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http://henoko.ti-da.net/e2761389.html週刊朝日3月5日号~「答えを誤ると沖縄の怒りが爆発する」保坂展人が聞く・大田昌秀元沖縄県知事インタビュー~鳩山首相が普天間飛行場の移設先を決める期限を5月末に設定したが、結論の先送りとして批判を浴びました。「普天間」の結論は、これからの「沖縄の運命」を文字通り決定づけるものだから、あたふたと決められてはたまったものではない。沖縄からみると性急に結論を出さなくてよかったと思っています。アメリカからみてもあわてる必要はないようです。日本では積極的に紹介されていないけれど、アメリカの軍事評論家や研究者の間では鳩山新政権は自分たちで結論を出す時間の余裕が必要だという論調が主ですし、そもそも「普天間問題が日米関係を壊すことにはならない」という意見が多いのです。そういった「アメリカの内情」をアメリカの名門スタンフォード大学大学院で博士号を取られてアメリカ人のものの見方、考え方をじかに知っておられる鳩山さんは、よく御存じなのかな、とも思いました。~普天間返還で日米が行為した時のことを振り返らせてください。96年4月、橋本首相から電話があったそうですね。県庁で三役会議をやっている最中でした。総理からじかに電話をもらったのはその時が初めてで、「普天間を返すことに決めたから」と。それはありがたいことでしたが、チラリと、「ヒョっとしたら代わりの基地を作らないといけないかもしれない。「今後協力してくれ」と言われて。私はハッとして「そういう大事なことは知事の一存では決められません」と言ったんです。すると総理はムッとされて「俺はだれにも相談せず、モンデール(当時の駐日大使)さんと二人だけで決めたのだから、知事もすぐに(代理署名を)決断してくれ」と言われました。中身も分からないのに決断しようもないので、「三役会議など正式ルートでやりますから」と返しましたら「じゃあモンデールさんに代わるから」と。モンデールさんは「良かったよかった」と言うだけで、代替基地のことは一言もありませんでしたね。橋本総理も代替基地の必要性をはっきりとはおっしゃらなかった。具体的な話が出てきたのは11月になってからです。それも最初は「名護の東海岸」とぼかして、次第に名護市辺野古という地名が出てきたのです。基地なくしたら税収効果78倍に~何故移設先に辺野古が浮上したのでしょうか?辺野古に基地を作る話は、実は本土復帰前から米海軍であったのです。沖縄を返還してしまうと米軍は勝手気ままに基地を作れない。それで米海軍は66年にひそかに辺野古のキャンプシュワブに海兵隊を集約させる計画を立てていた。普天間は住民居住地域に近いため、ヘリ部隊は基地で爆弾を積むことができませんが、辺野古ならいいですし。それと、水深の浅い那覇軍港は航空母艦が入らないから、シュワブに突堤を作って空母を入れるようにしようと。しかし、当時アメリカの経常収支は悪化していましたから、費用を負担できずほったらかしにしていたのです。今作れば建設費は日本が持つ。米軍にとってこんなにいいことはない。だから「やってくれ」となるのです。~辺野古に作らないのであれば「普天間飛行場の現状維持」という声も政府内から聞こえてきます。大手マスコミはそう書いてますが鳩山さんは「現状維持はない」とはっきり言っておられる。沖縄の人も普天間の現状維持を絶対に認めませんよ。普天間飛行場は住宅密集地のど真ん中にあって住民を巻き込んだ事故がいつ起きてもおかしくない非常に危険な基地です。周辺には幼稚園から大学まで16の学校もある。59年には宮森小学校に米軍ジェット戦闘機が墜落して200人以上の生徒らが負傷、17人が死亡する事故がありました。http://bit.ly/5EBhXg沖縄の人は決して忘れることができません。2004年に米軍ヘリが沖縄国際大に墜落したときは、改めて普天間の危険性が浮き彫りになりました。~では、辺野古ではなぜだめなのでしょうか?辺野古沖は(国の天然記念物で絶滅危惧種の)ジュゴンが住む海です。食糧がなかった戦中戦後の苦境を救ってくれた海です。その大切な海を傷つけることなく、後々の世代に引き継がないわけにはいかないというのが、地元漁民をはじめ沖縄県民の願いなのです。また、県の「自然環境の保全に関する指針」によれば、建設予定地は保護価値が最も高いとされる区域にある。そこに基地を作ったら県の指針を裏切ることにもなります。そして、何より基地そのものがいらないということです。私は知事時代に基地返還アクションプログラムを作って、それを日米両政府に正式の政策にしてほしいと両政府にお願いしました。2015年までに段階的に全部の基地を返してもらう計画でした。基地がなくなったら、沖縄経済をどうするのかという声があるのは承知しています。でも、実際は基地がないほうが経済は潤うんです。返還された基地跡地を民間が再利用している現場を調べてみましたら、雇用も所得も目を見張るほど増えていました。たとえば北谷町のハンビー飛行場跡地にハンビータウンと言うのができましたが、基地時代は約100人だった雇用が今は1万人近い。町が得る固定資産税の税収効果も357万円から約2億8千万円に増えました。復帰前は県民所得の過半数を基地からの収入が占めた時代もありましたが、今は6%足らずです。現在の沖縄経済は基地ではなく、観光産業に支えられているのです。そして沖縄にやってくる若者が好むエコツーリズムのメッカこそ、辺野古の大浦湾一帯です。基地を作ったら、経済的面からの損失は非常に大きい辺野古に移設する場合のコストについても考慮すべきでしょう。日本政府は辺野古移設費用は5千億円くらいに収まるとしていますが、米会計検査院によれば1兆円以上です。しかも、辺野古基地の年間維持費は200億円近い。その費用もアメリカは日本に負担させる腹づもりなんですよ。日米安保条約を平和友好条約へ~1月の名護市長選挙で「基地反対派」の稲嶺進市長が誕生しました。日本政府は、在日米軍再編に伴う新たな基地負担を受け入れた自治体にアメとして「再編交付金」を与えてしますが、辺野古の抵抗運動が激しい名護市はこのお金がもらえません。生活に困った土木建設業者は基地受け入れに動き、土木建設業者に支えられている今の保守けん制も辺野古案を容認していた。それでも基地反対派の市長が当選した民意を考えるべきでしょう。これまでは、金さえもらえば町は活性化すると思っていたんですね。政府も懐柔策として00年から「北部振興策」という名の振興予算を毎年100億円、総額で約700億円支出しました。ところが、名護市の中心街はシャッターが閉じたままです。振興基金の恩恵は一般に人には浸透せず、政府からもらう金は何の役にも立たないというのが実感としてある。それが、基地反対派が推した市長を当選させたのです。米国も、この民意をないがしろにすべきではないでしょう。~最後に辺野古に戻すという結論が出ないとも限らない。そうなったらどうなるでしょうか?沖縄の怒りが爆発する恐れがありますね。70年のコザ騒動を思い出すといいですよ。米軍車両だけが70台余り焼き払われました。鬱積しているものがどういう形で表れるかが非常に気になります。住民の怒りが沸点に達すれば、極東最大の嘉手納基地を返せという運動が先ず強まるのは目に見えている。それこそ日米両政府が重要視する日米安保体制を根底から脅かすことです。~日米安保を大切にしたいのなら、アメリカも沖縄の声に耳を傾けるべきだということですね。地元の協力がないと、有事に基地が機能するわけがないのです。ちょっと話は変わりますが、フィリピンで91年にエストラダ副大統領にお会いしたとき「経済的に厳しい状態にあるのに、よく決断されましたね」と申し上げたことがあるのです。するとエストラダさんは「経済的に苦しくても主権国家の誇りを取り戻すことのほうが大事です」と言われた。これには感動しました、今の日本は戦後60年もたっているのに、これだけ巨大な基地を抱えたまま平然としている。日本の民主主義はまだまだだという気がします。~95年の海兵隊員による少女暴行事件をきっかけに起きた反基地の大きなうねりをどう受け止めましたか。戦後間もなくは沖縄県民は米軍に非常に友好的でした。戦争の時に米兵に命を助けられた人たちがたくさんいましたし、戦争直後の着るものも食べるものもない時には、米軍に軍事物資を無償で配給してもらいましたから、感謝の気持ちさえ持っていました。