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コーサラ王が供儀(なにかの儀式)の為、多数の(500)牛や羊や動物を捧げ物としてつながれている状況が書かれてあります。それだけでは無く、奴隷や下男や召使いなどが涙を流しているという記述があります。なんで涙をながしているのだろうか?と読んでいくとこのことは動物だけでなく、人間までも人身御供として殺されていると言う状況であると言うことです。献馬祭(馬を殺して神に捧げる祭り)棒投げ祭(棒を投げる祭り)献人祭(人を殺して神に捧げる祭り)ソーマ祭(ソーマという酒を飲む祭り)無遮会(全てを施す祭り)などなどこのことに対してお釈迦様は、全く意味の無いことだと書いてあります。無駄な殺生、それも人までもわかっていたとはいえ、人の命など全く紙のごとく軽く考えていた世界なのですから子が親を殺し、親が子をころしなんてのは日常茶飯事の世界がそこにあるのです。もう倫理も道徳も無い世界に生きておられたのです。これに対して、完全と反論を唱えたお釈迦様を見るとき、そのすごさを感じるのです。また私たちは、これが当たり前だという様に思いますので、そう言うように世界がだんだんと変わってきていると言う事を感じるのです。前も書きましたが、歯磨きを発明したのはお釈迦様ですので、そのことからも、なんと合理的な近代人の考え方を持った人だったんだろうと、思えるのです。というか倫理とか道徳というものを作り出したのは、お釈迦様なのです。そして長年にわたってそれをすこしづつ、その思いが広がって言っていると言う事に驚くのです。それを2500年前に言い出したことに驚くのです。相応部経典3 9 供儀より
2014.11.27
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マインドフルネス(気づき)とは、反応(react)しないことです。反応はマインドフルネスではありません。反応は自由ではないのです。反応とは、一つの牢獄です。ウジョーティカまったくこの言葉は正しいというか、いつも再認識させられます。その通りです。反応とは掴まえていることですからよく武道などで言う、不動心とはまさにこれを指しています。ポイントは気づきと反応は両立しないと言う点にあると思っています。
2014.11.27
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思考についてさえ、一つのことを考えた時、それが全身に影響するのを、あなたは観察することができる。心と身体は関わり合っていて、それらを分けることは決してできません。全ての思考が全ての細胞に影響を与えており、あなたはそれを感じ取ることができる。これは単なる頭で考えた理論ではありません。それはたいへん興味をそそる、とても深遠で意義深いこと。観察と理解がこの深さまで達した時には、良い本を探すことが、とても難しくなるでしょう。書かれている本の多くは、単なる思考の産物であることに、あなたは気づくことになる。もしあなたが、全ての思考が身体に影響することを感じ取れるまでの鋭敏さに至ったならば、思考に全くうんざりしてしまうことでしょう。あなたは思考が浮かぶままには任せなくなる。あなたはよりマインドフルになり、ネガティブな思考はどんどん減っていくことになるのですウジョーティカ
2014.11.24
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血圧を測る事があります。自分は気になると緊張しやすい性質だと思うのです。このことは病院で測定すると白衣高血圧といわれる血圧が上がってしまう症状が起こります。このことは集中力が人より高いという利点の裏返しの欠点になっていると思っています。これについては、医者からあなたはすぐに意識を集中する性質がありますねと言われています。これについては、呼吸の瞑想から腹式呼吸を通じて、緊張が外れないかないかということをやっているのですがある程度は下がるのですが、完全にはうまくいきません。心を観てみると、明白な痕跡は見当たらないのですが、もっと深い段階で何か掴まえている事を起こしていることが推測されのです。さてこのさらに微細な体の見えない、深い掴まえているものをはずせれば、血圧は下がるはずです。ということで、以下の方法を行ってみてください。血圧を測るとき、複式の呼吸、これは吐くことをより長くするのがコツですがこれと同時に、眼をあちこちに動かして、見ている部分に意識を置くのです。無意識で緊張していることを、眼球の運動を通じて、その集中を外してみると言う事です。自分ではその微細な緊張がわからないのです。しかし、緊張しているときは眼が座っているはずです。だから意識を分散させることで、そこに緊張する意識を分散させることによって、この掴んでいる部分をほぐしてしまうのです。血圧の結果ですが、最高血圧がざっと20くらい下がるようです。腹式呼吸だけでは10も下がりませんでしたが、思った以上にさがるのです。血圧計はどこでもあるので、どんどん試してみようと思っています。体が心を作っていると認識しているので、このことで不要な緊張そしてそこから生み出される苦しみから逃れられるのでは無いかと思っています。心の想いとは、幻影に過ぎないのですから、でもその幻影が体の苦を誘発するのは、困りものです。
2014.11.24
