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DVDの紹介です。ヒラサワ、2006インタラクティブ・ライブ「白虎野」アルバム製作後、組み立てられるストーリーサンプルがあり、ライブでは、オーディエンス(会場とインターネット)が、ストーリーの分岐点ごとに、ルートを選択して幾つもの異なったエンディングを迎える。観客とヒラサワの間に張られた半透明の紗膜に、CGが映画のように映し出され、その展開にそって演奏が行なわれる、というライブです。私は、大阪、東京最終日に参戦。1日目は、チョー・バッドエンディング主人公ヒラサワは、イナ・アティドウーを操る者達に、迫害され拷問されて、頭がおかしくなって、”枯れシダ”のいうがままに、海に飛び込んで、死んでしまう、という・・3日目は、すでに前日グッドエンディング(白虎野に到達する)が出たあと。別ルートを取るべく会場が動き、死にはしないが、もう一人のヒラサワに会い、カオスにほり出されるような展開、、だったと思う(タヨリナ)。物語Live 白虎野 イントロダクション その世界では、時間の流れに幾つもの分岐があり、どの分岐を経たかによって成就する物事や未来が違う。人々が無意識のうちにその分岐に遭遇した時、いずれかの分岐が選ばれる確率はアティドゥーと呼ばれている。白虎野の大樹の下に住む、誰もが知る小さな生物がアティドゥーの番をしていた。その生物は、その特殊な感受性で人々の心や意思を総合的に感知し、感知したものが最も良く反映される分岐が選択されるためのアティドゥー率を最大に高める役割を担っていた。そのようにして、世界は動いていた。ある時を境に、イナ・アティドゥーという人為的に作り出された確率が、真のアティドゥーを妨害する力を持って現れ、人々は知らぬ間に不本意な分岐に足を踏み入れることになった。イナ・アティドゥーは、通貨価値の変動に追従して働く強力な確率として作用する。しかしそれは、人々がイナ・アティドゥーの存在に気づかないこと、自発的な意志を持たないことが前提だった。イナ・アティドゥーを行使する者たちは、イナ・アティドゥーの力を最大限に維持することを目的に、「枯れシダ教」なる宗教を作り出し、人々を虜にした。全ての力の源"枯れシダ"Σ星よりその力を降ろし終わり無き繁栄と充足をもって人の子を愛でる汝、慈悲深き"枯れシダ"に汝の思考を委ね"枯れシダ"の意思に従え生涯を"枯れシダ"に捧げ、来るべき幸福に備えよ"枯れシダ"の示す道を喜んで行くなら等しく「幸福」への「機会」が与えられよう サイト名: Live Byakkoya http://noroom.susumuhirasawa.com/modules/artist/index.php/content0004.html“枯れシダ”は、市場原理だろうか。過去の事実にひきつけるなら、構造改革=新自由主義政策=規制緩和のことか。イナ・アティドウーは、利権、たとえばイラク戦争の石油利権、郵政民営化の郵貯の利権とか、軍産複合体の戦争利権をかくして、世論を誘導した政治のことだろうか。それとも、9・11のうそのことか。http://noroom.susumuhirasawa.com/modules/disco/viewcat.php?cid=3http://byakkoya.interactive-live.org/
2007年10月26日
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沖縄の「集団自決」いや、「強制死」だ。その具体的被害が、情景が、人々が何を体験したのかを、知りたくて探した。あった。http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/kyokasyo_tadasu_index.htmlhttp://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu/nuchigatai_index.html語られだすのに、40年掛かった。彼らの口を重くしていたのは何か。あまりに惨い体験。そうだ、しかし、「死ぬしかないと思っていた。」思わされていた。パンパンに膨らんだ遺体の間を逃げても、怖いとか、悲しいとか、何も感じなかった。 やっぱりそうだ。自分が結婚して、子供をもって、甦る記憶、フラッシュバック。PTSDだ。「アンタをみると、自分が子どもに手をかけた事を思い出して、イヤーな気になる。」生き残った人なら、誰もが目の前で母が死に、弟が死んでいくのを見た。家族に手を掛けても、自分は死にきれず生き残ったひと。散乱する遺体の間を逃げる母と子、腐敗する家族の体の横に「頭がおかしくなった」と座っている男性。語ることには、住民同士の、忌避もあった。軍の関与。自らの関与。ここでも、抜け落ちているのは加害者であった軍からの告白証言だ。住民のPTSDは、どうすれば癒す、そう出来なくても、軽減することができるか。我々が、聴くこと。政府が、彼らの訴える被害を傾聴すること。認めること。被害は、認められることで、初めて回復への一歩を歩み出す。沖縄に布陣を引いた日本軍は、どういう軍だったのか。私が知っているだけでも、一つは満州から撤退した軍だった。満州で、彼らが何をしてきたか。華北で、中国住民を強制労働に使役し遮断壕を掘らせた。沖縄で、戦車壕を掘らせた。中国住民をウサギ狩りと称して駆り出し、労工にした。無人区を作り、集団村に中国住人を囲いこんだ。食料は、補給路を持たず、中国住民から強奪した。部落を奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くした。沖縄の村で、使役したひとに、握り飯一個しか与えなかった。マラリアの島に村人を強制移住させ、村の家畜や、食料を軍が取り上げた。疎開した住民は飢えてソテツを食ってしのぎ、飢餓の住民は、マラリアで、半数以上が亡くなる。日本兵は、「米軍は男を皆殺しにし、女を強姦し、捕虜になるな。」と住民に恐怖を植え付ける。しかし、これは、中国で犯した自分たちの罪そのものではないか。戦時国際法に違反し、捕虜、俘虜を虐待し、拷問し、強制労働させ、村々を焼き払い、強姦した、自分達の姿、そのものではないか。これは、明らかに、「投射」だ。シベリア抑留者が中国に引き渡されたのち、収容所職員に彼らが投影した感情と同じだ。自分達が住民や捕虜にしたように、相手もするに違いない、と思ったのである。軍が、殺したのである。沖縄の住民を。そして、皇民化教育、軍命は天皇の命、教育され、抗う力を奪われた住民は、自ら進んで軍の命令に従い、またはそれ以外に生きる道を知らず、家族を手に掛けた。そこから、長い彼らの心の闇がもたらされた。軍は、軍関係者は、なぜ、名乗り出ないのか。私が、彼らに手榴弾を渡したと。まだ、自分の罪責を、60年経っても、見つめられないでいるのか。あれは、軍命だった、しかたなかった、自分のせいじゃない、と繰り返すのか。なぜ、黙っている?もう、死が近いあなたは、心の中に、「すまなかった」という言葉を、抱えているのではないか。言ってしまえばいい。言って、皆で、日本人全体で、贖おうよ。あなただけが、苦しまなくてもいい。懺悔じゃない、その後、チャンと、背負うのだ。我々に、バトンタッチしてくれればいい。それには、語らなければならない。でも、個人として、自分の罪責に向き合わなければだめだ。「戦争」のせいにせず、自分の意志で行なった罪はなにか、見なきゃだめだ。そうしないと、あなたの魂は本当には、平安を取り戻せないのだ。『だれも、本人がしたくないと思うことを、その人にさせることはできない。したくなければしなければいいのだから。わたし自身が、戦場で人を殺したいと思ったからこそ、軍はわたしにそうさせることができたんじゃないか。無論、その結果、処罰され、職を失ったり、監獄にいれられたりしたでしょうが、人を殺さなくてもすんだはずです。けれど、そうした選択肢を私は選ばず、殺すことを選んだのでした。兵士が戦場におもむくとき、そこには、ある「したいこと」があるはずです。それは自分の暴力性の解放であり、つまり人を殺すことです。頭の中では、自分は何も悪いことをしていないと思っていましたし、自分のしたことを封印し否定していたわけです。「殺したかったからです。」と言った瞬間、それまでとは全く違った状況が私の中に生じました。自分の中に漂っていた雲が晴れて、初めて太陽の光が私に差してきたような、ある意味で自由な気分でした。これがPTSDを解き放つカギでした。同時に私は、ひどく苦しい気持ちにもなりました。ベトナムの人々に、許されない非道の限りをつくした、そんな自分の姿がはっきり見えてきたわけですから。まるで、ダニエル先生が、私の目隠しを取り払ったようでした。』あなたには、ダニエル先生がいない。これらのことを、すべて自分でしなければならない。残された時間は少ない。私たちには、過去、日本兵が何をしたのか、全体像を知る必要がある。個々の、住民ひとりずつが、何を感じ、何をしたのかが、活き活きと分るようになったら、被害と表裏の加害も見つめ、多くの住民が、多くの日本兵が、その上官である司令部が、沖縄戦で何をしたのか、アジア・太平洋戦争で何をしたのか。天皇が、政治家が、本土の住民が、全体として何をしたのか、理解に到るまで。
2007年10月24日
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署名事務局さんから頂いたDVD「BBC放送 ドキュメンタリーネオコンが作り上げた、壮大な虚構国際テロネットワーク、アル・カイダは存在しない」全3回、みました。イマドキ、アル・カイダが実在の組織だなんて思ってる人は、もういない、デショ?いつの間にか、政府も、言わんくなったもの。あれは、よく言ってCIAの作戦コード名。でも、日本政府、「テロ」は言い続けてるよね、新テロ対策特別措置法.テロ特措法。番組は、ソビエト冷戦時代、「悪の帝国、共産主義ソ連」の恐怖でアメリカ人を洗脳し、途上国での反米・民族解放革命を叩き潰していったネオコンとアメリカ政府が、ソ連崩壊後、再び「恐怖と戦争」で、世界を制御する力を得ようとした様が描かれる。冷戦時代も、CIAは政権から「軍縮の潮流の影で、ソ連が軍備を増強している証拠を探せ。」と指示される。ところが、ないものはないのである。ナンボ探しても、証拠はあがらないのである。そりゃ、そうなのである。うそなんだから。で、最近来はった、アンタさんは知らんかもしれんガ、「ソ連の脅威」は、我々CIAが流したデマでっせ~、と長官に進言するのだが、ナンでか、CIA長官はウンと言わない。既存の方法で発見できないのは、「発見できない新技術をもとにした、全く新しい兵器を開発したからだー、」とトンデモ発言。エーッ、こんなのが、CIA長官カヨーっていう感じで、めエがテン。他にも、こんなのばっかり、何十年もやっとる。カーターを貶めて政権を強奪せよ。また、デマを流して、徹底的にイメージダウンを図る。証拠を出せ、というわけですが、探しても探しても証拠は出てこない。あたりまえでっせ、自分らのデマですもん。でも、「ない」っていう証拠は、なかなか出されへん。不滅の三重否定ってヤツです。アフガン、不朽の自由作戦で、トラ・ボラを空爆する米軍の映像が流れてたでしょう?バンカーバスターを大量投下した、劣化ウラン弾の。地下要塞だとか言って。あの後の映像は、日本では見かけなかった。なにやってたと思う?米兵が、洞窟を覗いてる。「タイチョー!なんにも、ありません。」狐の穴みたいなもんだった。そんな風にして、「幻の敵」を追う。追っても、追っても、捕まらない。その後には、無辜の市民の虐殺、アフガンの荒廃。イラクの自由作戦。「幻の敵を作って人々の恐怖を最も煽った者が、最も強い力を持つ。」これが、ネオコンとそれに結託した政府の行動原理だ。60年代、ネオコンは、リベラルな思想が人々を堕落させたと考えた。人々に、倫理的な価値観を回復させ、アメリカの使命に目覚めさせるのだ、その為には、ウソでも何でも使う。真実は、一部エリートが知っていればいい。なんだ、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」と変らんじゃないか。その後、ずっとこれを地で行ってるのが、ネオコンで、日本政府は、一緒になって煽ってるわけだ。あ、そうそう、無料海上ガソリンスタンドのことですが、03年2月25日 空母キティーホーク04年12月5日 強襲揚陸艦ペリリュー(しんぶん赤旗 掲載)に給油している。ペリリューは、海上阻止活動(臨検)を目的にペルシャ湾に入り、海兵隊を揚陸させた疑い。しかも、オイルは、米軍経由でドバイのアメリカ企業から、法外な高値で買っているそうだ。他にも、トマホークを撃ったポール・ハミルトンにも給油している。もともと、米軍にはOEFとOIFを分けるつもりなど、毛頭ないのだ。政府も、それを知ってて、口先の答弁、詭弁を、国民向けのリップサービスぐらいに思ってしているに過ぎない。
2007年10月21日
