この前より楽よ。ドッグフードしか食べなかった頃のことを思えば」 (ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳) エルメートは水のお代わりを求め、ごくごくと飲みほした。「でも、あのころを思い出しはせんのかな、アルビナ? クチュマターネスのことを?」 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳) 「ええ、他のはありませんし、今後もないと思います」とオルジフ・ソウクルは断定的にいった。 (イヴァン・ヴィスコチル『飛ぶ夢、……』千野栄一訳) 自分自身の空を捜し求めている巨大な白い鳥のように、ミリアムは真下までくると立ちどまった。 (J・G・バラード『夢幻会社』25、増田まもる訳) 「ああ、ぼくは大丈夫だよ。ようやく大丈夫になるさ。心配しないでくれ。それから見舞いには来ないで。G・K・チェスタートンの言葉にこういうのがあっただろう。”人生を決して信用せず、かつ人生を愛することを学ばねばならない”。ぼくはとうとう学べなかった。」 (P・D・ジェイムズ『原罪』第四章・49、青木久恵訳) アンナが言い返す。「どうしてわかるのよ?」 (ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳) 「どうして、きまっているんです?」軽い、どちらかというとひやかし半分の口調のつもりらしかったが、ダルグリッシュの耳は怒りを含んだ鋭い防御の響きを逃さなかった。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・5、青木久恵訳) 「いいえ、そうは言ってませんよ」シスター・ブリジェットは面白がっていた。「わたしはただ、美は表面的なものにすぎないという考えに疑問を呈しているだけ」シスターはコーヒー・カップを両手で包みこむように持った。 (ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』4、成川裕子訳) 「まあ、ルノアールだわ!」 (P・D・ジェイムズ『女には向かない職業』3、小泉喜美子訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) わたしは思わず息を呑み、その拍子にアメリアの長い髪を何本か吸いこんでしまったことに気づいた。 (クリストファー・プリースト『スペース・マシーン』5・4、中村保男訳) ぼくたちはゴーロワーズを吸った。ジョニーはコニャックならほんの少し、タバコは日に八本から十本くらいなら吸ってもいいと言われていた。 (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳) スヴェンのいうとおりだった。シルヴァニアンはビーズつなぎに苦心する必要があった。彼は手仕事をしている間は、考える必要はなかったのだ。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』29、藤井かよ訳) ぼくはジョアンナのところへおやすみをいいに行くつもりだった。そういう小さな礼儀が、女性にはどんなに大きな意味をもつか、ぼくは知っているからだ。 (キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』4、藤 真沙訳) クレールのそばにいると秋がいつもとちがって見えるんだ、とあなたは書いてきたわ。 (フエンテス『純な魂』木村榮一訳) ヘレンは冷たく笑った。「いいわ、いただくわ、ありがとう。でも、ひとりでも──いい、ひとりでもよ──カメラマンがいたら、わたしは帰るわよ。なんの理由がなくても、帰ってしまうかもしれなくてよ。それでいい?」 (コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』5、伊藤典夫訳) するとファーバーの心の中になにか複雑な、苦しいものがこみ上げてきて、喉がつまり、目が熱くなって、いつのまにか自分でも気がつかぬうちにしゃべっていた──静かな部屋に妙に声がひびく──帰らないで、ここにいっしょにいてくれ。二度と出ていかないでくれと頼んでいる自分の声だった。 (ガードナー・ドゾア『異星の人』5、水嶋正路訳) 「そこのテーブル・クロスの上にパンがある」とジョニーは宙を見つめたまま言う。「それは疑いもなく固いもので、何とも言えない色艶をしていて、いい香りがする。それはおれじゃないあるものだ。おれとは別のもの。おれの外にあるものだ。(…)」 (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳) 君はようやくわかってくれたんだね。かつて僕が持っていたものをまた手に入れたんだ。今僕はそれを所有することができる。僕はふたたび君を見つけたんだよ、クレール。 (フエンテス『純な魂』木村榮一訳) ベン=アミは大人の話を聞いている子供が感じるような、あるいはその逆の、欲求不満を感じはじめていた。「わかるように話してくれ」 (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面13、嶋田洋一訳) ある哲学者の言葉を、確かロジャー・スクルートンだったと思うけど、思い出しましてね。”想像したものが与える慰めは想像上の慰めではない” (P・D・ジェイムズ『殺人展示室』第二部・19、青木久恵訳) ピエールとセヴリーヌのふたりは、顔を見合わせて、笑いあった。衰えるものは何ひとつ見のがすことのない若々しい朝の光も、若いふたりの顔には寛大だった。 (ケッセル『昼顔』三、堀口大學訳) ふとヘアーは、この世界がどれほどうまくまとまっているか、人びとがそこにどれほどしっくり適応しているかを実感した。その継ぎ目のない行動場のなかに、この自分も不安をかかえたままでやはり適応しているのだ。 (ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳) サディーはとても優しい子でした。詩は情熱だけれど、人生のすべてである必要はないということを教えてくれました。 (P・D・ジェイムズ『神学校の死』第四部、青木久恵訳) 不安になって、ハリーは部屋のなかをうろついた。寄(よせ)木(ぎ)細工の床が彼の足どりの不安さを反響する。 (ブライアン・オールディス『外がわ』井上一夫訳) ゾフィーがいなければぼくは無です。彼女がいてくれてこそ、ぼくはいっさいとなるのです。 (ノヴァーリス『日記』I・一七九七年六月六日[八十日]、今泉文子訳) 「わたしは生得観念が存在しないことを証明するつもりだ」とコンディヤックはいった。「すべての愚かな哲学者どもを永久に論破してやる。心の中には、知覚によってとりいれられたものしかないことを証明してやる。 (R・A・ラファティ『コンディヤックの石像』浅倉久志訳) 骨と肉だけが顔を作るのではない──とブルーノは思った──つまり、顔は体に比べればそれほど物理的なものではない、顔は目の表情、口の動き、皺をはじめとして、魂が肉を通して自らを現すそうした微妙な属性すべてによって特徴づけられるのだ。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・2、安藤哲行訳) 母親がさまざまな狂信者とかかわりあったため、ヘレンは鋭い人間観察家に成長していた。人びとの筋肉には各人の秘めた歴史が刻まれており、道ですれちがう赤の他人でさえ、(本人が望むと否とにかかわらず)そのもっとも内なる秘密を明かしていることを、ヘレンは知っていた。 (コードウェイナー・スミス『星の海に魂の帆をかけた女』4、伊藤典夫訳) 銀色のホットパンツを身につけた、とても若くて色の黒い一人の女が、アブの左腕を見つめ、小指を見つめる。それが一匹のタランチュラとなって自分の腕を這いあがってくるかのように。(アブは全身が非常に毛深かった)。 (トマス・M・ディッシュ『334』死体・1、増田まもる訳) その時だしぬけにフリエータが明るいキャラメル色の眼でぼくをじっと見つめて、低いけれども力強い声で「キスして」と言った。こちらがしたいと思っていることを向こうから言い出してくれたので、一瞬ぼくは自分の耳が信じられず、もう一度今の言葉をくり返してくれないかと言いそうになった。 (カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』世界一の美少女、木村榮一訳) ばらばらに砕けたイメージが、カールの頭の中で静かに爆発した。そして、彼はさっと音もなく自分の身体から抜け出していた。遠く離れたところからくっきりと明白にランチルームにすわっている自分の姿を見た。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ホセリト、鮎川信夫訳) レイン・チャニングの別荘に着いて五分とたたぬうちに、わたしのスーツはずいぶんおとなしくなり、傷ついた花のように両肩から垂れさがった。 (J・G・バラード『風にさよならをいおう』浅倉久志訳) プチ・マニュエルが彼女を見上げたまなざしは、踏みにじられた花を思わせた。 (J・G・バラード『コーラルDの彫刻師』浅倉久志訳) アイリーンがちょっとためらってから、にこっとして言った。「あれはきっと、イギリス英語で『ようこそ』という意味なのよ」 (チャールズ・ボーモント『レディに捧げる歌』矢野浩三郎訳) リミットは慎重にあたりを見回してから、ブリーフケースを数インチほど開けて、メアリの顔のところに差し上げる。中をのぞきこんだときの表情から、メアリには何であるかわかったようだ。 (K・W・ジーター『ドクター・アダー』黒丸 尚訳) ソニヤは悲鳴をやめ、しわくちゃになったシーツを引っぱり上げて台なしになった魅力を隠すと、みっともなくのどを鳴らして悲劇的な表現に熱中しはじめた。ぼくはものめずらしい気持で彼女を仔細に眺めたが、それは演技だった。でも彼女は女なんだから特に演技してみせることもないのだ、この意味がわかるだろうか? (キリル・ボンフィリオリ『深き森は悪魔のにおい』2、藤 真沙訳) クセノパネスは老年になってから、どちらを見ても、ものがみなあっというまに「統一性」へ駆けもどってしまうと不平を言った。あきあきするほど多様な形態のなかにおなじ本質を見ることが彼にはうんざりだった。 (エマソン『自然』五、酒本雅之訳) ジョーは議論にそなえて男のほうに向き直り、言葉をつづけようとした。そのとき、ジョーはだれに向かって話しかけようとしていたかを悟った。 (フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』5、汀 一弘訳) きみのフルネームは、アリス・プレザンス・リデルかい? (ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳) オノリコいわく。物語るだけでは十分でない。重要なのは語り継ぐことだ。つまり、すでに語られた物語を、自分のために入手し、自分の目的のために利用し、自分の目標に隷属させたり、あるいは語り継ぐことによって変容させたりする語りである。言い換えるなら、メンドリは、卵が別の卵を産むために用いる手段だということだ。 (ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』覚書、園田みどり訳) 「チャーリィはまだ理想主義者なのさ」ハチャーが言った。「世界は論理的じゃないということを認めようとしないんだ」 (ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳) 「それでは、いったい何の目的でこの世界はつくられたのでしょう」とカンディードはいった。 (ヴォルテール『カンディード』第二十一章、吉村正一郎訳) 詩人のロン・ブランリスはいいました、「われわれは驚きの泉なのです!」と。 (フランク・ハーバート『デューン砂漠の神皇帝』第3巻、矢野 徹訳) だが、ジャックはヴォーナンからなんの情報も聞き出してはいなかった。そして、愚かにも、わたしはなにも気づかなかったのだ。 (ロバート・シルヴァーバーグ『時の仮面』16、浅倉久志訳) マルティンはふたたび視線を上げた、今度はほんとうにブルーノを見るためだったが、まるで謎を解く鍵を教えてもらおうとするような眼差しだった、 (サバト『英雄たちと墓』第IV部・2、安藤哲行訳) ベルナルド・イグレシアスは教会を意味するイグレシアスという名をもちながら、ついにその名に救われることはなかったが、考えてみると教会というのは人を救ったりはしないものだ。 (カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』すべてが愛を打ち破る、木村榮一訳) ロナの足がロナ自身に告げた。アーケードへ行って、この雪の夜の光とぬくもりに包まれながら、しばらく歩きまわろう。 (ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』4、三田村 裕訳) ファウラー教授は、額をおおう黄土色の土をぬぐった。ぬぐいそこねた土は、まだ額に残っている。 (アーサー・C・クラーク『時の矢』酒井昭伸訳) ティムの顔は、さまざまな感情の去来する場だった。 (ブライアン・W・オールディス『神様ごっこ』浅倉久志訳) 場所ね、ドラゴーナ、しっかりと立っていられるようなところ。 (フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳) エンダーには、そんな場所を自分の中にみつけることはできなかった。 (オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』4、野口幸夫訳) イレーヌの顔には、そういうことがなにか留(とど)められているかと考えて、その顔をじっと眺めてみたが、そこにはなにひとつ留められていないことが、見てとれるような気がした。 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』7、菅野昭正訳) これもいつかブルーノが彼に言うことになるが、わたしたちはそんなふうにして、このもろい死すべき肉体を通して、永遠を仄かに見ることができるように作られているからである。 (サバト『英雄たちと墓』第II部・4、安藤哲行訳) ジミーが二人に見えた。なんでも二つに見えた。 (スティーヴン・キング『しなやかな銃弾のバラード』山本光伸訳) ジミーをいらいらさせるのは、そういうこまかい話である。 (ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳) 「確かに世界は図式的なアリストテレス的論理では動いていないね」シプリィも認めた。「それは完全に演繹(えんえき)的だからね。真理からスタートする。そしてそこから世界がしたがっているはずの法則が導き出される。機械が得意とするのはそれさ。ところが現実生活では、人間は経験で得た今の世界のあり方から出発する。それからその理由を推察し、それが実際のものに近いものでありますようにと祈るわけだ。帰納法さ。(…)」 (ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳) ク・メルが人間に通じているのは、なによりも自分が人間ではないからだった。ク・メルは似せることで学んだが、似せるという行為は意識的なものである。 (コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳) ほんの一瞬ではあったが、娼婦のシオマーラを通してぼくは二度と会うことのなかったあの女の子を思い出したのだ。 (カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』最後の失敗、木村榮一訳) わたしのフルネームはアリス・プレザンス・リデルよ。 (ジェフ・ヌーン『未来少女アリス』風間賢二訳) アリスはいつも二重に裏切られたような気分になるのだった──まず、だまされていたということに、そして次に、最後までちゃんとだましおおせてもらえなかったということに。 (トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』37、細美遙子訳) だが、フェリシティ・フレイにはそうさせるな。 (ジョン・ウィンダム『野の花』大西尹明訳) ディディは手すりに駆けよって、まるでクジラたちが死のダンスを踊っているところへ手をさしのべようとでもするように、手すりから身を乗りだした。風が顔に吹きよせたが、風などまったく吹いていなかった。 (ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』第一部・10、冬川 亘訳) 「さ、これでかたづいた」ビングは満足げにいうと、ガラスの数珠をポケットに入れ、カンバス地のスーツケースを取り上げた。 (トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』22、細見遙子訳) ロジャーの目をとおして、われわれはかれが見たものを見た。 (フレデリック・ポール『マン・プラス』15、矢野 徹訳) 私の過去のいっさいのものは私があの不幸な男の頭に触れた日以来、すべて予兆となってしまった。アダにたいする私の愛、彼らはそれを中傷するだろうし、そのためにさまざまな言葉を考えだすだろう。 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳)「連中のことを気にしてはいかんよ、リーシャ」彼があのすてきななまりでいった。「けっして。東洋の古いことわざがある。”犬は吠えるがキャラヴァンは進む。”礼儀を知らず、または嫉妬した犬が吠えたからといって、きみはけっして自分のキャラヴァンの速度をゆるめてはならないよ」 (ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』3、金子 司訳) イルマの手の中が空であることが見えずにそこに抱かれている思い出を見て、こういった。「ああ……かわいい坊やだね」 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第五部・15、小川 隆訳) ハヴェル先生は、伝聞や逸話もまた、人間そのものと同じく老化と忘却の掟に従うものだということをよく知っていた。 (ミラン・クンデラ『ハヴェル先生の二十年後』3、沼野充義訳) 「他人が支配しているものを通じて幸福を求めるな」シプリィは答えた。「さもないと結局は支配しているやつらの奴隷になる」 (ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』15、大島 豊訳) カントは証明してくれた。われわれは、あるがままの物自体を知ることはない。ただその物がわれわれの心に映るさまだけを知るのであると。 (ハイネ『哲学(てつがく)革命』伊藤 勉訳) 生命の本質は変化だと、サンプソン博士はかつて言っていた。死の本質は不動性だった。死体にすら、その肉がくさるかぎりは、そのめしいた目にウジがむらがり、破れた腸から流れ出る液をハエが吸うかぎりは、生命の痕跡があった。 (ロバート・シェクリー『石化世界』酒匂真理子訳) ダーナ・キャリルンドもおそらくかれと同じくらいの人間通だったが、その手段も目的もマーティンとはちがっていた──つまり、それは人間の精神の健康を改善するためではなく、人間たちをもっと大きな図式に当てはめるためだった。 (グレッグ・ベア『斜線都市』上・第二次サーチ結果・5/、冬川 亘訳) 空気はゆるみつつあり、空も明るくなってオレンジ色からもとの青色へともどりつつあった。そして、前方に半透明のジュリアの姿がふたたびあらわれたとき、クロフォードはそれを予期していたことに気づいた。 (ティム・パワーズ『石の夢』上・第一部・第十一章、浅井 修訳) バードはまたおちつかなげに歩きまわり、弁護士というよりは、むしろ床(ゆか)を相手に話をしているようだった。 (オスカー・シーゲル『カシュラの庭』森川弘子訳) マルガリータ夫人はこう呟いた『これはきっと重大なことなんだわ。誰かが、わたしの魂に水をもたらすのは夜のほうがいいと考えて、こんなふうにしたのよ』 (フェリスベルト・エルナンデス『水に浮かんだ家』平田 渡訳) ジュアンが私の目をまっすぐ覗くようにして見た。すると一瞬また体に震えが走り、テーブルにいるのは本当はジュアンと私だけではないかというとっても奇妙な感覚に捉われた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第一部、飯田隆昭訳) アグノル・ハリトは率(そつ)直(ちょく)に、わたしたちが洞窟の入り口に達したら、そのあとは地獄さながらの場所に入りこむことになるだろうと警告した。あとでわかったことだが、アグノル・ハリトの警告はあまりにもひかえめなものだった。 (ニクツィン・ダイアリス『サファイアの女神』東谷真知子訳) ソネットの厳しい規則が詩作に高い水準を強制できるように、科学的な事実に忠実であることは、よりよいSFを生みださせることができる。これを無視するのは、自由詩型についてのロバート・フロストの言葉──”それはネットを下ろしてテニスをするのに似ている”──を思いおこさせる。 (グレゴリイ・ベンフォード『リディーマー号』のあとがき、山高 昭訳) ガスは考えた──あとどれぐらいしたら、ハルジーは、自分が自分に仕掛けた罠に気づくだろうか? (アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳) デ=セデギはドラム缶のまわりに集まっている男たちの中に彼の姿をさがし、両手をひろげてどうしようもないというポーズをした。ミンゴラはあからさまな挑(ちよう)戦(せん)という概念に縛られて、男のわきまで歩いていった。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳) メグはコプリー氏がアマチュアのヴァイオリニストだったことを思い出した。