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体から外す方法として、拳法を習ってきた関係で、このような方法がありました。これは当時何の為にしているのか、よくわからなかった記憶があります。丹田を鍛え息が上がるのを正常化する方法の様ですが腹式呼吸で手を腹の前で交差させそれを拳の形で腰の方向に引きます。それと同時に鼻から息を吸います。いっぱいになったところで、腰の拳を回転させ、全身の力を入れて息を止めます。そして、口からはーーーーーと長く息を吐きます。これを数度すると息が詰まる症状が改善されました。心配、不安という心を作り出したこの体内部のこわばりというか異常感これは緊張しているのですが強制的に息を吐く作業で緩めてしまうと言う事をして、正常化したのだと思います。確かに息が詰まると言う事が消失した時には、不安というものはどこにも存在していませんでした。その後の作業としては、もう一度また思い出すと不安に囚われますのでそこで今に居る、つまり息に気がつき、歩く感触に気がつきながら歩いて行きました。もうそれ以降、不安はどこにも無く消えてしまいました。なるほど、不安は自分が作り出しているのだとわかるのです。一度消えてしまうと、次思考が浮かび上がるのが事前にわかりますので、また同じ事をつづけています。思考が浮かび上がるときは、体の症状が変化し始めるのが、身体を観ているとよくわかるのです。この変化は微細で、ものすごい早さでやってくるので、失敗して囚われることもあります。
2014.11.17
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不浄観というものがあるのですが調べていくと「不浄観」は、別名「白骨観」とも呼ばれており、自分や異性の肉体に対する執着を離れるための観想法なのです。その具体的な方法は、2つあります。1. 自己の体内が血、脂、大小便などの不浄に満ち満ちているさまを観想2. 死後に人間の体が腐り、ウジが湧き、白骨化していくさまを観想身体に対する執着があるので、そこから離れる必要がある。これが説かれた当時、身体は美しいものであるという認識が一般的であったので、このようなことをいわれたのですが、確かに事実として、すべてのものは滅び去るものなのです。現実を受け入れよということをあらわしているのだと思っています。ただその奥底には、心が体が作り出すものであるなら、まさに迷わせているとんでもない本体は、身体ということになりますので、これから離れるというものを意識させるためのものではないかとも思えるのです。まったく考えている事というと、まず苦しいものばかりであるからです。不安とか体に執着してしまうなら、そこからは逃れられないということになるからです。とはいえ、この体を敵対することもまた間違っているように思えます。ただそれを理解して、大きな船にこの体も乗せていくものなのでしょう大切なあなたの体なのですから、許すとでもいうかどうも不思議な言い方になってしまうのですけど
2014.11.16
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心を概念に留めておくのは私たちの習い性ですから、ほとんどの瞑想者が、ありのままの現実に心を留めておく代わりに、多くの場合において、概念に心を留めています。心を概念ではなく、感覚に留めてください。呼吸というのは実のところ概念であり観念です。……ありのままの現実(パラマッタ)とは、あなたが直接に感じているものです。息を吸う時に何を感じていますか? その感覚、その感じはどこで起こっていますか? 感覚こそが現実なのです!ウジョーティカいやはや全く細かいことを、かゆいとこまで現実は今にしかなく、観念と記憶という現実ではない世界にずっと生きている自分感覚を今の感覚に居ればよいのです。難しいですけど
2014.11.16
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その方法のひとつは、前に述べた息を使う方法もっとも簡単には腹式呼吸で、横隔膜を強制的に上下させることで、こわばった内部を動かしてみる腹式呼吸はこのような意味があると思っています。また、声を出すおなかの底から声を出してみることで、このこわばった内部をまず動かしてみるという方法があると思います。だから、ストレスがかかったとき声を出すと良いというのは、この理由だと思っています。体の内部のこわばりがなくなれば、その心も掴まなくなってきていますので、薄くなり、消えていくと思っています。お経を読むという意味も、この意味があるように思っています。大乗では、経を読むことなどが重要視されるのですがたとえば仏説観普賢菩薩行法経に心根は猿猴の如くにして 暫くも停まる時あることなし 若し折伏せんと欲せば 當に めて大乘を誦しとあります。自分の沸き起こる思いを、なんとかしようと思うなら、大乗を詠んできなさいという意味もここにあるように思っています。題目とか念仏などを唱えるという意味もそこにあるように思えます。
2014.11.16
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こころは体が作り出していると見ていますので体からはずしていけば、何とかなるのではないかと思えています。体内部のこわばりは、横隔膜が異常な動きを行っていることではないかと前の事から推定できます。前に述べたように息を使ってそれをはずしていく事ができるように思います。心を心で何とかすることは、だめですが、体からはずしていけば何とかなる様に思われます。横隔膜と呼吸ということからは、腹式呼吸がすぐに浮かびます。つまりこれをまず強制的にでも動かしてみることで、そこに固まっているものをほぐすというような事ができるように思われます。このことは、実は声を出すということでも同じことができます。ストレス解消に声を出すということは、こういう意味も含まれているようです。お経を声を出して読むという作業も、どうもこれと結びついているように思えます。体の中のこわばりをはずしていく、そして心から苦しみが外れるならはたして私というのは、本当にあるのかというのが、非常に疑問に思えるようになってきています。サルのほえ声の正体というのは、体からの投影ではないかと