そんな友好関係が変わったのは朝鮮戦争が始まってからです。米軍は基地を拡大するために農民から銃剣とブルドーザーで土地を強制的に取り上げた。農民は必死に抵抗しましたよ。宮古、八重山、離党も含めて全部、立ち上がった。それが53年から58年まで続いた島ぐるみの土地闘争です。そんなさなかの55年に石川市(現・うるま市)でわずか6歳の少女が米兵に暴行された上に殺され、嘉手納の海岸に打ち捨てられるという「由美子ちゃん事件」が起きたのです。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yumikotyannjikenn.htmそれは大変な騒ぎになりました。95年の少女暴行事件は、沖縄の人たちに、その事件を思い出させたわけですよ。「またか」と、一挙に怒りが燃え上がったのですね。沖縄に住む人間の気持ちは、沖縄戦のことから理解しないとだめです。辺野古で座り込んで反対している人の話を聞いてもつくづく感じます。しかし、昨今の政府関係者の発言を聞いていると、戦争を知らない人だなあ、と痛切に感じますね。先祖から受け継いだ土地を人殺しにつながる基地にしたくない、人間の幸せに結びつく生産の場にしたいというのが、沖縄の人の気持ちなんです。~今年、日米安保は60年を迎えましたが、見直しを求める声は大きくありません。細川護煕元首相は98年に米国の「フォーリン・アフェアーズ」誌に「米軍の日本駐留は本当に必要か」という論文を発表されましたね。「思いやり予算」を延長せずに米軍に撤退してもらい、安保条約を平和友好条約にすべきだ、と。論文によると、アメリカの国外基地がある主要22カ国を調べたら、日本を除く21カ国が米軍に払っているホストネーションサポートより、日本1国が払っている「思いやり予算」のほうがはるかに多かった。だからこのへんで見直すべきだと言ったわけですね。「思いやり予算」は78年に62億円で始まり、多い時には年間2756億円支出しました。わずか4万7千人の米軍に駐留してもらうために09年度までの32年間で払ってきた費用は総額5兆6千億円です。これに対して沖縄の138万人を養うための一般会計予算は約6千億円です。このまま永久にこの状態を続けていいはずがない。鳩山さんは施政方針演説で安保50年の節目を機に「日米同盟を21世紀にふさわしい形に深化させる」と言われた私は鳩山さんの言葉に期待したいと思います。
2010年02月28日
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市場の優位性の実践的破綻「選択の自由」がもたらす不自由社会保障制度の基本的な役割は、人間らしく生きる権利を保障することである。ここでいう「尊厳ある生活」の基本は、自らの生活を自ら選択し決定できることであるが、重要なのは、選択するのは当事者の生活そのものであるということである。その生活を実現するためにどこの事業者を利用するかは二義的な問題である。介護保険が「選択の自由」といっているのは、実は生活それ自体の選択ではなくて、サービス提供を行なう事業者の洗濯、つまり誰にサービスを提供してもらうかの自由に過ぎない。介護保険の実態は、事業者の選択は出来てみ、自らの生活を線tなくするには至っていないこと、その選択には大きな困難が横たわっていることを示している。しかも待機のままで死亡する人、改正介護保険制度によって居住費・食費が自己負担となったことで退居を余儀なくされた人が多数生まれている。 これらの実態は、事業者を選択するだけの自由では、社会福祉としての介護サービスを保障することにならないばかりか、逆に、こうした「選択の自由」は、個人に責任を転嫁することで逆に不自由をもたらし、生存そのものを脅かす事になりかねないことを示している。市場化推進論が強調してきた、市場における優位性の主要な内容であった「選択の自由」も、社会保障においては、優位性どころか、重大な欠陥を持つことが明らかになってきた。競争が招くサービスの質の低下介護サービスの高い質とは、当事者の具体的な生活要求をその人の生活スタイルなどに応える形で提供できるサービスであること、またそのことを通じて生きる意欲や気力を引き出しその人の生活自体の質を高めることが出来るサービスであることである。介護サービスは、他の社会福祉サービスと同様に、人が人に直接働きかける対人サービスであり、その本質は「コミュニケーション労働」であり、「発達保障労働」である。競争とサービスの質をめぐる実態現実には、介護保険の事業の存続と生き残りを掛けた競争を余儀なくされており、その結果、競争はコストを引き下げ、営業利益の拡大をいかに図るかをめぐる競争として展開されているのが現実である。人件費比率の高い介護事業ゆえに、事業者は人件費削減へと向かわざるを得ない。「常勤換算」方式を最大限活用して、常勤は極限まで抑制し、パート、臨時、嘱託などの非正規雇用者でまかなうスタイルが一般化する。(非正規社員54%)訪問介護員の場合には、70%にのぼっている。しかも、勤続年数は平均3.4年、一年未満が21%を超える。劣悪で不安定な条件に置かれた担い手に依存し、その度合いをますます高めていかざるを得ない競争の実態は、サービスの質の向上どころか、低下を招いている。競争が質を高めるとの市場化推進論の主張は根拠のないもの、さらには、白を黒と言いくるめる虚偽の主張でしかないことが、日々証明されつつある。 営利化と社会的責任・倫理観の後退規制緩和の究極の目的は、企業の経済活動の自由度を最大限拡大する事にある。しかしその実現のためには、企業の参入の積極的な異議を明らかにし、社会的合意を得る必要がある。その「根拠」として持ち出されてきたのが、企業こそ最も競争的な性格を持つ組織であるがゆえに、競争的環境の創出には、企業参入が不可欠であり、企業参入こそサービスの質の向上を可能にする確かな方法である、という主張である。競争がサービスの質を高めるとの論理のまやかしは既に見た。ここでは、営利組織としての企業の特性とサービスの質との関係を見れば足りる。「平成17年度介護保険関係指導結果報告」介護保険事業者にかかわる不正・不祥事の実態が記され、営利法人の事業に対する責任感・倫理観の欠如が浮び上がる。営利組織の特性との関係で重要なのは、コムスンの指定取り消しの事由にもなった「虚偽の指定申請」である。こうした法人にとっては、介護事業はたまたま目をつけた有利な投資対象でしかない。量的拡大は他の市場でも手がける収益確保のための当然の手段である。「虚偽の指定申請」による乱暴な事業所の設立・拡大は、営利法人のかかる営業姿勢と表裏の関係にある。 市場化・営利化は、サービス提供を行なう事業者だけではなく、利用者である国民の側にも市場感覚を浸透させ、否定的な影響を及ぼしつつあることを看過してはならない。実は、社会保障の市場化がもたらす影響のなかでも、社会保障にとって最も深刻なのは、この点であるともいえる。なぜなら、それは社会保障を内部から崩壊に導く可能性をもっているからである。社会保障を内部から崩壊させる変化市場化と国民意識の変化受益と負担が完全に結びついた市場における公平感がそのまま社会保障へと持ち込まれてくると、市場とは全く異なる仕組みを持つ社会保障が足元から掘り崩されることになる。サービスの利用をめぐる損得勘定の広がり、低所得層の負担軽減・免除を不公平と見る批判の広がり、それと結びついた競争と格差・不平等の容認など、小さな芽かもしれないが深刻な意味を持つ現象を随所に見出すことができる。具体的にみておく。介護サービスの利用に当たっては、本来は介護度が軽いほうが望ましいにもかかわらず、利用者に金額を意識させる事になり、介護度が軽く評価されることが不利益をこうむったかのように受け止めてしまう。実際にも、外観上は違いがほとんどわからない高齢者の間で、介護度が違うために利用できるサービス料(例えばデイサービスの利用回数)が違うことを経験したり、介護度が低下したために利用量が減らされた経験をすることで、「不利益」感は現実のものとなる。家族も、そのように受け止めてしまう。「自分は介護度2なのに、あの人はどうして3なのか」、「状態はほとんど変わらないのに、どうしてデイサービスの回数が減らされたのか」、「使えるものは使わないと損」などの声を、ケアマネージャーなどは聞かされたりする。結果的には利用者を「損得」の世界へと引きずりこむことになっている。