楊貴妃。姓は楊、名は玉環。玄宗皇帝の寵姫。
玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと言われたため、「 傾国の美女 」と呼ばれる。
古代中国四大美女(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。
現代でも世界三大美女の一人とされている(クレオパトラ・楊貴妃・ヘレネ(日本では小野小町が加わる)。
「楊肥」などと呼ばれ、実際は太っていた説、纏足の起源説などもある。
生まれながら、玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、涙や汗が紅かったという伝説がある。
また、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満し、あまりに美しかったので楊玄淡に売られたという俗説もある。
玄宗は常日頃より美しい女性を愛し、国を傾けても悔いなしと思えるほどの美人を得たいと請い願い、長い間国中を探していた。
そしてある時寿王妃を見染めた玄宗は、驪山(りざん)の温泉宮に妃を召し出させた。玉環22才の時のこと。そののち玉環は「楊貴妃」となり、数奇の運命に身を置くことになった。
玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠(女道士)となった(このときの道号を太真という)。
これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入り、皇后と同じ扱いをうけた。
楊玉環は、容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れ、利発であり、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。
楊貴妃が流し目で微笑むと例えようのない艶かしさが漂い、その美貌はきらびやかに装った後宮の美女たちをして顔色なさしめたという。
それ以後玄宗は政務を怠るようになり、驪山の離宮は歌と舞、音曲が奏でられ、日がな一日楽しみに飽きることを知らなかった。
その後、安史の乱が起こり、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは、玄宗に対して「賊の本」として、楊貴妃を殺害することを要求した。
玄宗は、「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言って、かばったが、高力士の進言により、やむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。
玄宗って情けないね。
高力士によって、楊貴妃は縊死させられたという。38才。
玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎・李揆から反対意見があり、中止となった。
しかし、玄宗は蜀より長安の都に帰る途中、楊貴妃終焉の地にさしかかると心ちぢに乱れ、衣の袖をぬらすばかりの悲しみであったという。
また、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させ、彼女の絵を朝夕 眺めていたという。
下の写真は華清池で私が見た楊貴妃像です。
ちなみに、玄宗皇帝は747年、この温泉地に宮殿式建築の豪奢な湯殿を建て「華清宮」と名付け、ここを舞台に絶世の美女といわれる楊貴妃との享楽生活にふけったのです。
華清宮には、玄宗皇帝専用の湯殿「蓮花湯」と楊貴妃専用の湯殿「海棠湯」が造られました。
蓮花湯は大理石で造られ白い玉石で魚や龍、蓮の花などの彫刻で飾られていたといわれます。特に蓮の花は、まるでお湯の中に芙蓉の花が咲いているように見えるくらい見事なものだった伝えられています。
華清池への入り口を抜けすぐ左手にある建物は「飛霜殿」といいます。ここは玄宗皇帝と楊貴妃が泊まった建物で、源泉を引き込んであったため(今様に言うなら「床暖房」ってとこでしょうか?)、冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。
実はここ華清宮は、現代中国史においても重要な政変の舞台となっています。
「楊虎城」率いる西北軍と「張学良」率いる東北軍による共産党「討伐」が進まないことに業を煮やした蒋介石は、1936年12月、この二人の将軍に檄を飛ばすため西安に来ました。その時蒋介石はここ華清宮に泊まりこんでいました。
しかし、張学良の部下の多くは共産軍との内戦停止と一致抗日を支持していたので、抗日運動を抑圧し対共作戦にだけ夢中になっていた蒋介石に対し、ついに12月12日朝5時反乱は起きました。(いわゆる「西安事件」です。)
突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。この情報は張学良によって延安にいる毛沢東に伝えられると、毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。
周恩来は蒋介石と交渉を重ねた結果「抗日民族統一戦線」結成となって、国共合作が実現したのです。
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曲まめ子さん
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elsa.さん
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alisa.さん