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こころ、この何ともならないものこころを、この猿たちを何とかしようとするにはこころを観るしかないと思える。これは一種のフィードバック回路を、心の中に形成することに尽きる当たり前なのだけど、この根源は自分の心を観ることこころは単なる雑音、幻影に過ぎないからこれをただひたすら観る、こころを理解すること、否定も肯定もせずただ理解し、知ることこれがフィードバック回路を、こころに作り上げる事になると言える。当たり前の事だけど、怖がらず、厭にならず(怖いと思うのも、厭と思うのも実は自分の幻影だから、存在はしないよ ただひたすら観る、そして知る事)
2013.12.28
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サルのほえ声の様にこころが現れるとある原因はこころを作り出す脳の活動は、ランダムなノイズから現れていると見ています。これは、どうしようもないし、またランダムなノイズが生み出す幻影に過ぎないのがこのこころであると知るなら、いかにそれに固執することが意味がなくなることになります。しかしこれがからだの何かの緊張を伴ってくるとき、それはより強化されあたかも現実化するように思えるから、しまつに悪い自分でも困ったものです
2013.12.27
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目を閉じて、静かなところで、まず呼吸を観てください。1分もたたずに、かならず何か思考が浮かび上がる自分の意思で止めようとしても、無理です。自分の意思で押さえようとしても、無理です。でもそのとき自分の身体を観てください。
2013.12.16
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こころとは、猿の叫び声のように、留まる所無く、浮かび上がるものであるとある。じつは、心を作る物は、まず何かの身体の動きで有り(意識できても意識できなくても)それに引っ張られて、心が生まれるとなれば、自分の心をなんとかしようでは無く、その前にある身体の何かに対して対処することが、最終的にこのこころを何とかする方法では無いかと思われる
2013.12.16
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手を動かすとき手を動かそうと意識して、動いたとなると言う事はだれでも認識できると思うこの動かそうと意図したとき、その準備が意図する前に始まっているらしいこの準備は本人は知ることができない準備ができたとき、動かそうと言う心が生まれるらしい(そのような研究があるようだ)もう一つの重要な点として手に指令が行って実際に動くのと、動いたと感じるのは常識とは異なり動いたと先に感じて(手が先に動いて)それに遅れて動いたという指令がやってくるらしいこれが正しいとなると、脳を観察できれば、本人より先にその行動を予言できる様になると言うことになる。我々の行動には、実は自由意思は存在しないのでは無いかと言うことらしいどうも、身体が先で心はそれに引っ張られているだけでは無いかということになる。
2013.12.16
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何かの考えが起こるとき、それと同時に何かのからだの動きが起こっている怒る時、からだがどのような反応をするかは、よく分かるだろうと思う。その動きが起こらなければ、怒ることはできなくなるだろうと思う。
2013.12.14
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からだが作り出す幻影手を動かすとする自分が手を動かしたように見えるしかし、どうも、手が動き、それから動くというこころが出てきているこんなことを言うと、何を馬鹿なことをといっているみたいだがじつはこうではないだろうか?もしこうであるなら、自由意志というものは、無くなるというか無我という言葉がある、実はこのことを言っているのではないだろうか?動きが先にあり、それが作り出す幻影がこころになるなら、当然われはもとから存在しないからだが先であるという点は、現在の脳の観測からそのような例が観測されている
2013.12.12
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