一個百円の商品を一個買うときは百円払い、二個買うときは二百円払うというルールは日常的に繰り返し経験していることなので、自然の感覚として、「公平観」であるため、そのまま福祉制度の利用における「公平観」としても持ち込まれやすい。この感覚で社会福祉制度を捉えると、「同じだけ利用しているのに、一部の人の負担が少ないのはおかしい」、「保険料を払っていない人が制度を利用するのは納得できない」、「保険料が違うのに利用料が同じというのは不公平だ」などの受け止め方が生じる。負担が過重となり余裕がなくなればなくなるほど、不満が高まり、掛かる受け止め方に陥りやすい。実施にも、保険料、利用料への不満は強く、同時に減免・免除を利用する人への対応も厳しい。こうした感覚は、自己責任を自分にも他人にも求める感覚と結びついており、格差を当然と見たり、貧困に陥った人への厳しい目を向けたりする動きも生み出している。厳しい状況へと追い詰められ、自らのことで手一杯になれば、問題の根本に目を向けることが難しくなり、自分より「恵まれている」と思われる人に対して、批判の目が向けられることになる。注!!>>社会保障は負担と給付を直接リンクさせない仕組みをとる事によって、所得の再配分を図り、一時所得の格差・不平等を是正し、全体として平等化をすすめる役割を担っている。その仕組みを支える基本理念は、貧困・格差は個人の努力だけで解決すべき問題ではなく、社会的に解決すべき問題であり、そのために社会として共同に対応する、その事業の公平性・公益性を踏まえて行政が最終的に責任を果たす、という、社会的責任・共同性・公共性を柱としている。ところが、市場の公平観は、社会的責任ではなく、自己責任、共同性・公共性ではなく個別性・私的利益を基本としている。従って、市場的公平観の社会保障制度への浸透は、社会保障を内部から掘り崩し、似て非なるものへと変質させる危険性を持っている。その重要な契機として位置づけられ、導入が図られてきたのが「応益負担」の仕組みである。応益負担は、介護保険における利用料、自立支援制度における利用料、医療保険における窓口負担など、社会保障の各分野へ確実に広がってきている。応益負担の特徴は、サービスの利用量が増えればそれに比例して負担が増大してゆく方式である。具体的には、利用に要した費用の一定率を負担する「定率負担」の方式をとる。 注!!>>応益負担の方式は、日常の購買行為を通じて繰り返し経験している負担(支出)の方式と基本的には同じなので、違和感なく受け止められる内容である。導入する側も、そのことが重要な狙い目である。応益負担が導入された際に、負担の増大が批判の対象になることはあっても、応益負担という負担方式に批判が加えられることはほとんどなかった。しかし、応益負担は、ひとたび導入されてしまうや、社会保障に深刻な打撃を与え、社会保障を内部から変質させ、やがては崩壊させるほどの危険性を持っている。そのポイントを、繰り返す。応益負担は、サービスに要した費用の負担を、基本的には個人単位で責任を負う方式である。しかし、ここには、費用を共同で負担して必要なサービスの利用を共同で支えるという発想はない。他人が使用したサービスの肥料を自分が負担することは、個人単位を基本とする方式の下では、「不合理」極まりないことであり、考えられない方式である。個人た印に出みたこの「不合理」さが問題視され、その見直しが求められてくると、社会保障の変質・崩壊は、現実のものとなる。すでに確認したように、社会保障の特徴は、社会的責任・共同性・公共性にある。格差・貧困をはじめ生活に関わる諸問題に共同で対応し、負担能力にかかわらず必要なサービスが必要な人へ確実に保障される仕組みを作る、そのために給付と負担を直接リンクさせない方式をとる、この点が社会保障を支える最も重要なポイントである。応益負担はこれまでの指摘でわかるように、この点を根本的に否定する内容を有している。ほころびは、はじめは小さく目立たない変化から始まり、静かに内部を侵食しながら広がり、気づいたときには、取り返しのつかない事態に陥らせる。そのようなことにならないためににも、応益負担の徹底した批判と廃止が求められる。また、同様に「個人化」を促す兆候を小さな芽のうちから取り除くことも必要である。
2010年02月28日
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第三章市場化路線は社会保障をどう変えたか供給体制の市場化要求突き詰めれば企業の参入の解禁に踏み切るかどうかの一点にある。この点を突破するために規制緩和論者が持ち出してきたのが、「事前規制から事後チェックへ」の転換であり、「サービスの評価による適否の判断」であった。これを具体化したのが、事業者指定の方式である。この方式は、組織の性格を問わない。つまり、営利・非営利を問わない方式を取ることで、結果的に企業参入を認めるところにポイントがあった。 給付構造における市場化社会保障は、市場の仕組みと異なり、負担は能力に応じて、給付(受益)は必要に応じて行なう仕組みを備え、負担と受益をリンクさせない。その仕組みがもたらす所得の再配分を通じて、平等の実現、人権の保障の実現を目指してきた。「市場化」へ向けた給付構造の転換は、これまで以下のような手法で進められた。 第一、措置制度から契約方式への転換で、実質的に給付の性格を変える手法。行政と国民、自治体と住民との間で交わされる権利と責任に基づく給付の提供・利用が、契約方式を取る事によってサービスの提供を担う事業者と利用者との、売買の関係に置き換えられ、権利としての給付が消費としてのそれに性格を変える。(利用者は消費者として立ち現れる。) 第二は、混合化。給付と負担をリンクさせないルールを適応する給付の範囲を限定し、それを越える部分については、負担とリンクさせ、社会保障給付ではない自由契約に基づくサービスとの混合利用を認めることで、市場に準じたルールに置き換えてゆこうとする手法。 第三は、現物給付の現金給付化。給付の権利性を保持してきた現物給付を、利用(購入)に要した費用の一部あるいは全部を補償する方式へと置き換える手法で、ここでも利用が実質的には市場における購入に変質させられる。 第四は、応能負担(支払能力に応じた負担)から、応益負担(利用した給付に応じた負担)への転換。定率負担を導入する形を取る。介護保険・障害者自立支援制度における定率利用料の設定、医療保険における定率負担の導入などがその現われである。市場に準じた負担ルールへの変更は、同様に給付を市場における商品と類似のものへの変質させる事につながる。 以上のような手法とその具体化は、文字通り内部から社会保障を変質させるものに他ならない。とりわけ警戒しなければならないのは、負担と給付をリンクさせる方式が拡大していけば、負担を軽減されたり免除されたりしている人の利用を「不公平」と見なしたり、負担の軽減・免除を、権利としてではなく、施し物とみなす見方が勢いを増す可能性がある、という点である。 給付体制の市場化は、介護保険事業においては、とりわけ顕著な給付主体における民間優位の構造を強めるとともに、営利法人の参入を可能とする環境整備を進めて事業全体を営利事業化し、営利法人が主導するマーケットを創出し拡大した。かかる給付体制の変容は、社会保障が持つ公共性・公益性の実現に直接責任を負う体制を弱め、社会保障を市場と営利の手に渡し、似て非なるものへと変質させる現実的な基盤が形成されたことを示している。給付構造における変容第一、社会保障における公的責任をあいまいにし、社会保障の権利性を弱めた。措置制度を廃止して導入された契約制度は、社会保障の利用・提供の関係を、国・自治体と国民との公的な関係から、提供者と利用者の私的な関係に置き換え、当事者同士の契約関係を基本とする仕組み絵と変えた。措置制度の下では,行政に対して提供されるサービスの量・質に対して直接に責任を問い、完全を求めることが出来たが、契約制度の下では、行政が負うべき責任があいまいになり、必要な人が必要なサービスを確実に利用できる、あるいはそのことを権利として求めることが出来る根拠が、不確かになった。社会保障の市場化は、同時に、行政の責任と関与を出来るだけ当事者同士の関係から遠ざけることを条件としている。契約制度は、そのための手段として位置づけられている。 第二は、負担能力の違いによる格差を社会保障の内部で作り出し、所得再配分による平等化の機能を弱めたことである。社会保障は、繰り返し述べてきたように、給付と負担を直接リンクさせない方式を採ることによって、負担能力(所得)の多寡にかかわらず、必要なサービスは、必要の度合いに応じて利用できることを基本としてきた。