全13件 (13件中 1-13件目)
1
空とは何かについてこの部分鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、象や牛や馬や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、女と男の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように鹿母堂には比丘(男性)が集まっている状態と思います。ここには象、牛、馬、騾馬、金、銀、男女の集まりと言うのは存在していないこれを空(からっぽ)であると言っています。じゃあ有るのはというと比丘の集まりが有ると言っているのです。なんとも当たり前で、なんでこんなことを言っているのか?つまりそこに今あると認識出来ない物は、無い(空)と言っている当たり前すぎてしかしこれを突っ込んで観てみると、自分が今観ているもの以外は全て空っぽであると言っている様に見えるのです。これは前のリンゴの話と同じです。もし鹿母堂から出て象の居るところに行けば、象はあり、鹿母堂は無い(空)と言うことになると思います。どうも象、牛、馬等々、人は今観ていなくてもそれは絶対的に存在すると考えています。こう思うのはあまりにも当たり前すぎて、反論の余地は無い様に思いますが実はどうもそうでは無い今居ない象、牛、馬等々は実はその人の心の中にしかない無い(実在していない)と言っている様に見えるのです。実在という物を絶対的な物では無く、認識するから実在するのだと言っている様に見えてしまうのです。そして象、牛、馬、金、銀それらが目の前に有ると言ってもそれが写っているのは、実は自分の頭の中の映像でしか無いはずなのです。あたかも映画のスクリーン上に写されている状態で、その存在は、自分という感覚器官を通してしか認識出来ない構造なのです。つまり全世界のものが在ると言ってもそれは心の中にしか存在しない事になります。なんと実在というものが不確かな存在にみえてしまうのです。
2017.08.31
コメント(0)
このようにわたしによって聞かれた。あるとき、尊師は、サーヴァッティに滞在し、東園の鹿母堂(ろくもどう)に住していた。さて、尊者アーナンダは、夕刻時に独坐の瞑想より立ち上がって、尊師のところに近づいた。近づいて、尊師に敬礼して一方に坐った。一方に坐して、アーナンダは、尊師にこのように言った。 「尊師よ、かのあるとき、尊師はシャカ族のところに住しておられました。都市は、すなわち、シャカ族の都城です。 尊師よ、そこで、(次のようなことが)わたしによって、尊師より、面前で聞かれ、面前で受け取られました。(つまり)『アーナンダよ、わたしは、今、空性の住処に多く住している』と。これは、わたしによって、善く聞かれ、善く受け取られ、善く注意され、善く知られるものでしょうか?」 【森についての想い】 「たしかに、このことは、アーナンダよ、善く聞かれ、善く受け取られ、善く注意せられ、善く知られた。かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住処に、多く住している。あたかも、この鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、象や牛や馬や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、女と男の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、そのように、実に、アーナンダよ、比丘は、村についての想いに集中することはなく、人についての想いに集中することなく、森についての想いによって独住に専念する。かれの、森についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう(adhimuccati)。かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、村についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あったのは、人についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あるのは、この森についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。かれは、「空であるものは、この想いにあるものであって、(それは)村についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるのは、この想いにあるものであって、(それは、)人についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、森についての想いによる独住であって、それだけが、空でないものである」と(知る。) 以上のように、そこ(A)に全くないそのもの(B)によって、そこ(A)を空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【地についての想い】さらに、また、アーナンダよ、比丘は、人についての想いに集中することなく、森についての想いに集中することなく、大地についての想いによって独住に専念する。かれの地についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 アーナンダよ、あたかも、牛の皮が百の棒でよく打たれてしわがなくなるように、そのように、実に、アーナンダよ、この大地について、高いところ低いところ、川の淵、切り株や刺の多い藪、山の崖である一切に専念することなく、地についての想いによる独住に専念する。かれの地についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。かれは、このように知る。 (すなわち、)あったのは、人についての想いによるもろもろの不安であるが、それらは、ここにはない。あったのは、森についての想いによるもろもろの不安であるが、それらは、ここにはない。あるのは、この、地についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、人についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、森についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、地についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【空無辺処についての想い】さて、また、アーナンダよ、比丘は、森についての想いに集中することなく、地についての想いに集中することなく、空無辺処の想いによって独住に専念する。かれの、空無辺処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、森についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あったのは、地についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あるのは、この空無辺処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、森についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、地についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、空無辺処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【識無辺処についての想い】さて、また、アーナンダよ、比丘は地についての想いに集中することなく、空無辺処についての想いに集中することなく、識無辺処についての想いによる独住に専念する。