全11件 (11件中 1-11件目)
1
不浄なる物が、広い意味でそのような物であるなら不浄では無いものとは、それらが無くなった所に住する物そして不浄なる物を観ているものになると思えるまた、観ているものはだれ という問いが出てくる観ているあなたはだれ という問いが出てくる
2015.01.29
コメント(0)
このことはよく書かれているのだけど、もうひとつ釈然としない部分がありました。確かにこれは性欲の問題に対処すると言う意味合いがあると言う風に書かれてあります。間違い無くそうだと思いますが...........経典では清めの道とか、清浄という言葉が多数出てきます。では清浄、不浄とは何か?と言う点です。今日目が覚めかけたときです。半分夢の中でしょうかここで心配事が出てくるのです。動ければ良いのですが、全く動けない状況です。(寝ていますから)観ればこの根元は、実は心にはなくやはり身体にあり胸に心配のかたまりがありました。ここに西澤氏の言葉の中にこの様な文章がありました。怒りを手放すための例えこんなことをする人はいないと思いますが相手が犬の糞を投げつけたとします。誰もボールを投げられたように受け取る人はいませんよね。犬の糞が相手の怒りです。汚いものが触れないように身をかわすことが必要なように相手の怒りを受け取ってはいけません。自分から相手が投げた犬の糞を拾って投げ返すとどうなるでしょうか?相手が汚れる前に自分の手が真っ先に汚れるのです。怒りも同じです。拾わないようにしましょう。つい怒ってしまうことはあると思いますが犬の糞だと思って直ぐに手放すことが必要だと理解することをまず始めてみたらいかがでしょうか?このかたまりは、ウンコなんだと気がつきました。汚物さわりたくも無いものを持っているとその瞬間一瞬にそのかたまりは消えてしまいました。後には、何も無くだけで無く、清いというかきれいというかそのようなものが残っているのです。そのあとまた寝入ってしまいましたが不浄とは何なのか、自分はこう思えるのです。身体だけでは無く、想い全てが実は不浄であるとこれが自分では一番ぴったりするのです。想いを起こすのも身体ですから、身体が不浄であるならそこから生まれる想いも不浄でしょう。この不浄という言葉の中には、もっと広い意味があるのでは無いでしょうか
2015.01.22
コメント(0)
さとりをひらける地点は、ただひとつです。それは「いま」です。「いま」から離れた地点でさとりをひらくことなど、絶対にないのです。(この両者の言葉はつながっています。感じているときが「いま」であります。それは入り口です。なんと簡単な事であるでしょうか、今に居るにはそうすれば良いだけです。ただひたすらずーーーと)
2015.01.19
コメント(0)
心を概念に留めておくのは私たちの習い性ですから、ほとんどの瞑想者が、ありのままの現実に心を留めておく代わりに、多くの場合において、概念に心を留めています。心を概念ではなく、感覚に留めてください。呼吸というのは実のところ概念であり観念です。ありのままの現実(パラマッタ)とは、あなたが直接に感じているものです。息を吸う時に何を感じていますか? その感覚、その感じはどこで起こっていますか? 感覚こそが現実なのです!(その通りです。たったそれだけのことです。してみればすぐにわかります。感じなんですよ吸っている、吐いているではなく、ただの感じなんです)
2015.01.19
コメント(0)
この典座教訓の元になったと思われる経典があります。南伝 中部経典 107 算数家目けん連経漢訳 中阿含経 144 算数目けん連経(この両者は全く同じ内容の物です。)にあります。舎衛城の鹿子母講堂における、お釈迦様と数学者目けん連との対話です。その中の一説として、このような文言が存在していますので、書き出してみます。(前略)比丘がまさしく、行住坐臥のつつしみを修するとき、わたしはさらに彼に教えて言う。来たれ、汝、比丘よ、汝はすべからく正念と正知を身につけるがよい。往くにも還るにもよく気をつけて行動するが良い。前を見るにも後ろを見るにもよく気をつけて行動するが良い。仰ぐにも伏するにもよく気をつけてなすがよい。大衣を着け、衣鉢を持するにも、よく気をつけてなすがよい。食うにも、飲むにも、噛むにも、味わうにも、よく気をつけてなすがよい。大小便に行くにもよく気をつけてなすがよい。行くにも、立つにも、座するにも、寝るにも、醒むるにも、語るにも、黙するにも、よく気をつけてなすが良い。と(後略)こうであるなら、典座教訓に書かれてある意味は、このことだろうと自分には思えます。正念正知について、しつこく書いてあることは、気をつけて と言う部分です。気をつけると言うことは、前に書きましたように 気をつける 今に居る、今の状態に気をつけていれば今にいます。というか、気をつけていると言うことは、今に居てしか気づける事はできません。ただ気づいていれば良いだけのことになるはずです。常に、いつも、いつもは無理でもできるだけでも行じていけば、近づけるのでは無いかとおもえるのです。