しかし、市場の可能な限りの拡大を目指す市場化路線は、制度の枠を超えた領域で負担能力の高い層の購買力が作り出す市場も重視してきた。市場化は、給付のないように基礎的な部分と選択的な部分といった区分を持ち込こんだ。しかし、そのことは国民の側にとっては、ニーズに対して平等であるはずの社会保障が、負担能力の多寡によって平等性が損なわれることを意味していた。市場で意味を持つのは購買力の裏付けのある需要である。購買力の小さい低所得層も、公的制度・公的資金によって下支えされていることで一定の購買力を獲得するが、市場が関心を持っているのは、その購買力だけであって、利用者ではない。市場拡大の不可欠の手段として、給付の「二階建て」制度は持ち込まれた。 社会保障における平等化は、市場とは異なる仕組みを持つことによって市場が作り出す格差を是正することを指すが、給付の「二階建て」化は、かかる平等化とは逆行する。従って、給付の「二階建て」が制度に埋め込まれたことは、社会保障における平等化機能の弱体化を意味する。 第三は、社会保障の内に市場的な「公平性」を持ち込み、社会保障の基本理念を支える共同性・公共性に対する理解を弱めたということである。注意!!!>>利用した量に応じて負担が決まる応益負担によって、社会保障の利用・提供があたかも個々人が行なう個人消費のように受け止められる現実的は基礎が作り出される。そして、社会として生活保障のために共同的に備えるという共同体的性格、必要とするすべての人が平等に教授しうることを社会的に保障するという公的性格が覆い隠され、個別的性格を持つものとして、それゆえ「損得勘定」を意識せざるを得ない存在として国民の前に立ち現われる。市場化は、社会保障のし国を市場に近づけるだけでなく、国民の社会保障に対する理解をも、市場的感覚に近づける作用を果たしてきた。 以上、市場化が社会保障に持ち込んだ「害毒」とも言うべきものだが、反面で、市場化の現実は、市場化推進勢力が唱えてきた「市場の優位性」が通用しなくなっていることを、証明しつつある。
2010年02月28日
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第一章 「社会保障機能強化」論への、市場化推進勢力=社会保障ぶっ壊し派のシフトと、ウソいうまでもなく、主語は、経団連である。この議論は、市場化を進めてきた勢力が、その誤りを率直に認めて路線を転換した、という話ではない。逆に、顕在化してきた問題に手を打ちつつ、何とかして市場化を継続させようという意図を持っての議論である。社会保障の「ほころび」という事態は、「構造改革」推進勢力にとっては、消費税増税と市場化の促進を一挙に進める絶好のチャンスと見なされている。07年、福田政権は、社会保障国民会議を発足させて消費税増税を正当化するための作業を急ぐ。08年、財政制度審議会「骨太の方針2008」も、構造改革路線を再確認。その後、消費税増税という政府・財界の「最終目標」にとって、より望ましい方向へ微調整されてゆく。08年9月、麻生政権発足時、日本経団連「税・財政・社会保障制度の一体改革に関する提言」発表。中身が、「社会保障の機能強化」論である。これを受けて、麻生政権は、「中福祉・中負担」をめざす、そのために消費税増税が11年ごろには避けて通れない、と新経済対策を発表。これは、ほとんど日経連の口写しである。経済財政諮問会議でも同様の報告。社会保障国民会議は、社会保障の機能強化とそのための財源として消費税最大18%を提示した。消費税増税は議論の段階から実施へ向けた検討の段階へと入ってきた。 この議論には、国民を社会保障で釣って消費税増税へと誘い込む巧妙な策略が埋め込まれている。医療・介護における「崩壊」状況や子育ての困難さなどの事態が、他ならぬこの間の連続的な社会保障の大幅削減によるものであることは誰の目にも明らかだが、そうした歳出削減を率先して推進してきた自らの振る舞いには口をふさぎ、「国民目線」のふりをして事態を憂いてみせる。そして、かかる事態を逆手に取り、消費税増税の千載一遇の機にしようとするのが「機能強化」論である。医師不足や地域医療の崩壊、介護現場の崩壊状況も、「社会保障の機能強化」論からすれば、消費税増税を持ち出し、国民に納得させる絶好のチャンスだというわけである。そこで描かれているのは、歳出削減→社会保障の綻び→社会保障の機能強化→消費税増税、というストーリーである。このまやかしをまず見抜く必要がある。 彼ら、構造改革推進派のいう「社会保障の機構強化」の内実は、「効率化」である。具体的内容をみると、病床を削減し介護施設も削減して、居住系と在宅介護にシフトさせる、何のことはない医療・介護サービスの効率化プログラムそのものである。「改革」の中心が医療・介護費用の削減のための効率化と大差ないものであれば、それを「機能強化」と称するのは欺瞞である。歳出削減がもたらした社会保障のほころびを真に解消するのであれば、診療報酬・介護報酬の引き上げ、医療・介護における人員の大幅増員、介護施設の整備、後期高齢者医療制度の廃止、公的保育の拡充など、緊急の課題は幾らでもある。それらの課題に真正面から向き合わず、効率化に拘るのは、消費税増税を正当化するために「機能強化」を利用しようとする姑息さを、隠すからである。 日本経団連が09年に出した「国民全体で支えあう持続可能な社会保障を目指してー安心・安全な未来と負担の設計」も同様である。うたい文句ではなく、各論を見てゆくと市場化の継続と促進が目標であることがわかる。費用のかさむ入院施設や福祉施設は効率化のためスリム化し、その受け皿として民間参入が続いている居住系介護サービスの拡充を図るとともに、情報を活用した(社会保障ばbb号を利用する納税者番号制度の導入による新たな管理体制の確立)費用のチェックと効率化の追求、そして費用削減を目指す競争の促進を進める方向であり、これまで日本経団連が進めてきた市場化・営利化の方向そのものである。「社会保障のほころび」に乗じて、一方で消費税増税による国民負担増を進めるとともに、他方で「機能強化」と称して「効率化」=公的分野の削減と市場化・営利化を進める。保育制度改革と市場化への執着「公的保育契約」という呼び方を用いてはいるが、直接的な契約方式に他ならない。契約方式は保護者と保育所の当事者同士の関係が第一義であって、市町村は当事者にとっては間接的な役割にとどまる。その点こそ、措置制度との決定的な違いである。措置制度の下では、保育を必要とする子どもに対して、市町村は保育を実施する直接的な責任を持っており、民間に委託する場合であっても責任は市町村にある。 重要なのは、契約方式の導入であって、それさえ実現されれば形には拘らない。一度導入してしまえば、あとは時間をかけて制約条件を外していけばいいからである。市場化への突破口が開かれれば、形には拘らない。これこそ、市場化への執着そのものである。 「機能強化」論は、繰り返し指摘してきたように、財政抑制による供給制限が「社会保障の綻び」をもたらしたとして、底からの転換を求め、その財源確保と称して消費税増税を進めようとする議論だが、「供給の国家管理からの解放」は、行政の関与の側面から需要の未充足を問題視する議論だと見なすことが出来る。この二つの側面から滋養の未充足を取り上げるのは、市場化の新たな戦略と結びついている。 歳出削減と歳入構造の転換、つまり社会保障費の抑制と直間比率の転換=所得税・法人税の引き下げと消費税の増税=企業の税負担の軽減公共サービスを民間に解放させて行政のコストを下げるのは、法人税などの企業課税を軽減するためであって、国民のためでもなんでもない。これにより、競争力の強化を図る。「競争力の強化」路線が、国民生活に利益をもたらしたか?結果は明らかだ。派遣労働・非正規社員の激増、内部留保の際限のない積み増し。国民生活そのものを壊してしまった。税財源の確保については、間接税(消費税)へのシフトを図り、この面からも企業の税負担の軽減を図る、という筋書きが描かれていた。90年代半ばからの橋本内閣による「構造改革」そうであるが、とくに06年以後、小泉内閣で打ち出した財政抑制「改革」の予算削減の最大のターゲットになったのが社会保障である。社会保障は、五年で1.1兆円、毎年2200億円の削減が盛り込まれ強行された。かかる強力な社会保障予算の抑制は、既に実施されていた社会保障制度改革による給付の抑制、利用者負担の引き上げなどの影響と相まって、社会保障における様々な問題を顕在化させ始めた。 