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KUMAさんに、教えてもらった、岡山平和委員会ホームページ、とくにここは、結構凄いです。自衛隊と米軍再編、地方自治体の今を、余す処なく伝えて勉強になるし、衝撃的です。http://homepage2.nifty.com/heiwaoka/menu/kiti/yujijsdf.htm私は、11月の日本原演習場・日米合同演習抗議行進に参加することにしました。 一回目の反対集会と同様、今回も日本原演習場日米共同訓練反対集会が行なわれる。日時 11月11日(日)12:00~13:00場所 岡山県奈義町現代美術館付近の田畑集会後、駐屯地正門までデモ行進(約2km) http://plaza.rakuten.co.jp/KUMA050422/diary/200710060000/何するんだろ。去年の様子、写真で見たら、プラカードとか持ってますね。なんか持って行こうか。まず、時間どおりに着いたことのない私は、置いてけぼりにならないか、現地で迷わないか、シンバイだあ~。辺野古は遠くていけないけれど、岡山なら、新幹線で1時間あればいけます。ちょっと昼寝している位の時間です。見ておかねば。演習、見れるんだろうか。その演習では、米軍再編、米軍と自衛隊の一体化、自衛隊の変質、憲法9条第2項が消されたあとに来る「新憲法草案」と日本社会が、近未来が、眼前に展開されるはずです。こなかった近未来じゃなくて、ほっとけば確実に来る荒れ野に、「否!」を突きつけなきゃ。こんな行動提起がある、と、署名事務局さんに報告したら、参加できたら、ショートレポートしてくれ、とのこと。えーっと。私がしなくても、立派なホームページがありますよ、とお教えしましたが、オフィシャルの報告以外の参加レポートが、たくさんの参加者からアップされたら恐らく私が書くような幼いレポートでも数のうち、で、皆が注目してんダゾ!っと相手に思わすことぐらいは出来るでしょうか。
2007年10月21日
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10月14日、いつものように、「アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局」主催の勉強会に参加してきました。そこからの情報です。10月28日(日) もうすぐです!JR芦原橋駅南口まえ 浪速人権文化センターにて「オレのこころは負けてない」上映会。PM2時から。日本軍「慰安婦」被害者、宋神道さんのドキュメンタリー映画是非行きたい。てか、チケット買っちゃった。1000円。前日27日(土曜)の、6時30分からの、豊中すてっぷ(阪急豊中駅)での上映もあります。学習会にいらしてた上映実行委員会の方からの推薦です。東京上映では、泣いて笑って「会場から拍手が起こってた」といいます!11月17日(土曜))PM6:30から日本軍「慰安婦」証言集会クレオ大阪中央(四天王寺前夕陽が丘)にて。おふたりのハルモニが語られます。被害者はみな高齢になられ、このような機会はどんどん減っていきます。少ない機会です。聴くのつらいだろうなあ、というと、「話されるほうが、もっと辛いと思うよ」と。ああ。そうです。そのとおりです。いかなくちゃ。11月24日(土)13:00~国労大阪会館 大会議室講師 福田誠治さんこれは私行けませんが、「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン講演会このホームページも、充実していて、教基法改悪の際、よく行きました。次回、署名事務局の学習会は、12月9日 中央青年センター(JR環状線 森ノ宮)第5会議室PM 1:30~4:30「宋神道さん上映会とハルモニたちの証言を受け止め、深める会」
2007年10月21日
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10月13日、仕事後大阪駅前「大阪行動」に直行。4時に終われるの,久しぶり、で参加。ここでは、A&Uさんをはじめ、いろんな方にあう。労働運動の方にも、遠方の方にもあう。あ、でも,『第九で9条パレード』には、参加できなくなっちゃった。時間変更になったんです、二時から。――ムリ!折角、パレード後、参加メンバーとカウンターでしゃべくることができるようになったのになあ、残念。
2007年10月21日
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実は、「戦争と罪責」は、「日本の心の文化を問い直す」の読後記を書きながら、わかんないことだらけだったので、読んじゃいました。いきなり、軍医の生体解剖から始まる。野田先生は、「今なお残された罪の意識こそは、私たちの貴重な文化であり、罪の意識を抑圧してきた日本文化のあり方を通して、私たちは自分の内面の顔を知る」にあたって、自分と同じ、医療者の罪責告白を、まず取り上げる。それも、3人。<医師と戦争>次に<認罪>で、一般将兵の自己弁明と、時代と状況が強いた殺人という弁明を超えて、個人としての罪の自覚に到った人の歴史が描かれる。戦犯管理所で虐殺の劇を演じ、加害者たちは、被害者の怒りと恐怖と悲しみを追体験しながら、鬼から人間へ、再生してゆく。そして、戦後十数年目にして訪れたPTSDの聞き取り。ここだけ、野田さんの体験をとおして、透明な、違う空気が流れる。『背筋の通った元軍人は、大きな眼を開いて私をじっと見ていた。私は息苦しかった。70歳代も後半になった老人、16年間も戦争に翻弄され、その後、侵略戦争の真実を語り続けてきた老人に、私は余りにもきつい分析をしている。厳しい批判は戦争犯罪を否認する多数者に向けられるべきで、少数の誠意の人に向けられてはならない。そう思いながらも、私は、小島さんが「本当に悪いと思って帰ってきたわけではないですよ。それは帰国してから、徐々にわかっていった・・」と述べた、戦後の小島さんの生き方を衝き動かした感情を知りたかった。罪の意識を支える感情、それが小島さんにあったのかどうか、それすらわからない。だが、私は求めた。小島隆男さんは低い声で語り始めた。語って彼は眼を閉じた。目蓋に、そして脳裏に、あの子と息子の幼い日の顔が重なって揺れていたのであろう。私も黙っていた。庭に張り出した応接室は外からの光を失い、余韻の明りで小島さんの大きな頭を映していた。』<過剰適応><服従への逃避>ミルグラムの実験システム化にどう抗うか右翼、特務機関員の極め付きの悪行と、翻心が描かれる。「それは、永富博道さんが受けた躾と教育によってつくられたものである。虚弱だった少年は徹底的に鍛えられる。やり遂げるか死ぬか、といっと暴力的修養は、少年の柔らかい感情を強張らせ、自分の内に生まれる感情を抑圧していったのだろう。自分の悲しみや喜びの感情さえ気付かなくなった者が、どうして他者の感情について十分な想像力や共感を持ち得ようか。かくして、彼の感情は極めてイデオロギー的に秩序づけられる。名誉や恥の感情は肥大する一方で、自他の悲しみや喜びの感情には冷淡となる。他者との対等な関係は作れず、常に上下の関係に変え、例外的に自分が庇護する対象についてのみ憐憫の感情を部分的に残すようになる。それによって、彼は自分の強直した感情に息を吹き込もうとするのだが、憐憫や情愛は一方的なものにすぎない。』『明日は死のうと決めた前夜、獄舎の窓に月光が差していた。月の光を見て、彼は「生きたい」という思いに圧倒される。「死ねない。何としても生きたい。生きて監獄の窓から見える月や太陽を見たい。この部屋から一歩も出れなくともいいから、生きていたい。妻にも、子にも、もう会えなくていいから、生きていたい。この部屋にいて、空気を吸いたい。」これは、感情爆発といってもいいだろう。軍国主義的イデオロギーによって鎧を着ていた感情が、抑制を突き破って「苦しい」と叫んでいる。永富さんの自我は史に直面してやっと自分の赤裸々な感情の叫びを聴いたのだった。永富さんは単純な感情移入をしている。自分の感じたように、殺されていく中国人も感じたに違いないと。それは、自分の価値観は他人も同じように持っているはずだと思い込み、同調しない者は軟弱だとみなしてきた過去と同じである。「殺されたくない」と中国人は思ったに違いないが、侵略者に対して「どんな状態でも生きていたい」と思ったのではない。むしろ、憤怒に震えていたであろう。あるいは執拗な拷問によって、生きる意志さえ奪われて殺されていったかもしれない。それでも、この思い込みは頭山満や蓑田胸喜の弟子として、右翼の心情にひたむきに生きてきた永富さんの、最初の感情移入だった。』憲兵の<功名心>拷問マニュアル貧困脱出の道、軍隊は自分の才覚が立身出世につながる新しい環境だった。『一度だって、中国の人たちに入浴や散髪をさせたことがあったか。思いつきもしなかった。薬を与えたことがあったか。彼は個人として尊重される、戦犯と管理者という役割関係であってもその前に対等な人間として交流するという、初めての体験をしていた。それは、打算と効率で対人関係をみる日本人の理解を超えたものだった。』軍人恩給を拒否した<良識><父の戦争><引き継がれる感情の歪み>渡辺さんは、借りものの主張から抜け出し、確かな自己の問題を見つけた。それは個人の生活史、自我の形成史と、現代社会を重ねることだった。歴史の感覚に裏付けられた渡辺さんの生活史は、戦後世代に開かれた対話を呼びかけている。ところが、他の一つの問いにまだ拘泥したままでいる。意志の強さへのこだわりを持っている。こう問う限り、意志の弱い人間は反戦を語りえないことになる。このような思考の遊びのあるところ、不都合な状況に立たされたり、脅されたりすると、今度は一気にすすんで他者を抑圧する人間に変っていきやすい。質実剛健で意志を通す人間が立派な人間であるということになり、かつての日本軍人の精神主義と同じになる。』『被害者の感情に聞き入ることが出来ているのかどうか、問うていない。問い、共感できる力があれば、傷ついた人は聞かれることによって、自分の無力な体験を整理し尊厳を取り戻していくことができる。それができないで補償金が話題になれば、被害者は更に侮辱されたと思う。』
2007年10月21日
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戦場で心が壊れて 元海兵隊員の証言アレン・ネルソン新日本出版社戦争で一旦壊れた自分を見つめたひと特有の、真っ直ぐな視線を感じる。それは、野田先生の、ある意味、屈折した戦後世代の治療者であり、治療を必要している患者でもある、見通しの悪い道に立たされた視界とは、異種のものだ。ぜひ、読んでください。
2007年10月21日
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青磁好き、見つけた!heliotropeさん。国宝「飛青磁 花生」わたし、これを見によく行きました。秋の陽、天井から注ぐ時、見てください、空気まで、青く染まる。隙のない造形は、修練の後を一切残さず、人の手による、人間離れ。緊張のうちには、豊かさ。音楽は、飛ぶ鉄斑を模す。仕事をはじめたころ、それまでの、全ての楽しみ(美術館)を断ったのちでも、これは、自分に許しました。
2007年10月20日
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子どもの顔が、殺した子供の顔とダブることが、小島さんの罪責を担う道の上で、特別なのは、相手の「被害者の顔」を、初めて、明瞭に思い出した、と言う点だという。それまでは、自分の手についた「血」であり、目隠しをされて俯いた背中であり、モノであった。それが、一気に、人の表情を持ち、親子関係の上におり、むずがったり、誉められて喜んだり、叱られて悲しんだりする子どもに、血の通った、活き活きと動き出す人の姿をとった。自分が殺したのは、皆、そのような、日々悲しみ、喜び、苦しむひとであったと、初めて残された家族の悲嘆と言う回路を経ることがなくとも、何の知のヴェールもなしに感じた、ということだ、そう、野田さんは捉える。その感情レベルで死んだ子どもの痛みを分かち合ったとき、初めて、小島さんは、自分の阻害していた感情を取り戻した、と野田さんはいう。自分のなした残虐な行為で自分も傷ついていたことに、このとき初めて気付くのだと。幼い頃、私の家は、DVの家であった。母は、うつ病?で長く寝ていた。私は、高校生の頃、母に同化しようとする余り、学校で一言も口をきけなく(きかなく?)なった。他にもいろいろ理由はあると思うが、大きかったとおもう。大きな洗面器に水をいっぱい入れて、それを持ち歩いているような気持ちだった。その後、母を「あの人」と呼び、母に引っ張られることを、その気配でもあれば即座に否定し、『強く、肯定的に生きること』にのみ集中した。結果的に、父と同じ職業を選ぶことになり、父を理解できるようになればなる程、母を否定した。私は、父に、『前向きな生き方』を見ていたのだが、私は実は、強者に同一化しようとしただけではないのか。ああ、無味乾燥な分析!私は生きたいのだ。そんなラベルはじゃまになるだけだ。わたしは、幼児期、常に、どちらか一方を選ぶことを強いられてきたので、いまでも、全ての人を対等に扱うことができない。一つ取ったら、それが全て。私が20代を終わる頃には、それは消えていた。(だって、私が初めての、職場に赴任したとき、母の寝ている枕もとで、「家を出て、私と暮らそう」といった記憶がある。)だから、わたしは、悪いこともつらい事も(?)「時が解決する」と思って来た。いま、父は母に、まあやさしいし、月に一度は、父から誘って母と私で旅行にいく。まるで、何かを取り戻そうとしているようだ戦争と、夫婦のことは、別かもしれない。男女のことだから。PTDSに関連して、解説するページを読んでいたら、虐待ばかりなので、いっしょくたになってしまった。父の名誉のため言っておくが、父は、酒を飲んで暴れた、という事では全然無い。(むしろ飲めない)ある一点に関して、何十年も、言い争いが絶えなかった、ということである。
