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大乗は誰か一人が言い出したことでは無いだろうと以前書きました。大乗経典自体は、原始経典がかかれ始めた時期とそうとおくない時期にできはじめたようです。大乗経典は、お釈迦様が直接言われたものでは無いでしょう(大乗非仏説)しかし、なぜこんななものができているのでしょうか?なぜサンスクリット(誰でも読めない)で書かれたのか?自分ではこれは、元々は虎の巻じゃなかったのか、と思えるふしがあるのです。つまりアンチョコみたいなもの、これがお釈迦様が本当に言いたかったことを書き出した論書なのでは無いかと思えるのです。じつは、自分は上座部の瞑想をどうも大乗のニュアンスで、解釈しているのでは無いかと思えるのです。ずっと訳がわからず大乗仏教に浸かってきたから、当然とはいえるのですが、積み上げていくんじゃ無くて、答えを頂上から一気に俯瞰して観てみるみたいなところです。インドを旅行した中国僧(玄奘、法顕等)の記録では、大乗と小乗を同じように学んでいる姿が報告されているます。このことから、これが大乗の有るべき姿で、小乗の(あえて上座部と書かずに書いています。)修行方法が必要で無いかと思えるのです。両方兼学することで、結果が出やすくなるのでは無いかと思えるのです。
2014.06.29
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皮膚の接触点は大脳表面にあるということは、前述べました。ここと、自我が居るところの帯状回とに、強力な回路を形成すればよいと述べました。この皮膚感覚は、常に今の情報しか保持できないのです。瞑想において今に居ろとシツコク行っている理由はこれです。だから、動作感覚、皮膚感覚を知覚する作業は、すべて瞑想になりえます。だから、アナパナも、歩く瞑想も、チャルーンサティなどの、動作瞑想もすべて狙いは同じであることが同時に理解できます。ともかく今にいろ!!!今を知覚し続けろ!!!になります。だから、どこかに飛んで言ってもよいのです。そこから戻ることで、この回路がさらに強化されるそれこそ、実は瞑想の狙いではなかったかと思えるのです。瞑想中どこかにさ迷ってもマイナスではなく、そこから戻ることがプラス1点になると思っています。われわれの思いは、前も述べたように、必ず消えていくものつまり無常なのです。実は我というものは、どうも確たる実体はないこともここから読み取れます。つまり無我そしてそれこそが、苦を作り出しているもの、それも実はわたしだけが感じる確たる実態のないものつまり3法印たる無常、苦、無我は同じものであることも、理解できると思います。であれば、これからはなれたとき、静かな心が自動的に出現することになることになります。これが涅槃寂静まさかとは思うのですが、これを見つけたお釈迦様は、化け物です。そらおそろしい頭脳でありそれを体験から割り出した様に、わたしには見えるのですがわれわれが認知している世界は、自分が認識するから存在しているのだということに、気がつくとは今にさえ常に気づいていればよいのです。
2014.06.28
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2012年11月9日 この日に気がついてこう書いている。そして不安から離れ始めるきっかけとなった不安は起こる、でも消そうとしてはいけない、それでは余計捕らわれていく。では?不安はほっておけ、現実の流れに身も心も任せ、その不安を見つめてみる、そうすれば気にならなくなる同時にこうも書いている怒りは起こる、でも怒ってはいけない、また怒りを抑えてもいけない、それは怒りに捕らわれていく。では?怒りが出たらまた出たかとその怒りを見つめてみる、やれやれまたかと思えることに気がつく、時は流れ移り変わる怒りとてそこに留まり続ける事はできないそして最後にこのように記載した過去を考えると後悔が起こり、未来を考えるから不安になる。それは人を不幸にしていく。では?過去も未来も考えない、どうせ皆この世から去って行く、だから?今のその瞬間だけを思う今何をすべきかはわかる。のどが渇けば水を飲む その瞬間を連続的につづけて生きていく、一期一会そういう事と気づく
2014.06.27
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全く自分が変わってしまった実感があるから、書いているのだと思う。それが何か調べていくと、あっちこっちの経典に書いてる事が何となく理解できる様になっている。これはこういう理由か、これはこうだったんだとか、たぶんそういう理由かなどなど気持ちが悪いほど符合する部分があるから、書いているのだと思う恐ろしく楽になっている自分が居る、外見的には何も変わっていないのに今は無き父が探し求めていたものだろうと思える。残された膨大な資料と、曲がりなりにでも続けてきたものがその根底にあることがよくわかる。これが正しいのか、そうで無いのか最後の疑問 正しければ、だれでも同じようにできるはずだからこれは入り口だと思う。この先にはまだまだ広がっているはずだから
2014.06.26