これらの問題は、医療・福祉の市場化の促進という、彼らの掲げる課題にとっては、逆に制約を意味する。公共サービス自体の縮小や、国民の負担の増大による利用の抑制は、市場を形成する序楊の縮小・後退を意味しており、このまま推移すれば、市場化自体が行き詰まる。こうしたジレンマは、社会保障の市場化がはらむ固有の矛盾の表出である。なぜなら、生活困難や低所得の人々の比率が高い領域だけに、自由市場に委ねても、支払能力に裏付けられた「有効需要」の形成には、そのままつながらないからである。その限界を超えるためには、公的な資金と制度によって、利用をバックアップし、下支えすることが不可欠の条件となる。そうした構造のもとでの社会保障予算の抑制は、必然的に市場の縮小を招かざるを得ない。日経連が「社会保障のほころび」を指摘し、財政抑制の手直しを持ち出したのは、こうした社会保障の市場化への制約を実感し始めたからにほかならない。こうした事態を前に、日経連ら市場化推進勢力は「社会保障の機能強化」=スリム化による民間需要の拡大を、消費税増税とセットにして提起している。市場化の手直し自体を、もう一つの戦略である税構造の転換の好機として位置づけ、一体的に進めようとしている。
2010年02月28日
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何かが違う感じ。何かに押し流されていて、それは違う、違うのにどう違うか、言っても届かない、違う、といってる自分の心さえ、消費者意識丸出しの顔に、打ち消されていくような。そこんとこは、氷解した。何か、間違ってる。なにかじゃなくて、ここが。それだけじゃない、何か、流れが違ってきている感じもある。相変わらず間違ってるところもある。例えば、「深夜だって?しごとだだろ。やって当然だろ。感謝なんかくれてやるもんか。」という感じの人が減った。「分かるよ。年がら年中寝不足だろ。信じてるよ。しょうがないね。それでも生きていくんだから。」という、肯定的なメッセージを受け取る事が増えた。この両者の比率で、日々の幸不幸が変わる。前者は、一件あってもしんどい。後者は、・・恥ずかしいけど、一件では前者の毒を消せない。だけど、なんかやって、「ありがとう」の一言をもらう。それだけで、毎日が輝く。徐々に、輝きを増す。このごろ、前者の旅は恥の書き捨て、みたいな人が減って、自分も、私も、大事にしてくれる人が私の前を多く通り過ぎる。それだけじゃない。下がり続けた診療報酬。手術するほど赤字が出る、といわれ続けた。機材、人件費、新たなリース。一本十万円や、20万円するセッシ、手術用鋼製小物、高価なディスポ(使い捨て)機材。技術革新。使っても計上されない材料。などなど、などなど。。。。その手術点数が上がった。病院の眼科を廃止するところが増えてた。よっぽど、みんなで、抗議したんだろう。やっと、変わった。正直、くたびれ果ててた。もう20年も前に、先輩が、「これでは、硝子体手術をする術者の、気持ちが萎える」といっていたのを思い出す。ああ、こんなことは、何十年かに、初めてのことだ。 みんな売ってしまった。家にあったもの。ロダン、ブールデル、マイヨール。あの絵、この絵、行く度、なくなる。車。身包みはがれてしまう。それでも、首は切らんかった。(総意に同意して辞めさせた者はある)止まるだろうか。社会保障の再構築市場化から共同化へ横山壽一新日本出版 序「構造改革」からの国民の離反を促す最大の要因となった格差・貧困の深刻化は、社会保障の市場化がもたらした結果にほかならない。社会保障の市場化は、社会的規制によって市場とは異なるルールが適応されるにいたった社会保障の領域を、再び市場の手に取り戻そうとする動きである。国家体制作りとして推進された「高コスト構造」の打破は、企業コストに直接結びついている雇用・賃金と社会保障の両面から進められた。雇用・賃金に対しては、労働市場における規制緩和、その中心としての派遣労働の労働コストの削減と派遣ビジネスの創出として具体化され、社会保障に対しては、制度改革による費用の削減と規制緩和による社会保障ビジネスの創出が進められた。結果、「構造改革」は、ワーキングプアの大量の創出とセーフティネットとしての社会保障の機能不全をもたらした。市場化推進勢力が、自ら進んで手を引くことはあり得ない。「構造改革」の行き詰まりさえ逆手にとって、さらなる市場化を推進しようとしている。しかも、重要な点は、市場化の推進が社会保障を市場の仕組みの近づけてきたことで、国民の間でも市場的感覚で社会保障を捉える意識が広がっており、市場化に付け入る余地が生まれていることである。選択の幅の拡大は消費者の利益だとする「消費者イデオロギー」の影響も無視できない。 第一章では、社会保障の市場化をめぐる新たな動きを分析する。推進勢力は、社会保障の「綻び」を指摘した上で、社会保障の「機能強化」を唱え、そのことを消費税増税のチャンスと見て画策する。日本経済団体連合会、社会保障国民会議。「供給の国家管理からの解放」を唱えて規制緩和の新たな推進をねらう規制改革会議の動き。市場化の行き詰まりにもかかわらず、市場化に執着し、「綻び」を逆手にとって新たな市場化を進める動きが、財政問題と一体になりながら展開し始めている。 第三章では、市場的感覚の新党が社会保障を内部から崩壊させる危険について指摘した。 第五章では、「市場化の中の福祉労働」で、福祉の市場化が福祉労働をどのように歪め、如何なる困難をもたらしたかを、措置制度下の福祉労働との比較で分析し、福祉労働の復権と権利保障の課題を明らかにした。 第六章で、社会保障の市場化に歯止めをかけ、市場化によって歪められた内容を修復し、人権保障としての社会保障の再構築のために求められる視点と課題を整理し、問題提起を行なった。 本文は、専門書、って言うほどのとっつきにくさはなく、さらっと読める。市場化推進勢力の手の内にからめ取られないためには、一般の人こそ、読んでみられるといいと思う。
2010年02月27日
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マスコミに載らない海外記事さん、から。http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/-chris-hedges-2.html「これはドルの終焉を意味している」とハドソンは言った。「つまり中国、ロシア、インド、パキスタンとイランが、アメリカをユーラシアから追い出す公式的な金融、軍事地域を形成しつつある。国際収支の赤字、は本質的に主として軍事費だ。アメリカの自由裁量支出の半分は軍事費だ。赤字は外国銀行、中央銀行の手中で終わる。連中は、アメリカ政府国債を買う以外に、資金を循環させる選択肢がない。アジア諸国は、自分で自分の首をしめる軍事包囲に資金供給してきた。連中は、返済される見込みのないドルを受け取ることを強いられてきた。連中は自分たちの国へのアメリカによる軍事侵略に金を支払い続けてきた。連中はそれから解放されたいのだ。」アメリカの永久戦争経済に資金を供給するため、アメリカは世界をドルで溢れさせてきた。ドルを得る外国人は、ドルを自国の中央銀行で自国通貨に変換する。そこで各国の中央銀行が問題を抱えることになる。万一、中央銀行が、お金をアメリカ合州国で使わないと、その国の通貨のドルに対する為替レートは上昇してしまう。そうなると、輸出企業が不利益を被る。これが輸入品や、外国企業を購入し、軍事拡張に資金を供給し、中国などの外国が、米長期国債を購入し続けさせるために、アメリカが紙幣を無制限に印刷できた理由なのだ。このサイクルは、もはや終わったように見える。ひとたびドルが世界の中央銀行を溢れさせることができなくなり、誰も米長期国債を買わなくなれば、アメリカ帝国は崩壊する。全て勘定に入れれば、ほぼ1兆ドルの放漫な軍事支出は維持不可能になろう。「アメリカは、軍事支出に自分で資金を供給しなければならなくなる」ハドソンは警告する。「そして、唯一の方法は、賃金率を大幅に引き下げることだろう。階級戦争の再開だ。ウオール街はそれが分かっている。それで連中は、生存するだめの十分なお金を得られるよう、巨大な詐欺によって、ブッシュやオバマに10兆ドル捧げさせたのだ。」
2010年02月27日