今は手がリューマチがひどくて、ヴァイオリンを持つどころではないが、楽器は隅のタンスの上に今もケースに入ってのっている。 (P・D・ジェイムズ『朔望と欲望』第六章・51、青木久恵訳) 知的無責任者のほうが、じつは、ハンカー氏やバラロンガ卿のような非知性的な冒険者より、人間として邪悪なのではないか。 (H・G・ウェルズ『神々のような人ひと』第二部・三、水嶋正路訳) 「かつてはここもすばらしい世界だったのでしょうがね」とホートは答えた。「息子さんはこの星を憎んでいました。いやむしろ、もっと具体的にいえば、この星で彼が見たものを憎んでいました」 (オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・5、大森 望訳) 「ねえ、ギョーム」と彼女がふいに言った、ときおり見せるあの萎れたと言ってもいいような微笑みを浮かべながら、「そんなふうにして、火のなかになにを見つめてらっしゃるんですの? ……」 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』20、菅野昭正訳) レスティグは車を走らせた。(…)ひたすら車を駆った。そのようすはさながら、もし彼が想像力に富んだ男であったなら、本能に導かれてまっすぐ海へ帰ってゆくうみがめの子になぞらえただろうような、そんなひたむきさを持っていた。 (ハーラン・エリスン『バシリスク』深町真理子訳) ジュリーは目を閉じ、心の奥にしまった光のレースを取り出そうとする。頭蓋を飛び出した〈精神(エスプリ)〉のレースは大きく広がり、やがて森を包む雲になる。 (ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳) ジョージ・マレンドーフが自宅の玄関へと私道を歩いていくと、愛犬のピートが駆けよってきて、彼の両腕めがけてとびついた。犬は道路から跳びあがったが、そこでなにかが起きた。犬は消えてしまい、つかのま、いぶかしげな空中に、鳴き声だけがとり残されたのだ。 (R・A・ラファティ『七日間の恐怖』浅倉久志訳) イノックはポンプを押した。ヒシャクがいっぱいになると、男はそれを、イノックにさしだした。水は冷たかった。それではじめて、イノックは、自分ものどが渇いていたことを知り、ヒシャクの底まで飲みほした。 (クリフォード・D・シマック『中継ステーション』6、船戸牧子訳) スザンヌはまだ若すぎたし、それに物事のうわっつらばかり見て育った女だった、彼女は目に見えるものだけで満足していたのだ。 (ノサック『弟』2、中野孝次訳) キャスリンの脚が部屋に入ってくると、床板が少したわんだ。ギャビイの脚が続いた。 (キム・スタンリー・ロビンスン『荒れた岸辺』下・第四部・20、大西 憲訳) ステファンヌは私に夢中だ。私という病気にかかっていることがようやくわかった。こっちがなにをしようと、彼にとっては生涯、それは変わらないだろう。 (エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』8、佐宗鈴夫訳) メグは穏やかな口調で食い下がった。「でも、その声が自分の声ではないと、自分の潜在的な欲求ではないとどうしてわかるのでしょう。その声の言っていることは、自分の体験、個性、遺伝体質、内的欲求を通して考え出されたものにちがいありません。 (P・D・ジェイムズ『朔望と欲望』第六章・51、青木久恵訳) 死の十年前、フロイトが人間を総括して何と言っているか、御存じになりたくありませんか? 「心の奥深くでこれだけは確かだと思わざるを得ないのだが、わが愛すべき同胞たる人間たちは、僅かな例外の人物を除いて、大多数がまず何の価値も持たない存在である。」 (ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』11、斎藤昌三訳) だが、ボドキンは行ってしまっていた。ケランズはその重い足音がゆっくり階段を上がって、自分の部屋の中に消えてゆくのを聞いた。 (J・G・バラード『沈んだ世界』3、峰岸 久訳) 一瞬、わたしはまた夢を見ているような気分になった。城壁の狭間に狒狒が登っていたのだ。だがそれはまぐさをばりばり食べている馬と同様に、現実の動物で、ごみを投げつけると、トリスキールと同じように印象的な歯を剝き出した。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』28、岡部宏之訳) クリフォード・ブラッドリーは長い間待たされたにしてはかなりよく耐えていた。言うことにも矛盾はないし、毅然とした態度をとろうと努めていた。しかしすえたような恐怖の病菌を部屋の中まで持ちこんでいた。恐怖は人間の感情の中でもとりわけ隠し方がむずかしい。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第二部・15、青木久恵訳) ズィプティ、ズィプティ、ズィプティ、宇宙船と人工衛星。その通路は病院と天国が半々になったような臭いがし、そしてボズは泣きはじめた。 (トマス・M・ディッシュ『334』解放・3、増田まもる訳) 気をつけたほうがいいな、ロバート。きみはまたその鳴き声を耳にするかもしれんぞ。 (J・G・バラード『沈んだ世界』4、峰岸 久訳) バッリは寒さが気にならないようすで、コップのなかを、まるで自らの考えをそこに発見したかのように見つめていた。 (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳) わたしは目を閉じて、ブルーノの夢を想像してみようとする。だが、行きつくのはブルーノが夢に見そうもないことばかりだ。青い空。あるいは大地が冷えきったときの野原の無情さ。たとえそうしたものに気づいていたとしても、ブルーノはそれを悲しいとは思わないだろう。 (アン・ビーティ『駆けめぐる夢』亀井よし子訳) 「人は夢や希望といったものを一度持つと」と、ハドリーは少し考えてから説明しはじめた。「それをあきらめなければならなくなったあと、とてもつらい日々をすごさなきゃならなくなるものなんです。 (フィリップ・K・ディック『空間亀裂』14、佐藤龍雄訳) シェイクスピアの場合、語と語の音声関係に対する興味は、それらの語の全体的意味に対する興味とぴったり一致していた。ある語との出会いがどんな出会い方であろうと、彼はその語を確実に摑まえた。 (ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』上・2、岩崎宗治訳) リーはバッグを閉じ、老ヤク中ポーターを呼んで仕切りを後にする。背後では仕切りの壁がついに破れて、裂けて千切れて潰れる音。 (W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』赤見、山形浩生訳) ワンダが眼を開いて、新たな深淵に眼をこらした。 (ジャック・ウォマック『テラプレーン』11、黒丸 尚訳) こうなるとフェルナンドの狂的な公理の一つを認めないといけなくなる、偶然などありはしない、あるのは宿命だという。人は探しているものだけを見出すのであり、心のもっとも深く暗いところ、そのどこかに隠れているものを探す。そうでなければ二人の人間が同一人物に会ったとき、どうして二人の心に必ずしも同一の影響を与えるわけではない、そんなことになるのか? (サバト『英雄たちと墓』IV・3、安藤哲行訳) オーデンいわく、「詩は実際の効用をもたらすものにあらず」。 (ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』10、斎藤昌三訳) コプリー氏は静かに坐ったまま、古い説教や法話、よく使う聖句からインスピレーションを得ようとしているのか、せわしなくまばたきした。 (P・D・ジェイムズ『朔望と欲望』第六章・51、青木久恵訳) そして彼女はフェルナンドのそんな仕草をもどかしそうに待っていたみたいだった、まるでそれが彼の愛情の最大の表現ででもあるかのように。 (サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳) 彼女は低い天井を見つめていた。わたしはそこにもう一人のセヴェリアンがいるように感じた。ドルカスの心の中にだけ存在する、優しくて気高いセヴェリアンが。他人に最も親しい気分で話をしている時には、だれもが、話し相手と信じる人物について自分の抱いているイメージに向かって、話をしているものだ。 (ジーン・ウルフ『警士の剣』10、岡部宏之訳) ユートピアの害獣、害虫、寄生虫、疾病の除去、清掃の各段階には、それぞれいろいろな制約や損害が伴った可能性があるという事実を、キャッツキル氏は、その鋭い軽率な頭脳でつかんでいた、というより、その事実が彼の頭脳をつかんでいたと言ったほうが当たっている。 (H・G・ウェルズ『神々のような人びと』第一部・六、水嶋正路訳) クレオパトラが言ったように、あの出来事が傷のようにぼくをさいなんだ。その傷が今もなお疼くのは、傷自体の痛みのせいのみならず、そのまわりの組織が健全であるが故なのだ。 (L・P・ハートリー『顔』古屋美登里訳) もちろん、長期療養の後では、勤務はつらい。しかし、レター氏のあの口笛、突然陽気な気分になっては、また突然に無気力な様子になるあの変わりよう、あの砂色の髪にきたない歯が、わたしの怒りをめざめさせる。とりわけ、会社を出てから時間がたっても、あのメロディが頭の中でぐるぐるまわるときが、まるでレター氏を家に連れて帰るようなもの。 (ミリュエル・スパーク『棄ててきた女』若島 正訳) 「おまえは実の父親にむかって、地獄へうせやがれというのか?」アンクはつぶやいた。この質問は、アンクのがらんとした記憶の広間から、いまなお彼自身の奇妙な少年期の断片が息づいている片隅へとこだまを返した。彼自身の奇妙な少年期は、彼に会いたがらず、彼に愛されたがらない父親に、ようやくのことで会い、そして愛をつくすという、白日夢に費やされたのだった。 (カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』6、浅倉久志訳) 「生命だ、ビリー」ジュリアンの微笑は彼をからかっていたが、ビリーはどうにか微笑を返した。「生命と愛と欲望、豊富な食物と豊富なワイン、豊かな夢と希望だ、ビリー。それらすべてがわれわれの周囲に渦巻いている。可能性だ」彼の目がぎらぎらと輝いた。「美人ならいくらでもいるというのに、どうして通りすぎていった美人ひとりを追わねばならないのだ? 答えられるか?」 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』10、増田まもる訳) ウェンデルの質問は、もうとっくに、あのバージニアカシの生えたなだらかな丘のガソリン臭い空気の中へ、置きざりにされている。 (ウォード・ムーア『ロト』中村 融訳) ドゥーリーはまさに敵対的な侵入勢力そのもののような男だった。彼がまっすぐこちらの精神のなかにはいってきて、何か利用できるものはないかときょろきょろしているのが感じられた。 (ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』第六章、鮎川信夫訳) こわくない、とラムスタンは自分に言い聞かせていたが、それは自分への嘘、あらゆる嘘の中で一番簡単な嘘だった。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』28、宇佐川晶子訳) いつもながら、クロードとかかわりのあるものは、どれもあいまいで、不可解で、疑わしい。アンナのような気性の激しい女性にとって、こうしたことの積みかさねから出てくるものはただ一つ──怒りであった。 (ジェイムズ・P・ホーガン『プロテウス・オペレーション』下・29、小隅 黎訳) かわいそうなカルロはもうそれこそ彼女を愛していた。ひと目ぼれの永遠の愛だった。 (ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳) 「数知れぬと言ってもいいが、この地上における一切の不幸のなかでも」と、エレディアは身振りをまじえ、宮殿の避雷針を見つめながら語る。「詩人の不幸ほど甚だしいものはないでしょう。さまざまな災悪によりいっそう深く苦しめられるばかりでなく、それらを解明するという義務も負うているからです」 (レイナルド・アレナス『めくるめく世界』34、鼓 直・杉山 晃訳) なぜそこに出かけたのか? それはカステジャーノスが、アロンソが一日中延々とチェスをやっているのを見るため。いつものことを見るためだったのだ。そのときはまだ、理解するに到っていなかったからだ、習慣は偽りのものであり、わたしたちの機械的な歩みはまったく同じ現実に導くとは限らないということを、なぜなら、現実は驚異的なものであり、人間の本性を考えれば、長い眼で見れば、悲劇的でもあることにまだ気づいていなかったからだ。 (サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳) 「そう、それなんだ」と、ク・メルは心にささやいた。「いままで通りすぎた男たちは、こんなにありったけの優しさを見せたことはなかった。それも、わたしたち哀れな下級民にはとどきそうもない深い感情をこめて。といっても、わたしたちにそういう深みがないわけじゃない。ただ下級民は、ゴミのように生まれ、ゴミのように扱われ、死ねばゴミのように取り除かれるのだ。そんな暮らしから、どうやって本物の優しさが育つだろう? (コードウェイナー・スミス『帰らぬク・メルのバラッド』3、伊藤典夫訳) 少しずつジョンは、労働を節約するいくつもの小さな工夫を家の中に取り入れていった。 (オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』6、矢野 徹訳) 「そんなの、わたしが思ってたよりずっと面倒くさいじゃないの、ロジャー。まったく面倒だわ」ドリーが愚痴をこぼした。 (タビサ・キング『スモール・ワールド』8、みき 遙訳) 子供の頃、オードリー・カオソンズは物書きになりたかった。物書きは金持ちで、有名だったからだ。 (W・S・バロウズ『おぼえていないときもある』レモン小僧、山形浩生訳) いつたんこの世にあらはれた美は、決してほろびない、と詩人高村光太郎(一八八三―一九五六)は書いた。「美は次ぎ次ぎとうつりかはりながら、前の美が死なない。」 (川端康成『ほろびぬ美』) 「きみはばかな男ではない、グラブ・ディープシュタール」このことは、伯爵はおれのことを自分よりはるかにばかだと考えていることを意味していた。 (ハリイ・ハリスン『ステンレス・スチール・ラット』18、那岐 大訳) マクレディの長老教会派(プレスピテイアリアン)の良心は、一旦めざめさせられると、彼を休ませてはおかなかった。 (J・G・バラード『沈んだ世界』3、峰岸 久訳) 「僕たちは神を存在させるだろうよ」とエルサンは言った、「行動することによってね」 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』14、菅野昭正訳) ダルグリッシュとマシンガムはソファに坐った。スワフィールド夫人はひじかけ椅子の端に腰をかけて、二人を励ますように笑いかけている。(…)二人はすぐさま夫人に親しみを覚えた。それぞれ違った人生を歩んできた二人だが、どちらも彼女のような女性に会ったことがある。彼女が人生にボロボロにすりきれた部分があることを知らないわけではない。この女性はその部分に断固たる手つきでアイロンをかけ、きれいに繕ってしまうだけなのだ。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳) 不安な気持が──努力によってであれ自然にであれ──突如雲散霧消すると、人間は喜ばしい自由の感覚、チェスタトンが「理屈では割きれない良い知らせ」と呼ぶ感じを経験する。これは単に問題そのものが消え失せたからではない。安堵感が生じたおかげで突然自分の存在を「鳥瞰図的に」見ることができるようになり、遥かなる地平の感覚に圧倒されるからである。人間は、自分は実際には宮殿をもっているのにこれまで精神的なスラム街に住んでいたのだということに気づく。 (コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』1、中村保男・中村正明訳) 町の中心部にむかうミンゴラの目の前から、犬がこそこそと逃げてゆく。裏返しになった平底舟の下では蟹がちょこちょこと歩きまわり、掘ったて小屋の下では一人の黒人が気を失って倒れ、乾いた血がその胸に縞(しま)模様をつけている。ピンク色のホテルのすぐわきの石のベンチには、ライフルをかかえた老人が眠っている。事象の潮がひいて、底辺居住者の姿があらわになったようだ。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳) アレッサンドロ・サルテが自分一人だと思い、自分を見張っていない稀な瞬間には、彼の真の相貌が素描されて浮かびあがるのである。 (ユルスナール『夢の貨幣』若林 真訳) 厚ぼったい紙を膝の上にひろげて、隣りの席の乗客たちはナイフを使い、噛み、歯に挾まったものを音を立てて取った。ギョームはフランス人についてのこんな新しい定義を考えついた。フランス人とは、ものを食べない十五分は耐えがたいと知っている人間である、と。もう何年も前から不足しているこの卵、肉、バターを、このひとたちはどこで見つけたのだろう? (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』23、菅野昭正訳) ボードレールは存在するものの根底において、その死の中で、しかも、それが死ぬゆえに、存在するものがわれわれの救いでありうることを予感した。 (イヴ・ボンヌフォア『詩の行為と場所(抄)』宮川 淳訳) 「──ふふん、これだな、必要がオノレ・シュブラックを、またたくひまに脱衣せしめた場合っていうのは。どうやらこれで彼の秘密がわかって来たような気がする」と、わたしは考えたものだった。 (ギヨーム・アポリネール『オノレ・シュブラックの消滅』青柳瑞穂訳) 全行引用詩『ORDINARY WORLD°』 3/5 へ
2016年01月19日
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「──ふふん、これだな、必要がオノレ・シュブラックを、またたくひまに脱衣せしめた場合っていうのは。どうやらこれで彼の秘密がわかって来たような気がする」と、わたしは考えたものだった。 (ギヨーム・アポリネール『オノレ・シュブラックの消滅』青柳瑞穂訳) シプリアーノは、太古の薄明を自分のまわりにめぐらしつづけていた。 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』下・20、宮西豊逸訳) フラムはヨークに答えるひまを与えなかった。こめかみを指でとんとんと叩きながら話しつづける。「記憶に頼るんですよ。昼間のうちに川の姿を憶えてしまうんですよ。隅から隅まで。あらゆる曲がり角、川岸のあらゆる建物、あらゆる木材置場、深みに浅瀬、すれちがう場所、なにもかもを。われわれは知識によって船を操るんです、ヨーク船長。見えたものによってではなくね。しかし、記憶するためにはまず見なければなりません。そして夜では、はっきり見ることはできないんですよ」 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』8、増田まもる訳) それからナポレオンは眠りに入った。 (サンドバーグ『統計』安藤一郎訳) ところがだ、その影がゆうべ、このリチャードの魂をふるえ上がらせたのだ、愚かなリッチモンドの率いる武装兵一万騎が現実に立ち向ってくるのより恐ろしかった。 (シェイクスピア『リチャード三世』第五幕・第三場、木下順二訳) リアの影法師さ。 (シェイクスピア『リア王』第一幕・第四場、野島秀勝訳) ああ、ハムレット、もう何も言わないで。 (シェイクスピア『ハムレット』第三幕・第四場、野島秀勝訳) アイテルは悲しかった。だが、それは楽しい悲しさだった。 (ノーマン・メイラー『鹿の園』第六部・28、山西英一訳) ラムスタンはグリファに惹かれると同時に、それを憎んでいた。今はグリファが両親とおじの声を使ったことで、彼らまで憎らしくなった。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『気まぐれな仮面』26、宇佐川晶子訳) レイロラ・ラヴェアの教えでは、人生のバランスを獲得すれば──ありあまる幸運を完全に分かちあい、すべての不運が片づいて──完璧に単純な人生がのこる。オボロ・ヒカリがぼくたちにいおうとしていたのは、それなんだ。ぼくたちが来るまで、彼の人生は完璧に単純に進行していた。ところが、こうしてぼくたちが来たことで、彼は突然バランスを崩された。それはいいことだ。なぜなら、これでヒカリは、完璧な単純さをとりもどす手段をもとめて苦闘することになるからさ。彼は進んで他者の影響を受けようとするだろう。 (オースン・スコット・カード『エンダーの子どもたち』上・4、田中一江訳) まあ、何が起こるにせよ、なかなかおもしろい旅行になりそうだった。知らない人々に会え、知らないものや知らない場所を見ることができる。それがドリーと関わりあいになった最大の利点のひとつだ。人生とはほとんどいつもおもしろいものだ。 (タビサ・キング『スモール・ワールド』5、みき 遙訳) 「(…)これじゃ台所の雑巾にも劣り、汚れた脱脂綿にも劣る。