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フレディ・マーキュリー

フレディ


1946年9月5日、ファルーク・バルサラ(フレディの本名)は、当時イギリス領だったアフリカ・ザンジバル島に生まれた。
イギリス政府のために働く父の仕事の関係でその後インドに移り、ボンベイ近郊の寄宿制のハイスクールで育ったフレディは、国籍はイギリス人とはいえ、ペルシャ系インド人の両親のもと、さまざまな文化にさらされて成長し、このバックグラウンドが彼の人生観や音楽に深い影響をおよぼしたことは間違いないだろう。
5才のころ、叔母からピアノの手ほどきを受けたのが、彼のミュージシャンとしてのスタートと言われ、その後寄宿学校時代に初めてのバンド「ザ・ヘクティクス」に参加し、ピアノとヴォーカルを担当。グループは典型的な50年代のロックン・ロールを演奏しており、地元ではかなりの人気だったらしい。
幼い頃から、音楽だけでなく、学業や芸術にも才能を示し、フレディが18の頃に一家がイギリスに移ってからは60年代のロック・ムーヴメントに影響され、イーリング・アート・カレッジに進学、グラフィック・デザインを学びながら本格的にロックにのめりこんでいった。特にジミ・ヘンドリクスには、自らが移民であり、さらに白人でないという被差別意識、そして過去に例のないダイナミックでユニークな音楽性とファッション性をもっているという点で共感し、みずからのアイドルとしていた(当時、フレディがジミの「コスプレ」をしている写真が残されている)。
アート・カレッジ時代、それまでシャイでおとなしい少年だった「移民のファルーク」は「フレディ・マーキュリー」へと羽化したと言えよう。髪を伸ばし、ガール・フレンドのメアリー・オースティンの導くケンジントンの最先端ファッション(ユニセックスなイメージ)を身につけ、自らの才能と成功への確信の赴くまま、大衆にプライバシーを見せないショウ・マンへと変身していったのだ。
アート・カレッジでは、アイベックス、サワー・ミルク・シー、レケッジといったバンドで活動していたが、カレッジの学友であるティム・スタッフェルがヴォーカリストをしていたバンド「スマイル」を脱退し、フレディは、スマイルのメンバーだったブライアン・メイとロジャー・テイラーとともに活動を始めることとなった。それまで、ジミ・ヘンドリックスに傾倒し、ブルース・ロックを演奏していた若者達が、お互いの資質に刺激を受け、まったく新しいロックを創造することになったのだ。新しいバンドは、世界的成功への意志をこめて、力強さがあり、印象深く覚えやすく、世界の誰もが知っている言葉、そしてちょっぴりふざけた意味(俗語でオカマの意味)も添えて、フレディにより名付けられた。『クイーン』の歴史の始まりである。

クイーンにおいては、独特のステージング(ライザ・ミネリを尊敬するだけあり、やはり『ショウ』というべき「見せる」スタイルであり、マイクスタンドを短く切ったものを使ったアクションはトレード・マークにもなっている)、繊細かつパワフルで魅力的な声質のヴォーカル、キャッチーでいてユニークな音楽性(『キラー・クイーン』、『ボヘミアン・ラプソディ』、『伝説のチャンピオン』、『愛という名の欲望』など、お馴染みのヒット曲の数々を生み出しているのがフレディだ)で、ミュージシャンとしてのオリジナリティは誰にも真似のできないものだった。
また、クイーンのステージやグラフィック・アートなどの視覚的イメージのコントロールにも彼のセンスが発揮されており、「オペラ座の夜」のジャケットなどで有名な、メンバー4人の星座をモチーフにした「紋章」がフレディのデザインなのは有名である。
クイーン結成後、いわゆるロック・バンドとしてのクイーンの活動に留まらず、1985年にはそのポップ・センスをソロ・アルバム「Mr.バッド・ガイ」で、1988年にはアルバム「バルセロナ」でスペインのオペラ歌手モンセラ・カバリエとの競演に挑戦するなど、多彩な音楽的才能をあらわしている。

1991年11月24日、フレディはHIV感染症によりそのミステリアスな生涯を閉じたが、彼の残した作品は輝きを失わず、また、彼の存在は他の誰にもとってかわる事ができないままである。






フレディのセッション/プロデュース

★フレディ本人名義のソロは含みません(『タイム』など)

1973年

Larry Lurex
1972年、クイーンがトライデント・スタジオでファースト・アルバムを録音している間に、そのスタジオで働いていたエンジニアがフレディに声をかけ、録音したシングル。実はフレディ本人のものだが、クイーンとの混乱をさけるため、ラリー・ルーレックスというふざけた偽名で、ファースト・アルバムから1年遅れて発表された。『アイ・キャン・ヒア・ミュージック/ゴーイン・バック (I Can Hear Music / Goin' Back )』のいずれもカバー曲ではあるが、瑞々しいヴォーカルとポップな音造りはクイーンのメンバーとしてではないフレディの一面を見せている。ブライアンとロジャーが、ギターとパーカッションで参加している。

1976年

Eddie Howell
フレディとマイク・ストーン(クイーン初期6作のエンジニア)が共同プロデュースした、新進シンガー・ソング・ライターのシングル。この『マンハッタン・ドリーム(Man From Manhattan)』にはブライアンもリード・ギターで参加しており、多重録音を重ねたポップな音作りは『キラー・クイーン』に通じるものがある。

Ian Hunter
1976年のアルバム「流浪者(All American Alien Boy)」収録の『傷心のハイウェイ(You Nearly Did Me In)』に、 ブライアン、ロジャーと共にバック・コーラスで参加している。

Peter Straker
1978年リリース。長年の友人であるミュージカル俳優のピーター・ストレイカーのアルバム「This One's On Me」をフレディとロイ・トーマス・ベイカーが共同プロデュースしている。

1982年

Billy Squier
アルバム「エモーションズ・イン・モーション(Emotions In Motion)」の中のタイトル曲『エモーションズ・イン・モーション(Emotions In Motion)』に、ロジャーと共にバック・ヴォーカルで参加している。

1986年

Billy Squier
ビリー・スクワイアのアルバム「イナフ・イズ・イナフ」に2曲参加。スクワイア作曲の『ラヴ・イズ・ザ・ヒーロー』の12インチシングルには、聴くものにフレディ自身のソロ作品と思わせるかのようなイントロが付け加えられている。『レディ・ウィズ・ア・テナー・サックス』は、フレディとスクワイアの共作。サビの部分にはフレディもコーラスを入れている。

Jo Dareとのデュエット
ドイツ映画「ZABOU」のために録音された、マックとの共作『ホールド・オン(Hold On)』は、女性ヴォーカルと絡む、ソウルフルなデュエットである。アレサ・フランクリンの大ファンであるフレディの一面が伺える。

1988年

The Cross
ロジャー・テイラーのバンド、ザ・クロスの1988年発表のファーストアルバム「夢の大陸横断」(イギリス盤・日本盤)収録『安住の地(ヘヴン・フォー・エヴリワン)(Heaven For Everyone) 』。フレディは、この曲でリード・ヴォーカルをとっている。なお、アメリカ盤とシングル・カットではロジャーがヴォーカルのヴァージョンが収録されている。クイーンの「メイド・イン・ヘヴン」収録のものとは別のヴァージョン。

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