全10件 (10件中 1-10件目)
1
枚方宿は、東海道の延長で京から伏見、淀を経て東海道56番目の宿場である現在、毎月第二日曜日には、それにちなんで五六市が開催されている街道をゆく楽歩会のメンバー東海道枚方宿本陣跡枚方陣屋跡で説明を聞く参勤交代の際には徳川家に縁故の大名が大人数で休泊した紀州徳川家11代藩主徳川斉順の参勤交代では、武士1639人人足2337人、馬103頭だという部屋の割振りなど準備のために家臣が数か月前から来宿していた今の世にも似たようなことがある?行列の通過時には近在の多くの農民が見物に訪れた(以上ガイドさんの説明)近くに父の生家があり子供のころからよく往来しているが歴史への興味のなさから関心がなかった本日の説明程度のことは知っていても悪くないだろうと改めて思った
2023/01/21
コメント(4)
石清水八幡宮には国宝の建物以外にも見るべきものが多いエジソン碑もその一つだけれどその奥にひっそりとこの碑がある滅多に訪れる人はいないようだがボクは以前に、近所の尺八を吹く〇田のおじさんから教わった萬象尽蔵一管中ばんしょうじんぞういっかんちゅう案内板があるが汚れて読みづらい以下、「京都観光旅行のあれこれ」にあった尺八都山流の流祖・中尾都山の頌徳碑の説明(→☆)流祖都山は京都の石清水八幡宮への信仰が厚く枚方の都山邸に石清水八幡宮を分祀して流の記念行事をその神前で行いました。この伝統は現在も都山流会館で続いています。昭和37年(1962)、流祖七回忌記念事業として都山流ゆかりの石清水八幡宮境内に頌徳碑を建立しました。「萬象尽蔵一管中(ばんしょうじんぞういっかんちゅう)」万象をことごとく、一管の中におさめる。すなわち「人生の喜怒哀楽や森羅万象全てを余すところなく一管の尺八で表現する」都山流人が尺八吹奏の究極の目標とする言葉です。
2022/01/29
コメント(6)
交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)本殿二棟(交野天神社・八幡神社)は国の重要文化財である約4,000坪の境内は鬱蒼たる樹林があり古色蒼然、神さびた雰囲気に満ちている現在に残る貴重な鎮守の森である先日の樟葉から石清水八幡宮へのウォークの途中、ここを通りかかった記憶にあるだけで5~6回は訪ねているところがそのいわれが全く頭に入らない読み方も「かたのあまつかみのやしろ」が正しいと言うが、「かたのてんじんしゃ」だと思い込んでいたのだから・・・これは歴史に詳しい同行のT氏に教わったそんな訳でいまさらという思いもあって写真は入り口の案内板しか撮らなかったそれがまたよりによってピンボケと来ているから始末が悪い記事に写真のない言い訳である(笑)今度の楽歩会では少し説明がきるようにと目下、にわか勉強に励んでいる本殿の概略はインターネットで調べると以下の通り本殿は、一間社流造、檜皮葺で鎌倉時代の嘉禎4年(1238)と室町時代の応永9年(1402)に修理され、嘉吉2年(1442)鎧葺(よろいぶき)を檜皮葺に改めた。全体の外観は雄大な手法で鎌倉時代の様式を残し、蟇股等の彫刻は繊細で美しいものが多く室町時代初期の特色を備えている。次に訪ねる時にはその蟇股(かえるまた)なるものもしっかり見学しなくては!当地はまた継体天皇樟葉宮跡伝承地でもある『日本書紀』は、越前三国にいた男大迹王(おおどのおう)が樟葉で西暦507年即位して第26代継体天皇となり、5年にわたり宮を営んだと記している。 樟葉宮跡の位置は不明だが、交野天神社の社に囲まれた末社貴船神社の鎮座する小丘付近が仮の推定地とされ、小丘の麓に「 此附近継體天皇樟葉宮址 」の石碑や史跡「継體天皇樟葉宮跡伝承地」の石碑が建っている。苦手ということはどうしようもないこういうことを頭に叩き込むのは至難の業前述のT氏に同行をお願いした方が良さそう最初からあきらめ気味の心境である(笑)
2022/01/16
コメント(5)
あれから26年経ちました直後の神戸の惨状がいまでも目に浮かびます仕事とプライベートの両方の用事で震災直後の神戸を何度も訪れました学生時代、JR六甲道駅近くで下宿をしていました木造二階建てのその家は、二階への階段を残して見事に全壊していました表の道路に面した万代塀の上に、ボクが作った下見板張りの塀が無傷で残っていましたお世話になったおじさん夫婦は無事でしたが同居していた娘さんがひとり亡くなりましたボクがお世話になっていた当時、中学生だった一緒にテレビでローハイドなどを観ていましたおじさん夫婦は、徳島に嫁いでいたもう一人の娘さんに引き取られて、その地で生涯を終えられましたボクも何度か徳島にお二人を訪ねて昔話に花を咲かせたものです少しはお二人の慰みになったでしょうか6千人を越える方が無くなり多くの人の運命を変えてしまいました大きな出来事でしたね。