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オバマは、反核ではない。「私の闇の奥 」 さんから引用http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2010/02/post_c6dc.html核拡散を防ぎ、核兵器、あるいは、核兵器に使える核物質が危険な人間たちの手に渡ることを防ぎたいのです。そのためには国防費が、何ものにも優先されるべきだとまで言います。: ■ Providing for this nation’s defense will always take precedence over all other priorities.■「他のすべての優先事項」の中には、もちろん、今ひどい状況にあるアメリカの医療保険制度も入っている筈です。現在4千5百万人の貧困層のアメリカ人が保険料を払えず、制度にカバーされていませんが、そのために一日あたり平均で約百人の人たちが、適切な医療を受けられず、死んでいると見積もられています。アメリカの安全性の保障とは、一体誰のための保障なのでしょうか。 いや、横道にそれず、本題を追いましょう。上の「四人組」の第三論説がウォール・ストリート・ジャーナルに掲載された2010年1月19日の時点で、論説の中で強調されている、核軍備に対する予算の増額は既成の事実であったことを、まず、指摘しなければなりません。広島・長崎の原爆を製造したロス・アラモス研究所のあるニューメキシコ州の現地新聞によれば、オバマ大統領は2011年度の核兵器関係予算として70億ドルの増加を計上しています。ナショナル・キャソリック・リポーターという新聞(2010年2月9日)には、ジョン・ディア神父がつぎのように書いています。:■ 『オバマとその死の事業』ニューメキシコはこのニュースで沸き立っている。間もなく、このあたりのきびしい風景の中に、ピカピカに新しい、最高技術水準を誇るプルトニウム爆弾製造工場が立ち上げられるだろう。予算書類に署名し、このプロジェクトに祝福を与えたオバマ大統領は、一年前プラハで、核兵器なしの世界を目指す声明をしたその人だが、実のところ、彼の新しい予算をもってすれば、ロナルド・リーガン以来のどの大統領よりも核兵器の生産を増強することになるだろう。ここに、ジョージ・W・ブッシュさえも上回る偽善の一編がある。新しい核兵器施設のプランを立てる一方で、軍縮をうたい上げる。希望のヴィジョンを高く掲げるその舞台裏で、希望の死を確実のものとする。これぞ、ジョージ・オーウェル風の悪夢だ。付け加えるまでもないだろうが、核兵器の製造屋たちは大喜びしている。(以下省略)■ しかし、私に最も強い印象を与えたのは、「Bulletin of the Atomic Scientists (原子科学者公報)」という大変権威のある定期出版物に掲載された、2010年2月4日付けのグレッグ・メロ(Greg Mello)による論文『The Obama disarmament paradox (オバマ軍縮パラドックス)』です。日本でも、反核関係の方々の多くは読んでおられると思いますが、一般の方々にも是非読んで頂きたいものです。以下には、その始めの部分を訳出します。:■ 昨年4月、プラハで、オバマ大統領は、大幅の核軍縮を公約したものと多くの人々が解釈した講演をおこなった。しかしながら、今や、ホワイトハウスは核弾頭出費の歴史で大きな増額の一つを要請している。もしその要請の全額が認められると、核弾頭出費はこの一年で10%あがり、将来にはさらなる増額が約束されることになる。オバマの大盤振る舞いの最大の目標であるロス・アラモス国立研究所は、1944年以来最大の、22%の予算増加を見ることになるだろう。とりわけ、新しいプルトニウム“ピット”製造工場コンプレックスに対する出費は2倍以上にのぼり、今後10年間、新しい核兵器の生産に打ち込むことを明確に示している。 ブログ 海鳴りの島から(目取真俊さん)より引用民主党と下地議員の画策 http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/d092bfd07814879cd1d322d27c2a2eb7当初、17日の検討委員会では社民党、国民新党が「移設」先候補地を提案する一方で、民主党は提案しないということが報じられていた。琉球新報の記事を見れば、そのからくりが分かる。昨年の衆議院選挙前に鳩山党首自ら「県外移設」を唱えていた民主党が、キャンプ・シュワブ陸上案を検討委員会で提案すれば、公約違反の強い批判を受けるのは必至だ。それを回避するために自らは提案せず、国民新党の下地議員に働き掛けたということだろう。実に姑息なやり方だ。 キャンプ・シュワブ内陸上案は自公政権時代にもあった。既存の基地内に造れば反対派は手が出せず、県知事の埋め立て許可も必要ないから手っ取り早い、という発想だ。しかし、住宅地域に近接するので騒音や墜落事故などの被害が懸念されるため採用されなかった。もちろんそこには埋め立て利権の問題も絡んでいたのだが、住民生活への配慮が建前ではあっても言われていた。それすらも民主党や国民新党はかなぐり捨てようというわけだ。 稲嶺進名護市長は、選挙では辺野古現行計画反対を訴えて当選したが、このような動きに対して、陸上案にも反対する姿勢を示している。市民の生活を脅かすという点では、海上案や沿岸案よりも陸上案の方が酷いのだから当然のことだ。沖縄県議会でも自民党や公明党を含めて「県内移設」に反対する決議があげられようとしており、17日の検討委員会でキャンプ・シュワブ陸上案が出されていたら、沖縄から猛反発が出ていただろう。 県選出の国会議員である下地幹郎議員は、このような沖縄の動向や世論を熟知しているはずだ。にもかかわらずそれに逆らって「県内移設」に固執しているのはなぜだろうか。 2月12日付琉球新報に沖縄県特A業者の公共工事完工高ランキング(2008年度決算/08年9月期~09年8月期の集計)が載っている。それを見ると公共工事完工高の上位には屋部土建、大米建設、金秀建設、仲本工業、国場組といった企業が名を連ねているが、注目すべきは発注機関別の請負額上位企業の表で、沖縄防衛局発注工事の請負件数と請負額上位は以下の通りになっている。1 仲本工業 2件 12億1400万円2 大米建設 3件 8億9000万円3 屋部土建 4件 7億8800万円4 仲程土建 3件 6億 円5 渡嘉敷組 2件 4億1100万円
2010年02月18日
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http://noroom.susumuhirasawa.com/modules/artist/L_PRC.htmlSP-2といっっしょのひらさわさん。いいや、ひらさわさんが幸せそうだから。ひらさわさんて、舞台人だったんだ。何でこんな簡単なことが、わからなかったのだろう。ー『いろんなことの陰に、彼があった。』ひと、彼らを大事にして来た。そのようにして、自分の問題を解決してきたのだろう。私のように、自立と称して、いろんな人、ものを、切って来たヒトとちがう。私は、どこへいくのかな。私より、十年先を行くひとをみてて、そう思う。なんだ、SP-2って、こんなんか。ワイも、見れたし。べつにそんなに、怖れるに足りないや。(テキヲ知ッタラ、怖クナクナッタ。)私の好きな歌のあれも、これも、SP-2を歌った歌だったらどうしよう、どれもこれも、遠くなってしまう、関係なくなってしまうと思ってたけど、全てではなさそう。このひとにとって。だって、十年、私の心を占めていた人だもん。平沢さんの、ヴィデオ、DVDを見て、-一部きれいと思うことはあったけどーきれいと思ったこと、なかった。これは、きれい。平沢さんの歌う姿が、今までのよりきれいに撮れてる。画面の処理かな、違いは?ビデオビデオしてなくて、プロが入ったのかな?(失礼!)ちょっと今まで単調だったのが、立ち姿だった、が、それがとても改善。貢献者は、レーザーハープ。挟み取ったり、阻止したり、跳ね上げたり、スナップしたり、コチョバしたり。手の動きの美しい平沢サンには、とても似合う。特に、論理空軍。暗くても映えるのが、いい。編集も良くなった?あ、そうだ、フィアットさんや、エイサイさん、のうつくし姿、ラングさん!ソロなのに、4人も出てる!そりゃ、飽きさせないわけだ。全体に、暖かい手応えみたいなものがあって、平沢さん自身からも、それが感じられる。いつもと、だいぶ違う。FGGとか。こんな、簡単な、反射的なかんそーでも、最初のものとして。(イヴェントを主催してみて、アンケートの答えがひとを元気づける、って体験したので。)曲の解釈、ライブで聴いたら、ぜんぜん違った、というのは、可視海。人と自然の完全なる調和を、うたってたの?セイレーンは、子ども声がお坊さんにカバーされて、私はこっちのほうがいい。ボトルネックは、とっても繊細な操作が見れた。銅線コイルのトーテムは、相変わらず、いい音。存分に低い倍音が出てる。火や水、そういう象徴的な画面が、具体的な絵より、わたしはいい、と思った。人が十分出ていたので、そうおもったのかもしれないけど。
