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( 幼い物言いが多くて、あとで顔をあからめることになるだろうけど、アップしておく。)

AVATAR
これは、インディアンの物語である。どう見ても、ナヴィはインディアンに見える、滅ぼされた。
それだけ、アメリカ人の先住民に対する原罪意識は強いのだろうか、と思う。
ナヴィの精神文化、民族衣裳、インディアンを原型にしているように見えて仕方なかった。
結局、彼らは滅ぼされるのか。
ヨーロッパの後継者、アメリカの、強欲と火器に。
アメリカ人=スカイ・ピープルが仕掛ける侵略は、目的からイラクに対するそれとまったく違わないが、ナヴィは、イラク人ではない。イラク人の意匠を全くまとわない。
ある意味、対抗的ともなる一神教であり、ヨーロッパより先進文化であったイスラームをイメージさせるものは何もなく、表象として巧妙に避けられている。
ジェイクのトラベルは、全くの異文化へのトランスポートであり、これはこれで、自分の、西洋の出自と、あまり葛藤がないため、スムーズ。むしろ、怪鳥を征服して乗りこなすところなど、西洋人が抜け切っていないな、と苦が笑いしてしまう。
大佐との最後の決着は、肉弾戦で、ほとんど、ターミネーター。
何も、解決しない。大佐は代わりの幾らでもある枝葉である。
彼らは、また来るだろうか。
私たちは既に知ってしまっている。イラクのレジスタンスが抵抗しても抵抗しても、繰り返し侵略するアメリカの姿を。
アフガンを9年爆撃して、抵抗する彼らからまだ手を引かず、ファルージャの虐殺を再現しようとしているアメリカを。
そして、先住民は滅ぼされたことを。
どこかに、ほぼ民族絶滅に至らしめたアメリカ先住民に対するー言い換えるなら、もう何を言っても言い返してこない種族に対するー理想化、アリバイ工作のような苦々しさを伴う。
私は、何を見たかったのか。
有りもしないアメリカの悔恨と懺悔、資源強奪の欲から解放される地球人。

アメリカ大衆こそ、この映画を見るがいい。露骨な政府批判のはずだから。
彼らが今殺そうとしているのは、地球の自然なのだ、という隠れテーマは否定しない。
だけど、もっと、生々しい現実、今現在、行なわれている資源を略奪するために「どけ」と言われて虐殺されている、イラク、アフガン、その他の人々はどうするのだ!
絆、という。
コンピューターのネットワークに擬せられたパンドラの生物のつながりは、情報というよりは感覚、知覚神経のようで、相手の痛みをわが身に感じるような物のようだ。
聖なる樹は、高次の中枢神経。だから、共生関係にある動物達に、人間の体がそうであるように、自律神経や運動神経を介するような指令を発することが出来る。(攻撃機は人体に侵入したウイルスやバクテリア、迎え撃つ白血球等免疫機構、っていうイメージね。)
ここで、救いは、相手の痛みを感じよ。という、単純な、でも大事なこと。
イラクの人々の痛みを感じよ。アフガンの人々の痛みを感じよ。
映画の中、欲に眩んだ「株主」には見えなくとも、現場の責任者レベルまではーただしモニター越しにだがーそれを感じている。
空から落ちてきて、目の前で、馬が吹き飛ばされ、人が撃ち殺されるのを見る者の目には、何が起こっているか、もっと、はっきり見える。
せめて、見よ、と。もっと、地面から、侵略されるさまを、見よと。
希望は、大衆が地上から、侵略される側の痛みを、感じ取ることを始めることからしかないのだろう。
それでも、資源や権益の独占から得る利益を獲得する戦争は常に、大企業や政府から起こされるだろう。
守るべき自然も、全て失った、と想定される地球から来たジェイクには、優しいもの、弱々しいものをそっと手に乗せることさえ、知らなかった。
自然は、利用できるかどうかでしか、価値を測られなかったのだろう。

利益、ビジネスに動機付けられたミッションも、現場の無欲なーもう一度自分の足で歩きたい、という希望、しか、もたないー青年の、ある種、かな、純粋な、でもこれは、ほとんどの一般の人々の気持ちに近いだろ?の先住民とのふれあいのなかで、ひっくり返される。
でも、それが可能なのは、彼らの身体を手に入れる、という不可能なことを、経由して、だ。
しかしそういうことが出来れば、人は変わるとおもう。
少なくとも、切れば痛い、と知っている、現場にほり込まれる人間は。
人間はそのようにできているから。
殺しやすさと戦場の兵と敵の距離には、正の相関がある。
だめだ、だめだ、軍は、そういうことはとうに承知。こんなことをしていたのでは、巨額の経費を掛けて、ドライバー全員に寝返られる、と知っている。
(海兵隊の訓練が、新兵に、邪魔者は敵だ、敵は人間じゃねえ、と刷り込んでいくのが現実と同じだった。)
だから無人攻撃機だ。コンピューターゲーム感覚で、モニター映像をメディアに流す。
あ、でも、こういう見方はどうだろう。
90年、マトリックスで、繋げられた現実は虚構だった。コンピューターを介して見せられる悪夢という、虚実を逆手に取った欺瞞の提示、世界の虚偽の端的な代替イメージになりえた来るべき仮想現実の、ウソ寒い得体の知らない手触りは、2010年、我々をマスゴミや政府の垂れ流すウソ情報を回避して、直接真実に近づける手段、と評価を一変した。
現にこの20年、我々は経験してきた。イラク戦争のとき、アフガン侵略のとき、ガザ侵攻のとき、ベイルート爆撃のとき、我々はどうやって、地上の、言い換えれば政府やマスゴミの流す情報より確かな、情報を得たか。
痛みを彼らとともに感受するメディア、共感のメディアとしてのインターネットという位置づけがはっきりしている。映画のネットの扱いも、それに対応している。
話を元に戻す。
我々は、まだ闘える。
虐殺される人々の心に少しでも近づき、今目の前にいない人の声に耳を澄ませ、それには、技術を使ってもいい。彼らの破壊力に対抗するため、技術の迂回路を通って、人間性に立ち戻るのだ。
それと並行して、もっと身体性を取り戻し、感覚を磨き、壊される自然に親しみ、痛みを感じる力を取り戻す。(例えば、八つ場の現場に行ってみるのも、そのような回帰と結合にあたるのだろう。)
上層部は変えられなくても、下から変わってゆける。
上なんか、あてにするな。
自然と調和する生き方、というのが、具体的に我々にとってどういうものなのか、まだ、よくわからないのだが。