2007年10月19日
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今も激情とともに語られる虐殺被害の、60年経っても帰らない遺骨を返して下さいと語られる生き別れの、うら側には、必ずそれをやった日本兵の姿がある。これらはセットの筈だ。しかし、加害側のなんと、空々しいことか。表裏一体のものと思えない。これほどの戦争犯罪、本人は罪の意識も無いから、忘れていたりする。沖縄の訴えを、聞き流していたりする。傷つかなかった日本人、日本文化は、敗戦で変ったのか。変れなかった。私にも、わかる。この短い講演録を読んでも、私は、小島さんの体験した「精神の危機」が解からなかった。殺した子供の視線が、息子に被る、ということの、どこが、「精神の危機」なのか。考えても、この程度(上に書いた程度)にしか解からず、疑問が残った。疑問は、「戦争と罪責」を読めばある程度、解けるだろうし、私に、具体的に、自我形成史のどこを、何を取り上げ、考えよと言っているのか、具体例が示されるだろう。
2007年10月19日
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社会と自分の関り方、今ある自分が、どの程度この虐殺を許した文化をもつこの社会に左右された自分を作ってきたか、その経緯を、過去を私たちの一人ずつが検証することを、筆者は求めている。その答えの例が、同じ筆者の著書「戦争と罪責」に描かれているのだろう。その作業が、個人の改革を、ひいては社会を構成する個々人の集合としての社会が、奥深くから変ることになる、と。
2007年10月19日
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日本兵は、命令だったと言えば、自分が相手を人間だと思ってなかったからこそ出来た罪を、不問にできる、と考えた。多くはそのまま、自分のなしたことと対面することなく来た。対面できた人の中でも、理性では制御できない動揺を感じた人、自分の人格に亀裂が走り、ボロボロと崩れるコンクリートのような自分に直面する日本兵が、ほとんどいなかった、という。唯一、理解できない自分の精神の壊れを、消化器症状として発症した「戦争栄養失調(拒食症)」が、戦時神経症の心身症として陸軍病院の2000冊のカルテとして残った。しかし、その中にも、虐殺の罪に怯える記述は2例しかない。残りの大方の2000人も、自分の精神的苦痛を自覚できず、精神疾患ではなく消化器症状としてしか、苦悶を表現できなかった。自分にも、周りにも、心の葛藤を否認する構えがそれだけ強かった。それどころか、上記の後に罪を自覚する戦犯管理所に収容された兵士も含め、ほとんどの兵士は、虐殺行為に精神的に傷ついていない。個人を無罰化する集団に強い帰属意識を持ち、社会に過剰適応し、感情や精神は抑圧された状態に置かれ、外部からの問いかけを否認する状態を、こわばりと言っている。このこわばりを、一旦自分のなかから洗い出し、解体し、他者の悲しみの中に熔け、心を共有し、責任を果たし、越えていきたい。いや、違う、そんなに簡単に「越えられる」ことじゃない。野田さんは、戦中から戦後に引き継がれた「感情麻痺」が問題だという。集団への順応を強いる社会、過剰適応の圧力を構成する社会は、私たちが容認している。自分の精神の耐えがたいのに気が付く感受性を奪われたまま、敗戦を迎え、そのまま感情を抑圧して来た社会の歪みは、若い世代にも続いた。精神の破壊への無感覚は、学校の先生の良心を強制によって傷つけておいて、先生たちに「心の教育」を要求する、文部官僚、政治家の感情の鈍さや、キリスト教聖職者に神社参拝を強要した、良心への暴力に通底する、と指摘する。踏絵の暴力を強いる人々の感情麻痺は、さらに暴力に晒された人々の感情麻痺となって広がっていく。だから、問うこと、知る努力をすること、地道に、個別に、詳細に知ること。そしたら、殺されていった人々に少しだけ、少しずつ、感情移入できるようになる。押し流されない人間になる。その地道な努力を、もっと積んで、活き活きと心の中に描くことが出来るようになったら、強張った精神に亀裂を入れることが出来る。自覚していないだけだ、自分がどれだけ心の強張りを抱えているか。映画や、フィクション、本は、それを助けるのだろう。自我のゆがみも、侵略戦争を否認した戦後社会との関りにおいて、問い直さねばならない。「精神の強さ」とは、そんなに価値のあるものだったのか、も。
2007年10月19日
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本当に傷つくことが無かったから、そのあとも、震災で無力感に打ちのめされた人たちと、震災地をちょっと訪れて「ぞっとした」と言っているヒトとの違いも分らない、大勢の人々の群れをつくった。加害の事実に心が引き裂かれるのが、人間なら、 傷つかなかった我々は「鬼子」で、このままでは、人ではないのかもしれない。加害の最中も、加害の後も、その後何十年も、PTSDがおこらなかったのは、相手を人間と認めていない、相手に母もいれば、子どももいる、人間なんだと見えてこなかったからだという。相手を人間と認めた時、虐殺は初めて、加害者の中で、業務ではなく、人殺し、罪に変る。
2007年10月19日
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私たちの属する文化の過去に、私たちが行なった侵略で、家族を失って悲しむ人や、戦争で心が壊れたひとに共感した人がほんの一握りで、人を何十人、何百人と殺しても自分の心が引き裂かれるようなことが無かった、何て貧しい体験だろう!何て貧しい集団だろう!
2007年10月19日
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「そういう状況のなかで私たちはどれくらい傷つきうるのか、傷つくことが実は人と人との対等な人間関係をつくっていき、異なる文化を尊敬していくことができるような人間性であるということを、私たちは考えようとしてこなかったと言えます。」残虐な行為は、相手だけでなく、自分の、その残虐行為をしたほうの精神も傷つける。もし、傷つかないなら、それは、健全な精神、文化と言えないという。残虐な行為に疑問なく大勢のひとが関った文化を有する戦前戦中の日本、戦後その事実を頑なに強く否認し身構えてきた戦後の日本社会、そのなかで自己形成した自分がどのような自我を、精神を持っているのか、作ってきたかを、振り返りなさい、と作者はいう。歪さを歪である、と感じる。異なった文化を尊敬し、同じ人間だ、自分が傷つくように相手も人間だ、傷つくのだ、と気付く。相手の顔を見る。歴史から知ること、つまり「この社会全体とて、一体何が行なわれたか」を認識する、こんなことは、どこの戦争でもされた、と弁明するのではなく。その社会で作られた自分を自覚すること、自分と、残虐な行為をしたこの文化圏とは無関係ではないのだ、ということ。社会の病巣が治らない限り、自分もそこから大きく変わることはないのだということ。変化を受けにくい、文化のレベルから、自分が受けている影響が無視できないこと。(その例として、俳句的詠嘆による感情処理、表層の傷とほんとうに傷ついたことの区別がつかない社会、精神の強さを言うとき脱落する人との対等で豊かな感情交流、明治以後根底からは変えようとしなかった経済至上志向、などを挙げる。)その自覚を通じて、「私たちの文化をもう一度、変えていこう」と思えるのだ、と筆者は呼びかけている。その、変りにくい文化を変えることに自覚的な人々が大勢育たない限り、戦後に作った経済に突出した歪な社会を克服できない、と。敗戦を通じても、この国の「富国強兵」は変らなかった。「物質で乗り越える」「中国と連合国に、精神において敗北したのではなくアメリカの物質、物量に敗北したのだから、物質で乗り越えられる」という読み替えを行なったに過ぎない。勤勉さが生む物質で勝ち取る繁栄を、目標とする豊かさだと設定して、戦後社会を構築し、経済で突出した。そこには、豊かさのなかに含まれてあるべき他文化にたいする尊敬も、尊重もなかった。沖縄に、経済を取るか否か、だけの選択肢を突きつける本土の政治の硬直も、この歪さの延長上にある。だから、「私たちが残虐な行為を行なった時、ほんとうに傷つくことが出来なくて、集団のなかで言い訳をしている。」沖縄の母や子に、手榴弾を渡した兵は、それが沖縄の人に死ね、ということだと自分の行為だと、または軍の責任だと、天皇が責任を負う、のだということを、感じなかったのだろうか。自分の主体性、を確認して生きる、というプロセスを普段踏まずにきているから?軍の命令だけでは、なかったはずだ。いっしょに隠れていた自分の身の安全を考え、保身の為に死ねと、強要したのじゃないか。自分の弱さをチャンと見ないのだ。異文化圏からの告発に対しても、個人が直接傷つくことをガードして、内向きにしか通用しないような論理を盾にする。政府はその総元締めみたいなもんだ。この社会に埋没している生き方を、知らず知らずに取っていないか、と問われる。私は、どっちかって言うと集団に入るのが、苦手だと思って来たし、マスゴミの垂れ流しには、容易には踊らされないつもりだったが、ほんとに、染まってないといえるか。自分とその周囲の、どんなことが、それに当たると、考えたらいいのだろう。具体的には、まだ、雲を掴むようだ。
2007年10月19日
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初めて、自分の戦時中の行為が自分を深く傷つけていたことを自覚した。いかに、自分のしたことが残虐であったかを、自分の精神の傷を見据えることで、初めてわかった、つまり、個の問題、させられた戦争ではなく、した戦争、自分のしたことに責任をとる生き方、自分が自分の人生の主体であろうとすることは、なした罪の責任を引き受けることだ、と。その罪責感を支えるのは、他者である被害者との活き活きした感情のやり取りである、と。そのような、傷つく魂を持った個人としてのみが、戦争加害者としての責任を担うことができる。柔らかい感情を抑圧しない社会を、今の日本の閉塞を内部から変えていく。極限の、人間破壊を解かるのは、非常に難しいという。アウシュビッツ、南京、華北、イラク・・しかし、少しずつより多く知って、―それは、あまりに膨大で、あまりに尋常でなく、その傷はあまりに深く、長く、続いている―それでも、悲しむ彼らに、加害者として深く感情移入できるようになれば、容易に、集団の暴力に馴染まない、豊かな感情を取り戻せる、という。「精神の強さ」より、「傷つく柔らかさ」を、取り戻す、そのために、知り、語りあう。更に、具体的に、詳細に知る。そして、感じる、自分の傷から、ひるがえって、被害者の立場により深く共感する。それを、『二つのステップ』と呼んでおられるのでしょう。
2007年10月19日
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残虐な行為を「した」側が、精神の危機を経験する、という。どういうことだろう。こんなことをした自分は、人間として許されるのか。人として最低あるべき状態、と自分が思うところから、自分が滑り落ちていた、または今も落ちているかもしれない、自分が人ではなくなった、そのようなことのできる自分は、人では無いのかもしれない。今、人の親の顔をして暮らしているが、そんな資格は自分にはないのではないか。このまま、子供を育て、養育し、子どもを人らしく育てることができるのか。いつか、自分が、この子にも、虐待を振るうのではないか。自分を責める目が忘れられず、逃れたくて、この子を傷つけるのではないか。無垢な視線が、却って自分を責め続けているように感じられる。そのせいで、この子を自然に愛せない?小島さんのいう「なやみ」とは、このようなものか。でも、まだ、わからん。
2007年10月19日