実際、ぼくはぼく自身と何の関係もないじゃないか」それゆえ彼にはどうしても、こんな時刻にこんな雨の中をベルト・トレパに連れ添っている彼にはどうしても、すべての光がひとつひとつ消えてゆく大きな建物の中で自分が最後に消えようとしている光であるかのような感じがいつまでも消えやらず、彼はなおも考えていた、自分はこれとは違う、どこかで自分が自分を待っているようだ、ヒステリー性の、おそらくは色情狂の老女を引っぱってカルチエ・ラタンを歩いているこの自分はせいぜい第二の自分(ドツペルゲンガー)にすぎず、もう一人の自分、もう一人のほうは…… (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・23、土岐恒二訳) 人は誰でもパスワードに保護された、自分だけが理解できる隠れた文脈の中で生きている──ハモンドのようなやつが現われて暗号を破り、壁を飛び越え、中で怯えて縮こまっている本人の姿を暴き出してしまわない限り。 (マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第2部・13、嶋田洋一訳) コスタキは空を見上げた。山間の故郷では星は降るように輝いていた。だがここでは、ガス灯と霧と分厚い雨雲が、夜の千の目を奪っている。 (キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』15、梶元靖子訳) シルヴァニアンはまた、自分の怪物のようなエゴも心得ていた。ほかの強い心の持主と同じく、彼も決して無軌道ではなかったが、感情におぼれこんでしまうのだった。感情の力学がどう働くか、よく心得ているくせに、自分で自分の感情を操作することはできなかった。時には、肉体が荒れ狂い、叫び廻っているのに、彼の直観は恐ろしいほど、それを軽蔑して見守っていた。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』25、藤井かよ訳) これがヒーコフなら、病院の物音をたのしんだことだろう。深い闇の奥から聞こえる恐ろしい苦痛のうめき。怒りと空腹を訴える乳児の明るい泣き声。夜の仲間のこうした物音には、母音推移がない。 (ハーヴェイ・ジェイコブズ『グラックの卵』浅倉久志訳) 事務長のジョナサン・ジェファーズは、金縁眼鏡をかけ、茶色の髪をぴっちりなでつけて、飾りボタンのついた深靴をはいたやさ男だったが、計算と取引に関してはすご腕だった。なにひとつ見落とさず、売買契約の際はじつにしぶとく、チェスを指すときはさらにしぶとい男なのだ。 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』4、増田まもる訳) 「困難なことが魅力的なのは」と、チョークは言った。「それが世界の意味をがらりと変えてしまうからだよ」 (ロバート・シルヴァーバーグ『いばらの旅路』4、三田村 裕訳) 世俗的な嘘がどうして精神により高度なビジョンをもたらすことができるのか、ルーにはおぼろげに理解できた。芝居や小説は比喩を使ってそれを行っている。そして比喩的な意味としては、今度のハプニングは、単なる事実の達成を期待する文学的叙述より、精神的に真実の本質に近いビジョンを世界に提供するだろう。 (ノーマン・スピンラッド『星々からの歌』デウス・エクス・マーキナ、宇佐川晶子訳) スザンナという名はどんな女性にもふさわしくない。パーブロはまちがいなくパーブロで、独自のものを持っていた。いまは不安そうに前かがみになって椅子に腰かけている。しかし、人殺しには見えない。われわれはみんなそうだ。 (マイクル・コニイ『カリスマ』9、那岐 大訳) 「いやあ、これは本当に驚いたなあ」、とギョームは言った。 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』6、菅野昭正訳) 彼は土地使用料を扱う担当者に任命され、その遊園地を目にするたびにロビンのことをつい思い出し、ロビンに会うたびについカーニヴァルのことを思い出すようになってしまった。 (シオドア・スタージョン『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』3、若島 正訳) スミザーズさん、二つの悪をお選びなさい (ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳) 「聖人の群れに加えられるか否かは」ラドルファス院長は頭を高々ともたげ、語りかけている会衆のほうは見ずに、アーチ形の天井に視線を向けて言った。「われわれの理解しておるいかなる基準によっても決せられるものではない。聖人の群れが、罪を犯したことのない人びとからのみなるということはありえない。なぜなら肉体をもつ者のうち、一人だけを除き、ただの一度も罪を犯したことがないといえる者はおらぬからである。 (E・ピーターズ『門前通りのカラス』11、岡 達子訳) しかしエルグ・ダールグレンは心の底ではそうではないことを知っていた。そして何か別のことを心待ちにしていたのだった。傷つきやすいものへの一瞥、女王も近づけない、彼が”自我”と名づけた本性への。 (フィリス・ゴットリーブ『オー・マスター・キャリバン!』26、藤井かよ訳) フェリックスはあえぎながら木の根元に横たわった。眩暈がしたし、すこし吐き気がした。自分の大腿骨の残像が、この世のものならぬ紫色に輝きながら目のまえに漂っていた。「ミスター・ラビットに会いたい」フェリックスは電話に向かってそうつぶやいたが、答えはなかった。少年は泣いた。 (チャールズ・ストロス『シンギュラリティ・スカイ』外交行為、金子 浩訳) グライアンは空を見上げた──太陽はまだ高く、木々のあいだの熱い空気は動かしがたいように思えた。 (クリストファー・プリースト『火葬』古沢嘉通訳) ジャーブはそう感じる、グロールもアイネンもそう感じる、それぞれが別々の心の中で。 (ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』4、住谷春也訳) 木曜日の午後、ロズは少しの安堵と少なからざる愛惜の念をもって、アイリスを送り出した。何はともあれアイリスは、独り暮らしが情緒的、精神的によくないことをロズに示していったのだ。結局のところ、一人の人間が考えることには限界があり、その考えが他者の意見で修正されることなく募(つの)っていったとき、強迫観念になるのだ。 (ミネット・ウォルターズ『女彫刻家』8、成川裕子訳) 部屋にふたたび沈黙が訪れ、ジェフズ氏の視線がそこをさまよっているうちに、ようやくハモンド夫人の表情をとらえた。その顔はゆっくりと左右に揺れていた。ハモンド夫人が頭をふっていたからだ。「知らなかった」とハモンド夫人は言っていた。夫人の頭は揺れるのをやめた。夫人の姿はまるで彫刻のようだった。 (ウィリアム・トレヴァー『テーブル』若島 正訳) スタンダールは私の生涯における最も美しい偶然の一つだといえる。──なぜなら、私の生涯において画期的なことはすべて、偶然が私に投げて寄越したのであって、決して誰かの推薦によるのではない。 (ニーチェ『この人を見よ』なぜ私はかくも怜悧なのか・三、西尾幹二訳) 一瞬、その惑星の名前を思い出しそうになる。だが記憶は、形をとる直前にからかうように消え去り、サイレンスは嫌悪に顔をゆがめた。 (メリッサ・スコット『地球航路』3、梶元靖子訳) ニックはこの一瞬のうちに、永遠の美の煌(きら)めきを見た──無邪気に大笑いしているフェイはなんと愛らしいのだろう。卵形の洞窟の中で力いっぱい弓なりになった舌も、ピンクのうねのある口蓋も、全部まる見えになるほど大きな口をあけて笑っている。探るのに一生かかりそうな奥深い心の底の息をのむような暗闇に、天の贈りものともいうべきつかのまの光があったのだ──偶然のいたずらでほんの一瞬かいま見えた美しさが、長年にわたって磨きぬかれた巧まざる女の計算を覆い隠し、彼女をよりいっそうミステリアスに変身させてしまうとは。 (グレゴリイ・ベンフォード『相対論的効果』小野田和子訳) クロネッカーの鉄則である《構成なしには、存在もない》以来、純粋数学者のなかには構成的でない存在定理にポアンカレの時代以上に熱心でないものもいる。しかし数学を利用するものにとっては、細部がどうなっているかということが、研究を進めていくうえにどうしても必要である。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと III』28、田中 勇・銀林 浩訳) カールはズボンのポケットから紙幣を半分引っぱり出していた…… 所長はロッカーや保管箱がずらりと立ち並ぶそばに立っていた。彼はカールを見た。その病気の動物のような目は光を失って、奥のほうで死にかけ、絶望の恐怖が死の表情をうつし出していた。花のかおりに包まれて、ポケットから紙幣を半分出しかけたとき、弱さがカールを襲って、その呼吸を止め、血の流れをさえぎった。彼は動かない一つの黒点のほうに勢いよく回転していく巨大な円錐体の中にいた。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ホセリト、鮎川信夫訳) それでレオは感じるのか? うん、エロスが知っていることだけを感じている。 (ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』N、志村正雄訳) サムはもっとずっと重要なことを考えなければならなかった。しかし、真に重要なことは、無意識によって最もよく識別されるものだ。そして、この考えを送り出したのは、この無意識であったにちがいない。初めてかれは理解した。真に理解した。脳から足の先までの、体中の細胞で理解した。リヴィは変ってしまったと。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『わが夢のリバーボート』26、岡部宏之訳) あなたの潜在意識よ、ミューシャ! なにかの記憶だったのよ! (ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『最後の午後に』浅倉久志訳) ジャスティンは、自分はここには一度も来たことがないという確信めいた印象をもった。それがなにかの意味をもつということではないけれど。 (デニス・ダンヴァーズ『天界を翔ける夢』11、川副智子訳) ハビエルにそのことを話そうと思い、振り返ってみると、あんたは一人ぼっちなのに気がついた。ハビエルをどこかに置いてきてしまったのであった。あんたはいま自分がどこにいるのか知りたかった。大声で叫んだが、声はどこにも届かず、自分の頭の上で堂々巡りをし、また自分の唇に戻ってくるかのようであった。さらに谷に分け入って行けば完全に迷ってしまうだろうと思い、山の見晴らしのきく所まで登り、位置を確かめ、遙かに道路を見極めて、そこに向かって下りて行くことにした。 (フエンテス『脱皮』第二部、内田吉彦訳) 「いや、沈黙というものは、そのまわりにある言葉によってしか存在しないものなんですよ、イレーヌ。人生はすべてそういうものですよ……僕たちの人生のどんな瞬間であろうと、僕たちのなかには、発散されることを必要とする力があるものなんです」、彼は勢いこんでそう話しつづけた、「どんな欲求でも、もしそれに逆らうものがあれば、とてつもない強さにまで高まるかもしれない」 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』9、菅野昭正訳) 鋭い観察眼の持ち主であるエミーリオは、老母のとまどいがすべて見せかけであり、アンジョリーナがすぐには帰宅しないのを知っているはずだと完璧に見抜いた。しかし、いつものように、彼の観察力はあまり役に立たなかった。 (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳) さあ、アンリ、ロジーヌのところへ行くといいわ。私の大嫌いなロジーヌの腕に飛びこむといいわ。そうすればどんなに私も嬉しいか。だって、あなたの愛は、女の人生に起こりうる、最悪の不幸だもの。もしその女が幸せなら、あなたはその幸せを取りあげる。もしその女が健康なら、その健康を損なわせる。その女があなたを愛せば愛すほど、あなたはつらくあたり、野蛮にふるまう。その女が「大好きよ」とあなたに言った瞬間から、もうお決まりのことが始まるの。つまり、その女が耐えられなくなるまで痛めつけるのよ。 (クレマンティーヌ・キュリアルの書簡、スタンダール宛、一八二四年七月四日付、松本百合子訳) ナポレオンは死の直前、ウェリントンと話がしたいと願った。ローズヴェルトに会いたいという、常軌を逸したヒトラーの懇願。体から血を流しながら、一瞬でいいからブルータスと言葉を交わしたいと願ったシーザーのいまわのきわの情熱。 自分を破滅させた相手の胸にはなにがあるか?(オースン・スコット・カード『キャピトルの物語』第一部・4、大森 望訳) ほんのちょっと前に、わたしはアギアに、セクラの死から受けた悲しみの心情を吐露したばかりだった。今や、これらの新しい懸念がそれに取って代わると、わたしは実際に、人が酸っぱいワインを地面に吐き出すように、それを吐き出してしまったと悟った。悲しみの言語(ランゲージ)を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った──言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なもの(、、)に弱めてくれるのである。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』24、岡部宏之訳) リシュリューとライヒプラッツはまったく同じ意味──〈豊かなる場所〉をあらわすことばであることを知って愕然とした。 (スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』第二十回の旅、深見 弾訳) そして、眠り(ことによったら死だったかもしれない)が目蓋を引っぱっている間、わたしは傷を探して体じゅうをゆっくりと手探りしながら、まるで他人事のように、おれは服も金もなくてどうして生きていけばよいのだろうか、パリーモン師がくれた剣と外套をなくしたことを、師に対してどのように申し開きしたらよいのだろうかと、思案していた。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』28、岡部宏之訳) 「ポール」と彼女はもう一度わたしの名を呼んだ。それは新しいわたしにも古いわたしにも手の届かない、いや、わたしたちを形作った長官たちの目論見も手の届かない、彼女の心の奥底からのせつない希望の叫びだった。わたしは彼女の手をとっていった。 (コードウェイナー・スミス『アルファ・ラルファ大通り』浅倉久志訳) 「でも」と彼はブルーノに言った。「もうぼくは以前のぼくではなかったんです。そして、二度ともとのぼくに戻ることはないでしょう」 (サバト『英雄たちと墓』第I部・1、安藤哲行訳) アウグスティヌスは、『三位一体論』第九巻において、「われわれが神を知るとき、われわれのうちには何らかの神の類似性が生ずる」といっている。 (トマス・アクィナス『神学大全』第一部・第一二問・第二項、山田 晶訳) 「誰もすんなり退場なんてできないのよ」ローラが静かに言った。「人生っていうのは、そういうふうにはできてないの」 (マイケル・マーシャル・スミス『ワン・オヴ・アス』第1部・6、嶋田洋一訳) おばさんは食卓の上座に、シートンは末座に、そしてぼくは、広々としたダマスコ織りのテーブル・クロスを前にして二人の中間に坐っていた。それは古くてやや狭い食堂で、窓は広く開いているので、芝生の庭とすばらしい懸崖(けんがい)作りのしおれかけた薔薇の花とが見えた。おばさんの肘かけ椅子はこの窓のほうに向いていたので、薔薇色に反射する光が、おばさんの黄色い顔やシートンのチョコレート色の目にたっぷりと照りつけていた。 (ウォルター・デ・ラ・メア『シートンのおばさん』大西尹明訳) ボビー・ボーイはゆっくりとぼうっとしたような動き方で、エディーのほうをふり返った。手にしたディスペンサーからアンプルを押しだして、鼻の下でぽんと割り、ふかく息を吸いこんだ。顔が細長く伸びるように見えた。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・14、小川 隆訳) あとには、ハモンドとわたしだけが、われわれの「神秘」とともにとり残された。 (フィッツジェイムズ・オブライエン『あれは何だったか?』橋本福夫訳) それからミッシャ・エルマンの音楽会に行った。二時間の音楽の波が彼の鼓膜を打った。音楽は男のうちにある何かを洗い落した。音楽は彼の頭と心臓の中の何かをぶち壊(こわ)して新しいものを築いた。彼はそのロシア系ユダヤ人の若い提琴家(ヴアイオリニスト)にたいする五度のアンコールに、自分も加わって手をたたいた。外に出たときには、歩道を踏む踵(かかと)は新しい道に向うようだった。 (サンドバーグ『沐浴』安藤一郎訳) 女の声が、背後から飛んだ。サイレンスはふりかえった。地獄のかけらをかかえているため、あまりはやく動けない。〈無形相〉の力がいそいでつくられたバリアにあたり、地獄がシューシューと音を立てる。あらゆる色彩を秘めながらいかなる色でもない、目を焼くような円盤から、火花があがり、またおちてくる。 (メリッサ・スコット『地球航路』7、梶元靖子訳) き これからは絵に取り組む長い道程(ギヤラリー)を、一人きりでなく、誰かと腕を組んで歩けるのかもしれない──とても奇妙でわくわくする気持ちだ──そう考えながら、リリーは絵具箱の留め金をいつも以上にきっちりと閉めた。その留め金の小さな音は、目には見えない輪の中に、絵具箱も、芝生も、バンクス氏も、そして傍らを走り抜けたおてんば娘のキャムさえも、永遠に包み込んでしまうように思えた。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・9、御輿哲也訳) 一台の車というものは、ロッティがいくら呟いてみせたり不服を言ってみせたりしたところで、しょせん理解できないような、一つの生き方を表しているのだった。 (トマス・M・ディッシュ『334』334・第三部・21、増田まもる訳) フィリッパはパセリを少し摘んで彼にプレゼントした。セントポーリアのお返しができてうれしかった。お返しをすれば、母も自分も彼に借りを感じる必要はない。保護司はパセリを受け取ると、自分のハンカチを台所の流しで初め湯で洗い、次に水でゆすいで、それでパセリを丁寧に包んだ。指のずんぐりした、大きな手だった。その手を静かに、さり気なく使う。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第二部・11、青木久恵訳) シャン。セティアン人はこう言っている、チャーテン場においては、深いリズム、究極の波動分子の振動以外なにものもない。瞬間移動は存在を作り出すリズムのひとつの機能なんだ。セティアンの精神物理学者によれば、それは人間ひとりひとりを永遠と偏在に参与せしめるリズムへの架け橋なのだ。 (アーシュラ・K・ル・グイン『踊ってガナムへ』小尾芙佐訳) アンジョリーナはがんこな嘘つきだったが、本当は、嘘のつき方を知らなかった。 (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』10、堤 康徳訳) ピートは闇をすかして、おのれの両手を見おろした。どんな惑星も、どんな宇宙も、人間にとってのおのれの自我とくらべたら、ちっぽけな存在でしかない。この両手は、あらゆる歴史をつくりだしてきた両手だ。先人すべての手とおなじく、ピートのこの手もほんのわずかな動作で人間の歴史をつくりだすこともできれば、反対に歴史に幕を引くこともできる。 (シオドア・スタージョン『雷と薔薇』白石 朗訳) トム・ズウィングラーは、ルビーのネクタイピンと、ピカピカの赤い水晶カフスボタンをしていた。それ以外のすべては白と黒で、かれの発言さえも白か黒かの厳密さを保っていた。でも、この赤い点がつくる三角形は、かれが首をかしげてうなずき、身振りをするにつれて動き、カモフラージュとコントロールのダンディな幾何学を構成していた。 (イアン・ワトスン『エンベディング』第三章、山形浩生訳) ミンゴラは雨戸の隙間からこぼれる淡い明け方の光に目をさまして、酒場にいった。頭痛がし、口の中が汚れている感じがした。カウンターの半分残ったビールをかっさらって、掘ったて小屋の階段をおり、外に出た。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳) いま、ラヴェナは強い人だった、と言いました。(…)今にして思えば、彼女は強さを装っているだけでした。それはわたしたち人間にできる最善のことです。 (カート・ヴォネガット『パームサンデー』VII、飛田茂雄訳) ゼアはかすかに笑みを浮かべ、やがてその笑みが大きくなった。体の中に笑いがあるようで、周囲の人間たちも笑みを浮かべて、たがいに顔を見合わせ、そしてゼアを見た。 (ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳) あのとき、ヘアーにはそれがまるでなにかの物語のように思えた。農場で働くことも、がらんとして巨大な夏の夕方のことも。彼は身を入れて聞いていなかった。そこに衝撃的な図と地の反転が生まれ、予想外の物語、それに対する心構えのまったくできていなかった物語が見えてくるとは思いもしなかった。思っていたとおりのものはなにひとつなかった。まるでトラックの進路にはいるように、その事態のなかへ飛びこんだようなものだった。 (ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳) ラ・セニョリータ・モラーナの家にそして男たちや女たちの上に霧がかかり、彼等が交わし、いまだ空気の中に漂っている言葉を残らず、一つ一つ、消して行く。記憶は霧が課する試練に耐えられない、その方がいいのだ (カミロ・ホセ・セラ『二人の死者のためのマズルカ』有本紀明訳) 「時間がかかると思います」スタンリーがいった。「もっとつづけてください。ただしその際必要なのは、言葉に視覚的なイメージを関連づけてやることです。言葉はもともとは意味のないものですから。