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このひと、いいな。すっきりするな。すがすがしいな。 http://ameblo.jp/subsist/theme-10006918613.html
2010年03月29日
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その4ところで、この、アメリカ合州国という巨大なカルト教団じみた国家は、常に刺激と娯楽を求める我々の心の間隙を、カメラ映えする瓦礫、他国の救助隊や国連軍を画面の外に追い遣ってまで撮影された米兵たちによる勇敢な活躍を描くドラマ、甘美なヒロイズムとより深い感動を与えるストーリー、まやかしの正義と臆面もない偽善、等々でもってじつに巧みに埋める術を官民総力をあげて開発しているようです。外国人である我々の意識構造でさえも合州国の存続にとって最も都合の良い形に整形し、肥大化させようと、ありとあらゆる機会を捉えてアプローチしてきます。昔、ワシントン特別区から川を渡ったアーリントンで、兵士たちによって摺鉢山にまさに掲げられんとする星条旗のモニュメントを見たとき、殺された側の日本人であるにも拘らず、不覚にも感動してしまいました。そんな自分に戸惑い、呆れ、観光客ならぬ観客であった自分に気づき、この国は国民に対して合州国民であると言う満足感や感動を与え続けるため、常に戦争していなければならないのではないか、国全体が中毒にかかっている、まるでギアツが描いた劇場国家の超拡大版ではないか、全世界の市民をも巻き込んだ視聴者参加型番組を放映し続けている、と、そのときは合州国がまき散らすとんでもない害毒にまでは考えが及ばず、ただ、妙に感心してしまったことを思い出します。最新鋭のハイテク兵器で武装したスーパー・ヒーローによるスーパー・パワーの行使、しかも相手はいつも、強大な合州国とは比較にならないほど矮小な国力しか持たない弱小国で、兵力といえばまともな武器さえ持っていない『農民』『行商人』『学生』ですらあるのですから負けることは許されません。記憶違いでなければ確かデモクラシー・ナウで放送されたと思いますが、ソマリアの漁師さんたち有志によって結成された沿岸警備自警団が自国沖で繰り広げられる欧州の漁船団による大量密漁や放射性廃棄物等海洋汚染物質の不法投棄を監視し、どの国の沿岸警備隊でも実施している領海侵犯に対する臨検、逮捕・拘束、罰金の科料をしたところ、海賊行為だと騒ぎ立てられ、多国籍海軍で編成された大艦隊まで展開されている。もちろん弱い者苛めに関しては(じつのところ不様に負け続けているものの糊塗された)数々の実績を誇り、日々そのノウハウ改良に余念のないスーパーパワーの合州国による肝いりで艦隊編成です。もう、怒るどころか呆れるを通り越してしまいました。大国どもは一体全体この世界をどうしたいのやら。もしかして、世界中を資源マフィアや金融資本という貪欲な強者のためだけに『解放』して、人類が長年月かけて築き上げた『文明社会』や『文化的生活』を破壊し、自らが頂上に立つことを前提に、弱肉強食のきわめて野蛮な原始自由主義社会(リバタリアニズムや自由至上主義などというお洒落な言い方が流行っているようですが、私は『原始自由主義』と勝手に名づけています)を実現したいのでしょうか。 引用、おわり「私の闇の奥」様 の「ハイチとは我々にとって何か」シリーズのその5に寄せられたコメントを、引用させていただきました。アメリカが中南米に対してとる植民地政策は、日本にも、大枠で当てはまるように思います。
2010年03月27日
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「ハイチとは我々にとって何か」5 より引用その3ここで、なぜ、私がエクアドルのラファエル・コレアを似非反米左派と疑っているのか、簡単に説明します。ベネズエラのチャベス大統領を嵌めるための妙なアーカイブが出てきたFARCナンバー・ツー暗殺事件やブラジル開発銀行へのモラトリアムなど一連の疑惑と南米経済の混乱を招こうとした事件にエクアドル政府が深く関与していることからも伺えますが、地図を見るともっと分りやすい。コロンビア、ペルーという親米右派政権国家に挟まれているエクアドルは、基地の使用期限が切れた米軍に対して撤退要請し、あっさりと要請を受け入れた米政府・軍は、エクアドルを引き払って「ベネズエラ、ブラジルの両国と国境を接するコロンビア」で数万人規模の兵力を大展開することになりました。ちなみにエクアドルの国内通貨は米ドルで通貨発行権は合州国です。中南米では日々の生活でさえ味方だと思っていたら足元を掬われてしまうことなど日常茶飯事ですが、逆のケースもまた存在するようです。この地にある国々は帝国主義の犠牲者と言うより、国民の多くが直接、間接に加害者でもある人々によって作られている国が殆どですので、政治情勢に関する分析はかなり困難です。例えばブラジル政府が最後まで匿っていたホンジュラスのセラヤ大統領は、右派として当選しながら左派に変身しています。過去にはブラジルのヴァルガス、クァドロス、ゴラール、アルゼンチンのペロンらも不十分とはいえ当時では精一杯の左旋回をしている。コロンビア最高裁によって発表された大統領多選禁止判決、元国防相の立候補や大統領が関わったという汚職疑惑などの報道に接したとき、最大限の善意でもって解釈すれば、コロンビアのウリベにしても次回選挙で再選されて長期政権への足掛かりを得たところで左旋回・反米化する手筈だったのかもしれません。アメリカ帝国主義の傀儡として子々孫々蔑まれるよりも民衆のために立ち上がった人民の指導者として歴史に残り、たとえドン・キホーテと呼ばれても伝説として語り継がれたい、という名誉欲に駆られ易いポピュリスト政治家の行動原理については、米国務省やらシンクタンクなどによって分析済みでしょうから、ウリベがこの南米伝統の打算的イベリア騎士魂を発揮する前に芽を摘み取ったように思えてなりません。しかし、なかには打算的ではない人たちも存在する。 フィデル・カストロやエボ・モラレス、ウーゴ・チャベスの三人に対して、なぜ、アメリカ合州国はあんなにまでヒステリックに攻撃するのだろう、どれも小国なのに、と、以前から不思議に思っていましたが、藤永先生のブログを読み進むにつれてものごとの核心が見えてきたように思えます。『神に祝福されたアメリカ合州国の為には限りなく強欲であれ。(富を収奪して豊かになるという)目的達成の為にはいくら恥知らずであっても構わない。私利私欲の追求は美徳である。我利我利亡者など存在しない。存在するのは我利我利聖者だ』という教義を基本とするカルト・アメリカ教にとって、三人のように私利私欲がなく、国民の為に平気な顔して身を捨てている指導者ほど疎ましい存在はないということです。アメリカ政府は拉致したアリスティド大統領に対しても、どうせバナナ共和国の土人だ、買収できない筈はない、と、荒野でイエスに幻の王国を見せた悪魔さながらの様々な約束をしてみせたかもしれません。効き目がなければ抹殺するか閉じ込める。今の隔離・幽閉状態がそうではないでしょうか。チャベス氏が国連でブッシュ演説の後に登壇したとき「硫黄の匂いがする」と十字を切ったのは、氏に対しても合州国による悪魔的オファーがあったことを仄めかしていたのかもしれません。合州国の支配者たちは「(モノ、金、地位、名誉、権力、その他諸々で)買収されない人間がいるなんて信じられない。買収されない人間なんて人間ではない。彼らはきっと悪魔の化身に違いない」とまで真剣に思っているのではないでしょうか。とくにフィデルのような無欲のご隠居さんは向かうところ敵なしですから、彼らの目にはこの上なく恐ろしい存在として映るのでしょう。
2010年03月27日
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「ハイチとは我々にとって何か」5 よりその2ハイチ大地震による犠牲者増大の主要因は、藤永先生が指摘されたように、キューバやベネズエラ、ブラジル等近隣諸国による救助隊派遣や救援物資搬入をほぼ完璧に足止めしてしまった米軍による武力の誇示を目的とする速やかな展開と占領です。米軍は救助活動のために現地に入ったわけではありません。それでも北米のジャーナリストは現地の人の声として「ブラジル軍を中核とする国連軍は救助活動もせず、銃で小突くばかりで暴力的だった。米軍が進駐してきて安心した」などと報道していました。2004年から1200人規模の部隊をハイチに常駐させているブラジルは、合州国(このほうが良いですね)の使いっ走りだと思っていたのですが、現在の中道左派政権は救助活動でベネズエラ、キューバ両国と連携していたらしく、救援物資を積んだ機をカラカスで待機させ、ブラジル空軍の空挺隊輸送機5機を含めた7機が数度にわたって米軍管制空域を一斉に『侵犯』するなど、異様な緊張下で伯国外相と米国務長官との直接交渉が行われた模様です。合州国は、ハイチ大地震というあまりにも不幸な災害を利用し、自国民を満足させながら洗脳を深化させることと同時に、ブラジル、ベネズエラ、キューバに対して強大な力を見せつけました。とくに、部隊を派遣しているブラジルの現政権に対する揺さ振りと攻勢のための「材料」としてハイチの不幸を使ったのではないかとさえ勘ぐってしまいます。二期目の任期を来年一月一日(実質今年度末)で終えるブラジルのルーラ大統領は一昨年来80%以上という高支持率を維持しています。しかし、オバマ就任あたりから展開され始め、拡大されてきたメディア各社による巧妙な世論誘導で、今年はチリと同様の政権交代が起こる可能性が大きくなっていることも無視できません。チリでは実質的にクリントン米国務長官の肝いりで仕掛けたとみられる巧妙なプロパガンダ戦術がメディア展開され、任期末まで圧倒的な支持を得ていた中道左派のバシェレ大統領によって指名された後継候補が敗れ、親米右派の「大富豪」が勝ったことで結果的に政権転覆しています。ブラジルでも『労働者党』を中核に『ブラジル共産党』から『ブラジル民主運動』まで糾合した中道左派連立政権の政策に対する支持率が75%、大統領に対する支持率が83%であるにも拘らず、次期大統領選に関するメディアによる世論調査では、『民主主義者たち』(旧軍事独裁政権の流れを汲んだ親米右翼の自由戦線が気味の悪い冗談としか思えない党名に変えただけ)と『緑の党』(決選投票になれば保守派へ合流。ご多分に漏れず、この国でも植民地主義者の隠れ蓑。法務相が懸念していると口を滑らせたのですが、資金はUSAID/CIAと欧米資本→NGO→党。環境政党であるのに右派や保守派と政策連合を組んでいます)の推す『ブラジル社会民主党』(看板に偽りあり。社会民主主義とは縁遠い新自由主義路線。最近の言動から、党の重鎮カルドーゾ元大統領はロン・ポール顔負けのリバタリアンに転向した模様)所属のサン・パウロ州知事が不思議なことにいつもリードしています。もし政権交代となれば、ブラジルでは再び北米資本への隷属が強いられるネオリベラル路線が復活するでしょうし、合州国にとってはキューバに続いてベネズエラを封じ込め、チャベス政権転覆のための軍事侵攻さえ可能となる絶好の布陣が得られます。実際問題として、中南米諸国を政治的に「解放」するという大義名分を声高らかに謳い上げ、バナナ共和国にはバナナ共和国としての身の程を弁えさせ、支配者が誰であるのかを知らしめる、という、オバマ─クリントン・ドクトリンに則った「スマート・パワー」による政治介入(彼らにとっての植民地管理)は、中南米諸国にとって思った以上に手強い様相を呈してきました。南米で暮らしていると自分が「殺される側」にいることを緊々と感じます。と同時に、日本や北米にいた頃の自分が「殺す側」の論理に搦め捕られていたことも、今更ながらに再確認させられます。さて、ホンジュラスのクーデター(事変が発生したとき、体良く拉致・誘拐され、追放されたハイチのアリスティド大統領のことを真っ先に思い出しました)、ハイチ再占領、エクアドル似非反米左派政権との談合によるコロンビアの実質占領及びベネズエラ、ブラジル国境地帯を睨んだ米軍基地移設、チリにおける中道左派から親米右派への政権交代、と、一連の「出来事」でもって合州国の覇権力を存分に見せ付けてきたヒラリー・クリントン米国務長官ですが、先日、ブラジルを含む中南米5ヶ国を訪問していました。外相会談、クリントンによる表敬訪問及び外相も混えた会談の直後、ルーラ大統領はイランに対する制裁強化に同意しない旨を表明し、翌々日、合州国の農産物補助金政策への制裁措置として米国製品に対する関税率の大幅引上げを発表しました。そして、翌週にはイスラエル及び中東各国を訪問しています。ルーラ氏は本気で、ロシア・東欧まで含んだ欧米諸国が資源価格の上昇や財政赤字の粉飾と景気回復の為に願ってやまないイスラエルによるイラン爆撃と誘発されるであろう戦争を止めさせようとしてるのかもしれません(合衆国政府は取って付けたような強い調子でイスラエルを批判していますが、大義名分を声高に表明してみせるお得意のポーズではないでしょうか。不吉な出来事が起こる前兆のようで薄気味悪い感じさえします)。この一見奇妙な反応と行動から、クリントンの恫喝外交プラス仲間に引き込もうとした姑息なやり方に対して、普段はきわめて温厚なブラジル政府が「激怒した」ことは容易に伺えます。オバマとヒラリー(クリントン夫妻は中南米を選挙運動で生じた借金のカタにしてしまったと噂されています)が、中南米各国や中国、メキシコ、ベネズエラ、ブラジルにパワーを見せつける為に大地震に遭ったハイチの悲惨な状況を利用し、それが故に数十万人単位で瓦礫に埋もれた被災者に対する救助活動が大幅に遅れ、二十二万人余の死者が出たことを考えれば、ブラジル政府が大国のエゴを綺麗事で取り繕おうとする合州国のやり方に対して怒りを顕わにしてもおかしくはないし、むしろ足りないくらいです。普通の神経を持っている人なら誰もが憤慨する。