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小島さんが、長いインターバルののち、自分の子どもの顔と殺した子供の顔が重なって、眠れなくなった、というのは、彼が、このとき時初めて、PTSDを経験した、ということだ。これに野田さんが言う、「これほどの残忍な戦争のなかで生きて来たにも拘わらず、まだ少しは、自分の人格が受け入れがたいという体験を感情のレベルで感じる力があなたには残っていたんだと思う。」小島さんのこの、十数年を経てやってきた反応が、多くの他文化における帰還兵に起こったのと同じPTSDだと、と野田さんは捉えた。自分の精神の危機、とも言っている。しかし、殆どの日本兵は、それを体験することのないままだった。つまり、「自分の行なった行為を個の問題としていかに捉え直すかという作業が非常にあまいまま、今に至っている人たちが多くいます。これは私たちの文化が持っている一つの限界であると言えると思います。」
2007年10月19日
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じっと見る目が良く似ている、とはどういうことだろう。殺した子供が、自分に復讐するため、生まれ変って自分の子どもになったと、思ったのだろうか。ちがう。溺愛しようとするたび、冷や水を浴びせられるようだったのだろうか。なんか、ちがう。殺した子どもの親の心を初めて身近に感じたのだろうか。まだ生きていた子供を放置したことへの呵責もあったろうか。自分が、自分の子供を殺す情景を考えたのだろうか。戦場を離れ、平和な家族を懸命に作ったのに、ひとり一家を爆殺した時の様子を繰りかえし思い返さざるを得なかっただろう。4人が死に、一面が血の海だっただろう。ちぎれた手足がそこ、ここに飛び散っていたかもしれない。即死なら、内臓損傷があったはずだ、臓物なども出ていたかもしれない。仰向きになって起き上がれない子どもも、衣類や顔は血に染まっていただろう。血と死人の臭いがしただろう。垂れ流しだったかもしれない。その時の小島さんには、これら全て、見慣れたものだったろう。野田さんは、これを感情麻痺という。「数のうち」。でも、自分の子どもとなれば、違うだろう。意識の上では、被害者の心を、理解しよう、しようとして戦後を過ごした小島さんにして、被害者が「顔」をもった人間として立ち現われるのは、十何年も経った後だった。このとき初めて、被害者に「活き活きした共感」を持つことができた。そのため、精神的外傷を体験した。被害者の苦しみを本当に感じているか?それは当然、被害者の苦しい告白を聞く、日本社会にガードされて生きてきた、戦争体験のない私にも、当て嵌まることのはずだ。被害者の心傷に近づくのは生易しいことでは無い、小島さんでさえ、中国の被害家族に会う旅のなかで幾度も、思い知らされるのだ。通り一遍の記載で、感じることのできるのは、ほんの僅かのことだ。
2007年10月19日
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野田さんは問い掛ける、小野さん、殺害した中国人の家族の苦しみ、家族を奪われた遺族の悲しみを通じて、あれは悪いことだった、と思うことはあっても、殺された人そのものの悲しみ、憤り、嘆き、を感じることは出来たのですか、と。知的作業としての罪の回想ではなく、感情を突き動かすような感情レベルの体験をしていたのか、と問う。戦後、被害者の話を聞く我々、私にも、彼らの痛みに自分の心をすり付けるように感じることができたのか、と訊く。小島さんは、自分が虐殺した中国人の、その子どもの自分を刺す視線と、自分の愛する子どもの視線が、どうしても重なった。一種のフラッシュ・バック、PTSDだ。しかしこの体験を通じて、初めて、殺された、傷つけられた側に立つことができた。
2007年10月19日
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さて、これを読んでまず、よくわからなかったのは、今、必要とされていたのは、まず、戦争被害者へ思いを馳せ、共感共苦することだったよね。でも?中国の戦争被害者の体験談多数を聞いたあと、その被害者の精神障害に、共苦(コンパッション)する努力を促されるのではなく、日本兵に「加害者の心的外傷をいかに取り戻したらよいか」、という解説になっているので、頭がこんがらがってしまうのだ。「傷ついた人がどれほどほんとうに苦しかったのかを活き活きと共感し、感情移入していく作業が必要」と野田さんが述べられる際の、「傷ついた人」とは、この場合「中国側の戦争被害者」を指すのだろう。(だと思うが)このような作業工程だーまず、知りなさい、と、彼ら日本兵が何をしたか、知りなさい。充分に活き活きと殺されていった人たちを思い描けるようになったら、我々の社会の集団主義が、彼らに、すすんで虐殺に順応していこうとする精神的構えを作らせることを理解し、自らの中にもそれが引き継がれていないか検討しなさい。自らは向き合うことの出来なかった親、祖父の世代の戦争責任と向き合え。それは、自らの硬直した精神に、少しずつ豊かさを当てるはずだ。自分の責任と思わない処に、豊かな感情など生まれてこない。虐殺の最中も、戦後も、一貫して自らの加害を否認した社会が、否認の為に抑圧した人間らしい感情を、取り戻そう。相手のことを認める精神が、我々の社会の至る所で失われたままになっている。これを、自分の精神が傷ついていることを知ることさえなかった、罪の自覚なき親、祖父の世代の「した」ことを知ることで、取り戻そう。彼らの感情麻痺そのままに戦後作り上げた社会で育った我々も育った。自身の、情緒的欠陥、歪さを自覚しよう。知って、感情移入を経て、硬直した攻撃的仮面から、過剰な社会適応による抑圧から、柔らかい感情の起伏を取り戻そう。
2007年10月19日
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筆者の野田さんは、本文中で言わないし、使っていないが、これは、戦争後PTSDがおこらなかった国の記録である。PTSDは阪神大震災後、クローズアップされ、精神疾患の専門家以外の人間にも身近な用語、よく耳にする言葉となった。震災以外では、第二次大戦、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、チェチェン戦争帰還兵にPTSDが高率に見られ、侵略軍の兵士に、戦争神経症、戦争後ストレス障害が起こる事実は、日本でもよく知られるようになった。この本が出版された1999年には、震災がすでに起こっている。震災ボランティアとして、被災地に毎週通っていたため、私も、訪問活動がひと段落したころ、一年後あたりに、研究会に呼ばれ、そこで初めてPTSDという言葉を聞いた。この本の出版された1999年の時点で、精神病理学者の野田さんは、震災後PTSDの治療研究をされている。その後、6年間かけて、上の疑問を解くため、チェチェン帰還ロシア兵や、日本軍帰還兵の調査聞き取りをされた。私は門外漢なので、PTSDの理解レベルは、一般の人たちと変らない。
2007年10月19日
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『日本の心の文化を問い直す』に付随して日本兵には、外国の軍隊の罹患率と比べて、圧倒的にPTSDを発症する率が低い。これはなぜか。野田氏の疑問は、ここから始まる。同じように、戦場のストレスに晒され、自ら残虐行為に手を染めても、我々の軍隊が、他の国々の帰還兵と余りに異なるのはなぜか。同じ戦争、残虐行為を体験しても、文化によって、PTSDが起き易い文化、起きにくい文化があるのではないか。我々の文化は、この後者、心的外傷を起こしにくい文化と言えるのではないか。そうさせているのは、文化、社会の中のどの要素か。もし、PTSDが高率に発祥する文化圏の軍隊ならば、兵士の指揮の低下、前線からの離脱が増え、長期化する戦争を続行することは出来にくいし、戦争をすれば国内に厭戦気分が早期にひろがり、また戦後は戦争の再発抑止を国民から求めるであろう。PTSDをほとんど経験しなかった日本の軍隊は、長期の戦闘、戦場にたえ、結果的に戦争を長引かせた。心的外傷を起こしにくい、ことは、侵略される側の傷を感じにくいことと同義である。つまり、戦場の残虐行為がエスカレートしやすい。この相手の苦しさを共有できたなら、自分のなした行為の残虐さがよくわかる。相手に対し、本当に悪いことをした、と思うことができる。自分のしたことと、受け入れられないほど残虐だ、と強い衝撃を受ければ、悪夢にうなされたり、外の音に過敏になって日常生活が営めなくなる。ところが、日本兵は、人殺しを業務としてやり、やっている最中も相手にほとんど何の同情も感じないため、相手に自分が悪いことをした、と感じることが出来なかったのだ、という。そのような割り切り、戦争虐殺への順応が、早期に、徹底して日本兵のほぼ全員に起こったのはなぜか。日本全体がそうだったのだから、仕方が無いのだ、と言う。命令だったから、しかたなかったのだと言う。しかし、実際には、命令だけでなく、自ら進んで虐殺を行なっている。また、「日本全体」のせい、「日本」から自分が強いられたことだ、といいなながら、その「日本」が中国で行ったことを正確には知らなかったし、知ろうとする努力もしてこなかった。例えば、憲兵は、でっちあげの抗日者を、特移扱い、といって731部隊に送ったが、そこでの虐殺は知らないし、関与していない、という。全て、業務であって、自分の罪、とは考えない。戦後もそうだった。生体解剖をいっしょにした同僚軍医は、やったことを忘れていた。この反応のあり方は、個々人の性格というより、各人がお互いに責任をうやむやにすることを、長期、国全体の規模で許した結果だ。そこでは、被害者の傷をしっかり見据える、ということがスルーされたうえで、国民全体、多くが責任逃れに走った。幾ら、責任逃れの言い訳をいろいろ思い付いても、何か違う、という内なる声を聞かなかったのか。「やらされた」で済ますには重過ぎる行為の後に来る精神変化を経験しないというのは、そのこと事態、精神の健全な働きを喪っている、という。戦後世代も、父や母に、訊かなかった。そういう状況に、集団で入ってしまう日本文化とは、なんなのか。また、自らの戦争被害をのみ取り上げ、侵略の、戦争責任に言及することを、強く自粛する風潮があった。
2007年10月19日
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アジアへの差別的な認識を克服しつつ、私たちが国内の課題としなければならないのは、将来に向けて加害者(自国政府による被害者としても)とならない個の主体をどう作っていくのか、という問題であろう。私たちが圧倒的には加害者へとつながる問題をもつ文化や社会に包まれているとしても、それを克服するどのような下地と可能性が日本社会にあるのか、という問いに真剣に答えることが私たちに欠けていたように思える。その意味で、自国のうちにある反侵略的な思想、運動、文化の研究、整理が遅れていることの弊害は大きいように思う。再評価を進める場合、視野を戦争への抵抗運動に限定しないことであろう。 多くの場合、戦争が始まって抵抗する時はもう手遅れになっている。反侵略的な思想や政策の提起の事実、あるいは侵略戦争に対する厭戦気分にまで広げて、日本社会に存在した流れを明確に示すことが必要だろう。それは、個が加害者集団に自己同一化しないでいられる可能性と根拠を示し、個の自立を励ますことになる。被害者の側には抵抗や独立運動、さらにそれを支える文化的社会的背景などが、また加害者の側にも侵略への内部的な抵抗のみならず、独立に向けたアジアの思想や政治・文化に敬意をもって対処した歴史というプラス・イメージの側面が、たとえ弱いものであっても、それぞれに付け加えられなければならない。
2007年10月19日
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戦争認識の全体性を回復するためにだが、この加害―被害の枠組みによるだけでは、アジアの被害者を、私たちは単なる「受動的な犠牲者」と考えかねない。そこには相手の意思への積極的な認識も、尊重や配慮も欠けているという点で、また、「哀れみ」というもう一つの差別の形態に陥る余地を残している点で不十分である。加害―被害の認識は、さらに被害者とされた人々のうちに積極的な意思―つまり他民族支配からの独立への意思や、抗日の闘い、あるいはその背後にある思想・文化の認識などが行なわれるようになり、人々への思いを尊重する姿勢が育成されることで、はじめて十全なものとなる。一方、国内―つまり加害者側自身に関する認識についても、必要な認識があるように思われる。無意味な死は追悼に値せず、意味ある死は追悼の程度が高くなるような性質のものでもないのであって、軍国思想におもねる必要は無いであろう。ただ、・・元兵士自らの人権感覚の欠如がそのままに放置され、結果としてアジアの被害者の痛みがわからない、つまり加害者としての自覚も生じない構造が戦後も維持されてきたように思われることである。たとえば、兵士の戦病死の割合は30%近い数値が出ているが、彼らが疲労や兵営での虐待、風土病などにより、ぼろ雑巾のようになって死んでいった実態、そいうした被害者性と加害者性を結びつけて深めていく課題は、なお大きな領域として残されているように思われる。