2014.11.15
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不安に囚われたとき胸がつかえるとか、詰まるとか言うような症状があらわれます。これはどうも横隔膜が関連しているようです。調べてみると 〜 横隔神経について 〜 横隔膜の運動をコントロールしている神経は、頚椎の3〜5番に由来する 横隔神経です。横隔膜をこえて腹腔の消化器などにも分布しています。 本来は横隔膜の運動をコントロールする神経ですが、知覚性の神経も含ん でいて、肺、心膜、肝臓、胆のう、胃、十二指腸、腎臓、脾臓、膵臓など の異常に反応します。 横隔神経が緊張すると、横隔膜の運動が制限されるため、肺もうまく広がりに くくなり、呼吸がしにくく胸がつかえるような感じがする方がたくさんおられ ます。 息は はけるけども吸えない吸いずらいという方が多いですね。 慢性的に息苦しさがある方は内臓器に慢性的な疲労、緊張炎症状態を抱えて いるのかもしれません。 また横隔神経の緊張、異常は 咳 や しゃっくり としても出てきます。 また吃りや喘息とも関係しています。 迷走神経の異常興奮と一緒に抑制 緩めていくことが大事です。 定期的に均整法で内界の緊張をとっていくと息苦しさが 解消する方がたくさんおられますよ。 特に肝臓賦活はとても重要視しております。 肝臓賦活法〜振動圧で肝臓をゆるめる手技です〜 均整法では脊髄の神経反射や内臓賦活法で肝臓の疲れをとっていきます。もちろん栄養、適度な運動なども必要です。 身体均整法は運動系の調整法も多いのですが内界の調整法がとてもたくさんあってそれが一番の特徴です。
2014.11.14
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ウジョーティカ師の言葉として前に以下のように記載しました。歩く瞑想を修することで得られるサマーディは、座っている間に得られるサマーディよりもずっと強いと、ブッダは言っています。これはとても大切なことです。というのも、動いているプロセスの中で、そこに留まることができたならば、あなたの気づきはより強いということですから。これに対応する経典はこの事だと思われます。比丘衆よ、是等は経行に於ける五の勝利なり、何をか五とす。遠行に堪へ、精勤に堪へ、病なく、食・飲・嚼・味正しく消化し、経行に由りて得たる定は久しく住す。比丘衆よ、是等は経行に於ける五の勝利なり 南伝大蔵経19 増支部経典3この部分です。経行に由りて得たる定は、久しく住す。の部分です。修行とは座る瞑想と、歩く瞑想の2つが主なものですがまた両者を比較すると、サマーディとは何かがわかってきます。定が久しく住している状態つまり精神集中している状態が持続している状態だとわかります。歩く瞑想において、サマーディを得ることができるなら、その力は相当強いと言う事は逆にサマーディは得にくいのだと言うことでしょう。そのことについては、思い当たるところがあります。
2014.11.11
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仕事上において、未解決の苦しい状況がある。このことが未解決であるため、自分を苦しめているのだがこの苦を観ることで、実は自分が人にいい顔をしたいと言う欲が心の深い部分にあることがわかったというまさに、苦は外には無く自分に、そして自分の心にあることが明白にわかった瞬間があった事ははじめの方に述べている。今も未解決のため、心に去来して私を苦しめるのだが、これは悪魔が私を苦しめて居ると言っても良いこのことは、サンユッタニカーヤの悪魔との対話を読んでゆくと、同じような状況がかかれてある。この悪魔とは、心にわき上がるものの比喩であることが、自分の身体を通してよくわかる。
2014.11.10
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歩く瞑想を修することで得られるサマーディは、座っている間に得られるサマーディよりもずっと強いと、ブッダは言っています。これはとても大切なことです。というのも、動いているプロセスの中で、そこに留まることができたならば、あなたの気づきはより強いということですから。ウジョーティカこのことは、白隠禅師の、「動中の工夫、静中に勝ること百千億倍す」と同じ事だと思っています。工夫とは全ての動作、禅宗に言う作務の事を指しています振り返ってみれば、偶然ですが歩くと言う事を主体にやっていました。動くときには歩くことに気づき、止まっているときは息に気づいています。サマーディとは三昧、ある集中した状態、あるモード、ゾーン、安全な島に居るような状態だろうと思っています。歩くこの状態の時わかるのですが、身が軽いのです。試しにそこに思考を掴むようにすると、とたんに重たくなります。ある統一した状態で、うっすらとした喜びのようなものを伴っています。 本当にずっとそこに居続けたい
2014.11.06