2010年03月27日
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「ハイチとは我々にとって何か」その5 より引用その1 http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2010/03/post_aa35.htmlコメントはじめまして。ブラジル在住の須衛野と申します。こちらでハイチ大地震がどのように報道されたのか、また、どのように見えたかを列挙してみます。・ブラジルのカトリック教会系NGO主催者である小児科医Zilda Arnsさんがハイチで活動中に被災し、犠牲者となったことで、発生直後からメディア各社が競って情報収集に奔走し、現地の様子が逐次報道された。・ハイチ駐留国連軍の中核をなしているサンパウロ師団の連隊から犠牲者が多数出たために、発生翌日には国防相が現地入りしようとした。しかし、いち早く展開した『米軍』によって空港使用が規制されて現地入りが大幅に遅れた(ベネズエラと中国は規制前にハイチ入りしている)。・米軍下請けの占領代行者でしかないブラジル軍を主体とする駐留軍兵士たちは、被災者救出に使用する重機どころかツルハシもスコップも扱えず(人殺しの訓練を受けてはいても人命救助訓練はたいして受けていなかった模様)、ブラジルで消防隊による救援部隊が急遽編成されて現地へ派遣された。しかし、米軍の管制によって着陸を拒否される。伯国外相から米国務長官へ再三にわたる要請(抗議)の末、発生から3日目に現地入り。・現地で最も早く展開したのはキューバ留学組の医師・看護師たちによって編成された医療団とベネズエラからの救援物資配布部隊、中国の救助隊であった模様。しかし、米軍による空港及び港湾使用規制によってブラジルやベネズエラ、キューバからの後続救助隊の入国はままならず、ドミニカ経由による入国も国連軍(聞き間違いでなければパキスタン部隊)により拒否される。 ・発生3日目あたりからCNNやBBC、カナダの放送局の報道素材がブラジルの民放各社で放映され始め、2週間後まで自前の素材を流していたのは大手5社のうち2社であった。ちなみに民放各局の主要なスポンサーは米国等外国資本(GM、フォード、ユニリバー製品、etc.)が大半を占めている。・CNNの提供映像を用いて報道された暴動や略奪発生に関しては、現地駐留部隊の司令官により、暴動は発生しておらず平穏で住民は協力している、と、再三にわたる否定があったにも拘らず、何度も報道される。ブラジル派遣部隊司令官が電話取材で「何年もかけて築き上げ、醸成してきたハイチの人々との良好な関係と国連軍への信頼が米軍によって破壊されつつある」と言うコメントを出すが、(国営の連邦貯蓄銀行とブラジル石油公社がメインスポンサーである)民放1社が夕方のニュースで一度放送したのみ。他局は該当部分をカットして放送した。・米海兵隊のヘリコプターが大統領宮殿の庭へ強行着陸した。ブラジルの民放2社は被災市民たちの憤慨した様子や「どうやら国旗を星条旗に変えたほうが良さそうだ」と肩を竦めて皮肉混じりのコメントをする市民の様子を伝えた。他社は無視。・米メディアによって撮影されたヘリからの救援物資ばらまきと人々が奪い合うシーンを何度も流す放送局がある一方で、秩序を保って配給の列に並び、捜索や復興で助け合う被災者の様子を特集番組(国営のブラジル銀行がメインスポンサー)で放送した民放が1社(ブラジル派遣軍の宣伝目的或いは米国メディアへの対抗か)。・米国、カナダ、フランスにブラジルを加えた四ヶ国でハイチの復興を(寡占)推進していこうという呼び掛けに対し、ブラジルの大統領府と外務省はベネズエラ、キューバ等近隣諸国を入れた援助国拡大会議を要求。後に、カナダとフランスが提案したとして報道された。・3月19日、ボリビア経由でブラジルに入国したハイチ人14名が連邦警察へ出頭して難民申請を行い、受理された。法務相による認定待ち。政治亡命か経済難民であるのか現在のところ不明。
2010年03月27日
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「ハイチは我々にとってなにか」その6 より引用その2 大地震の直後からしばらく、世界のマスメディアは、人たちが救援物資を奪い合いし、スーパーマーケットを襲う様子を、幾つか報道しました。でも、何とはなしに、材料不足の気味を感じられた方々もあったのではありませんか。貧困民衆の激しい反乱や暴動を期待していたメディアは、実は肩すかしを食らった形なのです。逆に、いろいろの形で、現地に入った人々の多数が、ハイチの貧民達が辛抱強く、秩序を保って、乏しい救援物資を分け合う様子を報じています。自警団的な人々の組織が出来て、自分たちの手で秩序を保っていると考える充分の理由があります。シテ・ソレイユ(太陽の町)が、大混乱に陥っていない理由は、国連軍MINUSTAHと米軍の制圧だけではなく、その住民達の強い団結の意志の表れでもあるのです。 古雑誌の山から、面白い記事を掘り出しました。クリントンが「ハイチに民主主義を回復する」という全く欺瞞的な見せかけのもとで、ネオリベラル経済政策の実施を条件にアリスティドを大統領の座に戻した直ぐあとの、1994年11月3日付けの『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』に出た、Michel-Rolph Trouillot というハイチ人の人類学者(ジョンズ・ホプキンス大学教授)の「アリスティドの挑戦」という論考です。この人はデュヴァリエ時代の政治学的分析の業績で知られています。Fanmi Lavalas(みんなの洪水)の形をとった民衆運動は、アリスティドによって始められたのではなく、この民衆運動のエネルギーが、アリスティドを生み、彼を大統領の座にまで抱え上げたのだと、トゥルイヨ教授は、この論説で言い切っています。その後の15年間のハイチの政治的動乱の歴史をたどると、彼の視点と洞察は正しかったと、私には、思われます。アメリカにとっての本当の問題は、ジャン=ベルトラン・アリスティドという一種奇矯なアマチュア政治家ではなく、アリスティドをアリスティドとして動かしている貧困層大衆の持続的な政治的エネルギーだという事です。 ナポレオン・ボナパルトがハイチ奪還に差し向けた大軍を見事に打ち破ったトゥサン・ルーヴェルチュールは、和戦を装ったフランス軍の奸計によって捕えられ、フランスのジュラの監獄に監禁され、結核を病み、1803年4月、寒さに曝されて肺炎で獄死しましたが、彼は、ハイチの小学生の誰もが知っているといわれる有名な言葉を残しました。:■ 私を倒すことで、あなた方は、サン・ドマングで、黒人の自由の木の幹だけを切り倒した。木は、その根っこから必ずや芽を吹き出すだろう。木は、沢山の根を深く張っているのだから。■たしかに、大震災後のシテ・ソレイユの人々が、意外なほど冷静に相互扶助の精神を発揮して、何とか生き抜こうとしている様子を見ていると、逆境にめげず、いつの日か、本当の自由を獲得しようとする彼等の革命精神の根は、広く深く息づいているのだと思えて来ます。 しかしながら、正直なところ、私は憂慮せざるをえません。この度の大震災を天与の好機ととらえるアメリカ合州国は、今度こそ、ハイチの政治的経済的支配を成功させ、その属国化を仕上げようと全力をあげるでしょう。ごく少数の富裕支配階級の人々を除く、大多数のハイチ人の苦難の日は、これからも続くに違いありません。電話を始めとする公営事業は私営化されるでしょう。スウェット・ショップ(sweat shop)という言葉を、ご存知ですか? スウェット・ショップが沢山できて、80%とも言われる貧困大衆の失業率は少しばかり低められるでしょう。しかし、これは黒人奴隷制度の継続に過ぎません。これが、クリントン/コリエ/バン・キムンのハイチ経済復興計画の要点です。懐があたたまるのは、又しても、アメリカとハイチのごく少数の人たちでしょう。
2010年03月27日
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引用もと 「私の闇の奥」http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2010/03/post_02b8.htmlハイチは我々にとって何か?(6) 国連事務総長バン・キムン(BAN KI-MOON)は、2009年3月31日のニューヨーク・タイムズに"Haiti's Big Chance(ハイチの大きなチャンス)" と題する注目すべき論説を寄稿しています。プリントして2頁ほどですから、出来れば読んで頂きたいのですが、乱暴に要約すれば、「ハイチの低賃金労働をフルに生かして、輸出用の衣料製品を生産するチャンスだ」というものです。バン・キムンはその成功を確信しているようで、「我々はそれがうまく行くのをバングラデッシュで見た。それは、衣料産業が250万の職を支えていることを誇っている。ユガンダでもルワンダでもうまく行った。」と書いています。2009年9月、ポルトープランスでクリントン元大統領の主導の下に開催された「投資家会議」には、我々にも親しいギャップやリーヴァイなどの大衣料メーカーを含む二百社にのぼる会社からの出席者がありました。しかし、その時点では、「まだハイチの治安の悪さが心配だな」という意見が支配的だったそうです。その5ヶ月後に、今度の大震災、すかさず、強力な米国軍によるハイチの占領が始まりました。この占領でハイチの治安が保証されれば、衣料メーカーによる大規模の資本投資が実現するでしょう。米国資本にとって、今度の大地震は"天が与えた好機"となるかも知れません。それはクリントンの、そして、バン・キムンの望む所でもあります。貧困国、あるいは、都市の貧民居住地区が大天災に見舞われたのを好機と捉えて、一挙にネオリベラルな経済発展政策を押し付けるというやり方です。 国連事務総長バン・キムンの論説は、ハイチについての特任顧問であるPaul Collier (オックスフォード大学経済学教授)による2009年1月に国連事務総長宛の報告書『ハイチ:自然の大災害から経済的安寧へ(Haiti: From Natural Catastrophe to Economic Security)』に直接基づいています。タイトル、目次を含めて19頁の論文ですが、これは現代の植民地経営と奴隷制継続のマニフェスト、いやマニュアルと言うほかはありません。ここで言う「自然の大災害」とは、今度の大地震ではなく、2008年のハリケーン襲来で、ハイチの道路などのインフラや食料生産が壊滅的な損害を受け、生活に窮した貧困民の数が急増し、農村人口がますますポルトープランス周辺に集中してきたことを主に指しています。前回のブログでシテ・ソレイユ(太陽の町)の発祥とそのスラム化のお話をしましたが、外国資本と富裕支配層の言うままになる政府が出来た今、かつて試みた超低賃金労働者を使役する衣料製造産業を、再び起こして製品を輸出しようというのが、コリエ教授のアイディア、つまり、ギャップやリーヴァイなどの大衣料メーカーがポルトープランス周辺の産業パークに工場を造って、安い実費でどしどし衣料を製造し、ハイチの直ぐ北にある大消費マーケットのアメリカ合州国を筆頭に、世界中に売りまくろうというわけです。この着想に関連するコリエ教授の論文の一部を訳出します。:■ もちろん、マーケットへのアクセスだけでは十分でなく、生産コストが世界中で競争出来なければならない。しかし、ここでもファンダメンタルは実に好都合だ。衣料品製造コストで最大の成分は労働力だ。その貧困度と比較的に無統制の労働力市場のため、ハイチの労働力コストはグローバルな基準である中国と充分に競争できる。ハイチの労働力は安価であるだけでなく、その質も良好である。実際の所、かつてハイチの衣料産業は現在の規模よりはるかに大きかったから、技能経験を持った大きな予備労働力が現存するのである。■冷徹な経済用語が使ってありますが、砕いて言えば、大自然災害で打ちのめされた貧困大衆は、奴隷的低賃金の仕事にも飛びついてくるから、これを使わない手はない、というわけです。「技能経験を持った大きな予備労働力が現存する」というのは、主にシテ・ソレイユの住民達を意味します。先述のように、アリスティド大統領の復位の条件として押し付けたネオリベラル経済政策の下で、1990年代に、今回のコリエ提案と同じことが試みられ、シテ・ソレイユ地区に衣料製造工場が出来たのですが、よく言うことを聞かなくなったアリスティド大統領を懲らしめるために、工場は閉鎖され、技能を身につけた人たちは一挙に失業してしまいました。コリエ教授が、はなはだ好都合という大きな予備労働力とはこの人たちのことです。 コリエ報告から1年後、ハイチはハリケーンを上回る大自然災害に見舞われました。貧困大衆に奴隷労働を押し付ける条件は、コリエ教授の言葉使いに従えば、ますます良好になりました。最大のポイントは治安の維持です。コリエ報告書の序文で、国連軍MINUSTAH がポルトープランス周辺の治安を安定させた功績が讃えられています。今度の大地震で、その治安が壊されないように、1万を超える米軍が急遽派遣されました。今までの所、彼等の作戦は成功しているようです。 オバマ大統領はハイチの災害救済と復興のための特使として、二人の元大統領クリントンとブッシュを現地に派遣しました。この二人こそが、過去四半世紀間、占領と内政干渉によって、ハイチという国をグチャグチャにした張本人なのですから、いかにも、アメリカらしい、オバマらしい人選です。特に、クリントンはコリエ報告の線に沿った経済政策、換言すれば、21世紀スタイルの奴隷制度をハイチに押し付けることに熱をあげることでしょう。 しかし、果たして、事は彼等の思惑通りに進むでしょうか?