2007年10月19日
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大人のための「戦争論」上杉聡 著 より一部抜粋差別と戦争―「歴史教育」を解きほぐす政府が所蔵する戦争関係資料を公開・調査させ、真相を究明しようという運動が市民から提起され・・その趣旨の一つには、「日本社会が進んで、主体的に、植民地と侵略による被害の調査を誠実に行い、明らかになった事実を確認し、自ら認めて行く過程を歩むべき」これは、被害者やアジア諸国からの告発によって「強制されるかのように謝罪」が繰り返されて来た「ねじれ」を意識し、主体を回復しようとする試みのひとつである。差別的対立を克服する認識方法、・・認識そのものが集団間の敵対と差別の論理に回帰しがちな傾向を生むことに抗して、意識的にそれを超える個の認識と主体を育てる方法論そもそも差別とは、対象となる主体を自己と同じように認識・配慮しないことではないか。差別に共通するものは、相手を自己と同等の主体と認めなかったり、主体そのものを無視することにある。つまり対象が、肉体や労働力などにおいてカウントされることはあっても、それが意思を持つ主体として、配慮と認識を加えられていない状態を差別と呼ぶことができると考える。それゆえに、「差別する」の反対語は「平等」ではない。「尊重する」とか「尊敬する」がそれに当たる。私たちは、戦争認識において、アジアの人々を尊敬・尊重してるかをまず問うべきなのである。
2007年10月19日
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日中高校生の歴史認識と教科書問題 越田稜 著 より一部引用「・・過去をコントロールするのは現在を支配するのに役立つ。その支配が問題とされたとき、それを正当化するのにも役立つ。ところで支配的諸勢力―国家、教会、政党あるいは私企業―は、マス・メディアないしは歴史を再現する諸装置、つまり教科書、連載漫画、映画、テレビ放送を所有し、それらに金を出している。それらは次第に万人に対し、またひとり一人に対し、規格化された過去を手渡す」。為政権力層が、己の権力を正当化するために過去を都合よくコントロールして、特にくちばしを入れやすい教科書を作り出す傾向は、何も日本にだけある教育的風景ではないかもしれない。しかし第二次世界大戦においてともに加害者であったドイツと相違して、日本は大戦後、殊更侵略史実を矮小・歪曲化し、隠蔽すらして、言わば規格化された過去を若者に、しいて言えば非支配層全般に、それを手渡したことは注視すべきである。脱亜入欧(実際には“侵亜抗欧”)を喧伝し、富国強兵をスローガンに天皇制支配を強化した日本の近代化過程にあって、教育は日本をまさに神聖なる盟主と位置付ける走狗の役割を演じた。日露戦争時、国定化された教科書はそれ以降、近隣諸国を蝕むにいたるたびにその都度それを正当化するのに余念がなかった。そしてアジア太平洋戦争中、小国民は「日本ヨイ国、キヨイ国、世界ニ一ツノ神ノ国、日本ヨイ国、強イ国、世界ニカガヤクエライ国」と諭された。降伏後、日本は旧為政権力層がほとんど温存され、加えて冷戦下アメリカの極東政策も幸いして、東南アジア諸国、太平洋諸島を含む近隣諸国への戦争責任に真剣に立ち向かおうとはしなかった。それどころか、開き直りの姿勢すら示そうとした。日本は、「私」を滅し、「公(国家)」に殉ずる者からなる誇り高き「ヨイ国、キヨイ国」でなければならなかった。“国家”の介入を拒み、民衆に引き寄せた歴史の構築が現在求められる。そもそも国家を独り占めする為政権力層の、正当化・規格化された歴史は“幻想的偽史”とでも言えよう。実際に歴史を築く民衆側に、その歴史を取り戻さなければならない。それでこそ初めて、日中両国民の未来も正当に開かれていくのである。
2007年10月19日
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私たちの文化をもう一度変えていこう私たちはこの社会全体として、一体何が行なわれたかという全体像をまず知るための、何らかの努力をしないといけないと思います。全体として私たちは侵略のなかで何をやったのか、私たちはこの社会に生きる一人の人間として全体像を持つための努力をもっとしていかないといけないと思います。今聞いている話がどこに位置付けられるかがきちっと知的に認識されないといけないわけです。その後に、そういう残虐な行為に関った文化のなかに生きて来た人間が、いかにその文化を継承しているのか、そのなかで自我を形成した自分がどのような精神をつくっているのかを振り返らないといけないと思います。そのためには、傷ついた人がどれほどほんとうに苦しかったのかを活き活きと共感し、感情移入していく作業が必要であろうと思います。私たちはそういう二つのステップを通して、私たちの文化をもう一度変えていくことが出来るのではないかと思います。私たちが作ってきた戦後の文化は、非常に経済に突出した社会を歪んだ形で作りました。それは実は「富国強兵」の単なるすり替えでしかなかったことを、50年経って私たちは思い知らされている訳です。実は豊かな社会というならば、私たちは経済活動においてはもちろん、一人でも多くの人が失業しないで労働するチャンスをもてる社会でないといけないわけです。政治の参加においては、中央の少数者の権力の支配ではなく、国民一人ひとりが権力に近い距離にいて様々な形で参加できる社会を作っていかないといけないはずです。三番目には、人類のさまざまな文明や文化が作ってきたものに日常的に接触する機会が多い社会を作っていないといけないはずです。四番目には、日常私たちが家族や友人や異性との関係において、豊かな感情交流が出来る社会を作っていかなければいけないはずです。しかし、私たちの社会は、そうではなかった。非常に経済が突出して、・・今日まで来ました。私たちが残虐な行為を行なった時、ほんとうに傷つくことが出来なくて、集団のなかで言い訳をしていく。これは集団の文化のなかに私たち個々人が溶け込んでいき、いつも強い構えを持った社会を作ってそのなかで生きているからで、そこから抜け出すことは容易ではありません。そういう極端なまでに経済主義にすり替えられた社会が作られてきたのだと思います。戦争の問題を敗戦から50年経った今もう一度考えること。しかし、考えることは断片的に事実を知ることではなくて、戦争の事実を強く否認し身構えてきた戦後の社会のなかで私たちはどのように生きて来たのか、どのように自己を形成してきたのか、その歪みを問いかける作業と並行していなければならないと、私は思います。以上、野田正彰氏の講演録より、大事と思うところを抜粋しました。
2007年10月19日
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強さを求める前にだから私たちの心のなかには、常にどこかに、何だかんだ言っても結局豊かでなければ駄目なんだという言い訳がすくっていく、ということがあると思います。これは私たちが、やはり傷つかない文化の中で、戦後読み替えていった結果であります。そして、それは現在のいろいろな動きのなかに全てつながっているように、私は思います。例えば、オウムの事件・・・そこには、「精神が強い」とはどういうことなのかを問い返す力はありません。精神の強さを問う前に、私たちは豊かな感情を持っているのか、人との関りのなかで、傷つき得る心を持つような文化の中にいきているのかを、問い返すことはありませんでした。戦争で父が行なった残虐な行為に対して、自分は同じような状況に置かれた時にそれを拒否できる人間であろうか、それだけの強さがあるだろうかと言う形で問いかける非常に自爆された問い方などは、共通していると思います。実は拒否する強さを求めることよりも、そういう状況のなかで私たちはどれくらい傷つき得るのか、傷つくことが実は人と人との対等な人間関係を作っていき、異なった文化を尊敬していくことができるような人間性であるということを、私たちは考えようとしてこなかったと言えます。
2007年10月19日
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敗戦後の歪み「無罰化」と「物質主義」敗戦後、私たちが戦争に対してとった反応のしかたは、次のようにまとめられるかと思います。私は「無罰化」と呼んでいるのですが、・・すべて戦争が行なったことだからやむを得ないんだ、勝っても負けても戦争は悲惨なものだから二度と戦争は行なってはならないという発言のなかに、明らかに自分達が行なった戦争を、どこにも責任がなかったとし、無罰化する強い精神的な働きがありました。その働きのひとつを、「一般的無罰化」と私は呼んでいますが、すべての戦争を遂行する武器について反対をしていくことが戦後の私たちの貴重な運動であるという形で無罰化し、自分たちの行なった行為については正面から見ようとはしないというのが、戦後しばらく強く働いていきました。「無罰化」のもうひとつの流れとして、イデオロギー的な無罰化の心理をとる人たちもいました。戦前の行為を問わないイデオロギーに溺れた自分を、次は社会主義は反戦勢力であるというふうに読み替えて、現実をすり替えようとする動きがあったといえます。二番目の反応は、大多数の人がとった姿勢ですが、「置き換えによる物質主義」と言えると思います。自分たちはアメリカの物質によって負けたのであり、精神によって負けたのではないと思ったわけです。そこには中国の文明に対する尊敬はありません。つまり中国の文明に対して私たちが負けたという事実を見ようとせず、単に物質においてアメリカに支援された敵に負けたのだと主張し、極端な戦前の精神主義を今度は反動的に物質主義に置き換える動きがありました。そしてその動きは戦後の経済主義に替わっていったわけです。私が子どもであり自我形成していった時代、戦後の社会というのはそういう時代でした。「勤勉×人的資源」が将来の繁栄をもたらすのだということを盛んに書いてあります。こういう考え方は、戦前の自分達が持っていた文化そのものを深く見ようとしない。精神において敗北したのではなく物質において敗北したのだから物質で乗り越えればいいという、反動的な読み替えを行なっていくという動きがあったわけです。このような動きは、朝鮮特需になり高度経済成長を支え、土木と建設業を軸とする地方の補助金経済、そして東京集中―そういった形でずっと強化され、バブル期まで突き上げていく私たちの社会を作ってきましたし、そのなかで私たちの人格は形成されていったわけです。
2007年10月19日
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体験を感情のレベルで感じる力自分のやった残虐な行為を篩い分けし、それが強いられたことなのか逆に自分が命じて行なったことなのか、ひとつずつ仕分けをする。虐殺についても命令とそうでなかったことをきちっと分けていく。そのなかで自分がいかに人間性を失っていたのかを知的に認識するという長い作業を辿って、その作業の後に、かなりのインターバルがあり、それから再び、自分の行なった残虐な行為によって自分の精神が本当に傷ついているということを体験しているのです。自分の行なった行為を事実の告白としては行なうけれども、先程のようなレベルで自分の精神の危機として体験するという人は、非常に少ないわけです。彼らの中には、自分の行なった行為を個の問題としていかに捉え直すかという作業が非常に甘いまま、今に至っている人たちが多くいます。
2007年10月19日
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本当に悪いと思って帰って来たわけではなかった彼に「私達は知的に戦争の問題を知ること、あるいは反省することは出来ても、ほんとうにそのことを自分の精神の底において受け入れがたいと感じる力があるだろうか。」と問いかけた時、彼は非常に強い緊張をもって黙りました。「実はほんとうに悪いと思って帰って来たわけではないですよ。あの判決の時、心から喜びが湧いてはしゃぎ回るということはなかったと思います。私たちの罪の認識の度合は実はこれくらいであったと思います。」「実はこのことはどうしても語りたくないから、家族にも誰にも言ったことはない。・・(報復作戦で村人を皆殺しにする。その中で、一家5人を惨殺し、翌日見にいった。)ところが、下の子どもが土間で仰向けになり生きていて、大きな目で私を睨むんです。」それから長い年月が経ち、このエピソードは、思い出されることはありませんでした。決して彼は傷つかなかったわけです。「(自分の子どもが)同じ年頃になってからです。目がきょろっとして私の顔をじっと見ているんです。そっくりなんですね、寝顔が。これはもうしばらく悩みました。」