それによって自分の頭に浮かんだイメージが、この機械の脳部に伝わるようにしてやればいいわけです」 (フィリップ・K・ディック『空間亀裂』10、佐藤龍雄訳) そのときマルティンはブルーノが言ったことを思いだした、自分はまったく正真正銘ひとりぽっちだと思い込んでいる人間を見るのはどんなときでも恐ろしいことだ、なぜなら、そんな男にはどこか悲劇的なところが、神聖なところさえもが、そして、ぞっとさせられるばかりか恥しくさせられるようなところがあるからだ。 (サバト『英雄たちと墓』第II部・20、安藤哲行訳) グランディエには殺人者になるつもりなど毛頭なかったのと同じに、妻をも含めてだれかを愛するつもりもなかった。それは積極的に人間を嫌っているというわけではなく、周囲の世界で愛という名のもとにおこなわれているふるまいに対する強度の懐疑主義のせいだった。 (トマス・M・ディッシュ『ビジネスマン』10、細美遙子訳) 教会の鐘が一度だけ鳴り、なにか不思議なやり方で、それが風景全体を包みこんだように見えた。ジョンにはその理由がわかり、心臓が跳びあがった。鐘の主調音から切れ切れにちぎれたぶーんと鳴る音の断片がこれらの色になったので、基本的なボーオオオンという音は白のままだ。さまざまな色がぶーんと鳴り、渦巻いて、神の白色となり、分かれて、もう一度戻ってくる。なんであれ、神はそれとどんな関係があるのだろう? いや、ここのローマでは、そんなことをいってはいけない。 (アントニイ・バージェス『アバ、アバ』4、大社淑子訳) スリックの考えでは、宇宙というのは存在するすべてのものだ。だったら、どうしてそれに形がありうるのだろう。形があるとすれば、それを包む(、、)ように、まわりに何かあるはずだ。その何かが何かであるなら、それ(、、)もまた宇宙の一部ではないのだろうか。 (ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライブ』12、黒丸 尚訳) あまり細かく見てはいけないことをジョニーは知っていた。あらゆるものに、あまり大きく意識を割いてはいけない。 (ウィリアム・ギブスン原案、テリ・ビッスン作『JM』9、嶋田洋一訳) 「無理もないな。ジーヴズ、ぼくらどうする?」 (P・G・ウッドハウス『同志ビンゴ』岩永正勝・小山太一訳) その言葉にマイロもわたしもぎょっとした。邪気のない、哀れを誘う問いだった。マイロはわたしのそばに来て、両腕を回して抱きしめた。彼の最後の抱擁だった。 (アン・ビーティ『シンデレラ・ワルツ』亀井よし子訳) エミリ・ディキンスンにとっていちばん大事なことは、各人の自己の本質と首尾一貫性の問題だった。そして苦悩の神秘についての検討から始めた。その主題についての初期の一篇では「わたしは悲しみの淵を渡ることができます」(二五二番)と始めて、苦しみだけが力を与え、人間は逆境にあるとき、苦しみには耐えていけることを訓練を通じて知るものだ、と結んでいる。 (トーマス・H・ジョンスン『エミリ・ディキンスン評伝』第十章、新倉俊一・鵜野ひろ子訳) その世界はジム・ブリスキンの好奇心をそそったが、それはまたかれのまったく知らない世界だった。 (フィリップ・K・ディック『カンタータ百四十番』5、冬川 亘訳) ヴェーラは玄関にある鏡を覗いた。受話器を耳に当てて立っている自分がいる。鏡は古ぼけており、黒い染みが付いていた。わたしはこの鏡によく似ている、とヴェーラは思った。 (カミラ・レックバリ『氷姫』IV、原邦史朗訳) あいつのあの顔つきときたら、いつだって同じだ。そりゃニクソンだって自分のおふくろは愛してただろうけど、あの顔じゃとてもそうは思えないよな。 (アン・ビーティ『燃える家』亀井よし子訳) 常に──とブルーノは言う──わたしたちは仮面を被っている、その仮面はいつも同じものではなく、生活の中でわたしたちにあてがわれる役割ごとに取り換えることになる、つまり、教授の仮面、恋人の仮面、知識人の仮面、妻を寝とられた男の、英雄の、優しい兄弟の仮面というように。しかし、わたしたちが孤独になったとき、つまり、誰一人としてわたしたちを見ず、関心を示さず、耳を貸さず、求めもしなければ与えもしない、親しくもならなければ攻撃することもない、そんなときわたしたちはいったいどんな仮面をつけるのだろう、どんな仮面が残されているのだろう? (サバト『英雄たちと墓』第II部・20、安藤哲行訳) いつわりであるからといってつねに無価値とはかぎらないことは、バザルカンも知っている。それが物理的な現実においてまったく根拠のないものであってさえも、 (ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』19、金子 司訳) 彼ら三人は水に浮かぶボートに座っている。彼らが人とは限らず、あれもボートとは限らない。彼女の靴紐を結んだ三つの結び目なのかもしれないし、ヒルディーの鏡台に隠された三本の口紅なのかもしれないし、三切れのフルーツなのかもしれないし、ベッドの横の青いボウルに入っている三個のオレンジなのかもしれない。 (ケリー・リンク『人間消滅』金子ゆき子訳) シェリーのようなロマン主義者は、まず自らの媒体があり、自分の見、聞き、考え、想像するものを、己の媒体によって表現するのです。 (ディラン・トマスの手紙、パメラ・ハンスフォード・ジョンソン宛、一九三余年五月二日、徳永暢三・太田直也訳) ポールは一瞬、相手に共感して心を痛めた。だが、共感から同一視まではあと一歩。ポールはその感情を押し殺した。 (グレッグ・イーガン『順列都市』第一部・6、山岸 真訳) 物質の中に神々はない。神々は力と力の分離から生まれ、それらが和合する時に死ぬ。/神々は創造に近ければ近いほど、恐ろしい姿、それに内在する原理にふさわしい姿をしている。/プラトンは神々の本性について語り、神々を原理と同一視しているが、だからといって力である原理と、神々である力について我々がよく理解できるようにはしてくれないのである。 (アントナン・アルトー『ヘリオガバルス』II、多田智満子訳) 静寂。(…)それはキッチンの全壊半壊の器具類、イジドアがここへ住みついてこのかた作動したことのない死んだ機械類から、鎖を離れたようにとびだした。それは今の使用不能なランプ・スタンドから滲み出し、蠅のフンに覆われた天井から降下するそれと、無音のまま絡みあった。それは事実上、彼の視野にあるすべてのものからいっきょに出現したようだった。まるで、それ──静寂──が、すべての形あるものにとって代る意志を秘めてでもいるように、彼の聴覚だけでなく、視覚をもおそった。物言わぬテレビのそばに立った彼は、その静寂を目に見えるものとして、また、ある意味での生き物として、体験したのである。生き物! これまでにも、彼は何度もその仮借ない接近を感じとったことがある。いつもまるで待ちきれないように、何の手心も加えず猛然とおそいかかってくるそれ。この世界の静寂は、もはやそれ自身でも手綱を抑えきれぬほど、貪欲になっているのだ。それが実質的に勝利者となったいまでは。 (フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』浅倉久志訳、オールディスの『十億年の宴』より孫引き) サー・ジョンと仲間の美術貴族たちは大英博物館やルーヴルやメトロポリタンの監督として、夢見るファラオやキリスト磔刑や復活(第二のデ・ミル監督の出現を待ちわびる究極の超大作映画の題材)の絵画を揃え、たしかに人間の魂の空虚を巧みに満たしてくれたが、そもそも魂のなかに欠けていたものは何だったのだろうか。 (J・G・バラード『静かな生活』木原善彦訳) シュタイナーによれば、われわれは生まれる前に自分で運命を選びとったのであるから、それを嘆くのは見当ちがいだという。/それでは、どうして人は美男子で金持ちで成功者であることを選びとろうとしないのだろうか。それは、霊の目的は自らの進化であり、幸運や成功はそれを阻む作用をするからなのである。霊的な進歩は、霊界においてではなく、地上においてのみ行われるのである。 (コリン・ウィルソン『ルドルフ・シュタイナー』7、中村保男・中村正明訳) マルガリータ夫人は次のような言葉を口にした。『それは、今となってはべつに名づける必要もない考えでしたの』ひとしきり咳こんだあと、こう続けた。『いじりまわしすぎて自分でもわけの分からなくなった取りとめもない考えだったのですが、それがゆっくり沈んでいったので、そのままそっとしておきました。わたしが水のなかから引き出した思い、自分の目と魂を満たした思いは、そこから生まれてきたのです。そのとき初めて、人間は水のなかで追憶を養い育ててやらなければいけないのだと悟ったのです。水というのは、自分に映し出されたものを美しく磨き上げるだけでなく、人間の考えも受けとめてくれるのですね。絶望してもけっして水に肉体をゆだねてはいけません、考えを水にゆだねるのです。すると、水はそのなかに浸透してゆきます。そうして生まれ変わった考えが、わたしたちの人生の意味を変化させるのです』 (フェリスベルト・エルナンデス『水に浮かんだ家』平田 渡訳) 頭を垂れたまま貧相なわが借家に向って砂利道を登っているとき、わたしは、あたかも詩人がわたしの肩辺に立って、少々耳の遠い人に対して声高に言うみたいに、シェイドの声が「今夜おいでなさい、チャーリイ」と言うのを、至極はっきりと聞いたのである。わたしは畏怖と驚異に駆られて自分の周囲を見まわした。まったく一人きりだった。すぐさま電話してみた。シェイド夫妻は外出中ですと、小生意気な小間使(アンキルーラ)、つまり日曜日ごとに料理をしにやって来る、そして細君の留守中に自分を老詩人に抱かせることを明らかに夢想している、不愉快な女性ファンが言った。 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) 「私の考えではビル、彼等は異なった引力の下で存在しているのではないかと思うのよ──」 (ウィリアム・バロウズ『ノヴァ急行』緑の大地から、諏訪 優訳) ジェイドにはよく言いふくめておいた。彼女はあとまで果たして憶えているだろうか? それとも憶えていすぎたために疑い始めるだろうか? (W・M・ミラー・ジュニア『時代おくれの名優』志摩 隆訳) 「むだだって?」自分と同じ考えを他人が口にするのを聞いて驚きながら、エミーリオは尋ねた。 (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』13、堤 康徳訳) その尋ねかたの中にある何かがシオナに、かれがすでに知っていることを告げた。 (フランク・ハーバート『デューン 砂漠の神皇帝』第1巻、矢野 徹訳) ラ・マーガと会えるだろうか? (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・1、土岐恒二訳) この勤勉な街では、その時間帯、気晴らしに歩いている者は誰もおらず、どこに向かっているかなどまったく眼中にないようにゆっくりと歩いている、しなやかで華やかなアンジョリーナの姿は、みなの注意を引いた。彼女を見れば、情事にはうってつけの相手だとみんながすぐに考えるはずだと思った。その情景によって産み出された興奮から、彼は午前中ずっと逃れられなかった。 (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳) 自分自身の思考の世界に自らを忘却し得るこの能力において、ガウスはアルキメデスとニュートンとの両者に似かよっている。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと II』14、田中 勇・銀林 浩訳) ここでパリーモン師は言葉を切った。一秒たち、二秒たった。新しい夏の最初の金蠅が窓のところでぶんぶん羽音を立てていた。わたしは窓を破りたかった。蠅を捕えて逃がしてやりたかった。師に早く何か話してくれと怒鳴りたかった。その部屋から逃げ出したかった。だが、これらのことは何一つできなかった。わたしは師のテーブルの横の古い木の椅子に坐り、自分はすでに死んでいるが、さらに死ななければならないと感じていた。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』13、岡部宏之訳) アダルジーザは「愛情に耐えることができた」。びくともせずに。 (ガッダ『アダルジーザ』アダルジーザ、千種 堅訳) 彼女は、ピーターはいつも、このような驚きや鮮明さをもって彼の周辺の生物を見ているのだろうとも思った。見たことのない世界に生れてきた人間が、初めて創造物の輝かしい色あいをみて、すべてを新鮮に感じるときのように。おそらく画家の感じ方とはこうしたものなのだろう。 (P・D・ジェイムズ『ある殺意』2、山室まりや訳) エイデルスタインは無感動と激怒を交互にくり返しながら、数日間過ごした。例の胃の痛みがぶり返しており、このままではいずれ胃(い)潰(かい)瘍(よう)になるのはまちがいなかった。(ロバート・シェクリー『倍のお返し』酒匂真理子訳) 証拠がないこと、はっきりした動機がなにもないことは、ジャープの推理を手(て)控(びか)えさせる代わりに、かえってほしいままの空想へ導く。 (ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』19、住谷春也訳) ひどく神経質で感じやすい、衝(しよう)動(どう)的(てき)な人間だった。(…)子供のときから、バードの意志は風(かざ)見(み)鶏(どり)のように、いつも他の人びとの望むほうにむいているのだ。 (オスカー・シスガル『カシュラの庭』森川弘子訳) 娘よ、おまえもわたしも動物だ。真人ですらない。しかし、人間には、ジョーンの教え、人間らしく見えるものが人間だという教えが理解できない。姿かたちや、血や、皮膚のきめや、体毛や、羽毛ではなく、言葉が鍵なのだ。(…)偉大な信仰は、大寺院の塔からでなく、つねに都市の下水道から生まれるものだ。しかも、わたしたちは使われている動物ではなく、見捨てられた動物だ。この地の底のわたしたちは、人類が捨て去り、忘れさったゴミだ。(…)しかし、娘よ、わたしはおまえに愛を感じるし、おまえはわたしに愛を感じる。愛をいだくものはそれじたいに価値があり、だから下級民が無価値だとする説はまちがいだとわかる。いま、わたしたちは分秒と時間の先を超え、時計のない、夜の明けない場所に望みをかけることを強いられている。時の外にもひとつの世界があって、わたしたちが訴えかけるのはそこなのだ。 (コードウェイナー・スミス『ノーストリリア』浅倉久志訳) ジョーンはいった。「愛は特別なものじゃなく、人間のためだけに用意されたものでもありません。/愛はいばらないし、愛にはほんとうの名前はありません。愛は命のためにあるもので、その命をわたしたちは持っています。/わたしたちは戦って勝つことはできません。人間たちは数が多すぎるし、武器はたくさんありすぎるし、スピードは速く、力も強すぎます。けれど、わたしたちは人間に創られたのではありません。人間を創った何かが、わたしたちをも創ったのです。みなさん、わかっているわね。その名前をいいますか?」 (コードウェイナー・スミス『クラウン・タウンの死婦人』伊藤典夫訳) マーティンは、木の家や家具が好きではない。植物、とくに樹木というものには、単純だが深遠な高次の意識があるというのが、彼のいっぷう変わった持論だ。植物は精神も自我も〈匡〉も持たないが、生命活動においては、成長、エクスタシーも罪の意識もないセックス、苦痛のない死など、ごく単純な反応を示す。そこには意識がかかわっているのではないか。 (グレッグ・ベア『女王天使』上・第一部・18、酒井昭伸訳) 「すばらしい名文家というだけじゃありませんわ」と、ヘティが言った。「文体は意味を明らかにすると同時に、それを隠しもします。彼のもっともすぐれた作品では、RLSは文体をその両方を成し遂げるために使っています。ですから読者は、永久に神秘と啓示のあいだに宙ぶらりんになるんです」 (ブライアン・W・オールディス『三つの謎の物語のための略図』深町真理子訳) 君たちは生命の外観だけはとらえる。けれど、あふれ出る生命の過剰を現わすことはできない。たぶんは魂であって、外観のうえに雲のようにただよってる、なんともわからないもの、──一口にいえば、チチアノとラファエロがつかまえた生命の花、それが君たちには現わせないのだ。 (バルザック『知られざる傑作』I、水野 亮訳) エピメニデスのパラドクスは、たった一行の短い言葉である。「この文章は嘘だ」どの文章が嘘なのか。この文章だ。もし、この文章は嘘だといえば、私は真実を述べたことになる。となると、この文章は嘘ではない。つまり、この文章は真実である。この文章は意味が反対になった姿を鏡のように返してくる。しかも、際限なく。 (ベルナール・ウェルベル『蟻の革命』第3部、永田千奈訳) モナの世界のかなりの部分は、知ってはいても、生身で見たことも訪れたこともないものや場所で成り立っている。 (ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』11、黒丸 尚訳) あらたな概念があらたな法則を作り出し、それが世界を存続させてきたのです。ニュートンが重力という普遍性をつくりだすと、万物はそれにしたがって再編成されました。アインシュタインが空間と時間という概念を明確にすると、万物はふたたびそれにしたがって配列しなおされました。そしてダンテ・アリギエリ──この頭のいかれたちび野郎──は世界最初の詳細な地獄図を描くことによって、初めて人々の理解の対象となり得る地獄をあらわしたのです (ダン・シモンズ『ヴァンニ・フッチは今日も元気で地獄にいる』柿沼瑛子訳) バザルガンは先へと庭園を進んだ。楽しみつつ、朝のあらゆる瞬間を、あらゆる香り、残り香、音をとりこんでいく。ザクロ、バラ、ジャスミン、アーモンド。詩の種を蒔いた庭園こそは、彼の知るなかでもっとも鮮やかな確固とした光景で、露は一滴ごとに水晶でエッチングされ、花びらは一枚ごとに明るく輝いている。彼は花を摘みながら、生命にあふれた暖かな指でそれを抱きかかえ、庭園を先へと進んでいった。 (ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』19、金子 司訳) コングロシアンはうす赤いスポンジ状の肺組織を見つめた。「おまえは私だ」彼は肺組織に語りかけた。「おまえは私の世界の一部だ、私でないものではない。そうだろ?」 (フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』14、汀 一弘訳) フライシュマンは、絶えずではないにせよ、非常にしばしば(そして、自己愛をこめて)、自分自身を観察していた(、、、、、、)。彼はいつも心の中に分身がいて、一人の時でも孤独ではなかった。例えば、今回はプラタナスに寄りかかって立ち、煙草を吸っていただけではなしに、同時に、プラタナスに寄りかかって立ち、無関心をよそおって煙草をふかしている自分(美しく、少年風)をうっとりと見つめていた。彼はこの分裂をしばらくの間楽しんでいたが、遂に建物の中から彼の方に向ってくる軽い足取りが聞こえてきた。故意に振り向かなかった。もう一本煙草を取り出すと、煙を吐き、空を眺めた。 (ミラン・クンデラ『シンポジウム』第一幕、千野栄一訳) きょうのドウェインは、わたしが一度も見たことのないドウェインだ。 (カート・ヴォネガット・ジュニア『チャンピオンたちの朝食』第4章、浅倉久志訳) ボニートは彼の前を走り、跳びはねては雀を追いかけ、ワンワンと吠えていた。『犬であるってのは幸せなもんだな』とそのとき彼は思った、あとでドン・バチーチャにそう言ったが、バチーチャはパイプをふかしながら考えこむようにして彼の話を聞いていた。そして、思考と感情の混乱の中でふと彼は詩の一節を思いだした、それはダンテやホメロスの詩ではなく、ちょうどボニートと同じように通りをさまよう卑しい詩人のものだった。『おまえが行ってしまったとき、神はどこにいたのか?』とその不幸な男は自問したものだった。そうだ、おふくろがぼくを殺そうとしてロープをかけたとき、神はどこにいたんだ。それに、ボニートがアングロのトラックに轢(ひ)かれたときどこにいたんだ、 (サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳) ジョシュアが彼を見つめた。マーシュはちらっとその目をのぞきこんだだけだったが、瞳に宿るなにかが手をのばして彼に触れ、するとふいに、そのつもりもないのにマーシュは目をそらせていた。 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』12、増田まもる訳) 「それでは」とアルヌーは言った、「僕たちはまたもとの見解の相違にもどってしまうよ。なぜって、君と僕とは、同じ神を存在させないだろうからね。そして僕はそれが悲しいことだとは言わないだろう、なぜってそれではなにも言わないことになるだろうからね。いや、僕は、君の神は僕の神を殺すだろう、と言うだろうね」 (ガデンヌ『スヘヴェニンゲンの浜辺』14、菅野昭正訳) 黒い槍ぶすまのような森林と、若いヴラーラが眠れずに横たわる焼き払った逆オアシスとの境を、夜の微光がなだらかに区切る。微妙に調合された光が物の影を躍らせる。空地を囲む円陣は脈打ち、今にもおさえかねて襲撃に踏み切り、奪われた土地を奪回し、侵入者を追い出しにかかるかに見える。動き出そうとするところを、なにかくらい理性のようなものが押しとどめているのだ。樹々は泥まみれの足を持ち上げたが、気がおさまらないまま、また土に踏みこむ。 (ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』9、住谷春也訳) アルフレッド・コージプシー伯爵はその著書『社会と正気』の中で一般意味論という概念を展開し、アイデンティティの「である」は西洋の思想に根源的な混乱を招いていると指摘している。エジプトの絵文字の中ではめったに使われていない。古代エジプト人は、彼は私の召使いである(、、、)とは言わずに、私の召使いとして(、、、)と言う。これはつまり、アイデンティティではなく、関係を述べているにすぎない。したがって、「である」という言葉自体は存在しない。