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私=自我が存在するところは、どうも帯状回と呼ばれる、脳の中央領域つまり深部でも表部でもない中央部の領域らしい。この部分がどうも人間の全体のコントロールを行っている領域と考えられている。このことで、多くのことが理解できる。脳の深部には何があるかと言えば、脳幹、海馬、扁桃体などがあるが、一言で言えば身体の最重要機能を制御する部分がここにある。また扁桃体などは、感情を強調させている部分、海馬などは長期的な記憶など前から述べている、困ったチャンはここから来ていると観ている。お猿さんが出てくるところ自律神経もこの領域困ったチャンを押さえつけてはいけない、攻撃してはいけないと言う理由は、ここにあると考えています。困ったチャンだけど、大切な本当に慈しみ、大切にしてやらなければならない所です。さて、問題となっている事は、この部分にとらわれる、掴んでいるという態度にあるのです。それはどういうことかというと、この部分と自我たる帯状回部分に、おそらく強力な回路が形成されているのだとにらんでいます。生命に関わる部分なので、当然そうなります。しかしそのことが苦しみを生み出す事にもなると思えるのです。では瞑想は何をしているのかと言う事になります。アーナーパーナ-では、息を観ている。正確には、息が通過する皮膚の接触点を確認しているのです。また歩く瞑想では、足の裏の接触点を認識しているのです。ではこの事が、何を表しているのでしょうか?実は皮膚感覚の接触点は、大脳の表面に感覚野が存在しているのです。つまり感覚を確認(感じる、気づく)していると、この部分と帯状回部分に強い回路が形成されるはずです。従来の回路と別回路が形成されることになります。もちろん従来の回路は生命にとって重要なので無くなることはありませんが、その影響が小さくなるはずです。つまり、その思いから離れることが出来やすくなるという事になります。この二つの回路の比較をするようになってくると、じつはこの思いの回路がどうなっているのかが比較してわかるようになります。気づいているとき、それを破って浮き上がる思いになるはずです。その場合、いつもの状況と比較してこの思いを鮮明にとらえることが出来ます。とらえることが出来るとチャンスです。これをわたしはかたまりにみえてきますので、あとはそれを観ることによって、その正体を理解する手始めになります。観れば、間違い無く消えていくものですから.................じゃあその思いとは何なのよと?それは誰が作り出してるのよと?遠からず、静かな自分を発見できるでしょう。そして時間とともに、気づきを続けていけば、その時間はだんだんと広がっていくはずです。ただ気づいて、今(足の裏の感覚、いま息を吸っている吐いているという今の感覚)に居さえすればただそれだけで良いのだと思います。書いてみれば簡単なことですが、案外と難しいと思いますが、おそらくこういう構造になっているのだろうと思えるのです。
2014.06.24
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なぜこんな事が浮かんだかと言うと自我つまり、私、我というものが問題なのだから、それを働かないように持って行くことがその状態を維持することが、この問題の最終解決に理解につながるのでは無いかと思えるのです。捨てると言う事も、おなじ、否定でもなく肯定でもなく、それは実は有るでも無く、無でもなく無が存在するには有が必要で有りそれはお互いに依存しているから(これ縁起 お互いに依存している)だからその依存関係を無くしてしまうと両方とも存在できない事たしかサリープッタ尊者がこのように言っています。
2014.06.17
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五蓋を観るときに、否定も肯定もせずに観る と言う意味は実はよくよく観れば、サンユッタニカーヤ(相応部44,10 アッタッタ の記述)にアートマンの問いに対して、お釈迦様は存在するとも存在しないとも答えず、ただ黙して答えなかったと記述してあります。この態度は、じつは否定肯定という両極端を取らない、中道の態度にお釈迦様の真意があるのでは無いかと言う事なのだと思います。実は、白黒をはっきりさせると言う認識こそが、苦の根源であるのでは無いかと言うことなのです。
2014.06.15
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大乗が分離し始めた理由は、自分では瞑想での解釈の問題が契機なのだろうと思うようになりました。大乗経典の初期には般若経これは、般若心経でそのエッセンスは述べられています。問題は空を規定、おそらく初期は無いのだけど、有るような存在とでも言うかじつは有はわかるのですが、実は無と言う物は、有があるからそれに寄りかかる様に存在しているこれは、縁起の概念になるのですがこれは原始仏教における小空経に簡単に述べられています。これは前にも書いています。さて、大乗が分離した契機は、どうも律の解釈が変わってきたようで、アショカ王の時期に教団の中の考え方において、ちょっと変わった考えを持っていたとしても、教団の行事を共同して行っている限りは、破僧にはならないという解釈にサンガの許容度が上がってきたらしいのです。この事は、第3祖の阿難尊者が無くなるときの話に、近頃ことなった考えを持つ者が出ていて困るみたいなことが、書いてありました。大乗はもともと、律を持たずに小乗の律を使っていることから、小乗(上座部の有部)と共存していたのが、もともとあった姿だろうと思えます。インドに求法の旅にでた、記録にも大乗と小乗を両方学ぶ姿が記載されています。大乗を考え出した人は、一人では無くおそらく瞑想が深く進んでいったときに、そのものを見つけ出したのでは無いかと思えるのです。しかし無くなっているものをそれが有ると言うことになると、変な話で、実は有部が有部と呼ばれた理由もそこになにか有ると主張して、いたことにあります。しかし、有るような、また無いような、矛盾する考え方なのですが、これを考えていたときこの概念は、量子力学の概念に非常に似ていることに驚かされます。観察の問題というか、信じるとでもいうか、矛盾を矛盾として包括してしまうとでも言うか非常に変な考え方なのですが