2015.01.18
コメント(0)
これは道元禅師があらわした書物ですがこのきっかけになったのは、以下の出会いによるものです。道元は中国の港で年配の僧侶「老典座」に逢いました。 その僧侶は阿育王山(広利寺)の典座「食事係」で、明日「大切な日」の食材を買いに来たのだそうです。 道元はその老僧と仏法の話がしたく思い、今日はここに泊まりませんかと誘いましたが、 老僧は、食事の準備が間に合わなくなると断わりました。 道元は言いました。「食事の用意などは若い者にでもさせれば良いではないですか? あなたのような徳のありそうな老いた僧侶が、坐禅や仏法の論議よりも、 食事の準備を優先させて、何か良いことがあるのですか。」・・・ 道元禅師は、この後その理由を知ることになるのですが道元禅師は、帰国後仏道とは坐禅や読経ばかりではなく、毎日の睡眠・食事・掃除・入浴など 全ての生活がそのまま修行であり、また、これが悟りであるとし、 「正法眼蔵」「普勧坐禅儀」「学道用心集」など多くの著述「作法書」を残しました。
2015.01.18
コメント(0)
例えばサルが柱に繋がれてあるようなものである。サルが一日中駆けまわったとしても、常に鎖や縄に引き止められて、結局は柱のもとで休息するようになる。対象が柱であり、念とは鎖であり、心は猿に喩えられるのである。行者が心を観じることもまた、そのようなものである。漸漸として心を制して対象に留めさせ、もし心が(対象に)久しく留まるようになったならば、それが禅法に応じたものとなる。栄西『興禅護国論』の禅法要解から妄想、エゴが出ると言う点なんですが出る前の瞬間がわかりませんか?気づいていることを続けると、だんだんと思考が出なくなるというか出る瞬間がわかるので、その地点で気がつくと思考が止まります。流れとしては色>受>想>行>識で来ます。色は身体なので、行識というはっきりとした状態になる前に色(身体)、受(感覚)という身体の変化が微妙ですが、見えると思うのですが受の地点で気づいて切れると、思考が形成されないこの微細な身体変化がみえるようになると、同じパターンでしか来ないのであらかじめ待ち構える事が出来るようになるとおもいます。つまりサルが暴れながらも気づきの鎖でつながれる事でつなぎ止まられておとなしくいる状態と観ています。(サルは完全には無くなりませんが)(サルをかわいがるとでも言うか、共存している状態、つながれたサルは悪さしませんから)
2015.01.13
コメント(0)
相応部経典22、87 雑阿含経47、25 こういう記述があります。話の内容はお釈迦様の弟子である、ヴァッカリが重病であり伏しており、お釈迦様にどうしてもお会いしたい。しかし、自分は重病で歩くこともできないので、申し訳ないが来ていただき、最後にお会いしたいとお釈迦様に伝えたところ、お釈迦様が彼のところに見舞いにやってきたという話です。その中の問答としてヴァッカリの言葉大徳よ、わたしは、すでに久しい前から、参上して聖尊にお目にかかりたいと思っていたのでございますが、わたしの身体は、もう参上して世尊にお目にかかるだけの力を欠けておりました。お釈迦様の返答いやいや、ヴァッカリよ、この汚らわしいわたしの身体を見ても何になろうぞ。ヴァッカリよ法を見る者はわれを見る者であり、われを見る者は、法を見るものである。と答えたということです。この後、色、受、想、行、識の説明の話などがずーーーと続いているのですが自分として一番引っかかる部分が、法を見る者はわれを見るものであると言う点なのです。いろいろな取り方があると思いますが自分としてはこれは前の書きましたが、観ているものは誰?と言う点になると思っていますが法とは、ダルマ 仏教がお釈迦様が発見した真理という意味です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)では真理を見ているとはどういうことでしょうか、観ると言うことに尽きる様に思います。
2015.01.09
コメント(0)
