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大城盛俊さん 「沖縄戦を語る」
日本軍は、沖縄住民をだました。
「皆さん、私達が守りますから、大丈夫です。」常日頃、兵隊たちは言っていた。
沖縄守備隊は、兵隊の食糧を持っていなかった。
住民から徴発した芋粥だけが兵隊さんの食糧だった。
虫が食って、悪いにおいがした。
沖縄の人たちは、かわいそうに思い、豚や米など、出来る限り差し出した。
ある日飛行機が編隊を組んで飛来し、友軍と思った兵隊さんたちは「バンザイ!」と叫んだが、それは、アメリカ敵機だった。
食糧備蓄も、弾薬も、アメリカ軍の上陸前の空爆で、全部灰になった。
戦争にならなかった。
日本軍には何もない。アメリカ軍には何でもある。
ガマでの幼児虐殺
住民の隠れていたガマに、日本兵がやってきた。
子どもたちが泣いていた。母親があやすが、おなかの空いた子どもたちは泣き止まない。
日本兵が、注射器を持っていた。
「おかあさん、この注射を打つと、子どもを泣かないようにできる。注射をうってあげよう。」
嫌がる子どもに、注射を打つと、その子は、口から泡をふいて、苦しがった。
死んだ子どものお母さんが、
「おい、罪もない子どもに注射を打って、殺すつもりか!なんというやつらだ!殺すんなら、私たち全員を殺せ!!
そのかわり、日本軍も知る、アメリカ軍も見る。そしたら、どうなるかわかってるだろう!」
日本兵は恐れて立ち去った。
お母さんと別れる。
生みの母と、ガマで別れた。別れは深夜2時に及んだ。
おかあさんは、大城さんの養父母のガマから、再婚先の玉城村のガマに帰る途中、日本兵に捕まった。
「おい、おまえはスパイやな。」「スパイではありません。」「スパイでなかったら、なぜこんな夜更けにうろうろしている。スパイやな。」
怖がってお母さんはガマに逃げ込んだが、日本兵は、そのガマに手榴弾を投げ入れ、母は、殺された。
日本兵から暴行をうける。
子どものない大城夫妻に引き取られ、跡取り息子として大事に育てられた。
養父は、盛俊さんが軍に徴用されることを恐れて、女の子の格好をさせていた。
食べ物もない。黒砂糖をひとかけら、家族で舐めてしのいだ。
一家が避難したガマに、日本兵がきた。
「おい、そのリュックサックはなんだ。それを、出せ。
何とか言わないか。」
リュックを奪おうとする日本兵に、必死ですがりついた。
「これは、明日からの私たち家族の命です。とらないでください!」
「なんだ、生意気なヤツだ!」
首を引っつかまれて、引きずり出され、殴られ、気を失い、軍靴で蹴られ続けた。
父が堪らず、「おい、おれも日本兵だ。おまえ達、そんな小さい子どもを殴って平気か。」
と飛び出してきた。
「おれは、中国に行って来た。おまえ達が中国でどんなことをしてきたか、知っているぞ。」
「おまえが、日本兵なものか。」「これを見ろ!」
父は、古い軍服を日本兵達の前に投げ出した。
日本兵は、すごすご引き上げた。
そのとき以来、右目は見えません。
右肩は脱臼し、内臓にも傷を受けました。
アメリカが来る。
アメリカ兵が、大声でしゃべりながら、ガマに近づいてくる。
懐中電灯で照らし、「出てきなさい」
「小さな子どもなら、殺しはしないだろうから、様子を見てきなさい。」お父さんに言われて、ぶるぶる震えて怖かったが、怒られるから出て行った。
アメリカ兵は、「これは、チョコレート。甘くておいしいから、食べなさい。お父さんがいたら、このタバコをあげなさい。」
チョコレートとタバコを父に持ってかえると、「これは、毒が入ってる。すぐ捨てなさい。」父が、放り投げてしまった。
アメリカ兵が入ってきて、落ちていたチョコレートを拾い、食べた。
私は、ピカピカしたヘンなお菓子だなあ、と思いましたが、銀紙ごと口に入れた。
兵士が、驚いた事に、ウチナーで話しだした。
「私は、30年前に沖縄からハワイに移住した二世です。」
収容所生活
収容所から畑に芋ほりに行く。
その路上、黒人兵が住民女の子をさらって暴行をはたらいた。
戦後
軍人は軍人恩給をもらって、いい生活している。
わたしたちは、戦争で右目を失って、右手も充分動かなくなったのに、なにもない。
そんなバカなことがあるか。
厚生省に、援護法の適応を求めて、何度も陳述に行ったが、いまだに対策は採られない。
裁判をしようかという意見もあったけれど、弁護士費用や、なにや、たいへん。
沖縄に基地が集中した現状では、戦争が起こったとき、沖縄にはロケットが飛んでくる。
前の戦争でつらい目に遭った沖縄がまた、戦争の場になる。
基地はあってはいけない。
戦争は絶対してはいけない。