2021/01/17
コメント(5)
野菜で作った神輿があると聞いて京田辺市の棚倉孫神社を訪ねた棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)社殿右は推定樹齢が150年以上のサザンカ左側は同じく270年以上の栂(ツガ)境内にはほかにも古木が多いいわゆる鎮守の森、貴重な存在である境内の配置神社説明瑞饋神輿(ずいきみこし)の説明絵馬殿の手前の建物に、大人用と子供用の神輿各一台が展示してあった大人用子供用市観光協会のサイトによると高さ3m、1.5m四方の檜づくりの神輿は屋根に赤ずいき、鳥居に青ずいき壁に大豆、三度豆、玄米、小豆頂上の鳳凰には南瓜や千日紅の花他にも赤・青とうがらし、赤なす、鷹の爪、菊の花など全部で30種類ほどの野菜や穀物、乾物が飾り付けられ神に五穀豊穣を祈願する。とある鳳凰の部分屋根のズイキ(里芋の茎)黒っぽいのは小豆らしい、白いのは大豆かなトウガラシ、とうもろこしなど見ただけではわからないものもある鳥居に張り付けてあるのは平たい押麦とにかく手間がかかっていることは間違いない棚倉の説明→前記、観光協会のサイト「棚倉」とは穀物を収蔵するに当たり湿気をさけるための床を設けた倉庫をいい養蚕にも用いられた。筒城(綴喜)は古来から渡来人による養蚕の盛んな地域でありその蚕は貴重で「天の虫」ともいわれ蚕が棲む倉を崇め神格化して祀ったのが神社としての興りではないかとも考察されている。この神社、以前に一度来たことがあるしかし残念なことにこの神輿を見た記憶がない(笑)
2020/12/02
コメント(7)
先日の京田辺市ハイキングで通りかかった飯岡車塚古墳道路を挟んで反対側に穴山梅雪の墓がある前方後円墳ですが「前方」の部分に茶畑「後円」部分は右後方の茂みどうでもいいんだけど古墳に茶畑どうなってるのかな?
2020/10/31
コメント(7)
拓本のことは知っているが拓本をとったことはないしとるところを見たこともない今日たまたまその現場を見学する機会があった石の表面が風化して字が読みにくいまずはブラシで表面を掃除する画仙紙を石の表面に仮止めして上から水で碑の表面に貼り付ける中央付近から両端へ、空気を逃がしながら刷毛を使って貼り付けるその後、乾いたタオルを使って同じ作業をする貼り付け完了紙の乾き具合を見ながら、墨を付けたタンポで抑えるもっとはっきり字が浮かび上がるかと思ったが表面がかなり荒れているので肉眼で見るのとそれほど変わらない碑がかなり大きかったので、紙を継ぎ足して二回に分けて取ったので、二時間ほどかかったなるほどと納得である貴重な体験であった参考までに、「拓本のとり方」
2020/03/12
コメント(7)
法隆寺の西門を出て、法隆寺の土塀沿いに坂道を200mあまり北に登ると『顕彰碑 ウォーナー塔』がある(下図)このように道路から少し入り込んでいる左がウォーナー塔、右が鐸嶺塔法隆寺の故佐伯定胤管長が建立したものらしいまずはウォーナー塔よくわからないのでウィキペディアの助けを借りる太平洋戦争時、日本の多くの都市・地域に空爆があったが京都は爆撃されなかった。この事実の理由としてウォーナーが、空爆すべきでない地名のリスト(ウォーナーリスト)を作成して米政府に進言したからという説がある。(中略)京都を救ったのはウォーナーであるという話に基づいて1958年6月、法隆寺西円堂の近くに、供養塔、顕彰碑 ウォーナー塔(Warner Monument)が建立された。(ウィキペディア)しかし「一方、この説を否定する説が後年唱えられた」と、同じウィキペディアには説明がある(下記)東京大学名誉教授の平川祐弘は、ウォーナーの他にも日本の文化財保護の立役者と言われている人物が複数いるがどれも根拠薄弱であると述べ、「外国人に感謝するのもいいがするなら根拠のある感謝をしてもらいたい。」「ウォーナー伝説は日本では美談扱いだが米国では日本人の感傷的な歪(ゆが)んだ外国認識の実例として研究対象にされた。」と痛烈に批判している。