かれの、識無辺処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。 かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、地についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あったのは、空無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あるのは、この識無辺処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、地についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、空無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、識無辺処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【無所有処についての想い】さて、また、アーナンダよ、比丘は空無辺処についての想いに集中することなく、識無辺処についての想いに集中することなく、無所有処についての想いによる独住に専念する。かれの、無所有処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。かれは、このように知る。 (すなわち)あったのは、空無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あったのは、識無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あるのは、この無処有処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、空無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、識無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、無所有処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこに全くないそのものによって、そこを空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。 【非想非非想処についての想い】さて、また、アーナンダよ、比丘は識無辺処についての想いに集中することなく、無所有処についての想いに集中することなく、非想非非想処についての想いによる独住に専念する。かれの、非想非非想処についての想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信に向かう。かれはこのように知る。 (すなわち)あったのは、識無辺処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あったのは、無処有処についての想いによるもろもろの不安であるが、それらはここにはない。あるのは、この非想非非想処についての想いによって独住する、ただこの不安だけである。 かれは(このようで)ある。 「空であるものは、この想いにあるもので、識無辺処についての想いに向かうものである」と知る。 「空であるものは、この想いにあるもので、無所有処についての想いに向かうものである」と知る。 「あるのは、この、非想非非想処についての想いによる独住であって、それだけが、空ではないものである」と(知る)。 以上のように、そこ(A)に全くないそのもの(B)によって、そこ(A)を空であると見る。なおまだそこに余ったものがあるとき、在るところのそれを、「それはある」と知る。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。
2017.08.30
コメント(0)
△□ 不異 ○色 不異 空(鈴木大拙)○ 不異 △□空 不異 色
2017.08.25
コメント(0)
私にとって驚くべき、すなわち哲学すべき主題は、まずは、なぜかこの私という説明不可能な、例外的な存在者が現に存在してしまっている、という端的な驚きであり、次に、この不思議さを構造上(私でない)他人と共有できてしまう、という二次的な不思議さであり(それはまた、にもかかわらず問題の意味そのものが理解できない人が頭脳明晰な人のなかにもかなりいるという意外性でもあり)、そして最後に、本質的に同じ問題が私の存在以外のこと(たとえば今の存在や現実の存在といった)にもあてはまる、という再度の驚きである。哲学探究2 より永井均
2017.08.22
コメント(0)
観るという事を続けていくとこのからだというのは、なにも命じていないのに勝手にというか、非常に正確に動いていくと言う事を観ることができます。たとえば、歯を磨いている歯を順々に、細かく磨いていくのです。丁寧に正確に手順通りに何も命じていません。この身体は、勝手に動いている観ているもの以外に身体がまた別に在るとでも、この身体って?なに?それにしても、正確に動いていくことに感心しています。歩く事も同じ、何が歩いているんだろうか?今と言う一瞬一瞬を観ているものと、それとは別の身体と称するものが居ると言うか有る
2017.08.18
コメント(0)
ストレスで胃腸の病気や突然死を招くメカニズムを、北海道大の村上正晃教授(免疫学)のチームが解明し、15日付のオンライン科学誌イーライフで発表した。ストレスで起こる脳内の炎症が関わっていた。「病は気から」の仕組みが裏づけられたといい、ストレス性の病気の予防や診断への応用が期待される。 チームは、睡眠不足など慢性的なストレスをマウスに与えた。そのマウスのうち、自分の神経細胞を攻撃してしまう免疫細胞を血管に入れたマウスの約7割が、1週間ほどで突然死した。一方、ストレスを与えただけのマウスや、免疫細胞を入れただけのマウスは死ななかった。 突然死したマウスを調べたところ、脳にある特定の血管部分にわずかな炎症があることを発見。炎症はこの免疫細胞によって引き起こされ、通常はない神経回路ができて胃腸や心臓に不調をもたらしていたことがわかった。 村上教授は「同じストレスを受けても、この免疫細胞の量や脳内の炎症の有無によって、病気になるかどうかが分かれると考えられる」と話している
2017.08.18
コメント(0)
気づきを大切にする瞑想に分類される五感を通じて感覚が起こる事に気づき自分の快、不快や価値観から反射的に反応する回路を弱め覚めた意識で自分の行為を選ぶ回路を育てる
2017.08.17
コメント(0)
1,世界は永遠であるのか2,世界は永遠でないのか3,世界は有限であるのか4,世界は無限であるのか5,生命と身体は同一か6,生命と身体は別個か7,修行完成者(如来)は死後存在するのか8,修行完成者(如来)は死後存在しないのか9,修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか10,修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのかこの問いに対してお釈迦様は、無言で何も答えなかったと言う事です。この問いに対して、質問をした方は、どうも怒りだしたようですが実は、恐ろしいことに、完璧に答えている.......