2010年03月27日
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平沢サンの歌に、「庭師KING」というのがあるのだけど、今まで、どんな人が?と思ってたけど、この人なら、ふさわしい。 一振りは雨の起源に響かせて 二振りで海の怒りを学ぶ 働くよKING 人の庭に全て足りるまで 一夜の徹夜でこの世の星を知り 二度目の夜明けで陽の歌を聴く 三界の野原ですべての父となり 四本の柱で空を支える たんと吹け風よ ダントツに爽快に パンパンにシャツを 帆のように張らせ たんと吹け風よ 人体の宇宙に 一つの稲穂の誇りで飾り立て 二文字の言葉で功徳を果たす個人の悲しみも、喜びも、自然の中に、解けてゆく。 悠々とたなびく草はキミを象るよう 遠くから届いた断崖に立つ影に 花はそよぎ雨の潤い呼ぶ 黄金の時は来て 万全なほどにキミに降る
2010年03月21日
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「医者、用水路を拓く」 己の非力さは加減はよく分かった。しかし、相手のことはよく調べていない。先ずは調査である。 すると、河道が近づけば近づくほど、盛り土の部分決壊とひび割れの頻度が増えている。地盤軟化を促す浸透水の多くは、直接、最寄の川の砂礫層をくぐってくることが分かる。これならいける。 やはり眼前に展開する確たる結実は、名状しがたい感慨を催したのだ。 その通りだ。神が偉大なのであって、栄光は天に帰すべきものなのだ。 自分の人生が、すべてこのために準備されていたのだ。・・あり得ないとは知りつつも、四年前に夭折した次男ではないかと、幾度も確かめた。 労苦を共にしてきたのは、主に周辺農民たちであった。彼ら自身が有能な石工であり、・・この工事に携わった作業員は4年間で延べ38万人事故死は一人も出さなかった。 軽薄と無関心、暴力と華美な風俗が混在する世相に戸惑い始めていた。あり余る情報に囲まれながら事実を隠され、自然から遊離してゆく。人々は自由と悟性を自ら放棄し、思考を停止させる営みに流されてゆく。その姿は異様に思えた。 このような中でこそ、完成した「マルワリード用水路」は、逃げ場を失った多くの人々に希望を与え続けるだろう。私もその一人である。 あとがき農業=食糧を生産する営みは、誇張なく、人類生存の根幹に関わるものである。同時に、それは地理・気候条件の多様性を反映して、地域性が濃厚である。それは数千年にわたって、自然との闘いと融和の歴史を経て確立されたもので、・・ 水と緑は、文字通り無から有を生み出す富の基盤である。これが明瞭な世界が、アフガニスタンである。 怖いのは、架空が現実を律し、人間の生産活動や思考を自然から遊離させ、非現実が現実と錯覚されることである。「グローバル・スタンダード」の名で、地域の特色や文化が失われ、違いを許さぬ狭量な風潮と短絡な思考が人々を支配する。本書は、このような対極同士の軋轢の中から生み出されたものと言ってよい。 ペシャワール撤収をパキスタン当局に伝え、PMSは医療活動でも、新たな挑戦に乗り出そうとしていた。 数千町歩灌漑を達成して人々の生活安定を図ること、ジャララバードに医療部の中枢を建設すること、河川の異常低水位でアフガン東部全域を脅かす大凶作が予測され、干上がった各村の取水口浚渫に住民と一体になって協力し、来年度に本格的な改修を支援すること、などを指示した。 用水路が延びて砂漠に水が流れ、緑地が増える毎に皆と小躍りする。外国兵の横暴に憤り、親しい者が死ねば悲しみ、病で斃れる子に胸を痛め、収穫が多ければ共に感謝する。それだけのことだ。そして、それ以外に、何ができるのだ。 上空を軍用機がけたたましく飛び交い、私たちは地上で汗を流す。彼らは殺すために飛び、人々は生きるために働く。彼らは脅え、人々は楽天的だ。彼らは大げさに武装し、人々は埃まみれのオンボロ姿だ。彼らは何かを守るが、人々には失うものがない。 「世の中、とっくの昔に狂ってる。だから預言者も出てきたのさ。それでも、こうして生かせてもらってる。奴らのお陰じゃあない。神の御慈悲だよ。まっとうに生きてりゃ、怖いことがあるものか」 平和が武力に勝る力であることを実証し、本当に現地の民衆に必要とされるものを自由に汲み取り、緩急自在、ある程度の試行錯誤が許され、実のある事業を継続できたのは、自分が参加するように献じられた良心的な募金に支えられていたからです。
2010年03月21日
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「医者、用水路を拓く」この深い谷の一部が集中豪雨に晒されると、信じがたい土石流に見舞われる。これを横断する水路など、皆半信半疑だった。激流の通過する主な河道四ヶ所(計300メートル)にサイフォンを設置、2.2キロメートルの開水路の両岸は全て二段の蛇籠工を施し、堅牢な構造を目指した。 考えれば当然の話で、石出しの護岸は、先端の深掘れを利用して、主な河道を河岸から遠ざける事にあった。取水堰の先端が年々深掘れで低くなり、主要河道を対岸方向に押しやって、取水口の水位が下がっていたのだ。年々改修を重ね、堰を延々と伸ばさねば取水できないことになる。確かに、山田堰の場合、河床全体に巨石を並べて堰き上げたと記してある。 村人たちと辛苦を共にして川を観察し続け、人々の利害の衝突の海を泳ぎながら、暖め続けてきたものがあったに違いない。 わずかに残る柳の群落、そして対岸の広々とした遊水地の跡だけ 水は思い通りに流れない。人知を超えて、水は水の論理で動く。水路内に取り込んだ水でさえ手を焼くのに、まして自然の大河は制御不可能である。先人たちはそれを知っており、わずかに貰える自然の恵みのおこぼれに満足し、被害を避けてきたのだ。・・そう考えると、納得できることが多い。派手なコンクリート護岸工事を施さずとも、溢れる水には逃げ道を与え、無理な堰上げを避けて欲張った取水をしないことである。 平滑なコンクリートとなれば、水が滑るように流れて流速が増す。その分だけ、構造物の下流端に激しい濁流が発生し、洗掘が起きやすくなる。 自然の理を知るとは、決してありのままに放置することではない。自然といかに同居するかである。 洪水を広々とした河川敷に流れ込ませて対岸を遊水地とし、・・力ずくの護岸をしていなかったこと。 「洪水は溢れさせるべきだ」という先人たちの治水思想のお陰である。 主要河道が堰上げられても、1.5メートル以上水位上昇になれば、水が分流に注ぎ始めて高水位は軽減される。堰上げた巨石の河床に連続して、低い構造物を穏やかな角度で幅広く敷き詰め、中洲の葦の生える地面の高さ程度にして洗掘を防げばよい。さらに、弧を描いて堰の長さをできるだけ伸ばし、直角の横断距離80メートルの河道を220にした。こうすると、堰を越える流水が浅くなり、水勢も減殺される。 河床と自然の高さの岸辺が崩れなければ、水が葦原を越えてゆく。対岸の中洲自体が遊水地であった訳である。要するに、工事前の自然状態を、やや上流で復元することに尽きる。 このレベルに合わせて不動の根固めをすればよいのだ。 変形したまま安定した巨石になっている。アフガニスタンの水は多量のカルシウム塩を含んでいる。石同士がかみ合って固定すると、隙間を通る水が接着剤のようにカルシウムを付着させる。長い間には、自然のコンクリートに変化してしまう。 こうすると、夏の洪水は、岸の洗掘を起こすことなく、葦原の中州を越えてゆく。 何十回も通ってはその働きを観察し、現場で応用を試みた。それは200年の時を超えた故人たちとの対話であり、川との無言の闘争であり、人と自然が同居する知恵の探索でもあった。
2010年03月21日
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「医者、用水路を拓く」決壊によって住民の被害、国道の損壊などが起きれば、巨額の賠償の上に信用が失墜する。PMS=ペシャワール会の存立そのものが危機に瀕していたのである。沈没艦と運命を共にする艦長の心境であった。・・本当はそっちの方が誰にも楽なのである。このときばかりは「のうのうと生きるより、濁流の藻屑となった方がマシだ」と心底思った。だが後のことを思えば、死んで水に流せることでもない。 人の決める是非善悪と無関係に、自然の理だけで動くのだ。 一方で悲哀があり、他方で喜びがある。私たちはその意味を知らされない。うなだれるように、そう思った。 「国益」という言葉が力を持ち始めていた。愚かなことである。 水制はコンクリート護岸工事が主流となる昭和30年代以前には、至る所で用いられた。要するに護岸を目的として河岸から張り出す突起構造物で、・・ 日本人が技術力の限界の分だけ、自然と折り合う道を選んでいたという点が大切なのである。そして、洪水、飢饉、渇水が日常の中で、「自然との同居」が生活と生命を維持する上で避けられむ重要事だと、社会全体が意識していたのである。近代的工法の功罪がようやく意識され始めたのは、技術力を過信して自然から遊離した人の営みが、至る所で矛盾を生み、社会問題化してきた頃と一致する。 斜め堰も一種の「越流型水制」である。先端に激しい渦流が発生し、深掘れを生ずる。この堰(水制)を一定間隔に並べると、深掘れが連続して、河道を遠ざけ得る。 岩を崩して得た角のある石は流され、丸みのある自然の巨礫は残りやすい。 自然の猛威の前には、もはや、敵も味方もなかった。誰もが声援を送っていた。超低空でやってくる攻撃用ヘリのパイロットが挨拶する姿を目撃した。少なからぬ兵士達が、この不毛な戦に飽き飽きしているのだ。険しい顔をしていた兵隊も、殺伐な砂漠から忽然と現われる美しい用水路の緑のベルトを通るとき、心和むものを感ずるのだろう。「アリガトウゴザイマス」それは野蛮な軍事主義はもちろん、理念の反戦論よりも、はるかに心通わすものに思えたのである。 経済発展のためなら、戦争が起きようと、人々が餓死しようと、どうでもいいことなのだ。そして、日本社会を構成する多くの国民がこの巨大な歯車に、さしたる疑問もなく巻き込まれてゆく。日本が遠い世界に感ぜられた。 重機で掘っていると、なんだか悲憤がこみ上げてくる。「改修工事」を請け負った国際NGOや国連団体の看板だけが虚しく並んでいる。 「アフガン復興」という虚像は既に崩壊していたといえよう。農業国家たるアフガニスタンで、小さな水利施設を修復する関心も努力もないのだ。世界が知らされたのは、「テロを育む破綻国家・アフガニスタンの再建が着々と進んでいる」というフィクションであった。 現地で進行し続ける大旱魃は半端なものではない。大部分が農民である難民は増えに増え、2006年までにパキスタンに300万人がいると発表されていた。この数は02年の「アフガニスタン復興支援ブーム」の時の200万人をはるかに越えている。政治現象や演出された「復興」をよそに、難民は増えていたのだ。 多くの難民たちが帰農して喜びを噛みしめたばかりではない。残った職員たちもまた、この仕事に精神的なよりどころを見出したと言ってよい。
2010年03月21日
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「医者、用水路を拓く」数年後の治安悪化による「一時撤退」で工事を放棄せざるを得ない事態は大いに予測される。 誇りが優越感に変わり、その上にあぐらをかいてあちこに綱紀の弛緩が出始めている組織は自動性を持ち始めると腐敗する。いったん分解しても、肝腎の事業は完遂されるべきだ。 はるか離れた太平洋の彼方から兵を送るとすれば、1万6千の兵力(05年)を動かす戦費は、隣邦であった旧ソ連の十数倍、あるいはそれ以上に匹敵するだろう。 1月20日通告3月3日までにF・G地点の通水、完成の目途が立たなければ、現ジャララバード事務所を段階的に閉鎖する。完成できない場合、全てを住民に手渡しした後、井戸事業を完全停止。農業計画と医療事業のみを継続。水路は数年かけてブディアライ村までの10キロメートルまで延長して中止。中村は退任。 背水の陣である。こんな緊迫した状態に人はそう長く耐えられるものではない。期限はやはり必要だ。 この状態が続けば、日本の寄付者やアフガン住民・政府筋を納得させられず、小生は詐欺師として去らざるを得ないでしょう。すると、どれもこれも成し遂げられずに終わります。そうなれば、困るのは旱魃にあえぐ住民たちです。 現地ではその地にあった「適正技術」こそが必要である。 レンガやブロックをモールドにしてコンクリートを流し込み、そのままタイルのように残しても良いのである。 近代もまた、新しい形の陋習が古い陋習に代わって、人間の精神を支配するようになっただけだということである。カネと武力の呪縛は今や組織化された怪物である。人は時代の精神的空気から自由ではない。私たちに足りないのは、田中正造の「涙」と「気力」である。 一連のドタバタ騒ぎが馬鹿らしくなり、可笑しさがこみ上げてきた。摂理に沿ってしか人は生きることが出来ない。この世界で生き延びる術は、忍耐と信頼、寛容と誠意である。人を信ずるとは、幾分賭博にも似ていて、裏切られたことも一再ではなかった。しかし、まごころのある者はどこにでもいるもので、こちらが誠意を尽くす限り、応分の報いにも多く恵まれる。 懐かしい。生きとし生けるものの命の躍動だ。そうだ。これを待っていたのだ。三年半、私は全てに優先して事業の先頭に立ってきた。そのために失ったものも少なくなかった。子どもと姉の死の際も、まともに世話ができなかった。多くの恩人や友人たちにも不義理をした。職員たちを叱咤し、多数の日本人ワーカーを厳しく指導した。過酷ともいえる現場指導で、あるいは他に耳をかさぬ私の頑迷さによって、失意の内に現地を去った者もある。 「礼は要らんから、来年スイカができたら一つよこせ。水は神さまからの授かりものだ。わしらに感謝するのは筋違いだよ」
2010年03月21日