2014.06.14
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いままで書いてきましたように平川説にあるように、在家集団の関わりを強調させているのですがこれは何か?在家者対する敬礼を説く理由は、前に述べた事から、自動的に明白になります。
2014.06.12
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大乗経典が作り出されたのは、紀元前~紀元後の時期に作り出されたようです。これも、じつは原始経典と呼ばれる、経典とほぼ同時期に作りされたようです。つまり、そこまでは口伝で伝えられた訳ですが
2014.06.10
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大乗仏教の起源については平川彰氏のあまりにも有名な、仏塔起源説というものがあります。サンガとは別の在家集団がその発生根源では無いかと言うことです。大乗というものは、空と言う概念を規定したことだと思います。現在の上座部には、実はこの概念はありません。ただ、現在の上座部は、分別説部からの分派なので、古代における上座部の最大は一切有部と呼ばれた集団でしたから、これがどう考えていたかによると思います。名前からわかるように、有部、根源が有るという考え方で有り、これは無我という根本概念に反する立場で有り、これが相当な論争になったはずです。有部が言った有るという考え方は、よくわかるのですが瞑想の最終段階において、全てが滅尽した時、それを認識するものは何かという問題があるのです。全てが消えてしまったときに、それを観ている、認識してみるものは何かと言う事です。そこから、智慧は出てくるものそこが慈悲が出てくるものそしてそれは、良きものの根源そのようにとらえたとき、それが何者で有るかは自ずから出てくるはずでありそれを観ている自分は、じつははじめから生まれたときからそうだったわけでありそしてそれは他の人も同じであることに、気がつきます。そして、ただそれに気がついていないだけだと言う結論に到達したのだと思います。大乗は、このような瞑想の観から、自ずと現れてきたものと思えるのです。
2014.06.06
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この言葉は、馬祖道一の言葉ですがこれを瞑想的に観ると、浮き雲は自分の心の中に起こる様々な思い(思考)になると考えます。これを捕まえると、苦しくなる元になるので、それを常に静かに悠然と眺めていなさいと言うように読めます。本当にいろいろなものが出てもよいのだと思います。それを否定も肯定もせずにただ静かに眺めていれば、わき上がる雲は、また消えていくものだからです。言われれば当たり前の言葉なのですが、難しいものです。消え去っていくものは、本当の自分では無く、この体が作り出したものだからその作り出されたものを、自分の真の姿と誤認していたのではと でもそれに近づけるようになりたいと、思います。できる事ですから ただ観ればよいのですから常に
2014.06.05
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悟りとは、天台小止観を見たとき、想が無いのが悟りであると言っているので想の前で止めてみるという作業をするのは、理解としてはいいのですが、実際にはできないというか無理だと自分は考えています。でも、できるだけ想以降を起こさないように、行動することは、苦を作らないようにするために大切ではないかと言うことになります。なにか矛盾するような事を言っているのですがでも想を起こす時間を少なくすることは可能のはずです。それは、悟りに通じる、苦をへらしていく方法では無いかと思えるのです。想を起こすには、眼、耳、鼻、舌、身、意、の6つから来ている見ている、聞いている、嗅いでいる、味わっている、触っている、考えている人は常にこれのどれかをしているといえます。しかし、見ると言う作業を見てみると、一瞬で想まで言ってしまうことがわかります。女性を見ると、美人だなと認識したときに、一気に行ってしまいます。実はよく見ると、この中で一気に行きにくいのは、実は身(触覚)では無いかと思うのです。
2014.06.03