言葉は、言葉の送り手と受け手の伝達システムの中にのみ存在するだけである。話をするにはふたりの者が必要だが、書くにはおそらくひとりを必要とするだけだろう。 (ウィリアム・S・バロウズ『言霊の書』飯田隆昭訳) ヤーコプは(…)自分の墓碑の上につぎのような銘をほりつけるよう遺言した。それは「たとえこの身は変わっても、私は同じものとなって復活する」。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと I』8、田中 勇・銀林 浩訳) マシンガムは青と黄色に染め分けたボールをドリブルしながら芝生を突っ切っていった。元気な足がすぐその後を追い、二人は家の横にまわって姿を消した。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第四部・3、青木久恵訳) 彼は今しばらく立っていた。ゴメスのようにセカセカとはやく走り、ビリャナスルのようにゆっくりと慎重に動き、決して地に足をつけることなく風に乗ってどこかへ飛んでゆくドミンゲスのように漂流できるこの背広。彼らの持ち物であると同時に、かれらすべてを(、)所有しているこの服。 (レイ・ブラッドベリ『すばらしき白服』吉田誠一訳) コーデリアはよろこびに昂奮して眺め入った。そう、あの少女の服の独特の青、光線を同時に吸収し、反射している頰や、むっちりした、若々しい腕の──美しい、まるでそれとさわれるような肉のみごとな描写を見まちがうはずがなかった。彼女が思わず叫んだので、みんながこちらを見た。 (P・D・ジェイムズ『女には向かない職業』3、小泉喜美子訳) 「待って……」わたしはいった。だが、アギアはわたしを歩廊に引っ張り出した。子供が一握りしたくらいの砂が、われわれの足についてきて歩廊を汚した。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』19、岡部宏之訳) 彼は、あわれげに口ごもった。態度を明らかにしないことを恥じて、シャンスファーから眼をそらした。黄色い水仙が、うつむいた彼の眼を嘲笑していた。 (ブライアン・W・オールディス『銀河は砂粒のように』4、中桐雅夫訳) アナベル・リイはもうきのうの一部で、きのうはもう過ぎてしまったのさ。今は、二人で過ごしたあのときのことを思い出すことができるし、その思い出も苦痛じゃない。 (ロバート・F・ヤング『われらが栄光の星』田中克己訳) エル・スプレモによって解放された奴隷たちの一人の息子にとって、これこそはたぶん人間が希求し得る唯一の永遠性だったのではないか。つまり、自らが救われ、他の人びとの中に生き延びることは……。彼らは不幸で結ばれていたのだから、救済への希望においてもがっちりとスクラムを組まなければならないのだ。 (ロア=バストス『汝、人の子よ』I・16、吉田秀太郎訳) 「ヒトラーのような相手と戦うと、常に自分たちも戦う相手のようになってしまう」とわたしは話を続け、「長く深淵のぞきを続けすぎる。それがヨーロッパ。もうひとつの戦線は太平洋にできる。日本が一九四一年にハワイを攻撃するが、その飛行機は──」 (ジャック・ウォマック『テラプレーン』9、黒丸 尚訳)8 アーベルは(…)どうしてそんなに早く第一線にまで進出しえたのかをたずねられたとき、彼は「大学者に学ぶことによって。その弟子たちに学ぶことではなく」と答えた。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと II』17、田中 勇・銀林 浩訳) ミセス・シッフは芸術について言っていた。芸術はさえずりであるべきだ。この瞬間、そしてこの瞬間、常にこの瞬間に生きようとすること、そしてそう望むばかりでなく、激しく望むことですらなく、大いにそれを楽しむことだ、果てしない、切れ目のない歌の陶酔を。それがベルカントのすべてであり、飛翔への道なのである。 (トマス・M・ディッシュ『歌の翼に』16、友枝康子訳) 「かんじんなことは」とアニカはいった。「生きていることは、気にくわないからといってやめられるようなものじゃないってことを、いまのあなたはもう少しで悟りかけている。それがかんじんなんだよ。生きているってことと、あなたとは、別物じゃなくって一つなんだよ」 (ジョン・ウィンダム『地球喪失ののち』2、大西尹明訳) ジョニーが最初に気づいたのは、闇(やみ)だった。ここでは闇が実体を持って、あらゆる場所にあふれている。床を覆い、隅にわだかまり、空気中に積み重なり、安っぽいペンキのように壁からしたたっている。あたかもスパイダーが闇の収集家で、ここが彼の宝物庫だとでも言うかのように。 (ウィリアム・ギブスン原案、テリー・ビッスン作『JM』11、嶋田洋一訳) 詩について語るのは、詩そのものの喜びについて語ることであるべきだとフロストは言ってるの。詩は喜びに始まり、叡(えい)智(ち)に終わる。詩の形象は愛と同じものである (ダン・シモンズ『ケリー・ダールを探して』III、嶋田洋一訳) プーは「詩や歌ってのは、こっちがつかむものじゃなくて、あっちからこっちをつかむものなんだ」と言う。ハイデガーはこれを一般論にして、「言語は語る」と書いた。 (ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』7、小田島雄志・小田島則子訳) ヤコービは、彼の数学上の発見の秘密を問われて「つねに逆転させなければならない」といった。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと II』17、田中 勇・銀林 浩訳) マルグリットを見つめると、少女は動いていないがっちりした機械の上に軽がると敏(びん)捷(しよう)にすわっていたのに、なんとなくその機械の一部みたいだった。 (ブロッホ『夢遊の人々』第三部・四二、菊盛英夫訳) ああ、ルシア、ぼくはきみがいなかったらとても寂しいだろう、ぼくは肌に、喉に、その悲しみを感じるだろう。息をするたびに、もはやきみの存在しないぼくの胸のうちに空虚が侵入してくるだろう。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・11、土岐恒二訳) エディなら、そばにいないときでも姿を忘れることがない。たいした奴ではないかもしれないけど、なんにせよ、いてくれる。変わらない顔というのが、ひとつぐらい必要だ。 (ウィリアム・ギブスン『モナリザ・オーヴァドライヴ』15、黒丸 尚訳) ラルフィの顔は不安そうだった。彼には二つしか表情がない。悲しそうなのと、不安そうなのだ。 (ウィリアム・ギブスン原案、テリー・ビッスン作『JM』1、嶋田洋一訳) 「ジェリーを殺したのはきみか?」とダンツラーはたずねた。ムーディにむけた質問だったが、相手は人間に見えず、隠されたメッセージを解き明かさなければならない構図の一部にしか思えなかった。 (ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳) 哲学史のボロトフ教授と歴史学者のシャトー教授の激論の応酬の断片が聞こえてきた、「実在とは存続のことなんだ」とボロトフの声がとどろき渡る。「ちがう!」と相手の声が叫ぶ、「石鹸の泡だって歯の化石と同じように実在しているんだ!」 (ウラジーミル・ナボコフ『プニン』第五章・2、大橋吉之輔訳) 勇気ということよ、そこをよく考えるのよ。アーサー。わたしの読んだ本によれば、科学の世界では精神の力にもう一度恐れをいだき始めているそうよ。心に合図を送り、じっさいにものを考えさせ、祝福する精神力に対してね! (ウォルター・デ・ラ・メア『シートンおばさん』大西尹明訳) だから、その金で買ったものはなに一つぼくを本当に喜ばせはしない。たしかにぼくはいまはちょいちょい滋養のある食べ物や、一杯のワインで、元気をとりもどすことはできる。でもねえ、ジオルジナ、いつか木がよく売れて正直にもうけた金を神さまがいつもより数グロッシェン多くくださったことがあったねえ。ぼくはあのときの悪い一杯のワインのほうが、よその人がぼくたちに持ってくる上等のワインよりずっとおいしいんだよ。(ホフマン『イグナーツ・デンナー』上田敏郎訳) ステファヌ・マラルメについての思い出を問われるとき、私の答はいつでもこうである。つまり彼は私に、私の意識に入ってくる万物を前にして、これは何を意味するか(、、、、、、、、、、)という問(、)をたずさえて真向うようにと教えてくれた人である。問題は描くことではなく、解釈することなのだ。 (ポール・クローデル『或るラジオ放送のための前書』平井啓之訳、平井啓之箸『テキストと実存』より引用) 何かが信じられるか信じられないかを決めるのに、サリーが何をよりどころにしているのか、ぼくにはさっぱり合(が)点(てん)がいかなかった。いったい、どうしてうら若い女が、頼りになる一束の証拠書類を、まるで湯気くらいに軽く片づけてしまうのか。また、そもそもの出だしからインチキまるだしの広告文を、まるで聖典のようにありがたがって、一杯くわされてしまうのか、ぼくにはさっぱり……。 (ジョン・ウィンダム『ポーリーののぞき穴』大西尹明訳) 理由はわからぬながら、このワイルダー・ペムブロウクという男は彼のなかにいっそうの不信と敵意をつのらせていた。「自分のつとめを果たしているだけです」ペムブロウクは繰り返した。 (フィリップ・K・ディック『シミュラクラ』13、汀 一弘訳) ダルグリッシュがその車の観察を終えるか終えないうちに、コテイジのドアが開いて、一人の女性がせかせかと二人の方にやってきた。国教の教区に生まれ育った者なら、それがスワフィールド夫人であることに疑いを抱くはずがなかった。まさに田舎の教区牧師夫人の典型だった。大きな胸をして、陽気でエネルギッシュで、一目で相手の権威と能力を見抜き、それを利用することに巧みな女性らしく、少々威圧的な自信を漂わせている。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第二部・1、青木久恵訳) やがて、おれの目と同時にミリアムの目を通じて、周囲のあらゆるものが二倍もくっきりと見えるようになった。二人の心の内部に、彼女の神経性めまいと、おれに対する愛情と信頼とを感じることができた。公園の花や樹葉の一枚一枚が、ひときわ燦然(さんぜん)たる輝きを放っていた。それは優れた宝石職人の手になる彩飾ガラスの森のようだった。 (J・G・バラード『夢幻会社』26、増田まもる訳) 「この秋にはイタリア旅行を計画しているんです」とハトン氏がいった。彼は自分がぶくぶくした泡のような、ひょうきんな気持ちの高まりで今にもポンと栓の抜けそうなジンジャー・エールのびんのような気がした。 (オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳) ジェット夫人はそれから何時間も、人間の目ほどの大きさの、つぼみのような炎をじっと見つめていた。その炎もまた彼女を見返して、さあ、また寝こんで、あんなに取り乱しちゃいけないぞ、と警告しているみたいだった。 (ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳) 全行引用詩『ORDINARY WORLD°』 4/5 へ
2016年01月19日
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「いや、シェイクスピアの再来かもしれない人間は、この劇団にはひとりしかいない。それはビリー・シンプスンだ。そう、小道具のことだよ。彼は聞き上手だし、どんな人間ともつきあう方法を心得ているし、さらにいえば心の内側にせよ外側にせよ、人生のあらゆる色と匂いと音をネズミとりのようにとらえる心をそなえている。それに非常に分析的だ。ああ、彼に詩の才能がないことは知っているよ。でも、シェイクスピアが生まれ変わるたびに詩の才能をそなえているとはかぎらない。彼は十人以上の人生をかけて、劇的な形をあたえた素材のひとつひとつを集めたのではないだろうかね。寡黙で無名のシェイクスピアが、つつましい人生を重ねながら、いちどの偉大な劇的なほとばしりに必要な素材を集めたという考えには、なにかとても胸を刺すものがあると思わないかね? いつかそのことを考えてみたまえ」 (フリッツ・ライバー『『ハムレット』の四人の亡霊』中村 融訳) フェンテスは彼の方法の鍵を私たちに与えています。「ひとりの人物を創るためにはいくつもの人生が必要だ」、というのがその鍵です。 (ミラン・クンデラ『小説の精神』第3部・諸世紀の空のもとに、金井 裕・浅野敏夫訳) 「犬、たぶんくたびれて寝てるんだね」とゾフィアはあたしに言った。「悪夢だってたまには眠らないとね」 (ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳) リタは、思い出のなかにうかびあがってくるのはちいさなこまごまとしたものなのだ、とおもった。わが家のちいさなものはどれもいとおしい。ちいさなものひとつのほうが、テーブルのうえの半ダースもの品々よりも、たくさん口をきいてくれるから。 (アン・ビーティ『愛している』26、青山 南訳) わたしが裏口から通りに出たとき、トランクの中で音がし、バァーという声がした。アルベルト・キシュカはかくれんぼをしていた。 (イヴァン・ヴィスコチル『飛ぶ夢、……』千野栄一訳) ジェラールに軽々しく扱われたのは、自分で自分を軽々しい扱いに値いする人間にしていたからだ。 (P・D・ジェイムズ『原罪』第五章・63、青木久恵訳) 足音がジャーミン通りをゆっくり近づいてきた。そしてはたと止まった。パワーズ船長は目くばせし、シオフィラス・ゴダールはわずかにうなずいた。足音はまた聞こえ始めた。道路を渡ってキーブルの家のほうに向きを変えた。 (ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』1、友枝康子訳) するとスクラトン先生が通りかかった。この人はまったくいいおやじだ。この谷間じゅう捜したってスクラトン先生よりすばらしい男はいやしない。先生のけつは脱腸なんだ。ねじこんでもらいたいときには腸を三フィートものばして相手に渡すのさ…… また、その気になれば腸の一部分だけを落っことして、自分の事務所から遠く離れたロイのビヤホールまで行かせることだってできる。腸は蛆虫のようににょろにょろはいまわってピーターを捜しにゆくんだ…… (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』普通の男たちと女たち、鮎川信夫訳) リーは身動きした。とじたままでいようとして、まぶたがぴくぴくした。しかし意識と明るくなる光とが、むりにその目をあけさせた。 (ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』1、深町真理子訳) ──あの畜生みたいな男の相手をして、さぞ困ったでしょう?」とたずねても、セヴリーヌは答えずに、かえって、熱っぽい笑いを見せた。アナイスの家の女たちは驚いてお互いに顔を見合わせた。彼女たちは今、昼顔が、そのときまで、一度も笑ったことのないのに気づいた。 (ケッセル『昼顔』六、堀口大學訳) ヘーゲルにとって、全体とは、各部分の総合以上のものだった。実のところ、各部分の意味がよくわかるのは、それが全体に属しているからなのだ。ヘーゲルはそれをこう定義している。「真理は全体である」 (ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』6、小田島雄志・小田島則子訳) 「個人的には」と、ホーガン社長はいった。「わしは寄せ波にプカプカうかぶプラスチックびんを見るのが好きだ。よくわからんが、なんだか自分が、永久に残るものの一部になったような気がする。きみに伝えてもらいたいのは、この感情だ。さあ、もどって短報の仕事を片づけろ」 (フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『ガリゴリの贈り物』浅倉久志訳) そう言ったあと、彼はサモサタのルキアノスが『本当の話』のなかで語っていた言葉を思い出した。”私は、目に見えず、証明もできず、ほかにだれも知らないことを書く。さらには、絶対に存在しないもの、存在する根拠のないものについて書く。”いやでも頭にこびりついている文章だ。 (フェリクス・J・パルマ『時の地図』第一部・12、宮崎真紀訳) ピートは人間すべての手をポケットに深く突き入れると、ゆっくりした足どりで外野席に引きかえしていった。 (シオドア・スタージョン『雷と薔薇』白石 朗訳) (あらゆる人間と同じように)アレハンドラが具えていた多くの顔の中でも、その写真の顔はマルティンにはもっとも近しい、少なくとも近しかった顔だった、それは深みのある表情、手に入れられないと初めから分っていながら求めずにはいられないでいる人間のいくぶん淋しげな表情だった、まるで切望(つまり希望)と絶望は同時に現れうるとでもいうような顔、先に絶望しているとはいえ願わずにはいられないというような顔だった。 (サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳) ヘアーは笑いだした。彼女がそれを隠すためにタバコを吸ったことが、かえってそれを明らかにしてしまったことがおかしかった。若い──彼女がもっと年をとり、経験を積めば、若さを暴露したりはしないだろうが、この朝の一瞬にはたしかにそうだった。若者たちにまじってトラックの排水口の上にすわっていると──注目されたいのにまだ注目してもらえず、欲望のあまり、生まれたばかりのやわらかい自我をいっそう明らかに、こちらの感覚にぴりぴりひびくように見せている若者たちにまじっていると──ふとヘアーは、この世界がどれほどうまくまとまっているか、人びとがそこにどれほどしっくり適応しているかを実感した。その継ぎ目のない行動場のなかに、この自分も不安をかかえたままでやはり適応しているのだ。自分がうまく適応していないという不安までが、結局はそこに適応しているのだ。 (ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳) ジョシュアは、あたかも影それ自体が人間の姿をまとったかのごとく、影のなかからふいに出現した。 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』12、増田まもる訳) アルビナは彼にパン屑(くず)とチーズを食べさせはじめた。ミンゴラにはその中断がありがたかった。老人の描写に耐えられなくなってきたからだ。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳) スウェインは肩をすくめて、にっこり笑ったが、室内の人間より部屋全体に向けた微笑に見えた。 (P・D・ジェイムズ『死の味』第二部・5、青木久恵訳) アギアには貧乏人特有の、希望に満ちてもいるし絶望的でもある勇気があった。たぶんこれは人間すべての特質の中で、最も魅力的なものだろう。そして、わたしにとって彼女をより現実的なものにする様々な欠点を見つけて、わたしはうれしかった。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』19、岡部宏之訳) でも絵は見られてしまった、手からもぎ取られたような気分だ。この人は、わたしの心の奥にある内密なものを分けもつことになった。むしろそのことに対してラムジー氏やラムジー夫人に感謝し、この時間この場所にも感謝したかった。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・9、御輿哲也訳) ふたりが並んで道を歩いているとき、バッリは自分の願望を口に出さなかったが、エミーリオは、このような友の気遣いによって気が楽になることはなかった。というのも、友が言葉にしなかった欲求が、エミーリオには実際よりも大きく思え、それに胸が苦しくなるほど嫉妬していたからだった。すでにバッリは、彼自身と同じくらいアンジョリーナを求めていた。このような敵からどうやって身を守ればよいのだろう? (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳) 夜風はリンゴみたいな匂いがする。きっと時間というのもこういう匂いなんだろう、とエドは考える。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳) 「きみを永遠に愛する」とジョナサンが誓った。「あなたはもう、そうしたのよ」とエレナは答えて、ジョナサンの髪を撫でた。 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳) 共通の夢がふたりのあいだの空間に形をとりはじめるにつれて、アレックスは何度かつづけざまにまばたきした。「ワーオ」 (アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』浅倉久志訳) 『イエイツはつねに誠実だ』これは随分はびこっていてね、批評家がある作家の誠実さについて語るのを聞くようなとき、わたしにはその批評家か作家のいずれかが馬鹿だとわかるんだ (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) さらに、おどろくことに、ハイデガーはこうことばを続けている。「歌は、歌になってからうたわれるのではない。そうではなくて、うたっているうちに、歌は歌になるのだ」 (ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』7、小田島雄志・小田島則子訳) 「顔よ」マータは楽しそうに言った。「あなたのために、いろいろな顔を持ってきてあげたのよ。男、女、子供。ありとあらゆる種類、身分や大きさの」 (ジョセフィン・テイ『時の娘』2、小泉喜美子訳) おお ロバート──そして涙はない (ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』下・コーダ、志村正雄訳) 彼らは会話を始めた。