2010年02月18日
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NGOが入ってきて、復興バブルが起こる。非常な高給でスタッフを引き抜いたりする。物価は上昇し、例えば家賃も何十倍という額に跳ね上がる。富裕層はますます富み、一般の人はその恩恵をうけないまま、物価高に生活が苦しくなる。そのうえ、欧米のNGOは、女性の解放だとかいった、母国の支援者に受けのいいプロジェクトを現地に押し付けるから、現地では、よく思われていない。どちらのほうに顔を向けているか、ということです。我々は、徹底した現場主義。現場で必要とされる事業を、そのたびごとに組み上げてきた。 灌漑井戸だけでは限界がある。アフガンは、もともと自給自足の農業国です。降雨量は日本の5分の一から十分の一という乾燥地帯にも関わらず、それが可能であったのは、ヒンズークッシュ山脈からの雪解け水による灌漑によります。一年中を通じて、豊富な雪解け水が、カレーズと呼ばれる横井戸を通じて耕作地を潤した。それが、荒れるがままになったり、干上がったりしている。われわれは、アフガニスタンの農村の復興を目指して、灌漑用水路工事に着手した。用水路は、「マルワリード用水路」と名づけられ、全長24キロ、2003年に着工した。工事を始めるにあたって、その工法は、コンクリートなどの近代工法に出来るだけ頼らない方法を取った。そのほうが、我々がいなくなったあと、現地の人々による維持管理が可能になる。具体的には、取水には、九州福岡の山田堰の、せき上げ工法が非常に参考になった。水路の護岸は、金網に石を詰めて護岸とする蛇籠を敷き詰め、柳を植えた。クナール河に用水路の土手が削られるのを防ぐには、石出し水制と呼ばれる堰を作った。現地アフガンの人々は、家も石で作るし、皆、石を加工し、利用する技術に長けている。日本で言う熟練工のレベルにある。土手の柳は、伊達で植えたわけではなく、地上に伸びた幹と同じだけの根が石を包み込み、金網などがもろくなる数年後には、石垣を崩れない強固なものにする。その上、コンクリートでは考えられないことだが、石と石の間に生物の住む環境が作られ、ひとつの生態系を創りだす。江戸時代の古い工法が、実は、エコロジー最先端だったりする。古いものが新しい。なおかつ、水路事業は、延べ数十万の雇用を生んだ。20万から30万人の帰農者を支え、一万ヘクタールの耕地を甦らせた。これらのことを、我々は、政府からの援助などは一切なしに、16億の費用でおこなった。緑の大地計画を通じて、職能集団が形成された。彼らは、用水路の最終到着地、ガンベリー砂漠に、開拓者村を作って定着する予定です。 質疑応答 4600億からの予算が、民生支援としてついているが、これはどのように使用される予定か、ご存知ですか。ほとんどは、JAMSを通じて、プロジェクトが行なわれるはずです。JAMSはまだ、アフガンに何十人かのスタッフを置いてがんばっているはずです。 現地の人々が、喜ばれる支援とは何でしょうか。ガンベリーに新しく作る村には、現地の寺子屋みたいな、「マドラサ」が作られます。ここでは、都市部で孤児となり、学校に行けない子供たちなどが、イスラムの教えとともに、読み書きなどを習います。アフガンの人々は、これを聞いて、用水路が出来て耕作が出来る、と説明したとき以上に喜びました。「われわれは、やっと解放される。」と。相手の文化を尊重することが大事です。 911はなんだったとお考えですか。イスラム原理主義とはなんでしょうか。NGOのセキュリティについてお聞かせください。911は、アメリカ政府が起こると知っていて、わざと防がなかった、と理解しています。実行犯とされる若者は、ほとんどがサウジアラビアの青年で、アフガニスタン人は一人もいない。イスラム原理主義に走る青年というのは、アラブ系の、知的水準の高い青年です。彼らは、欧米に留学した経歴があり、そこで、人種差別の壁にぶつかる。自由や平等といった自分達の受けた教育にもかかわらず、アラブ人は欧米社会に受け入れてもらえないというジレンマから、アイデンティティの危機に陥る。その鬱屈した思いが、原理主義にのめり込ませる。伊藤君の事件の犯人は、難民キャンプの出身です。ここには、お互いを支えあうコニュニティもなく、精神の荒廃が、青年を、カネかカミに走らせる。 http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/acts/kaiho/100nakamura.htm 会場スタッフでしたので、十分な記録とはいえません。ぜひ、書籍で、医者、用水路を拓く空爆と「復興」辺境で診る 辺境から見るアフガンの大地とともに伏流の思考以上 石風社 DVD「アフガンに命の水を」ペシャワール会を、ご覧ください。
2010年02月14日
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http://eigokiji.justblog.jp/blog/2010/02/post-5fad.html なあ!こんなことを、なんで、何度も何度も、見せられなあかんねん。こんなことを、正当化する、如何なる理由があるのか、だれか、説明してくれ。冬の兵士とやら、おい、加害者!イラクで人殺しをして後悔しているといったな。なら、罪滅ぼしに、アメリカ政府の行動を、体を張ってでも、止めろよ!それが出来ないなら、ただの言い訳だ。あの人、あの顔、あの人たちを、殺してしまうのか?なんでだ!だれか説明してくれ、世界は無力なのか?アメリカの戦争犯罪の前に、またしても我々は無力なのか?事前予告される大量殺人。戦争だ、といえば、どんなことをしてもいいの?そんな変な話、ワケわかんない。8万人住んでんだよ!?8万人!何で黙ってんだよ!伊藤君の死を嘆いた我々が、アフガン人数万人の死を、防がない理由があるか?人一人の命もそんなに重いのに、これはなんだ?天災じゃないよ、人災だよ、止めようと思えば、止められることだよ、 オバマ!おい!こら!平和賞返せ。ショウ、やったヤツラ責任とって、せめて、マスゴミに載せろ、この事態。
2010年02月12日
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北西辺境州は、パキスタンではあるが、住んでいる人々は、アフガニスタン人、その中でも、パシュトウーン族ー世界最大の少数民族、3000万からの人口があるーを筆頭に、多数の部族が複雑に入り組んで住んでいる地域である。いま、米軍増派で騒然としているのは、この地域である。パキスタン政府も、ここには、手を出したがらないのに、アメリカが無神経に、国境を越えて、爆撃した、というのが現状だ。http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/dr_works/08report_to_af_gov.htmlほとんどの、イスラムの人々は、自分の宗教信条を、人に押し付けたりしない。夫がメッカへ向かって礼拝を始めた隣の部屋で、妻がスパゲティを食べていたりする。よいことも、わるいことも、受け入れ、祈る。「神の御心のままに」と。 アフガニスタンといわれて、ぴんと来る人もいるかもしれないが、ここは、ガンダーラのことです。住んでいる人たちは、ほりが深く、子どもが多く、乾燥と強い日差しもあって、直ぐ老けてしまい、男はそれなりに風格がでますが、女性は、魔法使いみたいです。 アフガニスタンは貧富の差が激しく、一握りの富裕層と大多数の貧困層に分かれて、中間層がない。そのため、人々は、患者にもなれない。人々が貧しく、公的保険制度がないため、患者になれない。裕福な人々の子弟は、欧米に留学する。アフガニスタンに医者がいないわけではないのです。むしろ、都市部で、医者は、失業状態にある。