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http://www.videonews.com/on-demand/461470/001389.phpマル激トーク・オン・ディマンドゲスト;伊波洋一 宜野湾市長「普天間返還に代替基地は不要」 普天間の海兵隊はヘリ部隊も含め、ほぼ丸々グアムに移転する。 これが普天間基地を抱える宜野湾市の伊波洋一市長が、アメリカの公文書を徹底的に調べ上げた結果、明らかになったことだった。 米軍にとって沖縄はもはや戦略的な意味を失っており、日本政府がその気になれば、代替施設なしても普天間返還は十分に返還可能だと主張する伊波氏に、地元普天間の実情や独自の調査結果を聞いた。 ビデオニュース・ドットコム より
2010年03月21日
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「医者、用水路を拓く」 「アフガン復興は、外国人だけの手に委ねられるものではない。君たち自身の手によらねばならぬ。干からびた大地を緑に変え、本当に実のある支援を我々は目指す。その大きな挑戦として、用水路を建設して豊かな故郷を取り戻す。議論は無用である。一致して協力し、復興の範を示すことが我々の使命である。これは、我々の武器なき戦である」 近代的な機械力や技術に過度に頼らず、地元農民の手で作業ができ、維持や改修が可能なものを目指すべきだ。 現地方式に新たに何かを加えなければ見通しが立たなかった。 万年雪の少ない4000メートル急の山々の中小河川と、一年中を通じて残雪が消えない7000メートル旧の山々から下る大河川とに分けて、水利用を考える必要がる。 雨と重なれば、川一面が水というよりも泥土のコロイドというべき状態となり、流路内に入って堆積、水路を浅くするからだ。 流水を静水である堤の池に導いて貯水する。 取水口の本質的な機能は、必要一定水量を川から引き込み、洪水を取り込まないことである。 シェイワ用水路の、幅3メートル前後、水深70センチメートル以下のか細い水路が、2000ヘクタールを潤すとは到底思えなかったのである。 当然だが、乾いた土と流水中の土とでは、表情がまるで異なるのである。石の隙間に侵入した水が背面の土を軟化させ、引圧で溶け出す現象である。 流水と土石の性質を幼いときから会得し、この乾燥地帯で生きるすべを身につけているとしか思えない。 土質の研究と対処方法が大きな課題となった。ハウラ、日干し煉瓦の材料として現地でも繁用されているほどである。静水に対しては表面が軟化するが、透水性が悪く、工夫すれば防水壁になり得る。しかし、流水には極めて弱く、どんなに固まったものでも味噌汁のように溶け出してしまう。粘着性が少なく、流水に対する弱さは比較にならない。問題は、蛇籠背面の土の溶け出しであった。硬構造と軟構造の継ぎ目の部分は、必ず何か起きた。 この濁流に含まれる土砂が水路の安定に貢献した。漏水箇所の修復は、期せずして自然の手で行なわれたのである。比重の大きい砂質は取水口の下部に堆積し、恐ろしい水圧で噴出してくる堰板の隙間を埋めた。中程度の粒子は非常に具合よく川底の漏水部を詰め、さらに細かい粒子は浮遊して側面壁に付着し、浸出=漏水を止めた。蛇籠に接して置かれた土嚢は、腐食しかける頃を見計らって潰すと、そのまま岩石の隙間を埋めて固い粘土塊の層を作り、急流の突き当たるカーブの部分は、断面が自然の弧を描いて安定した。しかし、これらは全て自然の地盤の上での出来事である。 現地の水質は弱アルカリ性で、多量のカルシウム塩を含んでいる。 単に硬くて水に溶けにくいだけなら、コンクリート・ブロックと同じで、ひびなどが入って水が入れば、自然のハウラとの間に隙間ができ、そこから洗掘が起きるだけで、結果は同じである。水路の場合、ある程度土の性質を残し、自然のハウラに密着するものでなければならない。つまり、自然の土と硬い構造物のつなぎ役になるものだ。 2パーセント・セメントハウラならば、ひびが入っても土のように水を吸って膨張、隙間を埋めつぶすのである。 しばらくして雨が降った。水が何日も残り、保水性が実証された。セメントの含有量が過度に多いところでは、セメントが浮き上がって表面に滲出、薄い膜を張っている。壊して断面を観ると、セメント濃度が奥になればなるほど低くなり、徐々に自然のハウラに移行していた。 これは「ソイル・セメント」といわれ、かつては日本でも小水路や軟弱地盤の改良に使用されたらしい。 柔らかい土質の上に盛り土し、ゆっくり地盤を固める方法は、「緩速載荷」と呼ばれる。地盤沈下を「防ぐ」のではなく、沈めるだけ沈めて固めるのである。一般に高い斜面を造成する際に行なわれるのが「段切り」と呼ばれる工法で、法面工事では普通である。超重量級の構造物を上流側で支えているのが、岩盤ならともかく、棚田であることだ。棚田の格段は石垣の壁で覆われ、大量の土砂流出を免れている。底辺幅は約50メートル前後、上部幅は15メートル、この斜面を4段に分け、石垣の代わりに分厚い石の壁(厚さ1メートル)で各斜面を覆う設計にした。もちろん流水面は、例の「ソイル・セメント」を厚さ50センチほど敷設することになった。 私たちは何も思い出作りや悟りを開くために生きているのではない。それは天与の任務に忠を尽くし、文字通り我を忘れて打ち込んで必死で生きた後に、褒美として、結果的に得られるものである。 日本側が喜ぼうと悲しもうと、当方には関係がない。ともかく、結果を出せ。 内心、心から信を置いていたのは、そこに土着化して動かない者、即ち現地のアフガン人たちであった。 日本人の方が、現場で揉まれて鍛えられ、働けるようになったのが真相である。 唯一の譲れぬ一線は、「現地の人々の立場に立ち、現地の文化や価値観を尊重し、現地のために働くこと」である。己の利を顧みず、為にするところがない無償の行為は昔からあった。私たちが「ボランティア」でなく、「現地ワーカー」と呼ぶのはこのためである。 誰がどんなよい働きをするか、やってみないことには分からないからだ。また、いわゆる「使える、使えない」という能力だけを評価することもなかった。その人が、いかに誠実に任務と関わり、自分の先入観を克服していかに虚心になりうるか、日本人としてのまごころと心意気、素朴な人情を買ったのである。 「頭では知っているが体で覚える機会がない」ため、どうしても観念的な考えに流されやすくなる。「孤独な群集」の一人として、自分だけの観念の世界に閉じこもりがちである。 ・・それも過ぎると、実は美点も欠点も表裏一体で、その人や土地柄をそのものとして受け入れることが出来るようになる。 設計図を描いただけでは、用水路は作れない。当方としては、いきなり現場に投げ入れて、日本の常識を破ることから始める。また、大怪我にならぬ程度の失敗には目をつぶる。 「人にとって何か大切なもの」を心のどこかに刻む。
2010年03月20日
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「医者、用水路を拓く」アフガンの大地から世界の虚構に挑む中村哲 著石風社 中村先生、好きだー。観念をこねくり回したりしない人。人が苦しんでいたら、助けるのは、当たり前なのである。何の躊躇もない。 ダラエヌールへの道などは、人、の問題、誠意や誠実を妨げる諸機関と、どのように渡り合うか、というようなことが多く、人事、の大変さ、が際立っていた。が、ここへ来て、ちがう。明らかに違う。立ち向かう相手は、「自然」なのだ。ペシャワール会報を読んでいたので、大体、知っているつもりだった。ぜんぜん、分かってなかった。「堰上げ」「貯水池」「灌漑」-水路を作るのだろう?何かたいへんなのかな?溝掘るんだよね?それに、いきなり聖牛だ、蛇かごだ、サイフォンだ、ッて、サイフォン、て何だ?知らぬ用語が次々現われ説明のつかない会報、実は面食らっていたんです。本で読んで、なぜ、それらが必要だったか。一つ一つ、経緯がある、よくわかった。 手に汗握るとは、このこと。まー、よくこれだけ、次から次へと難題がかぶさってくること!それを、知力、気力、人心の結集、自然の凝視、過去との対話、全体を見る目で、乗り切ってゆく。事実は、小説よりも奇なり、真なり。「難関」という言葉がふさわしい、いくつもの工事。「自然」と格闘するなかで、技術を確立し、自然を見る目が出来てゆく。ああ、人間として生まれてきたなら、誰もが憬れるであろう、この生! 以下、抜粋 この四年間は洪水、土石流、集中豪雨、地すべりなど、あらゆる自然災害との戦いに明け暮れた。 平和とは決して人間同士だけの問題でなく、自然との関わり方に深く依拠していることは確かである。 私たちが持たなくてよいものは何か、人として最後まで失ってはならぬものは何か。 淡々と日常の生を刻む人々の姿が忘れられなかった。私たちの文明は大地から足が浮いてしまったのだ。全ては砂漠の彼方に揺らめく蜃気楼の如く、真実とは遠い出来事である。それが無性に哀しかった。・・確かなのは、漠々たる水なし地獄にもかかわらず、アフガニスタンが私に動かぬ「人間」をみせてくれたことである。「自由と民主主義」は今、テロ報復で、大規模な殺戮を展開しようとしている。 戦時体制の国家との協調がいかに危険なものか、一国の政府が他国に軍事力を及ぼすことがいかに重大であるか、皆が深刻に事態を考えていたとは到底思えない。 他に逃れることの出来ない地方の飢餓避難民が大部分であった。彼らは空爆があっても国外へ逃げ出せないだろう。本当に緊急な支援が必要なのは今!アフガン国内なのだ。九月下旬、なにものかが自分のなかでふっ切れて、指示をだした。世界中が寄ってたかって「アフガニスタン」を論じている間にも、飢えた人々が彷徨い、病人が死んでゆく。世界中が何かに気兼ねして、当たり前のことが公言できない雰囲気である。あの状況下で、「院長命令で」、その大儀を堂々と掲げて実施できる、そのことに皆の気持ちが束ねられたのである。 奪われたる言葉の代わりに おこないをもて語らむとする心を・・かくて、「自由とデモクラシー」は死語となり、戦争の合理化の小道具に変質した。 私の意図は、目前にした事実を伝え、平和を願う意志を理屈から力に転化することであった。観念の戦いは不毛である。平和は戦争以上に積極的な力でなければならぬ。空疎な主義主張の衝突や、憶測の正否、時流に流されやすい世論から距離を置き、何かをしたいが、、、と思う日本人の健全な感性を食糧配給に結び付けたかった。 信じがたい狂気の支配する時であればこそ、正気を対置して事実を伝えるべきである。 ー世界第二位の軍事予算が自衛のために必要であるわけがない。「人道支援」を名目に姑息なやり方で自衛隊を海外に派兵することが、いかに危険で不毛な結果に終わるか、余りに浅慮だ。しかも、それが全くの憶測や事実誤認に基づいて行なわれるなら、これほど怖いことはない。 「今緊急なアフガン問題は、政治や軍事問題ではない。パンと水の問題である。命の尊さこそ普遍的な事実である。」 「自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題であります。」 つまらない議論だと思った。「デモクラシー」とはこの程度のもので、所詮、コップの中の嵐なのだ。しかし、コップの中の嵐といえども、それが一国民の命運を左右するのであるから、空恐ろしい話だとも思った。 「罪のない者を巻き添えにして政治目的を達するのがテロリズムというならば、報復爆撃も同じレベルの蛮行である。」 アフガンへの軍事的関与は、百年前の義和団事件を想起させた。暴徒鎮圧、国際協力を名目に各国軍が送り込まれ、自分にとって都合のいい中国を作ろうとした動きに似ている。 実態は、無差別爆撃であった。ただし計画的に爆撃地区が選ばれたのは事実で、・・ 罪のない子をたくさん餓死させた上、ご丁寧に爆弾を振りまいて殺傷し、いまさら教育支援だの、医療支援だのあるものか。人の命を何と思っとるんだ。 「難民帰還プロジェクト」は、かくて一種の政治的ショーとならざるを得なかった。
2010年03月20日
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保険証取り上げをやめる決断をせよ 小池 実際、私はさいたま市の国保の担当者に聞きました。「医療保険を継続するのが優先だ。保険料の滞納があれば窓口に来ていただく。支払い能力がある方にはきちんと措置をとる。払いたくても払えない人には事情をお聞きして、分納するなど相談に乗る。いずれにしても、とにかく滞納者に会う。これが大事。滞納者に会えば、解決するから、だから資格証は必要ないんだ」と。そう言っておられました。そして、さいたま市では今、資格証の発行はゼロなんですよ。 私は、こういう自治体の努力を後押しすることこそ求められていると思うのです。「友愛の政治」だ、「いのちを守る」んだと言うのだったら、もうこういうことはやめていこうじゃないですか。どうですか。総理、お答えいただきたい、最後に。 首相 さいたまの状況などもよく勉強させていただきたいと思っています。 小池 命を守るべき医療保険の負担が重過ぎて病院にかかれずに命を落とす、あるいはそのことを苦にして自ら命を絶つ、こんな国じゃいけませんよ。これを正すのが新しい政権の責任じゃないですか。そのことをきちっとやっていただきたいということを求めて、質問を終わります。(出所:日本共産党HP 2010年3月6日(土)「しんぶん赤旗」)「未来を信じ、未来に生きる」さん から、引用。http://blog.goo.ne.jp/urmt/e/045071d7e50c34857327615dc577f72a
2010年03月09日
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小池 胸の痛み、一般的に聞いたんじゃないんです。この法律を作ったわけですよ。(資格証の発行を市町村に)義務化すると。悪質だと言うけど、34万世帯ですよ。日本の34万世帯がそんなに悪質な人ばかりなんですか。私は、日本というのはそんな国じゃないと思います。かなり機械的に(資格証が)出されている自治体があるんですよ。子どもに出さなくなった、それは前進です、われわれも要求してきた。それが一歩一歩進んでいる。 しかし、私は、やはりこういうやり方はやめるべきではないか。(パネル=図(2)=を)見てください。資格証の発行がどんどん増えているけれども、その増え方に対して収納率下がっているわけですから、これは滞納対策としても破綻(はたん)しているんですよ、こんなやり方は。
2010年03月09日