タミナの好奇心をそそったのは彼の質問だった。といっても、その内容のせいではなくて、彼が自分に質問をするというたんなる事実によってだった。まったく、人に何も訊かれなくなって何て長い時間がたったことだろう! 彼女はそれが永遠だったような気がした。ただ夫だけは絶え間なく質問をしてくれたものだった。というのも、愛とはたえざる問いのことだからだ。そう、私はそれほどよい愛の定義を知らないのである。 (ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第六部・5、西永良成訳) スペンサーがコーヒーを持ってきたので、叔母は言葉を切った。「あなたがディタレッジ・ホールで息子のオズワルドを池に落としたとか何とか、とんでもない話を信じ込んでいらっしゃるらしいの。まさかねえ。いくらあなただって、そんなことはしないでしょ」 (P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳) 記述はオウルズビーの死ぬ前日で切れていた。セント・アイヴスは呆然とした。まるで突然それが乾いてしまった小さな害獣の死体にでもなったように、ノートをテーブルの上に取り落した。 (ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』4、友枝康子訳) だがさしあたってはすべてとても平穏だ。快適な旅行馬車は走り、ニコラの母、エヴゲーニヤ・エゴーロヴナはハンカチで顔を覆ってまどろみ、その隣では息子が寝そべりながら本を読んでいる。そして道路の窪みは窪みの意味を失って、印刷された文字列のでこぼこや、行の跳ね上がりにすぎなくなる。そして再び言葉が滑らかに通り過ぎてゆく。木々が通り過ぎ、木々の影が本のページの上を通り過ぎる。さあ、いよいよペテルブルクだ。 (ナボコフ『賜物』第5章、沼野充義訳) 「オズワルドは、あなたに突き落とされたと言い張っています。サー・ロデリックがそのことを気になすってお調べになったものだから、亡くなったあなたのヘンリー叔父さんのことが明るみに出たみたいなのよ」 (P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳) ニーファイ・サーヴァントの顔は、彼の性格をよく表わしていた。その横顔は、クルミ割りか、やっとこの曲った顎のようだった。彼は自分の顔に忠実だった。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳) そうしてわたしもヘオルヒーナの心の奥底で起きたことを、わたしにとってはもっとも懐かしい部分に起きたことを、いくぶん知ることができたのだった。だが、それがいったい何になるというのか? 何になると? (サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳) アシル氏は幸福だ。まるでずっと前から幸福ではなかったみたいである。 (サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 叔母は深刻な顔で僕を見やり、僕は神妙な顔でコーヒーを飲んだ。二人は一族の墓穴を覗き、ひとつの亡骸(なきがら)を眺めているわけだ。亡くなったヘンリー叔父は、ウースター一族の汚点ということになっている。 (P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳) ギャスとおなじ世紀に生まれて死んだ、哲学者であり、数学者でもあったバートランド・ラッセルなる人物は、こんなことを書いている。”言葉は思いを表明するだけのものではなく、思考を可能ならしめるものである。言葉なくして、思考は存在しえない”。しかり、言葉にこそ、人類の非凡なる創造的才能の真髄はある。文明の生んだ大いなる建造物にも、その文明を葬りされるほど強力無比の兵器にも、それはない。卵子を襲う精子のごとく、新しい概念を受胎させうるのは、唯一言葉だけだ。言葉/概念なるシャム双生児こそは、混沌とした大宇宙に対して人類という種がなしうる──なすであろう──なすべき──ただひとつの貢献なのだ。 (ダン・シモンズ『ハイペリオン』上・詩人の物語、酒井昭伸訳) わざわざセント・アイヴスのために豆を一粒上げて見せた。まるでそれがふたりで検討できる魅力的な小世界だとでもいうように。 (ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』12、友枝康子訳) ときどきティンセリーナは、留守番電話のメッセージのようなしゃべりかたをすることがあります。あまり何度もおなじ言葉をくりかえしたので、意味を忘れてしまったかのように。 (トマス・M・ディッシュ『いさましいちびのトースター火星へ行く』浅倉久志訳) 「それで、第三の意味は?」ドルカスは尋ねた。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』32、岡部宏之訳) 教えたり説教したりすることは、元来、人間の力に余るのかもしれない、とリリーは思った(ちょうど絵具を片づけているところだった)。高揚した気分の後には、必ず失望が訪れます。だのに夫人が夫の求めに簡単に応じすぎるから、家計に落差が耐えがたくなるんですよ、と彼女は言った。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・8、御輿哲也訳) おれの体は怒れる鳥たちがさえずり鳴く気違い病院だった。デービッドが身構えるようにあとずさり、レイチェルの耳に警告の言葉を囁いたとき、おれはスーパーマーケットの店先で立ちどまった。子供たちが足もとで騒ぎたてるなかで、おれは十羽あまりの小鳥や一羽のオオハシ、そして、もみくしゃにされたハヤブサを解放してやった。一声、嫌悪の叫び声を発して、ハヤブサはおれの肩からぱっと舞いあがった。身をかがめて、おれは背中から不格好なフラミンゴを押し出した。神経質な不具者のように、その不格好な鳥は長い脚を広げながらもがき出てきた。フラミンゴがおれの肩によじ登ってガソリンスタンドめがけて飛び去っていくと、子供たちはわあっと叫び声をあげた。おれは顔を隠し、そして、口から一羽のハチドリをひょいと出してみせた。ショーのフィナーレとして、残りの鳥を体じゅうからぱっと解き放ち、この商店区域を翼と羽毛の奔流でみたした。 (J・G・バラード『夢幻会社』27、増田まもる訳) 彼よりほかに知るよしもない、この部屋以外の、あらぬところをじっと見つめながら、イポリドは、三人の女が居心地わるい怯(お)じけた気持でいると見てとった。 (ケッセル『昼顔』七、堀口大學訳) ルーシーとミンネリヒトの会話には、ブライアには呑み込めない事情、背景のわからない事柄がひしめいているようだった。 (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』22、市田 泉訳) ルーシーはうなずいた。彼女もときどきしていることを、レスはいましていた。信じがたいのは分かるが、それは馬鹿げたやり口だった。事実を何回も口にして、そうやって時間を稼いでいれば、話のべつな結末が聞けるかもしれない、と考えるなんてことは。 (アン・ビーティ『愛している』27、青山 南訳) ジェイクが外のポーチに座ってるすごくいい写真がある。笑っていて、出てくる笑いをつかまえようとしてるみたいに片手を口に当てている。 (ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳) 夫人のスピーチが終わって気がつくと、ダルグリッシュとマシンガムは居間に通されていた。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳) ハトン氏は黙ってそのありさまを眺めていた。ジャネット・スペンスの様子は、彼の心に尽きせぬ興味をよび起こした。彼は、どんな顔でも内面に美や異様さを秘めているものだとか、女性のおしゃべりはすべて、神秘な深淵の上にかかったもや(、、)のようなものだとか、とそんなふうに想像するほどロマンティックではなかった。たとえば、彼の妻やドリスを考えてみればよい。彼女らは額面以上のなにものでもないのだった。だが、ジャネット・スペンスだけはどこか違っていた。彼女のばあいには、あのモナ・リザの微笑とローマ女ふうのまゆ毛の裏に、何か不思議な顔がのぞいていたのである。ただ一つの疑問があった──そこには正確のところ、何が隠されているのか、ということである。 (オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳) メリーは一昨日から意識がなかった (ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』0.4、志村正雄訳) ジョンは引き返した。通路の中央を埋める岩は、かなり大きいが、経験のない彼の目には、異常なものとは見えなかった。彼は、その一つを取って、黄麻布の携帯嚢に入れた。灰色な斑点の群れが銀色に閃いたと思うと、また灰色に戻って、安全な距離をとりながら整然とした列を組んで浮かび、彼を慎重に観察した。たがいに正確な間隔を保っていて、またもや彼が近づくと即座に散って、彼の視野の外れでふたたび隊列を組み直した。彼らの泳ぎの正確さには、驚嘆すべきものがあった。そういう通常の事柄においては、数学がきわめてなにげなくエレガントに見える、と彼は思った。どうやって自然は、引っ張る流れに対する魚の間隔を指定し、どういう尺度で彼が近づきすぎたことを魚に教えるのか? それが彼を数学に引きつけたものだった。それが深遠だからではなくて、目に見えない現実に探りを入れるからだった。人々は数学が世間離れしていると言い、アインシュタインが正しい銭勘定もできないと騒ぎたてる。とんでもないことだ。アインシュタインは、関心がなかっただけだ。アインシュタインに興味があったのは、深遠で美しいものだったのだ。 (グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上・第二部・6、山高 昭訳) そうした現実のうち、あるものは”高確率”で、あるものは”低確率”だとベク・グルーパーが呼んでいた。世界(ワールド)語には存在しないことばだ。なかには、存在していながら、それと同時に存在していない現実もある。デイヴィッド・ベク・アレンのようなひとが、純然たる意志の力で明らかにしないかぎりは見えなかったようなものが。 (ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』エピローグ、金子 司訳) ジェイクのすごいのは、何をやってもかならず楽しめてしまうところだ。 (ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳) 見えすいた相手の思考がいちおう落ちつくまで、ガスはがまん強く待ちつづけたが、彼の心の奥底では、なにかがやりきれないため息をついていた。こうしたばつ(、、)の悪さは、これまでにもたびたびほかの人間を相手に経験して、すっかり慣れっこになってはいる。だが、慣れることと、気にもとめないこととは別物だ。 (アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳) マイラは、昔なじみのコンプレックスが、他人には絶対知られたくないコンプレックスが、浮上してくるのが、わかった。世間を遠ざけているのはじぶんが失敗者だからなのではないか。強さというよりは弱さのあらわれなのではないか。 (アン・ビーティ『愛している』15、青山 南訳) マーサはすまして言った。「あなた、気がついてる、アルジー? 彼女はわたしより二十も年上なのよ。可哀そうなアニー。なんていう運命なんでしょう──史上最年長の娼婦とは!」 (ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』1、深町真理子訳) 「希望をお捨てにならないで!」とベティはこちらがぎょっとするほどの大声でいった。この人、クリスチャンかしら、とわたしは思った。二番目の夫と暮らしていたアパートに、やたらにクリスチャンが来たことがあった。それも、エホヴァの証人が。 (アン・ビーティ『一年でいちばん長い日』亀井よし子訳) トルブコは笑みを浮かべていた。彼は顔を赤らめた。 (アンディ・ダンカン『主任設計者』VII、中村 融訳) 馬の肌に雨の匂いがした。黄色いスリッカーを着、黒いステットソンの帽子をかぶったスティーヴはガイと私に向かって手を振り、雨が灰色の壁のようになって降る中を馬に鞭をいれ、駆け足させた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳) 庭には花をつけた木が一本あった。いま、こうして近づいてみると、ちっぽけな猫がマザー・トムの大きな足の下で丸くなっているのが見えた。マザー・トムの手が上がり、花びらが一枚、木から落ちてひらひら舞いはじめた。マザー・トムの手が高く上がって振られる。花びらが地面に落ちる。マザー・トムがほほえみ、足もとの猫がのんびりと目を閉じる。マザー・トムが手を下げる。笑みが消え、手が体のわきにもどる。それから庭全体が、一瞬ぴくっと揺れたように見えた。マザー・トムの顔がむっつりいかめしく気づかわしげな表情になる。猫の目が警戒するようにぱっと開いた。マザー・トムの手が前とおなじように上がり、顔が明るくなって笑みが浮かび、猫の目が閉じはじめる──そしてまた一枚、木から花びらが落ちてくる。ぴったりおなじタイミングで。(…)マザー・トムが手を振る。猫が眠る。花びらが落ちる。小さな閉ざされた場所に永遠に閉じ込められたような、窒息しそうな感覚とともに、ぼくはそのときさとった。落ちてくる花びらはすべて、一枚の花びらなんだ。マザー・トムが手を振るのは、一回きりのことなんだ。そして、冬はけっして来ない。 (ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳) あと五分待って、スーザンに電話しよう。五分。そうしたらもう一度電話するのだ。時計の針は動いていないけれど、待つことはできる。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳) 「でも、ホームズ君、ぼくにはなんのことだか──」 (ヒュー・キングズミル『キトマンズのルビー』第十六章、中川裕朗訳) この少女はハミダにちがいない。当時十二歳くらいのはずだが──この地方ではよくあるように──体が未熟な分だけ精神的にはませているという、不幸にとっては格好の条件を満たしていたのだ。 (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十六章、榊原晃三・南條郁子訳) フローラもよくそこにいて、デッキチェアに寝そべっていたが、ときおりそれを移動させて、いわば夫のまわりに円を描き、次々と散らかした雑誌で彼の椅子を取り囲みながら、彼のよりもさらに濃い木陰を探すのだった。流行の許容範囲内で最大限に裸の肉体を露出したいという衝動は、彼女の何を考えているのかわからない小さな頭の中では、ほんのちょっとでも日焼けしたら象牙色の肌が汚されるという恐怖と結びついていた。 (ウラジーミル・ナボコフ『ローらのオリジナル』若島 正訳) 「あんなふうに不愉快な目ざわりなものを見るたびに、あたしはニーナのとこの男の子をどうしても思ってしまうわ。戦争は恐ろしいわ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ニックの声はどこからともなくおれの知覚の中へ流れこんでくるような感じだった。気味の悪い、肉体から離脱した声だ。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハウザーとオブライエン、鮎川信夫訳) 野獣は奇妙な目つきでマーシュを見つめていた。彼のことばが理解できないか、知っていたすべてのことばを忘れてしまったかのようだった。 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』34、増田まもる訳) ルウェリンは身長が一メートル八十になるよりも小人にまで縮むよりも、変身してリスやフィロデンドロンの鉢になるよりも、はるかに大きく変わってしまっていた。 (シオドア・スタージョン『ルウェリンの犯罪』柳下毅一郎訳) 頭の上では羽がぶーんとまわり、うしろからは外の扉が閉じてかんぬきをかけるがーんという反響音がした。どこか近くで、ざらざらの石畳を靴がこする音がして、誰かがミンゴラのライフルをもぎとろうとした。彼はそれをふりほどき、ぱたぱたと駆けてゆく足音をきいて、会衆席の奥にとびこんだ。暗がりの中にさぐりをいれてみると、大勢の精神とコンタクトした。おそらく十数名か。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳) ファーバーはこの連中を避けるようにして中へ入った。 (ガードナー・ドゾア『異星の人』1、水嶋正路訳) わたしはアルヴィのベッドの端に腰掛け、上の階のむきだしの板の上を歩くベラの足音に耳を澄ましていた。終日、彼女といっしょに過ごしていたが、彼女に対してなにか感じるような余裕はなかった。数々の記憶に圧倒され、この島に対する自分の印象に取り憑かれていたのだ。前夜はじめて味わったおずおずとした親密さ──彼女の髪、シルクのローブ、偶然かいま見た彼女の体、清潔な客室、空っぽなホテルの静けさ──それらはいまでははるか昔のことのように思えた。それは、いろんな記憶を思いだすきっかけとなったつかのまの出来事で、島に着いてから、残りの記憶をおおかた思いだした。いまやいっそう焦点が絞られた。このアルヴィの部屋で、わたしが怖れていたものがすべて出会っている。わたしの過去の影と、それがベラをわたしから遠ざけている理由、アルヴィの思い出とこの家を囲んでいる風と闇、朽ち果てた塔とセリとの不器用な性的接触。そして最後に、ベラという存在──アルヴィの部屋でわたしといっしょにいて、ふたりきりで、おたがいに対する関心がすでにはっきりしていて、まもなくいっしょにベッドに入る、その存在。 (クリストファー・プリースト『奇跡の石塚』古沢嘉通訳) 四日目に、セヴリーヌが、売淫の家から出ようとすると、また見るより先に、その影でそれと知れる姿が、彼女の前に立ちはだかった。いかにも魁(かい)偉(い)な姿なので、彼女にはこの姿が夕暮れの光をすべて奪ってしまうかと思われた。 (ケッセル『昼顔』七、堀口大學訳) しかし、リュシュ氏は自分の考えにとりつかれて、ろくろく聞いていなかった。オイラーに不意にゴルドバッハが乱入してきたことで持ち札が変わり、彼の最後の結論が疑わしくなったのだ。 (ドゥニ・ゲジ『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』20、藤野邦夫訳) 男がそこにいることが我慢ならなかった。フィリッパの身内を怒りが流れた。彼女は噴き上げる憤りの炎に浮き立つように持ち上げられ、憤りとともにインスピレーションと行動がほとばしった。「待って」と彼女は言った。「待ってよ」 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳) すると、クロフォードは同時にふたつの場所にいた。いまも浜にいて五線星形とジョセフィンとブーツの下の熱い砂を感じていたが、船でこみあったリヴォルノ港にいるドン・ジュアン号の甲板の上にも立っていた。 (ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳) 宙を打つおれの左腕をグレンダがつかんで、支えてくれようとするが、おれは次から次へと痙攣に襲われる。世界が近づき、退き、分裂し、やがておれのまわりでも内側でもふたたびまとまる。 (ロジャー・ゼラズニイ『われら顔を選ぶとき』第二部・8、黒丸 尚訳) ダンツラーは彼の背中のまん中に足をかけ、頭が沈むまで踏みつけた。DTはそり返ったり足をかきむしったりして、なんとか四(よ)つん這(ば)いに体を起こした。靄が目や鼻から流れでて、やっとのことで「……殺してやる……」という言葉がもれた。ダンツラーはまた彼を踏みつけた。踏みつけては体を起こさせ、それを何度も何度もくり返しはじめた。拷問のつもりではない。そうではないのだ。不意にアヤワマーコのきまりがどんなものかがわかったからだ。それは通常の法則に似たものであり、さらに自分の行動も錠に鍵(かぎ)をがちゃがちゃとさしこむときに似たものでなければならないことがわかってきた。DTは出口への鍵であり、ダンツラーはてこ(タンブラー)がぜんぶひっかかるよう確認しながらDTをがちゃがちゃと動かしているのだ。 (ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳) 「創作を志す者には、どんなに長い一生でもたりないんだよ、ロール。そして、自分自身を理解し、生のなんたるかを理解しようとする者にとってもね。それはたぶん、人間であることの業(ごう)だ。それと同時に、至福でもある」 (ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』下・第二部・33、酒井昭伸訳) 「愛は、すべての意味を持つ、ただひとつの感情ね」とエレナはうなずいた。 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳) ブルースがうなずく。「あるいは、ウォーレス・スティーヴンスが書いていたみたいに。”言葉の世界では、想像力は自然の力のひとつである”」 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』上・10、浅井 修訳) レスは首をつきだした。「なんだって?」 (アン・ビーティ『愛している』27、青山 南訳) 「人間は」、オリヴァー・クロムウェルが言った、「自分の行先を知らぬときほど高みにのぼることはない」。 (エマソン『円』酒本雅之訳) だしぬけに、爆発のような音が轟いた。塔が崩れたあとの瓦礫の山から、何十羽もの鳩がいっせいに舞いあがったのだ。ビリー悲嘆王の王宮だった場所を巣にしているらしい。サイリーナスは、鳩の群れが酷熱の空に輪を描くのを眺め、驚きをおぼえた。こんな虚無ととなりあわせの場所で、よくもまあ、何世紀も生き延びてこられたものだ。(だが、わしにだってできたんだ。鳩にできんはずはあるまい?) (ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第二部・19、酒井昭伸訳) 「エレナ、人生は、あらゆる悲劇の母……いやむしろ、悲劇のマトリョーシカだよ。大きな人形を開けると、小さな悲劇が入っていて、その中にももっと小さな悲劇が……。究極的には、それが人生をおかしく見せるんだ」 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳) エレナはまた笑った。「おかしな人」 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳) 「なんでお前ら、ちっとはまともなこと言えないんだ?」とバトゥは、体を回し顔を上げながら言った。そうやって床に座り込んで喋っているバトゥの声は、いまにも泣き出しそうに聞こえた。ピシャッ、とバトゥはゾンビをはたいた。 (ケリー・リンク『ザ・ホルトラク』柴田元幸訳) アレックスは奇形ではなかった。すくなくとも、このわたしが奇形であるというような意味ではちがう。一対が必要な器官は一対、ひとつですむ器官はひとつ、ちゃんとそろっていた。しかも、すべてが機能していた。ちゃんと。すべての健康な赤ん坊が美しいという意味で、アレックスも美しいとさえいえた。しかし、彼の頭は並みはずれて大きかった。こめかみの上でキノコのようにふくらみ、中身がぎゅう詰めの袋のように外へ張りだしていた(…)彼の目は、顔面との比率からすると、おなじサイズの赤ん坊の平均より三倍も大きかった。しかも、黒目ばかりで、白目の部分は外から見えない。逆に、鼻は並みはずれて小さく、顔の中央にある鼻孔のついたひだとしか見えない。口は裂け目そっくりで、きちんと結ばれた薄い唇がついている。耳は穴のあいた小さく丸い蕾(つぼみ)そっくり。両手も風変わりだ。左右とも五本の指と親指があり、どの指も、手と不釣り合いに長い。 (アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』浅倉久志訳) 「ミス・ブライア」ブライアを遮った声は、ちょうどよい音量をいくらか超えていた。 (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』22、市田 泉訳) 「パット!」少年は腹から声を発し、自分の名を告げた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳) プレンティスは耳に刺激的な無音を感じて目を覚ます、 (ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』J、志村正雄訳) 彼は父が後ろを向き、階段のほうに遠ざかっていくのを見た。そして、姿を消すまえにもう一度向きなおり、死後何年かしてマルティンが絶望の中で思いだす、あの視線を向けたのだった。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳) 冷たい汗をかきながら、彼は自分とフランシーンが間違いをおかしてきたことを、はっきり悟る。二人の暮らし方、ごくたまにしかゆっくりとくつろぐことのできない生き方が間違っていることを。自分たちが可能性を最大限に活かした生き方をしていない、と感じたからこそ、自分たちのことを絵の中に描かれた二つの小さな人物像と考えたのだ──精神分析を受けている人がみごとに自らの夢を分析するように、ふと彼はそう思う。動きがとれず、囚われの身になり、行く先のない生活をしてきたからこそ、自分たちをスノードームの中の小さなプラスティック人形だと思ったのだ。いままで自分たちは、われわれは冒険心に富んでおり、進取の気性に富んでいる、と思いたがってきた。しかし、いったいどんな冒険をしたというのだろう。 (アン・ビーティ『ねえ、知ってる?』亀井よし子訳) 愛には、たいして理由などいらない。デボラとの件でもそれはあらためて証明されたことだ。知識の欠落が感情の刺激剤となるということかもしれない、物事はほんとうというわけではないときに大きな魅力を発揮するということかもしれないのだ (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳) 日曜日、両親は彼女を好きなだけ寝かせておく。午前中ずっとペドロがオペラのレコードをかけてもまるで目を覚まさない。彼女が目を覚ますのは、正午きっかりに、サント=クロチルドの鐘が鳴ったときだけで、そのとたん、彼女はベッドから飛び下り、窓を開ける。そしてありとあらゆる人形と一緒に外を眺めるのだ。 (ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』3、野谷文昭訳) レミー・パロタンは愛想よく私にほほえみかけていた。彼はためらっていた。彼は私の位置を理解しようと努めた、静かに私を導いて羊小屋へ連れもどすために。しかし私は恐れなかった。私は羊などではなかったから。私は彼の落ち着いたしわのない美しい額を、小さな腹を、そして膝の上に置かれた手をながめ、彼に微笑を返すとそこを離れた。 (サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 絵葉書には『ぼくは今、数知れぬ愛の中を、たった一人で歩いている』と書いてあったが、これはジョニーが片時も離さずに持っているディラン・トマスの詩の一節だった。 (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳) カストラートは本物の歌うオカマであり、ネルソン・エディではない。人間のつねでオカマもいつかは死ぬ運命にあるが、その死はめったに凄惨なものにはならない。ところがこのオカマの死には、きっとあなたも鳥肌が立つだろう。 (G・カブレラ=インファンテ『エソルド座の怪人』若島 正訳) ディム・カインドは目をおおっていた手をおろした。「ええ、話さなかったわ。その理由を教えましょう。おまえたちがそういうものを思いつくまで、そういうものはなかったからよ。 (ジョン・クロウリー『ナイチンゲールは夜に歌う』浅倉久志訳) 〈クレイジー・カフェ〉に腰を落ち着けたときは心からほっとした。量産された意識のせいで、目に見えるものや感覚が嘘っぽいものになっていようが、椅子は椅子であり、疲労感は疲労感だからだ。彼女はいなかった。ドリス・ブラックモアはそこにいなかった。ちらっと見ただけでわかった。 (L・P・ハートリー『顔』古谷美登里訳) 淋しくないこと、びくびくしないこと──ボアズはこの二つが人生で大切なことだと考えるようになった。 (カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』7、浅倉久志訳) 彼女が無感情なのは美が世界にたいするときの静かな自信の兆候であるように、ミンゴラには思えた。アルビナの中には美が存在し、それを傷跡が実証しているのだと思った。だが、彼女を利用したくはなかった。安心して利用できるようなたぐいの美ではなかったのだ。「きれいな傷跡をしているね」 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳) 心の眼のなかで家族たちが薄れてしまうと、オルミイはみんなが返してくれた荷物をほどき、そのすばらしい中身を貪欲にとりこんだ。 それは彼の〈魂〉だった。 (グレッグ・ベア『ナイトランド─〈冠毛〉の一神話』9、酒井昭伸訳) 翌朝はからりと晴れ上がった空だったので、ジェット夫人には何かにつけてほっと心の休まることが多かった。牛乳配達がカタコト音を立てて過ぎるのを聞いているのもいい気持ちだった。朝日が、自分で刺繍した窓のカーテンを通して、微笑むようにさしこんできたが、彼女はそれに微笑み返す余裕ができていた。そのあとで、彼女は恥ずかしそうな顔をしながら、二杯のコーヒーを飲みに思い切って下に降りて行った。彼女はコーヒーを落ち着いて飲みながら、だれかれから、案にたがわず、飛び出してくるいろいろな言葉を受けていた。 (ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳) 国境守備兵ゲーディッケが彼の魂を構成する諸断片のうちから狭い選びかたをしたか、彼がその自我を新しく組み立てるのにそれらの断片をいくつとりあげ、いくつ排除したかはとうてい判然としがたいことであって、ただ言えるのは、かつては彼のものだったなにものかがいまの彼には欠けているという気持を抱いて歩きまわったということだけである。 (ブロッホ『夢遊の人々』第三部・一五、菊盛英夫訳) そのとき、クローンのモーナがビリー・アンカーのコントロール・ルームの壁に書かれたヒエログリフの行間から歩みでてきた。モーナのフェッチは実際の姿より小さくて安っぽいバージョンで、調子の悪いネオンみたいに瞬いている。ヒールが五インチもあって歩くとお尻がぷりぷり揺れる赤のサンダルに、膝下丈のラテックス製チューブスカート──色はライムグリーン──、トップスはピンクのアンゴラのボレロといういでたち。髪はうしろで二つにわけて、服と同系色のリボンを結んでいる。「あら、どうも、ごめんなさい」クローンはいった。「ちがうボタンを押しちゃったみたい」 (M・ジョン・ハリス『ライト』17、小野田和子訳) 「知っておいてもらいたいことがあるの」アイリーンが言った。「あなたの中のわたしたちの思い出は、偽物だった。でもこのとおり、今はもう本物になったわ」 (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳) 「まあ、とてもきれいな鉢ですわね!」とベティが叫んだ。プニンはまるではじめて見るかのように、快い驚きをもってその鉢を眺めた。彼はそれがヴィクターからの贈物であることを話した。(…)その鉢は心やさしい偶然の神の微妙なはからいによって、プニンが椅子の数をかぞえ、パーティーの計画を立てはじめたまさにその日に到着したのだった。鉢を納めた箱はさらに別の箱に入っていて、その外側にさらにもうひとつの箱があった。おびただしい量の木屑と紙が鉢を包んでおり、それらがカーニヴァルの騒ぎのときのように台所じゅうに散らばった。なかから現われた鉢は──贈物をもらったとき、感動的な衝撃のために、贈られた人の心には、その贈物が寄贈者の心やさしさを象徴的に反映している輪郭のかすんだ純粋な光彩の炎のように見え、その現実的な実体は、いわばその炎のなかに埋没しているような、そういった種類の贈物であった。だが、その現実的な実体も、その贈物のもつ真の栄光を知らない局外者によって称讃されると、不意に躍動して、輝かしい姿を永遠に現わすようになるのである。 (ウラジーミル・ナボコフ『プニン』第六章・6、大橋吉之輔訳) よどんだように静かで、荒涼とした風景だが、ジョカンドラにとってはホームグラウンドだった。そしてその静けさが彼女の心にも静けさを呼び起こし、熱っぽい額にあてられた冷たい湿布のように彼女の緊張をほぐした。 (ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳) エディにとってはただのピアノではなかった。ネディなのだった。エディはある程度の時間手にしたものには何でも愛称をつけた。それはまるで、馴染み深い海岸線や目的地が見えないと不安にかられる大昔の船乗りさながらに、名前から名前へと飛びうつっているかのようだった。もしそれをしなければ、名前もなく形もない混沌とした大洋を、なすすべもなく漂流してしまうようだった。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『奇妙な関係』母・2、大瀧啓裕訳) 「人間は同じものにいろいろな名前をつけます」とメアリがいった。「〈混沌〉はわたしたちにとっては一つのことを意味するにしても、ほかのだれかにとってはまったくべつなことを意味するかもしれません。さまざまの文化的背景がさまざまの認識を生むのです」 (クリフォード・D・シマック『超越の儀式』23、榎林 哲訳) 何世紀も昔の哲学者ニーチェの文章を思い出した。(…)人間の心を蜜蜂の巣として描いている。われわれは蜜の収集家であって知識や観念を少しずつ運んでくるのだと── (バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳) ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここに立ち止まりますように」とでもいうように。夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(…) (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・3、御輿哲也訳) セアこそ、わたしの初恋の人だった。また彼女は、わたしが救った人のものだったから、わたしは彼女を崇拝してもいた。最初にセクラを愛したのは、彼女がセアを思い出させるからにほかならなかった。今(秋が去り、冬がきて、春がきて、年の終わりであると同時に始まりでもある夏がふたたびきて)わたしはふたたびセアを愛した──なぜなら、彼女はセクラを思い出させるから。 (ジーン・ウルフ『調停者の鉤爪』10、岡部宏之訳) 美しいものというのはいつも危険なものである。光を運ぶ者はひとりぼっちになる、とマルティは言った。ぼくなら、美を実践する者は遅かれ早かれ破滅する、と言うだろう。 (レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳) 少女は少女の痛みを抱えて、モーリスは自分の痛みを抱えて、二人は芝生を並んで歩いた。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・9、青木久恵訳) E・A・ロビンソンは彼の後半生において自分の詩以外はどんな詩もほとんど読まなかったと告白している。ただ自分の詩だけをくり返しくり返し読む。これは自己模倣の麻痺が、人生半ばにして多くの良い詩人を駄目にするという事実の説明にもなる。 (デルモア・シュワーツ『現代詩人の使命』2、鍵谷幸信訳) 自分は個性(パーソナリテイ)に欠けるというエドワードの意見は正しい。彼は実際に同席しているときより話題にされているときのほうが実在感があった。友だちがぼくを作っていると彼はよく言った。しかし、彼の存在が目に見えない秘密の通路を通ってぼくたちに流れこんでいたのだ。 (L・P・ハートリー『顔』古屋美登里訳) ところがそれ以来、電話はかかって来なくなった。かつてエドマンドが初めて交換手に苦情を言った直後と同じだ。アトリエは今や昼も夜も澱んだ熱気と静寂に満たされており、絵の中の子供らはめいめい好き勝手に虚空を見つめている。 (ロバート・エイクマン『何と冷たい小さな君の手よ』今本 渉訳) だが、ラシーヌが何を言おうと、死者たちの国へ降りてゆくための道はない。魂たちのかわりに、ここにあるのは飛ぶ種子、浮遊する蜘蛛の糸、羽虫だ。死者たちの国への入り口はケルトの伝説が語っているように一筋のまっ直ぐな道でできている。 (イヴ・ボヌフォワ『大地の終るところで』VIII、清水 茂訳) 「もし私が他の人たちより少しでも遠くをみたとするならば、それは私が巨人の肩にたっていたからだ」という言葉は、ニュートンの言葉だとされている。しかり、彼は巨人の肩に立っていた。その巨人のうち最大のものはデカルト、ケプラー、ガリレオであった。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと I』6、田中 勇・銀林 浩訳) 「あなたたちはもう行かないと」アーリーンの声が言った。「話している時間はないわ。もちろん、そんな必要もないんだけど」 (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳) ジョン・シェイドの外貌はその男の中身とあまりにもそぐわないために、人びとはそれを粗野な偽装だとか、ほんのかりそめのものだと感じがちなのであった。と言うのも、ロマン派時代の流行が、魅力的な首をむき出しにしたり、横顔を省いたり、卵形の眼球のなかに山の湖を映し出したりすることによって、詩人の男らしさを希薄化することにあったとすれば、現代の詩人たちは、おそらく老齢まで生きのびる機会に恵まれているせいなのだろうが、ゴリラや猛禽類に似ているのである。畏敬すべきわが隣人の顔も、いっそのこと獅子だけとかイロコイ族(割注:北米インディアンの種族)だけを思わせるのだったならば、ことによると目を奪うようなものが何か備っていたかもしれない。しかし不運にも、その二つを合せ持ったために、その顔は要するに男女の区別の定かならぬ、ホガースの絵に描かれた飲んだくれを思わせるばかりなのだ。 (ナボコフ『青白い炎』前書き、富士川義之訳) トインビーは、スパルタのミストラの丘の上の白のてっぺんに腰を下ろし、一八二一年にそこを壊滅させた蛮族が残した廃墟を眺めていた。まるで今にも、その蛮族たちが地平線の彼方からだしぬけにどっとあふれ、この街を滅ぼしつつあるように思われ、昔のことがありのまま(、、、、、)に起こったことに彼は打撃を受けた。(コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・5、竹内 均訳) あたしがジェイクに恋したのは、ジェイクの頭がよかったからじゃない。あたしだってけっこう頭はいい。頭がいいっていうのはいい人だってことじゃないのはあたしだってわかるし、学識があるってことでさえないのもわかる。頭のいい人が、いろんな厄介事を自分で招いてるのを見ればそれくらいわかる。 (ケリー・リンク『余生のハンドバッグ』柴田元幸訳) クロフォードの背後の斜面の木々が折れたり倒れたりしている。丘そのものが目ざめて自分の器官である木の絨毯を投げすてているかのようだ。海が鍋のお湯のように泡だっている。空いっぱいに幽霊が勢いよく飛びかっている。 (ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳) まぎれようもない態度を何か示すべきだ。だが、ハトン氏は急におびえてしまったのである。彼の身内に発酵(はつこう)したジンジャー・エールの気が抜けたのだ。女は真剣だった──おそろしく思いつめていた。彼は背筋が冷たくなるのを感じた。 (オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳) 町が変わりつつあることは、ブリケル夫人にとってはべつだん驚くほどのことではなかった。小さいときからずっと見てきた子どもたちも、いずれ大人になって、それぞれ子どもを持つようになるはずだ。最近は、かつてのように都会に出て名をあげようとするのではなく、小さな町でゆったりと暮らしたい、という人も多くなった。そういう人たちは何かを経験しそこなうことにはなるだろうが、逆に得るものもあるはずだ。日々が連続しているという感覚や、帰属感といったものを。 (アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』8、亀井よし子訳) スケイスは蛇口を締めて、その規則的な静かな滴りを止めたい衝動にかられたが、こらえた。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・6、青木久恵訳) それじゃ宇宙は電子からなっているのね。その電子は、カ空間がとても小さく丸まってできた極(ごく)微(び)の輪なのね。そうなのね、ヤリーン? (イアン・ワトスン『存在の書』第三部、細美遙子訳) アンジェリーナ・ソンコは今や二重ヴィジョンで世界を眺めており、第二の景色が現実の世界を明るく照らし、明晰化し、絶えず作り変えてゆく。 (イアン・ワトスン『マーシャン・インカ』I・7、寺地五一訳) もうひとりの男はジェミーと紹介された。《長老》? そんな歳には見えない。だが、このひとたちにとって〈老〉ということばは〈賢明〉を意味するのかもしれない。その点では、かれにはその資格がある。多くの人間に見られる未完成なところが、このひとにはみじんも感じられない。彼は──そう、完璧だ。 (ゼナ・ヘンダースン『忘れられないこと』山田順子訳) アメリカの上層中流階級の市民はいろいろな否定の合成物だ。彼らは主として自分がそうではないものによって表現されている。ゲインズの場合はそれ以上だった。彼は否定的であるだけでなく、絶対に目に見えない存在で、つかみどころのない、かといって非の打ちどころのない存在だった。シーツか何かの布切れをかぶせて輪郭を浮かび上がらせないかぎり姿を現わすことがない幽霊がいるが、ゲインズはそれに似ていた。彼はだれかほかの人間のオーバーを着たときに姿を現わすのだった。 (ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』第六章、鮎川信夫訳) こういう状況だというのに、ジョニイは力強さと生気をみなぎらせていた。こんな人間にはめったにお目にかかれるもんじゃない。説明はむずかしいが、いままでにも何度か、部屋にいならぶ大物たちが、ジョニイのような人物を中心にして、ひとりでに動きだすのを見たことがある。そんな感じをいだかせるのは、その控えめな態度や感性だけじゃない。ものを観察しているだけのときにも放射している、独特の力強さもそうだ。 (ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・探偵の物語、酒井昭伸訳) オードリーの首の中に脊椎骨がひょい(ポツプ)と現われる。