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少し、かなしい。
政権担当者が辞任して、かなしい、と思ったのは初めてだ。
5月25日以後、眼前に、見える壁がまたしても立ち上がったため、どちらを向いたら遠くが見えるか、わからなくなっていた。
もともと、そうだったのか。
政権は、日本の国家主権がアメリカにないがしろにされていることを広く知らしめて、「目覚めよ、日本人!」とだけ、いいたかったのか。
これからなのか。
これから、日本人は属国的地位から立ち上がり、対米独立を勝ち取るうねりを見せるのか。
これだけ、民意がねじ伏せ、吹っ飛ばされて、国民から見えないところで、「辺野古移転」を閣議決定されることが、不逞なことだと、いまの日本は、アメリカによってそういう地位に貶められていると、国民を目覚めさせるための、政治的事件だったのか。
日本に自治を取り戻すために、これがどうしても必要だと?

25日の座談会のことから、まず整理する。
本土の人間の心の中の差別構造が撤去できなければ、基地はなくならない。
戦後を平和だったと総括するなら、その時点でその人は、戦後を学びなおさねばならない。
戦後の歴史認識は、平和とは何か、ということと、密に関係する。
沖縄を常に視座に入れた平和論であること。
沖縄は、憲法九条の裏面である。
人口の99%を占める本土の人間が、基地撤去に動かなければ、沖縄の基地問題は微動だにしない。
受け渡される加害と被害の問題は、戦後の日本では、戦争と平和の関係になる。
日本が平和だ、という幻想に酔うためには、基地を沖縄に押し付け封じ込める必要があった。
日本から差別を受けた沖縄には、戦後、一度も、平和はなかった。
誰かから受けた加害を、より弱い誰かに転嫁することで、支配のヒエラルキーをつくる。
戦争を仕掛けるほうの中にも、実弾に供する被害者が必要だから、被害とは思えないよう、加害者に仕立てる。でも戦争に駆り出される彼らは実は被害者で、彼らは侵略される人びとを、より下位のものと見なして抑圧する。
人を人と思わなければ、差別はできず、戦争できない。
沖縄差別も、仮想敵国も、ゴーサインには差別が共通する。
差異を認識する、差異を認める。
自分と違う人を、尊重する。
違う人どうしが、友達になる。
それなのに、どこで違って、差別になってしまうのだろう。
制度の問題なのだろうか。
(一対一で、人を見れなくなったとき、何かのフレームで、何に所属するかで、人を判断したとき、差別がおこるのだろうか。
この人は、何々大学出身です、この人の職業は何です、
それだけでは、差別につながらない。)
違うものに対する恐怖?
体制内に取り込めない事に対する恐怖?排除。
それなら、本来、我々庶民には必要ない概念で、法律を制定したりする支配層だけが関心を示すフレームだ。
法律は、本来雑多で交じり合って生きている人々を、制度的に仕分けする。それぞれのカテゴリーに、利益を与えたり、与えなかったりして、反目するようにしむける。
格差が固定して、差別が生まれたり、政策的に差別を教育されたりする。
我々が取り込んで、彼らの体制維持を担う。
強者にまじって(自分の弱さから目をそむけ)、安心したいから?
遅れた人々、を救済する、と称して始められる侵略。
金城さんの、「礫」インタビューは、幾らかわたしには、衝撃的だった。
これについて、記したいが、どういう形がいいのか。
いつものように、写し書きがいいか、抜粋するか、要約するか。
借りたDVDも4時間分ほど観た。