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厚労相 まず現状を。本当に今おっしゃられるように、そういう措置で自殺に追い込まれるということは、これは、こういうことはもうあってはならないというふうに考えております。 今現在とっている措置としては、これは野党時代、私どもも与党の皆さんとも協力して、まずは中学生までについては保険証を取り上げるということはしないと、こういうことになりました。それでも不十分だということで、今年の7月からは、高校生までの方については保険証はもう取り上げないということにいたしました。そして、政権交代後、私が通知を出させたのは、後期高齢者、75歳以上の方についても実質的に保険証を取り上げることはやめましょうというような措置の通知を出しまして、そういうものもした上で、それ以外の方に関しては、払えるのに払わないということが本当に証明できた場合以外は慎重に取り扱っていただきたいということをお願いをしているところであります。 首相 胸の痛みは、当然人間ならば感じると思います。 ただ、今お話がありましたように、徐々に広げていっているということでございまして、これを取り上げる制度をすべて廃止をしてしまうということになると、だれが保険料を払うかという話になりかねないわけでございまして、やはり保険料を払っていただかなければならない制度でございますので、その制度自身を残すために何らかの措置は必要だということで広げているところでありますが、根幹の部分をなくすということはまだ今の段階ではできないのではないかと。 そして、今、長妻大臣からお話ありましたように、本当に払えないんだということが証明をされるかどうかということが一つの観点としてあるのではないかと思います。
2010年03月09日
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首相 ご案内のとおり、財政状況が大変厳しいという現実はございます。しかし、このような中で、今、小池委員からお話がありました。この問題は看過できない部分だと、そのように考えておりまして、財源の確保に努力をしてまいりたいと、そのように思います。 小池 4月から、国保だけではなくて、政管健保、今は「協会けんぽ」ですが、中小企業の保険料の引き上げも平均で4万3000円もの大幅なものです。労働者だけではなく、これは中小企業事業主にも重い負担増になるわけで、こういう負担増はもってのほかです。こうした問題を解決する方向をしっかり示していただきたい。小池 保険証取り上げ、亡くなる人も。こんな国でいいのか資格証は増えたが収納率は下がっている 小池 それから、高過ぎる保険料を払えない方からの保険証の取り上げも続いていて、深刻な事態が生まれているわけです。 全日本民主医療機関連合会が保険証の取り上げなどによる無保険状態の死亡者について全国調査をやっております。 札幌市で大工を営んでいたEさんは、1年半前からおなかの痛みを感じていたけれども、日給月給の仕事で国保料が払えない。保険証を取り上げられて「資格証明書」になった。資格証だと10割払わなければいけないから病院には行けない。痛みは強まり、食事ものどを通らなくなって62キロの体重が48キロになったが、お金がないので受診できない。知人の紹介で北海道勤医協の病院で無料低額診療をやっていることを知って受診したけれども、既に膵臓(すいぞう)がんが進行していて全身転移で間もなく亡くなられた。こういうケースが40件以上寄せられております。 それから、保険料を払えずに、その保険料の厳しい督促、保険証の取り上げで自殺に追い込まれた方もいらっしゃいます。 東京・板橋区の29歳の男性は、食べるのがやっとで国保料も国民年金保険料も払えなかった。滞納していて、毎月のように督促状が届いていた。区役所に行って分納する約束もしたんだけれども、結局支払うことができなかった。差し押さえもあり得るという厳しい督促状が送られ、保険証の代わりに資格証が送られ、その1カ月後に自ら命を絶っています。男性の部屋にはこの督促状の束が置かれていた。総理、見てください。これがその督促状の束です。破り捨てられた督促状もお部屋には残されていたそうです。 総理、保険料を払えなければ医療保険の保険証まで取り上げられ、まともに病院にもかかれずに命を落としてしまう。あるいは保険証を取り上げられて、厳しい督促で自殺に追い込まれる。私はこんな国であってはいけないと思うんですよ。国民健康保険法は改悪されて、保険証の取り上げが市町村の義務になる、これは97年、自社さ政権のときです。総理も、この法案には旧民主党におられて賛成をしております。 総理、こういう事態が全国に広がったということについて胸の痛みを感じませんか。いかがですか。総理、お答えください。胸の痛みは総理しか分からないでしょうから。
2010年03月09日
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小池 国庫負担を上げる方向を示すべきだ 首相 財源確保に努力したい民主は予算措置を約束していた。先送りはだめ 小池 おととしの国会で後期高齢者医療制度廃止法案を出したときには、民主党の提出者である鈴木寛議員は市町村国保について、「一番ダムの危ないところは国民健康保険だ」「制度上は手当てされているけれども、本来そこに真水が投入されなければいけないのに断水がされている」「9000億円弱の予算措置を我が党が政権を取った暁にはさせていただく」と、こうおっしゃっていた。 ところが、実際に政権について最初の予算で後期高齢者医療制度の廃止も先送りになっている。そして、国保料、この財政措置もわずか40億円という制度が入れられただけだということであります。 例えば、4000億円の国庫負担を投入すれば国保料を1人1万円下げることができる、私どもはこういう提案をしていますが、いきなり(25年前の水準に)戻すということはできないとしても、やはり、国庫負担を下げたことが国保料を引き上げてきた原因なのだから、政治の意思として国庫負担を上げていくという方向、これを示していただきたいと思うんですが、その政治の意思、ございますか。どうですか。あるのかないのか、はっきり総理にお答えいただきたい。総理ですよ。 厚労相 一点だけ申し上げますと、今年の4月からまた新たな保険料について、年収の高い方については最高保険料の額を上げようということで、そういうところからもご協力をいただいて、何とかこの国保について負担の軽減ということにも取り組んでいるところであります。 小池 聞いていないことに答えないでくださいよ。長妻さん、野党のときだったら絶対そう言っていますよ、聞いていないことに答えるなって。もう官僚があきれるほどの官僚答弁だと私は思います。 総理、私は政治の意思を総理に聞いているんです。引き上げようという方向をやはり示すべきじゃないですか。いかがでしょう。
2010年03月09日
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厚労省の国保収納率向上アドバイザーを務めている小金丸良さんは、「国保新聞」の紙上でこう言っているんです。「国保は社会的弱者が多いという最ももろい体なのに、最も重い負担になっているという矛盾が最初からあった」と。「そもそも、担当者がこれほどにも収納率の維持向上に血道を上げざるを得ないこと自体が、社会福祉の制度としてはどこかに欠陥があることを物語っている」と。 そして、これは派遣労働の規制緩和など、「"緩和、緩和の20年"という国策がもたらした結果でもあるのだから、国策すなわち公費によって国保を少しでも福祉の基本としてのあるべき姿に近づける努力をすべきではなかろうか」と。 私ももう本当にそのとおりだというふうに思うんですよ。 総理、国庫負担率をこう下げてきた、ここに原因あるわけだから、命を守る政治をやると言うのであれば、やはりここを引き上げていく、そして保険料を下げていく、こういう姿勢を示すべきではないですか。総理、いかがですか。 厚労相 グラフでは、全体の国保財政の中に占める国の負担ということで、かなり減っている。比率が減っているということになっておりますけれども、実額としては、国庫負担の実額を減らしているわけではありません。非常に国保財政が厳しいので、健保連とかあるいは共済とか、そういうところのご支援もいただいて全体の比率がそういうふうになっているわけでありますけれども、いずれにしましても、医療の適正ということにも努めながら、これらの問題についても医療の質を上げると同時に取り組むべき課題だと思っております。 首相 命を守るという立場から申し上げれば、特に所得の低い方々にとって相当厳しい保険料になっているなというのは実感として私も伺ったところでございます。 ただ、財政の厳しい状況の中という問題があります。その中でどのように工面をするかということでございまして、国庫の負担率がここまで下がっているからもっと上げるべきではないかというお話も、それはある意味で、上げることができればそのとおりではないかというふうにも考えているわけでございますが、今、長妻大臣が申したとおり、大変財政的な額の厳しさということを考えた中で、それほど簡単な話ではないと思っておりますが、まずは特に低所得者の方々の保険料というものに対して何らかのさらなる知恵というものを編み出すことが必要ではないか、そのように考えます。
2010年03月09日
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首相 所得300万円の方が、その1割以上の保険料を払わなければならないというのは、やはりこれは率直に申し上げて相当高いなという実感はございます。 小池 そのとおり、本当に払える能力を超えている保険料になっている。問題は、この原因は一体どこにあるのかということなわけです。最大の原因は、やっぱり国保会計に対する国庫負担を引き下げてきたことにあるのではないか。50%だった国庫負担が半減し、保険料は倍になった 小池 今グラフ(図(1))をお示ししておりますが、84年には約5割、50%だった国庫負担率が、ついに25%にまで下がりました。これは国保会計全体に占める国庫負担の比率です。その間、1人当たりの保険料が約4万円から8万円に2倍になっているわけですね。 来年度予算についてお聞きしたいんですが、この保険料を引き下げるための手だては新たに何か盛り込まれていますか。 厚労相 平成22年度予算では、根っこからいいますと3兆円以上の国庫負担の予算を付けさせていただいて、それに加えて、これまでも暫定措置が切れる市町村に対する低所得者の人数に応じて支援する制度を継続をするというようなことも盛り込んでいます。そして一つの目玉というかポイントといたしましては、自発的な離職者じゃない方、つまりこれは、解雇をされた、あるいは雇い止めになった方というのは保険料が前年の所得で計算されますので、無職になってもかなり高い保険料を払わなきゃいけないと、こういうようなことがございまして、それに関して優遇措置を設けようということです。前の年の所得の7割を引いた額、つまり前の所得の3割に保険料の算定をするということで、実質的に保険料が多くの方が半額程度になると、こういうような措置も盛り込ませていただいているところです。 小池 いろいろ並べられたんですけれども、かなりの部分は自公政権時代の継続なんですね。 新しくやるのは失業者の保険料軽減なんですけど、これは国費としてはいくら投入するんですか。 厚労相 国費としては40億円で、そこに地方財政措置をいたしますので、トータルでは280億円投じますけれども、これは私どもが選挙の前にも申し上げていたことでございまして、期せずして失業された方の国保の保険料につきまして軽減をする、おおむね半分になるという措置であります。 小池 40億円ですからね、これはもうほとんどスズメの涙の話なわけです。 今まで低く保険料を抑えてきた自治体の中にも、この春から引き上げの動きがありまして、私たちは全国調査をやったんですが、新潟市は先ほど示したケースで36万8900円が39万7800円に値上げ、東京23区も平均で7・2%の引き上げということになっている。 しかも、この高い保険料を払った上、病院にかかると3割負担。こんな国は世界にないわけですよね。
2010年03月09日
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国庫負担増やし、高すぎる国保料下げよ日本共産党の小池晃政策委員長が民主党政権に国会で質問貧富の格差是正という、社会保障本来の役割が弱まっている 小池晃政策委員長 日本共産党の小池晃です。政府は相対的貧困率の数字を初めて発表いたしました。1997年以降、最悪であることが明らかになったわけです。雇用破壊による非正規労働者の低賃金などの配分の問題、これに加えて所得の再分配、すなわち税や社会保障の問題、そういった再分配の機能を果たしていないということが明らかになってきています。 これはOECD(経済協力開発機構)が発表した数字をグラフにしたものでありますけれども、これを見ますと、そもそも税や社会保障の負担や給付を入れない、いわゆる市場所得での貧困率は日本はそんなに高くないんです。ところが、税や社会保障を加味すると高くなってしまう。言い換えると、まさに、本来は税や社会保障というのは貧富の格差をなくす、貧困率を減らす役割があるにもかかわらず、その役割が発揮をされていない。 総理にお聞きしたいんですが、これはまさに長年の自民党、公明党の政治の下で社会保障の負担増、これがやはりこういう事態を生み出した。だったら、根本的な転換が求められていると思いますが、総理、いかがですか。 鳩山由紀夫首相 今拝見させていただいて、確かに、税や社会保障、保険料、こういったものが所得再分配機能をうまく果たしていないなと。むしろ、そのことによって、世界的に貧困率を比較的に高い状況にしてしまっているということは、これは事実として認めなければならないことだと思っております。 それが、旧政権にすべての責任というものを見いだすというのもいかがなものかと思ってはおりますが、この問題の解決に向けて努力をする必要がある、すなわち所得再分配機能というものをもっとうまく働かせていくようなシステムを構築する必要があると、そのように考えます。小池 所得300万円で保険料40万円、下げる手だてを首相 低所得者の保険料に知恵出したい保険料収納率8割台、原因は高すぎる保険料 小池 そうだとすると、この重い負担をどう考えていくのかということが問われます。今日は最も重い負担の典型として、国民健康保険の保険料の問題を取り上げたいんですが、収納状況をご説明ください。 長妻昭厚生労働相 平成20年度の保険料の収納率というのは全国平均で88・35%となりまして、前年度比2・14ポイント低下しております。 小池 国民皆保険制度となって以来、最低、ついに8割台になりました。その根本が高過ぎる保険料にあるわけで、今パネルでお示ししておりますが、例えば所得300万円の夫婦と子ども2人の4人世帯で見ると、札幌市で41万3000円、さいたま市で37万200円、京都市で44万500円、大阪市で42万8700円、福岡市で44万8500円です。 総理、この数字をご覧になって、率直な所感で結構ですから、これ払える水準の保険料だと思いますか。