2007年10月19日
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知的な作業として事実を認識しかし彼は知的な認識のレベルで、戦争の中で自分は黄河の支流を決壊させたとか、・・戦犯管理所で一つ一つ告白した情報としての事実ではなく、彼自身が何をやったかということを本当に感じるのは、日本に帰ってからまだその数年後のことです。私は小島さんとの長いインタビューのなかで、「最初に中国人の首を斬ったりした時、あなたは何かを感じたのか、そのことで不安になったのか」とかいろいろ聞くのですが、同じ質問をされた兵士たちのほとんどは「それは全く無かった」と皆、異口同音に言います。小島さんもそうでした。そして淡々と自分の行なった残虐な事実を述べるのです。それは知的な作業であります。先程のチェチェンの兵士とか・・・に見られた、非常に強い人格の解体の度合いを伺わせるものは、小島さんには無かったのです。私はやはり小島さんの戦争の認識の仕方は、こういう状況に追い詰められた人間として、捕虜という状況のなかで自分の過去を一つ一つ手繰り寄せる知的な作業だけであったと感じました。殺人は兵士にとってビジネズ、業務になっているわけです。その人の人間性にかかわることは、私たち人間は自分の精神を防御するため非常に強く拒否しようとします。彼の思い出し方もその典型であります。家族の遺体を見て泣く、生き残った人達の苦しみを知的に想像しながら、彼は「悪いことをした」と言っているのです。つまり彼の想起の仕方は、自分の人格がとても受け入れられない、表の意識では統御できないようなレベルで自分の人格を突き動かすような体験としては、決して受けとめてはいないことを明らかにしているわけです。
2007年10月19日
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小島隆男さんのインタビューを通じて中国共産党の戦犯管理自分がシベリアから中国に再び送られていった時、そのことは国際法違反であり不当だと非常に強い憤りを持ちます。彼ら自身は戦場で中国人を捕虜と認めずに、見つけ次第に人を殺していたという事実があったにもかかわらず、自分も同じような立場になったら、殺されるのではないかという自覚をほとんど持っていません。これは非常に奇異なことであります。しかし、自分のやったことがひとつずつ明らかになれば、当然これは処刑されるだろと、後でだんだん思えるようになっていきます。そして彼らは自分の行なった事を見つめることを拒否して、中国側の刑務所の管理者にいろんな形で抗議を繰り返します。しかし、抗議を繰り返しても結局状況は変らないということを何人かの人たちが気付く。こういった気付きのなかから、だんだん自分の行なった事を見つめようとする動きが出てきます。一番のきっかけは、それぞれの人が受けた人間的な看護でありました。自分たちは、中国人を捕虜にしたら拷問をして水も与えずに刑務所の独房に放り込んで、そうして衰弱したら殺していた。にもかかわらず自分たちは、中国人の管理所職員から全く違う処遇を受ける。たとえば、貴方たちはシベリアで苦労してきたんだからと、米のご飯をいつもお代わりの分も含めて炊いて持って来る。副食も付ける。中国人たちはコウリャンの飯と白菜のスープだけの食事をしながら、です。そういう、自分が中国の人達を処遇してきたことと全く違う処遇を受けるなかで、徐々に、一体自分はどんな人間であったかということを振り返る作業が行なわれます。これは中国共産党の政権が行なった非常に政治的な行為で、周恩来の政策でありました。彼らは・・罪を一つ一つ自ら明らかにさせるという作業を政治的な方針としてとったわけで、そのなかで彼らは順々に自分の罪を告白していきます。小島さんは・・・最終的には、これほどのことをしたのだから、自分は殺されるというのではなくて、死んでもいい人間だということを自覚する過程で、中国の裁判を受け、そして起訴猶予になって1956年に日本へ帰ってきました。
2007年10月19日
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悲惨な事実と生き方の問題との距離それから、戦前に大人であったが戦争に行かなかった人たち、後方にいて軍国主義日本を生きた人たちも、「自分は犠牲者である。軍需工場で働かされ、勉強も出来なかった、青春がなかった」という形で犠牲者であると強調しながら、「戦争は良くない」と言っているのが、かなり多くの釈明のあり方だと思います。それは、天皇制の社会に生きながら、なぜ自分が違和感を持つような人格を形成しえなかったのかとか、そういったことが一つひとつ見直されていくべき問題であります。けれども、それも行なわれてきていません。さらに、戦争当時にはまだ少年少女であった人たち、軍国少年、軍国少女として敗戦を迎えた人たちは、年若い自分がどのような社会に生き自我形成をしていったのか、批判力も持たず個々の人間と対等な人間関係を作ることも出来ないまま、狂った社会の中で自己形成をしていき、それがその後の自分の人格においてどんな意味を持ってきたのかを本当に問い直した人も、非常に少ないと思います。そして、戦前と戦後の社会は大きく変わったのだから、当然自分も変ったと思い込む形で、戦争の体験を遠くのものにすり替えていきました。そしてとりわけ戦後の世代、終戦時にまだ幼かったり戦後に生まれた世代も、戦争への反省の無いまま侵略戦争を否認する社会のなかで自分たちが育っていったことについて、深く問いかけてきたとは言えません。ひとつの社会の表層の文化は、外圧があったり色々なことでかなり変ることがあります。流行によっても変ります。しかし、思考のあり方とか感情の持ち方などの、深層の部分でその文化が持っているものは、容易にかわることはありません。私たちは、その文化のなかでどのように自己形成をしてきたのかを問い直さない限り、悲惨な事実を聞いていても、それは「二度とあってはならない」という話だけになり、自分が今生きている生き方の問題との距離はずっと続いていくままであろうと思います。
2007年10月19日
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「やむを得なかった」と言う弁明このことは同時に、私たちがほんとうに傷つかない文化のなかに生きているのではないかということ、そしてその文化は今もなおかつ続いているということを、私たちに伝えています。中国や東南アジアへの侵略に加担した人たちの多くが、その事をまず突き詰められた時にこれまでやってきたことの一つは、「やむを得なかった戦争である」という言い訳であります。自らが望んでしたのではないんだ、と。越境の帝国主義との歴史的ないきさつの中で日本はこういう状況にならざるを得なかった、生存権を主張して満蒙線を守らないといけなかった、あるいは南方に下りて資源をとっていかないと、生きる事は出来なかったーそういった、「やむを得なかった」と言う言い方での弁明であります。それから、もう一つは、「させられた」という弁明があります。自分が望んでしたんではないんだ、強制されたのであって、もし反対するならば刑務所にいくか殺されたのだから、それは「させられた戦争である」という言い方があります。ほんとうに戦争の第一線で戦った人にとっては、多くの場合は、「させられた」とか「やむを得なかった」では説明がつかない、個人的に抜き差しならない、自分の人格を脅かす体験を持っているはずです。そして、戦線の少し後方にいて「掃蕩」などの形で民衆を殺した人間にとっては、「やむを得なかった」とか「させられた」という事のなかには、実は次第に残虐行為に慣れながら、自らが積極的に行なったたくさんの行為が入っているわけです。しかし、その振るい分けがきちっと行なわれることの無いまま、戦後の社会が作られていきました。それはもちろん、強い集団主義の文化のなかで、戦争は「やむを得なかった」「させられた」ということであったと同じように、戦後の社会も残虐行為などについては一切口に出すべきではないという強い圧力があり、その圧力のもと、みなが同じような形で戦争を基本的に否認する動きが強く働いていきました。
2007年10月19日
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体験をつきつめない社会「心の傷」を言う安易さ若者が使う「私、傷つくわ」というのは、「ちょっと何か言われると、表面に少し傷がつく」そういうレベル、つまりそれは、繊細さの強調でしかなかったと思います。そして、阪神大震災が起こり、・・震災で傷つくということは、建物が崩れ閉じ込められ、救助が来ないなかで、横にいるお母さんが、一生懸命声をかけてくれていたお母さんが、次第に声が細くなって息が絶えていく。・・そういった、自分の無力感によって徹底的に打ちのめされた人にとっての「心の傷」であるはずです。ほんとうに自分のこれまでの生き方が解体して耐えがたい無力感に陥った人の「心の傷」と、たんに日頃と違う状況に投げ込まれて不安になったという問題を、きちっと仕分けしようとする姿勢が、私たちの文化の内に無かったと言えます。だからその後、ほんとうに傷ついた人たちをどうするかという姿勢をつくることは出来ませんでした。そういう点では、弱者に対して様々な形の負荷をかけ続けていく震災後の社会と、私たちの社会は結びついているわけです。(彼ら役人は)自分たちが一体この国の行政のなかで何をやっているのかを、考えたことがないと思います。一方では、文部省の役人は、この80年代から強く、日の丸の掲揚と『君が代』の斉唱を強制してきました。それに対して受け入れ難いと言った校長は、辞めていかざるをえない状況に陥りました。この旗の下に侵略が行なわれて、この旗を見ることで精神的に不安定になる人たちが、このアジアにはまだたくさんいることに思いをいたすべきでしょう。およそ人間の心を踏みにじってその内側に踏み込むことについて、非常に鈍感な姿勢であります。そういうことを行いながら、「心が傷つく」と言う言葉が、非常に安易にファッションのように使われていく社会であります。
2007年10月19日
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ロシアの青年の場合皆さんは日本人ですから、このようなことは、あまり不思議に思われないのかも知れません。しかし、他の国で戦争や革命の犠牲になった人たち、あるいは加害行為に加わった人たちを見ていると、現実はあまりにも違います。私がインタビューしたのは戦闘から1ヶ月半後なんですけれども、「未だに悪夢で飛び起きる。砲弾で吹き飛ばされたチェチェン人の頭部を手に持っている。あるいは武器無しでひとり取り残され、遠くにロシア軍が見える。友軍が走っている、チェチェン兵が追ってくる夢。寝汗をかき、身体が震え、その後は眠れない。」「一ヶ月ほどは、病室をノックされるとすぐ、ベッドの下にもぐり込んで銃を探す自分がいた。」「自動車の騒音が聞こえても、身構えてしまう。いてもたってもいられなくなる。」アメリカ兵の一割は戦争神経症に戦争の第一線にいくことによて、精神的に非常に不安定になって、たとえばヒステリー的なてんかん症状で身体が動かなくなったり、目が見えなくなったり、あるいは不安神経症の症状が出たりーそういった形で戦うことが出来なくなる。その内部には、自分が受け入れ難い状況、例えば殺戮の状況のなかでの非常に強い罪の意識があります。そしてまた、自分がいっしょに戦った人間に対する、自分は生き残った者としての罪の意識を抱きながら、自己解体していくわけです。自らの行為は単なる殺戮でしかなかったと思えて、そのことが自分の人格を受け入れ難くさせ、深く苛まれるという症状が、たくさん出てくるのです。
2007年10月19日
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日本社会の現状をどう超えていくか日本の心の文化を問い返す精神病理学者 野田正彰 講演 から抜粋傷つかない心日本的感情の処理これほどの残虐行為をしながら、彼の翌日の日記にもその次の日の日記にも、その事を怯えて思い出すとか、食事が喉を通らないとか、悪夢にうなされるとかいう記述は一切ありません。「月は十四日、山の端にかかり晧々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨たらしさこの上なし、・・・一生忘るることの出来ざる光景であった。」ここには日本的感情の処理が見事に現われていると思います。集団の中で自分が無くて、集団の意思決定に自分の精神がすべて一体になる生き方があります。そして彼らには、傷つかない心もあります。残酷な行為を行なった後、それを周囲の情景に対する一抹の感傷へと替える文化の力があります。これは明らかに、和歌とか俳句の世界であります。自分の感情を情景に託して発散する、見事な文化的装置が働いていると、私は思います。月と死体と山を対比して、詠嘆する日本的感性が、傷つかない心を装う一つの鎧になっている訳です。
2007年10月19日