これは心の理想的な状態を表すと思っています。主観的なもので、客観的にどこかに理想郷があるものでは無いと自分では考えています。しかし、涅槃と言う言葉では、よくわからないと言う事で涅槃の同義語を調べました。パーリー相応部(雑阿含) 無為相応より無為、終極、無漏、真諦、彼岸(ひがんよく聞く言葉ですが)微妙、極難見(みることがものすごくむずかしい)、不老(おいないもの、だから変化しないもの)堅牢(けんろうなものだからこわれないもの)不壊(こわれないもの)不譬(たとえようもない状態)無戯論(論争の無い状態)寂静(しずかな状態)甘露(不死とも言われる、不老と通じる部分)極妙安泰(安んじている状態、このあたりはわかりやすい)安穏(上記と同じ)愛尽、希有(けう、まれなこと)未曾有(みぞうう、まれなこと上記と同じ)無災(災いが無い状態、自分では災いとは思考することだと思います。)無災法、無瞋害(怒りの害が無い状態、つまり怒っていると遠くなる)離欲(欲が無い状態)清浄、解脱、無住、洲渚(川の中州のような安全地帯、これは前に書きましたようにハン師も述べたものです。)避難所救護所帰依所到彼岸(上記4つはこれは皆同じ、なにか安全地帯のようなある状態を指しています。)これらについては、主観的なこころの状態であり、本人しか認知し得ない状態になります。そうであればこれらの状態は、誰でもあるはずですが、問題は続かないということです。だから、方向としてはこの状態をいかに長く維持していくか、できるかということが大切になると思っています。そう見えてくると、なにか非常に近い場所にあるのではないかと自分では思えるのです。でも大変だなということも、よく理解できます。
2015.01.07
コメント(0)
最初は、「私が瞑想しているのだ」と、瞑想者は感じます。これは全く現実的な感覚です。しかし、洞察智がますます深まってゆくにつれて、私が瞑想と呼んでいるこの意識さえも、瞬間ごとに生成消滅を繰り返すものであることを、瞑想者は観察しはじめます。瞑想というのは、長くて大きな何かではありません。それは瞬間ごとの意識なのです。この気づきさえも無常・苦・無我であることがわかったら、そこに瞑想する「私」は存在しない。これを理解した時はじめて、瞑想者は無我に関する本当の洞察を得るのです。以前にも彼は、対象が生成消滅することは観察できていた。その他の思考も、生成しては消滅する。しかしこの気づき、この瞑想する意識にまで、その観察は及んでいなかった。このポイントに至ってはじめて、瞑想者の誤った見解は剥落するに至る。誤った見解が、本当に剥がれ落ちるのです。私が瞑想しているのではない。私が瞑想と呼んでいるものは、単に連続する意識、気づきにすぎない。このポイントに到達しない限り、その人は次の段階へは進めません。
2015.01.03
コメント(0)
玄奘三蔵がインドに行ったとき、大乗は独自の律を持たないという記述があります。ナーランダ大学での律は、有部の律を使用しているという記述がありました。このように大乗仏教は、まったく別のところから出てきたのではなく、仏教の集団の中から自然発生的にでてきたと見ていますので、独自の律を持たないということも当たり前になります。このことは、実はアショカ王の時代に、律の解釈がすこし拡大解釈されるようになったという研究があります。簡単に言えば、考えが違うと、これはサンガから追放されるのですが、そのころから、考えが多少違ってもサンガにおける行事を一緒に行っているなら、追放までは行かないというようにゆるくなってきているという律の研究が現れてきています。おそらく、大乗の思想の起源はおそらくもっと古くから、集団の中で言われてきたものではないかと思えるのです。初期の大乗経典は、般若経がその最初です。大乗経典で書かれてあることで特徴的な記述は、この経典を所持する、保持するということを、何度も何度も繰り返し、ひつこいくらい述べています。アショカ王の時代、仏教は大きく隆盛することになりますが、このことは寺院に多額の寄進が集まるようになり経済的に自立した基盤ができるようになります。原始経典から見ると、寺院というのは、雨安居という一時的な居住所が発展してきたものだと見ています。いろいろと歩き回り遊行しているというのが、一番最初の姿だと思っていますただ教団が巨大化してくると、いろいろな人が集まってくるようになります。仏教理論はアビダルマなどの発展から精緻化してきますが、なにか大切な部分が失われるてきたのでは無いかと思えるのです。
2015.01.02
コメント(0)
全11件 (11件中 1-11件目)
1
![]()