2017.08.16
コメント(0)
この様な物語が載っています120歳を超える老婆の比丘尼に阿羅漢の悟りを開いた比丘(ウパグプタ)がお釈迦様の話を聞きに詣でたという話です。その比丘尼は若いころ、お釈迦様を拝見したことがあるということでした。 比丘は比丘尼の弟子を通して比丘尼と連絡を取り比丘尼の家を訪ねて行ったところ、比丘尼は戸の前にごま油の入った鉢をおいておきました。比丘が戸を開けるとその勢いでごま油がこぼれてしまいました。 そこで、比丘尼が申すには、お釈迦様時代に6人の悪人の比丘たちがいました。その者たちは大変悪人でしたが、比丘の礼儀作法を身につけており、今のあなたのような戸の開け方はしませんでした。あなたは阿羅漢の悟りを開いた比丘ですが、その振る舞いはお釈迦様当時の悪人にも及びませんと。この大智度論が書かれたのは、龍樹とも言われていますので3世紀頃成立、漢訳は4世紀初め鳩摩羅什によって漢訳されたものです。(サンスクリット元本見つかっていない)お釈迦様の時代から、800年は経っている話なのです。この上記の物語が、本当にあったかどうかわかりませんが、なにか大切な事が抜け落ちていいるように感じてしまうのです。動作と気づきの問題です。礼儀と作法は、この気づく(sati)と言う事を進めていくと、そうならざるを得ない様に思えるのですアッサジとサリープッタの出会いも同様、アッサジの動作は、おそらくそれをしていたから、異常に目立ってしまった様に思えるのです。サリープッタ(舎利弗)は、そこに何かあると、アッサジ姿をみてピンと来たのでは思えるのです。立禅、気づいて居る立ち方というか、歩き方、丁寧に気づいて居る事この物語をさらっと読んでしまうと、礼儀作法は大切ですねで終わってしまいそうです。しかしこの物語があったとして、その文章からその意味する大切な所が何か抜け落ちて来ているように思えるのです。
2017.08.15
コメント(0)
手を慎み、足を慎み、ことばを慎み、最高に慎み、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している。その人を修行僧と呼ぶ内心に楽しみと言う事は、どういう事かについてはなにが楽しみと言うかについては、実は確かにそうなっている
2017.08.11
コメント(0)
「縁起法頌」(南伝大蔵経 律蔵 大品より)諸法は因より生ず如来(釈尊)はその因を説きたもう諸法の滅をもまた大沙門(釈尊)はかくの如く説きたもうこの諸法の法は「存在」の意味、「存在するもの」という意味、「具体的な存在」を構成している実体的要素この場面について 大智度論(伝龍樹著、5世紀鳩摩羅什によって漢訳)ではもろもろの法(もの)は因縁によって生ずるこの法(教え)はその因縁を説くこの法(もの)は因縁によって尽きる(滅びる)偉大なる師はこの様に説かれたつまり「もの」ここで言っているのは、ものは因(因縁)つまり関係性があるからから在ると言っているだからその関係性の故に在ることが無くなるつまり滅するもっと簡単に言ってしまうと目の前のリンゴは、見ているから存在する、観ていない時リンゴは無いリンゴと認めているのは、網膜に写っているリンゴを心が認識しているから関係性(見ている)と言うことがあるから、存在しているつまり固定的な、絶対不変な実体は存在しないことになるこのことから、般若心経の言おうとしていることが出てくるおそらく舎利弗は、この時この理を理解したものと思われるブラユキ師は ツイッターにおいてこの「行きすぎ問題」は、原始仏典と大乗仏典の相違としてよく感じるところ。例えば、「無色無受無想無行無識」であり「不生不滅」であると説く般若心経に対して、「苦楽」は縁起によってあり、縁起によってなし。「受想行識」も縁起によって生じ、縁起によって滅す、と説く原始仏教との相違など。一見、般若心経の方が抽象度が高く、高尚にも思えるが、元来のブッダの教えにおいては、敢えてそこまで抽象度を高めず、眼耳鼻舌心意の六処と色声香味触法の六所縁のみを「一切」とみなすことにより、私たちの認識可能な現象世界の生々しい苦悩に焦点を当て、実際的な滅苦対応が可能となったのである。
2017.08.05
コメント(0)
もらえば幸せあげればもっと幸せ
2017.08.05
コメント(0)
一番最初の5戒の中に不飲酒戒がなぜ出てくるのかについては色々な経典にその理由が述べられています。しかし気がついたのですが瞑想の観点から観てみると、飲酒は定力というか、気づきに対する集中性を落としてしまうことがよくわかるのです。24時間、起きているあいだ気づいている事を続けていると、そこに現れる心の安定と静寂と平安は、酒なんて飲んでられない比べものの無い状態なんです。これが失われるなんてのは、お話にならないんです。今というその瞬間に気づき続けていると言う事が、どういうことを意味しているか思考が止まっている状態に、気がついている時間をいかに長く続けてみて下さい。猿が少なくなってきます。猿が出てくるその時に気がつくようになります。猿を押さえて居るのでは無く、それでは続きません。猿に気がつく、猿を優しくみてやってください。猿は居なくはなりません、大きな乗物に猿も何もかも載せて進んで行く
2017.08.02
コメント(0)
全13件 (13件中 1-13件目)
1