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中国側から「人圏」(圏は、家畜を囲う場所)と呼ばれた集団部落=強制収容所男性が全員いなくなった「寡婦の村」ペスト菌投下による常徳での15000人の死亡が報告される。「日本政府は日本軍が中国を侵略していた間、中国で行なった細菌戦という世界周知のこの事実を、正視しなければなりません。細菌戦の事実を正視してはじめて、現在の日本政府は、世界人民の前に、公正な姿を打ち立てることができるのです。そしてこそ、日本が再び軍国主義の道を歩き出すのではないかという懸念を取り除くことが出来るのです。」「歴史を認めない日本政府の責任は、時と共に重くなります。」
2007年10月19日
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第二に、欧米列強に遅れて近代定刻主義国家となった日本は、植民地化、領土化の対象に、朝鮮、中国などの近隣諸国を選んだ。そして意識的にこれら近隣アジア諸国にたいする優越意識、差別感を養った。長い歴史の中で日本は、文字も学問も、中国から朝鮮を経て学んできたにも拘わらず、帝国主義への道を進むに従ってアジア諸国、とくに朝鮮と中国にたいする蔑視感を国民の中に育てていった。こうして植付けられた対中国人蔑視感に加えて、日中戦争開始後に生まれた烈しい敵愾心がある。それまで中国人には愛国心も民族意識もないと蔑視していたのに、開戦後に中国人が示したのは、強烈な愛国心と抗戦意志であった。日本帝国主義の止まることのない侵略に対して、ようやく中国には、民族統一と近代国家樹立への意識が発展してきたのである。そして軍隊だけでなく、民衆の中にも根強い抗日運動がおこり、日本の予想に反した激しい抵抗に直面することになった。このことに驚愕した軍の上層部も兵士たちも、中国民衆にたいして強い敵対意識と憎しみをもち、残虐行為に走った。第三に、戦争の拡大と長期化に伴う日本軍の素質の低下と、それを原因とする士気の頽廃、軍旗の崩壊を挙げることができる。ソ連との戦争準備を整えながら、もう一方では中国との戦争が思いもかけぬ規模に拡大したため、兵力は膨張の一途を辿った。そのため1937年には早くも後備役兵を主体とした特設師団を動員したのをはじめ、徴兵の基準を緩和して現役兵を増やし、補充兵も大量に徴集するなど、その素質は低下するばかりであった。幹部の質も極端に低下していった。周囲の全てが敵だという孤立感、恐怖感にさいなまれるようになったことも、兵士たちを自暴自棄の精神状態に陥らせる原因になった。特に戦争が泥沼の長期戦になり、絶望的な気分が深まっていた。また、治安粛清のため、日本軍の駐留が極度の分散配置の態勢となったことも、規律の乱れ、軍紀の崩壊の原因となった。抗日戦争に対し、勝利の見込みを持てなくなったとき、日本軍はヤケクソともいえる燼滅掃蕩作戦、三光作戦を、解放区にたいして展開した。それは民衆を敵に廻した帝国主義軍隊が陥った宿命であるとともに、この時期の日本軍の持っていた特殊な条件によって倍化されたものとなった。補足;三光作戦は、長城の北と南ではやり方が違っていた。北では無人区化政策、南では燼滅掃蕩作戦が行なわれた。このあと、本書では、「私たち中国人民を人間として扱わず、私たちの人間的誇りを根底から踏みにじったのです。」と言われる日本軍の罪行が、16人の被害者、研究者、元日本兵から、告発、告白される。
2007年10月19日
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三光作戦の展開 1941年7月から、粛清建設3ヵ年計画を立案41年12月、42年5、6月冀中、同年4月から11月冀東、43年に冀西ほか3回、など多くの作戦を行なった。これらの抗日拠点に対する作戦の特徴としては、遮断壕の構築と無住地帯の設定があげられる。一切の人、物の交通を絶つ遮断壕を数百キロに渡り掘らせ、その上で燼滅掃蕩して、根拠地として再利用できないように無住地帯化する。この作戦の中で、国際法が禁じている毒ガスを使用した。三光作戦は住民への攻撃であった。残虐行為をもたらしたもの三光作戦は、根拠地の燼滅掃蕩が目的で、閑居値の民衆そのものが対象となっている極めて残虐な作戦であった。中国民衆の被害者の数は、桁違いに多い。1994年の中国国務院の人権白書は、盧溝橋事件以後8年間の死傷者2100万人、虐殺の死者1000万人とし、95年の江沢民演説では被害者3500万としている。一般民衆の生活や生命を犠牲にすることが判っていながら、家を焼き、物を奪い、人を殺す三光作戦を日本軍がなぜ実行したのか。民衆の海に溶け込んでいる八路軍に手こずった日本軍が、民衆そのものを敵視したからである。それはベトナムでのアメリカ軍にもあったような民族独立を奪った帝国主義軍隊に特有の所業であったといえる。しかし三光作戦は、それだけですまない規模と残虐さを持っていた。第一にそれは、日本近代化の特質と、その中での日本軍隊の性質に基づいている。欧米の近代化、すなわちブルジョワ革命は、フランス革命やアメリカ独立に見られるように、「人権」と「自由」を掲げて進められたのだが、日本の場合は、自由民権運動の弾圧に現われているように、人権と自由を欠落させて、工業化と軍事化を進めるものだった。人権と自由を欠いた社会で、旧来の武士団に代わる中央政府の軍事力として創出されたのが、徴兵制度による天皇の軍隊だった。もともと近代国家における徴兵制の国民軍は、解放された独立自営農民を基礎とし、その愛国心に期待するものであった。ところが明治維新は農民解放ではなかったから、人口の大部分を占める貧しい小作農民から徴兵された兵士に、自発的な愛国心を期待できなかった。そこで日本軍隊は、世界にも稀な強制による無条件服従を特徴とし、兵士の人権は認められなかった。兵士の人権と生命が軽視されている軍隊だからこそ、敵対国の軍隊に対しても、民衆に対しても、人権という意識を持たなかったのである。自国内でも人権を守らないのだから、敵国民に対し、非人道的行為を行なうことをためらわなかった。
2007年10月19日
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燼滅掃蕩作戦の由来朝鮮の独立を守るために戦った義兵が潜伏しそうな山間の部落を焼き払った上で、平地に集団部落を作らせ、そこに軍隊や憲兵、警察を駐屯させた。満州事変後の中国東北地区でも、この方法でゲリラを追い詰めた。粘り強い民族的抵抗に直面したときの日本帝国主義の軍隊の発案した手段が、燼滅と無人化だったのである。1937年の日中戦争全面後、日本軍が占領した地域の内部に、中国共産党の勢力が浸透して来た。このゲリラ戦は民衆と密着して、解放区、遊撃区を拡大した。1940年8月、華北の八路軍は「百団大戦」と名づけた攻勢に出た。日本軍の小拠点20以上が占領された。この事件は、日本軍とりわけ当面する北支那方面軍に衝撃を与えた。民衆と共に戦う民族解放の戦いに対して、朝鮮や満州で経験したのと同じように、その根拠地となるような地域を燼滅(焼き滅ぼす)するという方法をとることになる。それが、中国共産党側が名づけた三光政策、あるいは三光作戦である。「敵ヲシテ将来生存スル能ハザルニ至ラシム」その作戦は八路軍の根拠地となっている太行山脈内に侵攻し、その地域を徹底的に「燼滅」、「掃蕩」(すっかりなくす)してして引き揚げてくるという作戦だった。敵だけでなく住民男子や部落の焼却が、ここで命令された。
2007年10月19日
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中国侵略の空白 三光作戦と細菌戦戦争犠牲者を心に刻む会 編 東方出版「三光作戦」とその背景 藤原彰 著より抜粋日中戦争と「三光作戦」日中戦争は、日本軍が中国民衆に対して大規模な残虐行為を行ったことで特徴づけられている。よく知られる南京大虐殺や731部隊より、犠牲者の数でも、民衆への攻撃それ自体を目標とした残虐行為であったという点でも、最も大規模で深刻な内容をもっているのは、「三光作戦」である。日本軍が主として華北で展開した中国共産党軍の根拠地にたいする燼滅掃蕩作戦のことを、中国側が「三光作戦」と名づけた。敵軍すなわち武装した軍隊を攻撃する過程で、一般民衆も巻き込まれて被害をうけたというのではなく、初めから民衆を敵とした作戦が展開されたことにこそ問題がある。つまり戦時国際法が禁止している非武装の民衆を殺傷し、民衆を焼き払うことを目標とする行動を、日本軍が大規模に行なったのが三光作戦なのである。
2007年10月19日
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中国人強制連行戦争犠牲者を心に刻む南京集会編東方出版官民合同視察団1942年11月27日「華人労務者内地移入ニ関スル件」東条内閣閣議決定は、軍部、官僚、企業の三者が中国人強制連行に関しては共同謀議する出発点となった。三者に共通する目的は、中国人を日本帝国主義の侵略戦争遂行のための労働力資源として利用し、年度別国民動員計画の枠内に取り込むことであった。労働法を適応するな!企業が強制連行を主張する理由は、敵国人労働力の酷使の上に企業利益の上昇を重ねること。企業が強制労働を具体的にどの様な環境の下でさせようとしていたか。例えば、北海道炭鉱汽船株式会社は、「中国人をあらゆる労働法令の適応外に置くこと」としている。酷使と虐待の結果、北炭連行の四事業場に強制連行した1311人に対し死亡者312人(船中死亡5人、上陸後死亡36人、事業場内死亡224人)、実に24%の高死亡率の地獄絵が登場した。「移入ノ件」で、「現地に於テ使用中ノ同種労務者並ビニ訓練セル俘虜、帰順兵ニシテ素質優良ナル者ヲ移入スル方途」と企業側の要望そのものを述べるも、視察団は華北側から、「華北の労働力不足に加え、食糧難と物価高騰の状況の中で、日本への移入困難」との意見に遭遇した。熟練労働者の連行が破綻した後、俘虜、帰順兵を移送することになる。しかし「俘虜、帰順兵として内地に持って来ることは許されない。一旦解放して良民のレッテルを付けて移送するという代物である。」12月25日、石門俘虜収容所を視察、参謀長から俘虜の「供出」同意を得た上、某参謀から「俘虜は幾程でも作戦行動により採り得る、収容所設備に左右されるが内地移入なら喜んで供出可能にする」国家庇護のもとでの強制連行政府と企業の意図1944年1月末から2月始めの帝国議会において翼賛議員を煽り立て、「試験移入」の日鉄二瀬、三井鉱山田川の(でっちあげの)二例をあげ「ソノ成績大変良イノデ」を連呼させ、「差し当たり、要すれば国家補償等の方途を構すること」の条文を挿入させた。中国人三万人の連行を「昭和19年国民動員計画」に計上したその時点で、運輸通信省は8月24日「企業者の特別負担に対し補助することに要する経費の予算支出」として、606万8千円の国庫支出を決定。国家による企業庇護はこれだけに留まらない。強制連行と強制労働が引き起こす逃亡と蜂起を予期して、内務省は総動員警備体制強化を目的に2908万3610円を申し立てた。連行した一人の中国人の労働管理、監視体制の為に国家は747円の支出を認めたことになる。港湾荷役に限れば、一人当たり1742円が国家により保証されていた。港湾荷役企業家たちはこうした優遇措置を享受した上で、さらに高利潤を追求した。強制連行の中で、日本軍が果たした役割華北労働事情「満州国」の労働力不足との関係1941年4月4日、5日「満州・北支労務対策会議」が開催された。緊急会議は、関東軍の申し入れで、理由は、「満州産業5ヵ年計画」に伴う生産力拡充推進のための労働力が不足していることによる。対策会議では、確保のための第一方策が「治安工作ト労働者募集トノ連繋」で「討伐作戦及コレニ伴フ政治工作ト労働者募集工作トヲ蜜ニ」連携させるというもの。満州土木建設協会理事神谷の日記から「北支軍としては募集にもっとも有利な地区に討伐をやって頂ければ良いのですと話したところ、有末大佐は、よし討伐しよう、・・・」日本の侵略と中国人民の抗日闘争の舞台である華北の1941年、「北支那」方面軍に依存することなくしての「募集」などとうてい不可能な状況にあり、「募集費」の高騰は企業をして、ますます現地軍依存の傾斜を強めさせた。関東軍と「北支那」方面軍は、華北の戦時俘虜とその他に捕らえられた人々を「満州国」に緊急動員することで合意。さらに、6月初旬、新民会と「北支那」方面軍司令官が共同して「満州国」側に「特殊工人」の移送の計画を立てた。問題は、これまでの俘虜を「特殊工人」として来たその範囲を、一般「犯罪」容疑者にまでその枠を広げたことにある。討伐作戦後の治安工作(清郷工作)などで任意に無差別の拉致と連行に道を開いた。すなわち、抗日闘争を担う者はもとより、日本軍関係者、新民会系関係者の言動に疑問を抱く者すら、強制労働の対象とするという、驚くべき内実をそなえている。「特殊人」の意味拡大は、日本軍の「討伐」地域だけでなく、全占領地域を、労工、特殊工人獲得の場とした。