角!!角!!曲がり角!!?

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3.納豆伝説から生まれた糸引き納豆



義家は、通称「八幡太郎」と呼ばれた人です。八幡太郎と聞いてピンと来た方もいるでしょう(笑)。はて? と思われた方にざっくり説明するなら、八幡太郎義家は、馬糧大豆の中から「納豆菌で発酵した大豆=いわゆる糸引き納豆」を発見し、兵糧に採用したとされる偉大な人なのです。

義家が使った軍路を、食文化研究家の永山久夫氏は、その著書の中で「ナットウロード」と名付けています。ここでいう「ナットウロード」とは、義家が、奥州平定(前九年の役、後三年の役)の折りに北上したとされる東山道、奥州路の古道筋沿いの街を指し、具体的に言うと、丹波、近江、信濃、甲斐、武蔵、浦和、大田原、水戸、磐城、楢葉、相馬、白河、会津、米沢、仙台、岩出山、新庄、横手、平泉、秋田の各地になります。どの街も古くからの納豆産地で、様々な名物を作り上げてきた場所になっています。

それでは、話を戻して、八幡太郎義家が、どのようにして納豆を兵糧に採用したのかを、前記の永山氏の著書『たべもの戦国史』を参考に、順を追って説明します。

戦になくてはならない軍馬は、酷使されるために消耗が激しく、奈良時代以前から大豆や米などの栄養価の高い飼料を与えられてきました。馬糧の量は、騎馬で一日一頭あたり三升、駄馬でも二升という消費量になるため、兵士たちよりはるかに上等な食事を食べていた事になります。通常、馬糧に利用する大豆は、煮豆したものを日干し、ワラを編んだ豆俵にして運んでいました。しかし、緊急事態が起きた場合は、煮豆を日干しする時間がとれず、豆が煮上がった所で煮汁を捨て、煮豆を俵にそのまま詰める事もしばし行われていたのです。俵のワラに付着していた納豆菌は、その熱い熱によって覚醒し、煮豆が適度に冷えた頃を見計らうように猛烈に繁殖し始めます。多くの場合、馬糧の豆俵は積み重ねて運ぶため、中の熱はなかなか下がらず、煮豆は一日~二日で糸引き納豆へ変化します。

ある時、八幡太郎義家は、馬糧の豆俵を兵士たちが捨てているのを目撃します。兵士たちは、糸引き納豆に変化した煮豆を、腐っているものと思い、捨てていました。八幡太郎義家は、捨てられた糸引き納豆を拾い上げて口にした所、充分食べられる食料である事に気がつきました。この時より、八幡太郎義家は、糸引き納豆を兵糧に採用することにしたのです。

以上が、ざっくり語る納豆伝説。しかし、食べられるかどうかもわからない糸引き納豆を口にした八幡太郎義家の勇気には脱帽しますよね。はっきり言って、糸引き納豆は、見た目も臭いも強烈なので、食べられると知っているからこそ口にできる食べ物だと思うのですが‥‥‥(笑)



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