アーンは舌をチッと鳴らす。オードリーがじっと鏡の中のトビーの虚ろな青い目を一心に見つめると、生まれたばかりの死霊のような乳白色の肉が自分の体に張りついているのが見えた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳) 飛行機の旅はよかったかとか、ブロンズの鐘を鳴らしたかとか、と彼女が訊いた。善良な老シルヴィア! 彼女は物腰の曖昧さ、なかば生来の、なかば飲酒したときの好都合な口実として培った無精な態度の点で、フルール・ド・フィレールと共通するところがあった。しかもあるすばらしいやり方で、その無精な点を弁舌癖とうまく結びつけていて、お喋り人形に話の腰を折られる訥弁な腹話術師を思い起こさせるのだった。 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) 雨のリズムにやがてミンゴラのほうも眠くなってきた。さまざまな思いがつぎつぎと、輪を描いて虚(こ)空(くう)を飛ぶ鷹のように意味も脈絡もなく、頭の中をよぎっていった。デボラのこと、自分の力のこと、タリーや、イサギーレのこと、故郷と戦争のこと。そしてそれらの孤立した状態から、根ぶかい分裂から、ミンゴラはこんな結論をだしていた。精神は成長したり進化したりするものではなく、ただのモザイクであり、安ぴかものやガラス片でできたコクマルガラスの巣と同じで、ときどきその中で稲光が走り、一瞬のあいだ全体を結んで一つにまとめ、人間という幻想を、人間の理性的感情確信の幻想をかたちづくるのだと。(…)けれど、この冷徹で瞑想的(めいそうてき)な姿勢でさえも感傷の罠(わな)にかかっているのだった。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳) カントが、われわれは世界を「カテゴリー」に分けてみる、と言っているのは正しい。カントの言う「カテゴリー」を、あなたの鼻の上にのっている目に入るものすべてが最も奇異な角度や位置にみえるような、へんてこな色メガネと考えてみよう。実はこれこそがわれわれの頭脳が把握している空間と時間なのである。 (コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・5、竹内 均訳) 薔薇の花輪がどの壁にもかかっていた。イーフレイムは来ているのか? (ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』H、志村正雄訳) 「ええ!」ヒギンズは熱烈にそう答え、たぶんカーライルの緊張を感じ取ったのだろう、少し譲歩した。「少なくとも今以上に、現実への深い洞察が得られるわ」 (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面12、嶋田洋一訳) 子どもだったワーズワースは、牧場や、森や、小川が「天上から光をまとっている」ように感じた。前部前頭葉のはっきりした目的を知っている人はいないように思われるが、大人の前部前頭葉がこわされても、いくらか粗野になる以外その人の機能にあまり変化は起こらない。/一方、子どもの場合、前部前頭葉がこわれると、顕著な知能低下を起こすので、子どもはこの前部前頭葉を利用していることがわかる。このことから、なぜ子どもは「まばゆいばかりに美しく、鮮やかな夢」を経験するのに、大人はそろいもそろって陰鬱な世界に棲み、こうした前部前頭葉の「幻想」機能を利用するのをやめてしまったかを説明できるのではあるまいか? (コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・6、竹内 均訳) モーリスはあの時の、感情を害して気まずそうにしている彼女の顔を思い出した。そんな感情に気がつかなければよかった。 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳) ヘアーは、靴のなかに小雨がしみとおってくるのもかまわず、都市の古い区域を歩きまわった。裸になったが温かい気分、青衣をぬぎはしたが、はじめてこの世界を歩いている気分だった。両足が、一歩また一歩とその世界を作りあげているようだった。自分がいったんその外へころげ落ちた世界、エヴァとボーイがそのなかへ去っていった世界を。ヘアーは笑いだした。その世界への恐れと憧れをこめて。 (ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳) キャサリンはカールトンの部屋の荷物を出し終えていた。熊や鵞鳥や猫の形をしたナイトライトが、そこらじゅうのコンセントに差してあった。小さな、低ワット数のテーブルランプもある。カバ、ロボット、ゴリラ、海賊船。何もかもが優しい、穏やかな光に浸されて、部屋をベッドルーム以上の何かに翻訳していた。何か輝かしい神々しいものに、漫画ふう真夜中の眠りカールトン教会に。 (ケリー・リンク『石の動物』柴田元幸訳) ジョニーは向こう側にいる──向こう側というのが正確に何を指しているのかよく分からないが──そんなジョニーがぼくは羨ましい。一目でそうと分かる彼の苦しみはべつとして、ぼくは彼のすべてが羨ましい。彼の苦しみの中には、ぼくには拒まれているあるものの萌芽があるように思えるのだ。と同時に、自分の才能を濫費し、生きることの重圧に耐えられず、考えもなく愚行を重ねては自分を破滅させていく彼を見ると、ひどく腹が立ってくる。しかしぼくは思うのだが、ジョニーがもし薬やその他のものを何ひとつ犠牲にせず、生活を正しく方向づけていけば、あるいは (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳) 「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異った人びとは異った類似や似かよった差異を見つけるものなんだよ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) 私の周囲にあったものは、すべて私と同一の素材、みじめな一種の苦しみによってできていた。私の外の世界も、非常に醜かった。テーブルの上のあのきたないコップも、鏡の褐色の汚点も、マドレーヌのエプロンも、マダムの太った恋人の人の好さそうな様子も、すべてみな醜かった。世界の存在そのものが非常に醜くて、そのためにかえって私は、家族に囲まれているような、くつろいだ気分になれた。 (サルトル『嘔吐』白井浩司訳) オードリーの目の前の少年は体内から光を発している。真下の床が落ちるのをオードリーが気づくや、少年の目に一瞬ぎらっと光が走る。オードリーが落ちると同時に少年の顔もいっしょに下へ。すると目がくらむばかりの閃光が部屋と、待ちかまえている顔たちを消滅させる。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳) アイネンが、形のくずれた靴から視線をもどす。 (ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』15、住谷春也訳) 全行引用詩『ORDINARY WORLD°』 5/5 へ
2016年01月19日
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ダンツラーは手を伸ばしたが、相手の手をとる代わりに、その手首をつかんでひき倒した。DTはいいほうの足でバランスをとろうとしたが、ひっくり返って霧の下に姿を消した。落ちるだろうと思っていたのだが、DTは肌に霧をはりつけたまますぐにうきあがってきた。そのはずだ、とダンツラーは思った。魂が落ちるには、その前に肉体が死ななければならない。 (ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳) 「あなたは宇宙を支配しているのですか?」ザフォドが訊(き)いた。 (ダグラス・アダムス『宇宙の果てのレストラン』29、風見 潤訳) ぼくのために橋となってはくれないきみの愛がぼくを苦しめるのだ、橋は片側だけで支えられるものではないのだからね、ライトだってル・コルビュジェだって片側だけで支えられる橋を造ることはないだろう。 (コルターサル『石蹴り遊び』その他もろもろの側から・93、土岐恒二訳) フロベールは、オメーの俗悪さを列挙する場合にも、全く同じ芸術的な詐術を使っている。内容そのものは下卑ていて不快なものであっても、その表現は芸術的に抑制が利き調和しているのだ。これこそ文体というものなのである。これこそ芸術なのだ。小説で本当に大事なことは、これを措いてほかにない。 (ナボコフ『ナボコフの文学講義』上・ギュスターヴ・フロベール、野島秀勝訳) 夫人はあと一瞬だけとどまろうとした。それから身を動かし、ミンタの腕をとって部屋を出ると、もうあの光景は変化し、違った形をとり始めた。夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・17、御輿哲也訳) ダルグリッシュの視線が、すでに一度はとらえておきながら気がつかずにいた或るものの上にとどまったのはそれからだった。大机の上に載っている、黒い十字架と文字の印刷された通知書の一束である。その一枚を持って、彼は窓ぎわへと行った。明るい光でよく見れば、自分のまちがいがわかる、とでも言うように。しかし、 (P・D・ジェイムズ『黒い塔』2・1、小泉喜美子訳) そんなものに、わしゃヘンダソンよりも多くのものを発見するんだよ。 (イエイツ『まだらの鳥』第一編・4、島津彬郎訳) この家の玄関を設計するにあたって、ぼくはブレインの家の玄関ホールを再現しようと試みた──と言っても巻尺で測ったような現実としてではなく、ぼくの記憶にあるとおりの現実として。現存する「生きて、呼吸し、存在する」ぼくの記憶が、いまは滅んで取り戻せない物理的存在よりも現実的でないなどとどうして言えるだろう。 (ジーン・ウルフ『ピース』2、西崎 憲・館野浩美訳) キェルケゴールはたずねる。「世界と呼ばれているものは何なのか?…この世へ私をいざなっておきながら、今そこに私を置き去りにしたのは誰なのか?…私はどうしてこの世にきたのであろう?…なぜ私は顧みられなかったのか?…もし私がこの世にむりやりに仲間入りさせられているのなら、その指導者はどこにいるのか?…私はその人に会いたい」。この「不条理」の感覚のいちばん極端な形がサルトルの言うところの「嘔吐」で、自分が客体のありのままの現実によって否定されているという感覚である。 (コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・8、竹内 均訳) マルティンは自分がまだ知らないでいるアレハンドラの心の一部を探るかのように、部屋の中を見まわした。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳) それからフラムは扉を閉めて、彼の蒸気船を去り、同時に彼の人生から去っていった。 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』30、増田まもる訳) まだ一年も経っていないというのに、サマンサは母親がどんな姿をしていたか忘れかけている自分に気づいた。母親の顔だけでなく、どんな香りだったかさえも。それは乾いた干し草のようでもあり、シャネルの五番のようでもあり、なにか他のもののようでもあった。 (ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子訳) グレース・ファーガソンに対する興味が深まれば深まるほど、彼女の家やその周辺も彼にとって生き生きとしたものになってきた。 (ヒュー・ウォルポール『白猫』佐々木 徹訳) 「共感覚」彼女は繰りかえした。「ある感覚が、ミスター・ヴァンダービルド、刺激を受けたのとは異なる感覚器官の感覚に即座に翻訳される場合、それを共感覚というんです。たとえば──音の刺激が同時にはっきりした色感を引き起こすとか、色が味覚を引き起こすとか、光が聴覚を引き起こすといった具合です。味覚、嗅覚、痛覚、圧覚、温覚、その他もろもろの感覚で混乱や短絡があり得るんです。わかりますか?」 (アルフレッド・ベスター『ごきげん目盛り』中村 融訳) 人間思想の全分野を革新するということは、きわめてわずかな人にしか許されていない。デカルトはこのわずかな人間の一人である。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと I』3、田中 勇・銀林 浩訳) ウィンターはこの数分で二度目の、自分の世界が裏返される感覚を味わった。「シュレイムが嘘を?」 (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳) 彼女は母親とエスペンシェイ氏と一緒に生まれ故郷のマサチューセッツ州サットンに戻り、その町にある大学に入学した。/十一歳のとき彼女はフロイト博士とかいう狂人が書いた『(「)子供は何を夢見るか(ア・クワ・レヴァン・レ・ザンフアン)』を読んだことがある。/その抜粋が入っていたのは、サン・レジェ=デクジュペルスから出ている「今世紀を代表する偉人たち」全集で、ただどうして代表的な偉人がこんなに下手くそに書くのは謎のままだった。 (ウラジミール・ナボコフ『ローラのオリジナル』若島 正訳) クロフォードは絶望的な思いでその血を見つめながら自分を奮いたたせようとする。 (ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳) 他人の生活に鼻をつっこむのは(夫人の母親のいい方に従えば、”のぞき”)、友情を保つ方法とはけっして思えなかった。たとえ尋ねなくても、知りたいと思う以上のことが聞こえてくるものだ。ブリゲル夫人の経験によれば、そうだった。 (アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』8、亀井よし子訳) ソルは知っている。サライはレイチェルの子供時代の各成長段階を宝物のようにたいせつにしており、日々のありふれた日常性を慈(いつく)しんでいた。サライの考え方によれば、人間の経験の本質は、華々しい経験──たとえば結婚式がそのいい例だが、カレンダーの日付につけた赤丸のように、記憶にくっきりと残る華やかなできごとにではなく、明確に意識されない瑣末事の連続のほうにあるのであり、一例をあげれば、家族のひとりひとりが各自の関心事に夢中になっている週末の午後の、さりげない接触や交流、すぐにわすれられてしまう他愛もない会話……というよりも、そういう時間の集積が創りだす共同作用こそが重要であり、永遠のものなのだ。 (ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・学者の物語、酒井昭伸訳) 私が自分の持物を二階の部屋に運んでいくとハンスは彼と同室の者を私に紹介してくれた。ミドルタウン出身のアメリカの著者で名前はディンク・リバーズ。じっと私を見つめる並外れて澄んだ灰色の目に驚きの色が浮かんだ。昔の知人と会ったかのようだった。一瞬私は水の涸れた河床にいて彼が「私が欲しいのならすぐ抱き上げて」と言っているような声を耳にした。しかし次ぎの瞬間ポート・ロジャーのこの部屋にいて私達二人は手を握り合い、彼は頷いていた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第一部、飯田隆昭訳) DTは鼻を鳴らした。「たしかにそうだ!」あえぎながらたちあがると、足をひきずって小川の縁に(ママ)歩いた。「渡るのに手を貸してくれ」 (ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳) それが実際に父親の口から聞く最後の言葉ということが分っていたなら、マルティンは何か優しい言葉を口にしただろうか?人は他人に対してこんなにも残酷になりうるものだろうか?──とブルーノはいつも言うのだった──もし、いつか彼らが死ななければならない、そしてそのときには、彼らに言った言葉はどれも訂正しえないものだということがほんとうに分っているなら。彼は父が後ろを向き、階段のほうに遠ざかっていくのを見た。そして、姿を消すまえにもう一度向きなおり、死後何年かしてマルティンが絶望の中で思いだす、あの視線を向けたのだった。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳) 彼は頭の回転の速い男ですが、ジュリアンが恐ろしくゆがめてしまったのです。彼のことばに耳を傾けるすべての者をゆがめてしまうように。 (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』30、増田まもる訳) ルイーズの席からだと、どのチェリストもみんな美男子だ。なんて弱々しい人たちなの、とルイーズは思う。黒のお堅い衣装を着て、あんなふうに音楽を弦から流れ落とし、開いた指のあいだから溢れさせている。まったく不注意なもんだわ。しっかりつかんでおくべきなのに。 (ケリー・リンク『ルイーズのゴースト』金子ゆき子訳) 彼の片方の目は温和で親しみがこもっているが、もう片方の目は嘲りの光を放っているのに私は気づいた。全く人迷惑な目だ。バート・ハンセンはどう応えていいやら分からず不快そうな笑みをこぼしたが、一瞬この二人そっくりすり替わったんじゃないかと思われるような同じ笑みが、今度は彼からこぼれた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳) 「分る、マルティン? これまで世界には多くの苦しみが生まれなければならなかった、その苦しみがこうした音楽になったのよ」レコードを外しながら言った、「凄いわ」 (サバト『英雄たちと墓』第I部・9、安藤哲行訳) 「どうぞ!」とドニヤ・カルロータはケイトに言った。「もうお休みになりましたか?」 (D・H・ロレンス『翼ある蛇』上・10、宮西豊逸訳) 小人は片腕をあげるとパリダに向かって伸ばす。 (フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳) 「行かなきゃ」とアリスが言った。 (コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳) 「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。 (エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳) ──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) 「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) 小人は片腕をあげるとパリダに向かって伸ばす。 (フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳) 「行かなきゃ」とアリスが言った。 (コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳) 「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。 (エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳) ──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) 「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) 「行かなきゃ」とアリスが言った。 (コニー・ウィリス『リメイク』大森 望訳) 「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。 (エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳) ──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) 「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) 「まあ、あなた」とマグダレンは溜息をついた。 (エリス・ピーターズ『死者の身代金』8、岡本浜江訳) ──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) 「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ──上の人また叩いたわ──とバブズが言った。 (コルターサル『石蹴り遊び』向う側から・28、土岐恒二訳) 「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) 「ゴードンがお気に入りの花々をお見せするでしょう」と彼女は言って、隣室に呼びかけた。「ゴードン!」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳)) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』下・15、浅井 修訳) 「ひい──」と彼は絶叫しながらジョニーに変身する。メァリーの首はぽきっと折れる。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』A・Jの例年のパーティ、鮎川信夫訳) ゴードンは驚いたように首をふった。 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2016年01月19日
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