「特殊人」とされた人々は強制連行され強制労働の現場で「特殊工人」と呼ばれた。繰り返された抗日の闘いと虐殺中国侵略日本軍の戦争捕虜収容所 (何天義 著 より一部抜粋)日本の侵略者が中国に設けた捕虜収容所で、中国の抗日軍民を奴隷のように使役し残酷に殺した罪業について、知っている人は極めて少ない。私達は数年来の石家荘戦争捕虜収容所についての調査を文書の形にした。日本侵略者の戦争捕虜労工に対する奴隷的な使役と残酷な殺害を明らかにし、同時に戦争捕虜労工の反抗と闘争についても紹介する。石家荘戦争捕虜収容所は日本軍が中国戦争捕虜に対して、奴隷化教育をし、逆利用をし、奴隷的使役をし、労工を輸送した大本営であった。そして、血なまぐさく中国の抗日軍民を弾圧したこの世の地獄であった。拘禁した抗日軍民と積みなく大衆は5万人にのぼり、そのうち2万人余りは虐待されて殺され、2万人余りは華北、東北、および日本各地に送られ、労工にされた。戦争捕虜の中の死すとも屈しない共産党員および中華民族の青年は侵略者と何回も何回も頑強に闘争し、意気軒昂と郵送な悲歌を歌い上げた。骨をしゃぶり髄を吸い尽くす殺人者日本軍は石家荘における8年間に、戦争捕虜と現地の民工を駆り立てて、5大兵営と2つの飛行場、数十箇所の軍事工程、数千個のトーチカと数十キロメートルの封鎖溝(幅6メートル、深さ4メートルの壕)を修築した。戦争捕虜の収容所における日本侵略者に対する自然発生的な闘争自発的に、(日本軍に叫ぶことを強制された)反動的スローガンを革命的スローガンに変える。サボタージュ意図的破壊捕虜管理機構を利用した闘争で、奴隷化教育に抵抗、民族の気骨を宣伝。同士を保護し、裏切り者に打撃を与える。外部移送の機会を利用して、幹部を保護し救出。捕虜収容所の数回の暴動で、絶えず組織的、計画的な逃亡と暴動を図った。戦争捕虜にとっては、毎回が大きな励ましであり、中国人民が屈服することに甘んじず、斬りつくすことができず、殺しつくせないことを一層強く証明するものであった。強制連行された父と戦後補償問題 (北京・北方大学副学長 王起禎 証言より一部抜粋)三井三池炭鉱は、官営時代から囚人が使役され、三井の経営になってからも「囚人労働」は引き継がれ、1930年まで続いた。戦争中は1941年から朝鮮人を(約2300人)、1943年から中国人(約2400人)、戦争捕虜(約1400人)を強制連行し、過酷な炭鉱労働を強要し、多くの犠牲を出した。口で侵略戦争の過ちを認めるだけでなく、実際の行動によって過ちを認める、つまり、補償をすべきです。大まかな概念で侵略を認めるのではなく、一つ一つの個別の事象、事件について侵略行為があった、ということを認めていかなければいけません。責任転嫁の企業体質私は日本の企業との交渉を通じ、補償を求めなければ、ますます侵略の歴史が忘れ去られてしまうと痛感しました。「過去の歴史を忘れない」ということは、一つ一つの事実に対して行なわれなければなりません。今後の日本は、長い目で見て道徳のある国を作っていかなければならないと思います。日本政府はドイツ政府に比べて、劣っていると思います。ドイツは第二次世界大戦後、被害を及ぼした国に補償を行なっただけでなく、ユダヤ人一人一人に対し、補償をしました。ドイツはヒットラーを処罰し、法的な処置を取ってファシズムの復活防止をしています。そして公開裁判で戦犯を裁き、犯罪行為を暴きました。長い目で、長期の観点に立ち、国を作っていくことを考えれば、このような方法は世界各国との友好を進める上で、とても良い選択と言えるでしょう。「賠償の問題は全て解決している。中国は賠償請求権を放棄したんだ、今さらこの問題を持ち出すと、両国の友好にとってマイナスになる。」という言い方をする人もいます。このような考え方は国際法に違反しているものだと思います。在米日本人は収容所に入れられ、損失を被りました。戦後アメリカ政府は補償請求に応えて賠償しました。日本人の発言はどうでしょう?道義的と言えるのでしょうか?中国・華北地方での三光政策 (河北大学 蘇旭 著 より抜粋)8年間で、軍隊や農民、罪もない民間人を含めて、人間の死亡数は2100万人以上であります。経済的な被害は5620億ドルになります。その中で、中国人を強制連行して、強制的に労働させた数は12万人を超えると言われます。この12万人という数には、日本に強制連行された4万人と、偽満州国へと連行された数がふくまれています。日本に強制連行された人は、135事業場に分かれて強制労働をさせられました。日本へ強制連行された4万人のうち、1年半の間に死傷者が1万4272人に及びました。死亡したのは、6830人。負傷者は7442人でありました。(1994年8月12日)
2007年10月07日
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今だ、贖われざる罪太平洋戦争の影に隠れ、戦後60年、忘れ去られた亡霊たち。中国 1、 三光作戦=殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす、華北で日本軍が展開した中国共産党軍(八路兵)の根拠地に対する燼滅掃討作戦、長城以北で無人区化政策。「労工狩り」強制連行。2、 殺し尽くす 毒ガス兵器使用(あか筒、きい筒など)―地下道内に逃げ込んだ民間人に使用して、大量虐殺3、 殺し尽くす 細菌戦 ―ペスト菌を市街に散布、二次感染、三次感染の被害を、故意に拡大。被害者を生体解剖、コレラ菌入りの饅頭を配って歩く。4、無人区、人圏=「強制収容所」、5、強制連行による、拷問、惨殺。6、石門俘虜収容所(=石家荘戦争捕虜収容所)での拷問。7、華北、華中、華南に跨る、万人坑。8、労工、特殊労工=「討伐」人狩りされた民衆、 戦争俘虜の虐待 満州、日本の事業場(日本企業)へ強制連行これらは、厚生省、外務省、軍需省が、日本軍、日本企業と結託して行なった。9、強制労働(奴隷労働)=労働による絶滅、遺骨未返還、放置10、強制連行、労働にたいする賃金未払い11、強制連行、強制労働中の被爆、被爆者補償12、強制連行者の名簿の未公開13、略奪、民間人虐殺14、強姦韓国、台湾、マレーシア、東南アジア1、皇民化教育2、BC級戦犯による、戦争犯罪の肩代わり3、日本国籍剥奪による、「元日本兵」の戦後未補償、差別待遇4、慰安婦5、被爆者補償6、強制労働の賃金未払い7、サハリン離散家族8、略奪、民間人虐殺香港1、無差別虐殺、略奪、2、軍票による詐欺日本軍兵士の人権無視
2007年10月07日
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沖縄で日本軍侵略の事実を見ない者は、中国、韓国、マレーシアでも歴史の事実から目を逸らす。いや、中国、韓国、東南アジアで歴史を隠蔽して来たものだからこそ、沖縄の被害を過去ログから消そうとする。そんなやり方が、通じると思っている。または、思わせてしまった、我々の罪。沖縄で集団強制死はなかった、命令書が出てこないからなかった、あったかどうかわからないからなかった、と日本政府が戯言を言う。日本政府がおじいやおばあの生きたことを否定し、悲しみをふんずけ、ひとの心を弄ぶ。充分に虐げられた人を更に嘘つきであるとまで言って蔑み、過去に人間としての尊厳を奪われた人から、さらに60年にわたるその後のその人の人生を否定し、今を否定する。人を人でなくし、自らの罪行を隠蔽して、自分が人として再生することもドブに捨てる。都合の悪い真実をなかったことにしようとする。沖縄の歴史の教科書改悪は、南京大虐殺や、従軍慰安婦や、強制連行や、強制労働を、なかった、というのと同じ線上にある。歴史修正主義、といわれるこの間の動きは、15年前の8月15日に誓われたことが、補償など、何一つ実現されなかったことを示している。事態はむしろ後退し、強制連行はなかった、慰安婦はなかった、南京事件はなかった、生体実験はなかった、民間人虐殺はなかった、侵略ではなく、侵攻だ、強制ではなかった、日の丸を拝め、君が代を歌わんヤツはクビだ、原爆はしょうがなかった、自衛隊は海外派兵だ、国民投票法だ、生活保護者は切って餓死させろ、・・・・企業賠償が怖いのだろうか、政府は誰を庇っているのだ。これは、正義の問題なのだ。私たちのうちに正義が再生するかの。我々の住む地域の政府が、不正義をなすことに対し、我々は鈍感になり、慣れさせられていないか。何十年も積み上げられた不正義と、人の涙は、我々に降り、われわれ自身を静かに腐らせ、人の心を持たないものにかわってしまう。我々の問題なのだ。条約如何にかかわらず、正義はなされなければならない。人間は回復されねばならない。沖縄が「日本」でよかった、日本の他民族への所業、抑圧がよくみえるから。国内の民の抑圧の仕方は、もうすこし手がこんでいる。顕彰と補償だ。これで、精神的に従属させられてしまう。サダムの化学兵器を言う時、なぜ、日本の、我々の、赤筒に眼を伏せるのか。中国の、北朝鮮の脅威を言う時、なぜ、自衛隊の世界第2位の軍備に眼を伏せるのか。沖縄の海兵隊少女暴行を糾弾する時、それは正しい、しかし、なぜ、中国の、朝鮮の、日本兵による幾十万の少女、母、姉、妹の恨からは、眼を逸らすのか。イラクの、「テロ」の、アメリカのというとき、なぜ、自らの侵略は免罪するのか。同じじゃないか。
2007年10月07日
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2007年10月04日
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亀も空を飛ぶ「リアルタイムの叙事詩」と銘されているが、わたしには、叙事詩に見えない。振り返ると、ヘンゴウが見た悪夢のようにすら、見えてしまう。このような印象は、もう一度見て改めなければならない、はずだ。アグリンがリガーを殺すのは、自分が生きたかったからではないのか。死んではいけない、リガーを殺しても、死んではいけない。なぜ、アグリンが死ぬのか、なぜ、監督はアグリンに死という解決を与えてしまったのか。わからない。叙事詩と言うなら、アグリンのグチャグチャに壊れ散った体を写さなければならない。ヘンゴウが泣いてサンダルを咥えてお終い、ではいけない。監督は、もうリアルは充分だったのだろう。リアルより、アグリンの死で始まり、その回顧録とも見える冒頭。夢のように、美しく残酷だ。難民キャンプのともしび、戦乱のさなか、侵略されるクルドの村の少女の闇夜にきらめく紅色のスパンコール。労働の邪魔にしかならないはずの引きずる袖。少女の髪とともに、長く垂れた袖が風に吹かれる。主役の一人が予言する、というファンタジーを持ってきても、言葉で暗示する間はいい。ヘンゴウが見る夢が、映画を覆うにつれ、それは、現実を食い尽くす。子供をさらって行く悪夢のようだ。輪姦のシーンで、後悔した、見なきゃよかった。三日はうなされる。わたしは、アグリンに、子どもを殺してでも、生き抜いて欲しかった。子どもは、生きる命を、つよいエゴを持っている、と思うのだ。アグリンが自殺するはずがない。救いのない現実を生きる子どもに、映画の中で死と言う救いを与える。その時点でこれはファンタジーなのか。予言を与える子どもには、両腕がない、というのは象徴的だ。彼は、周りに危険を知らせるが、自分では、食べ物を口に入れることもできない、未来を変えることも、どうすることも出来ない無力な存在として描かれる。逆に、無力だからこそ変えようのない現実として、未来を捉えるのだ、ともいえる。未来が、掴むものだったら、自分が、未来の扉を開けるものだったら、予言など、無意味だ。だから、もし誰かが予知を授けるなら、彼は未来を変え得ない、徹底的に無力な存在として、規定されるしかない。一発の地雷に吹き飛ばされる運命が何所にでも転がっている世界を生きる。今を生きる、彼らの瞳に宿る、強い光。風に揺らぐろうそくが鮮やかな光を放つように。ヘンゴウが口で地雷を回すシーンが嫌いでない。彼らは、生きるために死と向き合う。ここにも、小夜子がいた。沖縄でアメリカ兵に強姦され、子供を産む。イラクのアブグレイブにも、クルドにも、南京にも、小夜子がいた。時を変え、場所を変え、くりかえしくりかえし現われる小夜子の姿。小夜子とは、季刊「前夜」に掲載された、沖縄出身の作家、目取真俊の「眼の奥の森」の中の女性である。この映画は、ドキュメンタリーか?という疑問は、私には奇異なものに思えた。無駄なものが写らない画面。それは、監督の、というより、彼らの生活に、生きていくのに最低必要な物以外の物がなく、外部の自然から近代家屋のように隔絶された空間など作りようもなく、生活の場が剥き出しの荒野であることによる。日本の自然との、なんと言う違いか。日本では、ほっとけば、草が生え、木が生え、生い茂り、人の丈を越し、人の姿を隠す。彼らを取り巻く自然は、荒々しく剥き出しの地面が、人を刎ねつけ、人に試練を与え、人を際立たせる。なぜ、アグリンは死んだのだろう。
2007年10月03日
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