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だんだんとこのことが、取り上げられるようになってきました。こころを扱う方法この放送で述べられた以上の事がこの中にはあります。NHK おはよう日本から マインドフルネスの紹介記事http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/11/1106.html
2014.11.06
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こういう報告があります。身体機能の低下など、誰もが不安を感じる老い。しかし、1,000人規模の百寿者への聞き取り調査からこれまでの常識が覆り始めています。 老年的超越と呼ばれる豊かな精神世界に生きていることが明らかになったのです。 研究者 「加齢に伴って幸福感は高まる。」とあります。なぜそうなるのだろうかと?これについては、体が心(思考)を作ると見ているので、百寿者くらいになると、体に力が入らなくなってきておりそのことは、思考が出てこなくなる、出にくくなるのでは無いかと思っています。思考は基本的に苦ですから、これは生きるという力と直結していますから全ての力が思考が落ちている時、苦は消え、その下層にあるものが現れるのでしょうそれは苦ではないものになるはずです。それはおそらく誰にでも、いまここにあるもので、ただあまりに周りの強烈な雑音にかき消されているだけでは無いかと思っています。
2014.11.06
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思考を止めよと書いてあるけど、具体的にはどうするのかははっきりしないが自分の体験からみるとどうも気づいていれば、止まるようにできている。この状態を続けることは、難しいのだが、前も書いたように思考は体が先に出てくるので体の緊張を気づいて、抜いていくようにすると、持続時間は延びていくと思う。歩いているときは歩いていることに気づき、止まっているときは息に気づいている手すりを握れば、それに気づいているだんだんその気づき自体も、その気づきの認識が薄くなり、ただそこに在るようにただ今そこに居るようにと言うようになってくる完璧にはできないが
2014.11.06
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趙州和尚の言葉として修行とはどういうものですか?という問いに対して修行とは着物を着たり、食べたりすることだと答えたということです。そのような日常のこまごましたこと。修行とはいったいなんですか?という問いに対しておまえさんわしが毎日何をしていると思っているんだいと答えたようです。煙にまかれたような答えなのですが修行とは時頃の挨拶、洗面、食事などこまごましたことを心を込めてやること毎日大切に実行し、ひとつひとつ誠実にやり遂げて、真理と共鳴させることだとこれを書いた人は解いているのですが、余計にわからなくなりました。しかし、これを気づきという一点で、観てみると、まさにそのとおりになっていることに、驚くのです。着物を着ることに気づく、食べることに気づく、挨拶に気づく、洗面に気づく、この気づくということは、大切にというか丁寧に行うようになるはずですしそれは誠実につながります。そのことは、気づきとはお釈迦様が発見した法則につながっていることがわかるのです。前にも書きましたように、お釈迦様の最後の言葉、不放逸にならず(あっちこっち心をさまよわせず)気をつけて(サティ、気づき)いるようにと趙州和尚の言葉とぴったりと合っていることに驚くのです。
2014.11.05
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>思考のプロセスが、ある種のサマーディ(定)と結びつくと、事態はさらにずっと強烈になります。サマーディは、>全てを強烈にするのです。何事であれ楽しみたいと思うのであれば、心を落ち着けて集中してください。そうすれ>>ば、あなたはそれを、より楽しむことができるでしょう。これはその通りだと思います。以前瞑想は、拡大鏡のようなものであると思ったのは、このことです。不思議なこと、良きにせよ悪しきにせよ、この定力(サマーディ)によるものです。この力で心を観ているのです。>それと同じことで、心が集中している際に、何か怖いことを考えていたら、それがさらにずっと怖いものになる。心>があまりにも落ち着きを失っていると、あなたは怖がることがないし、怒ることもありません。あなたは全くなにも>のでもない。混乱し過ぎているのです>ウジョーティカだからある意味、自分が捕まえているのですから、捕まえているなら、外す事も可能だとわかるのです。
2014.11.03
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自灯明 法灯明は、本当の意味は中洲(なかす)というようなもので、自洲、法洲と言うものであるというのは前に書きましたが、そうであるならいろいろな事がわかってきます。お釈迦様のいろいろな言葉の中で、涅槃に至る筏のたとえなど、川にたとえたような、激流を渡るなどまさに川の例えのような例が多数出てきます。おそらく、この意味を総合した場合、激流の中でこの中州の安全地帯にたどり着けと言っているのだと私には思えるのです。こう観ると、いろいろな文言がつながってきます。
2014.11.01
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