2010年03月09日
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とめたいんや戦争!まもるんや命! 3・7行動三月行動を呼びかける女たち さん 講演会も終わった、折り返し半ばまえ、に到着。戸は開けっ放し、人はおもいおもいに舞台を見たり、挨拶を交わしたりしている。ひょい、っと中に入ると、オー!会場の向こう側、目の前に、「戦争と平和を考える会」って、のぼりが!シブイ。遅れてスマン、スマン!とブースに座らせてもらう。見渡せば、なんか楽しそう。文化祭か、もしかしたら、、コンミューンみたいな雰囲気。こんな集会もあるんや。その後、雨の中、ピース・ウォークに参加。行進前、警察のメガフォンアピールに失笑。私はプチきれそうになったけど、皆さん、おとなだね。隣の方が、「一緒に入りましょう。」と、傘を差し出してくださいました。 こちらの方のブログの方が、数段、内容を伝えています・・・http://tatakauarumi.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/2010-dbb0.html
2010年03月09日
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この子の足は、瓦礫といっしょだ。なくてもしっしょと、瓦礫とともに吹き飛ばされた。役に立たないおもちゃの足。ブン妃のように、殺されたら、少なくとも、その後苦しまなくてすむ。だけど、どうだ。この子は、どこに行くにも、一生、誰かにだっこしてもらわなければならない。それを、この子は、声高にいわない。誰かが写真にとったから、こうしてその存在を私に伝える。いなくてもいっしょ、とされた人たち。歴史に名をとどめる人たちは、まだ、にんげんとして殺された。瓦礫と一緒と、瓦礫に埋められた人たちは?死んでも瓦礫といっしょとされた人々は、どうしたらいいのだ。午前2時の家宅侵入。そんなもの、イラク、アフガンでは、イヤんなるほど見た。黒い ヒンディの彼女らは、寝ていたところを米兵に、襲われた。瓦礫に埋められ、深夜に連行され、拷問されてゴミのように捨てられた、名もない人々、ああ、残酷×六十万。名前さえ残さず、忘れられ、生きるも地獄の人々は、自ら瓦礫の一部のように、静かに佇む。少女を抱く父親の顔。右目からいつくしみが少女の上に滴り、左の目はターバンの陰りから我々を射抜く。唇は、溢れ出る言葉をおしとどめ、「見よ」と、夕陽の当たる唇は、瓦礫の数だけの言葉を、無限にその瓦礫の下から語ろうとするがゆえに、閉じられる。「これが、あなたがたのやったことだ」 週間金曜日 「戦犯・小泉を喚問する」
2010年03月09日
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Allen Nelson ベトナムの記憶 DVD ネルソンさんは、ベトナムの記憶を話せるようになって、段々とでも、幸せに、傷が癒えていったのだと思ってた。違った。ベトナムは、彼に張り付いて、一生、彼から消えることはなかったのだ。「今でも、ハエが飛ぶと、一瞬で戦場に引き戻される。あなたが腕に止まったハエを払わなかったら、ぞっとする。死人は、ハエを追わないから。」そういうことを、いたすらっこの顔が、大きなお目目をくるくるさせて話すのだ。こんな顔で話す人には、もっと違う人生が、用意されていたはずに。窓辺にていねいに並べられた白いまな板、赤いトマトを入れた食器、硝子の青い花瓶。彼を日常に引きとどめている。 最期は、ベトナムの後遺症で亡くなる。 彼に、冥福を。
2010年03月09日
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隣にいて、エプロンつけて、ぬいぐるみ作ってるひとが、すごい経歴、、というか、いろんなことを考え、歩んできた人だったりする。人生って、不思議だ。人って、思いもよらないなあ。 「辺野古の海をまもる人たち」 大阪の米軍基地反対行動 東方出版 を読んで。
2010年03月09日
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横山壽一 著新日本出版社4、社会保障財源の確保と国民経済の転換 対国内総生産比日本20% < イギリス22% ドイツ27% フランス30% スウェーデン30% 社会保障の負担について経団連が言及を避けているもう一つの重要な比較がある。それは、社会保障の負担の大半を占める社会料負担のうち、事業主負担の大きさを比較したものである。05年 各国の事業主負担 対GDP比は、日本4.6% < ドイツ6.7% フランス11% スウェーデン10.6%日本の国際的な低位性は否定しようがない。国際的に見て帝位にある社会保障の規模と財源をどのように拡大していくかを検討すると、日本経団連の提起する内容とは全く異なる方向を示すことができる。つまり、消費税の増税ではなく、社会保険料の事業主負担を、ドイツ・イギリス並みに引き上げることで、社会保障の規模を拡大するという方向である。日本のGDP500兆であるから、ドイツ並みで、2%引き上げで 10兆円フランス並み 6%引上げで 30兆円 OECD基準の社会支出イギリス並み 1.5%引上げ 7.5兆円の拡大ドイツ並み 7% 35兆円 第一段階として、社会保険料の事業負担をドイツ並みにするだけで、10兆円の財源規模の拡大が可能になる。そのうえで、国家財政の組み換え(防衛費・公共事業などの見直し)と、歳入の見直し(法人税率の引上げ、所得税の累進性の徹底、租税特別措置の見直し)によって、さらに上乗せが可能である。 10兆円の規模拡大が行なわれれば、社会保障関係費規模で5割増となる。これだけの規模拡大が出来れば、社会保障の傷の多くを解消することが出来る。社会保障の経済効果をめぐって 社会保障の規模の拡大は、国民経済にもいろいろな変化をもたらすことになる。従って、社会保障規模の拡大は、同時に社会保障に留まらず、国民経済のあり方自体をめぐる議論を呼び起こさざるを得ない。新たな対抗も明確になりつつある。焦点となってきたのが「社会保障の経済効果」論である。日経連は規模拡大なしには社会保障のビジネスとしての拡大可能性は望めないとして、規模拡大を容認している。それゆえ、消費税増税で規模を拡大し、社会保障の規模拡大がもたらす経済効果をビジネスに活かすことを、新たな戦略と位置づけている。 社会保障が経済成長の制約になるのではなく、むしろ国民経済の発展にも寄与する。この議論は、社会保障を推進する側も、経済成長のために社会保障の抑制を求める議論に対抗して繰り返し論じてきた。しかし、社会保障をビジネスチャンスとする議論が登場した段階では、社会保障の経済効果それ自体は、もはや対立点ではなくなった、といってよい。今日の段階で対抗軸として明確になってきたのは、社会保障の市場化・営利化を進めることで経済効果を引き出そうとするか、社会保障の公共化・共同化を進めることで、経済効果を高めようとするか、という点である。社会帆所の規模拡大も、市場化を促進することとセットで進めば、社会保障に向けられる資金が営利の手に絡めとられるだけで、権利保障水準の引上げにはつながらない。社会保障を公的なセクターとして維持・拡大することで、国民生活を支え、社会保障に従事する人々の拡充によって雇用の拡大を図り、全体として国民の生活と雇用の安定を通して消費を下支えし、経済成長にも寄与する。 かかる方向でこそ、社会保障の拡充と国民生活の安定的な成長との両立をはかり、権利保障の水準を高めることができる。我々がめざす社会保障の再構築は、国民経済を国民生活主導型へと転換させる一大事業でもある。
2010年03月03日
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3、公共性・共同性にふさわしい権利保障システムの確立 共同性の復権はそれらにふさわしい利用・提供の確立なしには実現しない。 それを可能にするのは、契約による市場型システムでもなければ、官治・官僚的なシステムでもない。それは、真の選択原理と公的責任原理を兼ね備えた権利保障システムの確立とそれにもとづく利用・提供体制の確立によってはじめて可能になる。 行政と国民の間の権利保障の関係として再整備し、行政は国民に対して社会保障を利用する権利を保障するという関係を明確にする。そのためには、仮に提供主体が行政以外の場合であっても、利用・提供は行政と国民との直接的な関係とすることが必要である。やや具体的に言えば、利用者が求めるサービスを、行政が民間事業者から買取り(行政と事業者の契約)、行政が利用者にそれを提供する。イギリスでもスウェーデンでも、契約関係にあるのは行政と事業者であって、利用者と事業者ではない。日本の方式は、より市場に近い方式であり、それだけ国民の権利性も行政の責任もあいまいにされている。この点の改革が、あらゆる改革の基本となる。社旗保障として提供されるサービスなどの決定に当事者が関与する仕組みを各制度に備える。対象者の具体的な状況の把握において、当事者(場合によっては家族あるいは支援者)が事情を語り、どのような支援をどの程度必要としているのか、どのような生活を希望しているのかを行政に直接伝える仕組みが必要である。 行政の示す内容に対して意見を述べ、必要に応じて修正を求める権利が保障されなければならない。必要を十分に満たせているか状況を伝え、不都合が生じた場合には見直しを求める権利も保障されなければならない。 当事者の関与とは、最終決定の段階で「意向を聞く」程度のことででは決してなく、制度全体を当事者中心に組み立てることを意味している。「誰一人わけ隔てなく均質に受けられる」こと、そのことを制度全体に徹底させた仕組みを確立すること。そのことが、真の意味での公共性を実現し、普遍性をもつ制度とする方向である。その際のポイントは、「給付における普遍性の徹底」、「利用における必要原理の徹底」、「負担における応能性の徹底」である。利用に当たっては必要度を唯一の基準とし、それ以外の基準を持ち込まないこと。負担能力が低い人や負担能力がない人へ特別な配慮を怠らないこと。利用と提供の仕組みの改革へ実現に直接的な責任を負う行政が、自ら提供する提供体制、いわゆる「直営方式」は、社会保障における基本的な提供方式としての役割を依然として持っている。詩化し、その役割の発揮のためには「直営」という形態をとるだけでは不十分であり、これまで指摘したような当事者本位の仕組みを備えるよう抜本的な改革が不可欠である。 具体的には、自らの組織の利益を公共の利益のうえにおいてはならない。そのことを遵守させチェックする仕組みを制度に組み込こむ。 非営利を原則とすることを明確にし、事前チェックで徹底させることによって、非営利原則を実質化してゆく。 情報公開、外部評価、査察・監査の体制を見直して強化を図る。
2010年03月03日
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2、市場的公平論の克服と社会保障における共同性の復権 市場的感覚と社会保障に対する認識の不一致 社会保障の再構築には、行政の役割・責任の本格的な解明と同時に、国民における社会保障に対する確たる認識の確立が欠かせない。市場における公平性で社会保障を評価する見方、負担と給付の均衡を個人レベルで問題にし、「損得」を問う姿勢などは、違和感を持たれにくい。しかしこうした感覚は、社会保障の存立をやがて脅かすことになるほど危険度が高い。 注!!!>>社会保障がもつ共同体的な性格のうえに各自の個別的な利益を優先すること、さらにいえば社会が共同で備えて実現する社会全体の共同的利益のじつげんとしての社会保障という認識ではなく、社会保障からどれだけ自らが利益を引き出せるかという感覚に近い。利用の範囲が個人によって区別されたり、負担のわりに給付が乏しい状況が続けば、誰もがそうした感覚に陥りやすい。しかし、こういった感覚が広がっていけば、社会の構成員が連体し、社会的責任でもって生活と生存を保障するという仕組み自体の存立が危うくなる。 仕組みがともかくも機能しているのは、社会保障では給付と負担のバランスがとれなくても構わない、それぞれが負担して全体で制度を維持しているのだから損得は問わない、といった意識がそれぞれにあるからにほかならない。 かかる社会保障の世界に、個別的利益のみを求める考え方を持ち込めば、たちどころに機能しなくなることは明らかである。現在、多くの国民は批判を持ちながらも社会保障制度に信頼を寄せ、社会制度として維持することに意義を見出している。しかし、これまで見てきたように、それは日常の生活を支配している市場的感覚とは本来相容れないものである。それゆえに、社会的な意義を繰り返し確認し、その認識の度合いを絶えず高めていくことなしには、持続し発展させていくことはできない。社会保障における共同性の復権 社会保障の内容と水準を高めようとすれば、可能な限り共同的にサポートしあう方式、つまりは生活の社会化・共同化を基本とする方式が社会的な合意を得る必要がある。その際、重要なのは、こうした生活における自己決定と社会的・共同的な生活スタイルが対立するものとしてと捉えられるか、相互促進的なものとして捉えられるの違いである。 医療・介護・保育などのニーズを個別的に充足することには限界がある。それらが社会的な条件として整備されていれば、それらを活用しながらそれぞれの生活の選択肢を広げることが出来る。 両者は対立するものではなく、相互促進的なもの、つまり、社会化・共同化をすすめることが生活における自己決定のレベルを高めることにつながるという関係にあることがわかる。 例えば、・・子育てが私的な行為として個人の責任に委ねられている状態では、働くこととの両立は、家族構成や所得水準などの面でそのことをなしえる条件を備えた個人だけに許される、偶発的なできごとにとどまり、多くの人々にとっては、とりわけ女性にとっては、叶わぬ夢に終わる。しかし、保育制度が整備され、誰もが希望すれば利用できる社会になれば、自らの手で子どもを育てることも出来るが、働きながら子育てをすることも可能になる。保育制度を活用しながら子育てを行なうという選択肢を、各自の希望に即して選択し、自らの生活、自らの人生をも主体的に選択し決定することが可能になる。 人間が最も意欲を発揮することが出来るのは、自らが希望する生活を選択し実現できたときであり、けっして強制され追い詰められた生活を送る時ではない。・・自ら必要に迫られて必死で対応しようとするが、そうした活動は自らが希望する生活を手に入れんがための「手段」でしかない。その先にある「目的」としての希望する生活が実現したとき、人々は本来の生きるエネルギーを存分に発揮することができる。「手段」としての生活に留まるか、「目的」としての生活を共同で実現するか、その優劣はおのずと明らかであろう。社会保障における共同性は、必要な資金を共同して負担するというだけではない。重要なのは、共同性こそ、個々人の生活の質を高めていくことを可能にする確かな力であるということである。
