駕篭に乗る人



本当はどういう意味だったのかよく知りませんが、この世の中には生産と消費の分離があり、分業が発達しているということですね。

富岡製糸工場のことを振り返ってみます。
この官営工場が採用した西洋式の製糸技術は当時の日本の技術より優れたものではありませんでした。

しかし、工場制で女の職人を大量に雇ったこと、その人選にあたっては、慣習に反して高学歴者(したがって旧士族・豪農などの娘)をスカウトしたこと、「官員」の身分を与えたことが画期的でした。

農家の娘が担っていた地味な作業を国家事業に位置づけたわけです。外貨獲得が狙いでしたが、
お上の威光を利用して工場労働者の地位を引き上げたことは、近代化の突破口となりました。

食糧生産よりも輸出品生産を優先し、このために、従来の職業に付着していた社会的地位の体系を改めたわけです。(ただし、歪みを伴ったことは付け加えなければなりません。)

さて、分業が始まった頃の古代文明の黎明期においてはどうだったか。
バラモン教は、世の中を人の体に譬えて、手の種姓(カースト)、足の種姓、頭の種姓がある、と説きました。
農民の子は農民、職人の子は職人、神官・貴族の子は貴族、というリクツ。

このように、社会をひとつの生命体のように考える思想を「社会有機体論」といいます。
一人一人の寿命は短いが民族の寿命に限りは無い、という主張もあります。ナチ・ドイツもこれに従いましたし、いまどきの北朝鮮もこれです。

これらの考えにどういう問題があるか、詳細は、ナチ批判者や金正日体制を批判する黄ジャンヨプ氏の言に譲ることにしますが、

近代においても、ただ分業とはいうものの、公権力の意識的な介入無しには職業間の平等は確保されない、そして、社会有機体論によって正当化されると、個人は社会の細胞として使い捨てにされてしまう、ということです。

非情な組織の論理が、企業でも国家でも横行します。
そういう風潮が蔓延すると、内部告発は悪事のように忌み嫌われ、ついには、弱小な小さな宗教団体や反体制グループまでも狂暴な国家などと同じ過ちに陥るわけです。

「組織悪」ですね。


[蛇足] 
 封建時代の朝鮮には、君主の過ちを指摘する「諫議大夫」という役職があったそうです。今日の違憲立法審査を司る裁判所や、内閣を批判する国会の野党のようなものでしょう。
そういうものを備えなければいかなる組織も健全性を保つことはできず、内外に多大な犠牲を生みます。
(「ガバナンス」と「コンプライアンス」は古くて新しい問題ですね。)

草履を作る人がいなければ駕篭に乗る人も居ないように、違憲判決を下す気骨ある裁判官や首相をこき下ろす野党議員のように、「反日的分子」が居なければ、政府も成り立たないということです。

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