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五蘊は次の5種1.色蘊(しきうん、rūpa) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。2.受蘊(じゅうん、vedanā) - 感受作用3.想蘊(そううん、saṃjñā) - 表象作用4.行蘊(ぎょううん、saṃskāra) - 意志作用5.識蘊(しきうん、vijñāna) - 認識作用この構造が苦の元になっているこれを五蘊盛苦と言う「五蘊盛苦」の元のパーリ語は、「パンチャ・ウパーダーナ・カンダ・ドゥッカ」(pañcupādānakkhandhā dukkha)という言葉である。 「パンチャ」は「五つ」、「ウパーダーナ」は「執着する、固執する」、「カンダ」は「要素(蘊)」、「ドゥッカ」は「苦」という意味なので、 「五つの要素に執着する苦しみ」というのが原文の意味である。もともとの釈尊のパーリ仏典で言っているのは、五つの要素(五蘊)、つまり色・受・想・行・識(身体・感覚・概念・心で決めたこと・記憶)のそれぞれに執着することが苦しみと説いているのであり、この五つの要素そのものが苦だと説いているわけではない。日本仏教においては五蘊盛苦を漢訳の訳語から解説する場合が多いが、漢訳の「五蘊盛苦」では「ウパーダーナ」、つまり「執着する」という意味が入っておらず、原文のニュアンスが伝わりにくい訳となっている。この執着という事なんですが、掴んでいるというか、これらを掴まなければ良い事になります。このことは実は、大切な事を教えているようにみえます。
2014.06.02
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本文 1.私は、このように聞いた。ある時期、ブッダはクルー国のカンマーサッダンマと呼ばれるクルー人の町に滞在しておられた。ある日、ブッダは「比丘(bhikkhu)たちよ」と声をかけられた。「はい、尊者よ」と比丘たちが返事をすると、ブッダは次のように「法」を説きはじめられた。2.比丘たちよ、ここに一つの道がある。その道とは、人々を清め、悲しみと悲泣を乗り越え、肉体と精神の痛みを滅し、聖なる道を得、涅槃を観るための唯一の道である。それは「四つの念住」である。 3.この四つとは何か ? 比丘たちよ、比丘は、 努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「身」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むことである。努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「受(感覚)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)受であると絶え間なく知覚して住むことである。努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「心」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)心であると絶え間なく知覚して住むことである。努力して、正しく知り、気づきをもって、そして世間の貪欲と憂いから離れて、「法(ダンマ)」をただ(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)法であると絶え間なく知覚して住むことである。これを瞑想の観点から観てみるとこの気づきとは、SATIの事であるとおもう。ずっと気づきを続けなさいと具体的には、この事しか言っていない様に見えるのです。
2014.06.01
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常に観るという作業を続けているしかし、いかに色々な思考が出てくる事がよくわかるただ、それを静かに否定もせず肯定もせず ただ観ている昔ならネガティブな思考が出ても、それを観る事によって、よくよく観れば、消え去って行くことが100%観る事ができる。昔なぜ一息留まって、この思っていることに対処できなかったのだろうか?と不思議に思う。常に気づく、歩くときなど特に触覚が生じるときに、それに気づき続けている。コップに手を伸ばすと気づき、掴むと気づき、ただ感じると言う事を、思い立ったら気づいている歩くときも足の裏に気づいている。大般涅槃経(大パリニッパーナ経)の 一節から商業都市 ヴェーサーリーの章からお釈迦様の言葉から修行僧たちよ。ここで修行僧は、出て行くときにも、戻るときにもよく気をつけて、前を見るときも後を見るときもよく気をつけていて(中略)このように念じて、よく気をつけておれ。おまえ達に説く私たちの教えである(延々と気づけ、気づけと説いています。)そしてお釈迦様の最後の言葉です。漢訳経典にはもろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ること無く修行を完成なさいと書いてあるのですが(漢訳)パーリー語では少し意味が異なっています。ぼんやりと、放心することなしに気をつけて一切の為すべき事を実現せよとありここでもこの気をつけてです。パーリー語ではsati になっています。これが重大な意味を持っていたかと思うのです。これが入り口であり、ある意味全てでは無いかとも思えるのです。
2014.06.01
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