2010年03月03日
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第六章市場化から公共化・共同化へ 市場化・営利化に対抗しうる内容を論理的に再整理し、市場的な感覚からの脱却を図っていかなければならない。それには、市場化・営利化が持ち出してきた論点に即して内容を具体化し豊富化してゆく作業が欠かせない。 1.社会保障における行政の役割と責任の再構築 規制緩和と「固有の限界」論の限界 注!!>>社会保障は、市場経済がもたらす人々の貧困・格差・不平等を、個人の責任によって引き起こされた結果ではなく、個人の努力ではいかんともし難い社会的は要因によってもたらされたものと捉え、従ってその解決には社会が責任を持つべきとの立場に立ち、そうした解決のための具体的な方策として具体化され、制度化されてきた。 したがって、そこには、社会が共同してすべての人々に対して生活と生存を保障するという社会的責任の原理、公共性・共同性の原理が貫かれている。 そして、その原理を具体化するために、市場を規制し、自己責任の原則を修正してきた。従って、社会保障の市場化・営利化を推進する側が、その規制を緩和し、あるいは撤廃することに心血を注いできたのは、当然といえば当然である。注!!>>規制緩和の推進のために、繰り返し用いられてきた「論理」は、行政の手によって行なわれてきたセービス提供の不効率性(高コスト、硬直的・画一的提供)という、いわゆる「政府の失敗」論、国民のニーズの多様化に応えるための多様な提供主体によるサービス提供の必要という「ニーズの多様化・提供主体の多元化」論であった。しかし、真の狙いは、公共サービスの提供を民間に開放させることでビジネスの場に変え、営利の手段として活用する事にあった。そのことを覆い隠すために、「政府の失敗」論でも「ニーズの多様化・提供主体の多元化」論でも、巧妙な論理のすり替えが行なわれてきた。 あるサービスを市場に委ねるべきか行政のもとで行なうべきかは、そのサービスの基本的性格によって判断されるべき問題である。・・しかも生命・健康に直接かかわるサービスは、公共性・公益性が明確であり、市場に委ねるべきではない性格のものである。 ところが、「政府の失敗」論は、行政の手によるサービスの提供のどこに問題があったのか、どのような行政の改革が求められるかを問うことを全くせず、「行政がやるからうまくいかない」という、いわゆる「固有の限界」論を振りかざして市場に委ねることを求めた。行政組織・制度のどこをどのように変える必要があるのかを問わないまま、もっぱら、国民・利用者(しばしば「消費者」を使用)のニーズにこたえるには行政だけではもはや限界との理屈を用いて、民間参入を求めた。 営利化・市場化のために用いられたこれらの議論を改めて振り返ると、社会保障など公共サービスの目的・役割、利用・提供の基本原則、利用・提供の具体的仕組み、行政の責任、行政と民間との関係などが、ほとんど検討されていないことが分かる。「官から民へ」「民間でできることは民間で」との規制緩和のスローガンも同様である。これらの議論に共通しているのは、上記の課題の検討を避け、もっぱら「消費者の利益」を錦の御旗にして市場化をせまって来たことである。如何なる改革が行政に求められるかを問うことなく、市場の手に委ねるべきとの議論は、明らかに論理の飛躍がある。 市場に委ねれば国民の利益に即したサービス提供ができるとか、サービスの質が高まるとか、そうした主張がそのまま通用するわけではないことは、これまでの分析で明らかである。 注!!>>今あらためて取り組むべきことは、規制緩和の議論のなかで無視されてきた公共性・公益性の実現のための組織・制度の検討であり、行政の責任と役割の本格的な解明である。 公共性・公益性と行政の役割・責任市場化・営利化の現実化に余地が与えられた背景には、国民の、行政の手によるサービス提供に対する不満や批判、さらには行政不信があることは疑いない。市場化推進論者が、市場化への足場を築く契約制度の導入にあたって、行政による利用・提供の体制である「措置制度」を槍玉に挙げ、「選択の自由」と自己決定を対置させたこと、その主張がそれなりに支持をえたことをみれば明らかである。社会保障が国民生活と社会にもたらした最も重要な変化、いわば質的な変化は、生活における自助・自己責任の限界を社会が承認し、社会的な要因によって生じる生活上の諸問題を個人の責任に委ねるのではなく、社会の責任で解決する原則を確立したことにある。 ここでいう社会的責任とは、具体的には、社会の構成要因が連体し、共同の事業として問題解決にあたることを指す。社会の共同事業の遂行は、具体的には任意団体でも特定事業を営む団体でもなく、まさしく国民の付託に応えて、社会の共同事業の担い手として組織された行政組織が直接担い、行政が責任を持って遂行する。 社会的に解決するということは、特定の個人や団体に対して責任を果たすということではなく、すべての社会の構成員に対して責任を果たすということ、つまりサービスを必要とするすべての人が平等に享受できる仕組みを、責任を持って整えることを意味する。 その上でさらに求められるのは、当事者の自己決定を基本とする方式の実現である。行政が責任を持つということと、行政が一方的に物事を決めて一方的に実施すると言うことは同義ではない。行政が責任を持つのは、最終的にはそれぞれの人の尊厳のある生活の実現であり、サービスの提供はそのための方法である。何をどのように提供することがその人の尊厳ある生活を実現する事になるかは、最終的には本人の判断に委ねられる必要がある。 そのことを基本に考えれば、サービスの決定に際し当事者が自らの意思を表明し、選択を行なう仕組みを整えることが、真の意味での公共性の実現であることがわかる。この点に対する行政の無理解による「押し付け」が行政に対する不満や批判を生み、市場化の動きにつけ入る余地を与えてきた。市場化論者の言う「選択の自由」は、事業者を選ぶ自由を意味するに過ぎず、自らの生活そのものを選択する自由は無視する。その人の望む生活を実現できているかは一切問わず、その点は逆に自己選択した結果として自己責任に委ねるという冷淡さである。 「行政がやるからうまくいかない」のではなく、行政が責任を果たす具体的な仕組みを十分に整備してこなかったことに、「政府の失敗」の原因があった。その点を踏まえれば、「ニーズの多様化・供給主体の多元化」論も市場に委ねるべき根拠とはなりえない。課題はむしろ行政の提供の仕方そのものの改革にあることは、もはや明らかであろう。 注!!>>当事者の自己決定と参加を制度化した行政責任による利用・提供の仕組みという意味での、「措置制度」であれば、名称は別にして、市場化に対抗しうる選択しとなる。
2010年03月03日
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第五章市場化の中の福祉労働 福祉制度と福祉の市場化=直接には、「福祉制度の市場主義的見直しと転換」。ここでいう福祉制度は、言うまでもなく狭義の福祉制度見直しの対象としての福祉制度は、「非市場」的な仕組みを特徴とする。つまり、市場の仕組みとは異なり、基本的には給付と負担をリンクさせたい仕組みである。具体的形態として「措置制度」を挙げる。福祉の市場化が「措置制度」の解体と、いわゆる「契約方式」への転換という姿をとって進められたのはそのためである。契約方式の導入に当たっては、それが措置制度より優れていることを示す必要があったことから、「利用者による選択」が可能となる方式であることが前面に打ち出されてきた。実際には、選択自体も事業者を選ぶだけの選択に過ぎず、サービスの利用を通じて生活そのものを選択することを保障するものではなかった。(じゅんコメント・このあたりは、教育「改革」とよく似ている)形式的ではあれ、利用者の側に選択権が付与されると利用者の獲得をめぐる事業者間の競争が始まり、一気に市場的環境が創出される。契約方式は、まさしく福祉の市場化のための最も効果的な方式として位置づけられ活用された。福祉労働の特性何よりも、福祉制度が担う役割・機能を具体的に遂行することに求められる。端的に言えば、福祉制度による福祉サービスの提供を通じて、国民の生存・発達の権利を保障することに他ならない。すなわち、福祉労働はその具体的な携帯に係わらず、いずれも「権利保障労働」「発達保障労働」としての特性をもつ。「直接的サービス提供労働」は、生活上の諸問題あるいは制約を具体的に解決する。その遂行がコミュニケーションを通じて行なわれるコミュニケーション労働であるという特性を持つ。「間接的福祉労働」は、福祉制度そのものを評価して問題点を明らかにし、その問題点の解決のために必要があれば制度も見直すという役割を担っている。「福祉公務労働」は、直接的な権利保障労働として立ち現われる。しかし、福祉制度が後退して権利が制約される場合には、その実行者としての役割を担わされて国民と「対立的」関係に立たされることもある。 介護制度の変容介護保険制度によって生じた福祉制度の変容と福祉労働の変容は、市場化による福祉労働の変容の革新的な内容を提示する。介護保険制度は、社旗保障構造改革の突破口として位置づけられ、福祉制度の市場化を一気に進める役割を担った。 第一は、措置制度から契約ほうしきへの転換に伴う変容行政による介護サービスの利用・提供を、事業者と利用者との当事者同士の直接的関係に置き換えたことで、公的責任を、当事者同士の関係の背後で見守るだけの間接的な位置に後退させ、同時に契約主体としての利用者に自己責任を求める構造を作り出した。利用者の選択が事業者間に競争をもたらし、供給主体の多元化と相まって、事業の営利化と営利主義的な競争をもたらした。 第二に、応益負担に伴う変容。利用と負担をリンクさせないことで、所得の再配分を果たしてきた福祉制度を、足元から掘り崩す種がまかれた。添えrはまた、本来ならば権利保障にとって不可欠な減額・免除の制度を、忌避すべき存在に変える方向で作用した。 措置制度の下では、福祉労働は、権利保障労働としての明快さを有していたが、同時に、官治主義と財政コントロールのもとでいろいろな矛盾に直面し、職場集団としての水準にレベル差が生じていた。 契約方式への移行によって、福祉労働の権利保障労働としての役割が不明瞭になり、一般の財・サービスの売買と基本は変わらない形態をとる事になり、「顧客サービス」「顧客満足度」に置き換えられていく傾向が強まった。 柔軟性・統合性・コミュニケーションという福祉労働のもっともも重要な部分に制約が加えられた。直接的サービス提供労働の役割を、細切れで統合性を持たない労働へと変えた。 共同労働として質を高めてゆくことの困難が一層大きくなった。 介護保険事業はきわめて労働集約的な事業であるため、コスト削減は人件費削減へと向かい、非正規雇用で人員をカバーするスタイルを一般化させた。 介護保険は、国を挙げての規制緩和推進の渦のなかで具体化され実施されたことから、設立事態が社会保障分野における規制緩和の突破口あるいは実験場としての意味を持たせられた。 営利組織による介護保険事業の展開は、そこに所属してサービス提供を担う福祉労働者に深刻な矛盾をもたらし、苦悩を深める事になった。組織のミッションと事業・制度の目的との間に明らかにズレが存在するからである。従って、福祉労働としての本来の役割を果たそうと努力すればするほど、矛盾を深めざるをえなくなった。その矛盾は、危惧されていた通り、営利主義による深刻な不正と人権侵害となって現実化した。コムスン問題の本質はそこにある。福祉労働の復権と権利保障 注!!>>現在の事態は、国民に対する権利保障の後退と振るし労働者の権利保障の交代が一体不可分であることを示している。しかも、制度の矛盾が最終的には福祉労働へのしわ寄せとなって現われる構造にある。したがって、福祉労働の危機は福祉制度の危機・国民生活の危機でもある。 権利保障水準の引き上げを確実に行なうためには、財源情勢の見直しとセットで行なわなくてはならない。利用料事態を廃止するか、応能負担に切り替える必要がある。 福祉労働が抱える問題は、直接的には労働条件などの処遇の問題として現われるが、けっしてそこにとどまらない文字通り国民の生存と人権に係わる問題の現出として捉える必要がある。
2010年03月03日