午前中は、公的病院で働き、昼からプライベートクリニックを開く。医療を受けたい人は、そこにお金を払って来てください、ということです。そこに、我々が、ほとんど無料で、診療を行なったら、営業妨害になってしまう。その点、ハンセン氏病は、彼らの診療科目とかち合わない。ハンセン氏病の患者が多くいることを、政府も言いたがらない。 欧米のNGOは、テロリストと農民の区別がつかない、ということで、現場に入ってゆかない。カーブルに彼らのサロンがあって、旱魃のなか、プールで泳ぎ、ワインなどの酒類も飲む。そこに、マックスという犬が飼われている。出来るだけ、付き合わないのですが、まれに我々がいくと、マックスが吼える。他の欧米人に吼えないのに。彼らが申し訳なさそうに言うには、「ごめんなさい。マックスは、捨て犬で、アフガニスタン人に、小さいときイジメられたので、アフガニスタン人の匂いがする人には、吼えるのです。」なるほど、我々は、しょっちゅうアフガン人の男たちと、挨拶代わりに抱き合っている。アフガン人の匂いが染み付くわけです。 井戸を掘るNGOでも、現場に行かない。一度こんなことがありました。欧米のNGOの札がついた井戸で、水が出ない、と農民が困っている。みると、ぜんぜん、地下水の出るところまで、掘削が届いていない。下請け業者が手を抜いたのです。 誰も行きたがらないところにこそ、ニーズがある。我々は、山岳部に巡回診療に行きます。すると、何日もかけて、患者がやってくる。ダラエ・ヌール、ダラエ・ピーチ、さらにその奥の、ダラエ・ワマから。女性は、家族以外の男性に肌を見せない。中村医師が、女性に聴診器を当てています。服の上から。となりに私、居りまして、不思議でしたので、先生、わかりますか?と訊いてみました。中村先生、一言、「わからん。」と。 無医村に診療所を作ったら、手放しで喜ばれると思うでしょう?実際は違うのです。長年かけて、彼らの信頼を得なければならない。そのためには、都会に行きたい、英語を勉強したい、というような若者は、スタッフに選ばない。村にいたい、どこへも行きたくない、といっているような若者を連れてきて、勉強させる。すると、彼らの村に診療所を作るとき、村に帰った彼らが長老会に話をしてくれる。井戸を掘り出した当初、我々が、診療所の周りに2,30本井戸を掘っている間に、国際の救援隊が来るだろうと、楽観していた。が、マスコミは、アフガン旱魃のニュースを一切無視した。その結果、沢山の農村が放棄され、難民となって、パキスタンや都市部に押し寄せた。それを、マスコミは、『タリバンの圧政を逃れて、農民が難民化した』と報じた。物事は、本流にいたのでは分からない。真実は、本流にはない。我々は、長年かかって、そのことを実感するわけです。
2010年02月08日
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方法は他にいくつもあるんですよ、カテーテルとか、いつかは来ること、と思ってましたから。 C型肝炎からの癌発生である。深夜の急患で診たことが、ご縁で、それから間を置かず、白内障手術した。腫瘍マーカーが高値に出た。入院中、ミカンジュースをお出ししたら、その日の内に、絵を描いてくださった。退院後、「私が焼いたカップです。」と。内側に、釉がひいてあって、そとは楽焼の地肌が見えている。ヘラで掻き落としたレリーフで、蝶と太陽があしらわれている。お日様のまわりが、金褐色に窯変している。「燃料の成分がついたものなんです。」意図してやろうとしても、難しい。「取っ手をつけるのが嫌なんです。」持つと、器の身体が手のひらにすっぽり収まり、小指が自然と高台の根元に掛かる。楽の感触の暖かさと、ほど良い重さに、うっとりする。口をつけると、唇の裏側に、釉薬の滑らかさが心地よい、なるほど、そのためか。ミカンを搾って、入れてみた。途端に、灰色の釉薬の色が生きてくる。
2010年02月04日
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交流会にて。福元満治さんーペシャワール会ーと。 あと、ニ、三年で、アメリカは撤退すると思いますねえ。え、そうなんですか。中村の一番最近書いて送られてきた原稿に、印象的な言葉がありました。彼らには、時計がある。我々には、時間がある。こうなんですよ。アメリカは、タイムスケジュールにしたがって、計画通り事を運ぼうとしている。我々は、じっくり腰を据えてかかる。過去もそうだった。イギリスは三度戦争を仕掛けて、征服できずに帰っていった。ソ連もそう。3万人増派しましたよね。ダラエ・ヌールや、用水路工事の現場なんかに、誤爆と称して爆弾を落とすんじゃないかって、用水路も、壊されちゃうんじゃないかって、、、心配だったんです。ええ、ヘリは上空を何時でも飛んでいるし、アメリカ軍は、しょっちゅう来てます。銃の引き金に指を掛けて、怯えながら。「テロリスト」と住民、違いはわからないですから。アフガンの方々に基地を作って、それを隊列組んで巡回するんです。農村部が、反米武装勢力の拠点と見ていますから。装甲車に、完全武装。農民の心をつかめ、ということを、軍事支配の一環としておこなっているが、引き金に指を掛けた状態で、住民が心を開くわけがない。装甲車列の前を止まらず通過するものがいたら、構わず撃っていいことになっている。それで実際、人が、住民が死ぬ。NGOとか、もですか?いや、アフガンには中古車がいっぱい出回っていて、-ほとんどが日本製ですがーそれに乗っていて、犠牲になる人が多いんです。少年が親を失う。その子らは、4,5年もすれば、銃を持てるようになる。アフガニスタンは、復讐社会ですから。それで、悪循環。アメリカが出てゆくほか、解決策はないですよねえ。そうです。ほんとに、アフガンを制圧するなら、30万ぐらいの兵力が必要です。 無人機を、使っていますが、、あれは、ほんとにコンピュータゲームの世界です。操縦は、アメリカでやっている。グーグルの地図なんか見たら、わかるでしょう?情報提供者がいて、この人が武装勢力だ、と。人の集まってくる場に爆撃をする。女性や子どもが大勢、巻き込まれる。アメリカに対する反感だけが増大する。アメリカ兵の士気の低下も大変なものです。みんな、若い、20歳そこそこです。で、怖いから、マリファナをやっている。この前も、我々の運河に、装甲車が落ちた。え!そんな状態です。続かない。リーマンショックなどもあって、財政的に、無理です。軍閥や、地元の自治組織が、中村先生が行かないと、動かない。今年で、中村医師は63、かな。わたしは61です。後継者の問題が言われる。今までに、何人も、医師が来たが、続かない。一つには、帰った際に、アフガンでの経験が、ブランクと見なされてしまう。彼らのキャリアに繋がらない。疾患もぜんぜん違う・・ええ、そうです。捨てられないものが、多すぎるんです。中村先生の代わりになるかというと、ならない。カリスマ性、みたいなものですか、、?いや、、自分で考えてみてください。なんでも、答えが直ぐ見つかるとおもわないで。・・はい・・ペシャワール会が、中村がいなくなった後も、事業として継続するか、違うかもしれない。何をされてる方ですか?医者です。目ですが。今、自分が培ってきた技術が現地アフガンで役に立つか、というと、全く役に立たない。そうですね。わたしもです。わたしは、むしろ、日本での役割がある。事務方、広報、資金集め、こんなふうに講演を行なったり。私はそれでいいと思っている。ま、来週から、アフガン現地にまた行きますが。外務省に言われた、お願いだから、行かないでくれ、と。でも、行きますが。私たちは、現地に出来るだけ入って、事業をしますから、と。女性の医師も、いままでに何人か、行っています。イスラムの教えの加減で、女性でないと出来ないことがある。もう少し、治安がよくなれば、女性もまた行けると思います。さっきの話ですが、中村が言うには、覚悟が違うと。覚悟ですか。(覚悟なら、わたしもいまの仕事に対し、あるのはある。例えば、、自分の子どもが病気になったとき、患者に呼ばれたら、その患者を自分の子どもではなく、選べるか。私には、出来ない、と思った。ならば、私は家族を持つべきではない、と判断した。こんな、馬鹿なことは、親にも言ったことがないが。ー幼かった、のだろう。で、仕事以外のものは、全部捨ててしまえ。と思って、捨てたら、この仕事だけは、捨てられなくなった。)
2010年02月01日
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