塔の前にこのような説明文碑があってこの辺りの事情を説明しているのかもしれないしかし肝心の文字が読めないので役に立たないボクにとってはどちらが真実であっても直接関係はないので、この議論からは退散ついでに、右の鐸嶺塔(平子鐸嶺(ひらこたくれい)の塔)法隆寺西院伽藍の金堂・塔・中門・回廊の建築年代をめぐっての論争があったつまり、火災にあって再建された(再建論)という説とそうではなく、再建されたものではない(非再建論)という論争の中で、平子鐸嶺は「非再建論」を唱えた人であるおおよそ以上のような事情がわかったこの論争は100年にわたって続いたという60年も前になる学生時代日本建築史で説明を聞いた記憶が蘇ったいま思うと、教授の説明に相当熱が入っていたその後、戦後の建物解体修理等に伴う発掘調査の結果現在では「再建説」に決着しているという気まぐれな法隆寺訪問で ウォーナー塔を訪ねたばかりに思いがけなくも、太平洋戦争終戦前後の米国人評価の事情法隆寺西院伽藍の建築論争のことまで知ることになった以前ならたくさんの資料をあさる必要があったが今はインターネットのおかげで、簡単に資料の入手が可能インスタント学問には実に便利な時代である
2020/02/29
コメント(4)
昨日のウォークで特に印象に残ったのが「東海道本線 円明寺架道橋」の「ねじりまんぽ」正式には「斜拱渠(しゃきょうきょ)」というトンネル入り口東海道本線・円明寺架道橋開業:1877年(明治10年)2月5日場所:京都府乙訓郡大山崎町円明寺佃東海道本線 長岡京駅~山崎駅間トンネル内現地にあったこの説明だけでは理解できずWEBサイトでいろいろな説明を読んでみた明治時代の土木遺産「ねじりまんぽ」田圃や水路・通路があった所に鉄道を横断させると水路や道路が分断されるそこで、マンポ(トンネル)を造ってこれまで通りに通路を確保する鉄道と道路が直角に交差するところではトンネルの煉瓦は普通に水平に積んでアーチを造っていくが線路とトンネル(まんぽ)がある角度以上に斜めに交差する場合トンネルと平行にではなく、鉄道の線路と直角に煉瓦を積むこの結果、トンネル内のアーチ部の煉瓦がねじったように見える言い換えると、「ねじりまんぽ」とはレンガの組み方で通常の積み方でなく、ねじらせた形で組み上げていくこうすることによって通常のレンガ組みに比べて大きな負荷に耐えられるというこれでなんとか納得ですねじりマンポは日本に約30件ほど実在するそうですねじりマンポ写真集(→☆)
2019/10/12
コメント(4)
明治村を見学した時印象に残った建物のひとつ明治時代のお風呂屋さんです半田東湯は知多半島の港町に造られた風呂屋である。1階奥の浴室に置かれた浴槽は男湯と女湯がつながっており、目隠しだけで仕切られている。銭湯は江戸時代以来、地域の社交場として欠かせない存在であって、湯上りの常連客などは、2階に上がって雑談に時を過ごした。湯水を多く使う商売がら、建物の傷みや改造が多かったが表構え、番台などに江戸の湯屋のおもかげをとどめている。(現地の説明資料)浴槽の様子、男女の浴槽は一つでつながっている明治時代の銭湯の決まり事(抜粋)・風の強いときは閉店します・顔を覆っての出入りは出来ません・大きな声でケンカをしたり歌ったりしてはいけません・温度は一定に出来ないので注意して入って下さい明治時代の銭湯で働く人々番頭(ばんだう):銭湯のかなめとして銭湯で働く人々三助:小判型の三助専用の桶を使ってお客さんの背中を流す仲:釜焚きをして湯の温度を調整する下足番:履き間違いの多い履物のお世話をする定 則1.御政令は勿論、火之元厳重ニ看守可致候事1.大風之節ハ早仕舞之事1.男女入込之儀厳禁ニ就キ、其区別ヲ部分シ妄ケ間敷儀無之様可致候事1.面部ヲ包ミ出入御無用ノ事1.極老衰者及ビ御病後或は見苦シキ御病体之御方、又ハ大酔者ノ御入浴断り申候事1.喧嘩口論及ビ高声ヲ発シ放歌等断ジテ御慎ミ神妙ニ御入浴被下度候事1.御客様衣類其外大切ニ看守可致事1.金銭其他大切ノ品御所持ニテ御入浴御無用若シ紛失仕候共、更二関係不仕、此御ご断リ申上置候間、御承了之上御入浴被下度候事1.御衣類其外大切ニ見張候共、其責ニ任ジ不申、此条御了諾之上御入浴相成度、前々以テ御断り申上候事1.小桶汲置キ之儀御断り申上候事1.込合之節、若シ汲置シ為御差支之節ハ遣ヒ可被成事1.温度之儀ハ都度々々注意可致候事明治四十三(1910)年栃木県足利の定則ずいぶん細かい決まり事だなあと感心これも企業防衛の一つ、当時もいろいろとイチャモンをつける人がいたのだろうか(笑)
2019/06/28
コメント(3)
全10件 (10件中 1-10件目)
1