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第四章コムスン問題を例にコムスン商法と呼ばれる手法は、一言で言えば民間企業で広く用いれらている経営手法の直接的導入である。問題は、単なる不注意によるものではなく、意図的・組織的な行為と思われるものが少なくなく、一部の悪質な事業者による王位であるとして済ますわけには行かないほど日常化している。当初から怪しさを指摘されていたコムスンが大手として台頭してきた背景には、介護事業をビジネスの場として育成を図ってきた、市場化・営利化の動きがあったことを見逃すわけにはいかない。 介護事業のビジネス化の本格的な展開を可能にしたのが、他ならぬ介護保険であった。介護保険は、措置制度を契約方式に変えて市場の仕組みを導入するとともに(市場化)、事業者の指定に当たっては、営利・非営利を問わない方式をとり、営利法人の参入を可能にした(営利化)。コムスン商法はコムスン固有のものではなく、実際には程度の差はあれ、営利法人の営業スタイルそのものであった。何よりも「コムスン的なるもの」の温床を作り出してきた、政府・厚生労働省による介護事業の市場化・営利化そのもののもつ問題と責任が問われなければならない。とりわけ、営利・非営利の区別をあいまいにして介護事業を営利の食い物にしてきたこと、市場と競争の強化がサービスの質を高めるとの立場から、サービスの質の確保への責任を事実上放棄してきた責任は、厳しく問われなければならない。さらには、公共サービスを市場に委ね、次々と営利の対象に変えていった規制緩和・「構造改革」路線そのものの同時に問われなければならない。政府・厚生労働省の対応が、介護褒章を引き下げるなど費用の抑制を図ったものであったことが、事業者の生き残り競争に拍車をかけ、営利主義への傾斜を一段と強めた。介護報酬の問題、その根源にある介護保険財源の問題の改善にも取り組む必要がある。公費の負担割合を引き上げ、利用料の廃止もしくは応能負担に切り替え、利用と負担をリンクさせない仕組みに変えること、その上で、人員基準と介護報酬を引き上げ、人件費部分については別立てで基準を確保できる費用を事業者に保障することが検討される必要がある。 介護報酬の低さは、介護労働者の賃金・労働条件を劣悪なものとし、その結果として人材の流出、人材確保の困難をもたらし、事業自体の持続可能性さえ奪おうとしている。ただし、介護報酬の低さゆえに不正が生じたとの理解は、不正行為を場合によっては免罪する事になりかねない。介護報酬が引き上げられれば、その成果が再び営利主義の手に絡めとられる危険性を見過ごしてしまう。不正を営利主義の問題として捉える視点が弱くなる。 介護報酬の引き上げが、利用できるサービスの拡大と介護従事者の労働条件の引き上げを、確実に実現できる事業環境の整備がセットにならなければならない。 「健全な介護市場」を確立することが「健全な介護システム」をもたらすことにはならないということ、更に言えば「健全な介護市場」などありえない、ということを明らかにしたい。介護保険の健全な発展を願う少なくない人々が、今回の事件を前にして、営利組織の参入を規制すべきとの声を挙げてはいない。それは、営利組織の参入を前提とした「健全な介護市場」が可能だと考えているからに他ならない。 営利企業は利益をあげるために労働者の処遇の切り下げに向かわざるを得ないから、サービス提供の非営利化が「介護保障」のためには不可欠である。 「健全な介護市場」という想定は、介護は民間企業によるビジネスモデルが十分成り立つ市場であるということでもある。かかるビジネスモデルとは、「企業的な手法を用いて効率的な経営を行なえば、低いコストで質の高いサービス供給を実現でき利益をあげることもできる、同時に、国民も必要で十分なサービスを確保できる。」というモデルだと考えてよい。 しかし、「民間企業による介護ビジネスモデルは、介護市場への基本的な錯覚から生じたもの」「安価な労働力が潤沢に存在することを前提としたビジネスモデルであり、一時的な失業率の高まりによってもたらされた幻想に過ぎなかった」保険が適応される介護サービスと保険外の自由契約による介護サービスの一体利用も「本来、公益的介護供給の補完物としてしか成立しないものであり、これも大きな幻想に過ぎなかった」民間企業の介護保険ビジネスモデルは、「出来ないことを出来るとして、制度に組み込んだことから発生」しており、市場原理の幻想による「制度設計のミス」 自由な価格設定は介護サービスの普遍的な利用を困難にするし、安価な労働力の利用はサービスの質の向上とは両立しがたい。つまり、介護ビジネスモデルを成立させる「健全な介護市場」は、現行の介護保険の元ではありえない。 介護報酬が引き上げられれば「健全な介護市場」が実現できるかのように考えることも、幻想に過ぎない。企業的手法による効率的経営の元では、引き上げられた報酬が企業の利益を拡大することはあっても、サービスの質の向上や介護労働者の処遇改善、国民の介護ニーズの充足を何ら約束するものではない。「介護がビジネスとなり競争となる中で、サービスの質を上げ、かつ増収を図らねばならない矛盾構造を維持するには、嘘をつき、嘘を重ね、人件費の抑制を図るほかなく、問題の発生はむしろ当然だったといえる。」 制度の抜本的見直しの課題指定基準に営利を目的としない組織である旨を盛り込み、非営利原則を確立する。ケア・マネージャーが特定事業者に属していながら、中立性を保ち、利用者の利益を優先する立場を貫くことは、実質的に困難であるので、公的機関を設けて、専任職員とする。一割負担方式を廃止して当面は収入に応じて負担する方式に変え、将来的には廃止する。見直された人員基準に見合う人件費が確実に確保できる仕組みを設ける。介護報酬の引き上げが保険料の引き上げを招かないために、財源構成を見直して国庫負担の割合を引き上げ、保険料の負担割合を引き下げる。
2010年03月03日
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第五章市場化の中の福祉労働 福祉制度と福祉の市場化=直接には、「福祉制度の市場主義的見直しと転換」。ここでいう福祉制度は、言うまでもなく狭義の福祉制度見直しの対象としての福祉制度は、「非市場」的な仕組みを特徴とする。つまり、市場の仕組みとは異なり、基本的には給付と負担をリンクさせたい仕組みである。具体的形態として「措置制度」を挙げる。福祉の市場化が「措置制度」の解体と、いわゆる「契約方式」への転換という姿をとって進められたのはそのためである。契約方式の導入に当たっては、それが措置制度より優れていることを示す必要があったことから、「利用者による選択」が可能となる方式であることが前面に打ち出されてきた。実際には、選択自体も事業者を選ぶだけの選択に過ぎず、サービスの利用を通じて生活そのものを選択することを保障するものではなかった。(じゅんコメント・このあたりは、教育「改革」とよく似ている)形式的ではあれ、利用者の側に選択権が付与されると利用者の獲得をめぐる事業者間の競争が始まり、一気に市場的環境が創出される。契約方式は、まさしく福祉の市場化のための最も効果的な方式として位置づけられ活用された。福祉労働の特性何よりも、福祉制度が担う役割・機能を具体的に遂行することに求められる。端的に言えば、福祉制度による福祉サービスの提供を通じて、国民の生存・発達の権利を保障することに他ならない。すなわち、福祉労働はその具体的な形態に係わらず、いずれも「権利保障労働」「発達保障労働」としての特性をもつ。「直接的サービス提供労働」は、生活上の諸問題あるいは制約を具体的に解決する。その遂行がコミュニケーションを通じて行なわれるコミュニケーション労働であるという特性を持つ。「間接的福祉労働」は、福祉制度そのものを評価して問題点を明らかにし、その問題点の解決のために必要があれば制度も見直すという役割を担っている。「福祉公務労働」は、直接的な権利保障労働として立ち現われる。しかし、福祉制度が後退して権利が制約される場合には、その実行者としての役割を担わされて国民と「対立的」関係に立たされることもある。
2010年03月01日
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第四章コムスン問題を例にコムスン商法と呼ばれる手法は、一言で言えば民間企業で広く用いれらている経営手法の直接的導入である。問題は、単なる不注意によるものではなく、意図的・組織的な行為と思われるものが少なくなく、一部の悪質な事業者による王位であるとして済ますわけには行かないほど日常化している。当初から怪しさを指摘されていたコムスンが大手として台頭してきた背景には、介護事業をビジネスの場として育成を図ってきた、市場化・営利化の動きがあったことを見逃すわけにはいかない。 介護事業のビジネス化の本格的な展開を可能にしたのが、他ならぬ介護保険であった。介護保険は、措置制度を契約方式に変えて市場の仕組みを導入するとともに(市場化)、事業者の指定に当たっては、営利・非営利を問わない方式をとり、営利法人の参入を可能にした(営利化)。 コムスン商法はコムスン固有のものではなく、実際には程度の差はあれ、営利法人の営業スタイルそのものであった。何よりも「コムスン的なるもの」の温床を作り出してきた、政府・厚生労働省による介護事業の市場化・営利化そのもののもつ問題と責任が問われなければならない。とりわけ、営利・非営利の区別をあいまいにして介護事業を営利の食い物にしてきたこと、市場と競争の強化がサービスの質を高めるとの立場から、サービスの質の確保への責任を事実上放棄してきた責任は、厳しく問われなければならない。さらには、公共サービスを市場に委ね、次々と営利の対象に変えていった規制緩和・「構造改革」路線そのものの同時に問われなければならない。政府・厚生労働省の対応が、介護褒章を引き下げるなど費用の抑制を図ったものであったことが、事業者の生き残り競争に拍車をかけ、営利主義への傾斜を一段と強めた。介護報酬の問題、その根源にある介護保険財源の問題の改善にも取り組む必要がある。公費の負担割合を引き上げ、利用料の廃止もしくは応能負担に切り替え、利用と負担をリンクさせない仕組みに変えること、その上で、人員基準と介護報酬を引き上げ、人件費部分については別立てで基準を確保できる費用を事業者に保障することが検討される必要がある。 介護報酬の低さは、介護労働者の賃金・労働条件を劣悪なものとし、その結果として人材の流出、人材確保の困難をもたらし、事業自体の持続可能性さえ奪おうとしている。ただし、介護報酬の低さゆえに不正が生じたとの理解は、不正行為を場合によっては免罪する事になりかねない。介護報酬が引き上げられれば、その成果が再び営利主義の手に絡めとられる危険性を見過ごしてしまう。不正を営利主義の問題として捉える視点が弱くなる。 介護報酬の引き上げが、利用できるサービスの拡大と介護従事者の労働条件の引き上げを、確実に実現できる事業環境の整備がセットにならなければならない。「健全な介護市場」を確立することが「健全な介護システム」をもたらすことにはならないということ、更に言えば「健全な介護市場」などありえない、ということを明らかにしたい。介護保険の健全な発展を願う少なくない人々が、今回の事件を前にして、営利組織の参入を規制すべきとの声を挙げてはいない。それは、営利組織の参入を前提とした「健全な介護市場」が可能だと考えているからに他ならない。 営利企業は利益をあげるために労働者の処遇の切り下げに向かわざるを得ないから、サービス提供の非営利化が「介護保障」のためには不可欠である。 「健全な介護市場」という想定は、介護は民間企業によるビジネスモデルが十分成り立つ市場であるということでもある。かかるビジネスモデルとは、「企業的な手法を用いて効率的な経営を行なえば、低いコストで質の高いサービス供給を実現でき利益をあげることもできる、同時に、国民も必要で十分なサービスを確保できる。」というモデルだと考えてよい。 しかし、「民間企業による介護ビジネスモデルは、介護市場への基本的な錯覚から生じたもの」「安価な労働力が潤沢に存在することを前提としたビジネスモデルであり、一時的な失業率の高まりによってもたらされた幻想に過ぎなかった」保険が適応される介護サービスと保険外の自由契約による介護サービスの一体利用も「本来、公益的介護供給の補完物としてしか成立しないものであり、これも大きな幻想に過ぎなかった」民間企業の介護保険ビジネスモデルは、「出来ないことを出来るとして、制度に組み込んだことから発生」しており、市場原理の幻想による「制度設計のミス」 自由な価格設定は介護サービスの普遍的な利用を困難にするし、安価な労働力の利用はサービスの質の向上とは両立しがたい。つまり、介護ビジネスモデルを成立させる「健全な介護市場」は、現行の介護保険の元ではありえない。 介護報酬が引き上げられれば「健全な介護市場」が実現できるかのように考えることも、幻想に過ぎない。企業的手法による効率的経営の元では、引き上げられた報酬が企業の利益を拡大することはあっても、サービスの質の向上や介護労働者の処遇改善、国民の介護ニーズの充足を何ら約束するものではない。「介護がビジネスとなり競争となる中で、サービスの質を上げ、かつ増収を図らねばならない矛盾構造を維持するには、嘘をつき、嘘を重ね、人件費の抑制を図るほかなく、問題の発生はむしろ当然だったといえる。」制度の抜本的見直しの課題指定基準に営利を目的としない組織である旨を盛り込み、非営利原則を確立する。ケア・マネージャーが特定事業者に属していながら、中立性を保ち、利用者の利益を優先する立場を貫くことは、実質的に困難であるので、公的機関を設けて、専任職員とする。一割負担方式を廃止して当面は収入に応じて負担する方式に変え、将来的には廃止する。見直された人員基準に見合う人件費が確実に確保できる仕組みを設ける。介護報酬の引き上げが保険料の引き上げを招かないために、財源構成を見直して国庫負担の割合を引き上げ、保険料の負担割合を引き下げる。
2010年03月01日
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